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巻向遺蹟の真実の年代

98 :出土地不明:2024/06/20(木) 03:34:20.58 ID:S3QYIF7X.net
扶南国:東南アジア最古の古代国家

1. 成立と名称
扶南国は、東南アジア大陸部で最も古く成立した国家とされ、紀元後1世紀末ごろにメコン川下流域に栄えた古代国家です。名称の由来は諸説ありますが、オーストロアジア語族のモン・クメール系言語で「山」を意味する「プノム」を音写したものと考えられ、モン・クメール系の民族が主体だったと考えられています。

2. 繁栄と国際関係
3世紀前半には大月氏(クシャーナ朝)に使者を派遣し、中国の三国時代呉からは通商使節が訪れていたことが分かっています。公用語はサンスクリット語が使用され、扶南国はインド、ローマ帝国、後漢などと交易を行い繁栄しました。1942年にフランス人のマレルが発見したオケオ遺跡(オクエオ)の発掘調査により、ブラフミー文字で書かれた荷札やローマ皇帝のコイン、ガラス玉などが発見され、扶南国の国際的な交易活動が裏付けられました。

3. 建国神話と王権
『梁書』扶南伝には、扶南国の建国神話が記されています。それによると、扶南国はもともと女性を王とする国家で、女王柳葉と混滇という人物の婚姻によって建国されたとされています。混滇はインドから渡来した人物と解釈されており、扶南王権の成立には北インドとの交渉が重要な役割を果たしたと考えられます。

4. 文化と習俗
扶南国の初期には、人々は裸体で入れ墨をし、頭髪を伸ばして衣服を着用していませんでした。しかし、インド文明の影響を受け、3世紀頃には女性のみが貫頭衣を着用するようになり、4世紀中頃には仏教の影響も顕著になりました。『梁書』扶南伝によれば、5世紀頃には男女とも衣服を着用するようになり、土器や金属器の使用も広まっていたことが分かっています。

5. 衰退と終焉
扶南国は7世紀に真臘国によって滅ぼされますが、東南アジアにおけるインド化の拠点として重要な役割を果たし、その後のカンボジア王国などの文化に大きな影響を与えました。

99 :出土地不明:2024/06/28(金) 10:42:36.50 ID:kiTwzhRu.net
纏向遺跡のホケノ山古墳は、3世紀の卑弥呼の時代と考えられているが、その埋葬形態は、木製の部屋の中に木製の棺を納めた「木槨木棺墓」である。 魏志倭人伝によれば、邪馬台国時代の埋葬形式は「棺はあれど槨なし」と記されており、ホケノ山古墳は邪馬台国時代の埋葬形式とは異なる。ホケノ山古墳のような「木槨木棺墓」は、より後の時代の形式と考えられ、従って纏向遺跡も、卑弥呼の時代よりも後の時代の遺跡であると推測される。

なお、邪馬台国時代の墓とされる福岡の平原古墳では、魏志倭人伝の記述通り「棺はあれど槨なし」という埋葬形式が確認されており、魏志倭人伝が邪馬台国の葬制を正しく伝えていることを裏付けている。

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