2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

古代出雲王朝は実在した

1 :記憶喪失した男:2011/11/08(火) 12:26:00.54 ?2BP(1).net
sssp://img.2ch.net/ico/mac.gif
「古代出雲」
 日本の歴史において、まだ学術的に不確かな古代王朝。
 西日本を中心に支配した大和王朝の以前に、西日本を支配していた最古の王朝である。
 出雲が日本の古都のひとつである証拠に、日本神話の八百万の神々は、十月、神無月に出雲に集まり、出雲地方では、十月を神在月と呼ぶ。

歴史
 出雲は、もともと、小さな国にすぎなかった。当時の西日本には、渡来した中国系盗賊団が住み着いており、先進的な武器を背景に、日本の先住民を支配し、搾取していた。
 そこに、出身地不明の旅人スサノオがやってくる。スサノオが出雲に来た時、渡来系盗賊団ヤマタノオロチが、出雲の領主の娘を生贄に差し出すように要求していた。
それを聞いて、出雲の領主の娘クシナタ姫を救うために、スサノオは十握の剣を武器に旅に出る。
 そして、なんと、スサノオは一人で渡来系盗賊団ヤマタノオロチを退治してしまったのだった。
 なお、スサノオは、渡来系盗賊団ヤマタノオロチの跡地から、製鉄された剣天の叢雲の剣を手に入れている。
 この偉業によって、スサノオは西日本先住民の英雄となる。出雲の領主の娘クシナタ姫と結婚したスサノオは、西日本の盟主として、出雲王朝の開祖となる。ここに、出雲王朝が始まる。
 西日本は、出雲を盟主に六代、時代を重ねたが、スサノオから六代後の大国主の時代に、政変が起こる。
西日本の盟主である出雲の王、大国主に、属国で新興国である大和が盟主の座を明け渡すように要求したのである。出雲の王、大国主は、大和に服従することを誓い、降伏する。
 出雲の王族、建御名方だけが反乱し、大和の軍と戦うが、敗れ、諏訪の地に逃げのびた。
 こうして、西日本の支配は、出雲から大和王朝へと移ったのである。俗にいう「国譲り」である。
 大和王朝の王は、日本神話の最高神である太陽神天照の子孫を名のり、出雲の建国の王スサノオを天照の弟とした。
これにより、大和王朝の王家、いわゆる天皇家がスサノオの子孫(現代にも出雲千家として伝わる)よりも権威ある存在として認められ、君臨した。
 なお、出雲王朝のスサノオは出身地不明の旅人だが、大和王朝の王家である天皇家は風聞ではY染色体が縄文系だといわれており、日本の先住民が、日本の支配権をとり戻したことになる。

205 :記憶喪失した男!ninja:2013/09/14(土) 12:08:21.37 ?2BP(427).net
sssp://img.2ch.net/ico/mac.gif
あうあうあうあうあうああー

::::::::: へ( ^q^')ノ        日本人のほとんどが朝鮮半島から来た弥生人の子孫であることは、
:::::::::   (┐ノ          日本の古代王朝が、朝鮮半島に最も近い島根県の出雲にあること、
:::::::::: /            また、出雲族を征服した天孫族の天孫降臨の地が宮城県という朝鮮半島に近い位置にあることが、
::::::::::::::::::::::::::::::::: みごとに、裏付けていると思う。
我々、日本人は朝鮮半島から来たのである。

206 :日本@名無史さん:2013/09/24(火) 14:25:50.61 .net
五月に出雲大社大遷宮に行った

207 :日本@名無史さん:2013/09/24(火) 23:50:04.93 .net
大国主命は日本人で天照大御神は半島人
半島人によってクニを奪われ殺された大国主命
天照大御神〜仲哀天皇までは半島人で応神天皇〜今上天皇は日本人
半島人からクニを取り戻し天皇家乗っ取りを企てた神功皇后サイド
神功皇后は日本人
神功皇后は仲哀天皇の妻となり応神天皇を産んだ、しかし実は日本人である武内宿禰の子供
ここから日本人の天皇家が始まる
応神天皇を初代天皇としなかったのは天照大御神〜仲哀天皇までの系図をそのまま奪い天皇家としての権威を高める為
天照大御神〜仲哀天皇までも日本人として書き変えた

なんてことを思ってるんだけど意見あったら下さい!

208 :日本@名無史さん:2013/09/27(金) 07:30:38.21 .net
>>207
大国主は出雲の日本人。
天照は畿内の日本人。

209 :日本@名無史さん:2013/10/26(土) 08:00:17.59 .net
おまえらが出雲大社を
怨霊扱いし始めたから
日本が少子化した。

出雲大社が怨霊なんて
証拠はまったくないのにな。

210 :日本@名無史さん:2013/10/26(土) 08:05:04.66 .net
>>183
出雲=縁結び
は平安時代の記録にも
それ以降の記録にもある。
対して出雲が怨霊などと
言い出したのはつい最近の
妄想推理作家達のしかけに
オカルト好きがのっかっただけ。

なんたる罰当たりだ。

211 :日本@名無史さん:2013/10/26(土) 08:12:08.80 .net
ゲームでも怒れる大国主みたいにされてますな

212 :日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:15:44.67 .net
出雲王権はあったとしても
出雲大社が怨霊などというのは
まったく根拠のない
神を冒涜した愚行だ。

神話から勝手に都合のいい部分だけ抜き出して
出雲王権がどうとかいいながら
「国譲り」という大国主命の大事業については
無視ですか?

213 :日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:17:28.56 .net
今の日本の繁栄を見れば
大国主命が怨霊などではないことは
あきらかだろ。

214 :國學院大學ob:2013/10/27(日) 10:22:55.73 .net
さうですね。
大国主命が怨霊などというのは
「国譲り」という歴史的英断を無視した
ざれごとですね。

ちょうど昭和天皇の
終戦の御聖断により
日本国民の命が救われた事実を無視して
戦争責任だけをあげつらうような
ものです。

215 :日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:51:55.10 .net
怨霊の最大のデパートは、皇室なんだよ

216 :日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:26:14.80 .net
越の国はやはり物部一族なの?

217 :日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:27:10.21 .net
越も出雲もそうだし北九州も抑えてた
海沿いは全て物部が支配してたね

218 :日本@名無史さん:2013/10/27(日) 19:25:41.53 .net
もとは、岡山だろ?

219 :日本@名無史さん:2013/10/27(日) 20:52:30.91 .net
>>217
物部・・高野・・・海族の河野氏と言いたいのだろう。

220 :日本@名無史さん:2013/10/27(日) 21:00:05.07 .net
清和源氏に滅亡に追い込まれた、奥州安倍氏も国津神系にされて祖先の孝元天皇までの存在を欠史八代扱いされてるけど、
大彦命は、出雲大社に合祀されてるのかな?

安倍松浦氏なので自分の大元のご先祖にあいさつに行きたい。

221 :日本@名無史さん:2013/10/29(火) 13:37:49.14 .net
島根には格式高い一宮の物部神社があるし間違いないな

222 :日本@名無史さん:2013/10/30(水) 23:24:39.20 .net
 またまたユダヤンはそんなこといって。

223 :日本@名無史さん:2013/11/05(火) 12:05:34.89 .net
>>9
国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)は、古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。
訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。
出雲だけじゃないよ。

224 :日本@名無史さん:2013/11/05(火) 12:08:51.46 .net
>>221
物部神社は石見だよね。
大和が出雲に制して、封じるために石見の出雲境に職業軍人家系の物部氏を常駐させたんでしょ。

225 :日本@名無史さん:2013/11/17(日) 14:37:26.67 .net
古代の出雲と九州の関係を知りたい。
物部との関係の中でうまく説明つかないかな?

226 :日本@名無史さん:2013/11/17(日) 15:32:48.68 .net
天智系が出雲とかは?
天武→大海人(伊勢)→天→天照だったり。

227 :國學院大學ob:2013/11/17(日) 22:44:50.12 .net
ついに念願の出雲大社
参拝に行ってきました。
神有月と遷宮年が重なって
圧倒的な参拝客。

とくに女性が多い。
しかも美人。

怨霊だとかいう
古代史ゲーム的発想
はまったく感じず、
むしろ威厳と祝福に
満ちた神的パワーに
圧倒されまくりでした。
あの光景を見れば
怨霊説がひどい戯れ言だと
実感できます。

とにかくすごい。感動した。

228 :國學院大學ob:2013/11/17(日) 22:51:21.75 .net
地元のおばちゃんから
聞いた情報では
半島から韓国人が温泉に入りに
けっこう来ると言ってた。

あの地に行くと
地理的に
半島のなんらかの影響は
感じざるをえない。

229 :日本@名無史さん:2013/11/17(日) 23:00:14.99 .net
新羅はその昔、鶏を神聖視し食べなかったそうだ。
その頃、新羅から出雲へ移住した集団がいて、その集団の集落では今でも鶏を食わないそうだ。

230 :國學院大學ob:2013/11/17(日) 23:04:06.54 .net
本殿前には
「天皇陛下御下賜金」
の立て札と
「神セン料 秋篠宮 各宮家」
同じく
「神セン料 伏見宮 各旧宮家」
の立て札が。

これは古代の大国主命の
約束を現在の皇室が
守っていることの証で
皇室は神武天皇よりさらに
昔の出雲との約束を
数千年も守り続けているという
驚嘆すべき事実を確認できました。

また、現行の制度では
宮家とみなされなくなった
旧宮家も神の世界では
依然として宮家として
扱われているという
事実も確認でき、
じつに有意義な参拝となりました。

231 :日本@名無史さん:2013/11/17(日) 23:07:41.16 .net
>>228
昔から日本海側の重要な港(玄関口)だったのかもね。

232 :日本@名無史さん:2013/11/17(日) 23:09:00.44 .net
二拝(又は両断再拝=四拝)四拍手。一拝、、は神拝の基本的作法。
特に古来、四は拝礼の基本単位。、、、両断再拝(四拝)。四起拝、八開手(四拍手を一塊に、、、)
因みに、伊勢神宮の一般参拝者の古式作法(伊勢神官流)では、二拝。蹲踞。傾首して四拍手。一拝。(伊勢、宇佐、出雲、弥彦、、、等基本的に同じ)
和数では四はヨ。ヨン。ヨッツ(シでは在りません)//世、余、譽、良、佳、善、與、代、預 、、、

233 :國學院大學ob:2013/11/17(日) 23:34:06.15 .net
今年は伊勢参りの
流行ばかりがとりあげられがちだが
おそらく今年の出雲大社の神在月の参拝者は
空前絶後の数となるだろう。

全国からこの神在月に
出雲に集まった美女たちの
今後ははたしてどうなるのでしょうか。

そして、ついでに私の嫁探しも。

興味は尽きませんが
今宵はこのあたりで。

234 :日本@名無史さん:2013/11/17(日) 23:42:13.84 .net
出雲国造、千家。はスサノオ並びに大国主命(事之麻知命)とは関係無い天穂日命(天照大神の第二神子)並びにその神子、天夷鳥の末裔。

235 :日本@名無史さん:2013/11/17(日) 23:53:04.80 .net
出雲でスサノオが手に入れた草薙剣が熱田神宮にあるのって何か関係あるのかな?
尾張=終わり
熱田=有った
みたいな。

236 :日本@名無史さん:2013/11/18(月) 00:28:12.00 .net
ヤマト朝廷以外の王朝なんぞ存在してないだろ
存在してるしてる言ってるのはすべて後世の学者の仮説のみ

237 :日本@名無史さん:2013/11/18(月) 00:33:30.14 .net
そもそもヤマト朝廷の始まりってどこから?

238 :日本@名無史さん:2013/11/18(月) 01:46:50.15 .net
>>234
もとは、熊野神社を守ってたんだろ国造は。

239 :日本@名無史さん:2013/11/18(月) 01:48:14.77 .net
>>235
尾張氏出雲氏が同系で、大和に敵対してた

240 :日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:52:54.95 .net
出雲王国も丹後王国もあったんだろうな。記紀が出来る頃は、衰退して
いたんだろうね。
出雲大社や籠神社、伊勢神宮に痕跡が残る。

241 :日本@名無史さん:2013/11/18(月) 23:59:13.90 .net
大吉備王国の最大版図の東端は明石(明石郡=神戸市垂水区含む)迄有った?
そうすると、あの場違いな?吉備型の巨大な前方後円墳の五色塚古墳があるのも何となく理解出来るかも? (どうやら対岸の三対山(岩山の洞窟はイザナギ(天照神)の幽宮伝承地)に対峙するような構造)
軍事的な要衝でもある淡路島も吉備国の勢力がおさえていたのかもね。

242 :日本@名無史さん:2013/11/19(火) 06:20:23.47 .net
大吉備王国って何?
桃太郎さんのお国?

243 :凍結拳:2013/11/19(火) 06:57:58.11 .net
マリオ、ルイージ、ピーチ姫

244 :凍結拳:2013/11/19(火) 07:05:59.61 .net
243は桃太郎に子孫がいた場合の話

その子孫が男と決まっているわけではないから

245 :日本@名無史さん:2013/11/19(火) 21:04:49.71 .net
そんなものあったわけないだろ

246 :凍結拳:2013/11/19(火) 21:50:18.63 .net
桃太郎もスサノオの話なのかな

247 :日本@名無史さん:2013/11/19(火) 22:41:48.14 .net
鬼無のみなさーん、お元気ですかー?

248 :國學院大學ob:2013/11/20(水) 12:36:28.57 .net
相変わらず
フィールドワークをしないやつらばかりだな。

出雲風土記を読むと
必ずしも
大国主命=出雲大社
とは限らない可能性がある。

そもそも出雲大社の
御神体は数千年たった
今でも謎とされているのだ。

この事実をなんと見るのか?

249 :日本@名無史さん:2013/11/20(水) 21:06:23.83 .net
現地を訪れたことの
ないやつらは
悲運の国造、北島国造家のことは知らないだろう。

250 :日本@名無史さん:2013/11/20(水) 21:07:58.68 .net
>>249
行ったことあるけど知らん。

251 :日本@名無史さん:2013/11/20(水) 21:40:21.70 .net
>>248
なんとみるも糞も、おまえのいってることは何とでも言えるようなレベル
伝承も文献も自分に都合わるいものはすべて後世の捏造といってれば
明らかなものでも「そうとは限らない」だの「謎だ謎だ」と言い張れるだろうよ

252 :日本@名無史さん:2013/11/21(木) 11:17:53.72 .net
>>248
謎とされている?
どんな謎なんだ?
誰が謎にしてるんだ?

253 :日本@名無史さん:2013/11/22(金) 12:47:59.45 .net
こんなやつらしか
いないのかこのスレは?

254 :日本@名無史さん:2013/11/27(水) 21:15:15.63 .net
やはり
それなりの大学出たやつ
でないと話しにならないな。

255 :日本@名無史さん:2013/11/27(水) 23:35:58.04 .net
>>254
で、おまはんの出た大学は?

256 :日本@名無史さん:2013/11/28(木) 21:12:27.26 .net
前から書いてあるだろ!
國學院大學だ!

東大か早稲田のOBクラスじゃねぇと
俺と対等に話そうなんて
百万年早いわ!

257 :日本@名無史さん:2013/11/28(木) 21:39:41.53 .net
すごいでちゅねー

258 :日本@名無史さん:2013/12/05(木) 01:40:49.81 .net
なるほど、「それなり」なら、国学院なんてまったく論外だわなw

259 :國學院大學卒:2013/12/06(金) 00:51:07.31 .net
現地に取材して、俺なりの仮説が
ひらめいた。

すなわち出雲王権なぞ
なかったということだ。
あったのは出雲神権!。
その圧倒的な神の力で
列島各地に影響力をもっていたのだ。

しかし、それは大和朝廷のような
軍事力をもった王権では
なかったのだ。

260 :日本@名無史さん:2013/12/08(日) 14:00:08.08 .net
見事な仮説だ。
圧倒的な神の力でというところがすごいじゃないか。
さすが出ている大学がいいと、発送もお見事だな。

261 :名門國學院大學卒:2013/12/15(日) 22:33:48.55 .net
圧倒的な神の力は
出雲大社に行けば
わかるやつにはわかる。
古代人ならなおさらだ。

262 :日本@名無史さん:2013/12/17(火) 11:58:24.73 .net
そりゃあ、国譲りがあったんだから。
範囲はどこまでとか、子孫がどうなってるとか、よく分からんけどな。
神武が嫁をもらってるから、ヤマトにも子孫がいたんだろ。
180人の子がいるらしいからさ。

263 :日本@名無史さん:2013/12/17(火) 16:51:18.56 .net
>>259
現地取材してってww

264 :国士無双:2013/12/18(水) 19:47:50.83 .net
>國學院大學卒殿、

出雲神権説、まことに
見事な仮説ですな。
あっぱれ!

265 :日本@名無史さん:2013/12/19(木) 13:11:42.66 .net
スサノオの子孫が開拓し、ホアカリの子孫が豊かにし、ニニギの子孫が
王になった国ってことかな。
そんで、ホアカリは氏族の伝承には残るが、天皇家の正史には書かれない。

266 :日本@名無史さん:2013/12/19(木) 13:25:25.00 .net
 ↓                    ↓

「1億3000万人の人物が出てくる読み物か。。。無理だ」

267 :日本@名無史さん:2013/12/26(木) 21:00:40.15 .net
>>265
典型的な電波説。おまえが本物の>>248だろ

268 :日本@名無史さん:2013/12/27(金) 22:58:27.00 .net
ラノベスレか
つまんね

269 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 01:39:43.31 .net
古代史関係のラノベスレ率の高さは異常

270 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:32:04.78 .net
出雲大社ってのは福岡筑紫の王だった大国主が倭国(筑紫)を追放され
建てるのを認められた大型建造物だぞ。
出雲は所詮筑紫には頭が上がらない地なんだよ。
よって出雲大社の本殿は筑紫(西)を向いて建てられている。
西というのは大国主の故郷の筑紫(福岡博多湾岸)なんだよ。

271 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:33:35.04 .net
国譲りとは・・・
一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため
出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。

しかし真実はなんの事はない。
大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。
倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」
大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。
もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。
国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。
筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい出雲に移住(追放)された。

だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、
後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族や邪馬台国の頃の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。
何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。

この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。

ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」

また天孫族が元々いたのは志摩国、
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾岸である。

272 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:36:09.86 .net
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg
綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界・元海もとうみ)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg
卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。

273 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:36:48.45 .net
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
 魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
 後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」

元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
 唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
 倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
 今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」

旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
     日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
     筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」

このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。

「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。

274 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:00:15.20 .net
〜まとめ〜

「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」

(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)

倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。

魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。

魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。

大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。

275 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:04:19.79 .net
伊都国(倭奴国)と位置関係

☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
  現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。 
  それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。

☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
  福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
  「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
  これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
  自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
  これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
  元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。

☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
  伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
  現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
  今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
  福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
  要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
  当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
  基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
  (北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)

276 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:06:31.10 .net
古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述

倭人伝:「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
     
     (今までの道理行程を振り返ると、その場所は会稽郡東治(紹興市)の東にある)

      つまり、魏使は帯方郡から、九州に上陸してからも基本ばずっと南下してたと勘違いしている明らかな証拠だな。



「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」


現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。

277 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 23:44:24.23 .net
NHKスペシャル「伊勢と出雲のミステリー」を見た

うろ覚えで反論させてもらいますが
NHKスぺ遷宮では出雲側と共存したとか美談にしてますがそれはおかしいんじゃないかw

大国主のように神に祭り上げられるのは、菅原道真や平将門がすぐに思いつくが
両者とも殺されているwそして祟りを恐れて神に祭り上げられている
まったく大国主と同じでしょう。大国主だけ共存とかおかしいでしょ

しかも記紀によれば地上の支配から神様の領域とかの支配にされたってwwww
殺されたってことではっきりしてるしw
しかも息子は2人とも行き方知らず、おまけに出雲大社の宮司はアマテラス側子孫じゃないか
せめて宮司が大国主子孫でなきゃ共存などと美談で括れないだろ

アホだろNHKwww

大国主を祭り上げる目的は主にふたつ
 祟りを静める
 そのとき新参側だったアマテラス側は国を支配するには
 それまでの出雲の御威光が必要だったから祭り上げた

278 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 13:48:43.06 .net
俺が満州をはじめとするお前らキチガイ三国人どもに教えてやろう。

倭国はざっと
大国主(金印をもらった倭奴国王から代々)→卑弥呼→大国主(倭奴国王の王統)→天孫族

へと支配者が変わったんだよ。ざっとだぞ。また必死に壹與がいるとかちゃちゃ入れてくんなよ。

卑弥呼が女王となった倭国は 一時的 にという事だ。
倭国連合が乱れ 卑弥呼 が共立され倭国の一大卒、伊都国の大国主の元にいたという事だ。
そしてその卑弥呼が直接治めるのが 伊都国のすぐ北の斯馬国〜奴国までということだ。
つまり奴国までが倭国だ。

天孫族はその間ずっと大国主が治める倭国〜卑弥呼が治める倭国とずっと斯馬国を拠点に
倭国を形成する一国の首長(王)として暮らしてたわけだ。
これが「神武以前の32世は筑紫の日向宮に都があった」につながる。

朝鮮の文化は奴隷だった朝鮮半島から流入したもの。朝鮮人が伊都国や斯馬国やその他の
倭国の国に家来として入ってきたものだろうな。

証拠に、天孫族はことあるごとに、自分たちの故郷は「筑紫(福岡)」「筑紫(福岡)」と明言してる。
もし、天孫族が朝鮮人なら筑紫を治める前に自分たちは「韓国のどこどこからやってきた」と明言するだろう。
「筑紫」ことあるごとに明言するのに、「韓国」を明言しないという事は、天孫族の故郷は「筑紫福岡」だという事だ。
もちろん家来や舎弟には朝鮮人は混ざってたのは否定せんがな。

279 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 13:49:47.26 .net
そして、天孫族は次第に倭国内で影響力を大きくし、
倭国の超名門「伊都国(倭奴国)」を落とす。
これを、 天孫降臨 として記紀に記したのだろう。
記紀には 天孫降臨 の際、戦闘があった事は明記されてる。
つまり、朝もやを掻き分け(奇襲か??)伊都国を陥落させる。
その作戦成功の爽快感から伊都国の高千穂に立ち、
「この地は韓国に向かい笠沙の御前を真来通り朝日が真っ直ぐ刺し夕日がよく照る所。故に吉き地なり。」と
感激したのだろう。
ちなみに俺はこの「笠沙の御前」という表現。
これは「歴代の倭国王の王墓(古墳)の御前を真来通り」という事なんじゃないかとも思う。

そして息子が治めていた伊都国を落とされた博多湾岸の大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい倭国の国外の遠い所、出雲に追放(移住)される。

ここに天孫族による倭国の乗っ取りが成功するという事だよ。

そして筑紫の覇者になった天孫族は、筑紫の国土自体を天孫族が作った国産みや
筑紫の神々(豪族・王)は天孫族に支配されるべき事を正当化するために
筑紫神話や古事記があるという事だ。 日本書記は後に筑紫から派生した大和がつごうよく
もじっただけなんだよ。

ちなみに博多湾岸の大国主の地、千代の近くに「堅粕・かたかす」という地があり、
交差点名は「潟州・かたす」なんだな。 なんとも意味深だな。

要するに、倭国の聖地は糸島の伊都であり、天孫族の聖地はその北の斯馬(志摩)だろうな。
君が代も最終的には志摩の桜谷神社につながる。なんとも感慨ぶかいな。

三国人どもは日本古代史の誘導あきらめろ、ボケがw

280 :記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:5) :2014/01/06(月) 08:29:36.07 ?2BP(1000).net
sssp://img.2ch.net/ico/mac.gif
おれは、なんとなく見えてきた。

日本人は、

縄文系 → 出雲系 → 天孫系 へと支配者が交代した。

そして、縄文系の遺伝的調査が急務だが、縄文系は、日本語の原型が縄文語であることに影響を与えている。
出雲系も、天孫系も、拠点が朝鮮半島に近く、渡来系なのは想像に難くないが、

「いずも」ということばが縄文語なのかどうかの関係を調べることにより、
いずもが日本人の国なのかどうかがはっきりすると思う。

281 :日本@名無史さん:2014/01/06(月) 10:26:31.73 .net
>>277
事代主は大和へ随行したが隅に追いやられた。
後に出雲勢の反乱を抑える為、大田田根子が登場する。

282 :日本@名無史さん:2014/01/06(月) 12:25:20.48 .net
時代背景から見て、出雲王朝があったとすれば、それは多分日本の地に
真っ先に鉄器を持ち込んだ者、あるいは輸入した者、あるいは鉄剣を持つ集団を利用
した権力が、鉄器の優位性だけで支配権を確立した集団ということだ。

ヒッタイトの例を見るまでもなく、道具の優位性のみで国家的政治権力を支配できる
期間は短い。出自や家柄をやたらと気にする民族性を持つこの土地において、出雲王朝
が伝承通り六代も続いたとすれば、それはやはり突然侵入してきた渡来系の専有支配
とは考えにくく、ある程度はこの地に根を下ろして久しい集団の主導による支配であったと
推測できる。

283 :日本@名無史さん:2014/01/06(月) 12:38:35.07 .net
ほら、お前らの為にまとめてやったぞ

倭国の覇者の変遷 大国主→卑弥呼→大国主→天孫族 へ

倭国はざっと
大国主(金印をもらった倭奴国王から代々)→卑弥呼→大国主(倭奴国王の王統)→天孫族

へと支配者が変わったんだよ。ざっとだぞ。また必死に壹與がいるとかちゃちゃ入れるなよ。

卑弥呼が女王となった倭国は魏志倭人伝の頃の 一時的 にという事だ。
倭国連合が乱れ 卑弥呼 が共立され倭国・邪馬台国の一大卒、伊都国の大国主の元にいたという事だ。
そしてその卑弥呼が直接治めるのが 伊都国のすぐ北の斯馬国〜奴国までということだ。
つまり奴国までが倭国だ。  
何故卑弥呼が斯馬国〜奴国までかというと伊都国は倭国にとって代々大国主が治める特別な存在(聖地)である。

天孫族はその間ずっと大国主が治める倭国〜卑弥呼が治める倭国とずっと斯馬国を拠点に
倭国を形成する一国の王、豪族として暮らしてたわけだ。
これが「神武以前の32世は筑紫の日向宮に都があった」につながる。

朝鮮の文化は支配下だった朝鮮半島から流入したもの。半島人が伊都国や斯馬国やその他の
倭国の国に家来として入ってきたものだろうな。

証拠に、天孫族はことあるごとに、自分たちの故郷は「筑紫(福岡)」「筑紫(福岡)」と明言してる。
もし、天孫族が半島人なら筑紫を治める前に自分たちは「韓国のどこどこからやってきた」と明言するだろう。
「筑紫」はことあるごとに明言するのに、「韓国」を明言しないという事は、天孫族の故郷は「筑紫福岡」だという事だ。
もちろん家来や普通の一般人として半島人が混ざってたのは否定しない。

284 :日本@名無史さん:2014/01/06(月) 12:39:28.14 .net
そして、天孫族は次第に倭国内で影響力を大きくし、倭国の超名門「伊都国(倭奴国)」を落とす。
これを、 「天孫降臨」 として記紀に記したのだろう。
(これは小大名だった織田信長が大国美濃を攻略し尾張美濃を領する大名になった時に
 天下に知らしめした 「天下布武」 と同じ境遇だろう。)
記紀には 天孫降臨 の際、戦闘があった事は明記されてる。
つまり、朝もやを掻き分け(奇襲か??)伊都国を陥落させる。
その作戦成功の爽快感から伊都国の高千穂に立ち、
「この地は韓国に向かい笠沙の御前を真来通り朝日が真っ直ぐ刺し夕日がよく照る所。故に吉き地なり。」と
感激したのだろう。
ちなみに俺はこの「笠沙の御前を真来通り」という表現。
これは倭国の「歴代の倭国王の王墓(古墳)の御前を真来通り」という事なんじゃないかとも思う。
実際に伊都国には古代より王墓と呼ばれる副葬品も素晴らしく豪華な古墳が多数存在する。

そして息子が治めていた伊都国を落とされた博多湾岸の大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい倭国の国外の遠い所、出雲に追放(移住)される。

ここに天孫族による倭国の乗っ取りが成功するという事だよ。

そして筑紫の覇者になった天孫族は、筑紫の国土自体を天孫族が作った国産みや
筑紫の神々(豪族・王)は天孫族に支配されるべき事を正当化するために筑紫神話や古事記があるという事だ。 
日本書記は後に筑紫から派生した大和がつごうよくもじっただけなんだよ。

ちなみに博多湾岸の大国主の地、千代の近くに「堅粕・かたかす」という地があり、
交差点名は「潟州・かたす」なんだな。 なんとも意味深だな。

要するに、倭国の聖地は糸島の伊都であり、天孫族の聖地はその北の斯馬(志摩)だろうな。
君が代も最終的には志摩の桜谷神社につながる。現代の聖地も伊勢志摩という事実もなんとも感慨ぶかいな。

285 :日本@名無史さん:2014/01/06(月) 12:58:54.69 .net
いつか俺が書いた一連の
>>271-276 >>283-284 の説ををまとめてパクった 本 を
別人が出版しそうな予感ww

そん時はお前らが、その説は俺が唱えてた説だと証人になれよ。

286 :日本@名無史さん:2014/01/06(月) 20:12:01.76 .net
>>285

名無史は遠くで吠えろ

287 :筑紫倭皇帝:2014/01/06(月) 23:01:16.97 .net
>>286
コテつけたったぞ。よろしくな。 それから>>274を改訂

「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」

(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)

倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。

魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。
参考資料:http://www.j-real.com/ta-san/yamatai/map3.jpg ←当時の魏使に北に向かうという概念が無かった証拠。
                              (九州島は正に(当に)会稽郡東治(紹興市)の東にある。)

魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。

大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。

288 :記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:5) :2014/01/08(水) 14:13:32.34 ?2BP(1000).net
sssp://img.2ch.net/ico/mac.gif
天皇家、徳川将軍家の遺伝型がともに、D2系の縄文系だと確定した。

これにより、出雲、大和が弥生系の征服王朝であるとするわたしの主張は、
完全にくつがえされたことになる。

出雲は、初代スサノオが旅人であることから渡来系かもしれないが、
天皇家は縄文系であり、神武は縄文系ということになる。

289 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 22:25:01.61 .net
ここでは誰からも相手にしてもらってないな。オウム福岡教徒。

290 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 23:34:07.02 .net
弥生系は、渡来、特に、後期渡来の百済渡来の遺伝形質と思う。

291 :日本@名無史さん:2014/01/17(金) 20:55:49.26 .net
>>290
渡来人とかはほとんど日本人の遺伝子プールには影響与えてない。
文化的にはインパクトは与えてると思う。仏教の発展とか。

292 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 02:48:04.90 .net
>>288
縄文系どころか、旧石器時代からだぞ。
日本のD2系が、Dから分岐したのは。
少なくとも、他のDから分岐して3万年くらい経過していると言われておる。
まだ、ネアンデルタール人がいたような時代からだ。

293 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 02:49:23.62 .net
>>288
皇室や徳川家(地祇系賀茂氏)だけじゃなくて、藤原氏も
D2系の可能性が高い。

294 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 03:36:11.61 .net
徳川家が加茂とか、家紋で判断とか大河内だのでたらめすぎるわ

295 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 19:20:46.47 .net
徳川家が賀茂だというのは、家紋からだけじゃないぞ。
賀茂氏といっても、大きく分けて二通りの家系があって
徳川家の賀茂氏は、地祇系の賀茂氏。
この一族は陰陽道で有名。

296 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 19:58:14.08 .net
賀茂は土蜘蛛の可能性がある。
賀茂を「ガモ」と呼んで鬼・妖怪といった意味で用いる地方がある。

297 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 20:46:53.56 .net
>>296
お前のトンデモには興味ない。

地祇系の太田田根子命の賀茂氏は、元は三輪氏で、
天神系のカミムスビ系の賀茂氏の婿に入って賀茂氏を名乗った一族のこと。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02148.htm

298 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 21:19:40.38 .net
>>295
なら家紋以外を証明してくれよ
松平家でなく家康のことだからね?

299 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 23:05:51.52 .net
>>298

徳川氏系図
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/sengoku/tokugawa/tokugawa_1.html

徳川氏系図補足
http://keizusoko.yukihotaru.com/tokugawa_zakkan/tokugawa_zakkan1.html

300 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 00:11:25.65 .net
だからさ、系図上なら、豊臣一門の木下も浅野も蜂須賀も小飼衆もみんな源氏庶流や北家だよ
今流行の目薬やの黒田も宇田源氏庶流になxとるわあくだらない

301 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 09:40:42.71 .net
徳川家は自称源氏だけど、どうみても、賀茂氏だろう?って話。
清和源氏の世良田氏の末裔の時宗の僧が松平家に
入り婿した話なんて出木杉ってこと。
賀茂氏は古代からの由緒ある家系だけど
中世においては微妙な一族。
中世においては、源平藤橘じゃないと出世で不利。

302 :301:2014/01/19(日) 09:48:55.07 .net
実は、あのあたりには、徳川家の本当の出自に関する伝承が多く残っていて

もともと、室町期に賀茂氏の所領の中に三河国松平郷があって、
賀茂氏の傍流として松平家がおこった。
そこに在原氏系の人物が婿に入ったのが松平信重。
そこへ再び賀茂氏系の婿に入ったのが、賀茂親氏で、名を松平信武にあらためている。
三河国松平郷を舞台に松平家が起こり、
そこで在原氏系と賀茂氏系が婚姻関係を繰り返したことも分かっている。

では、なぜ、源氏伝承が生まれたのかというと
実は、松平信重のもとに別の入り婿もいて、それが、後の世良田泰親だった。
つまり、賀茂親氏の義理の弟になるのだが、この人物が世良田源氏だった。

賀茂親氏は松平信武にあらため、長男の信広に松平宗家を継承させ、
これが松平太郎左衛門家になった。
一方、次男に松平信光がおり、これは平野に出て戦国大名になる。
この松平信光は、義理の叔父である松平(世良田)泰親の養子になったのでは?と。

だからこそ、松平信光は、賀茂信光とも、源信光とも名乗っている。

303 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 10:53:37.00 .net
という伝承をまにうけてる馬鹿だとわかったよ
とてつもない山奥の平野にすら住めない賊レベル家系が、コジキ坊主にのっとられたあ後の自称藤原時代の家系図詐欺に尾びれをつけたものを、
更には拡大解釈し、突如世良田源氏改称する家康に信憑性を求めているだけの持論だな

そもそもの世良田が家康が寝言かたった通り存続していたという事を証明してくださいよ

304 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 11:00:35.58 .net
そもそもが傍流なんて言う時点で松平事態に信憑性ないし

305 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 11:08:46.20 .net
系図なんぞは素人に毛が生えた知識で簡単に偽造できる。
知らぬ人や興味が無い人が見れば、へぇそうなんですか。
知る人が見れば突っ込み所が1箇所2箇所出来るが、そんな箇所は古く辿ればどの系譜にでもある。
各世代でいったい何人子を成したと思っておるのやら。
嫡子でも庶子でも嫡流の血の濃さは同じやぞ。

総レス数 1001
328 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200