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院政について語ろう

1 :日本@名無史さん:2011/09/29(木) 23:39:20.59 .net
摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。

151 :日本@名無史さん:2012/12/26(水) 13:02:19.90 .net
>>149>>150
院政も中国文化もあるだろうが
武者の世になったのが大きいんじゃないかな。

152 :日本@名無史さん:2013/01/08(火) 16:45:09.45 .net
>>149
平安時代中期頃まで母方が有力でなければ天皇になれなかったんだが
藤原頼通以降、摂関家出身の高貴な后から子が生まれなくなり
院近臣クラスの母方の身分が低い皇子が帝位につくようになった
母方に権力がないのでよるべきものは父方ということになる
身分の低い母から生まれた子でも父や祖父の寵愛の度合いによって
即位するようになったことで院政が可能になったと言える

153 :日本@名無史さん:2013/01/08(火) 18:54:45.28 .net
>>142
一条天皇の母系(外祖父兼家・伯父の道隆・道兼、叔父の道長)が摂政・関白・大臣と思うように出世していくのに
父の円融法皇が父権をふりかざしてできることといえば院吏を参議にする程度だったとは差がありすぎ。
円融法皇の義弟(中宮の弟)藤原公任は娘を天皇に入内させることもかなわず、
后がねの長女を道長の五男の妻にと道長に頼み込んで差し出す始末。

154 :日本@名無史さん:2013/01/10(木) 23:52:18.41 .net
>>152
偶然ではあるけど、皇子の生母が比較的早死が続いて、
外祖父が実権を握る暇もなかったという一面もあるな。

155 :日本@名無史さん:2013/01/11(金) 16:23:17.91 .net
>>154
後冷泉天皇の母藤原嬉子(藤原道長六女)は後冷泉を出産したとき死んでしまったんだが
後冷泉は伯父藤原頼通の後ろ盾によって成長して在位中はやはり関白頼通の世の中だった
生母が早世すれば必ずしも外戚が力を握れないというものでもない
やはり院政期に藤原摂関家を外戚とする天皇が出なかったことは痛い

156 :日本@名無史さん:2013/01/11(金) 17:16:31.89 .net
後三条が転機でしょ

157 :日本@名無史さん:2013/01/13(日) 18:35:40.51 .net
>>156
後三条自身は院政を執らずまた摂関勢力からの完全防衛にも成功しなかった
続く白河天皇は摂関家の養女中宮賢子を寵愛し
異母弟を退けて賢子の産んだ堀河天皇を帝位に付けた
実は摂関政治は堀河天皇のときに復活している
院政が本格化したのは堀河の子で摂関家を外戚としない鳥羽が5歳で即位
祖父の白河法皇が院政をとってから

158 :日本@名無史さん:2013/03/10(日) 14:50:35.59 .net
院政は朝廷主導政治の終焉を早めたのだろうか?

159 :日本@名無史さん:2013/03/10(日) 18:51:49.04 .net
摂関政治が続いてても武士の世は来たでしょ
保元の乱では朝廷だけでなく摂関家もまた武士の武力を頼りにして
争いを繰り広げてたし
平清盛は娘を天皇家ばかりでなく摂関家にも娘を送り込んで操ったから

160 :日本@名無史さん:2013/03/11(月) 00:13:29.98 .net
日本の武士層が、白河院政の頃の源平と山法師みたいな状況のままで、
元寇になったら、日本はどうなってたんだろう。
「○○・ハーン」と皇女が結婚させられて、「○○・ハーン国」になってしまったんだろうか?

161 :日本@名無史さん:2013/03/11(月) 07:01:04.22 .net
>>160

元寇の時も朝廷は穏健外交を望んでいたので、戦闘は回避できたかも。

162 :日本@名無史さん:2013/03/11(月) 14:44:43.41 .net
>>160
逆に、高麗みたく皇后を元から迎え
諡は忠○王(天皇ではなく王に格下げ)だろ

163 :日本@名無史さん:2013/03/12(火) 02:06:24.37 .net
ゴダイゴ・ハーン

164 :竹下登元首相:2013/03/13(水) 16:57:12.51 .net
院政だわな

165 :日本@名無史さん:2013/03/14(木) 22:00:02.02 .net
>>161
いや、鎌倉幕府が反対したから送らなかったけど、
今のネトウヨ顔負けの返書案を送ろうとしたのだが。
実際のその案文(控)は『鎌倉遺文』に所収されている。

166 :日本@名無史さん:2013/03/17(日) 12:51:30.76 .net
飾り物の社長の強硬論に、鎌倉支店長補佐がタジタジの展開

167 :日本@名無史さん:2013/03/17(日) 21:45:56.63 .net
>>165


大宰府守護所は使節一行を対馬に留めさせ、
使節がもたらした牒状を鎌倉に送付し、鎌倉幕府側はこれを京都の朝廷へ転送した。
朝議では両書状について検討されたが、蒙古側の服属の要求を拒否する事に決し、
拒絶の返牒を出す事にし、文書博士・菅原長成に文案を起草させ、中書省牒に対して
返書「太政官牒案」草案を作った。草案には「蒙古という国はいままで知られず、
何ら因縁もないのに武力をもって臣従を迫ることは非常に無礼である。
日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」と自国の独立性を主張した内容だった[80]。
また、高麗国王にも返書案を作成しており、そこでは拘束されていた
弥二郎らの送還に便宜を図ってくれた高麗側に慰労と感謝を述べた内容であった。

(ウィキ)

168 :日本@名無史さん:2013/03/23(土) 23:29:14.14 .net
保守

169 :日本@名無史さん:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN .net
そろそろ保守

170 :日本@名無史さん:2013/10/10(木) 15:11:13.56 .net
そろそろ保守

171 :日本@名無史さん:2013/10/13(日) 21:31:09.09 .net
1年くらい書き込みが無くても落ちないよ。
院政は人気がないみたいだね。荘園整理について語ればよかったかな?

172 :日本@名無史さん:2013/10/14(月) 08:02:11.29 .net
>>171
> 1年くらい書き込みが無くても落ちないよ。

とも言い切れない。
サーバーダウンするとなぜか書き込まれDAT落ちすることがある。

173 :日本@名無史さん:2013/10/20(日) 09:08:42.81 .net
白河院が鳥羽院に院政の肝を教えておかなかったから、
鳥羽院がめちゃくちゃやって保元の乱になった。
院政の肝とは皇位の正統性を確保すること。
崇徳以外の子供は全員出家させるべきだった。

174 :日本@名無史さん:2013/10/20(日) 15:10:14.35 .net
>>173
それだと、崇徳にぽっくり逝かれた場合には困るのよ。
だから、白河も基本的には後継者の同母兄弟の出家は見送ったりしている筈。
白河没後に鳥羽がその方針を崩した(妾腹の近衛の即位ばかりが注目されるが、崇徳の同母弟である覚性法親王の出家も白河の方針に反する行為だった)。

175 :日本@名無史さん:2013/10/21(月) 14:26:46.67 .net
>>174
崇徳の予備に白河を残しておくぐらいは良かったが
近衛まで残したのがまずかったんだろ。
一人の天皇に対して皇位継承の可能性ありで残しておく男子は2人で十分だよ。
天皇家1500年の歴史においても、一般的に
一人の天皇の息子が2人以上即位する例はないから。
(5世紀に允恭天皇の息子が3人即位したのが唯一あるだけ)
覚性法親王の出家は妥当。

176 :日本@名無史さん:2013/10/23(水) 16:27:49.26 .net
>>175

藤原4兄弟のケースでもわかるように
当時の医療レベルでは伝染病が流行すると王族貴族もバタバタ死ぬ可能性があったからなあ…。

177 :日本@名無史さん:2013/10/23(水) 19:58:11.41 .net
躰仁親王を残しただけならまだいい。鳥羽は皇太子に立てた。
白河院が生きていたら泡を噴いてぶっ倒れるレベル。
ついでに幼帝安徳を連れて逃げれば政権が維持できると思った平家も
清盛が見たら馬鹿すぎて卒倒するレベル。後白河院を連れて行けば
天皇などいくらでも生産できるというのに。

178 :日本@名無史さん:2013/10/23(水) 21:36:12.66 .net
>>177
平家は都落ちの時後白河法皇を連れて行こうとしたが
直前に後白河法皇に逃げられた。
ついでに後鳥羽天皇になった四宮も連れていくのに失敗した。

179 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 07:43:35.47 .net
清盛の「朝廷を丸ごと人質にする」福原遷都が一番理に適っていたわけだね。
清盛が院政を停止した状態で後白河が死んでいたら、院政もそこで終ってしまい
天皇が頂点に立つ政治が復活していただろう。

180 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 07:53:55.00 .net
>>179
清盛は後白河院政は停止したけど
代わりに「高倉院政」を開始させた。
傀儡とはいえ当時院政はやっぱり必要。
高倉院政は高倉上皇の崩御により停止。
その直後仕方なしに後白河院政が復活している。

181 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 08:39:15.72 .net
>>180
高倉死後、後白河まで死んでしまったら、院政する人いないでしょ?
ってことだろ。

182 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 09:39:50.74 .net
>>181
後白河法皇の死後しばらく後鳥羽天皇親政だったが
土御門天皇が産まれて暫くしたら譲位して
後鳥羽院政が始まったぞ。

183 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 12:35:48.87 .net
>>180

> 高倉院政は高倉上皇の崩御により停止。


結果的に高倉院崩御が歴史を大きく変えたような気もする。

184 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 13:43:12.00 .net
>>182
頼朝は朝廷がやることに口出しできなかったからね。
あの時点で高倉天皇も後白河法皇も死に院政がなかったら、
安徳天皇を擁した平氏政権はもっと続いていた可能性がある。

185 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 13:47:40.91 .net
院が必要不可欠だという認識はいつ頃確立したのだろうね。
二条帝の時は親政派が一大勢力になっていたのにね。

186 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 14:01:00.04 .net
>>182
あれは、院政がどうしても必要だったから、
まだ若い後鳥羽天皇が幼い土御門天皇にやむなく譲位して、
必要不可欠な院政という形態を無理矢理執ったわけではなく、
土御門天皇の外戚源通親が実権を握るべく、後鳥羽天皇を譲位させたんだよ。

源通親は後鳥羽天皇の乳母の再婚相手であり、幼少期から後鳥羽天皇を守り育てた恩義があり、
後鳥羽天皇も乳父の通親には逆らえず、後鳥羽院政とはいっても実態はあまりなかった。

しかし、通親が後鳥羽上皇妃で土御門天皇生母であった通親の養女源在子(妻の連れ子)と通じたことから
次第に後鳥羽上皇は通親と土御門天皇を疎んじ始め、距離ができる。
通親が死んだあとは、後鳥羽上皇が院として実権を握った。

187 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 16:33:53.15 .net
>>186
あの時点で後白河上皇は中継ぎで院政する資格はない
と見なされてたからね。
鳥羽院領は美福門院が握ってたから後白河上皇には経済的な力もない。

美福門院が娘婿である二条天皇に領地を譲位の後の二条天皇に譲ったとしたら
二条上皇(になった場合)鳥羽院政並みの強力な院政を行った可能性もある。

188 :187:2013/10/24(木) 16:36:32.92 .net
>>187>>185へのレス

189 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 16:46:22.92 .net
>>187
後鳥羽上皇の話してるのに、なんで後白河上皇の話にすりかえてんの?
酷い勘違いしてない?

190 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 16:49:34.01 .net
>>186
それはその時期に譲位が行われた理由にはなるけど
親政推進の理由にはならない。
院政を支えるもうひとつの柱院領の存在を忘れてはならない。
天皇のままでは荘園を保有することはできないが
上皇ならば荘園を保有できる。
後鳥羽天皇は退位後、時期を開けるが八条院領を獲得する。
また後白河院領も後鳥羽上皇の支配下に入る。
莫大な経済力を背景に強大な後鳥羽院政を開始する意図があったのだろう。

191 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 16:51:51.15 .net
>>189
すぐ上の訂正を見て下さい。

192 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 17:37:59.27 .net
>>190
>天皇のままでは荘園を保有することはできないが上皇ならば荘園を保有できる。

天皇も私的な荘園を持つことができるよ。
有名な長講堂領は、後白河法皇→宣陽門院を経て、鎌倉幕府の一時没収後、
現役の天皇である後深草天皇に譲られている。
八条院領も、八条院→昇子内親王を経て、現役の天皇である順徳天皇に譲られている。
(退位後の後鳥羽上皇が八条院領を所有したことはない)
さらに八条院領は時代を経て、現役の天皇である後醍醐天皇も所有している。

193 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 18:39:30.01 .net
>>192
八条院領
八条院→春華門院→後鳥羽院→後高倉院→安嘉門院、式乾門院→亀山院

長講堂領
後白河法皇→宣陽門院→後深草院

じゃなかったっけ。

194 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 18:53:18.05 .net
>>193
八条院領は、八条院の死後、八条院の養女であった春華門院(後鳥羽皇女・昇子内親王)が相続した。
春華門院も建暦元年(1211年)に没したため、春華門院の異母弟で養子であった(春華門院は順徳天皇の准母)
順徳天皇が相続した。
順徳天皇が八条院領を相続したのは建暦元年(1211年)で、在位時。

また、後深草天皇が長講堂領を所有したのは文永4年(1267年)。
こちらも後深草天皇が在位中のことで、現役の天皇時代。

195 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 18:54:15.17 .net
>>192
後鳥羽天皇の頃は「保元新制」の宣言がまだ有効だったんじゃないかな?
国土は全て天皇のものという。

196 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 19:11:43.09 .net
>>194
その順徳天皇が相続した件は何で確認できるかな?

197 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 19:20:16.96 .net
>>196
自分は「大日本史料」で見た。

君の言う、春華門院から八条院領を相続したのは後鳥羽上皇だというのは
一次史料は何に書いてあるの?

198 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 19:38:07.56 .net
>>197
回答ありがとう。
後鳥羽上皇が所有していなかったという点は納得した。
ついでに次の件についてあなたの意見も伺いたい。

承久の乱を起こすことのできた要因についつ後鳥羽院が皇族の領地に関して強い権限を持っていたからだ
と言われているが
実際の所はどうだったんだろうか?
もし、権限を持っていたとしたら、所有者をどう従えていたのだろうか?

199 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 21:09:43.18 .net
建前上は公地公民の律令国家なのに、
その頂点の上皇が私有地をたくさん持っているのでは国も傾きますね。

女院というと男性の院より一段落ちる気がするが、お金持ち度では遥かに上だよね。

200 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 21:25:52.28 .net
>>197
大日本史料じゃ範囲が広すぎるなあ。
該当部分実物見たいから、どのあたりを読めば原文読めるか可能なら教えて下さい。

201 :日本@名無史さん:2013/10/26(土) 07:03:00.38 .net
>>192
基本的に前近代の日本の法に「後法優越の原理」がないから、
後法と矛盾しない前法は無効にならないし、極端な場合前法による決定が「先例」として確立された場合は後法の適用がされなかった。

202 :日本@名無史さん:2013/10/26(土) 20:57:27.96 .net
ただね新しい例は理屈をこねれば作れるんだよね。
四后並立、一帝二后、
神器なし即位
など。

203 :日本@名無史さん:2013/11/02(土) 06:09:00.77 .net
>>194
朝日が出している週刊「新発見日本の歴史」の第19号にのってる記事では
八条院領は後鳥羽上皇も順徳上皇も相続にはなっていない。
順徳天皇の皇子が七条院領を継承はしていたけど。

専門の人が書いた記事だからなんかの裏付けがあると思うんだけど
誰かソースになる一次史料知っている人いない?

204 :日本@名無史さん:2013/11/07(木) 19:01:40.49 .net
白河院政期には荘園整理令が10年毎のペースで出ているけど、鳥羽院政期には全く出なくなった。
最後の荘園整理令が天永の荘園整理令で1111年(天永2)鳥羽天皇の時。
曲がりなりにも白河は、公地が減ると皇威も衰えることが分かっていたんだな。

205 :日本@名無史さん:2013/11/07(木) 21:11:48.24 .net
荘園整理令って荘園を減らすのが目的じゃなくって
きちんと登録されてるかどうかの確認作業だよ。

事務手続きがきちんとされた荘園は荘園としてその後きちんと認められている。

ちなみに鳥羽院政時代に飛躍的に荘園は増加したけど
その後の鎌倉時代に入っても公領と荘園の比率は
公領7対荘園3だったらしい。
(国によってもばらつきがある)

それに荘園と認定されても年貢の納付先が100パーセント荘園領主だったわけでもなく、
一部は荘園領主に行くけど残りは国衙というケースもあったみたいだよ。

206 :日本@名無史さん:2013/11/14(木) 06:17:44.60 .net
なるほど

207 :日本@名無史さん:2013/11/23(土) 02:07:06.59 .net
>>203
四辻宮家(順徳子孫)の七条院領継承は『東寺百合文書』

208 :日本@名無史さん:2014/02/23(日) 21:39:46.44 .net
賀正

209 :日本@名無史さん:2014/02/24(月) 13:14:20.38 .net
遅っ!

210 :日本@名無史さん:2014/03/03(月) 13:27:59.97 .net
NHKラジオ第二放送 文化講演会 平成25年12月8日放送
「権門とは何か〜院政はなぜ続いたか〜」

を聴いた人いる?
http://www.nhk.or.jp/r2bunka/bunka/1312.html

211 :日本@名無史さん:2014/03/04(火) 05:35:31.01 .net
>>210

いないと思う

212 :日本@名無史さん:2014/03/04(火) 15:17:02.50 .net
武家の象徴である源義家と並び白河院は
中世の始まりを告げる象徴的な人物
法皇が源氏を牽制するべく平正盛を優遇したことが
後の源平の争乱に尾を引いていくのが興味深い

213 :日本@名無史さん:2014/04/09(水) 19:47:33.11 .net
>>3

> 後鳥羽が決起しなくとも、院の力は殺がれて行ったのだろうか。
> 後醍醐が欲張らなければ、両統迭立は続いていたのか。


             ↑

           どう思う?

214 :日本@名無史さん:2014/07/27(日) 08:16:52.28 .net
懐かしい。証明のし様が無いが俺の建てたスレがまだ生きてる。

215 :日本@名無史さん:2014/09/19(金) 23:10:09.96 .net
持統天皇-文武天皇も譲位後も実権を握っているという意味では院政

216 :日本@名無史さん:2014/09/23(火) 02:22:46.71 .net
鎌倉幕府の執権と得宗の関係に似ているな

217 :日本@名無史さん:2014/09/25(木) 15:16:59.51 .net
そもそも、文武天皇の後見をするために、持統天皇が上皇が天皇と同じ権力を持つことにしたのが、ことの発端だっけ?

218 :日本@名無史さん:2014/09/26(金) 11:13:50.55 .net
>>216
太上天皇は天皇と同権であることが律令に規定されている
だから特定の法整備のなかった執権や、北条家嫡流を表す得宗とは全く違う

>>217
持統天皇は夫天武の側室たちが産んだあまたの皇子たちを退けて
若年15歳の自分の孫文武天皇を即位させて自分が政治を執った
持統は天皇在位中も自分で政治を執っていたため天皇が次の天皇を指名するための譲位だった
太上天皇が天皇と同権の共同統治者であることを定めた大宝律令は
持統太上天皇の死の2年前に発布されており持統太上天皇の考えである可能性は高い

219 :日本@名無史さん:2014/09/26(金) 15:27:06.03 .net
上皇がたくさんいた平安時代は、元首ばかりでうるさくってたまらんな。

220 :日本@名無史さん:2014/09/28(日) 10:40:40.83 .net
>>210
この録音をもらったので何度も聞き返している。
面白い見方。
岡野友彦著PHP新書「院政とは何だったか」も買ったがまだ全部読んでない。

221 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 01:46:46.78 .net
上皇天皇のトップを競う天下一武道界なものがあったのかね。

222 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 02:24:02.83 .net
上皇なら鎌倉末期も多かった

223 :◎は院政:2014/10/03(金) 15:05:29.01 ID:Zdg/nUrSK
【後三条】
【白河】
【堀河】 ◎白河
【鳥秩z ◎白河
【崇コ】 ◎白河→◎鳥
【近衞】 ◎鳥秩A崇コ
【後白河】 ◎鳥秩A崇コ
【二條】 ◎後白河
【六條】 ◎後白河、二條
【高倉】 ◎後白河
【安コ】 後白河、◎高倉
【後鳥秩z ◎後白河
【土御門】 ◎後鳥羽
【順徳】 ◎後鳥羽、土御門
【仲恭】 ◎後高倉、後鳥羽、順徳
【後堀河】 ◎後高倉、後鳥羽、順徳、仲恭
【四條】 後鳥羽、順徳、仲恭、◎後堀河

224 :◎は院政:2014/10/03(金) 15:06:07.43 ID:Zdg/nUrSK
【後嵯峨】
【後深草】 ◎後嵯峨
【亀山】 ◎後嵯峨、後深草
【後宇多】 後深草、◎亀山
【伏見】  ◎後深草、亀山、後宇多
【後伏見】 後深草、亀山、後宇多、◎伏見
【後二条】 後深草、亀山、◎後宇多、伏見、後伏見
【花園】 後宇多、◎伏見→◎後伏見
【後醍醐】 後宇多、後伏見、花園
【光厳】 後伏見、花園
【光明】 花園、◎光厳
【崇光】 花園、◎光厳、光明
【後光厳】 花園、光明、崇光
【後円融】 崇光、後光厳
【後小松】 崇光、◎後円融
【称光】 ◎後小松
【後花園】 ◎後小松
【後土御門】 ◎後花園
【後柏原】

225 :日本@名無史さん:2014/11/01(土) 20:13:46.93 .net
>>221

上皇だからといって「治天の君」であるとは限らない。

226 :日本@名無史さん:2014/11/01(土) 22:57:25.58 .net
「上皇はたくさんいるし、摂政はいるし、関白はいるし、どないせいっちゅうねん」

って気分だったのかね、当時の天皇。

227 :日本@名無史さん:2014/11/02(日) 16:06:49.94 .net
>>226
それじゃ摂政と関白が同時に両方いるみたいだぞ

228 :日本@名無史さん:2014/11/04(火) 12:36:49.82 ID:vEAx7KLjR
院政を執れるのは天皇家の家長のみ

現天皇の直系尊属であること(父・祖父・曽祖父など。兄や叔父伯父では無理)
直系尊属の中でももっとも尊属であること(父より祖父、祖父より曽祖父が優先して院政を執る)
が条件

229 :日本@名無史さん:2015/02/01(日) 20:17:00.78 .net
賀正

230 :日本@名無史さん:2015/02/17(火) 08:09:55.69 .net
不思議なことに上皇は複数存在しても、天皇を同時に並立させる思考には最後まで到達しなかった。
もし院政の創始者白河が鳥羽帝を退位させなかったら、院も同時期に一人限定になっていた可能性は高い。
そう考えると鳥羽帝が泰子入内のためにした裏工作が後の世までの禍根となったともいえる。

231 :日本@名無史さん:2015/02/17(火) 13:51:06.13 .net
>>230
上皇は複数いても院政を執れるのは一人
院政をとれない上皇などただの隠居の身で
東宮でもないのに出家もしていない親王みたいなもんだ

232 :日本@名無史さん:2015/02/17(火) 22:02:20.18 .net
後冷泉帝に男子が生まれずに摂関政治が滅亡の危機となった時に、女帝即位の話題が出なかったのも面白いことだ。
例えば頼通の養女ゲン子は後朱雀帝との間に2内親王を儲けているのに。

233 :日本@名無史さん:2015/02/18(水) 01:37:36.60 .net
女帝の次がないからね。元正・元明天皇は跡目がはっきりしてたから。

234 :日本@名無史さん:2015/02/18(水) 13:24:40.82 .net
>>232
後三条がいたからだろ
宇多天皇以来藤原氏を外戚としない天皇などと解説されるが
後三条の母は藤原道長の孫娘で藤原頼通の世話で入内するなど
もともとはバリバリの藤原系の生まれだった

後三条の中宮は上東門院が後見する後一条天皇皇女・馨子内親王で
ここに皇子が誕生していれば頼通の天下は続く可能性が高かった

235 :日本@名無史さん:2015/02/19(木) 21:57:54.72 .net
生存する上皇の最高記録は5人。
後深草上皇・亀山上皇・後宇多上皇・伏見上皇・後伏見上皇が併存していたことがある。
こういう時どうやって各人を区別したのだろうか。

本院 中院 新院では数が足りない。

236 :日本@名無史さん:2015/02/20(金) 15:36:07.61 .net
>>235
「増鏡」によれば後伏見が退位した直後
後伏見を新院、伏見を中院、後宇多を一院と呼んだらしい
後深草と亀山は前後の章段で法皇とだけ出て来る
2人の法皇を区別するために亀山を「万里小路の法皇(当時万里小路に住んでいた)」
と呼んだりしている

237 :日本@名無史さん:2015/02/22(日) 03:57:03.38 .net
>>234
「祖父が藤原氏」と「曾祖父が藤原氏」ではエライ違いがあると思うぞ。

238 :日本@名無史さん:2015/02/22(日) 09:57:58.63 .net
>>237
後三条を立太子させたのは道長の息子である能信
後三条は道長の息子たちの倫子系VS明子系の争いを利用してのし上がった帝王で
藤原氏の支援を受けないことには即位は不可能だった

女帝じゃなくても当時は藤原道長の娘寛子が小一条院との間に儲けた
敦元親王などがいてそちらなら道長の孫親王即位が可能だったからね

239 :日本@名無史さん:2015/02/22(日) 10:43:06.72 .net
敦元親王(あつもとしんのう、治安3年(1023年) - 長元5年7月14日(1032年8月22日))は平安時代中期の皇族。小一条院敦明親王の子。母は藤原道長の娘、寛子。

10歳で薨去しとる。これでは即位のしようが無い。

240 :日本@名無史さん:2015/02/22(日) 10:56:17.15 .net
今にして思えば後朱雀天皇が崩御した時点で、尊仁親王を寛子の養子にしておけば良かったんだな。
頼通は一貫して尊仁を余所者として冷遇して来たが身内として幼時から接遇しておけば、
万一即位した時の保険になったものを。道長だったらある時点で後宮政策を改めただろう。

241 :日本@名無史さん:2015/02/22(日) 12:57:33.30 .net
>>238
あの時点では、後三条以外に皆の合意を得られそうな皇子はいないだろ。
道長の血を受けていれば誰でもいいってもんじゃないし、頼通が望んでも
上東門院が認めなければごり押しは難しい。
元々禎子内親王との間柄は悪くなかったのに、より血縁の近い外戚にな
るための賭けをやって負けただけの話だね。

242 :日本@名無史さん:2015/02/22(日) 15:09:30.68 .net
>>241
頼通は過去の成功体験にしがみ付いた愚か者。
外孫の誕生が無かった時の代替案を用意出来なかったのが悪い。

でもまあ前漢の呂太后のようにどこからか赤子を調達して来なかったのは幸いだった。

243 :日本@名無史さん:2015/02/22(日) 18:59:14.98 .net
>>240
頼通が尊仁を余所者として冷遇していた事実はない
ただ摂関の地位を安泰にするために娘の入内は避けられず
養女のげん子を後朱雀天皇に入れ中宮に立てた
一帝二后は当時は珍しくもなかったんだが(一条・三条帝にも二后がいた)
皇后となった禎子内親王は頼通が自分を憚ることなく養女を入内させ
中宮として自分と対等な地位に置いたことに激怒
所生の尊仁と2内親王を連れて実家に帰ってしまい
これを許した夫の後朱雀にすら二度と会わなかった

>>242
道長もたまたま長女の彰子が立て続けに2親王を産んだから成功したけど
彰子が男子を産んでくれなければ自分を外戚としない
敦康親王や小一条院を即位させなければならず
万が一に備えて敦康親王を彰子の養子にしていたところで
摂関全盛期の頂点に立てなかっただろ

244 :日本@名無史さん:2015/02/22(日) 22:29:32.61 .net
道長の場合、一条、三条といった、外戚としてはやや遠い間柄
の天皇の代にも大きな権力を持っているんだよね。
単に外戚として成功したというより、両統迭立の状況をも利用
して他の公卿と隔絶した地位を築いたのが大きいんじゃないかな。

245 :日本@名無史さん:2015/02/22(日) 23:50:03.49 .net
>>243
歴代東宮が所持して来た桐壷剣を東宮尊仁には渡さなかった。

246 :日本@名無史さん:2015/02/23(月) 14:36:07.55 .net
>>244
藤原道長は一条、三条の叔父
叔父甥の関係が遠いなら
頼通と後一条、後朱雀、後冷泉も遠い関係ということになる

>>245
壺切懐剣は醍醐天皇から始まったもので
この時代には藤原系皇太子が伝授していた
三種の神器ほどの重みはないよ

247 :日本@名無史さん:2015/02/23(月) 17:26:34.00 .net
>>246
それはいじめる側の論理と同じ。やられた側の尊仁東宮は深く傷ついたのではないか?
それが即位後の荘園整理令に発露していると考えられる。
東宮は辞退させるか薨去しない限り次期天皇になる。こんな簡単なことさえ見えなくなっていた頼通の未熟さが目立つ。

最も弟の教通との相続争いが起こって、外戚の地位と氏の長者の地位が同化してしまったのも痛い。
すなわち外戚になれなければあっという間に摂関家内でも冷飯喰らい。

248 :日本@名無史さん:2015/02/23(月) 19:56:36.40 .net
頼通と教通の兄弟が入内合戦を展開すればするほど、
摂関家を母に持たない尊仁東宮は一つの思いを強くする。
「もし自分が即位したら好きなように政治が出来る。」

つまり頼通の失敗は自ら後世に対して、難度の高い勝利条件を確定してしまったこと。
尊仁が東宮位にいた25年という長い時間をかけて、徐々に尊仁を取り込んで行く手法を採った方が良かった。

249 :日本@名無史さん:2015/02/23(月) 20:20:43.10 .net
>>247>>248
最終的には頼通流の勝利だったとは思う
なぜなら内親王を母とする天皇は後三条以降また出てこなかったからだ

後三条の次代白河天皇はまた藤原氏を外戚とする帝王だった
道長系ではなく道長の叔父の系統である閑院流ではあったが
白河天皇が藤原頼通の子師実の養女である中宮賢子を寵愛しここに堀河天皇が誕生していたため
政治はまた道長系に戻ってしまうことを意味した(実際に堀河天皇の治世では摂関政治が復活している)
摂関政治を終わらせたのは後三条ではなく白河院政によるもの
しかし一方で師実の曾孫忠通は天皇との血縁関係に関わらない摂関世襲に成功し
摂関家を確立させている

250 :日本@名無史さん:2015/02/23(月) 22:36:08.28 .net
>>246
道長の場合、幼時の一条に対しては母后詮子が後ろ盾になっていたけど、
それ以降は必ずしもしっくりいっていたわけではないね。
三条との関係は言わずもがなだし。
いずれにせよ、外戚の権原を母系の家父長権に求める立場からすれば、
道長は外戚としてはやや遠いと言わざるをえないのではないかな。
で、頼通も同じく遠い関係でしょ?そこで挙げられている天皇の時期には、
母/祖母である姉の上東門院の意向が無視できなかったわけだし。

251 :日本@名無史さん:2015/02/23(月) 22:50:05.16 .net
>>249
院政はほとんど偶然の産物であると言ってもいい。
白河院には3つの追い風が吹いた。
1.皇太弟、実仁親王の夭逝
2.関白藤原師実の短命
3.白河存命中の堀河帝の崩御

自身の存命中に東宮と関白と帝が亡くなった院というのも珍しい。
道長の子息である頼通、教通、上東門院の長命遺伝子が
師実、師通に受け継がれていたら歴史は変わっていただろう。

院政確立の最大の功労者は関白藤原師通の早過ぎる死(37歳)だろう。
(師実-師通-忠実)
師通薨去後に弱冠20歳の忠実が関白位を継承し、
堀河帝は政治の相談相手として引退していた白河院を頼らざるを得なくなった。

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