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さきたま古墳群

1 :出土地不明:2014/11/13(木) 02:37:11.24 ID:lw1EyO5L.net
さきたま古墳群について語るスレです

61 :出土地不明:2023/02/16(木) 03:37:16.86 ID:udma5QisB
ハタ(秦)は、弓月君の出身地のホータンのホタが訛ったものだろうな。
系図で弓月君の子の名が浦東(ホトウ)と書かれているのは、このホータンを表したものとするのが正解だ。
中国西域のタリム盆地のオアシス都市のホータンからやって来たのが、秦氏の始祖の弓月君というわけだな。
「弓月道」「弓月城」という言葉は、中国の史書の西域に見えるし。

62 :出土地不明:2023/02/17(金) 16:01:48.43 ID:Xm3DWOnOF
このホータンのホタが訛ったのがハタ(秦)だ、とするのがよい。
そして、伏見の深草から太秦に進出して本拠地を置いたハタ(秦)氏は、トルコ語を話すユダヤ教徒だったのはほぼ間違いない。
そして、その太秦から埼玉の行田の入植地へ送り出された入植民がユダヤ教徒の集団だったことも明らかだ。
そのユダヤ教徒集団のリーダーが亡くなって葬られたのが稲荷山古墳で、この古墳に置かれた埴輪のなかの人物集団は明らかにユダヤ教徒の集団を表している。
なぜなら、その人物埴輪の中に今のユダヤ教徒の超正統派と瓜二つの埴輪が見られるからだ。
やがて、時代は進んで神社が成立する時代になると、この稲荷山古墳の後円部の頂には小さな稲荷社が設けられた。
稲荷社の総本社は今の深草にある稲荷大社であることは、言うまでもない。

ちゃんと、一本の線でつながっていることが分かる。

63 :出土地不明:2023/02/17(金) 16:22:35.89 ID:Xm3DWOnOF
ハタ(秦)氏が行田へユダヤ教集団を送り出した5世紀後半から1世紀がたった頃に、千葉の芝山あたりに拠点を置くムサ国が設けられて大和王権が東北へ進出するための根拠地が成立する。
このムサ国の首長が亡くなって葬られた前方後円墳には、行田の稲荷山古墳と同じ二重の長方形の周濠が設けられた。
そして、古墳には埴輪が置かれるが、この埴輪の人物像の中には行田の稲荷山古墳の超正統派的人物埴輪と同じものがみられるのだ。
二重の長方形の周濠とユダヤ教超正統派的人物埴輪の一致は、このムサ国の芝山あたりに古墳を造った勢力と行田の稲荷山古墳を造った勢力は、完璧につながっていたことを示している。
このことは、芝山の集団も太秦のハタ(秦)氏が1世紀を経たのちに送り込んだ同族集団で、行田の勢力とも同族だったことを示しているように見える。
つまり、ムサシ(武蔵)の国は、ハタ(秦)氏が描いた出エジプト記のユダヤ民族安住の地カナンだったということになってくるのだ。

歴史の真相とはこのようなことを言うのだ、と思う今日この頃。

64 :出土地不明:2023/02/19(日) 16:46:13.66 ID:LAm7YUetj
稲荷山古墳の被葬者は、稲荷山古墳鉄剣銘に記されるオワケと考えられている。
そのオワケの親に当たる「加差披余」は、日本書紀に記される武蔵国の国造の笠原直使主(カサハラアタエノオミ)の先祖をとされるようだ。
「加差披余」は、実在の人物と考えられている。

稲荷山古墳の被葬者オワケは太秦の秦氏と強い関連があったと推測されるが、秦氏がトルコ語を話すユダヤ教徒であると考えられることから、
この笠原氏の名の由来をトルコ語から探ってみた。

笠原(カサハラ)の名は、鉄剣銘のオワケの親の「加差披余」に由来していると考えられる。
この「加差披余」は「カサヒヨ」と発音したとみなして、これをトルコ語で当ててみると、次のような言葉になる。

加差披余(カサヒヨ)
トルコ語 kasahyo(カサヒヨ)=タウンハウス

タウンハウスは、2つ以上の住宅を1棟に建て連ねたもの。
住宅と住宅の壁を同じにして住宅をつないて建てる形式だ。
このイギリスの集合住宅は、当初は宮殿や王侯の執務室、住まいとして利用されたそうだ。

そうすると、トルコ語でkasahyo(カサヒヨ)は、王侯の宮殿、宿舎、執務室に当たる言葉だということになる。
そして、オワケが雄略天皇の杖刀人の首となり、埼玉の最大の有力者だった履歴からすると、
その親の加差披余(カサヒヨ)の名は建物を連結して造った長屋式の住宅を意味していることになる。
つまり、このカサヒヨは埼玉の首長の豪族の舘を表す言葉だった可能性が出てくるのだ。
その舘の呼称であるトルコ語のカサヒヨがオワケの親の名として贈り名され、それが後に笠原の名に転化したとみることもできそうだ。

この類似性と秦氏トルコ語話者説からみると、埼玉の稲荷山古墳群の勢力も秦氏に強い関連のあるトルコ語話者のユダヤ教徒だった可能性が出て来ることになる。

65 :出土地不明:2023/02/19(日) 21:09:25.11 ID:Cs5arBOOp
https://eraina.web.2nt.com/53.html

66 :出土地不明:2023/02/20(月) 22:23:16.10 ID:Um8nkiFpZ
まあ、主観的合理化というところだな。

67 :出土地不明:2023/02/20(月) 22:25:11.90 ID:Um8nkiFpZ
ワイのは、ほぼ客観的合理化と言えるだろう。
これをもって整合性があるとの評価になるだろう。
わははははは。

68 :出土地不明:2023/02/21(火) 20:12:12.05 ID:9PG9J97bJ
まあ、秦氏のかなりの部分は、トルコ語で解けるということだな。
トルコ語は、中央アジアではごく普通の話語だったし。
秦氏がホータンから来たユダヤ教徒だったとすれば、
秦氏がトルコ語話者だったことはごく普通のことだと言える。

秦氏はヘブライ語話者だったとする説もあるが、
当時はもうヘブライ語は日常的な話語ではなくなっていたから、
ユダヤ教の聖典を読む司祭や学者以外には誰も知らない言葉だった。
なので、秦氏関連の事績をヘブライ語から読み解こうとしても無理だということだ。

それに引き換え、秦氏トルコ語話者説は、相当に可能性が高いと言える。

69 :出土地不明:2023/02/22(水) 05:11:25.74 ID:y+Gc/ZPsU
現代のイスラエルで書かれるヘブライ語は18世紀に復興されたもので、話し言葉の口語は19世紀末に復興されたものだそうだ。
つまり、ヘブライ語は西暦200年頃には死滅していた言葉だとされている。
なので、秦氏の時代の古墳時代にはヘブライ語はなかったということになる。
ヘブライ語は、司祭や学者らだけが用いる特殊な言葉となっていたとされている。

そういうわけだから、古墳時代の日本にヘブライ語の痕跡を探しても、それは徒労に終わる確率が高いということなのだ。

70 :出土地不明:2023/02/23(木) 14:52:30.89 ID:cWXETFRfZ
やっぱり、秦氏はトルコ語でやりたまえ。^^

71 :出土地不明:2023/02/23(木) 15:08:38.87 ID:cWXETFRfZ
4世紀後半から6世紀後半までの200年間にわたって、秦氏がなぜトルコ語を保持できたのかということも重要だ。
ユダヤ教には成文によるヘブライ語聖典があるが、口伝律法という口承の律法伝授もあったとされている。
この口伝律法では、主に出エジプトの伝承が語られたらしい。
4世紀後半に渡来した秦氏がユダヤ教徒で、ヘブライ語聖典ではなく、
口伝律法をもっぱらとする者たちであったのであれば、話し言葉による口伝の継承は割合たやすかっただろう。

そういうわけで、秦氏は口伝律法を出身地の話し言葉であったトルコ語で継承していたと考えれば、
なぜ秦氏が200年間にもわたりトルコ語を保持できたのかが分かることになる。
そうなると、出エジプトの物語は秦氏にとっては、ごくごく身近な世界観であったことになる。

こういうわけだから、秦氏の周辺に分厚い成文のヘブライ語聖典を見つけ出そうとしても、
それは徒労に終わるだろうということだ。
秦氏は口伝律法のユダヤ教徒だったと考えれば、トルコ語の謎は簡単に解けるのだ。

72 :出土地不明:2023/02/24(金) 15:51:42.70 ID:FFkwWnkLU
しかし、稲荷山鉄剣銘の加差披余(カサヒヨ)が行田の豪族の住まいである舘(たち)を指すトルコ語であり、
それが亡くなった親にオワケが贈った名である可能性を考えることができるのは非常に面白いことだ。

こうしたアイデアを一概に否定せずに、可能性の範囲に置いておくのも悪くないからね。

73 :出土地不明:2023/02/25(土) 18:25:51.53 ID:ZStlGe9ap
なお、アルジェリアの有名なカスバは元々はオスマン帝国の太守の城塞の周りにできた街の名。
なので、トルコ語でkasba(カスバ)とは「街」の意味。
このkasba(カスバ=街)は、kasaba(カサバ=街)でも同じ。

行田の稲荷山古墳出土の鉄剣銘にみえるオワケの親のカサヒヨ(トルコ語でタウンハウス=集合住宅→舘の意)のカサは、
このトルコ語のkasaba(カサバ=街)のkasa(カサ)と同じ語なのだろうな。

74 :出土地不明:2023/02/28(火) 15:52:48.25 ID:V7kH0sRjI
まあ、いずれにしても、ユダヤ教超正統派的人物埴輪が最初に立てられたのは、行田の稲荷山古墳だったのは間違いないこと。
埴輪製作者がまったくの想像でこの人物埴輪を考案したとは考えにくいので、5世紀後半の行田ではこのような姿をした人物がそこらへん実際にを歩いていたのだろう。
なので、この人物埴輪以外の埴輪も実際の人物を模したものだったと考えるのがよいだろう。
そして、それらの人物もユダヤ教徒だった可能性が高いと言えそうだ。
その彼らは、秦氏が安住の国カナンに想定したムサシ(武蔵)へ送り出したユダヤ教徒集団だったとするのがよさそうだ。

75 :出土地不明:2023/03/01(水) 16:39:22.79 ID:+Dz4L5y7Y
この行田の稲荷山古墳造営集団がユダヤ教徒集団であったとする説にはそれなりに具体的な根拠がある。
また、行田に至る手前の信濃路の諏訪(すわ)の名も、秦氏のトルコ語で解釈できる。

スワ(諏訪)
トルコ語 su var(スバァ)=水があります

諏訪には諏訪湖があるので、トルコ語のsu var(スバ=水があります)の発音と語義は決して矛盾しない。
秦氏の交易路には、トルコ語の言葉と符合する地名がよくみられるように思える。
仮に、秦氏がユダヤ教徒であれば、このスワ(諏訪=水があります)の名は出エジプト記のエリムのオアシスと重なることになる。

ただ、問題なのは、諏訪大社の祭りである御頭祭がユダヤ教の聖典の創世記にみえるイサクの伝承そのものだとする説だ。
大社の神官が神に奉げるために童子を犠牲にしようとすると、そこへ国司が馬に乗って現れて止めさせ、代わりに鹿を犠牲にさせるとする神事が行われていたとされる。
この童子の代わりに鹿を犠牲にして神に奉げるとする点については、神事において神に鯛を奉げるのはごく普通のことであり、山国の信濃ではその鯛が手に入らなかったことや、
別の儀式では雉と一緒に鹿が奉げられていることからして、山海の珍味ではなく、山間の珍味が神に奉げられたとみることが可能だ。
そして、童子の代わりに鹿を犠牲として神に奉げるようになったとする話が、どのような文書に記録されているのかもはっきりしない。
つまり、この話は、日ユ同祖論の根拠の一つとして、創世記から採って創作された話なのではないかとすることも可能なのだ。

どうも、諏訪大社の御頭祭の起こりに関わる由来説話は、その真偽が疑わしいように見えるのだが。

76 :出土地不明:2023/03/02(木) 00:59:58.96 ID:HBa/xc4g6
この御頭祭をユダヤ教の聖典の創世記にみられるイサクの伝承とそっくりだとして、御頭祭はユダヤ教徒によって行われた祭祀が関連していると唱えたのは、ユダヤ教の宣教師であるマービン・トケイヤーという人らしい。
「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史」がその著書。
この本が唱える主張の元となっているのは、江戸時代後期の旅行家の菅江真澄が記した御頭祭の見聞録の「すわの海」のようだ。
しかし、この見聞録に書かれている記述は、ユダヤ教のイサクの話とは大きく異なっているという評価がみられる。
どうやら、トケイヤー氏は、原文の読み取りに誤りがあった可能性が高い。
なので、御頭祭とユダヤ教のイサクの伝承は、無関係とみるのがよさそうだ。

一方、「スワ(諏訪)」の言葉は、秦氏のトルコ語のsu var(スバァ=水があります)に由来しているとする当説は、かなり信憑性が高いのではないだろうか。

77 :出土地不明:2023/03/02(木) 04:04:52.55 ID:HBa/xc4g6
先に、稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える加差披余(カサヒヨ)は稲荷山古墳の被葬者のオワケの父に当たる人物で実在したとみられているとし、
その加差披余(カサヒヨ)と重なる発音の秦氏のトルコ語ではkasahyo(カサヒヨ=宮殿、執務室、住まい)があり、
この加差披余(カサヒヨ)は稲荷山古墳の被葬者が自分の父親に贈り名した「舘」を表す言葉ではなかったかと考えた。

このことに気を好くしたので、加差披余(カサヒヨ)の親、オワケの祖父にあたる名についても秦氏のトルコ語を当ててみた。
その祖父に当たる人物の名は「半弖比」で、これは「ハテヒ」と読まれている。
これを秦氏のトルコ語で当ててみると、次の語となった。

半弖比(ハテヒ)
トルコ語 hatir(ハテシ)=酒

オワケは5世紀後半の雄略天皇の時代の人物とされているので、
その祖父が家長であった時代はそれより20年ほど前の5世紀中頃とみることができそうだ。

そこで、秦氏で酒の名を持つ人物を見てみると、雄略天皇に仕えた秦酒公(はたのさけのきみ)がいる。
この酒公を秦氏系図をみると、弓月君-浦東君-秦酒公となっているのが分かる。
弓月君を応神天皇と同時代の人物とすれば、弓月君は4世紀末頃に渡来したとすることができるので、
その2代のちの人物が秦酒公ということになり、そうすると、秦酒公は5世紀前半前葉頃の人物と考えることができそうだ。

そうすると、秦酒公は5世紀前半前葉〜雄略天皇の5世紀後半まで家長を務めていたことになり、50〜60年ほどの期間となる。
これは異常に長い期間なので、秦酒公は何代かの人物を集合した名ではないかとする説が出されているのもうなづけることになる。
この秦酒公の年代を稲荷山鉄剣銘の半弖比(ハテヒ=トルコ語で酒の意)の年代と比べてみると、
半弖比(ハテヒ)は5世紀中頃の人物と考えられるので、5、6代の秦酒公のうちの真ん中あたりの代の酒公と年代が重なるのが分かる。

このように見た場合、稲荷山古墳に葬られたオワケの祖父の名の「酒」は、5世紀中頃の秦酒公である可能性も出てくることになる。
そうすると、5世紀中頃の秦氏の家長である酒公の子がオワケの親の加差披余(カサヒヨ)であり、
その加差披余(カサヒヨ)が埼玉に移住して来て、埼玉笠原氏の始祖となったということになるわけだ。

このような推測が成り立つとすれば、笠原氏が同族同士で国造争いをしたときに朝廷が笠原氏の肩を持った理由がよく分かってくる。
笠原氏のバックには大豪族の秦氏がいて、朝廷がその秦氏の意向を受け止めるのはごく普通の成り行きだっからだ。

いや、秦氏のトルコ語でこのような古代史ストーリーが描けるとすれば、秦氏のトルコ語はかなり信憑性に富んだ説だということになってくる。
実に面白いといえる。

78 :出土地不明:2023/03/04(土) 01:42:31.92 ID:jxRqhYyEU
>>76
トケイヤー氏の前に、日本文化の源流には失われた十部族の一部がいるとする説を立てた人がいる。
エドワード・オドルムというカナダ人地質学者がその人だ。
1930年代に来日して、日本各地を旅行した。
トケイヤー氏の判断の基底には、このオドルム氏の日ユ同祖観があるのではないか。
あるいは、多くの日ユ同祖論者が、オドルム氏の論に基づく流れを形成していると見ることもできそうだ。

79 :出土地不明:2023/03/05(日) 15:37:46.09 ID:AqIYJejS4
稲荷山古墳の被葬者を鉄剣銘のオワケとした場合、
その祖父に当たる人物の「半弖比(ハテヒ)」とほとんど同じ発音の秦氏のトルコ語のhatir(ハテシ)は「酒」の意味なので、
この「酒」は秦酒公とオーバーラップすることとなる。
仮に、この考えが正しければ、稲荷山古墳造営のオワケの勢力は秦氏の血脈だったことになり、
そのオワケの勢力も秦氏もユダヤ教徒だったことの強力な物証となってくる。
ただ、秦氏がユダヤ人だったか、ユダヤ人ではないユダヤ教徒だったかについては、まったく判然としない。

80 :出土地不明:2023/03/06(月) 16:08:27.64 ID:Iu7jNSa1W
稲荷山鉄剣銘のオワケからその始祖のオホヒコまでの人物は計8人。
この8人を古墳時代の天皇平均在位期間10年説を当てはめた場合、オワケは雄略天皇の時代の人物とみられているので、
5世紀後半の470年頃から約80年遡らせると390年頃になり、オホヒコは4世紀末頃に生きた人物ということになる。
これは4世紀後半後葉とすることが可能なので、応神天皇の時代に相当することになる。

そうすると、応神天皇の後半期に弓月君が渡来したと記されているので、この鉄剣銘のオホヒコは弓月君の渡来時期の人物に当たることになる。
そこで、オワケが秦氏の血脈の人物だとすれば、オワケの始祖のオホヒコとは弓月君のことを指した名だとすることが可能になる。
オワケは自分たちの先祖を崇神天皇のときの将軍とされる有名な人物に結び付けたとする説が見られるが、
しかし、オホヒコの名でもって弓月君を表したと考えることも可能なのだ。

この鉄剣銘のオホヒコは弓月君を表したものとする考えは、オワケが秦氏の血脈であればごく自然なものとなる。

81 :出土地不明:2023/03/09(木) 15:53:40.99 ID:bpopieyJx
秦氏がトルコ語を話すユダヤ教徒だったとした場合、稲荷山鉄剣銘のオホヒコは弓月君を指した名であった可能性が出てくる。
そして、そのオホヒコの子孫4人の名もかなりの謎となってくる。
その名を見てみると、次の通りだ。

オホヒコの子孫
@多加利(タカリ)
A弖已加利(テイカリ)
B多加披次(タカヒシ)
C多沙鬼(タサキ)

この4人に共通するのは、名の語頭にくる「タカ」の音であるのはすぐ目に付くこと。
AのテイとCのタサのサがややブレているものの、基本的に「タカ」がベースになっていることが理解される。
このように4代にわたってよく似た発音の名となっていることは、明らかに何らか意図によって付けられた名であることを示唆する。
このことは、5代がハテヒ、6代がカサヒヨ、7代がオワケとそれぞれ明確に異なる名であることからも推測できる。

では、この「タカ」とは何を表した語か、ということが浮上してくる。
そこで、かなり有力である「秦氏のトルコ語」をこれに当ててみてみると、

タカ(多加)
トルコ語 takas(タカ)=交換、スワップ

が妥当な語彙となる。
これをベースとして、もう一度それぞれの名とよく似たトルコ語の語彙を当ててみると、次のようになる。

@タカリ(多加利) → takas(タカシ)=取引、スワップ
Aテイカリ(弖已加利)→teikar(ティキャシ)=買戻し
Bタカヒシ(多加披次)→takahis(タカフシ)=交換
Cタサキ(多沙鬼)→tasaki(タサキュ)=明細書

つまり、物品の取引、交易に関連する商業用語が羅列されている可能性が見えてくる。
Cの「明細書」は、その取り引きの結果の請求書ということになるのだろう。

冗談だろうという声が聞こえてきそうだが、それぞれの名の発音に当てたトルコ語の妥当な語彙がそのような内容となっているのだ。
秦氏が交易に従事していたことは、深草の大津父の事績で分かることだ。
大津父は、馬の隊商を編成して、物資を伊勢に運んだことが知られている。
この「伊勢」は、今の四日市あたりの地名だろう。

そういうわけなので、その秦氏の家長を指すと考えられる「酒(ハテヒ)=秦酒公」の親、祖父ら4代について、
すべて「取引、交換、明細書」などの商業用語的な名が付けられていることは、
これは実際の名ではなく、秦氏の稼業を表す語に多少の変化を付けて名としたものではないかと考えることが可能になる。

このように、稲荷山古墳の被葬者のオワケは秦酒公を祖父に持つ秦氏の一族であったとする観点から見ると、
稲荷山鉄剣銘に刻まれた名の謎はこのように解くことが可能になる。
そして、このことは、これらの鉄剣銘の名に相当する期間の秦氏の家長の名が秦氏の系図では「酒公」の名で一つにまとめられていることと、みごとに符号するのだ。

82 :出土地不明:2023/03/10(金) 20:55:05.10 ID:Al8gDvLNS
さきたま古墳群の勢力は、秦氏が描いた「モーゼが目指した国=武蔵(ムサシ)」への最初の入植集団だった可能性が高まった。
しかも、その集団は秦氏の血筋の集団であり、ユダヤ教徒集団であったということなのだ。
人物埴輪の中の刀を持つ人物の出で立ちが今のユダヤ教徒の超正統派と瓜二つであることから、それが分かる。

この「鬢を伸ばしたトルコ語を話すユダヤ教徒」は、今のウクライナのクリミア半島に住むクリムチャク人がそれに該当する。
このクリムチャク人は、さきたま古墳群の勢力と同一起源かどうか分からないが、そのような定義に合致するのがクリムチャク人なのだ。
クリムチャク人は、そのような一派が歴史的にいたことを示す実例と言える。
中央アジアでは、トルコ語が主流だった時代が、確実にあるのだ。

弓月秦氏がトルコ語話者だった可能性は、非常に高い。

83 :出土地不明:2023/03/14(火) 16:00:44.12 ID:EKUBiW/DJ
まあ、諏訪大社の御頭祭は、ユダヤ教の聖典に伝えられるイサクの伝承がベースとなった祭りだとする説がみられる。
しかし、この説は、江戸時代の同祭見聞録の文章の読み取り間違いによるもののようだ。
御頭祭は、ユダヤ教のイサク伝承とは無関係の祭りだろう。

ただ、その諏訪大社のある諏訪(スワ)の地名と秦氏のトルコ語は濃厚な関連がありそうで、
それはこの諏訪が埼玉の行田へとつながる街道の要衝であることと密接な関連があったためだろう。
諏訪大社が祀る神の中の最古の神がミシャグチ神だとされるので、
この神が秦氏の神と関連があるかどうかというと、それは無関係ではないだろうか。

84 :出土地不明:2023/04/11(火) 14:42:02.78 ID:kPWtn5wto
とにかく、スワ(諏訪)の言葉の由来は、トルコ語のsu var(スバ=水がある)だ。
このスバ(水がある)が、諏訪湖を指したことは明白。
秦氏が、出エジプト記の中のエリム(オアシス都市)の泉に例えた地名だったようだ。

85 :出土地不明:2023/04/12(水) 04:01:20.45 ID:CG7/eJcko
このスワ(諏訪)の地名ができたのは、おそらく5世紀中頃だろうけど、それ以前にその土地名が何と呼ばれていたのかは、今では不明だ。
秦氏のトルコ語によるスワ(諏訪)の名が定着してしまったからだ。

86 :出土地不明:2023/04/12(水) 15:38:32.00 ID:tbL5ZbiUX
そして、秦氏の血族が入植した行田あたりは武蔵(むさし)と呼ばれるようになるが、
秦氏のトルコ語では、ムサシはムサ=モーゼで、シは和語の方向を指す言葉なので、
ムサ+シは「モーゼが目指したところ」の意味となり、モーゼが目指したところとは即ちカナンの地なので、
秦氏は北関東をユダヤ民族安住の地カナンに擬したということになる。
つまり、太秦の秦氏は、北関東にそのような地図を描いていたということだな。

87 :出土地不明:2023/04/17(月) 14:39:33.88 ID:yUqQ3mqzz
太秦秦氏は、ユダヤ民族安住の地カナンに擬した北関東の行田へ移住した一族を一環して支援していた。
後に、行田の笠原氏とその同族が国造の地位を巡って争ったときに、大和の朝廷は笠原氏の肩を持ったが、その処置については太秦秦氏が強力にテコ入れしたのは明らかだ。
太秦秦氏の直系の血族が笠原氏だったからだ。
その結果、北関東は秦氏にとってのカナンであることは定着し、それ以降、源平が関東に支配の手を伸ばすまでゆらぐことは一度もなかった。

88 :出土地不明:2023/04/25(火) 18:18:12.35 ID:CYUHElczF
そもそも、オワケを葬った墓の周濠を長方形にした理由を考えないとな。
周濠の長方形は、ユダヤ教の幕屋を象ったもの。
さきたま古墳群の長方形周濠は、被葬者がユダヤ教の神に召されたことを示しているのだ。

89 :出土地不明:2023/04/26(水) 17:24:10.63 ID:ixbKuVVdt
オワケが秦氏の氏族長の酒君の孫だったのであれば、その古墳に特別な長方形周濠を採用した意図は、十分に推測することができる。
大和の王権の目が届きにくい武蔵の行田の古墳に馬蹄形でなく長方形の周濠を造って幕屋を表したということは、
その古墳の人物埴輪が現在のユダヤ教徒とそっくりの容姿であることからしても、整合性が取れることである。
もちろん、本家の秦氏の承認を得て、その長方形周濠は造られたはずだ。

90 :出土地不明:2023/04/30(日) 14:53:18.49 ID:oC9WjRXGQ
また、継体天皇の陵墓とみられている高槻の今城塚古墳からも尖がり帽子を被って鬢を長く伸ばした姿で刀を持つ人物埴輪が出ている。
この人物は、大王の周りを警護する「杖刀人」なのではないか。
そうすると、行田のオワケの子孫は、そうした警護人を6世紀中頃までも継続して都に派遣していたことになってくる。
そして、この警護人の職は、行田のユダヤ教徒超正統派の専業だった可能性すら出てくるのだ。

91 :出土地不明:2023/05/02(火) 14:55:24.11 ID:WYJKwkoP0
そして、その大王の警護人のうしろには太秦の秦氏が張り付いていたとすれば、秦氏は大王や都の治安維持にも関わりを持っていたと見ることができる。
この秦氏は、一方では、外来の宗教や国内の異教も管掌していたらしいので、常世虫の異教が大流行したときに、この異教を取り締まったのが秦氏であったそのわけが理解されることになる。

このように行田のユダヤ教超正統派の人物埴輪を軸として秦氏を見ると、実にいろいろな事象の実相が見えてくるのだ。
尖がり帽子を被り、鬢を伸ばし、顎髭をたくわえた姿で刀を持つ人物埴輪は、古代史の謎の一面をみごとに解明する重要な文化財だとすることができる。

92 :出土地不明:2023/05/04(木) 12:56:13.32 ID:c0f+hBELA
太秦秦氏と行田オワケはひとつながりのユダヤ教徒だったことは、おおむね確かだといえそうだ。

93 :出土地不明:2023/05/26(金) 23:50:23.20 ID:4hdgBoUbZ
秦氏とオワケは、秦氏のトルコ語においてもつながっていたと考えることができる。
オワケの祖父のハテヒの名を秦氏のトルコ語から見ると、トルコ語の「ハテシ」の語義は酒であり、
この「酒」の名は秦氏の先祖の酒公とぴったり重なる。
これによって、オワケは秦酒公の孫であり、山背から行田へ移住した人物だと推測することができることになる。

このように、秦氏のトルコ語は、秦氏の謎を解明する重要な手立てとみることができるのだ。
そこで、秦氏が開発したとされる「嵯峨野」の地名の由来を、そのトルコ語から探ってみることにしよう。
嵯峨野は太秦から見て西の桂川の右岸一帯の呼び名だが、「サガ(嵯峨)」は「険し(サガシ)」に由来するとする説が有力とされている。
この「サガ(嵯峨)」を秦氏のトルコ語から見てみるとどうなるだろうか。

サガ(嵯峨)
トルコ語 saga(サガ)=右

つまり、秦氏の太秦から見ると、西の桂川の右(saga=サガ)にあるのがその原野だということになり、
秦氏がトルコ語で桂川のsaga(サガ=右)と呼んだのがサガ(嵯峨)野の名の由来とすることが可能になる。
嵯峨野の嵯峨(サガ)の由来として、和語の「険し(サガシ)」が語源だとするのも悪くないが、
秦氏のトルコ語の「saga(サガ=右)」もかなりいい線を行っているとみることもできる。

秦氏の謎を解くアイテムとして秦氏のトルコ語が有用だとすれば、嵯峨野の嵯峨(サガ)の由来は秦氏のトルコ語のsaga(サガ=右)だとするのも悪くないのではないだろうか。

94 :出土地不明:2023/06/14(水) 15:48:20.32 ID:BQEjYoRY.net
相変わらず言いたい放題ですね澄子さん

95 :出土地不明:2023/07/26(水) 11:51:29.70 ID:8JH7X38j.net
前玉神社と小さい古墳群の側に石屋さんがあったけど昔からあそこにいたのかな?
たまたま巨石文化にも興味あったからドキッとした

96 :出土地不明:2023/08/11(金) 03:46:23.69 ID:25llwflD.net
敏達天皇のときには、先代の欽明天皇が「新羅を討て」と遺言したように、新羅関連のものは煙たかったのかもな。
敏達天皇の政権は新羅から「任那の調」を受け取っていたから、新羅から金冠が贈られたものの身近に置くわけにいかず、それでできるだけ遠くの群馬へ出したということなのではないか。

97 :出土地不明:2023/08/13(日) 05:32:06.24 ID:OYU7YOUy7
まあ、トルコ語から見れば、秦氏の太秦(ウズマサ)は「三つの机(祭壇)」で、これはユダヤ教の幕屋の祭壇のこと。
犠牲を焼く祭壇、パンを置く机、香を焚く祭壇を指している。
つまり、太秦の地は、日本においてユダヤ教の幕屋を置くところ、と秦氏が定めた土地なのだ。
そして、その地に秦氏は広隆寺を建てて、エルサレムの神殿と同じ構造を再現した。
ウズマサの言葉の意味が分からなければ、こうしたことは解明できないのだよ。

98 :出土地不明:2023/09/04(月) 03:46:50.38 ID:6GWYZo+NY
奈良県大和高田市にある池田古墳群の池田9号墳出土の人物埴輪は精巧に造られていて、背中に靫(ゆき)を背負う姿となっている。
靫を背負うこの人物は、鬢から下がるみごとな巻き毛のミズラを付け、三角の尖がりが両側につく帽子を被っている。
池田古墳群の墳墓は、5世紀前半〜6世紀前半の築造とされている。

そして、この人物埴輪とほぼ同じ姿の埴輪が、さきたま古墳群の近くの鴻巣市の新屋敷C区遺跡でも出土しているのだ。
この人物埴輪は、背中に鎌を付ける姿となっている。
鬢から垂れるミズラには、薄い巻き毛の線が見え、やはり二つの尖がりが両側に付く帽子を被っている。
この人物埴輪の製作は、古墳時代後期とされるが、5世紀後半かとする意見もみられる。

このことからすると、帽子を被って武器を持ち鬢から巻き毛のミズラを垂らした人物埴輪は5世紀後半には北関東と大和でみられ、
こうした人物埴輪の多さからみて北関東で造られたこの武器を持つ人物埴輪が大和でも造られたと考えるのがよいだろう。
そうすると、大和のこの人物埴輪は、関東から派遣された警護人(杖刀人)であった可能性が考えられる。
そして、関東では6世紀初頭になると、この人物埴輪に替わって尖がり帽子を被り、
刀を持ち、豊かな髭をたくわえて、鬢から巻き毛のミズラを垂らした人物埴輪が現れてくる。
この髭を蓄えた人物埴輪は正装をした人物埴輪と呼ばれていることからすると、
これは先の靫(ゆき)や鎌を背に付けた人物を正装させた姿なのかも知れない。
ということは、鬢に巻き毛のミズラを垂らして帽子を被るスタイルの実際の人物は5世紀後半には北関東にいたということになり、
その直後には、尖がり帽子や髭をたくわえて、鬢から巻き毛のミズラを垂らして正装するスタイルの人物が埴輪として制式化されたと見なすことができそうだ。

とにかく、この双方に共通するのは、巻き毛のミズラを垂らしていることである。
巻き毛のミズラは、今のユダヤ教徒の超正統派の人のスタイルと同じであることからすると、北関東には5世紀後半頃にはユダヤ教徒の人がいたということになってくる。
そして、このことは、巻き毛のミズラを付けた人物埴輪の周囲にいる人物埴輪も、世俗的なユダヤ教徒を表した埴輪であった可能性も出てくるのである。

99 :出土地不明:2023/09/06(水) 21:09:37.79 ID:1ZbW+edc0
このように、太秦秦氏の同族カサヒヨが行田に入植し、その集団の中には既に巻き毛のミズラを鬢に垂らす者たちがいて、カサヒヨの子のオワケはそれらのミズラ警護人(杖刀人)を都へ派遣していたことになる。
この直後の6世紀初頭頃には、この杖刀人は尖がり帽子を被り、顎髭をたくわえ、鬢に巻き毛のミズラを垂らし、正装して腰に刀を帯びるスタイルに制式化され、その姿が人物埴輪に写されて古墳の被葬者の葬送の埴輪列に加わるようになったということだろう。
そして、この正装のスタイルが現在のユダヤ教徒の超正統派の姿とほぼ同じであることが、驚くべき重要性でもって注目されるのである。
つまり、5世紀後半頃に日本にはユダヤ教徒が移住して来ていて、彼らは派遣されて地域の首長たちの警護人を務めていたことが歴史事実として認めることができるということなのである。
日本におけるユダヤ教徒の総元締めはこれらのユダヤ教徒を関東へ送り出した太秦の秦氏であり、彼こそがそもそものユダヤ教徒の日本における最高首長だったのである。

100 :出土地不明:2023/08/19(土) 18:18:50.66 ID:bW6cAdPK.net
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202308190000089.html
“御墳印”埼玉県行田市中心に古代へのロマン「古墳」22カ所 「御朱印」派生型が大流行
[2023年8月19日8時36分 ]

https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/img/202308190000089-w1300_0.jpg
22カ所の「御墳印」

101 :出土地不明:2023/08/31(木) 20:02:36.02 ID:ypX5xrNY.net
Σ(゚Д゚;エーッ!

102 :出土地不明:2023/09/07(木) 23:27:24.97 ID:IXXKeT+z.net
スレ検索出来ないバカが重複スレ立てたので先行スレage

103 :出土地不明:2023/09/08(金) 23:27:40.36 ID:oSZ0xxGWj
尖がり帽子被って髭をたくわえて、鬢に巻き毛のミズラ垂らし刀を持って、姿勢正しく正装した姿の人物埴輪は、今や日本の埴輪の顔になっている。
関東で発祥した1500年前のこのユダヤ教徒超正統派的ミズラ人物埴輪は、そのうち世界のユダヤ教徒超正統派の崇拝の対象となり、彼らは北関東へと列をなして拝みにくるだろう。
関東の博物館は、それまで大事に守っているのがよいだろう。
がんばりたまえ。

104 :出土地不明:2023/09/17(日) 07:46:12.13 ID:nSipNPc+.net
天皇家が朝鮮半島系というのは本当だと思う
でも、
海賊のジンム(九州系)がヤマトを占領し、藤原氏がジンムを担いでヤマトを乗っ取った件で、
ヤマトの王族が半島系だった可能性もある
なんせジンムは一匹オオカミで、九州王朝の支援を得ていなかったから、
ヤマトの王族をリストラ・再利用するしかなかったのだ

105 :出土地不明:2023/09/28(木) 19:27:33.43 ID:D1Ungxbw.net
倭人が半島の一部を治めてたの言い間違えでした

106 :出土地不明:2023/10/09(月) 17:11:41.96 ID:NR1AKi3yz
オワケが太秦の秦酒君の孫にあたる人物であることは、おおむね間違いないだろう。
彼がなぜ杖刀人(警護人、ボディーガード)のリーダーになれたのか、それは背後に秦氏がついていたからだ。
秦氏は、ヤマトの重要人物の警護の元締めだった可能性がある。

107 :出土地不明:2023/10/17(火) 20:44:11.56 ID:YHnJ3kJmD
行田市の近くの鴻巣市新屋敷遺跡C区からカールさせたミズラを垂らして両脇に三角鰭が付いた帽子を被った姿の人物埴輪が出ているが、
この人物埴輪とまったく同じ姿の人物埴輪が奈良県大和高田市の池田遺跡からも出ている。
この人物埴輪の元になった実際の人物が、稲荷山古墳出土鉄剣銘に刻まれている杖刀人(警護人、ボディーガード)であり、その人物は行田から大和に派遣されて大和の豪族の警護に当たっていたと考えることができる。
この人物埴輪は、池田遺跡では背中に矢入れを背負い、新屋敷遺跡C区では鎌を背負っている。
武器を持っていたということは、ボディーガードであったことの証左だと言えそうだ。

そして、それから少したつと、このボディーガードは庇付きの尖がり帽子を被って豊かな髭を蓄え、カールさせたミズラを垂らして腰に刀を持ち、古墳時代の正装の衣服で整えた姿に変わっている。
この姿が、今のユダヤ教超正統派の姿と瓜二つということで、6世紀初頭ころにユダヤ教徒が日本に渡来していたという説の根拠の一つとなっている。
この2種類の人物埴輪で共通しているのは、カールしたミズラを垂らしていることであり、
このことは、6世紀初頭頃に限らず、5世紀末頃にはすでにユダヤ教徒が行田市あたりに定住していたことを物語るものだ。

そう考えると、カールしたミズラを付けないユダヤ教徒も同じく渡来して来ていたと想定することが可能あり、
行田市ありはユダヤ教徒のコミュニティーが成立していたと考えることもできそうだ。

108 :出土地不明:2023/10/19(木) 22:38:25.65 ID:MU96oNzt.net
ああもうほんとカッコよすぎ!抱いて!

109 :出土地不明:2024/03/26(火) 19:09:13.82 ID:JQp/F4PA.net
百済から九州に入ったが、北部は鉄武器など血なまぐさい

南下して宮崎日向でどん詰まり〔西都原、生目)

神武東征(途中で吉備吸収)

大阪上陸は流す値費子が阻止

迂回して紀伊半島から上陸

奈良盆地南部で 豪族らと仲良く、、、中心に

力つけて九州西遠征、邪馬台国卑弥呼の鏡

帰阪して、引き連れた中国人に三角縁作らせる、、、ケイショ何年は本国の年号終了を知らず

なびいた奴らに鏡を盛大にばらまく

反抗する出雲は滅亡、、、たたりを恐れて出雲神殿を作る

110 :出土地不明:2024/03/26(火) 19:10:57.74 ID:JQp/F4PA.net
奈良盆地で大和政権をもとに力をつけている間、邪馬台国は自然衰微(トヨ以降あかん)

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