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縄文・アイヌ・弥生・渡来人学7

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/21(月) 00:00:33.96 ID:hC3miNkj.net
 続き。
> 大和朝廷と渡来人
> 次に、渡来人と大和朝廷との関係をみよう。七世紀に、高句麗・百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされて、その遺民が
>集団的に、大挙日本に渡来・帰化したのは、いわゆる亡命によるものであり、その移住の原因が明確な例であるが、
>その他のばあいでは、多数の人間が集団的に日本に移住せねばならぬような、特別な事情が、朝鮮半島方面に
>あった様子はない。それでその原因は日本側にあったとみるべきではなかろうか。
> じっさい、大和朝廷があるいは人を派し、あるいは武力で南部朝鮮から人を連れてきたことは記紀にも散見していて、
>その個々の場合が史実と認められるか否かは別として、そこに大和朝廷が人材や労力を南部朝鮮に求めた積極的な
>姿勢が反映していることは、間違いないであろう。とくに文筆や各種の技能の持主を多量に受容しようとしたようで、
>そのような大和朝廷の姿勢が、また南部朝鮮からいろいろな人を誘引することにもなったと思われる。そのことは
>大和朝廷の樹立と、渡来人の到来がほとんど時期を等しくしていることからもうかがわれるが、ここでは渡来人側から、
>両者の密接な関係をみよう。
> まず東漢氏は、応神・仁徳朝ころに来朝して、一、ニ代のあいだに朝廷の文筆・財務・外交などの官職につくようになり、
>直の姓を賜わって、あとからきた手工業技術者、いわゆる今来の才伎の陶部・鞍部・画部・錦部・訳部などを管理して、
>朝廷でかなりの地歩をしめるようになり、氏人もふえて、五世紀末ころまでに諸氏に分裂しながら、大和の飛鳥地方に
>地盤をきずいていった。そうして六世紀後半以後、その財力・武力をもって大和の有力豪族にのしあがったが、
>当時隆盛の蘇我氏に結びついて、中央の政治でも活躍した。また蘇我氏とともに仏寺・仏像の造営にあたり、
>対朝鮮の外交にも参与した。大臣蘇我馬子が崇神天皇を弑逆したとき、その下手人をつとめたのは東漢直駒であった。
>蘇我氏が滅亡したのちは、東漢氏も一時、逼塞を余儀なくされたが、壬申の乱のときには大海人皇子(天武天皇)の
>側について武功をあらわし、朝廷から過去の罪を許された。この一族からのちに坂上田村麻呂が出たのである。
> 一方、秦氏も雄略天皇のころには、機織の部を管掌する伴造に任命されたらしく、欽明朝に至って、「秦人の戸数
>すべて七千五十三戸」などと伝えられているのによれば、相当大きな人口を擁したらしい。その主な地盤は京都盆地で、
>賀茂神社と特別深い関係をもった。秦氏の一部のものは早くから、大和朝廷の財務に関係し、斎蔵・内蔵・大蔵の、
>いわゆる三蔵の物の出し入れを管理したという。この秦氏の一族から、のちに白村江の戦いで、唐の水軍と奮戦した
>朴市秦造田来津が出た。
> しかし渡来人のうちで、大和朝廷の政治にもっとも深く関与したのは、王辰爾一族であった。
> 王辰爾とその弟の牛は欽明・敏達朝も、それぞれ船史・津史という姓を賜わり、船舶・港津の関税などを
>管掌したようであるが、その甥の胆津は吉備におかれた白猪屯倉の田部の戸籍作成に功があって、白猪史の姓を
>与えられ、一族そろって大和朝廷の官僚として、その才能を発揮したらしい。蘇我蝦夷父子が滅んだとき、
>火中にあった天皇記・国記・珍宝のうちから、国記をすばやく取りだして、これを中大兄皇子(天武天皇)に
>献じたのは、王辰爾の子孫の船史恵尺であったといわれる。
> さらに大化の改新以後、律令制の時代になると、その一族から遣唐留学生・遣唐小録・遣新羅使・入唐僧など、
>当時一流の外交官・知識人を輩出した。このようにみてくると、王辰爾一族がつねに進歩的官僚あるいは
>新時代の文化人として、欽明朝以後の大和朝廷でとくに大きな役割をもったことがうかがわれる。

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