2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

巻向遺蹟の真実の年代

1 :出土地不明:2021/03/31(水) 13:33:04.27 ID:AWknELR8.net
3世紀末期に庄内0式が出現しました。

98 :出土地不明:2024/06/20(木) 03:34:20.58 ID:S3QYIF7X.net
扶南国:東南アジア最古の古代国家

1. 成立と名称
扶南国は、東南アジア大陸部で最も古く成立した国家とされ、紀元後1世紀末ごろにメコン川下流域に栄えた古代国家です。名称の由来は諸説ありますが、オーストロアジア語族のモン・クメール系言語で「山」を意味する「プノム」を音写したものと考えられ、モン・クメール系の民族が主体だったと考えられています。

2. 繁栄と国際関係
3世紀前半には大月氏(クシャーナ朝)に使者を派遣し、中国の三国時代呉からは通商使節が訪れていたことが分かっています。公用語はサンスクリット語が使用され、扶南国はインド、ローマ帝国、後漢などと交易を行い繁栄しました。1942年にフランス人のマレルが発見したオケオ遺跡(オクエオ)の発掘調査により、ブラフミー文字で書かれた荷札やローマ皇帝のコイン、ガラス玉などが発見され、扶南国の国際的な交易活動が裏付けられました。

3. 建国神話と王権
『梁書』扶南伝には、扶南国の建国神話が記されています。それによると、扶南国はもともと女性を王とする国家で、女王柳葉と混滇という人物の婚姻によって建国されたとされています。混滇はインドから渡来した人物と解釈されており、扶南王権の成立には北インドとの交渉が重要な役割を果たしたと考えられます。

4. 文化と習俗
扶南国の初期には、人々は裸体で入れ墨をし、頭髪を伸ばして衣服を着用していませんでした。しかし、インド文明の影響を受け、3世紀頃には女性のみが貫頭衣を着用するようになり、4世紀中頃には仏教の影響も顕著になりました。『梁書』扶南伝によれば、5世紀頃には男女とも衣服を着用するようになり、土器や金属器の使用も広まっていたことが分かっています。

5. 衰退と終焉
扶南国は7世紀に真臘国によって滅ぼされますが、東南アジアにおけるインド化の拠点として重要な役割を果たし、その後のカンボジア王国などの文化に大きな影響を与えました。

48 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
名前: E-mail (省略可) :

read.cgi ver.24052200