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豊臣の天下を続かせる上策はないものでござるか

1 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 14:04:33.29 .net
淀殿「太閤様がなくなられた・・よってこれより軍議を開く」

2 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 14:24:34.45 .net
>>1
さっさと家康を誘惑してこい。
〜終〜

3 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 18:02:50.40 .net
豊臣ー関白
徳川ー征夷大将軍

の公武合体しかないな。

4 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 02:37:59.24 .net
>3のいうとおり
公武合体、秀忠→家光前後で・・・

または

太閤死直後に暗殺→北政所・前田をバックに一気に制圧

くらいしか思いつかん。更に失敗・取りこぼしができない綱渡りだが

5 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 07:17:04.61 .net
逆に天下をさっさと家康に明け渡し、西国のどこぞで一大名になるのも手。

6 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 14:40:42.45 .net
秀頼を関ヶ原に出陣させれば良い
東軍についた豊臣恩顧の将は大義も戦意も失うだろうし
西軍からの離反者も少なくなるだろう

7 :細川忠興:2012/02/14(火) 00:51:36.78 .net
>>6
どうだろうか?

秀頼連れてきても年齢的に傀儡なのは目に見えてるし、却って家康的には美味しいかも。戦場なら三成共々切腹したとか言えそうだし、正則達も高台院に言質とってるやろうし。

8 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 00:11:57.42 .net
秀忠を秀吉の猶子にし、関白の位につける。

9 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 05:33:38.34 .net
豊臣家を存続させる方法は結構ありそうだが、
豊臣家の天下を存続させるとなると、これは難しいなあ。

とりあえず、三成がおとなしく引退してれば何とかなったんじゃないの?
家康は上杉に所替えを命じて、北に追っ払う。会津には親徳川の大名を入れる。
これで上杉征伐は一件落着でしょ。

10 :日本@名無史さん:2012/02/23(木) 20:46:02.09 .net
>>9
豊臣家の存続だけなら秀頼が千姫を孕ませて
男の子を産ませるだけで良かった
秀忠の外孫が豊臣家の三代目になる訳だから
徳川一門として遇されたからな

11 :日本@名無史さん:2012/02/24(金) 12:00:37.24 .net
やっぱり当人にその気が無くても「担ぐ」輩が必ず出て来るからな。
政敵は根絶やしにするしか無い。だから豊臣家の存続さえ不可能だろう。

出家させて寺に入れる手法は、源平時代に破綻した。だから足利義教は
幼い結城の兄弟を斬った。かく言う家康も、秀頼の男児は大阪落城後に斬っている。

唯一可能性があるなら、家康の死より豊臣家が永らえることだろう。
温和な秀忠ならあるいは・・・。

12 :日本@名無史さん:2012/02/24(金) 13:10:44.04 .net
いやそんなことはないよ。それに秀忠は別に温和ではないし
ただし豊臣家は大坂からの転封は承知してもらわないといけない

13 :巴御前:2012/02/24(金) 18:02:50.59 .net
転封・減封は必須やね。

公家になれば死なずには済むかもしれない

しかし少なくとも家康が死ぬまでか、秀忠側近が安心するまで土下座続けないと殺されるか、挑発されるか、体力削られるよね。
天下云々はそっからの話

14 :日本@名無史さん:2012/02/24(金) 22:09:52.08 .net
織田のように家康・秀忠が同時に死ねば
何とかなるか?

15 :徳川綱吉:2012/02/25(土) 00:36:40.07 .net
>>14
うーん。その場合結城秀康と松平忠吉次第でなかろうか?

家光が生まれてるがにもよるが、ここが揉めなきゃ内紛が始まらない。
徳川老臣陣はまだ今川統治時代知ってるから織田みたいにはならん気がする。

16 :日本@名無史さん:2012/02/25(土) 05:42:02.91 .net
関東に移れば、徳川将軍家の女婿なんだから厚遇される
あとは家光に対して忠長状態にならないかどうかの問題が残るけど
秀頼がさっさと子づくりして家督を譲り、幕府体制傘下の大名になればおk

しかしそこまで踏ん切りがつかないだろうね。今でも損切りが出来ずに倒産する企業はたくさんある
秀頼が討伐されたのは結局、官位その他から見て幕府体制に入りきらなかったんだから

17 :日本@名無史さん:2012/02/26(日) 21:25:54.27 .net
淀殿を芳春院のように江戸表に質として差出し、家康が死ぬまで時間を稼ぐ。

18 :日本@名無史さん:2012/02/27(月) 18:19:07.32 .net
>>17
淀殿が大阪城のあるじ状態だったのに、人質で江戸下向を受け入れるかなぁ。

19 :日本@名無史さん:2012/02/27(月) 19:07:18.42 .net
>>18
そういう意味では追い出したい連中もいたんじゃなかろうか?

秀頼側近とか、秀頼の意志を上回って淀君がやりたい放題で押し通されたら腹立たしいと思ってないだろうか?

20 :日本@名無史さん:2012/02/28(火) 14:28:40.13 .net
生母の江戸下向、大坂城からの転出
どちらも徳川体制に従う意思表示だから、淀殿がかりに行きますと言っても
豊臣家中の強硬派が阻止しないとも限らない、それはそれで家中内紛と言うことになりかねず

淀殿が懸命に説得すれば可能は可能かも知れないが

21 :日本@名無史さん:2012/03/01(木) 12:10:09.79 .net
家康が死ぬまで時間を稼げばいいのだから、一生江戸表にいるわけでもなし。
やっぱり秀吉が母と妹を人質に家康に差出したくらいのインパクトが無いと
逃げられないと思う。交渉事は相手の意表を突くのが勝ちだから。

秀頼が江戸に淀を送った後挑発して、淀を斬らせるくらいすれば大阪の
士気は上がり滅亡はしないだろう。

22 :日本@名無史さん:2012/03/02(金) 20:37:54.32 .net
豊臣家には大阪冬・夏の陣まで生き残ってもらって
冬・夏の陣は真田幸村に頑張ってもらう。

23 :日本@名無史さん:2012/03/02(金) 21:04:36.45 .net
秀康を羽柴家に戻して、豊臣秀康として、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を与える。
豊臣秀勝の女である完子を忠直の嫁とする。

家康が表だって反対しづらいし、潰しづらい上に、家康の言う通りになるとは限らない勢力になる。
徳川家の家臣団の分裂が起こる可能性もある。

24 :日本@名無史さん:2012/03/02(金) 21:21:24.32 .net
>>11
秀頼の遺児とは言っても側室の子で千姫が産んだ子供じゃないから
家康は千姫の事は非常に気に掛けてたから千姫の子で
自分の曾孫なら殺せないわ
それと家康は信康を切腹させた事を晩年まで苦にしてたから
甥の秀次(姉の子)を切腹させても全然平気だった秀吉より
実は肉親への愛情は深い人物だったと言える

25 :日本@名無史さん:2012/03/04(日) 01:15:00.31 .net
>>24
自分(家康から見て)の血を引く千姫の子と引かない(秀吉から見て)
秀次と同列に語るのはどうかと思う。
秀吉も自分の血を引くものだったら、対応を変えていたかもしれないし
反対に千姫が家康の孫ではなく、叔父の子孫だったら家康は容赦
しなかったかもしれない。
>>実は肉親への愛情は深い人物だったと言える
それはどうだろ?秀康が醜いから幼少時に会わなかったり、本人が
悪いにせよ、自分の危篤時にまで面会を許さなかった、忠輝に
対する対応から見ても、肉親の愛情が深いとは言えないだろ。

26 :日本@名無史さん:2012/03/04(日) 18:32:59.18 .net
家康の提案に従ってとりあえず上総安房の二カ国に大人しくおさまれば…

27 :日本@名無史さん:2012/03/04(日) 18:45:29.52 .net
秀吉は太閤になってからは嫌いだな。

でももし豊臣家存続させたいなら、家康を暗殺すべだった。

28 :日本@名無史さん:2012/03/04(日) 19:29:41.87 .net
>>26
国替えを命ずるとしても安房上総なんて実際にはやらんだろう
江戸湾の入り口を扼する重要すぎる土地だから
地生えの里見も潰されちゃって譜代に置き換えられたもんさ

29 :日本@名無史さん:2012/03/05(月) 13:34:26.71 .net
>>28
大坂城から出たら負けだよ。引き籠っているうちに秀頼が淀殿を殺せばいい。
掘りさえ埋まらなきゃ手は出せん。

30 :日本@名無史さん:2012/03/06(火) 18:09:19.05 .net
>>29
干上がったでござる

31 :日本@名無史さん:2012/03/06(火) 22:17:27.66 .net
>>30
大きい城だから、兵糧も水も十分にありそうなんだけど。

32 :日本@名無史さん:2012/03/07(水) 14:40:26.20 .net
家康を政権の中枢、それも首座に据えたのが間違いの始まりだったのだ
今度はとことん外様として遇することにしよう。
もちろん秀頼と千姫の婚儀も無し。

33 :日本@名無史さん:2012/03/08(木) 12:24:08.14 .net
とりあえず信玄さんに早々と殺ってもらう

34 :日本@名無史さん:2012/03/08(木) 19:32:53.53 .net
>>31
大きな城だから守るのに人がいる。勿論貯蔵量も大きいがね。

小田原攻めが良い例でんな

35 :日本@名無史さん:2012/03/09(金) 07:34:20.57 .net
>>31
大阪冬の陣では、豊臣方は開戦して間もなくで既に一日の弾数制限をしている。
いくら大阪城でも銃弾が無くなればもうアウト。

はっきり言えば大坂の陣は、味方の大名が現れないまま開戦した段階で既に詰んでいた。

36 :日本@名無史さん:2012/04/10(火) 12:29:43.98 .net
111 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 08:31:46
えー?参勤交代も五百石以上の船を大名がつくることを禁じたのも豊臣滅亡後だろ?
そもそも幕府のシステムがまともに形作られたのは家康の死後。
寺社、朝廷への制限も大坂落城以前はまったくと言っていいほど行なわれていなかったはず。
だから、その気になれば従二位右大臣の秀頼を織田信雄あたりが兵を引き連れ上洛させ
天皇に徳川討伐の命令を下させることも出来なくはなかった。
1614年頃の江戸幕府なんてそんなもんだよ。
だから佐竹も国許に「家康が死んだらどうなるかわからんぞ」と手紙を書いて、
前田も家臣を大坂に保険として入城させたんだろ。

だいたい、豊臣の直接治めていた領土を関ヶ原後、家康は取り上げたわけだが
当時は右大臣の秀頼を崇める傾向もあって、旧領主の豊臣へも税が定期的に納められていた記録が残っている。
徳川は見てみぬ振りをしてたんだろ。
なぜ見てみぬ振りをしたかと言うと、結局、当時は寺社も天皇も大名も完璧に抑えるシステムを作れてなかったからだわな。
豊臣を戴いて蜂起する外様が出ることを恐れ、実力を行使できなかったから。


114 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 12:32:23
ま、徳川が豊臣に注意を払い、そういったシステムを作れなかったのは事実
1614年の段階では諸大名と豊臣が結びつくことを恐れていたのは確かだわな
なぜ恐れていたかというと、少なくとも幕府が出来た直後の段階で徳川は意外に強固な力を得ていなかったんだろ
関ヶ原の合戦後における前田利長の「秀頼に忠誠を誓いたい」発言は徳川幕府が意外にパワーがなかった証しと俺は考える。


37 :日本@名無史さん:2012/04/10(火) 17:49:31.42 .net
こういう時系列の整理がついてないアホな議論をどうしてしちゃうのかねえ。

38 :日本@名無史さん:2012/04/10(火) 19:00:01.85 .net
普通に秀次が継いでいれば何ら問題は無かったし、逆に家康が滅ぼされていただろうな。
秀吉が自分自身で招いた劇だな。

39 :日本@名無史さん:2012/04/10(火) 19:00:32.19 .net
豊臣秀次を処分したのが原因。秀次は身を引いて秀頼を補佐する、さながら北条政村の術を心得ていたことは明らかでござる

40 :日本@名無史さん:2012/04/10(火) 21:29:58.23 .net
>>39
秀次本人が身を引いたのにも関わらず、
神輿として祭り上げよう勢力が出る恐れがあった・・・とも思えないなぁ。
豊臣氏は成り上がりだから、神輿になるほど貴重な血統というわけじゃない。

41 :日本@名無史さん:2012/04/10(火) 21:59:05.44 .net
秀吉が天下統一後に何らかの理由をつけて徳川を取り潰し
あるいは攻めていたらどうなった?
朝鮮出兵なぞやらずに徳川征伐をしていたら。

42 :日本@名無史さん:2012/04/10(火) 21:59:51.36 .net
北条政村は執権退任後、連署筆頭として若い時宗を補佐したことは、周知の事実でござる。
豊臣秀次も、関白退任後は、豊臣家筆頭年寄として秀頼を輔弼する用意は有ったのである

43 :日本@名無史さん:2012/04/12(木) 07:58:13.50 .net
>>42
北条家の統治システムがほぼ完成した時期と比較しても困るんだが。
鎌倉幕府と比較するなら

秀吉=頼朝 秀次=頼家 秀頼=実朝

ってみたほうがいい。

44 :日本@名無史さん:2012/04/13(金) 02:27:47.96 .net
朝鮮出兵した大名に大阪陣で浪人にばら蒔いた金を功労金名目でばら蒔く
これで安泰


45 :日本@名無史さん:2012/04/13(金) 09:33:31.65 .net
>>42
北条家は得宗と呼ばれる嫡流とそれ以外の傍系が明確化されていて
北条政村は本来執権になるべき得宗時宗が成人するまで
仮に執権の地位を預けられていたに過ぎない。
それに対して豊臣秀次は豊臣秀吉の正式な養子。
豊臣秀頼は生まれた際もただの秀次の弟扱いで、当初、秀吉自身、正室ねねへの手紙で
「我らの子は鶴松だけ(鶴松は豊臣家の嫡子としてねねが養育した)。
お拾(秀頼)は茶々の子とする(秀頼は庶子なので側室の茶々に育てさせる)」
と言わざるを得なかった。
つまり、秀次が死ななければ秀頼は秀吉の嫡子や跡取りとなれなかったということ。

46 :日本@名無史さん:2012/04/13(金) 12:27:45.71 .net
秀吉とねねとの間に嫡男がいたらな
問題なかった

47 :日本@名無史さん:2012/04/13(金) 12:49:17.53 .net
>>46
ねね云々というよりも・・・
鶴松は側室腹だったが、秀次を跡取りとする前だったので豊臣家の跡取りになれた。
秀頼が当初庶子扱いだったのは秀次を正式な跡取りとして秀吉の嫡子決定した後だったため。
応仁の乱のときも、足利義尚は将軍正室の御台所日野富子の実子だったが
すでに将軍足利義政が弟の義視を跡取りと定め嫡子扱いした後だったので
戦争しないと将軍になれなかった。

48 :日本@名無史さん:2012/04/13(金) 12:49:28.46 .net
秀長が継いでたら問題なかったんじゃないの?

49 :日本@名無史さん:2012/04/13(金) 13:01:23.39 .net
>>48
秀吉と秀長は3歳しか違わず、とても次世代の後継者にはできない。
現実に、秀長のほうが秀吉より早く病死してるし。
秀長にも男子がなかったので、やっぱり姉の子である秀次の弟を養子にしているよね。

50 :日本@名無史さん:2012/04/13(金) 13:26:31.06 .net
>>48
秀長が秀吉に忠実に仕えたというのも秀長がただの「弟」だったから。
仮に秀吉が秀長を正式な養子として跡取りに定め、関白まで譲ったのであったのならば、
秀吉に実子が生まれても権利を主張したかもしれない。
嫡子をころころ変えているようではどのみち豊臣政権は混乱しただろうし。

51 :日本@名無史さん:2012/04/17(火) 08:09:39.06 .net
徳川の子孫共も、いつ政府を転覆して
幕府を開こうとするか予断を許さないところがあるから
今のうちに根絶やしにすべきだな。

52 :日本@名無史さん:2012/04/26(木) 05:35:38.07 .net
徳川の実子であり、豊臣の養子である秀康とその子孫が豊臣の家督と関白位を継承する。

秀頼・秀忠とその子孫は特別な家柄(徳川の世の御三家を上回るような)として
秀頼系は太政大臣位、秀忠系は征夷大将軍位を継いでいく。

ただし、両者に実力を持たせては政権が安定しないので、
権力を持つのは関白のみで、太政大臣や征夷大将軍は
あくまでも名誉職とするようにする。

53 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 07:05:39.41 .net
豊臣秀吉の死により、豊臣勢が分裂したのは、文禄・慶長の役の失敗における確執が原因。
いわゆる5奉行とは、文禄・慶長の役における監軍であり、実戦部隊長(1〜9番隊長)の目付役で、
戦況が苦しくなってくると5奉行と実戦部隊長との責任のなすりつけ合いや作戦の反故などで関係が悪化、
それが後に豊臣軍勢の分裂の主因を招いた。

54 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 07:11:57.82 .net
>>53
追記

その分裂を上手く煽って利用して天下分け目の戦いに持ち込んだのが徳川家康。

55 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 07:39:21.79 .net
そういう時を考えると、
北条征伐中に秀吉が毒殺されたりしたら、どうなってたんだろうな。
秀次・秀勝を中心にまとめあげることができたのかどうか。

北条・徳川が組んで粘って、豊臣への反旗を煽ったら、すぐに瓦解したかもね。

56 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 08:56:25.01 .net
家康に関白を継がせりゃよかったんじゃね?

57 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 09:17:01.31 .net
そしたら豊臣の天下が続かないだろw

58 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 09:18:00.68 .net
>>57
なぜ?

59 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 09:25:55.05 .net
ボケたのかと思ったら素だったのか

60 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 09:36:25.34 .net
権力の正統性を「関白」という地位に求めるか、
「征夷大将軍」という地位に求めるかの違いか。

秀吉は当時の朝廷のごたごたを利用して関白になったが、
それがなければ源氏云々を抜きにして征夷大将軍を選んだのかなぁ。
秀吉以外の摂関家の待遇が問題になりそうだから。

61 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 09:46:40.02 .net
源氏か平家じゃないと将軍になれないよ
そして秀吉が源氏でも平家でもないことは全員が知ってた

62 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 09:55:10.17 .net
>>61
そんな決まりはありません。
江戸時代に後付けで言いふらされたことに今でも騙されているのか?

63 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 09:55:42.89 .net
ありましたよ

64 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 09:59:55.23 .net
>>63
無いよ。藤原氏の摂家だってなれるし。

65 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 10:11:46.24 .net
残念ながらありました
源氏と平家以外の者が将軍になっても世は治まらなかったので
そういった先例を重視して「源氏と平家に限る」となったそうです

66 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 10:26:31.71 .net
>>65
無いよ。最近の学説を読んでないの?

67 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 10:45:31.32 .net
>>60
秀吉は、小牧・長久手の戦いで徳川家康に破れ、征夷大将軍へ道が頓挫して、
その代わりとして公家社会の地位である関白という名と土下座外交で家康を臣従させて
天下を統一したのだよ。

当時の徳川家康は、武田軍団をほとんど丸抱えにできたから、非常に強かった。
その実力を小牧・長久手の戦いで悟った秀吉は、合戦で家康を倒すことを諦めた訳だね。

68 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 10:55:39.30 .net
>>67
随分古い時代の史観ですね。

征夷大将軍より上位にいた秀吉がなんで将軍なんぞに成らねばいかんのかと。

69 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 11:00:04.83 .net
>>68
将軍になるならない以前に、天下統一を果たさなくてはいけないというのが秀吉の考えだよ。
天下統一さえ果たせば、将軍になる必要もないから、関白の座を捨てて、太閤と称したわけだよ。

70 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 12:01:42.24 .net
大伴も坂上も紀も文屋も藤原もなれたのが将軍職。

71 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 12:07:02.77 .net
皇族や北畠もなったような…
家康を唯一抑えられた利家が死んだのが痛いんだろ。

72 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 18:28:12.18 .net
秀吉に関して言えば、関東平定をすれば将軍職を得られると朝廷の内諾を得ていた。
その後、小牧・長久手の戦いで徳川家康連合軍に敗れて、天下統一のための最後の布石として
将軍職を得ることがかなわなくなり、織田政権を乗っ取ったばかりの豊臣秀吉は、内部崩壊を招かないように
別の方法で権威付けを狙う必要があった。それが関白。

その後、秀吉は、天下統一を果たして支配体制をガッチリと固めると、関白の座は必要なくなり、
後継者に譲って、文禄・慶長の役に全力を傾ける。

そしてその文禄・慶長の役で明の征伐どころか、朝鮮の征伐にすら失敗して、豊臣税は内部不和を醸し出し、
秀吉の死によって、朝鮮から引き上げ、醸成した内部不和を利用して、天下を取ったのが徳川家康。

これが大略。

73 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 19:02:03.80 .net
>>1
結論的に言うと、文禄・慶長の役を起こさなければ、配下の大名の不満が醸成されず、
徳川家康に付け入るすきを与えなかった可能性が高まり、豊臣政権が続いた可能性が高い。

74 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 22:50:10.04 .net
しかし、文録・慶長の役も、内政の不満、特に国内での領国拡張が止まったことの不満を、外征でそらす目的があったわけで、やらなかったら、内政上の支障が出たかも。

75 :日本@名無史さん:2012/05/05(土) 07:22:58.23 .net
福島正則の例だと参議就任後五か月で辞任しているから、
結構こまめに辞めていると思う。
ただ先の中納言などと同じ感覚で、過去に就任した人たちに
そのまま敬意を払ってそれまで通りに扱い続けた可能性はあるだろう。

76 :日本@名無史さん:2012/05/05(土) 08:17:03.87 .net
>>74
たいした支障はでないだろうよ。そもそも「朝鮮に道を借りて、明を征伐する」などという秀吉の誇大妄想は
豊臣家臣団にも不満を持っていた人間が多い。

現実に朝鮮と折衝にあたっていた人間たちは、明の外交担当者と組んで、双方の為政者に嘘の報告をして
戦役を止めようと必死だった。特に日本側は・・・。

また朝鮮の役の最中、明との講和にあたった現地指揮官たちも、秀吉に嘘の報告をして戦役を終わらせようとするなど、
秀吉に対する反発は、戦役中にも醸成されていた。そのことからも、最初から反対だった者もかなりいると思われる。

もともと戦役に反対だった小西行長たちはともかく、好戦的であった加藤清正にしても、後には、秀吉の意に逆らい、
戦線の縮小を求めるようになる。

77 :日本@名無史さん:2012/05/05(土) 08:36:29.13 .net
家康を殺しとけばよかったんだ。

78 :日本@名無史さん:2012/05/05(土) 08:37:05.58 .net
>>76
訂正

X  現実に朝鮮と折衝にあたっていた人間たちは、
○ 現実に明との折衝にあたっていた人間たちは、


追記
朝鮮との折衝でも、日本側の人間は、なんとか戦役を食い止めようと虚偽の報告を秀吉に上げ続ける。

79 :日本@名無史さん:2012/05/05(土) 08:42:40.54 .net
>>77
家康を殺していても、肝心の豊臣家臣団が事実上、内部分裂していたので、
それに乗じて、毛利氏や上杉氏などが蠢動して、家康の後釜に座った可能性が高い。

あるいは、豊臣家臣団の分裂から、石田三成とかそれに敵対する豊臣重臣の戦いの結果、
勝者が豊臣家を乗っ取った可能性が高い。織田勢力を乗っ取った秀吉のように・・・

80 :日本@名無史さん:2012/05/05(土) 09:16:48.20 .net
とりあえず福島正則を中心とした家臣団の編成を行っておくべきだった
少し頼りないが他の誰よりも納得させられる人物ではある。
朝鮮征伐末期では全羅道討伐を、福島正則に石田三成、増田長盛を付けて行う
計画があったとか。
関ヶ原の戦いでは石田三成は福島正則が味方に付くものと信じて清州帰城を待っていた。
徳川家康は豊臣家臣団切り崩しの一番の標的にしている。
どう考えても豊臣家臣団の中核として皆を納得させられる立場に居たのは福島正則しかいない。

81 :日本@名無史さん:2012/05/06(日) 09:55:02.21 .net
>>79
家康は秀吉の極めて近い親族として秀吉によって豊臣家一門ナンバー2の地位に押し上げられていた
毛利や上杉は秀吉と何の姻戚関係も持たずポスト豊臣たりえたとは考えにくい
家康は秀吉の妹婿、秀忠は秀吉の義理の息子(養女の婿)として
斎藤道三から美濃の譲り状を受けた織田信長の如く
ある意味正統に豊臣家を乗っ取る権利を主張した
それによって秀吉の実の息子(系図上はね)が殺されたのは皮肉だったが

82 :日本@名無史さん:2012/05/06(日) 10:35:31.13 .net
七将が石田三成を討ち果たしていれば、関ヶ原は起きなかった。
多分、徳川家は、鎌倉幕府の北条家のように、執権として権勢を振るったかも知れないが、豊臣家は、形式的にせよ主家として残ったのではと思う。

83 :日本@名無史さん:2012/05/06(日) 11:17:47.39 .net
>>82
北条執権時代の鎌倉幕府将軍は軍事力を持たず
成人になれば京都に送り返されていた
関東にいる徳川家が大坂の豊臣家を
幼関白のみを輩出する傀儡とするのは難しい

84 :日本@名無史さん:2012/05/06(日) 17:31:47.03 .net
豊臣秀康を従三位権大納言にし、併せて石川数正、小笠原を付家老としたうえで、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五ヶ国の大名にしていたならば、徳川に対する強い楔と為った可能性外山高士

85 :日本@名無史さん:2012/05/06(日) 17:51:59.51 .net
秀康は、当時不治の病だった梅毒にかかっていたから、寿命が問題。跡継ぎも忠直だし。
それと、秀康は、うとまれているとはいえ、家康の息子、それに大封を与えるリスクもある。

86 :日本@名無史さん:2012/05/06(日) 18:11:41.15 .net
>>84
秀康は秀吉に鶴松が生まれた時点で結城家へ養子に出されてるよ
実子(多分)が生まれた時点で養子関係を解消されている

87 :日本@名無史さん:2012/05/06(日) 23:13:10.83 .net
秀次を切腹させたのが最大の失敗だったかも
秀次を秀頼が成人するまでのつなぎとしていれば家康に天下を簡単に
奪われなかったかも

88 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 02:10:26.77 .net
秀頼が生まれなきゃ良かった

89 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 03:54:56.75 .net
>>87
正式な養子にして、関白まで譲った秀次を、秀頼が生まれたからといって、中継ぎにするのは難しい。
だからこそ、秀次が殺された。
秀頼を秀次の養子にして、次を約束させるのが関の山だが、守られるかは、別問題だな。

90 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 04:13:44.14 .net
豊臣の天下を諦め、徳川の一大名になるのが現実的だった。豊臣政権下の織田秀信みたいにね。
先祖帰りして、猿になったつもりで千姫と子作りに励み、家康外孫に家督を承継させる。
大阪城を返上、本領を、常陸、甲府、館林あたりのいずれかとし(あとは領地を分散して合計60万石はキープ)、江戸定府。
関白は返上させ、秀頼の次の代からは、極官を正二位内大臣とする(大臣家並み)。





91 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 07:32:28.21 .net
>>90
秀頼と千姫の間に子が生まれなかったのは運命。
後世の小説で淀殿が千姫を故意に寝所から遠ざけていたというのもあるが
実際にはそのようなことはなかったらしい。
もし・・・と言い出してもね。


92 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 10:44:25.47 .net
>>6
家康を大阪城内で謀殺するいがいでは関が原が一番のポイント。
毛利家主力と豊臣家の主力が大阪城で待機してなきゃ家康は関東で逼塞してた。


93 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 10:54:50.84 .net
関が原の時点で、豊臣方には柱がないからなぁ
家康暗殺できてたとしてもグダグダでしょ
南北朝みたいになる気がする

94 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 14:25:56.40 .net
関ヶ原時点で豊臣秀頼8歳
家康暗殺してあと6,7年ぐだぐだして時間稼ぎできれば豊臣政権は持ったかも
家康は秀頼の成人を待たずに征夷大将軍就任・嫡子秀忠への征夷大将軍委譲を行っている

95 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 19:40:37.74 .net
成人しても豊臣秀頼の能力では天下を保つのは難しい

96 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 19:49:57.68 .net
政権が盤石なら個人の能力は関係ないんだがな
江戸幕府将軍も歯ぎしり将軍やらおもらし将軍やら幼将軍やらいろいろいただろ

97 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 20:49:17.69 .net
西軍の諸将に囲まれ戦時下に育てば
大阪の陣の時よりは頼りになる大将になってたかもな

98 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 21:28:46.06 .net
秀次を生かしとけばよかった

99 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 21:36:31.38 .net
淀が遠慮して、北政所を秀頼が成人するまでの豊臣家の代表にして
いれば、加藤、福島、黒田は東軍に組しなかったのが、ほぼ確実
だろうから、徳川の天下はなかったと思う。

100 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 23:34:19.09 .net
>>98
条件は違うが同意。
むしろ、秀次が「 太閤は自分より年齢が上、おとなしくしていれば直に死ぬ」
と一歩先の思考で、秀頼に関白譲位を進言、自ら吉野か高野山に出家する。
秀吉のマークも緩くなるので、その死後に天武天皇ばりに豹変する。
形は違えど、豊臣の 血は守られると思う。

101 :日本@名無史さん:2012/05/08(火) 04:35:46.61 .net
素直に徳川に禅譲しとけば
家だけは残ったんじゃないかと

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