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古代出雲王朝は実在した

1 :記憶喪失した男:2011/11/08(火) 12:26:00.54 ?2BP(1).net
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「古代出雲」
 日本の歴史において、まだ学術的に不確かな古代王朝。
 西日本を中心に支配した大和王朝の以前に、西日本を支配していた最古の王朝である。
 出雲が日本の古都のひとつである証拠に、日本神話の八百万の神々は、十月、神無月に出雲に集まり、出雲地方では、十月を神在月と呼ぶ。

歴史
 出雲は、もともと、小さな国にすぎなかった。当時の西日本には、渡来した中国系盗賊団が住み着いており、先進的な武器を背景に、日本の先住民を支配し、搾取していた。
 そこに、出身地不明の旅人スサノオがやってくる。スサノオが出雲に来た時、渡来系盗賊団ヤマタノオロチが、出雲の領主の娘を生贄に差し出すように要求していた。
それを聞いて、出雲の領主の娘クシナタ姫を救うために、スサノオは十握の剣を武器に旅に出る。
 そして、なんと、スサノオは一人で渡来系盗賊団ヤマタノオロチを退治してしまったのだった。
 なお、スサノオは、渡来系盗賊団ヤマタノオロチの跡地から、製鉄された剣天の叢雲の剣を手に入れている。
 この偉業によって、スサノオは西日本先住民の英雄となる。出雲の領主の娘クシナタ姫と結婚したスサノオは、西日本の盟主として、出雲王朝の開祖となる。ここに、出雲王朝が始まる。
 西日本は、出雲を盟主に六代、時代を重ねたが、スサノオから六代後の大国主の時代に、政変が起こる。
西日本の盟主である出雲の王、大国主に、属国で新興国である大和が盟主の座を明け渡すように要求したのである。出雲の王、大国主は、大和に服従することを誓い、降伏する。
 出雲の王族、建御名方だけが反乱し、大和の軍と戦うが、敗れ、諏訪の地に逃げのびた。
 こうして、西日本の支配は、出雲から大和王朝へと移ったのである。俗にいう「国譲り」である。
 大和王朝の王は、日本神話の最高神である太陽神天照の子孫を名のり、出雲の建国の王スサノオを天照の弟とした。
これにより、大和王朝の王家、いわゆる天皇家がスサノオの子孫(現代にも出雲千家として伝わる)よりも権威ある存在として認められ、君臨した。
 なお、出雲王朝のスサノオは出身地不明の旅人だが、大和王朝の王家である天皇家は風聞ではY染色体が縄文系だといわれており、日本の先住民が、日本の支配権をとり戻したことになる。

271 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:33:35.04 .net
国譲りとは・・・
一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため
出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。

しかし真実はなんの事はない。
大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。
倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」
大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。
もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。
国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。
筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい出雲に移住(追放)された。

だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、
後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族や邪馬台国の頃の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。
何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。

この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。

ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」

また天孫族が元々いたのは志摩国、
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾岸である。

272 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:36:09.86 .net
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg
綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界・元海もとうみ)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg
卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。

273 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:36:48.45 .net
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
 魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
 後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」

元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
 唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
 倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
 今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」

旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
     日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
     筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」

このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。

「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。

274 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:00:15.20 .net
〜まとめ〜

「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」

(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)

倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。

魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。

魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。

大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。

275 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:04:19.79 .net
伊都国(倭奴国)と位置関係

☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
  現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。 
  それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。

☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
  福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
  「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
  これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
  自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
  これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
  元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。

☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
  伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
  現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
  今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
  福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
  要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
  当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
  基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
  (北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)

276 :日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:06:31.10 .net
古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述

倭人伝:「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
     
     (今までの道理行程を振り返ると、その場所は会稽郡東治(紹興市)の東にある)

      つまり、魏使は帯方郡から、九州に上陸してからも基本ばずっと南下してたと勘違いしている明らかな証拠だな。



「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」


現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。

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