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院政について語ろう
- 1 :日本@名無史さん:2011/09/29(木) 23:39:20.59 .net
- 摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。
- 823 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 08:45:21.54 .net
- >>822
まあ、そうだな
天皇家が南北朝に分かれて争ったのと平行するように、藤氏長者と源氏長者を巡る争いも激化した
これが情勢をさらに複雑化した
- 824 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 09:33:24.51 .net
- それにしても、天皇よりも治天の君
将軍よりも源氏長者
摂関よりも藤氏長者
執権よりも得宗
現職よりも、そいつの属する氏の家長が偉いというのは日本独特
- 825 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 09:59:51.45 .net
- >>824
明治から昭和初期でもそうだな
次男三男が東京に出てどれだけ出世しようが
田舎に戻ってきたら当主の長男が一番偉い
- 826 :日本@名無史さん:2019/03/25(月) 19:39:11.56 .net
- 後村上って院政やってたんだな
- 827 :日本@名無史さん:2019/03/26(火) 07:44:01.89 .net
- >>826
後村上は、圧倒的に優勢な北朝から京都を何度も奪回した英雄だぞ
- 828 :日本@名無史さん:2019/03/26(火) 13:59:52.32 .net
- 後村上亡き後は長慶の院政?あんまり資料がないんだよね。長慶亡き後は後亀山の親政だろうけど
- 829 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 09:06:54.84 .net
- 長慶天皇は明治になるまでいなかったのだ
- 830 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 20:09:09.85 .net
- 後付けの天皇っていったら、弘文天皇・淳仁天皇・仲恭天皇だが、長慶天皇もそうなのか?
- 831 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 21:03:15.49 .net
- >>830
1926年(大正15年)だって>認定
前の三人(明治三年)より50年も後。
- 832 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 21:23:41.63 .net
- 大正生まれの祖父が持ってた「知識の宝庫」なる戦前発刊の本に
長慶天皇追尊の勅令があったっけな。
本は繰り返し読んでいるうちにボロボロになってどっかへ潜ってしまった。
- 833 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 23:15:10.14 .net
- 長慶天皇登列の詔書
朕惟フニ、長慶天皇在位ノ事蹟ハ史乘ノ記述審ナラサルモノアリ、
今ヤ在廷ノ臣僚ニ命シ、深究画Iセシメ、其ノ事蹟明瞭ナルニ至レリ、
乃チ大統中同天皇ヲ後村上天皇ノ次ニ列ス、茲ニ之ヲ宣示ス、
御名 御璽
攝政名
大正十五年十月二十一日
宮内大臣 一木喜コカ
内閣總理大臣 若槻禮次カ
- 834 :日本@名無史さん:2019/03/27(水) 23:33:32.99 .net
- 長慶の院政行使の資料ありますか?
- 835 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 00:03:27.21 .net
- >譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があり、
元中2年/至徳2年(1385年)9月「太上天皇寛成」の名で
高野山丹生社に宸筆願文を納めたが[注釈 7]、
翌元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に
史料の上から姿を消している。
- 836 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 00:31:14.59 .net
- >>824
将軍よりも源氏長者
摂関よりも藤氏長者
↑は違うんじゃねえの?
征夷大将軍と関白は令外官だし。長者の影響は受けないんじゃ。
- 837 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 12:30:03.31 .net
- >>836
源氏長者は公家で村上源氏、征夷大将軍は武家で清和源氏
単純な比較はできないが、家格としては村上源氏のほうが上だろう
- 838 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 12:34:34.42 .net
- 藤原忠実は嫡男の忠通に関白・藤氏長者を譲った後に、その弟の頼長を寵愛して忠通と交代させようとした。
鳥羽法皇から、藤氏長者はともかく関白を勝手に交代させることは出来ないと命じられたため、
忠実・頼長は武士に命じて氏長者の印たる朱器台盤を剥奪して頼長が藤氏長者であることを宣言した。
これが保元の乱の一因となった。
保元の乱後、忠実・頼長父子は謀反人とされ、忠通が後白河天皇の宣旨をもって藤氏長者に任じられた。
これは天皇が藤氏長者の人事に干渉した最初のケースとみられる。
しかし、鎌倉時代に入って摂関家が分裂し、親子間での継承が行われなくなると、藤氏長者が天皇の宣旨によって任じられる地位になっていった。
- 839 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 12:36:09.74 .net
- 朱器台盤
歴代天皇が継承する三種の神器、歴代東宮が継承する壺切御剣のように、代々の藤氏長者が受け継ぐ4つの伝家の宝器がある。
長者の官の渡荘券 - 摂関家所領の証券
朱器 - 朱漆塗りの食器
台盤 - 朱器を乗せる机状の台
権衡 - 革製の秤
上記のうち朱器台盤を1つとして代わりに氏長者印を加えて4つとする場合がある。
また、勧学院の維持管理も藤氏長者の掌握するところであった。
- 840 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 12:37:19.11 .net
- 藤氏長者は、一種の名誉職なのかな?
- 841 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 13:34:07.00 .net
- wikiによると
>氏長者のなかでも特に権威と力を持っていたのが、藤氏長者と源氏長者である。
氏の解体とともに名目的地位と化したが、家系の高貴さを誇る称号として存続し、
前者は摂関家のなかで摂政・関白に任じた者が兼ね、
後者は鎌倉時代に村上源氏の独占となったあと、
やがて足利将軍家と村上源氏の久我家などが交代で務め、
江戸時代に徳川将軍家が独占して幕末に至った。
- 842 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 13:36:29.79 .net
- 得宗専制(とくそうせんせい)は、鎌倉幕府において執権を務める平氏一門の北条氏の惣領である得宗に幕府権力が集中して専制政治が行われたこと、またその時期を指す。
鎌倉幕府の歴史を3つに分けた場合、源氏将軍・執権政治に続く第3の時期にあたる。
- 843 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 13:38:15.75 .net
- 「執権より得宗」というのも、鎌倉時代でも終わり頃のことだな
将軍→執権→得宗と、最高権力者が変遷した
- 844 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 13:48:11.06 .net
- その得宗専制も、最高権力者は得宗家当主個人ではなく、得宗家執事である内管領長崎氏へ移っていった
- 845 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 15:00:16.76 .net
- >>844
てことは、将軍→執権→得宗→内官領
さらに、京都には天皇・上皇・摂政関白がいる
なんて、ややこしい国だ
- 846 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 17:04:58.68 .net
- >内管領長崎氏
フランキー堺か
- 847 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 18:27:14.37 .net
- 長崎円喜・高資父子について少々。NHK大河ドラマ「太平記」では、フランキー堺さんが円喜を、西岡徳馬さんが高資を演じて、片岡鶴太郎・高時と3人、なかなかの好演じゃった。
長崎円喜は北条高時の乳母夫。
得宗家執事(内管領)として高時の父・貞時のおぼえめでたく、安達時顕とともに、高時の将来やら、幕府の行く末やらを託された男じゃ。
父・貞時の死後、9歳で家督をついだワシに代わって政務をとりしきり、ワシが14歳で執権につくと、円喜は内管領の職を息子の高資に譲り、政務を後見する。
- 848 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 19:49:17.83 .net
- 高野山とかのほうが多いんだろ?上皇w
- 849 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 20:02:47.07 .net
- 「円喜」というのは出家後の法名なので、長崎円喜は出家して役職を退いた後、
家督を高資に譲って後見人になったということ
つまり、後見人の連鎖がさらにひとつ増えたことになる
- 850 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 23:20:55.77 .net
- >>849
てことは、将軍→執権→得宗→内管領→円喜
もう意味不明じゃないか
- 851 :日本@名無史さん:2019/03/28(木) 23:24:55.59 .net
- 当時の人々も、長崎円喜を見て、「なんで、このオッサンが日本の最高権力者なんだろな?」とさぞかし不思議だったことだろう
野中広務が最高権力者だったときも、「なぜアイツが?」と自民党の議員ですら首をひねってたが、そういうものか
- 852 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 11:14:43.98 .net
- 御内人専制は限界だったのだろう
- 853 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 12:52:49.21 .net
- よほど制度がしっかりしてない限り、誰が実権を持つかは、役職より政権内部の人間関係で決まることになるという好例
現代の日本でさえ、ここ数十年で実力首相といったら小泉純一郎と安倍晋三、あとは中曽根康弘と橋本龍太郎くらいか
- 854 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 12:55:06.20 .net
- 中国だと、遊蕩三昧の無能皇帝ですら、その気になれば大臣を罷免できるほど、明代には皇帝専制が確立された
- 855 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 12:55:53.59 .net
- フランスのブルボン王朝もそんな感じだ
- 856 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 21:06:54.87 .net
- そもそも、当時は「将軍」ではなく、「鎌倉殿」とか「室町殿」と呼ばれてた
全国のヤクザ組織の親分みたいなもんだな
- 857 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 21:07:50.38 .net
- 田中角栄は、「目白殿」と呼ばれてた
- 858 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 21:30:07.34 .net
- 将軍職が機能するからこそ成熟すると地位を追われて幼児に挿げ替えられてたんじゃないの
- 859 :日本@名無史さん:2019/03/29(金) 22:00:06.41 .net
- 専制君主の善政というものは、人間の政治意識にとってもっとも甘美な麻薬ではないだろうか、と、ヤンは思う。
参加もせず、発言もせず、思考することすらなく、政治が正しく運営され、人々が平和と繁栄を楽しめるとすれば、誰がめんどうな政治に参加するだろう。
しかし、なぜ人々はそこで想像力をはたらかせないのか。人々が政治をめんどうくさがるとすれば、専制君主もそうなのだ。
彼が政治にあき、無制限の権力を、エゴイズムを満足させるために濫用しはじめたらどうなるか。権力は制限され、批判され、監視されるべきである。
ゆえに専制政治より民主政治のほうが本質的に正しいのだ。 ・・・・・・ ナレーション
- 860 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 05:07:58.06 .net
- 平安時代からは、幼少の頃に天皇を何年かやって、退位してから権力を握るというパターンが確立された
天智天皇だけは、この逆だった
若い頃から中大兄皇子として最高権力者だったが、天皇の座についたのは、なぜか晩年の3年から4年程度だけだった
- 861 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 06:48:30.29 .net
- で、それが院政と何の関係が?
- 862 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 07:12:11.56 .net
- 鎌倉幕府の場合は、「得宗と執権」「長崎円喜と高資」の関係は院政の仕組みだが、
「将軍と執権」「得宗家と内管領」の関係は、主君に代わって臣下が実権を持つ
仕組みで摂関政治に似ている。
鎌倉幕府は、朝廷で起こった摂関政治と院政が入り組みながら権力構造が形成された
ように見えて興味深い。
- 863 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 10:46:17.23 .net
- 平安時代の摂関政治は、摂政や関白になった者が藤氏長者を兼ねていたので、院政方式の分離は起きてない
江戸時代には、大御所・徳川家斉が、将軍職を退いてからも権勢を振るった
- 864 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 10:53:05.98 .net
- 足利義満も、将軍職を義持に譲ってからも権力者だった
ただし、義満の場合は、その後で太政大臣に昇格し、さらに日本国王にも就任した
- 865 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 12:06:58.53 .net
- 消費税増税停止の院宣を発してくれ
与党の強行採決で可決した悪法は、院宣で法律としての公布を停止すべき
院宣に逆らう者は朝敵とし、一切の叙勲を認めない
天皇は国政に関する権能を有さないと憲法で規定されているが、
上皇については明記されていないのだから
- 866 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 12:21:57.43 .net
- 【新元号に、分合、が適すわけ】 フランス、失明22人、手の喪失5人、頭部p重傷者228人、天皇を打倒せよ
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1553910895/l50
君が代、日章旗、元号、の強制やめろ!
- 867 :学術:2019/03/30(土) 12:54:42.61 .net
- テレビやメディアには本人は登場しないが皇国に生まれて皇民としての忠誠が
ちかえないのは不幸で、院政を体験できない国民は落ちこぼれてしまっている。
法皇まで続くのにな。
- 868 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 16:52:50.20 .net
- >>862
鎌倉幕府の場合は、源実朝が後鳥羽院の皇子を迎えた後、将軍職を譲り、自分は
右大臣の立場で後見人となる予定だった。
実現すれば、一種の院政になったものと思われる。
(実現する前に、公暁の凶刃に倒れてしまった)
- 869 :学術:2019/03/30(土) 17:20:51.38 .net
- 後鳥羽院が先例では理想だよな。日本では。
- 870 :学術:2019/03/30(土) 17:21:35.58 .net
- (真・)女神転生の原作にもかかわっているようだ。
- 871 :学術:2019/03/30(土) 17:24:37.43 .net
- 世界の後鳥羽(世界に唯一認められてる世界ランキングにはいっている院)
- 872 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 17:25:35.55 .net
- >>871
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。
- 873 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 17:25:58.09 .net
- >>870
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。
- 874 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 17:26:30.51 .net
- >>869
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。
- 875 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 17:44:54.49 .net
- >>868
そんなもん御家人が許さないだろう
- 876 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 18:55:59.68 .net
- >>868
それが実現したとしても、引き続き「鎌倉殿」と呼ばれるのは源実朝だっただろうな
- 877 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 18:57:15.97 .net
- 「室町殿」と呼ばれてた足利義満
隠居して「北山殿」になってからも、権勢は変わらなかった
- 878 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 20:19:59.42 .net
- 徳川家康の「大御所」ってよく考えると凄い。
- 879 :日本@名無史さん:2019/03/30(土) 22:43:52.93 .net
- 鎌倉四代将軍九条頼経は隠居後は大殿と呼ばれていたな
前将軍を大御所とする呼称は、足利義満以降だと思う
- 880 :日本@名無史さん:2019/03/31(日) 15:47:05.59 .net
- 九条頼経は継嗣の頼嗣に将軍職を譲って、その後見人となっていたから、「院政」と
言えるかも知れない
だが、頼経は京都へ送還されてしまい、頼嗣もその後送還されたから、将軍家の院政は
潰えてしまった
- 881 :日本@名無史さん:2019/03/31(日) 16:26:24.84 .net
- >九条頼経
京に戻って九条家の当主になったの?
- 882 :日本@名無史さん:2019/03/31(日) 16:48:23.81 .net
- 九条の当主は別にいる。庶流だから関東に下ったの
- 883 :日本@名無史さん:2019/03/31(日) 21:08:38.10 .net
- んじゃ院政をやる資格などないだろ
- 884 :日本@名無史さん:2019/03/31(日) 21:30:49.99 .net
- 西園寺 寧子(さいおんじ ねいし/やすこ、正応5年(1292年) - 正平12年閏7月22日(1357年9月6日))は、鎌倉時代から南北朝時代の女性。
後伏見上皇の女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母。院号は広義門院。北朝を存続させるため、事実上の治天の君の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。
女性で治天の君となったのも、皇室に出自せず治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一である。
- 885 :日本@名無史さん:2019/04/01(月) 12:50:13.85 .net
- >>883
鎌倉で独自の勢力を築けばいいじゃないか
- 886 :日本@名無史さん:2019/04/01(月) 12:50:59.69 .net
- >>884
惜しいなあ
平安時代だったらインパクトあったのに
- 887 :日本@名無史さん:2019/04/01(月) 12:51:56.54 .net
- 令和天皇か
平成院の退位まで、いよいよ秒読みとなった
- 888 :日本@名無史さん:2019/04/01(月) 12:55:15.17 .net
- 院政の発想だと、退位じゃなくて譲位なんだろう。
- 889 :日本@名無史さん:2019/04/01(月) 13:28:07.65 .net
- 摂家将軍や宮将軍は嫡流から外れた庶流ばかりだぞ。殺されてもどうでもいい。
- 890 :日本@名無史さん:2019/04/02(火) 14:51:58.04 .net
- それじゃなおさら院政とは無関係
- 891 :日本@名無史さん:2019/04/02(火) 21:13:15.54 .net
- >>888
そういえば、メディアの報道も「退位」と「譲位」が混在しているな?
どっちが主流なんだろう?
- 892 :日本@名無史さん:2019/04/02(火) 23:21:46.00 .net
- >>884
広義門院って治天の宣告はしたけどその後に院政をやった記録はないんでしょ。
ってことは後光厳帝の親政だったの?
崇光院が帰ってきても譲位しなかったし。
- 893 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 01:12:07.99 .net
- >>891
正式というか法的には退位
>天皇の退位等に関する皇室典範特例法
>退位の礼
ところがネットで生前退位をググると一番上に「譲位」が来る。
退位でググると退位が上に来るが。
譲位としたい勢力があるのだろう。印象が全く違うからね。
- 894 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 01:20:09.17 .net
- ウィキだとしっかり院政やってるみたいだけど。
西園寺寧子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AF%A7%E5%AD%90
- 895 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 08:25:22.05 .net
- 女帝による院政か
- 896 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 08:26:18.17 .net
- しかも藤原氏だ、天皇家ではない
- 897 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 08:37:49.92 .net
- そう非常事態とはいえ、皇室に生まれていない人間による唯一の院政。
- 898 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 09:25:02.24 .net
- >>892
そもそも政務が停滞してた非常事態だから治天の君として院政をやってもらった。
- 899 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 15:10:13.42 .net
- 義詮やっちまったな。未来永劫非難されるだろうな。
光厳くらいどこかに隠れてればよかったのにね。
そういう点から見ると、後白河って身体が軽いよなw
- 900 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 15:55:04.70 .net
- 光明が先に南朝から返されてたけど
光明が治天の君はダメだったの?
一応後光厳の叔父だし
- 901 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 17:47:33.52 .net
- 叔父→甥はダメとか、先例がないとか?
北畠親房はそこまで読んでいた!?
- 902 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 18:08:01.85 .net
- >>901
そういえば、そうだな
院政時代にも、崇徳上皇は弟の近衛天皇に譲位するに当たって、天皇が弟では院政できないから、なんとか養子にしようと工作して失敗した
このときの遺恨が保元の乱の一因とさえ言われているから、天皇が弟とか甥だと院政ダメなんじゃないかな?
- 903 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 19:57:07.81 .net
- >>893
少し誤解しているようだが、政府が「譲位」ではなく「退位」にこだわるのは憲法上の問題。
即ち、譲位だと皇位が天皇家の「家職」となり、国民主権に抵触する。 「位を譲った」という形式は
絶対にアウトなわけだ。 これは今上の譲位希望発表の時にマスコミでも取り上げられた。
それと言葉の問題として「謙位」 ⊆ 「退位」であるので「譲位」の方がより意義に適っているのだが、
上記の理由で「譲位を使いたくない勢力」の意向をマスコミも忖度しているということ。
- 904 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 22:49:03.19 .net
- >>902
兄弟間の院政といえば後伏見→花園の例があるとはいえこの二人は養子関係結んでるんだっけ
そもそも光明にやる気がなかった可能性もあるし
幕府側も認めなかった可能性もあるかな
- 905 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 22:54:52.91 .net
- そとそも光厳が光明の院政敷いてた
兄弟間は良くておじおい間はないというのは
保元の乱もあって不例だったのかもしれない
- 906 :日本@名無史さん:2019/04/03(水) 23:30:56.84 .net
- 兄弟間の院政が確認できるのは、
後伏見→花園、光厳→光明、長慶→後亀山だけか?
やっぱり一統じゃなくて分裂してると色々例外がでてくるんだね。
- 907 :日本@名無史さん:2019/04/04(木) 12:37:09.12 .net
- 将来、令和帝が皇嗣殿下に譲位されたとき、院政を始める可能性があるな
だが、平成院がお元気であれば、二の院にとどまる
- 908 :日本@名無史さん:2019/04/04(木) 12:48:13.70 .net
- アフォからのレスを規制すべきだな
- 909 :日本@名無史さん:2019/04/04(木) 12:48:24.80 .net
- >>905
叔父と甥だったら、甥の親である弟が院政するのが筋だろう
実際に、両統迭立の経緯を見ると、天皇の位を巡る争いというより、「誰が院政をやるか」という争いがメイン
そのために、自分の直系を天皇にできるかどうかが勝負
- 910 :日本@名無史さん:2019/04/04(木) 19:27:24.49 .net
- >>903
すげーわかりやすかった、ありがとう
- 911 :日本@名無史さん:2019/04/04(木) 20:30:31.19 .net
- 昔ならともかく現憲法下で譲位という言葉を使うこと自体おかしい。
>>909
後白河は息子が即位する以上親父が即位してなきゃ具合悪いと言うことで
一躍日陰者から即位したんだよね。それがあそこまで長きにわたって
絶対権力者として君臨した。
- 912 :日本@名無史さん:2019/04/04(木) 20:40:24.76 .net
- 最初は中継ぎだったはずの人間が長く権力を行使したのは
白河もそうかな。後三条の本命後継者は弟だった。
悪運が強かったのか?邪魔な存在がどんどん死んでいった。
- 913 :日本@名無史さん:2019/04/04(木) 20:46:32.54 .net
- 後白河天皇も二条天皇への中継ぎの即位
- 914 :日本@名無史さん:2019/04/04(木) 20:57:16.32 .net
- そう、息子を即位させるなら親父も一応その前に即位させとけって扱い。
同じ中継ぎなら一度案が出た八条院にしとけば平和だったと思うが
崇徳にダメ押ししたかったのだろう。つくづく白河は因業深い。
- 915 :日本@名無史さん:2019/04/04(木) 21:11:17.75 .net
- 崇徳も重仁親王を近衛と同様中宮聖子との養子にと
頑張ればと思うけど忠通聖子親子が嫌がったのか
鳥羽がそれに反対だったのか
- 916 :日本@名無史さん:2019/04/04(木) 21:32:22.33 .net
- 女房に第一皇子を産ませたこと自体不快だったらしいよ>忠通
それじゃ難しいだろうね。
- 917 :日本@名無史さん:2019/04/04(木) 21:43:25.09 .net
- >保延6年(1140年)9月2日、兵衛佐局が崇徳の第一皇子(重仁親王)を産むと、
聖子とその父である関白・忠通は不快感を抱いたという(『今鏡』第八、
腹々の御子)。
- 918 :日本@名無史さん:2019/04/05(金) 01:20:30.31 .net
- 今上天皇は一貫して譲位と言ってるけどな
- 919 :日本@名無史さん:2019/04/05(金) 12:04:01.06 .net
- それが上意なのか?
- 920 :日本@名無史さん:2019/04/05(金) 13:06:59.60 .net
- でしょう。
- 921 :日本@名無史さん:2019/04/06(土) 15:17:52.73 .net
- 今上天皇は一貫して「譲位」と表現されているね。「譲位」と表現する報道機関もある。
そもそも、帝国憲法も現憲法も天皇の譲位や上皇の存在を想定していない。
したがって、憲法を何ら考慮する必要はなく、古例に従って譲位と呼べばよい。
- 922 :日本@名無史さん:2019/04/06(土) 16:31:09.57 .net
- そうだ
憲法に規定がないのは、退位も譲位も同じ
そろそろ憲法を改正すべき潮時だろう
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