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新潟市都市開発スレ136

722 :北日本新聞 2016年10月27日:2018/05/04(金) 15:37:43.13 ID:JwjCs1oE.net
続 越中エル・ドラド(黄金郷)ふるさと人物列伝
辻沢 賢信 37
富山県を誕生させた政治家 米澤 紋三郎 1857〜1929
25歳で分県の建白書
「加賀、能登と利害異なる」

かつて、富山が石川県に含まれていたことは、よく知られている。明治になっても、藩政時代の加賀藩による支配構造の認識から脱しきれなかったのだろうか。
そうした政府の判断に異議を唱え、分県独立運動を起こしたのが新川郡入膳村(現入善町)の米澤紋三郎(1857〜1929)である。
まずは、富山の領域の変遷を記しておきたい。
江戸期の越中は、中央部の婦負郡(一部新川郡を含む)だけが富山藩で、その東西両側の射水郡、砺波郡、新川郡は加賀藩の領域だった。
廃藩置県が実行されたのは1871(明治4)年7月14日(新暦で8月29日)のこと。旧富山藩は富山県(東西両側は金沢県)となった。
だが、藩を県にしただけなので全国で3府302県もあり、統合が図られる。
誕生したばかりの富山県もわずか4カ月後に、金沢県から分離された砺波郡と新川郡が加えられて新川県(魚津に県庁)となる。
さらに翌年10月、七尾県射水郡が新川県に移されたのを機に県庁が富山に移転。その4年後、今度は新川県全体が石川県(金沢県を改称)に編入されたのである

黎明期に誕生

こうした近代の一大行政改革の黎明期に生を受けたのが紋三郎だ。家は大地主で草高4千石、土蔵が20棟もあったという。そこの次男である。
14歳のときに岡田呉陽の塾「学聚舎」に入った。呉陽は江戸の昌平黌で学んだあと、富山藩主に学問を教えた人物。
紋三郎は17歳で塾頭(先生の代理)になったというから、勉強がよく出来たのだろう。
そんな紋三郎が心を痛めていたのは、黒部川が毎年のように氾濫し、人々を苦しめていたことだ。
黒部川だけでない。常願寺川も神通川もたびたび氾濫していた。悲惨な洪水を防ぐためには政治家になるしかない―と、24歳で石川県議会議員になった。
しかし、治水の必要性を訴えても、加賀と能登の議員たちは「道路を造るほうが先決」と主張。紋三郎の意見は通らなかった。
加賀と能登の議員が計47人なのに対し、越中の議員は22人だから無理もない。
翌年、再選されたものの「こんな議会に出るのは恥」として辞職、分県独立運動に没頭する。
仲間と越中改進党をつくり、大隈重信の立憲改進党に合流。『越中分県』の建白書を書いた。
その主張はこうだ。
「わが越中国は天然の境界で一区域をなしている。能登や加賀とは地理形成利害大いに異なる。もとより、同一施政の下に立つべきにあらず」
「昔から一人の国守で越前加賀を兼ねた例は多いが、越中は別に一人がいた」
「戦国の末に加能と越中が前田氏に屈せりといえども、これは武功の戦略によるもの。三国を一体に見るのは皮相的」
的確に核心をついた内容で、このままでは互いの利益に結びつかないことを堂々と掲げている。

妻の実家でまとめる

建白書は、周りに煩わされないよう、射水郡五十里村(現高岡市)の妻の実家にこもって、身を削るようにしてまとめたといわれる。
そして上京。苦労の末、岩倉具視右大臣、山縣有朋参議らに会って陳情したようだ。紋三郎、まだ25歳だった。
半年後の1888(明治16)年5月9日、政府は「富山県を置く。範囲は越中国全体。県庁は富山」と発表。現在の富山県が誕生した。
紋三郎は富山県議となり、議長も2度経験。しかし、私財を持ち出して政治に打ち込む、いわゆる井戸塀(井戸と塀しか残らない)で、資産は大きく減少。
87(明治20)年には公職を辞して借金整理に当たった。
その後、設立した入善銀行が順調に発展してきたので、1903(明治36)年に参院選に立候補。翌年の衆院選にも出馬し、いずれもトップ当選している。
一方、北陸政論と越中新聞が合併して誕生した北陸政報(北日本新聞の前身)の初代社長に就任。言論を通じて郷土の発展に尽くした。
日露戦争で株式相場が乱高下する中、巨額の利益を得る。
しかし、政治家としてさらなる飛躍を遂げるために資金がいるとして米相場に手を出し、失敗。隠遁生活に入り、72歳で世を去った。
   (コラムニスト、滑川市
   =毎週木曜日に掲載します


Ψ(`∀´ )

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