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院政について語ろう

1 :日本@名無史さん:2011/09/29(木) 23:39:20.59 .net
摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。

48 :日本@名無史さん:2011/12/18(日) 02:11:17.14 .net
>>47
というか北朝内で団結しないと幕府にまた南軍に走られる可能性があるからね。
皇位については南方の一存にゆだねるなんて言われたらどうしようも無い。

49 :日本@名無史さん:2011/12/19(月) 12:05:49.15 .net
>>46
光厳上皇が後光厳天皇を正統と認めたことからの結果だよね。
天皇家の家父長が皇統を決めるので、兄系が正統とかいうことはないよ。

50 :日本@名無史さん:2011/12/20(火) 00:10:49.55 .net
>48、49
光厳院は、後光厳を正統と認めていないよ。
長講堂領などの持明院統伝来の所領も、秘曲も文書も、全て
崇光院に渡されている。
このような「一代限り」という処置が、余計に父子の間柄を冷たく
したのではないか、というような話もあるね。

51 :日本@名無史さん:2011/12/23(金) 02:31:52.49 .net
尊氏は北朝を担いだが
個人のシンバシーでは後醍醐系だったんだろうな
義詮は目先の物しか見えない愚か者で状況をさらに混乱させた
義満がよく事態を打開した

52 :日本@名無史さん:2011/12/23(金) 08:25:38.29 .net
>>51
尊氏は関東出陣の折後醍醐の勅勘に触れて、
朝敵になりたくないから出家すると騒動を起こしたことがある。
結局直義らのとりなしで未遂に終わったが。また新政破れて
後醍醐が京を脱出した際も、故意に警備を緩くしていた可能性もある。

尊氏が後醍醐を正統視していたことは、後醍醐没後に天竜寺を創建したことが雄弁に物語る。
おそらく持明院天皇を担いだのは直義あたりの入れ知恵で、尊氏は最後まで乗り気でなかったと思われる。
だから正平一統で「皇位のことは南方に委ねる」とあっさり明言出来てしまう。

結局尊氏が優柔不断だったことが、南北朝の争乱が長引いた最大の要因だし、
北朝天子の権威低下を招くことになった。幽閉して後醍醐を斬るべきだった。

53 :日本@名無史さん:2011/12/23(金) 11:26:53.56 .net
>>50
都へ戻ってきた崇光上皇は、都で即位していた弟後光厳天皇に対し
退位とわが子栄仁親王即位を求めたが、光厳上皇は後光厳天皇の続投を認めた。
これは後光厳天皇を正統と認めたからでは?
後光厳天皇がわが子に違いはない崇光上皇の生活のために所領を与えたこととは別。
その与えた所領も崇光上皇没後は「皇室に戻すように」と条件を付け、
実際この通りになっていることからもわかる。

54 :日本@名無史さん:2011/12/26(月) 00:56:26.07 .net
>>53
それもこれも結局は幕府の意向だろ
正平一統時の不手際が原因
いまさら混乱を招くような事を認めるはずもない

55 :日本@名無史さん:2011/12/26(月) 10:28:47.42 .net
>>54
50が主張するような光厳が後光厳を正統と認めなかった根拠があるとでも?
天皇家は兄弟相続はつきもので弟が正統とされたことはいくらでもある。
後光厳は崇光の系統であっても可としたことは事実なわけで。
崇光の彼岸通り崇光の子栄仁親王を後光厳の立太子とすることは
光厳の認可すらあれば十分可能だったはずだが(幕府が拒絶したわけではない)
光厳はそれすら必要なしと判断、栄仁親王に一代に限り与えた所領は
「天皇家に戻すよう」と遺言した。

56 :日本@名無史さん:2011/12/26(月) 22:09:02.88 .net
>>55
> 崇光の彼岸通り崇光の子栄仁親王を後光厳の立太子とすることは
> 光厳の認可すらあれば十分可能だったはずだが(幕府が拒絶したわけではない)
幕府の意向は、「聖断たるべきよし」、すなわち「後光厳の意思にまかせる」だよ。
当時の状況で、幕府の意思を押し切って
> 光厳の認可すらあれば十分可能だったはず
なんて話は到底不可能。後、
>栄仁親王に一代に限り与えた所領は
とはどこのことですか?崇光院の管理していた長講堂領等に関する光厳院の置文は、
・親王(栄仁)践祚あらば、ただちにご相続あるべし
・もししからずば、禁裏(後光厳)御管領あるべし
・ただし、末代両方御治天あらば、正統につきて伏見殿御しそん御管領あるべき由
(横井清「室町時代の一皇族の生涯」)
であり、明確に崇光院の系統を「正統」としていますよ。

57 :日本@名無史さん:2011/12/27(火) 14:45:44.97 .net
>>56
>幕府の意思
幕府が栄仁親王立太子を拒否したという史料を提示してください。
後光厳天皇即位こそ天皇家家父長不在の非常事態であったために
義詮が広義門院に願って実現させたことですが、
それ以外は家父長の判断に任されています。

「正統につきて」正統に返せ、ということですが?
栄仁親王没後は、この遺命に従って皇室に返されています。

58 :日本@名無史さん:2011/12/27(火) 22:15:08.08 .net
>>57
正統につきて「伏見殿御子孫御管領」というのが光厳院の遺命ですよ。
後光厳の系統ではありません。
そもそも、長講堂領等が崇光院の系統から取り上げられたのは、あなたがいう「栄仁
親王没後」ではなく、「崇光院崩御後」であり、栄仁親王は取り上げられた当事者です。
で、史料は、>>56の文献に引かれている椿葉記や、諸書に引かれている光厳院の
置文そのものですが、あなたが主張する
>栄仁親王没後は、この遺命に従って皇室に返されています。
という話の根拠は何ですか?

59 :日本@名無史さん:2011/12/27(火) 22:30:26.24 .net
そもそも、光厳院の遺命自体、
・栄仁親王が即位したならば、崇光院管理下にある持明院統伝来の
 所領は栄仁親王が直ちに相続せよ
・栄仁親王が即位しなかったなら、後光厳が管理せよ
という内容であり、明らかに光厳院に決定権がなかったという内容です。
もし家父長である光厳院に決定権があるなら、こんな場合分けなど
する必要はありません。

60 :日本@名無史さん:2011/12/28(水) 13:27:54.76 .net
>>59
そもそも光厳は南朝に連行された際に出家し、帰京後はすぐに一介の僧侶として
修行の旅に出ており、政は後光厳天皇に任せていた。
光厳法皇が後継に口出ししなかった=幕府の裁定に任せたのではなく、
後光厳天皇に任せたということ。
現実に、後光厳天皇は栄仁親王を退けてわが子後円融天皇を即位させたが、
幕府にお伺いを立てた形跡はない
また、光厳法皇の原文に栄仁親王を指す文言や即位を期待する言葉はなく、
栄仁親王の即位があったならば、と意訳するのは間違い。
光厳が崇光の伝領に条件を付けたこと自体、南北朝動乱を避けるために
崇光以降は出家・断絶させる意味があったとしか取れない。

61 :日本@名無史さん:2011/12/28(水) 23:03:56.06 .net
原文は、
・親王践祚あらば、ただちにご相続あるべし
・もししからずば、禁裏御管領あるべし
・ただし、末代両方御治天あらば、正統につきて伏見殿御しそん御管領あるべき由
だが、この文の「親王」「禁裏」は誰を指していると解釈しているのかな?
親王が栄仁親王を指しているという解釈は、先に上げた横井清氏や飯倉晴武氏を
はじめ、普通に言われている話だが、「間違い」だと解釈した例は>>60の私見以外に
ありますか?で、>>60は原文にある「親王」を誰だと解釈しているんですか?
後、崇光院がわが子栄仁親王を即位させようと運動したのを、幕府が退けて「後光厳
の意に任せる」と裁定したとか、後光厳流を立てるというのは武家の約束であるという
記事は満済准后日記や椿葉記などにある話ですが。
光厳・後光厳の父子の仲が悪かったというのも園大暦の記事にあるとのこと。
あなたの主張の根拠となる史料はなにですか?
それから、
>栄仁親王没後は、この遺命に従って皇室に返されています。
という与太話にある「所領」とやらが何を指しているのかもお願いします。

62 :日本@名無史さん:2012/01/26(木) 22:54:57.13 .net
鎌倉時代の例をみて、天皇家の相続に武家が口を出すと泥沼に嵌まるのが分かったのだろう。
南軍が折角拉致した北朝皇族を解放したことも、幕府にとって誤算だと言える。

63 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 09:32:17.52 .net
院政期の帝は何をしていたのだろう?すること無くて歌と蹴鞠?

64 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 12:07:57.00 .net
>>63
基本的に政務は天皇と関白がする。
重要案件については、関白が治天にご意見を伺いに行って、天皇と調整していた。

65 :日本@名無史さん:2012/02/21(火) 12:42:47.59 .net
前期院政時代の院の財政基盤だけど、どう頑張っても摂関家には適わないのかな?

66 :日本@名無史さん:2012/02/24(金) 12:22:21.09 .net
院の存在が不可欠になったのはいつからだろう?
平家による後白河院政停止が続いていれば、
形式上は天皇親政に戻っただろう。
それにしても院というものはあまり価値が無いんだな。
後白河は平治の乱の時、顧みられず捨て置かれた。

67 :日本@名無史さん:2012/02/24(金) 12:34:59.07 .net
院はいようがいまいが構わない。
必要なのは天皇家の家長である治天。

68 :日本@名無史さん:2012/02/24(金) 18:40:26.03 .net
院庁の建物の創造復元図を見たことある人いるかな?

69 :日本@名無史さん:2012/02/24(金) 21:06:26.33 .net
鳥羽殿は発掘が進んでいて復元図なんか見た記憶がある

70 :日本@名無史さん:2012/02/26(日) 12:43:07.70 .net
白河北殿の発掘調査も京大がやってるはず。
保元の乱で燃えちゃったからなぁ。勿体ないね。

71 :日本@名無史さん:2012/02/27(月) 20:34:56.95 .net
NHKで今やってる平清盛で初めて院政とか摂政とかに興味を持った俺に
まず最初に何から勉強すればよいのか教えろください

72 :日本@名無史さん:2012/02/27(月) 20:35:31.67 .net
>>66
発生は後三条が白河に譲位した時でしょう。
院政は、愛した女の子供を東宮にしたい願望から発した父の呪縛から離れたい要素が決定的な事柄だと思う。

73 :日本@名無史さん:2012/02/27(月) 23:10:16.24 .net
>>71
中公新書に「院政」っていう本が出ていたはず。
面白いし勉強になるから買って読め。

74 :日本@名無史さん:2012/02/28(火) 09:00:42.34 .net
>>71
院政の特徴は、「俺は今日から院政をする」と明確な意思をもって開始されたのではないこと。
何となく複数の要素が噛み合って、白河上皇に有利な流れが出来て、それに上手に乗っかったというのが真相。
例えば摂関家の当主師通が30代で突然死し、後継の忠実が22歳でその地位を継いだこと。
例えば>>72で白河の東宮にされた「愛した女の子供」が15歳で夭逝し、東宮位が空いたこと。
例えば白河の溺愛していた妃、賢子が28歳で亡くなったこと。

身辺の人間が次々に亡くなって行ったことで宮廷内の力関係が急変し、そこに上手に白河が付け込んだ。
あれよあれよと言う間に絶対権力が「いつの間にか」出来上っていた。

75 :日本@名無史さん:2012/02/28(火) 09:40:24.45 .net
院政の本質は「上皇個人に付与された権力」であり、上皇の力量如何で権力に強弱が出来ること。
上皇は天皇のように太政官という制度に組み込まれた存在ではないので、白河以前の上皇は
全く無力な存在でしかなかった。花山上皇や円融上皇を見れば分かる。

下手をすると白河上皇も、花山上皇のようになる可能性もあった。そうならなかったのは、
後三条天皇の荘園整理令が効いていると思われる。これで没収した荘園は、何故か天皇の
私有財産にされたから。本来の目的である「国衙領の回復」の観点からすると、天皇の
私有財産にするのは筋違いなのに。

白河にはこの後三条の獲得した荘園という財政的裏付けがあったのが大きい。
自身の治世にも荘園整理を実行しているし。それに対して鳥羽院の時代になると
荘園整理が行われなくなっている。つまり上皇の個人資産の頭打ちであり、
ここで院政は弱体化の兆しを見せる。

76 :日本@名無史さん:2012/02/28(火) 10:00:00.02 .net
>>74
一般的に堀河天皇のときに白河上皇によるり院政が始まったとされているけれども
堀河天皇は摂関家を外戚とする天皇で(母賢子は藤原師実の養女だった)
関白藤原師通は退位した天皇(白河院)の政治介入を激しく批判、
堀河天皇本人も師通に同調したために白河院政は軌道に乗らなかった
実質的に白河院政が行われたのは続く鳥羽天皇即位時から
鳥羽天皇の外戚は閑院流で摂関を望んだにもかかわらず受け入れられず
摂関家は鳥羽天皇と血縁関係になかったために政治介入が妨げられた
幼帝の血縁者として政権を握ることになったのが白河法皇で
このときに実質的院政が始まっている

77 :日本@名無史さん:2012/02/28(火) 10:43:14.90 .net
>>76
院政は起点を明確にするのが非常に難しい。歴史は常に後から振り返って気付くものだけど。
白河天皇の東宮である実仁親王が15歳で夭逝した時、同じく「愛した女の子供」である
輔仁親王が生きていた。この親王は後三条帝の母陽明門院の庇護を受けていたので、
白河も無視できない存在だった。

そこで白河は摂関家と結んで賢子との子である善仁親王を太子に立て、
自分は同日退位してしまう。堀河天皇の誕生である。これによって
輔仁は「天皇の叔父」世代となり、皇位継承が極めて難しい立場になった。

摂関家は長い間外戚の地位を回復したがっていた。白河は自分の血を皇位に
送り込みたがっていた。ここに天皇家と摂関家の奇妙な利害の一致が成立し、
院政への途が開けた。院政とは偶発的に始まったもので、最初から摂関家の
圧倒を予定していたのではないことが分かる。

だから院政は一筋縄では理解できないし、天皇や摂関という「既存の公的な権力体制」
だけを見ていても意味不明なのだ。何故なら院政は「上皇の私的意思」に発端があるのだから。
「愛した女の子供」を帝位に即けたいという私的意思に。

78 :日本@名無史さん:2012/02/28(火) 11:37:03.01 .net
円融院が無力だったとあるが、一条即位後は人事にも介入している。
ただ、当時は迭立状態だったから、冷泉系に絞る動きを兼家がみせ
れば、強く出にくい状況だったろうけど。

79 :日本@名無史さん:2012/03/01(木) 19:26:41.38 .net
保元の乱を境にして、形式を重んじたややこしい院政から、後鳥羽上皇のなんでもありの時代になったことが、既存の体系を重んじる摂関家に致命的であった。

80 :日本@名無史さん:2012/03/02(金) 21:38:40.08 .net
>>79
摂関家が5分裂したのも実質藤原信西に解体されたようなもの。
藤氏長者の決定権が院に変わったのが大きい。これで院に
逆らえなくなった。摂関家の荘園も代替わり時に院に召し上げになり
そののち氏の長者に交付するスタイルになったし。

81 :日本@名無史さん:2012/03/07(水) 11:12:34.43 .net
白河院が鳥羽帝を退位させたときには、院はもう70歳になっていた。
それに引き換え鳥羽帝は20歳。どう考えても自分より長生きする。
院の没後に新帝(崇徳)がどういう扱いを受けるか、院は考えていなかったのだろうか?
それとも白河院の死が突然過ぎて、対策を講じる暇が無かったのだろうか。
院の荘園を帝に引き渡してしまえば、新院(鳥羽)は無力に出来た。
しかしそれをやると摂関家が復活してしまう。崇徳叔父子説を考えたとき、
白河の崇徳に対する無策ぶりが目に付く。

82 :日本@名無史さん:2012/03/09(金) 08:46:22.08 .net
>>81

> それとも白河院の死が突然過ぎて、対策を講じる暇が無かったのだろうか。


これのような気がするな。

関係ないが、歴代天皇で急死・突然死した人はあまりいないんだよね。


しばらく病臥したあとで亡くなっている。

83 :日本@名無史さん:2012/03/30(金) 10:38:51.56 .net
太上天皇の制度自体は律令にも規定されている。
律令で幼帝を禁じておけば、上皇は存在しても
院政は発生しなかっただろう。

84 :日本@名無史さん:2012/04/03(火) 11:44:48.62 .net
>>83
最初の幼帝(元服前に即位した天皇)は9歳で即位した清和天皇だが、
これは父文徳天皇が急死したために皇太子が即位したという実態があった。
幼帝が駄目で叔父や伯父、異母兄が一時的に相続するとなれば
余計に皇位継承が混乱しただろう。
(奈良時代には皇位継承の混乱を避けるため、先帝の皇后が即位したりしていた)
当初は幼帝が即位してもその外祖父が摂政となって政治を代行していたので院政は起こらなかった。
むしろ、院政をおこらなくするには上皇の制限(簡単に退位できないようにする)
ことが肝要だったろう。

85 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 09:38:28.16 .net
院政が発生しなければ
朝廷が権力を失う時期は先送りできたのだろうか?

どうだろうね?

86 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 11:49:00.15 .net
>>84
簡単に退位出来ないようになっていたら、天皇を立てるときに揉めるだろうね。
もしかしたら天皇暗殺が恒常的に行われたかも知れない。
>>85
白河院が武士を院の私的傭兵の立場に押し込めず、政治に参加させておけば
武士の時代にはならなかっただろうね。武士は令外官状態で宙ぶらりんな
状態だったから。

87 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 12:13:23.12 .net
>>84
>天皇暗殺が恒常的に行われたかも知れない

古代には生前譲位がなく暗殺された天皇もいた。
しかし、近世にも暗殺の噂がたった天皇はいる。
ちなみに最初に生前譲位を行ったのは皇極天皇。
少なくとも天皇が大人になれば即退位させ幼帝をたてるという
摂関政治・院政は起こらなかったはず。

そもそも怨霊をおそれるあまり罪人に対する死刑すら中止されてしまっていた平安時代においては
天皇を暗殺するなんて恐ろしくてできなかっただろう。
天皇が政争に敗れてもせいぜい流罪。それでも現地で死んでしまった場合
都では怨霊が恐ろしくてあちこちに神社を建てまくった。

88 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 13:57:51.56 .net
>>87
天皇が退位したくなければ、男の子が生まれない方がいい。
故意に中宮と交わらず、下女とだけ交わる天皇が居たかも知れない。
藤原氏はそのあたりもよく考えて、天皇の系統を二本持ってたんだな。
冷泉系と円融系で皇位をたらい回しにしておけば、一系統が不妊になっても
もう一系統で回せる。その後の歴史を見ると、三条天皇の系統を潰したのが失敗だった。
おそらく三条天皇の系統を切り捨てて、新たに後一条と後朱雀の二系統を使って
冷泉系・円融系と同じことをしようとしたのだろうけど。

ところでどうして一条天皇の在位が25年にも及び、三条天皇の即位が遅くなったのだろうね。

89 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 14:42:48.02 .net
>>85

朝廷がズルズル1800年まで政権担当。

ペリーが大宰府にやってきて、植民地化されたかもしれない。

あるいはモンゴルの属国になったかもしれない。

90 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 15:31:32.09 .net
>>88
天皇の兄弟相続の例は古代からあるよ。
藤原氏が摂関期に始めたことじゃない。

91 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 19:59:08.39 .net
白河上皇は院政を始めたのは、元々自分の子孫に皇位を継承
させたいとの理由だから(先帝後三条天皇は弟に皇位を継承する
ように遺命している)、後三条天皇がいらん遺言を残していなければ
白河上皇は堀河天皇に譲位せず、そのまま天皇親政を貫いて
いただろう。
数百年後の徳川家康が自分の子孫に将軍職を継承させる目的で
3年で将軍職を辞職して、秀忠に譲ったのと同じ。


92 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 20:32:38.60 .net
>>91
白河上皇は堀河天皇治世時にはほとんど院政を執ってないよ。
堀河天皇は摂関家を外戚とする天皇で、執政者は関白藤原師通。
師通は退位した天皇の政治関与を厳しく批判、堀河天皇もこれに同調し、
父白河上皇の政治関与を厳しく制限した。
白河院政が本格化したのは摂関家を外戚としない孫鳥羽天皇のときから。

93 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 20:37:21.72 .net
>>88
>一条天皇の在位が25年にも及び、三条天皇の即位が遅くなった

ただ単に、藤原道長が娘彰子の腹に皇子が生まれるのを待ってたからでしょ。
1008年にようやく敦成親王(後の後一条天皇)が、1009年にも敦良親王(後の後朱雀天皇)が生まれ、
道長があれこれ根回ししているうちに1011年、一条天皇が没したというだけ。

94 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 22:33:31.89 .net
>>93
一条帝が32歳で死ななければ、三条帝はまだまだ東宮のままだったわけか。
やっぱり三条に嫁した道長の娘が内親王を産んだのが不味かったか。
禎子内親王が男だったら、一条帝の退位もあり得ただろう。

95 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 22:36:40.35 .net
>>92
白河天皇はまず、自分の子孫に皇位を継承させると言うのが
第1の目的であり、院政そのものを狙ったわけではないだろう。
自分の子孫が皇位を継承させることが確定していたのなら、
わざわざ幼少の堀河に譲位しなかっただろう→鳥羽の即位も
もっと遅い→院政はなかっただろうと言う話だよ。
結果として藤原氏を外戚としない鳥羽が幼少で即位しなければ
ならない事態に陥り、自ら政を見ることになったと言う話だよ。
白河天皇が死ぬまでとは言わないが50〜60歳ぐらいまで
天皇を続けていたのなら、原則として幼少の天皇が即位して
治天の君と言うものなんか誕生しなかったと思う。
別に君が早く死んだわけではなく、他の成人の皇位継承者が
いないわけでもないのに、幼少の君主が立て続けにいた日本は
世界的に見ても特殊な例だろうね。

96 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 23:02:39.01 .net
>>95
自分の子供が天皇にならないと何が困るんだろうね。
後醍醐天皇と白河の必死さは理解に苦しむ。

97 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 23:17:48.32 .net
>>96
別に天皇に限らず、自分の子供に後を継がせたいを言うのは
普通だと思うけどな。
世襲制の皇位はともかく、現代での政治家や大王製紙みたいな
オーナー一族の会社とかある。
おあお小泉でさえ息子に選挙地盤を譲ったし。
天皇も天智天皇が弘文天皇に、持統天皇は草壁皇子に、崇徳天皇
は重仁親王に、後深草天皇も亀山天皇も自分の子孫が皇位を継承
するように拘ったじゃない?


98 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 23:19:05.31 .net
訂正
あの小泉でさえ・・ね。

99 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 23:48:19.59 .net
あの小泉でさえも何も、あいつこそ典型的な世襲政治屋一族だろうに。

100 :日本@名無史さん:2012/04/04(水) 23:57:19.85 .net
自民党をぶっ壊す、既得権益の打破、議員定年制を導入し
中曽根と宮沢を引退とか言っていたくせに、自分だけは
聖域なのか?だからね。
時たま、「私より公」の君主や指導者が出るけど大半は
みんな、白河や後醍醐や小泉ってことなんだよ。

101 :日本@名無史さん:2012/04/05(木) 00:32:18.20 .net
>>97
直系尊属でないと政治が執れないからでしょ
白河天皇の弟が即位したのでは政治が執れない
我が子に即位してほしいというだけならば白河上皇は何も政治を執る必要はない
愛する我が子堀河天皇にすべての権限を委譲して好きにせよというだけ
それでも政治を執ろうとして我が子堀河天皇とかなりの大喧嘩して不和になっている


102 :日本@名無史さん:2012/04/05(木) 00:37:36.21 .net
>>97
崇徳や後深草、亀山も直系尊属即位で院政を目指しただけだよ
例えば崇徳は「養子」にすることを条件に弟近衛天皇の即位を認めた
崇徳が反乱を起こしたのは近衛天皇が実は養子になっておらず
崇徳が院政を執ることができなかったから
逆に近衛が崇徳の容姿で崇徳院政が実現していれば問題なかったんだよ
例え実子じゃなくてもね
明治以前にはそれほど実子相続にこだわっていない

103 :日本@名無史さん:2012/04/05(木) 06:07:20.72 .net
>>102
崇徳以降の天皇が、次期天皇の直系尊属になりたがったのは分かる。
何しろ天皇であってもちっとも政治が出来ないから。これこそが院政である。
でもこのルールを作ったのは僅か3代前の白河で、白河の時代までは天皇が
その気になれば政治が出来た。後三条帝の荘園整理のように。

白河は譲位などせずに、終生天皇でいれば好き勝手出来たことは間違いない。
そう考えると、子供に後を継がせたいためだけに譲位するのは危険が大きい。
即位した天皇が例え実子であっても、自分の言うことを聞かなければ単なる冷や飯食いになるからだ。

104 :日本@名無史さん:2012/04/05(木) 21:17:20.78 .net
しかし1150年代には天皇は幼児だという認識が出来上がったのだから、白河・鳥羽院政の影響は大きい。
白河院亡きあと、鳥羽院が復位していれば院政は確立しなかっただろうし、後白河院政が清盛に停止されたままだったら
院政はそこで終わっていただろう。院政は白河の個人商店的性格だった。

105 :日本@名無史さん:2012/04/05(木) 22:42:03.87 .net
>>103
白河天皇の場合、まだ先帝の母が生きていて弟に譲位するように圧力
かけていたから、早く堀河に譲位する必要があった。
堀河天皇の立太子の同日に践祚は異例で、周りが何もできないままに
突然、白河天皇が譲位した可能性が高い。
普通に白河天皇の子孫の皇位継承が保障されていたら、白河天皇の譲位は
なく、院政その物はなかっただろうな。

106 :日本@名無史さん:2012/04/05(木) 22:49:51.90 .net
>>102
よく言われるけど子が天皇じゃなくと院政ができなかったと
言うのは本当だろうか?
単に、鳥羽がまだ生きていたから崇徳が院政ができなかったと
言うことではないか?
たかだか、数十年前に白河がやり始めたことなんだから、慣例化は
まだしていないだろうし。


107 :日本@名無史さん:2012/04/05(木) 23:02:35.26 .net
>>106
院政は家父長権で天皇を従わせる制度だし。

108 :日本@名無史さん:2012/04/05(木) 23:08:13.74 .net
確かに権威の源泉は、とーちゃんだからだよな

109 :日本@名無史さん:2012/04/05(木) 23:10:02.12 .net
>>105
そこが変じゃないか?面倒だから名前で書くが、後三条が白河に譲位するときに付けた条件が、
異母弟実仁を東宮にすること。この時実仁2歳。その後実仁が15歳であっけなく薨去。その同母弟の輔仁は12歳くらい。
後三条の母、陽明門院はもう70歳になっていたが、彼女は輔仁を太子に立てれば文句なかったのでは?
何故なら実仁が皇太子の地位のまま死んだから。いきなり年少の弟宮の即位を望むだろうか。

白河は輔仁を太子に立て、祖母陽明門院の死を在位のまま待つ手もあったはず。
天皇の地位を自ら降りることは、非常に大きな賭けだったと後世の我々は思うが、
白河自身は院政など意図していなかったと思う。院政が確立したのは、やはり師通の
夭死に依るところが大きい。院政とは時間をかけて段々と出来上がった政治形態である。

110 :日本@名無史さん:2012/04/05(木) 23:19:12.29 .net
>>109
一度立てた東宮を下すのは、たやすいことではないよ。
小一条院の場合はもともと本人が東宮・天皇という志向がなかったから
そこそこすんなりと実現しているが、それ以外の場合にはほとんどが
政変を伴っているわけだし。

111 :日本@名無史さん:2012/04/05(木) 23:45:00.35 .net
>>107
ちょっと違うと思う。
白河、鳥羽の時代はそうかもしれないが鎌倉以降は、制度化
された感じ。(後堀河天皇を鎌倉幕府が擁立した時、即位も
していない親父をむりやり上皇にして院政をとらしているし)
>>109
110が言っている通り、いっかい皇太子を立てると、よっぽどの
ことがない限り、廃太子にできないよ。
白河が院政を意図していないのは、その通りだと思う。

112 :日本@名無史さん:2012/04/05(木) 23:49:23.46 .net
それと、白河が堀河が譲位したことは、自分の子孫が皇位を継承
すると宣言したのと同じだよ。
豊臣秀吉が秀次に関白を譲り、関白職の豊臣家世襲化と徳川家康の
将軍職を秀忠に譲って、徳川家が将軍職を世襲すると公にしたのと
同じ意味合いを持つ。

113 :日本@名無史さん:2012/04/06(金) 00:49:46.89 .net
>>112
ということは、後三条帝の遺志が宮廷内に広く知られていたってことだよね。
初期の院政の法的根拠が家父長権だとすると、死んだ父帝の意向に従うことも求められる。
堀河と鳥羽帝は周囲から軽んじられていたかもね。
鳥羽が堀河の唯一の皇子だったせいもあるけど、この頃没した輔仁の子、有仁を白河が抱えていたのは、
世間の批判をかわす目的だったのだろう。こういう小細工を見ても、白河の政治手腕はかなりレベルが高いと言える。
若年の摂関家当主、師実では全く掣肘出来なかっただろう。しかし白河と後白河は
人の生き死にについては本当に運がいい。

114 :日本@名無史さん:2012/04/06(金) 00:56:00.50 .net
>>113
師実じゃなくて忠実だった。訂正します。

115 :日本@名無史さん:2012/04/06(金) 07:30:51.25 .net
堀川は希代の賢帝として当時からかなり評価が高かったから、軽んじられたということはないだろ。

116 :日本@名無史さん:2012/04/06(金) 09:36:18.45 .net
>>115
笛の練習する帝が賢帝というのもどんなものだろう。
目立った事績が無いので善意に解釈されているのでは?

117 :日本@名無史さん:2012/04/06(金) 15:23:41.31 .net
>>113
後三条の意思、というか、天皇家では家長に皇位継承の決定権があって、
実は家父長だけではなく家母長というか、女性にも権限があったということ。
特に、摂関全盛期には女院政と呼ばれるような女院に強い権限があったことがわかっている。
後三条死後は最高齢の天皇直系尊属であった陽明門院(三条皇女・後三条母)に
強い決定権があった。
白河天皇は陽明門院が養女にして可愛がっていた妹の篤子内親王を
堀河天皇の中宮に立てることを陽明門院に約束して懐柔し、
どうにか陽明門院に堀河天皇即位を納得させている。
陽明門院懐柔に失敗していれば即位は難しかったということ。

118 :日本@名無史さん:2012/04/06(金) 15:35:57.72 .net
>>117
そうすると、広義門院の院政も、その延長上の事態ともいえるのかな。

119 :日本@名無史さん:2012/04/06(金) 19:23:40.43 .net
>>113
堀河天皇は摂関家を外戚とし(母が関白藤原師実の養女)、
中宮篤子内親王は陽明門院の養女であり、治世は非常に安定していた。
(父親の白河上皇とこそどちらが治天の君となるかで喧嘩してるが)
逆に、輔仁親王のほうこそ有力な外戚もなく地位が不安定だった。
むしろ、帝位をあきらめ隠居したことで子息の有仁は白河法皇に養子として取り立てられ、
むしろ好運だったと思われる。

120 :日本@名無史さん:2012/04/06(金) 22:47:45.30 .net
善仁親王を太子に立てて即日譲位という離れ業を白河上皇は行っているけど、これは一種の宮廷クーデターともいえる事態。
堀河(善仁)の外戚師実の同意があったことは予想できるが、これに陽明門院も一枚噛んでいたのか。

121 :日本@名無史さん:2012/04/07(土) 18:08:17.67 .net
>>117
実仁薨去から善仁(堀河)立太子までの間、ほぼ1年間東宮不在の状態が続いている。
この間白河が必死に陽明門院を説得していたのだろうね。
成年天皇の下での東宮不在は大変に異常なことで、後冷泉帝即位の時でさえ藤原氏は渋々尊仁を東宮に立てた。

122 :日本@名無史さん:2012/04/18(水) 13:15:20.82 .net
堀河天皇か藤原師通のどちらかが50歳まで生きていたら、
院・摂関・帝が協調する三権分立的な緩やかな政治体系になっていただろう。
何故なら白河はとっくに成年に達した堀河を退位させるそぶりが無かったから。

123 :日本@名無史さん:2012/04/18(水) 19:37:53.25 .net
>>122
堀河天皇自身、外戚である摂関家の後ろ盾があったため、白河法皇の好きにできなかったというのも大きい。
院政は堀河天皇即位と共に軌道に乗ったのではなく、、むしろ堀河天皇の御代は摂関政治が復活していた。
堀河天皇はなかなか子に恵まれず、死んだとき第一皇子の鳥羽天皇はまだ5歳だったという現実はある。
しかも鳥羽天皇の母親は摂関家出身ではなかったため、摂関家は難色を示していた。
白河天皇が死んだ母親の代わりに生後すぐ手許に引き取り育てた鳥羽天皇が即位した時初めて、
白河院政が軌道に乗る。



124 :日本@名無史さん:2012/04/19(木) 09:05:07.58 .net
>>123
>摂関家は難色を示していた。

さりとてほかの候補者がいたかというと、これが全然ダメ。
35歳の輔仁親王も外戚が死んでいたし・・・。
堀河の若死にこそ、終わりの始まりだったということみたい。

125 :日本@名無史さん:2012/04/20(金) 07:55:17.59 .net
>>96

> 自分の子供が天皇にならないと何が困るんだろうね。


まあそれはあるなあ。
本当の古代(雄略天皇の頃とか)なら皇族でも非主流派は粛清されるおそれがあったが
白河さんの頃はそういうおそれはないからなあ。


126 :日本@名無史さん:2012/04/20(金) 10:59:17.87 .net
>>125
白河天皇の場合は型破りな父後三条天皇に対する強い反発があったからかもね
自分の母親は早く死に、後で迎えた身分の低い別の妃に入れあげて・・・みたいな

127 :日本@名無史さん:2012/06/18(月) 12:33:24.77 .net
院政の恩人は美福門院得子。成年の後白河が帝のまま在位し続ければ、天皇親政の姿に戻っていたはず。

128 :日本@名無史さん:2012/06/18(月) 21:23:44.71 .net
天皇親政に戻るんじゃなくて摂関政治の復活だろ?

129 :日本@名無史さん:2012/07/18(水) 08:18:52.53 .net
そもそも後白河に帝のまま代位し続けるなんて力はない。
権力も財力もないまさに中継ぎ天皇だった

130 :日本@名無史さん:2012/10/23(火) 07:52:32.25 .net
そろそろ保守

131 :日本@名無史さん:2012/10/23(火) 13:29:20.51 .net
>>125
自分の子供でないと院政を執れない

弟や甥では駄目なんだよね。
崇徳上皇はコレで政界から干された

132 :日本@名無史さん:2012/11/28(水) 20:59:39.68 .net
だよね!
崇徳が近衛(崇徳にとっては異母弟だが中宮聖子の養子でもあった)に譲位したとき、譲位の儀式の宣命に皇太子ではなく
「皇太弟」とあったことから、崇徳が怒って保元の乱の原因となった。
皇太弟では将来、院政が行えないからね。

133 :日本@名無史さん:2012/11/29(木) 20:59:37.20 .net
もっとも、弟を養子か猶子にすることで兄が院政を行うことが可能だった

134 :日本@名無史さん:2012/12/05(水) 00:19:51.66 .net
白河院政(1086年ころ〜)から室町初期・朝廷の権限が形骸化するまで、
朝廷の政治形態は、院政が原則です。親政も稀にありますが、むしろ例外です。
なぜこの頃はこうなのだろう?素朴な疑問が生じます。

135 :日本@名無史さん:2012/12/05(水) 09:31:27.53 .net
>>134
平安時代中期まで、皇族は母方で育ち、外戚が力を持つというのが一般的でした(摂関政治)。
しかし、白河法皇は、孫の鳥羽天皇の母が産で死んでしまったことをきっかけに、
赤子のうちに鳥羽天皇を自分の院御所に引き取り、手元で育てたことから強大な力を持つことになりました。
これ以降、幕末まで、皇族は母方で育つも儲君に定められた時点で父方に引き取られ、
それまで疎遠であった父と子の関係が密になったということが挙げられます。
もっとも、平安末期〜鎌倉時代初期の幼帝と中年の上皇という組み合わせならば院政は上手くいっていたのですが、
それ以降は成人天皇が増えたため、父である上皇とぶつかり、険悪なムードになっていた天皇&上皇の組み合わせもあります。

136 :日本@名無史さん:2012/12/05(水) 20:22:14.30 .net
>>135
回答ありがとうございます。成人したら譲位を画策するなんてありましたね。

137 :日本@名無史さん:2012/12/12(水) 21:42:10.98 .net
似たような例として、
鎌倉幕府の摂家将軍・皇族将軍も成人したら交代した例が多い。

138 :日本@名無史さん:2012/12/13(木) 07:19:04.82 .net
天皇は神事や年中行事で雁字搦めで自由がなかった
退位して上皇となるとそれらから解放され時間的に自由になる
行幸や遊びも思いのまま、そのため天皇は早く退位して上皇になりたがった
母と子の結びつきが強い摂関政治の時代には上皇は政治的に全く無力に置かれ
退位させられることは左遷に他ならなかったが
父と子の結びつきが強くなった院政期には天皇は父・祖父に逆らえない
上皇となり院政を執るのは憧れとなったのだ

139 :日本@名無史さん:2012/12/13(木) 13:23:01.18 .net
摂関期には、父権を行使できるような院がいなかったということじゃないかな。
円融院は、一条即位後には父権を振りかざして人事にも介入していたというし。

140 :日本@名無史さん:2012/12/13(木) 18:57:34.45 .net
>>139
一条天皇は年に一回正月に父円融法皇のもとへ行幸し院の官僚たちに叙位を行っていたが
円融法皇に後世の白河上皇のような権限はなかったし(一条の傍には老獪な外祖父摂政兼家がいたことも大きいが)
一条母東三条院詮子の「女院政」には遠く及ばなかった

東三条院の嘆願で藤原道長が執政者になったのは有名な話だし
他にも一条天皇は自身の母系が藤原氏であることに感謝して藤原氏の氏神春日大社に参拝している
彰子立后に同意したのも春日大社の神事を行うには仏門に入っていない藤氏出身の后が必要と
説き伏せられたため

141 :日本@名無史さん:2012/12/13(木) 19:28:12.85 .net
>>137

鎌倉幕府の摂家将軍・皇族将軍は完全なお飾りというわけでもなく、多少の影響力はあったから警戒されたのでは
なかったか?

142 :日本@名無史さん:2012/12/13(木) 23:58:00.03 .net
>>140
権限という意味では、白河院にも別に権限はなかったでしよう?
円融院は兼家の反対を押し切るかたちで、側近実資の参議昇任を
認めさせたりしているし、兼家も父院の意向は軽んじることが
できず渋々認めています。
母后の意向なんていうのは、院も外祖父も亡くなって唯一の親権者
になった後に反映され始めたもので、円融、兼家の生前には大して
重視されていないとおもいますが。
両者の死後でも、道長の関白就任を迫る詮子の意向を退けて内覧に
とどめたという話が伝わっているなど、女院の意向はあくまでも
参考という扱いでしかありませんし。

143 :日本@名無史さん:2012/12/14(金) 00:31:07.51 .net
>>140
春日行幸に関しては、兼家と円融院の間で色々な駆け引きが行われているが、
そのときには、母后の意向云々は重視されていない。
摂関政治の要因の一つとして、父権を行使できる院が不在だったというのは
よく言われる話じゃないかな。

144 :日本@名無史さん:2012/12/14(金) 17:48:34.93 .net
>>142
ん?
小野宮流に詮子立后を阻まれた兼家は、懐仁親王(後の一条)と詮子を里に引き取り
出仕を拒否して円融天皇を退位に追い込んだ。懐仁は円融唯一の子で、これを花山天皇の
皇太子にする以外、円融に道はなかった。
一条天皇の在世中、内裏に侍って政治を執っていたのは兼家です。
母后である詮子も一条とともに内裏に住んでいました。
一方、円融法皇が住んでいたのは内裏から離れた円融寺で、年に一回一条天皇が訪問するほかは
内裏に参入することもなく政治的な発言もしていません。
一条天皇は父上へのプレゼントとして年に一回、円融院官吏の叙位に応じていましたが、
兼家が実資の参議昇進に反対したが円融法皇が押し切ったという記事はありません。

145 :日本@名無史さん:2012/12/14(金) 17:59:16.53 .net
>>143
一条天皇の春日行幸には詮子の意向があったことが記されているよ。
詮子は導子立后に際して懐仁親王(後の一条天皇)を連れて里へ帰り
父とともに円融天皇に退位を迫ったり、春日行幸に同行するなど
明らかに夫円融法皇とは別行動を執っている。

146 :日本@名無史さん:2012/12/14(金) 23:03:49.18 .net
>>144
一条即位後の円融院の人事介入については、たとえば倉本一弘
「一条天皇」に記載があります。
兼家が実資の参議昇進に反対したが円融法皇が押し切った件についても、三日続けて実資の任参議を求めた結果、兼家が
「院の仰せ、已に重し。固辞し申すこと難し」と折れた由。
(典拠はいずれも「小右記」)
春日行幸も、兼家から円融院への奏上から始まり、あれこれと
両者の駆け引きが続いた末に詮子への託宣を言い立てた兼家
が押し切る形で決着する等、主導したのは兼家と円融院の二者。
遵子立后が皇子を生んだ詮子を差し置いてのものだったのだ
から、円融天皇と詮子が疎遠になるのは当然。というより兼家・
詮子と疎遠だったからの措置だったんでしょうが。
ただ、詮子にしても後の彰子にしても、天皇の外祖父である
自分の父親が生きている時には、ごく限られた政治力しか
持っていませんね。

147 :日本@名無史さん:2012/12/23(日) 20:19:46.37 .net
>>146
小野宮流VS九条流の争いに過ぎない。
小野宮流は円融法皇と、九条流は一条天皇を表にだして昇進争いをしたため、
表向きは円融VS一条の争いであった。

それに、春日行幸は母后たる皇太后詮子の意向だとその名を出されれば
円融法皇さえ扱いが難しく遠慮せねばならなかったんです。
いかに母后の権限が強かったかです。

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