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坂上田村麻呂とかいう歴史的ヒーロー

1 :出土地不明:2024/03/15(金) 15:56:50.44 ID:SBJ94Ocf.net
語ろう

2 :出土地不明:2024/03/15(金) 19:26:57.65 ID:/uVaLpDN.net
白人?

3 :出土地不明:2024/03/17(日) 09:55:52.37 ID:TrEB4BUu.net
語りましょう

4 :出土地不明:2024/05/16(木) 18:47:03.88 ID:NyMCFwO/.net
村田

5 :出土地不明:2024/05/26(日) 02:00:30.80 ID:19leRS3L.net
坂上田村麻呂と清水寺の関係

坂上田村麻呂と清水寺の関係は、深く複雑な歴史的関わりがあります。一般的には、田村麻呂が清水寺の創建に深く関与した人物として知られています。しかし、近年ではその関係性について様々な議論がされており、単純な善悪二元論で語れるものではないことが明らかになってきています。

田村麻呂と清水寺の創建

清水寺縁起などの伝承によると、田村麻呂は音羽山で修行中の僧侶・賢心と出会い、観音菩薩への信仰心を深めたと言われています。そして、延暦17年(798年)に、桓武天皇の勅願を受けて清水寺を建立したと伝えられています。

しかし、近年では清水寺の創建時期や田村麻呂の関与度について、疑問を投げかける研究も増えています。考古学的な調査結果から、清水寺の創建は8世紀後半ではなく9世紀に入ってからである可能性が高いことが指摘されています。また、田村麻呂が桓武天皇の側近として蝦夷征伐に活躍していた時期と、清水寺創建時期が重ならないことも問題視されています。

田村麻呂と清水寺のその後

田村麻呂は清水寺の創建後も、清水寺と深い関わりを持ち続けたと考えられています。例えば、田村麻呂は清水寺に多くの土地や財産を寄進しており、また、自身の子息を清水寺の僧侶としたという記録も残されています。

田村麻呂の死後も、彼の功績を称えるために清水寺では様々な行事が行われてきました。例えば、毎年9月12日に行われる「田村祭り」は、田村麻呂の命日に合わせて行われる法要です。

6 :出土地不明:2024/05/26(日) 06:46:12.96 ID:zs1fm+Pq.net
福島県田村町

7 :出土地不明:2024/06/15(土) 17:27:37.94 ID:HIauWG0F.net
語ろう

8 :出土地不明:2024/06/16(日) 14:51:12.07 ID:ObR/pdJm.net
青森ねぶたの田村麿賞消滅の背景:浪岡八幡宮所蔵「伝坂上田村麻呂像」が語る歴史

青森ねぶたの最高賞として長年親しまれてきた田村麿賞が廃止されたのは、もう随分前のことになります。この賞が廃止された理由として、ねぶたの題材として描かれてきた坂上田村麻呂が、地元の人々から「征服者」ではなく「逆賊」と見なされるようになったことが挙げられています。

9月16日、私は浪岡八幡宮を調査する機会に恵まれ、御神宝である「伝坂上田村麻呂像」という銅像を拝見しました。八幡宮の縁起によると、この像は延暦12年(793年)に田村麻呂によって創建されたと伝えられ、誉田別命を御祭神として祀っています。像は高さ36cm、台座の幅12.6cm、肩幅8.5cmの重厚な造りで、足元の裏側には「弘仁二(年)九月六(日)調首内人」という刻字が見られます。

像を納めていた箱書きには、昭和10年(1935年)8月に八幡宮が郷社から県社に昇格した記念に奉納されたと記されており、昭和10年以降に御神宝となったことが分かります。さらに箱の中には、中道等氏による像の説明書き、現平成天皇(昭和8年生まれ)の新聞切り抜き写真、濃紺絹布、出征垂幕(「海老名某」の名前あり)が入っており、当時の様子が偲ばれます。

中道等氏は、京都大学・東京大学(共に帝国大学時代)で研鑽を積んだ歴史学・考古学・民俗学の碩学であり、昭和40年代まで青森県における郷土史のリーダーとして活躍しました。氏の説明書きを要約すると、「弘仁2年(811年)はまさしく田村麻呂の命日であり、当時の嵯峨天皇は、亡くなった近臣たちの像(木・画)を集めたと記録に残されています。この像は、その時の田村麻呂像を江戸時代に鋳造したものと思われる。」という記述があります。

田村麻呂は、延暦年間(782〜805年)に征夷大将軍に任命され、蝦夷の地を平定したとされていますが、蝦夷を多数斬首したため「首を調べる内人」という刻字がされたと考えられます。田村麻呂自身は津軽まで足を運んだことはないにもかかわらず、浪岡八幡宮をはじめ、猿賀神社や藤崎八幡宮など、田村麻呂創建と伝える神社は多く存在します。

では、なぜこのような伝承が各地に広まったのでしょうか。

『浪岡町史第1巻』にも示されているように、浪岡をはじめとする津軽地域では、8世紀までの遺跡は極めて少なく、9世紀に入ってから爆発的に増加します。まさに、延暦年間を境に遺跡の状況が変化しているのです。つまり、津軽の集落が農耕社会に移行した「遠い記憶」を、「坂上田村麻呂」という律令国家のシンボルを介して語り継いできた「地域伝承」と捉えることはできないでしょうか。

歴史の真実は闇の中ですが、津軽に田村麻呂伝承が存在する事実は消えることはありません。

9 :出土地不明:2024/06/16(日) 14:56:34.85 ID:ObR/pdJm.net
坂上田村麻呂公の墓(将軍塚)

この墓には、平安前期の武人、坂上田村麻呂公を葬っています。田村麻呂公は、奈良時代の武人である坂上苅田麻呂公の子です。延暦20年(801年)に征夷大将軍となり、陸奥(むつ)へ出征して蝦夷を討伐し、胆沢城などを築城しました。京都においても、弘仁元年(810年)の薬子の乱などで活躍し、右近衛大将の官職に就きました。

田村麻呂公は、赤ら顔で髭が濃く、怪力を持つ真の勇者であったと伝えられ、後世の武士からも尊崇されています。「征夷大将軍」は、武門にとって最高の栄誉であることは言うまでもありません。弘仁2年5月23日、54歳で亡くなりました。この地で葬儀が行われ、嵯峨天皇の勅命により、甲冑、刀、弓矢を身に着けた姿で棺に納められ、平安京に向かって立ったまま埋葬されました。死後もなお平安京の守護神とされ、後に国家に危機が訪れると、塚の中で大きな音がしたといわれています。これを「将軍塚鳴動」と呼びます。(後世、東山の将軍塚が有名になりましたが、本来の将軍塚はこの墓です。)

田村麻呂公は仏教信仰も深く、清水寺の創建でも知られています。なお、この墓地は明治28年の平安遷都1100年祭に際して整備されました。

基本情報

正式名称:坂上田村麻呂公の墓(将軍塚)
住所・所在地:勧修寺東栗栖野町

10 :出土地不明:2024/06/16(日) 20:21:58.50 ID:uUC6FKy3.net
まあ史実として田村麻呂は盛岡以北に行ってないからな
そもそも700年代青森は日本じゃなかったワケだし

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