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院政について語ろう
- 1 :日本@名無史さん:2011/09/29(木) 23:39:20.59 .net
- 摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。
- 2 :日本@名無史さん:2011/09/30(金) 13:05:55.55 .net
- 「おりゐのみかどの門に車たつ様やはある」と豪語した師通だったが、見事に車が立って自身は40歳前に薨去。
院政も最初期は摂関家、太政官(天皇)と対抗勢力が多く決して順風ではなかった。創始者白河が師通同様短命であれば、
院政なる言葉が現代に伝わることも無かっただろう。やはり上皇として40年以上政柄を握った白河の功績は第一である。
- 3 :日本@名無史さん:2011/10/01(土) 21:05:20.76 .net
- 天皇で院政期以降、名前に「仁」がつかないのは珍しい。
そして「仁」のつかない4人が悉く戦火を招いたのは偶然だろうか?
尊成(後鳥羽)
守成(順徳)
懐成(半帝)
尊治(後醍醐)
後鳥羽が決起しなくとも、院の力は殺がれて行ったのだろうか。
後醍醐が欲張らなければ、両統迭立は続いていたのか。
- 4 :日本@名無史さん:2011/10/02(日) 02:01:28.90 .net
- >>3
仁が天皇家の通字になったのは北朝からじゃなかった?
- 5 :日本@名無史さん:2011/10/02(日) 02:14:34.86 .net
- >>4
後三条天皇(諱:尊仁)からでしょう。その後は白河(諱:貞仁)、堀河(善仁)と「仁」字が
続いていますし。
白河天皇の第一皇子は敦文と「仁」字でないけれど、この時点では父親の天皇自身が
一代限りの含みだったはずですね。
- 6 :日本@名無史さん:2011/10/02(日) 07:26:27.42 .net
- 大覚寺当はついてなかったはず
- 7 :日本@名無史さん:2011/10/02(日) 13:22:50.66 .net
- 御宇多院までは「仁」をつけていたんでは?
後宇多天皇の子は「治」、孫は「良」としているようだけれど。
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