2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

院政について語ろう

1 :日本@名無史さん:2011/09/29(木) 23:39:20.59 .net
摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。

721 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 14:57:23.15 .net
治天の君は皇室の家長だからその気になったら皇室の誰かに所属の荘園取り上げて別の人間にあげるとかできるからね

722 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 15:10:35.36 .net
大河ドラマの平清盛は藤原摂関家の兄弟争い、崇徳と後白河の兄弟争いが詳細に描かれて良かった。
視聴率は低かったが、個人的にはなかなか面白くて最後まで見た最後の大河ドラマ。

しかし、平忠盛(中井貴一)、白河法皇(伊東四朗)が退場してからは少しつまらなくなった気がする。
最初の2話しか出てないが、白河法皇のインパクトがすごかった。

723 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 15:15:15.87 .net
>>722
平清盛は白河院のラスボス感が半端なかったな
その前の江というお花畑全開大河ドラマとの差

724 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 15:23:11.63 .net
>>721
両統迭立になって、そうもいかなくなっちゃったってことだな

725 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 17:21:30.59 .net
>>723
死して尚この世を支配する白河院だったな
特に鳥羽院にとっては

726 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 18:04:28.62 .net
>>720-721
大宮院の言で治天になった亀山はなぜ後深草の長講堂領を没収して大覚寺統のものにしなかったのだろう。後嵯峨の処置を尊重したの?それとも幕府の意向が強かった?はたまた西園寺の陰謀?

727 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 18:13:04.67 .net
後深草の抵抗と西園寺実兼の折衝の結果。

>時の関東申次で後深草上皇寄りの西園寺実兼が執権北条時宗と折衝し、
後深草上皇の皇子熈仁親王(伏見天皇)を同年中に立太子させることに成功した。
その後、弘安3年(1280年)頃から後深草上皇方による後宇多天皇退位と
皇太子擁立の動きが強まり、ついに同10年(1287年)10月、伏見天皇即位に伴い
院政を開始した。また正応2年(1289年)10月には第六皇子・久明親王を
鎌倉将軍として下向させ、その後しばらく持明院統に有利な体勢が続いた。

728 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 20:17:53.13 .net
亀山院の系統に王家領荘園群を統一しても子孫で分裂しそうだなw

729 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 21:41:14.81 .net
>>726
治天の君は、臣下である摂関家領や寺社領なら没収しようとおもえば出来ないことは無いけど、
同じ階級である皇族・王家領の没収は出来ない。

730 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 22:34:08.90 .net
没収まではされなくても侵食はされそうだよ。

731 :日本@名無史さん:2019/03/11(月) 23:26:37.69 .net
室町院領の伝領で揉めるわけだ

732 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 12:46:47.51 .net
Q.北面の武士、西面の武士の「北」、「西」って何を意味してるの?

A.北面の武士、西面の武士ともそれぞれ院御所の北側、西側に詰め所があったことが名前の由来となったのです。

733 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 12:47:26.03 .net
北面の武士とは、院御所の北面に詰め、上皇の身辺を警備した武士のことを言います。
なぜ「北面の武士」と呼ばれるのかというと、北面の武士の本拠地が上皇の住まいの北側に位置していたからです。
北面の武士は11世紀末に白河法皇が院の直轄軍として、寺社の強訴に対応するために創設したものです。

734 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 12:47:52.54 .net
西面の武士とは鎌倉時代に院御所の西面に詰め、上皇の身辺警護を行った武士です。
北面の武士の名前の由来同様、こちらも院御所の西側に本拠地があったことから「西面の武士」と呼ばれるようになりました。
西面の武士は、1200年頃、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍事力に対抗して結成したものです

735 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 16:45:01.42 .net
まさか現代において院政が始まる様子を生でみられるとは感無量


とりあえず平成院の院宣第一号は安倍夫妻に見捨てられた籠池夫妻への恩赦令とみた

736 :学術:2019/03/12(火) 17:59:41.23 .net
院政の設営も着々と進んでございますか?

737 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 18:30:36.02 .net
平成院の院御所はどこになるのかな?

まさかの京都だったら面白いんだが

738 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 19:53:48.16 .net
現在の赤坂御所を仙洞御所としてお移りになるらしいね
敷地が広いから、北面の武士の詰所や番所も設営しやすい

739 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 20:11:11.65 .net
いずれは赤坂だけどとりあえずは高輪皇族邸(元高松宮邸)だよ。

740 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 20:12:44.09 .net
ここか

北面は迎賓館なので、武士を配置するのは難しそうだ

http://www.kunaicho.go.jp/about/shisetsu/kokyo/img/07gr-03.gif

741 :日本@名無史さん:2019/03/12(火) 23:45:59.91 .net
名誉天皇とか舐めてんのかゴルァ!


上皇は英語で「名誉天皇」何でこうなるの 世界の王室は:朝日新聞デジタル
https://www-asahi-com.cdn.ampproject.org/c/s/www.asahi.com/amp/articles/ASM2V5G4DM2VUTIL043.html?usqp=mq331AQECAEoAQ%3D%3D

742 :日本@名無史さん:2019/03/13(水) 06:15:20.47 .net
>>741
院政にしても、江戸幕府の大御所・徳川家斉公にしても、「退位した元・君主のほうが偉い」という感覚は日本独特で、欧州でも中国でもそんなことはない。

どんな訳語を選ぼうとも、「上皇」の語感を外人に伝えるのは無理。

743 :日本@名無史さん:2019/03/13(水) 08:18:26.32 .net
中国でも退位した皇帝には権力はないからなー

744 :日本@名無史さん:2019/03/13(水) 09:47:52.89 .net
>>742
創業者のビルゲイツが社長を辞めても、会社の実権を握っているという状況なので、
同じく江戸幕府創業者の徳川家康の大御所政治は理解されやすい

745 :日本@名無史さん:2019/03/13(水) 13:11:18.82 .net
でもビルゲイツも家康も創業者だからなあ。
上皇はあくまで継承者の一人だから。

外国王室じゃ近年まで特殊な例は除いて生前退位自体なかったから
分からないだろうな。それも当然のように引退した父が権力ふるうなんて。

746 :日本@名無史さん:2019/03/13(水) 17:01:15.90 .net
>>743
だから後醍醐って終身天皇で親政にこだわってたの?朱子学かぶれだったんだろ。

747 :日本@名無史さん:2019/03/13(水) 17:49:38.84 .net
>>746
そう言われてるけどな

宋の皇帝専制を模範とし、征夷大将軍はもちろん、上皇や摂政関白を置くのも嫌がった

748 :日本@名無史さん:2019/03/13(水) 20:17:19.44 .net
護良親王「あの…。」


建武新政では光厳院は太上天皇扱いじゃなかった?

749 :日本@名無史さん:2019/03/14(木) 20:31:52.06 .net
>>746
というより院政の方式では皇室全体どころか大覚寺統だけの家長にもなれないため

750 :日本@名無史さん:2019/03/15(金) 01:08:02.81 .net
後伏見から花園、光厳から光明
兄から弟への院政行使って珍しいよね

751 :日本@名無史さん:2019/03/15(金) 07:14:21.96 .net
後醍醐天皇が吉野に逃げたことで、大覚寺統=八条院領荘園は崩壊。
全国から京都への年貢輸送システムは確立してるけど、
吉野の山中への輸送システムなどありゃせんw

752 :日本@名無史さん:2019/03/15(金) 10:14:23.71 .net
そもそも、室町時代は乱世だから、地方に荘園があっても年貢をとるのが難しいよなあ

753 :学術:2019/03/15(金) 10:36:14.61 .net
上皇行きは出世だよ。権力が取り上げられるぐらい女性に嫉妬をきたす。

754 :日本@名無史さん:2019/03/15(金) 15:50:04.26 .net
そのための半済

755 :日本@名無史さん:2019/03/16(土) 09:14:14.32 .net
今の時代でも摂関を置いたほうがいいと思う。
一般参賀・・・上皇
宮中祭祀・・・天皇陛下
国事行為・・・摂関
被災地への慰問・・・左大臣、右大臣、参議など公卿が分担
このようにすれば、ご公務をかなり軽減できる

756 :日本@名無史さん:2019/03/16(土) 14:12:01.09 .net
現代の話してる奴って頭イカれてんな

757 :日本@名無史さん:2019/03/16(土) 16:11:16.15 .net
総理大臣は右近衛大将・権大納言、閣僚は受領くらいの官位を授けるようにすればいいのでは?
一方、国事行為や外国使節の接遇は、左大臣・右大臣クラスの公卿や摂関がするようにすれば
権威を内外に示すこともできる

758 :学術:2019/03/16(土) 16:47:11.95 .net
摂関家の藤原先生元気かなあ。

759 :日本@名無史さん:2019/03/16(土) 18:33:40.79 .net
>>755
>被災地への慰問・・・左大臣、右大臣、参議など公卿が分担
それじゃ現地は文句いうぞう

760 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 08:27:25.07 .net
それこそ慰問は上皇がされたら?
貞観地震で民を悼む詔を出された清和法皇は
譲位後被災地こそ行かれなかったが仏道修行で
畿内各地を巡幸されたし。

>元慶3年(879年)5月に出家、その年の10月より畿内巡幸の旅に入った。
翌年3月丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。

761 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 11:32:36.97 .net
南北朝時代でさえ、北朝では光厳上皇による院政がさっそく始まった

762 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 11:33:48.28 .net
むしろ、光明天皇の即位と、光厳上皇の院政開始をもって、北朝政権の発足と考えられている

763 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 16:55:31.15 .net
>>743
乾隆帝の太上皇は?

764 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 17:13:21.20 .net
>>763
ほんの数年だったが、中国で院政が行われた例だな

765 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 23:06:15.34 .net
光厳院政時は親父の後伏見は崩御?

766 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 23:32:36.72 .net
崩御の3か月後に院政開始みたいね。

後伏見 1288年4月5日(弘安11年3月3日)- 1336年5月17日(延元元年4月6日)

院政開始は1336年8月とある。

767 :日本@名無史さん:2019/03/18(月) 14:14:50.61 .net
光厳の実子をたてなかったのは幼かったからかな?兄から弟への院政って珍しいよね。後伏見花園の先例に倣ったのかな。

768 :日本@名無史さん:2019/03/18(月) 14:35:30.41 .net
光明に正妃が入らず、少数いた子どもも皆出家してるところをみると
初めから中継ぎみたいな扱いだね。

769 :日本@名無史さん:2019/03/18(月) 20:29:43.77 .net
両統迭立だと幼少の帝は立てられないみたいだね。何かあるとすぐ片方からいちゃもんつけられる

770 :日本@名無史さん:2019/03/19(火) 12:43:23.66 .net
>>769
幼少の帝だと、上皇の力が強くなりすぎるからか?

771 :日本@名無史さん:2019/03/19(火) 13:51:38.02 .net
両統の時だけかな。後宇多も中継ぎとはいえ壮年の実子の後醍醐を就けて恒明系統にさへ皇位が渡らなければって感じだったのかな。帝にも自統を守る才覚が必要だったと

772 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 10:20:26.10 .net
中国ではあまり院政は行われないんだね
共産国になってから、ケ小平が最も成功した院政の例だろうか

773 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 10:59:59.35 .net
>>772
乾隆帝の太上皇もそうだが、
あちらに院がいた例がないため、院政と言うのは不正確。
正しくは訓政。

774 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 17:13:14.41 .net
欧州も中国もそうだな

君主というのは、現役でいてこそ君主

退位したら、ただの人

775 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 17:14:10.99 .net
>>772
共産党の長老支配は、院政とは言えないな、さすがに

776 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 18:10:11.29 .net
中国皇帝なのにオイラート遠征に乗り出した明の第8代正統帝は、あっさりと敗れて捕虜になり、帰ってこれなかった

しかたがないので、北京では、第9代景泰帝が即位した

しかし、その翌年、明とオイラートの間に、講和が成立し、元・正統帝は北京に送還されて、太上皇になったという例はある

777 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 18:12:44.86 .net
上皇となった正統帝は、政治的影響力を失い、事実上の監禁状態に置かれた。
さらに景泰帝は、正統帝の子である朱見深を立太子することを約束しながら、後にそれを反故にしたことで不満を高めた。

景泰8年(1457年)、景泰帝が病床に就いた際に石亨や曹吉祥らによって政変が発生し、
于謙ら景泰帝派の重臣は粛清され、景泰帝も同年に崩御して正統帝は復辟した(天順帝)

778 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 18:17:11.85 .net
院政は、平安四百年の天下泰平の世だから成り立つもの

大陸国家では、上皇と天皇のうち一方が消されて、権力が一元化されるまで闘争が続く

779 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 18:23:56.60 .net
中国史上での太上皇としては、唐の高祖・李淵の例もあるな

・・・618年5月、隋の煬帝が殺されたことを知ると、李淵は、恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝となった。

その後、統一戦に著しい戦功を上げた秦王李世民に次の皇帝を期待する秦王配下の者たちが、皇太子の座を狙って策動するようになった。
これに対して皇太子李建成と斉王李元吉はこれを止めるために、高祖李淵に世民の謀士である房玄齢と杜如晦を引き離すよう進言した。

しかし李世民は李建成と李元吉が画策した先制攻撃の情報を入手すると、626年の玄武門の変で李建成と李元吉を殺害した。
高祖李淵はこれを受けて直ちに李世民に譲位することに同意して太上皇となり隠退をせまられた。
その後は政治とは離れた環境で静かに暮らし635年、71歳で崩御した。

対仏教政策
編集

780 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 18:39:21.32 .net
中国だけでなく、大陸はだいたい、こんな感じだな

ムガール帝国のシャージャハーンみたいに、息子のクーデターで無理やり退位させられ、塔で幽閉されたとか、そういう感じ

逆に、明の正統太上皇みたいに、皇帝を打倒して復位したケースもある

このように、大陸では権力が一元化されるまで闘争が続くのが通常

781 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 21:31:35.46 .net
玄宗皇帝も楊貴妃が殺されたあと何もかもやる気がなくなって
子供の粛宗が簒奪同然に即位したんで玉座から追い出されるように太上皇帝に。
当然実権は喪失、ぼぉーっとしたまま6年ほどで崩御。

782 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 22:09:19.81 .net
鎌倉時代後半になると、得宗家は北条一門を含む他の有力御家人を圧倒するようになった。
時頼以後には執権職に就いた後にそれを一族の者に譲って出家し、実権を握り続けるケースが見られる。
このような執権職と得宗の関係は、同時代の朝廷における天皇と治天の君との関係に類似しているとも指摘されている。

783 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 22:11:29.14 .net
天皇よりも、治天の君のほうが偉い

執権よりも、得宗のほうが偉い

結局のところ、日本では、公的な立場よりも家長が偉いってことだな

784 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 22:15:24.41 .net
「将軍よりも源氏長者」って話もあるしなあ

源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。
源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、
自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。

785 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 23:15:26.82 .net
得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも。
幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。

義時流、得宗家という呼び方もある。

史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。

786 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 09:15:12.16 .net
とWikipedeliaには書かれている

787 :783を訂正:2019/03/22(金) 09:22:07.53 .net
とWikipediaにゃ書かれちょる

788 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 10:45:29.60 .net
>>787
Wikipediaからのコピペだよ

789 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 10:47:59.64 .net
>>784
自分でコピペしといてなんだけど、足利尊氏じゃなくて、北畠親房が源氏長者だったんだな?

790 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 13:15:30.07 .net
将軍が源氏長者を兼ねるのは義満から

791 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 18:36:52.69 .net
義満は、日本国王も兼ねていた

792 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 20:23:07.43 .net
北畠親房が源氏長者で、北畠顕家はその嫡男

793 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 23:02:05.25 .net
資料バカ

794 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 03:32:05.48 .net
源氏の起源は嵯峨帝なので源氏長者が嵯峨上皇と淳和上皇の所縁のものを管理する別当になるのは当然。公卿に登った義満までは清和源氏は最下級だから長者不適格。

795 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 06:55:57.08 .net
京都の六波羅探題を亡ぼした足利尊氏だったが、仙台から北畠顕家軍が長征してきて、あっさりと敗れ、九州へと落ち延びた

北畠顕家は10代の少年で、大将といってもお飾りだったが、源氏長者の嫡男という権威は絶大で、足利尊氏の求心力を凌いでいた

796 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 06:59:02.16 .net
>>794
嵯峨源氏が上級で、清和源氏が下級だったのか

なんか、イメージと違うな?

797 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:12:09.96 .net
>>794
最上級は村上源氏

798 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:14:49.30 .net
清和源氏が台頭したころには、嵯峨源氏は中央では衰退して地方武士に過ぎなかった
ように思う
嵯峨源氏の渡辺(源)綱なども、清和源氏の棟梁・源満仲の郎等だった

799 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:23:01.48 .net
源頼朝の時代においても、清和源氏の棟梁・源頼朝より村上源氏の土御門(源)通親
のほうが中央貴族としてはメジャーであったように思う
鎌倉時代は中央貴族の村上源氏が源氏長者で、足利義満のころから室町将軍も源氏長者
になるようになった
江戸時代になると、(自称)清和源氏の徳川将軍が源氏長者となった
最後の源氏長者は再び村上源氏の久我(源)建通になった

800 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:26:35.85 .net
なるほど

鎌倉の清和源氏より、京都の村上源氏の家格が上回っていたんだな

まあ仕方ない、清和源氏は武家だけど、村上源氏は公家だから

801 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:37:43.03 .net
源氏長者の北畠親房も村上源氏

802 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:40:21.39 .net
>>794
院政も源氏も嵯峨天皇から始まったか

嵯峨天皇こそ、その後の日本史の原点だな

803 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 10:30:50.28 .net
村上源氏が最上級というのは朝廷で一定の勢力があったから?

804 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 11:18:55.44 .net
>>803
村上源氏は中央貴族として残ったからだろう
幕末明治維新に至るまで一貫して中央貴族として、高い官位に就いていた
維新の元勲・岩倉具視も村上源氏だ
それに対して、清和源氏は初代の源経基の代ですでに地方官に過ぎなかった
清和源氏が村上源氏をしのぐ家格になったのは、室町将軍のころだろう
足利義満は摂関をもしのぐ権門になったから、村上源氏に代わって源氏長者になった

805 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 13:26:19.30 .net
>>803
一定の勢力というより、清華家として、摂関家に次ぐ家格を持つ公家だった

摂関家は藤原北家、清華家は村上源氏の系統

清和源氏は武家だから、もともと違う

806 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 19:14:18.41 .net
村上源氏は清華家の一部であり、イコールではないが

807 :学術:2019/03/23(土) 19:32:19.90 .net
平成天皇は法皇まで夢見てほしいな。

808 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 19:41:22.02 .net
>>807
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。

809 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 21:54:33.83 .net
霞が関が官邸の家政機関になった今の時代はなんと呼ぶべきか

810 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 21:57:56.85 .net
官邸というか首相個人か

811 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 23:08:29.37 .net
平成院政が始まったら、治天の君におかせられては、まず最初に眞子内親王殿下を
仙洞御所にお移しになった後、北面の武士を差し向けて、平成の道鏡とも称される
彼の逆賊をお召し取りになっていただきたい
御所の白洲に打ち据えて、院司が随身に命じて厳しく尋問せしめるであろう

812 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 07:33:54.17 .net
>>807
出家して法皇になれば、俗世だけでなく仏教界にも君臨することができるからね

813 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 08:12:00.31 .net
平成院はキリスト教に共鳴してそうだが?

814 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 13:26:48.85 .net
初のキリスト教の法皇で。

815 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 14:45:16.26 .net
南北朝時代って源氏長者や藤氏長者も南北に分裂してたの?一族の祭祀の時だけ京に集まるとかそんなことはないよね?

816 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 15:03:11.80 .net
どちらも分裂してないよね。はじめこそ日和ったけど一貫して北朝側。
天皇はどっちが正統だってやってるけど、それを支える公卿たちの
動きをみると北朝の方が正統のように思う。

817 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 23:38:02.32 .net
>>815
源氏長者が北畠親房だったのは動かない

だからこそ、南朝側は北畠顕家を大将にして仙台からの長征を決行し、一時は足利尊氏を九州に追い落とすほどの求心力を持てた

818 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 23:41:04.27 .net
北畠顕家は十代の公家の少年で、大将と言ってもお飾り

実質的に全軍を指揮していたのは結城宗広

「人間の生首が大好きで、日頃から人を捕まえては斬首していた」というほどの残虐な野人

819 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 23:52:18.56 .net
コピペ

時は南北朝時代の幕開け時期―南朝(吉野朝)方の重臣・近衛経忠が、東国に拠点を置く藤原姓の小田・小山・結城氏らに呼び掛けて、
「藤氏一揆」、すなわち藤原氏連合を結成させ、小山朝郷を坂東管領とし、自ら藤氏を束ねる関白(&氏長者)として天下を掌握しよう―という動きを見せた。

820 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 23:55:08.68 .net
後醍醐天皇が即位して以降、近衛経忠は関白&藤氏長者として重用されます。
近衛家の嫡流を争うライバルの近衛基嗣は、後醍醐天皇の皇女を妻としているのもかかわらず・・・。

建武の新政が成って以降も、経忠は再び左大臣&藤氏長者として重用され続けます。

その後、足利尊氏が入京し後醍醐天皇が吉野へ逃れた後に尊氏が擁した光明天皇が即位すると、経忠は関白に任じられます。

経忠は密かに京都を脱出し吉野へ走ります。激怒した光明天皇は経忠を解任し基嗣を関白にします。

南朝(吉野朝)での経忠は内覧・左大臣・藤氏長者を歴任し、後村上天皇の関白を務めています。

とは言っても、村上源氏系の北畠親房の政策面での対立などがあって、一度吉野を出て京都に舞い戻っています。

ところが、京都に舞い戻ったとしても、所領や権限は全て基嗣側が握っており、当たり前の事ですが、京都には経忠の安穏の地では無くなっていました。

そこで、才の溺れた経忠は「藤氏一揆」構想を画策したのかもしれません―

821 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 00:03:44.10 .net
北畠顕家=後藤久美子

総レス数 1004
262 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200