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縄文・アイヌ・弥生・渡来人学11

136 :白馬青牛 ◆sKm0uQPecU :2014/08/01(金) 03:30:39.27 ID:XDZ7Q2m1.net
>>124
ほいから、こっちも。
http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20061105/1162695442
 ■[史論]間違っている論理展開
一見詳細なデータを出して帰納的に「平安貴族は短命」という解を導き出している。しかしその
データの選択に問題がある。「貴族の代表」として歴代天皇の寿命を選択するのが恣意的である。
平安後期には近衛天皇、六条天皇、安徳天皇という突発事故で死亡した天皇がいるので、
平均寿命が下がるのである。
例えばこれを歴代摂関と比べてみよう。藤原忠通68歳、近衛基実24歳、松殿基房87歳、
近衛基通74歳、松殿師家67歳、九条兼実59歳。。こう見てみると必ずしも平安貴族が
短命とは限らないことがわかる。
さらに北条得宗家を見てみよう。そもそも「鎌倉武士」の詳細なデータが示されていないのは
不審なのだ。北条時政78歳、義時62歳、泰時60歳、時氏28歳、経時23歳、
時頼38歳、時宗34歳、貞時43歳、高時31歳。歴代摂関よりも短命である。歴代摂関と
歴代得宗を比べると、鎌倉武士はひ弱で、平安貴族は頑強だった、という結論も導き出せるので
ある。こういう恣意的な事例選択によって導き出された解を信じてはいけない。
帰納的な論理展開をおこなう際に「因果関係」と「相関関係」を混同してはいけない。
貴族は体が弱かったので、武士に負けてしまった、という議論。つまり鎌倉幕府成立を貴族の
体の弱さから論証しようという試みだが、天皇の平均寿命の低下と鎌倉幕府成立には確かに
相関関係はある。平安末期に歴代天皇の平均寿命が短くなるのは事実だ。その頃に鎌倉幕府が
成立するのも事実だ。しかし歴代天皇の寿命の低下が鎌倉幕府成立の原因ではない。先ほども
説明したように歴代天皇の寿命の低下は突発事故によるものが大きく、貴族全体の寿命が短く
なっているわけではないからである。
次に間違っている演繹的論理展開を検証したい。演繹的に論理展開をおこなうには「前提が
正しいこと」「前提の適用が正しいこと」が必要である。
「ひ弱な貴族は屈強な武士の敵ではありませんでした」。これは「ひ弱な貴族」「屈強な武士」
という前提がすでに崩壊している例である。この論の前提となっているのが「貴族があたらしく
おこった武士の勢力に負けてしまうのも、体力が弱くて不健康な生活をしたいたからだ。武士は
もともと地方にいて農業生産をおこない、狩りをして体を鍛えながら動物性たんぱく質を補給して
いたから、力強い体格を持っていた」という論である。これはそもそも貴族が体力が弱くて
不健康な生活をしている、という前提が誤っているのである。平安貴族はしばしば誤解されるが、
彼ら全てが屋内ばかりにいて運動不足であったわけではない。貴族の中にも武力を持っている
ものもいた。桓武天皇の孫高望王の子孫である伊勢平氏はその一例である。他に清和天皇の
孫経基王を祖とする摂津源氏や河内源氏、藤原秀郷を祖とする秀郷流藤原氏などが代表的な
軍事力を持った貴族である。彼らは概ね受領としての地位を持ち、武力を持って朝廷に仕えて
いた。こういう貴族を軍事貴族という。その子孫は各地に分立し、特に坂東地方には桓武平氏の
流れを引くものが多く存在していた。そして坂東地方に分立した桓武平氏の子孫は多くは鎌倉に
本拠を構えた河内源氏の支配下に入ることとなった。彼らは決して農業生産を行っていた
有力農民が武装したものとは言い切れない。特に地位が高かったのが源満仲とその嫡子頼光に
発する摂津源氏である。酒呑童子説話で有名な頼光、鵺(ぬえ)を退治した源頼政、彼らが
摂津源氏の当主であり、部下には渡辺党や坂田公時など畿内の武装集団を配下にしていた。
そしてあらゆる邪なるものを取り除く辟邪という職掌を持って朝廷に仕えていたのである。
鵺も酒呑童子も疫病をモチーフとした伝説である、と考えられている。刀や弓で辟邪の職掌を
取り仕切る貴族、これが摂津源氏である。軍事貴族でなくても藤原保昌は個人的に武勇に秀で、
弟保輔は強盗を行っていた、という。彼らのように家業としてではなく、個人的に武勇に秀でた
ものを都の武者と呼んだ。保昌は頼光と酒呑童子説話に出てくるし、保輔は袴垂という強盗と
同一視され現在に伝わる。貴族が体が弱かった、という前提はすでにおかしい。」

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