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院政について語ろう

1 :日本@名無史さん:2011/09/29(木) 23:39:20.59 .net
摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。

761 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 11:32:36.97 .net
南北朝時代でさえ、北朝では光厳上皇による院政がさっそく始まった

762 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 11:33:48.28 .net
むしろ、光明天皇の即位と、光厳上皇の院政開始をもって、北朝政権の発足と考えられている

763 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 16:55:31.15 .net
>>743
乾隆帝の太上皇は?

764 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 17:13:21.20 .net
>>763
ほんの数年だったが、中国で院政が行われた例だな

765 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 23:06:15.34 .net
光厳院政時は親父の後伏見は崩御?

766 :日本@名無史さん:2019/03/17(日) 23:32:36.72 .net
崩御の3か月後に院政開始みたいね。

後伏見 1288年4月5日(弘安11年3月3日)- 1336年5月17日(延元元年4月6日)

院政開始は1336年8月とある。

767 :日本@名無史さん:2019/03/18(月) 14:14:50.61 .net
光厳の実子をたてなかったのは幼かったからかな?兄から弟への院政って珍しいよね。後伏見花園の先例に倣ったのかな。

768 :日本@名無史さん:2019/03/18(月) 14:35:30.41 .net
光明に正妃が入らず、少数いた子どもも皆出家してるところをみると
初めから中継ぎみたいな扱いだね。

769 :日本@名無史さん:2019/03/18(月) 20:29:43.77 .net
両統迭立だと幼少の帝は立てられないみたいだね。何かあるとすぐ片方からいちゃもんつけられる

770 :日本@名無史さん:2019/03/19(火) 12:43:23.66 .net
>>769
幼少の帝だと、上皇の力が強くなりすぎるからか?

771 :日本@名無史さん:2019/03/19(火) 13:51:38.02 .net
両統の時だけかな。後宇多も中継ぎとはいえ壮年の実子の後醍醐を就けて恒明系統にさへ皇位が渡らなければって感じだったのかな。帝にも自統を守る才覚が必要だったと

772 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 10:20:26.10 .net
中国ではあまり院政は行われないんだね
共産国になってから、ケ小平が最も成功した院政の例だろうか

773 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 10:59:59.35 .net
>>772
乾隆帝の太上皇もそうだが、
あちらに院がいた例がないため、院政と言うのは不正確。
正しくは訓政。

774 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 17:13:14.41 .net
欧州も中国もそうだな

君主というのは、現役でいてこそ君主

退位したら、ただの人

775 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 17:14:10.99 .net
>>772
共産党の長老支配は、院政とは言えないな、さすがに

776 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 18:10:11.29 .net
中国皇帝なのにオイラート遠征に乗り出した明の第8代正統帝は、あっさりと敗れて捕虜になり、帰ってこれなかった

しかたがないので、北京では、第9代景泰帝が即位した

しかし、その翌年、明とオイラートの間に、講和が成立し、元・正統帝は北京に送還されて、太上皇になったという例はある

777 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 18:12:44.86 .net
上皇となった正統帝は、政治的影響力を失い、事実上の監禁状態に置かれた。
さらに景泰帝は、正統帝の子である朱見深を立太子することを約束しながら、後にそれを反故にしたことで不満を高めた。

景泰8年(1457年)、景泰帝が病床に就いた際に石亨や曹吉祥らによって政変が発生し、
于謙ら景泰帝派の重臣は粛清され、景泰帝も同年に崩御して正統帝は復辟した(天順帝)

778 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 18:17:11.85 .net
院政は、平安四百年の天下泰平の世だから成り立つもの

大陸国家では、上皇と天皇のうち一方が消されて、権力が一元化されるまで闘争が続く

779 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 18:23:56.60 .net
中国史上での太上皇としては、唐の高祖・李淵の例もあるな

・・・618年5月、隋の煬帝が殺されたことを知ると、李淵は、恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝となった。

その後、統一戦に著しい戦功を上げた秦王李世民に次の皇帝を期待する秦王配下の者たちが、皇太子の座を狙って策動するようになった。
これに対して皇太子李建成と斉王李元吉はこれを止めるために、高祖李淵に世民の謀士である房玄齢と杜如晦を引き離すよう進言した。

しかし李世民は李建成と李元吉が画策した先制攻撃の情報を入手すると、626年の玄武門の変で李建成と李元吉を殺害した。
高祖李淵はこれを受けて直ちに李世民に譲位することに同意して太上皇となり隠退をせまられた。
その後は政治とは離れた環境で静かに暮らし635年、71歳で崩御した。

対仏教政策
編集

780 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 18:39:21.32 .net
中国だけでなく、大陸はだいたい、こんな感じだな

ムガール帝国のシャージャハーンみたいに、息子のクーデターで無理やり退位させられ、塔で幽閉されたとか、そういう感じ

逆に、明の正統太上皇みたいに、皇帝を打倒して復位したケースもある

このように、大陸では権力が一元化されるまで闘争が続くのが通常

781 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 21:31:35.46 .net
玄宗皇帝も楊貴妃が殺されたあと何もかもやる気がなくなって
子供の粛宗が簒奪同然に即位したんで玉座から追い出されるように太上皇帝に。
当然実権は喪失、ぼぉーっとしたまま6年ほどで崩御。

782 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 22:09:19.81 .net
鎌倉時代後半になると、得宗家は北条一門を含む他の有力御家人を圧倒するようになった。
時頼以後には執権職に就いた後にそれを一族の者に譲って出家し、実権を握り続けるケースが見られる。
このような執権職と得宗の関係は、同時代の朝廷における天皇と治天の君との関係に類似しているとも指摘されている。

783 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 22:11:29.14 .net
天皇よりも、治天の君のほうが偉い

執権よりも、得宗のほうが偉い

結局のところ、日本では、公的な立場よりも家長が偉いってことだな

784 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 22:15:24.41 .net
「将軍よりも源氏長者」って話もあるしなあ

源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。
源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、
自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。

785 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 23:15:26.82 .net
得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも。
幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。

義時流、得宗家という呼び方もある。

史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。

786 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 09:15:12.16 .net
とWikipedeliaには書かれている

787 :783を訂正:2019/03/22(金) 09:22:07.53 .net
とWikipediaにゃ書かれちょる

788 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 10:45:29.60 .net
>>787
Wikipediaからのコピペだよ

789 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 10:47:59.64 .net
>>784
自分でコピペしといてなんだけど、足利尊氏じゃなくて、北畠親房が源氏長者だったんだな?

790 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 13:15:30.07 .net
将軍が源氏長者を兼ねるのは義満から

791 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 18:36:52.69 .net
義満は、日本国王も兼ねていた

792 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 20:23:07.43 .net
北畠親房が源氏長者で、北畠顕家はその嫡男

793 :日本@名無史さん:2019/03/22(金) 23:02:05.25 .net
資料バカ

794 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 03:32:05.48 .net
源氏の起源は嵯峨帝なので源氏長者が嵯峨上皇と淳和上皇の所縁のものを管理する別当になるのは当然。公卿に登った義満までは清和源氏は最下級だから長者不適格。

795 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 06:55:57.08 .net
京都の六波羅探題を亡ぼした足利尊氏だったが、仙台から北畠顕家軍が長征してきて、あっさりと敗れ、九州へと落ち延びた

北畠顕家は10代の少年で、大将といってもお飾りだったが、源氏長者の嫡男という権威は絶大で、足利尊氏の求心力を凌いでいた

796 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 06:59:02.16 .net
>>794
嵯峨源氏が上級で、清和源氏が下級だったのか

なんか、イメージと違うな?

797 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:12:09.96 .net
>>794
最上級は村上源氏

798 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:14:49.30 .net
清和源氏が台頭したころには、嵯峨源氏は中央では衰退して地方武士に過ぎなかった
ように思う
嵯峨源氏の渡辺(源)綱なども、清和源氏の棟梁・源満仲の郎等だった

799 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:23:01.48 .net
源頼朝の時代においても、清和源氏の棟梁・源頼朝より村上源氏の土御門(源)通親
のほうが中央貴族としてはメジャーであったように思う
鎌倉時代は中央貴族の村上源氏が源氏長者で、足利義満のころから室町将軍も源氏長者
になるようになった
江戸時代になると、(自称)清和源氏の徳川将軍が源氏長者となった
最後の源氏長者は再び村上源氏の久我(源)建通になった

800 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:26:35.85 .net
なるほど

鎌倉の清和源氏より、京都の村上源氏の家格が上回っていたんだな

まあ仕方ない、清和源氏は武家だけど、村上源氏は公家だから

801 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:37:43.03 .net
源氏長者の北畠親房も村上源氏

802 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 08:40:21.39 .net
>>794
院政も源氏も嵯峨天皇から始まったか

嵯峨天皇こそ、その後の日本史の原点だな

803 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 10:30:50.28 .net
村上源氏が最上級というのは朝廷で一定の勢力があったから?

804 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 11:18:55.44 .net
>>803
村上源氏は中央貴族として残ったからだろう
幕末明治維新に至るまで一貫して中央貴族として、高い官位に就いていた
維新の元勲・岩倉具視も村上源氏だ
それに対して、清和源氏は初代の源経基の代ですでに地方官に過ぎなかった
清和源氏が村上源氏をしのぐ家格になったのは、室町将軍のころだろう
足利義満は摂関をもしのぐ権門になったから、村上源氏に代わって源氏長者になった

805 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 13:26:19.30 .net
>>803
一定の勢力というより、清華家として、摂関家に次ぐ家格を持つ公家だった

摂関家は藤原北家、清華家は村上源氏の系統

清和源氏は武家だから、もともと違う

806 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 19:14:18.41 .net
村上源氏は清華家の一部であり、イコールではないが

807 :学術:2019/03/23(土) 19:32:19.90 .net
平成天皇は法皇まで夢見てほしいな。

808 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 19:41:22.02 .net
>>807
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。

809 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 21:54:33.83 .net
霞が関が官邸の家政機関になった今の時代はなんと呼ぶべきか

810 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 21:57:56.85 .net
官邸というか首相個人か

811 :日本@名無史さん:2019/03/23(土) 23:08:29.37 .net
平成院政が始まったら、治天の君におかせられては、まず最初に眞子内親王殿下を
仙洞御所にお移しになった後、北面の武士を差し向けて、平成の道鏡とも称される
彼の逆賊をお召し取りになっていただきたい
御所の白洲に打ち据えて、院司が随身に命じて厳しく尋問せしめるであろう

812 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 07:33:54.17 .net
>>807
出家して法皇になれば、俗世だけでなく仏教界にも君臨することができるからね

813 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 08:12:00.31 .net
平成院はキリスト教に共鳴してそうだが?

814 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 13:26:48.85 .net
初のキリスト教の法皇で。

815 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 14:45:16.26 .net
南北朝時代って源氏長者や藤氏長者も南北に分裂してたの?一族の祭祀の時だけ京に集まるとかそんなことはないよね?

816 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 15:03:11.80 .net
どちらも分裂してないよね。はじめこそ日和ったけど一貫して北朝側。
天皇はどっちが正統だってやってるけど、それを支える公卿たちの
動きをみると北朝の方が正統のように思う。

817 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 23:38:02.32 .net
>>815
源氏長者が北畠親房だったのは動かない

だからこそ、南朝側は北畠顕家を大将にして仙台からの長征を決行し、一時は足利尊氏を九州に追い落とすほどの求心力を持てた

818 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 23:41:04.27 .net
北畠顕家は十代の公家の少年で、大将と言ってもお飾り

実質的に全軍を指揮していたのは結城宗広

「人間の生首が大好きで、日頃から人を捕まえては斬首していた」というほどの残虐な野人

819 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 23:52:18.56 .net
コピペ

時は南北朝時代の幕開け時期―南朝(吉野朝)方の重臣・近衛経忠が、東国に拠点を置く藤原姓の小田・小山・結城氏らに呼び掛けて、
「藤氏一揆」、すなわち藤原氏連合を結成させ、小山朝郷を坂東管領とし、自ら藤氏を束ねる関白(&氏長者)として天下を掌握しよう―という動きを見せた。

820 :日本@名無史さん:2019/03/24(日) 23:55:08.68 .net
後醍醐天皇が即位して以降、近衛経忠は関白&藤氏長者として重用されます。
近衛家の嫡流を争うライバルの近衛基嗣は、後醍醐天皇の皇女を妻としているのもかかわらず・・・。

建武の新政が成って以降も、経忠は再び左大臣&藤氏長者として重用され続けます。

その後、足利尊氏が入京し後醍醐天皇が吉野へ逃れた後に尊氏が擁した光明天皇が即位すると、経忠は関白に任じられます。

経忠は密かに京都を脱出し吉野へ走ります。激怒した光明天皇は経忠を解任し基嗣を関白にします。

南朝(吉野朝)での経忠は内覧・左大臣・藤氏長者を歴任し、後村上天皇の関白を務めています。

とは言っても、村上源氏系の北畠親房の政策面での対立などがあって、一度吉野を出て京都に舞い戻っています。

ところが、京都に舞い戻ったとしても、所領や権限は全て基嗣側が握っており、当たり前の事ですが、京都には経忠の安穏の地では無くなっていました。

そこで、才の溺れた経忠は「藤氏一揆」構想を画策したのかもしれません―

821 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 00:03:44.10 .net
北畠顕家=後藤久美子

822 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 01:17:04.06 .net
>>817
そりゃ南北朝に分かれる前だろ

823 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 08:45:21.54 .net
>>822
まあ、そうだな

天皇家が南北朝に分かれて争ったのと平行するように、藤氏長者と源氏長者を巡る争いも激化した

これが情勢をさらに複雑化した

824 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 09:33:24.51 .net
それにしても、天皇よりも治天の君

将軍よりも源氏長者
摂関よりも藤氏長者
執権よりも得宗

現職よりも、そいつの属する氏の家長が偉いというのは日本独特

825 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 09:59:51.45 .net
>>824
明治から昭和初期でもそうだな
次男三男が東京に出てどれだけ出世しようが
田舎に戻ってきたら当主の長男が一番偉い

826 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 19:39:11.56 .net
後村上って院政やってたんだな

827 :日本@名無史さん:2019/03/26(火) 07:44:01.89 .net
>>826
後村上は、圧倒的に優勢な北朝から京都を何度も奪回した英雄だぞ

828 :日本@名無史さん:2019/03/26(火) 13:59:52.32 .net
後村上亡き後は長慶の院政?あんまり資料がないんだよね。長慶亡き後は後亀山の親政だろうけど

829 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 09:06:54.84 .net
長慶天皇は明治になるまでいなかったのだ

830 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 20:09:09.85 .net
後付けの天皇っていったら、弘文天皇・淳仁天皇・仲恭天皇だが、長慶天皇もそうなのか?

831 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 21:03:15.49 .net
>>830
1926年(大正15年)だって>認定
前の三人(明治三年)より50年も後。

832 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 21:23:41.63 .net
大正生まれの祖父が持ってた「知識の宝庫」なる戦前発刊の本に
長慶天皇追尊の勅令があったっけな。
本は繰り返し読んでいるうちにボロボロになってどっかへ潜ってしまった。

833 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 23:15:10.14 .net
長慶天皇登列の詔書

朕惟フニ、長慶天皇在位ノ事蹟ハ史乘ノ記述審ナラサルモノアリ、
今ヤ在廷ノ臣僚ニ命シ、深究画Iセシメ、其ノ事蹟明瞭ナルニ至レリ、
乃チ大統中同天皇ヲ後村上天皇ノ次ニ列ス、茲ニ之ヲ宣示ス、
 
 御名 御璽
   攝政名
      大正十五年十月二十一日

                                 宮内大臣 一木喜コカ
                              内閣總理大臣 若槻禮次カ

834 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 23:33:32.99 .net
長慶の院政行使の資料ありますか?

835 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 00:03:27.21 .net
>譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があり、
元中2年/至徳2年(1385年)9月「太上天皇寛成」の名で
高野山丹生社に宸筆願文を納めたが[注釈 7]、
翌元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に
史料の上から姿を消している。

836 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 00:31:14.59 .net
>>824

将軍よりも源氏長者
摂関よりも藤氏長者

↑は違うんじゃねえの?

征夷大将軍と関白は令外官だし。長者の影響は受けないんじゃ。

837 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 12:30:03.31 .net
>>836
源氏長者は公家で村上源氏、征夷大将軍は武家で清和源氏

単純な比較はできないが、家格としては村上源氏のほうが上だろう

838 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 12:34:34.42 .net
藤原忠実は嫡男の忠通に関白・藤氏長者を譲った後に、その弟の頼長を寵愛して忠通と交代させようとした。
鳥羽法皇から、藤氏長者はともかく関白を勝手に交代させることは出来ないと命じられたため、
忠実・頼長は武士に命じて氏長者の印たる朱器台盤を剥奪して頼長が藤氏長者であることを宣言した。
これが保元の乱の一因となった。

保元の乱後、忠実・頼長父子は謀反人とされ、忠通が後白河天皇の宣旨をもって藤氏長者に任じられた。
これは天皇が藤氏長者の人事に干渉した最初のケースとみられる。

しかし、鎌倉時代に入って摂関家が分裂し、親子間での継承が行われなくなると、藤氏長者が天皇の宣旨によって任じられる地位になっていった。

839 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 12:36:09.74 .net
朱器台盤

歴代天皇が継承する三種の神器、歴代東宮が継承する壺切御剣のように、代々の藤氏長者が受け継ぐ4つの伝家の宝器がある。

長者の官の渡荘券 - 摂関家所領の証券
朱器 - 朱漆塗りの食器
台盤 - 朱器を乗せる机状の台
権衡 - 革製の秤

上記のうち朱器台盤を1つとして代わりに氏長者印を加えて4つとする場合がある。
また、勧学院の維持管理も藤氏長者の掌握するところであった。

840 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 12:37:19.11 .net
藤氏長者は、一種の名誉職なのかな?

841 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 13:34:07.00 .net
wikiによると

>氏長者のなかでも特に権威と力を持っていたのが、藤氏長者と源氏長者である。

氏の解体とともに名目的地位と化したが、家系の高貴さを誇る称号として存続し、
前者は摂関家のなかで摂政・関白に任じた者が兼ね、
後者は鎌倉時代に村上源氏の独占となったあと、
やがて足利将軍家と村上源氏の久我家などが交代で務め、
江戸時代に徳川将軍家が独占して幕末に至った。

842 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 13:36:29.79 .net
得宗専制(とくそうせんせい)は、鎌倉幕府において執権を務める平氏一門の北条氏の惣領である得宗に幕府権力が集中して専制政治が行われたこと、またその時期を指す。

鎌倉幕府の歴史を3つに分けた場合、源氏将軍・執権政治に続く第3の時期にあたる。

843 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 13:38:15.75 .net
「執権より得宗」というのも、鎌倉時代でも終わり頃のことだな

将軍→執権→得宗と、最高権力者が変遷した

844 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 13:48:11.06 .net
その得宗専制も、最高権力者は得宗家当主個人ではなく、得宗家執事である内管領長崎氏へ移っていった

845 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 15:00:16.76 .net
>>844
てことは、将軍→執権→得宗→内官領

さらに、京都には天皇・上皇・摂政関白がいる

なんて、ややこしい国だ

846 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 17:04:58.68 .net
>内管領長崎氏
フランキー堺か

847 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 18:27:14.37 .net
長崎円喜・高資父子について少々。NHK大河ドラマ「太平記」では、フランキー堺さんが円喜を、西岡徳馬さんが高資を演じて、片岡鶴太郎・高時と3人、なかなかの好演じゃった。

長崎円喜は北条高時の乳母夫。
得宗家執事(内管領)として高時の父・貞時のおぼえめでたく、安達時顕とともに、高時の将来やら、幕府の行く末やらを託された男じゃ。

父・貞時の死後、9歳で家督をついだワシに代わって政務をとりしきり、ワシが14歳で執権につくと、円喜は内管領の職を息子の高資に譲り、政務を後見する。

848 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 19:49:17.83 .net
高野山とかのほうが多いんだろ?上皇w

849 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 20:02:47.07 .net
「円喜」というのは出家後の法名なので、長崎円喜は出家して役職を退いた後、
家督を高資に譲って後見人になったということ
つまり、後見人の連鎖がさらにひとつ増えたことになる

850 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 23:20:55.77 .net
>>849
てことは、将軍→執権→得宗→内管領→円喜

もう意味不明じゃないか

851 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 23:24:55.59 .net
当時の人々も、長崎円喜を見て、「なんで、このオッサンが日本の最高権力者なんだろな?」とさぞかし不思議だったことだろう

野中広務が最高権力者だったときも、「なぜアイツが?」と自民党の議員ですら首をひねってたが、そういうものか

852 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 11:14:43.98 .net
御内人専制は限界だったのだろう

853 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 12:52:49.21 .net
よほど制度がしっかりしてない限り、誰が実権を持つかは、役職より政権内部の人間関係で決まることになるという好例

現代の日本でさえ、ここ数十年で実力首相といったら小泉純一郎と安倍晋三、あとは中曽根康弘と橋本龍太郎くらいか

854 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 12:55:06.20 .net
中国だと、遊蕩三昧の無能皇帝ですら、その気になれば大臣を罷免できるほど、明代には皇帝専制が確立された

855 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 12:55:53.59 .net
フランスのブルボン王朝もそんな感じだ

856 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 21:06:54.87 .net
そもそも、当時は「将軍」ではなく、「鎌倉殿」とか「室町殿」と呼ばれてた

全国のヤクザ組織の親分みたいなもんだな

857 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 21:07:50.38 .net
田中角栄は、「目白殿」と呼ばれてた

858 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 21:30:07.34 .net
将軍職が機能するからこそ成熟すると地位を追われて幼児に挿げ替えられてたんじゃないの

859 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 22:00:06.41 .net
専制君主の善政というものは、人間の政治意識にとってもっとも甘美な麻薬ではないだろうか、と、ヤンは思う。
参加もせず、発言もせず、思考することすらなく、政治が正しく運営され、人々が平和と繁栄を楽しめるとすれば、誰がめんどうな政治に参加するだろう。
しかし、なぜ人々はそこで想像力をはたらかせないのか。人々が政治をめんどうくさがるとすれば、専制君主もそうなのだ。
彼が政治にあき、無制限の権力を、エゴイズムを満足させるために濫用しはじめたらどうなるか。権力は制限され、批判され、監視されるべきである。
ゆえに専制政治より民主政治のほうが本質的に正しいのだ。 ・・・・・・ ナレーション

860 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 05:07:58.06 .net
平安時代からは、幼少の頃に天皇を何年かやって、退位してから権力を握るというパターンが確立された

天智天皇だけは、この逆だった

若い頃から中大兄皇子として最高権力者だったが、天皇の座についたのは、なぜか晩年の3年から4年程度だけだった

861 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 06:48:30.29 .net
で、それが院政と何の関係が?

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