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弥生人は沿海州南西岸から渡来した北方アジア人

240 :出土地不明:2015/03/15(日) 08:16:15.99 ID:ryfho5OE.net
http://rarememory.justhpbs.jp/cyoukou/cyou.htm

また稲作などは、長江文明から直接、海を渡って、弥生時代よりさらに早い段階で、日本に伝わってきたことが分かってきました。
古代の船の能力からして、長江下流域から黒潮、対馬海流の潮流に乗って、九州にたどり着く方が、船足の遅い当時の船で、朝鮮半島から急流の対馬海流を横切るより、日数を要せず、寧ろ安全で確実でした。
 長江中流域では、土器作りを伴う定住生活が、既にB.C.16,000年前に行われていたようです。この事実の確証が得られれば、日本の縄文土器文化の淵源が、またもや塗り換わります。
但し、定住生活といっても、山間丘陵地の洞窟だったようです。そして原始的な雑穀焼畑の1つとしての陸稲とみられますが、B.C.12,000年の遺跡で、その痕跡が検出されました。
 長江中流域、湖南省?(れい)県の彭頭山(ほうとうざん)遺跡で、1986年に、河姆渡(かぼと)遺跡よりも遥かに遡るB.C.7,000年の稲籾が発見されました。
その彭頭山遺跡の西方の城頭山(じょうとうざん)古城遺跡から、B.C.4,500年の水田遺構が発見されたのです。それは環濠集落を伴う水田稲作農耕でした。
  水田稲作の契機となたのが、アジアモンスーンの弱体化です。アジアモンスーン地域では、特に夏期、海洋から湿った空気が流れ込み、亜熱帯地域であっても豊富な雨量に恵まれて、夏でも乾燥しません。
それが弱体化すると、急速に乾燥化が進みます。その対策として、城壁の背後に溜池を造成して灌漑水を確保する必要に迫られたのです。

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