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邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった

1 :魏使の旅程:2012/03/12(月) 22:40:30.26 .net
邪馬台国は当時の天体測量の結果楽浪郡の南一万二千里、すなわち宮崎の何処かにあった。会稽は帯方郡の南一万二千里にある。編者陳寿は郡を取り違えた可能性が高い。

144 :日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:24:53.16 .net
相当むかしは火国(日国)といって熊本+宮崎だったらしいが、それはべつとして、
上古には、今の阿蘇・高千穂・五ヶ瀬・蘇陽(今の山都町)辺り、
つまり阿蘇高原+南山岳地帯ををまとめて知保郷といい、どうやら隈本(熊本)とは別扱いだったらしい。

145 :日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:27:03.32 .net
邪馬台国の中に女王之都があり、陳寿はこの国(邪馬台国)を女王国とも書いている。

146 :日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:30:37.56 .net
>邪馬台国の中に女王之都があり、陳寿はこの国(邪馬台国)を女王国とも書いている。
分かってないな。 奴国が女王の尽きる所とあるのだから女王国には旁国が含まれる、邪馬台国は
旁国を含まない、当然のことだよ。女王国とあるからといって邪馬台国と同視してはいけない。

147 :日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:41:16.89 .net
延喜式では多分高千穂あたりを智保郷と言っていたけど元は阿蘇あたりを中心とする名だったのかな

148 :日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:41:52.10 .net
>>143
旧百余国の時代には確かに違う国だったんだろうね。しかし、南九州の勢力が北九州と
戦う時代にはどちらが熊本を味方に引き込むかという問題になるんだよ。
おそらく南九州が熊本を征服したか少なくとも手を結んだ。その結果、倭国の乱で南
が勝ったのだろう。

149 :日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:43:05.83 .net
>>146
そのことですか
「女王国」と、此女王境界所盡の「女王」は意味が違いますよ。
ここに書いてある「女王」とは女王国のことでなく、女王の統治が及ぶ範囲の傍国という意味です。

たとえば奴国は女王の統治が及ぶ範囲(女王国の傘下)ですが、女王国ではありません。
その余の20国も同様であり、女王の統治は及びますが、女王国ではありません。
あなたの誤解です。

150 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 00:21:22.17 .net
宮崎の場合は弥生中期後半から瀬戸内系の土器が増える
今見つかっている遺跡だけ見れば後期AD100くらいから住居が急増する
布留式も在地系も在地胎土の布留系的土器も同じ遺跡同じ住居から出土する
割合は数%以下
熊本の場合は…

151 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 00:43:25.47 .net
>>149
>邪馬台国の中に女王之都があり

南至邪馬台国 女王之所都 水行十日陸行一月

一般的に、女王の都する所=邪馬台国 と訳されることが多いけど
「所」を省いて、「中にある」のニュアンスを加える理由は?

152 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 07:31:12.42 .net
>>149
>「女王」とは女王国のことでなく、女王の統治が及ぶ範囲の傍国という意味
そんな意味で境界が尽きるなどということはないよ。女王=女王国だ。文例を調べて
ごらん。女王に統属するかどうかというのは、属とか不属とか表現しているよ。
狗奴国について不属とあるだろ。

153 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 08:25:35.56 .net
>>151
邪馬台国が小さければ、南至女王之邪馬台国 とかで済む。
あえて邪馬台国女王之所都(邪馬台国の中の女王の都のあるところ)と書いたのには理由ありと思う、
邪馬台国は7万戸もあってだだっ広く、端から端まで五百里〜千里あるのかもしれない、
例えば今の日本、その中の天皇の都する所は東京、こんなイメージね

154 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 08:38:04.52 .net
>>152
陳寿は少ない文字で多くを語ろうとするためと思われるが、一字違う場合は別の意味を持たせている。
仮に・・・此女王国境界所盡、とすればこれは女王国=邪馬台国の境界尽きるところと同じ意味。

此女王境界所盡は、 
× ここが女王国の境界尽きるところ
○ ここが女王に属する国々の境界尽きるところ

155 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 08:55:08.57 .net
屁理屈こねても駄目だよ。一字違う場合は別の意味を持たせているというならば、
女王国と邪馬台国、表記がちがう以上、別の概念だろうが。
属する国かどうかならば、属、不属と書くのが魏志の書法だよ。

156 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 09:05:53.48 .net
>>152
其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。

ここも不属女王国でなくて、「不属女王」 となっている。
すなわち属、不属を言うときは「女王」を使用している。 

157 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 09:20:41.01 .net
>>155
>女王国と邪馬台国、表記がちがう以上、別の概念だろうが。

とうぜん別の概念ですよ。
邪馬台国は昔からあった。そのうち女子が王になった期間を女王国という。

158 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 10:16:59.14 .net
>属、不属を言うときは「女王」を使用している。
統属女王国とあることを忘れているな。女王国を女王と表現することもある。
だが、女王国に属するかどうかというときに、境界云々はないね。

159 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 10:18:44.75 .net
>>157
期間だけの問題ではない。範囲すなわち領域もちがうんだよ。

160 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 10:22:29.55 .net
此女王境界所盡
ここは、女王(に属する国々)の境界が尽きるところ、と私は読んでいますよ。

161 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 10:24:36.40 .net
だから、その読み方は間違いだって言ってるのさ。

162 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 10:33:36.25 .net
>>161
私におっしゃっているのですか、もしそうなら
あなたのお考えの女王国の範囲の国々(対馬国以下〜の該当する国)を列記してください。
今まではいけんしたことがありませんので、理解しかねています。 >160

163 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 10:34:10.59 .net
女王国というのは、邪馬台国だけではない。投馬国も旁国も含んだ概念ね。つまり、
倭国(女王国および以北の国々)、女王国(邪馬台国と投馬国、旁国)、邪馬台国
と三段階になっているんだよ。

164 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 10:44:40.32 .net
>>163
そうすると、対馬国〜不彌国までの6カ国(と狗奴国)を除いた倭国の国々という意味ですね。
おっしゃりたいことは理解できました。 >162

165 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 11:01:50.87 .net
そう、倭人伝はそれを女王国と称しているのだが、多くの人はそのことに気づいていない。

それに、女王国=邪馬台国と思い込んでいる人は更に間違いを犯している。
邪馬台国だとしても、>>153氏が指摘するように、邪馬台国はかなりの大国だ。万二千里は
その都までの距離ではなく、国の始まる所までの距離にすぎない。万二千里で都に到達する
と思い込んでいるのは完全な誤りだ。

166 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 17:05:33.96 .net
古墳時代の舟形埴輪は有名だけど、弥生時代にも舟を象った土器が出てるんだよね。
遊び心で作ったのかな。

167 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 22:52:43.99 .net
江田神社の近くに何かあったんかなあと思ったら古墳時代中期から後期の遺跡があるな。
集落や直径10mくらいの消失古墳があったらしい。
生業は農耕だろうとのことで紡錘車、玉類、鉄器、鉄滓、馬を埋葬した複数土坑なんかがあって先進的。
金メッキ銀メッキの大量の馬具も出土。
砂地で土器を作るための粘土が取れないので粘土や土器を購入していたのだろうとのこと。
粘土塊も出土。
7世紀前半には衰退し始めてる。

168 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 23:18:12.76 .net
しかし712年あたりの時点で廃墟として残っていたかもしれん。
数十年100年も経てば埋没しきるだろうか。

169 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 23:54:20.22 .net
現代の廃村で人の手が入らなくなった家屋は20年で倒壊し始めてる
家屋が無くなった数十cmの凹凸遺構だけなら数年で草藪に覆われて行方知れず
100年も経ったら記述と伝承のみ

170 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 00:00:21.49 .net
しかし、そこにいた人々はどこへ移ったのかということが問題になるな。

171 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 00:16:11.50 .net
>>170
入り江だったみたいだが
予想だが陸化して港的な役割が果たせなくなったとかか
どこ行ったんだろうな

172 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 00:25:10.58 .net
古墳時代を通じて繁栄していた日向の人々は、みんなどこかへ行ったんだよ。
そして、急に畿内が我が国の中心として動き出したんだ。

173 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 00:29:07.96 .net
5世紀の時点で完全に畿内が中心
墳丘長400mを超えるような古墳を作ったのは畿内だけ
仮に箸墓を4世紀としても4世紀の時点で他を圧倒している

174 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 00:41:06.25 .net
大規模先進的な建造物を持つ勢力を絶対視すれば江戸幕府が薩長に打倒されるなど有り得ない話だ

175 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:51:54.60 .net
馬がいれば海岸沿いの砂浜は良質な道路に早代わりだな
河口部は浅く狭くなってる時もあるし場合によっては繋がる

176 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 06:49:59.68 .net
7世紀前後のドロドロ畿内は逆臣蘇我馬子が物部守屋や穴穂部皇子を殺害して、
さらに崇峻天皇を殺害という大逆をやって馬子の姪で傀儡の推古天皇を立てたころ。
聖徳太子が摂政をやっていたころ。
もうとっくに単なる畿内の出張所先兵日向の出る幕は無いさ。
出てくるのは神話のいつの事かあったのかもどうだかな神話時代だけだ。

177 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 06:58:59.58 .net
しかしながらまだ古事記日本書紀が編纂される前のことであり、
記紀に何らかの影響を与えた可能性を完全排除しきれない。

178 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 07:02:47.35 .net
推古天皇とか聖徳太子は架空の人物。考古学的には裏付けられない。

179 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 07:24:46.80 .net
649年までに蘇我蝦夷・入鹿・石川麻呂は葬られたが石川麻呂は「冤罪」であり
「讒言者」蘇我日向は筑紫率(大宰帥)に「左遷」させられた。

180 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 11:34:51.39 .net
都城が島津の出生地、果ては邪馬台国など史実を無視して唱えるのは都城人、
そして宮崎人特有の地域性。一見人がいいようで嫉妬心が強く対抗意識が強い。
宮崎に長く住んでそう思いました。九州の朝鮮、それが宮崎です。

西郷隆盛が本当は都城出身だと言う人の話を聞いた時は言葉もなかったし、
初老の女性が、宮崎県人は全国一人のいい県で、県民運動も行っていますと。
これにもぶったげました。

さて、前置きは別にして、高千穂の天孫降臨説は単なる山岳信仰だろうし
阿蘇方面からの影響もあるのでしょう。ニニギノミコトは阿多の先の笠沙の
岬でコノハナサクヤヒメと出会ったわけですから、多分、中国大陸から薩摩半島
南端へ上陸した渡来人、春秋戦国時代の呉の末裔の可能性もあります。

彼らが熊襲・隼人となった可能性も大きい。南九州の遺跡、伝承はそういうものでは
なかったのか。言語、地名などが南九州から高地、熊野、五島、出雲、加賀、津軽などへ
伝播した可能性も高い。DNAも同じ所が多いし、船での渡っていけば早い。

大隅の曽於市岩川八幡宮に奉ってある弥五郎どんは熊襲の首長又は竹内宿寝とも言われて
いる。これも先人の渡来系熊襲と大和王朝との関わり、大化の改新の裏事情だったのか。
また、最後の熊襲の乱平定、その頃、大隅の国が日向の国から分離、日本書記の編纂と
何らかの政治的意図を感じさせる。明治維新後、西南の役、その後の県図の変遷、
これも似た感じを受ける。

181 :鋭利庵:2013/02/10(日) 11:39:38.79 .net
●呼称・名称の使い分け
『倭人伝』は、倭・倭国と女王・倭王に関して細かい使い分けをしている。
絶対的な階級制度下の社会にあって、中国人の位階や呼称の扱いは非常に厳格である。
ここでもご多分に漏れず、倭と倭国、女王と倭王、女王国と倭国、女王国と邪馬台国を明確に分別せずに語るか、
間違った理解で語る例が目につく。ひどいもんだ。
そこで続けて、
(これが正解とはいわないが)書き手の気持ちになって書き分けを読む必要を認識してもらうために、
『倭人伝』が位階や呼称をどう使い分けているのを整理する。

182 :鋭利庵:2013/02/10(日) 11:40:36.97 .net
❶倭と倭国の呼称の使われ方
中国側の倭と倭国の認識実態を時系列でみると次のように細分できる。
・中国側に「倭国」という認識がなかった時代。(57年からの倭奴国時代)。
・後漢朝が認証した倭国・倭王の時代。(107年から190年頃までの男王たちの時代)。
・後漢朝が卑弥呼を倭王と認識・認証していなかった期間。
 (卑弥呼が女王になってから後漢朝が滅亡する220年までの約30年間)。
 後漢末の動乱期に卑弥呼が後漢朝と接触した事実はないから、後漢朝が卑弥呼を倭王と認識していた事実もない。
・魏朝が倭国と認証していなかった期間。(220年に魏が興きて卑弥呼が朝献する238年までの18年間)。
 むろんこの期間は卑弥呼を倭王とは承認していない。
・魏朝が承認した倭国・倭王の時代。(238年以降)。

▼たった一つの「倭国」という表現についても、後漢朝が認証した倭国と魏朝が承認した倭国がある。
魏朝が興きた220年から238年の朝献までは、魏朝にとって卑弥呼はただの女王もしくは倭の女王でしかない。
『倭人伝』はこうした期間ごとに呼称を使い分けている。
その『倭人伝』をみると、倭国という表現を3度使っている。
@一大率を紹介した部分で、「郡の倭国に使するに」と倭国を使っている。
これは、明らかに魏との交流が始まったあとの説明文だから倭国という表現で正しい。
A「その国本また男子をもって王となす。とどまるところ7〜80年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴る」
帥升の107年から7〜80年間(後漢末の180〜190年ごろまで)は男王の代が続いた。
その倭国で、恐らくは後継者争いと思われる大乱が起きた。 陳寿はここで「倭国乱れ」と書いている。
これは卑弥呼の時代を書いているのではなく、彼女が女王になる以前の倭国の歴史的経緯である。
つまり、107年から190年ごろまでの7〜80年間は、後漢朝が倭国と認知していたことで「倭国乱れ」と書いている。
B正始元年に帯方郡から封爵使節がやってきたとき、「倭国に詣り」「倭王に拝假し」と書いている。
これも、倭国・倭王との公式認知をくだしたあとのことである。

183 :鋭利庵:2013/02/10(日) 11:43:50.49 .net
❷女王という呼称の使われ方
『倭人伝』は卑弥呼の王号についても、倭・倭国の呼称と連動して厳格な使い分けを見せる。
 魏が倭国と公式に認知するのは、明帝が詔書の文言に「親魏倭王となす」と宣言した直後からである。
皇帝が親魏倭王と呼ぶまでは倭の女王あるいは女王で、親魏倭王と呼んだ直後から「倭王」という呼称を使っている。
※「去女王4000余里」。この文章が女王国の「国」の文字の脱落ではないとすれば、
「女王の所から去る(離れる)こと4000余里」というほどの意味だろう。
これが「去女王国4000余里」では起点の範囲が広すぎて曖昧になる。

❸女王国という呼称の使われ方
この呼称は一元的にいえない面がある。
たとえば、邪馬台国と女王に属する28ヵ国を女王国と書いていると思わせる面もある。
@伊都国に関する記録の「世有王皆統属女王国(世々王あり皆女王国に統属す)」の女王国は、
女王以前の後漢代の時間的な脈絡をいうところだから、
女王国の前身である「かつての倭国」というほどの意味で女王国としている。
ここで「皆倭国に統属す」とすれば、文章として間違いとはいえないが、
卑弥呼時代の倭国と錯誤させる表現になってしまう。
▼『通志』はこの部分について、ズバリ「皆倭国に統属す」としている。
明解なのだが、これよりは、国号の使い方という点で『倭人伝』のほうがより厳格である。
A「自郡至女王国」「女王国東渡海」「女王国以北にはとくに一大率を置き」「女王国以北はその戸数・道里を略載……」。
ここも杓子定規に断定できない部分で、こうした使い方は、女王に属する29ヵ国を女王国と書いているようである。
B邪馬台国については、厳密には王都が邪馬台で邪馬台国は首都エリアを指す。
通常は王都に国はつけないものだが、7万戸を有する首都エリアの意味で邪馬台に「国」をつけたものと私は理解している。
そう考えて文脈をよくみると、国を省いて「南至る邪馬台、女王の都する所」とした場合、ま
るで皇居に東京23区の総戸数を入れるようなもので、7万戸の巨大王宮があるのかと思わせ理屈になることが分かる。

184 :鋭利庵:2013/02/10(日) 11:47:18.62 .net
❹狗奴国に対比させた女王国
『倭人伝』は、狗奴国については「女王に属さず」と書いている。
▼そもそも倭国とは、狗奴国を含む30ヵ国を包括した呼称であり、
やはり、女王に属さない狗奴国を除く(女王に属す)29ヵ国を女王国としているようである。
▼魏が卑弥呼を倭国王とはせず倭王としたのも、
交流が始まった時はすでに卑弥呼に属さない狗奴国の存在があったからではないかと思われる。
▼正始8年以降の記述では、卑弥呼を倭王ではなく倭の女王としている。
「倭の・女王・卑弥呼」と「狗奴国の・男王・卑弥弓呼」というわけである。
ここで倭国の女王とすれば狗奴国を含む倭国(または倭地)のことになり、「女王国の女王」とすれば余計におかしくなる。
かなり熟慮した使い分けと私はみる。

さて。私の検証整理が正しいか否かはともかく、しょくんもしょくんなりにこうした作業をやってから、
分別して「女王がどうだ。女王国はどうだ」と発信するのが大人の会話だろう。

185 :鋭利庵:2013/02/10(日) 11:48:28.19 .net
ご多分に漏れず→→→ご他聞に漏れず

186 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 16:23:04.36 .net
倭国中の女王国
倭国王でなく倭王
ここを含む南九州は男王国のような気がしますね

187 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 17:06:25.32 .net
>>180
鎌倉時代に何処ぞの誰かが何処かからやって来るより前に島津駅や島津荘があっただろ
島津は延喜式に既に確認できる都城とかあのあたりの地名だ
盆地電波の肩を持つわけではないし島津氏とかどうでもいいけどこれに関しては都城を擁護せざるをえない

188 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 17:30:39.26 .net
西郷さんとか大久保利通の有能さ、薩摩藩士の勇敢さや情の深さは尊敬するし心打たれるけど、
島津氏や組織としての薩摩藩は別
江戸中に囎唹や姶羅を移動させたり、日向大隅国境は霧島山の諸山頂向こう側(西側)少しに
あったが廃藩置県で山頂(東側)に伸ばした、力でどうにでもなるという傲慢と真摯さが阻害される
一面も知っているので批判的視点が少し加わった尊敬

189 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 18:32:04.05 .net
どこかの掲示板で宮崎鹿児島の既婚女性同士が大喧嘩していたことがあるんだけど、
根にはいまだにそのへんの意識のズレがあるんだよね。
宮崎の小さな藩士の子孫の家だけど大昔そこのお婆さんが言ってた言葉を思い出した。
人じゃなくて集団になったときの組織やそこに属したときに出る思考なんだけど。
宮崎でも子に隼人って名前付ける人もいるのにね。
組織になると難しいものだよね。

190 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 20:05:54.32 .net
>「去女王国4000余里」では起点の範囲が広すぎて曖昧になる。
女王国の東渡海千里とあることを忘れているのかな?

191 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 20:17:26.50 .net
それは問題ないんじゃないの、そこは「海の幅が千里」だからね

192 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 20:21:14.11 .net
東側ならばどこでもというわけではないよ。「去女王国4000余里」も女王国の南四千里
ということ、同じだよ。

193 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 20:22:26.12 .net
宮崎?宮城?くらいの空気の宮崎
維新で抜群の存在感だった鹿児島とは大違い

194 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 20:29:50.77 .net
そのような幕末以降の印象、奈良時代以降の印象で考えてしまうのが間違いのもとなんだろうね。

195 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 20:53:37.78 .net
このところのレス読んでいて、女王と女王国の使い分けをどう読むかは、
「世有王皆統属女王国」 をどう解釈するかも関連するのではと思うようになった。
果たして、統 は何を意味するのか、
魏王朝を代表する書き手の陳寿だけに、そこいらの解釈では迫れないのではないか???

196 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 22:28:31.05 .net
宋書以後を読んでも大和王権のことが書かれているようにしか見えんのですが

197 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 22:38:07.17 .net
衆夷の端の南九州の酋長が僭称したのだろう
激怒した大和邪馬台国が衆夷六十六國まとめて攻撃して服属させた
面倒なので魏志の邪馬臺国だということにしておいた

198 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 23:16:15.54 .net
・邪馬壹國は畿内でその勢力は北部九州まで及ぶ。狗奴国は南九州。
・邪馬壹國は北部九州。狗奴国は南九州
どちらかだろう
後漢書の成立は432年で倭から使者が派遣されている時代
倭に関する情報も増えてどうやら東に広がっているようだと
ならば不屬なのは東なんだろうと自己解釈で勝手に変えて
東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王 としたと考えるのが自然だろう
世間の人が広く思い描いているイメージ通り

199 :日本@名無史さん:2013/02/11(月) 02:02:42.33 .net
>>180
半分くらい当たってたりする
この立地じゃ外人外文化に対して歓迎する姿勢でないとますます埋没してしまうだろ
ここに存在するぞ!ってアピって外の人に来てほしくてたまらんのさ

200 :日本@名無史さん:2013/02/11(月) 08:48:19.29 .net
「世有王皆統属女王国」 の 統 は何を意味するか?

ふつう大統領みたいに、統べる の意味で使うけど、
ここは つながる じゃないかと思いなおした。
皇統、王統、一統、血統、などのように系図上または血縁上のつながりを示すと考えれば分かりやすい。
伊都国には代々王がいたけれど、皆女王国に血縁でつながっている、とすれば「(今の)女王国(の中枢)」に属するでよい。

そう言えば卑弥呼を助けるのは男弟であった。
また不属の狗奴国男王は血統でないと読めばすっきりする。
この場合、国の数が足りなくなるので次有華奴蘇奴国は、以前から指摘されているように次有華奴国、次有蘇奴国の2国に分けることになるが。>195

201 :日本@名無史さん:2013/02/11(月) 12:09:52.73 .net
統は一言で言えば統帥権だよ。つまり統属するはその統帥権の下に入るということ。
単に従属といった場合は、1対1の関係もあり得る、統属といえば支配下に入るという
ことが明瞭になる。 

202 :日本@名無史さん:2013/02/11(月) 12:31:57.38 .net
>>201
そこのところですけど、原文のままで統帥下だと、
昔の(もう死んだかもしれない代々の)王たちが、今の女王国の卑弥呼の統帥権の下に入るということになって、
いささか具合が悪いんですよねえ。

203 :日本@名無史さん:2013/02/11(月) 15:11:52.36 .net
皆を伊都国の王と読むのが間違っているんだよ。

204 :日本@名無史さん:2013/02/11(月) 15:24:26.71 .net
更に言えば、皆を伊都国の王と読むのは、王すなわち人間が女王国すなわち国に
統属するというバランスの悪い読み方になるわけだ。
そうではなく、統属する相手が女王国である以上、皆も国々は皆と読むべきなんだ
よ。そう読めば、国々が女王国に統属するというごく自然な文章になるだろ。

205 :日本@名無史さん:2013/02/11(月) 16:36:36.78 .net
対馬国〜伊都国までの国々は皆、女王国(邪馬台国・投馬国・傍国21)に統属?
あれ奴国、不彌国は??

206 :日本@名無史さん:2013/02/11(月) 17:15:26.34 .net
明記されてないってことだろね。

207 :日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:33:58.43 .net
場違い気味で申し訳ないけど蘇我日向の大宰帥は左遷ではないと思う。
前任は?子は?子孫は?
蘇我は右翼・左翼・蘇我氏みたいなレッテル貼りのような気がする。
後世政治に関わらせないための布石じゃないかと。
蘇我氏各々同士には血縁関係も無い他人の可能性を思い浮かべるのだけどな。

208 :日本@名無史さん:2013/02/12(火) 18:54:51.07 .net
宮崎のは住居から首長層と一般人との階層差があんまり見えて来ないね。
平均の倍くらいの大きな住居ならあるけど、単に大家族も居れば独身者もいる、
そういう意味くらいにしか見えない。鉄器も鏡ですらごく小規模統な住居から出たり。
統治者の住居は他にあるんだろうか。

209 :sage:2013/02/12(火) 20:21:26.40 .net
遺跡数は宮崎市が断トツなんやろ
んなわけないんである
宮崎市は開発される機会が多いから見かけの数を大きくしているだけであって
肝心なのは宮崎市外にある

210 :日本@名無史さん:2013/02/12(火) 20:31:04.16 .net
新富町川床地区の円形・方形周溝墓195基を造営した集落はまだ見つかっていない

211 :日本@名無史さん:2013/02/13(水) 00:22:05.39 .net
法則性みたいなのはもう見えてる。
台地辺縁を徹底的に洗うべし。

212 :日本@名無史さん:2013/02/13(水) 00:57:29.32 .net
邪馬台国は沖縄だろ。海底遺跡と関係がある。

213 :日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:14:12.11 .net
畿内の先兵という言葉だけど、それってどうなの?と思います。
畿内式の土器も球磨盆地の土器もあるらしいし。
住居もこの地域に特有なものがたくさんあるらしいし。
鉄器なんかも九州北部から得て、やがて自分たちで加工するようになった気がします。
平和で農耕や自由な交易やっていたんじゃないかな。

214 :日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:18:52.05 .net
>>212
海底遺跡が沈んで本土に移動したのかもな
沖縄の海底遺跡は何世紀のものなんだ?

215 :日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:24:40.05 .net
>>213
あんな山を越えて来ようとは思わんわ…
昔は狼も熊もおったしな
しかしそれだけに戦乱(倭国大乱)を嫌って移住して来た人々もいたろうな
甕棺は北部九州からの移住者だろう

216 :日本@名無史さん:2013/02/13(水) 07:52:30.76 .net
日本最大規模の方形周溝墓群は360基はあった
そこには広大な水田遺構も出ていて相当注目されるべき遺跡
滋賀だったか

217 :日本@名無史さん:2013/02/13(水) 21:40:01.12 .net
土器に関しては全国的に畿内式土器への指向性があるみたいだし実際優れた土器だが
住居に関しては花弁状から円形が崩れたものや全国的一般的な方形が多くなったのは劣化だな。

218 :sage:2013/02/14(木) 02:18:48.18 .net
弥生時代や古墳時代の初めに宮崎で戦争の痕跡は無いの?

219 :日本@名無史さん:2013/02/14(木) 18:19:41.95 .net
戦争の痕跡はないね。畿内は銅鐸が消滅したり集落が不自然になくなったりして
いるが、日向ではそのようなことはない。弥生時代から古墳時代へと文化が引き継がれ
繁栄を続けている。

220 :日本@名無史さん:2013/02/14(木) 21:47:10.23 .net
そもそも日向は銅鐸が1個も出ていない(はず)
銅剣銅矛銅戈の出土例もごくわずか
それらは初期を除いて祭器に用いられたとされるが
そのような青銅器文化を経ずいきなり鉄器の所有が始まる

221 :日本@名無史さん:2013/02/14(木) 21:56:26.22 .net
出雲は農道工事中に埋められてた銅鐸・銅剣にぶちあたったとかで大騒ぎだけどな
日向はそうなのか、神話でいえばスサノオのころ

222 :日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:29:46.99 .net
出雲の銅剣が数百本出た遺跡は驚愕というかイレギュラーすぎるな

223 :日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:48:21.30 .net
流入する鉄の威力に驚嘆して、あっさり銅器を埋めて乗り換えた感じですかねえ
そう言う意味では、国は簡単に譲るし、したたかといえばしたたか
出雲大社もいまだ健在だし

224 :日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:12:57.79 .net
商売品じゃないかな。敵に奪われないようにまとめて埋めておいた。

225 :日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:18:14.08 .net
国譲りと引き換えに鉄文化を受け入れた・・?
そう言えば、出雲山間部は古代から近代まで砂鉄産業が続いて繁栄したからねえ

226 :日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:42:55.32 .net
銅鏃もきわめて少ないが無くはない
最近発掘された遺跡では鉄鏃の出土はありふれてる
銅鐸は見たこともなかったとしても銅矛は知っていたはず
銅矛は北部九州であれだけ出土し四国にも飛んで高知でも数十本出ている
日向がほとんど皆無
玉などは結構出土しているのだが青銅器の出土はきわめて少ない
鉄器は最初は墓から出土する傾向で威信財なりお守りなりとして通用している
しばらくすると住居に放置された形で出るようになる
青銅と鉄に対する姿勢の差が大きすぎる

227 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 01:37:18.98 .net
日向神話より出雲神話の方が量が多い
畿内が出雲の影響下にあった時代があって自分たちのものとして伝わっていたものもあるからだろうな

228 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 01:57:33.06 .net
鉄も北部九州から始まり弥生時代には北部九州が圧倒的多数。
銅鐸銅矛と違うのは南九州含めて全国に広まっていったこと。
実用品として優れたものはどの地域にも垣根なく広がっていくのだ。
鉄器に注目すれば高天原は北部九州だ。

229 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 07:41:33.44 .net
北部九州は単に地理的に有利だったというだけだろう。古墳時代に入ってから発展を続け
たかどうかが問題だ。

230 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:09:05.52 .net
北部九州に政権の中央部が存在していた時代が高天原時代、
天孫降臨〜神武東征時代が日向と考えるのが自然だろう。
北部九州は大陸からの異民族流入と出雲との戦争で疲弊し、実権を失い
親戚筋の日向に禅譲されたのではないか。

大隅半島は読んで字のごとく「クマ」であり、すなわち久米のこと。
熊襲の「ソ」は中国人が他民族をさす際に使われる慣用句。(現在の日本では「疎」の字があてられる)
つまり、天孫と一緒に降臨した久米族とは「大隈地方の人々」というほどの意味にすぎない。
恐らく、天孫の直接の先祖が筑紫から日向にやってきたのは非常に古い時代で
戦闘力の高い熊襲を恭順させたのも、実際には中央が乱れる以前の話であったろう。

231 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:28:44.74 .net
たとえば、稲は朝鮮半島経由ではなくて、どうも南西諸島経由で南から
入ってきた気配がある。後のサツマイモや唐辛子にしても日本から
朝鮮半島に渡っている。このように考えると、古代の文化なども
南から入ってきた可能性があるな。
倭者、自ら太伯の子孫と称す、なんてあるくらいだから。

232 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:38:10.93 .net
サツマイモの地方名:
本州では薩摩イモ、北九州では琉球イモ、南九州では唐イモという。(伝来ルートを暗示するか)

233 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:42:07.58 .net
海幸山幸をその視点で読み解くと、非常に解りやすい。
二人が交換した、互いの道具は交易と支配の暗示。

恐らく、戦乱で追われた筑紫人はほとんど流民同然で日向の地に降り立ち、
携えてきた玉や鉄器で現地の海洋民と折り合いを付けたのだろう。
海幸が「兄」であることからも、当初の力関係は海洋民の圧倒的優勢であったと考えられる。
実際、農耕民は基本的に戦闘能力の高い蛮族に一時的に支配されるのが普通だ。

海幸が「なくした釣り針」とは人口増と農地の開発による海洋環境破壊の事ではないか。
宮崎平野の土壌を調べると、大淀川流域は全域にわたって深い森林であった事が解っている。
ところが、農耕民が西都、宮崎の両平野を開墾したために、
森林の持つ保水力と豊かな滋養が洪水によって失われ、結果として周辺の磯焼けがおこり、
主食である貝類や魚がいなくなった。

それに対し、海洋民が怒り、戦争の後、筑紫の民は敗亡する。
どこにいったか?「海流に乗って」「竜宮に行く」。
すなわち、黒潮に乗って、紀伊半島に向かったのだ。

234 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:49:12.56 .net
出雲の国譲りには日向はまるで関係ない。
北部九州高天原からお前行けと命じられた忍穂耳は手に負えないと敵前逃亡。
他も投降したり言いくるめられたりで国譲りを成したのは伊都之尾羽張の子のタケミカヅチである。
日向神話の世界はそれより後の話しである。

235 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:54:02.72 .net
紀伊半島で現地の王族の娘と懇ろになった筑紫人は、「数年を過ごした後」
鯛ののどに刺さった釣り針と姫を携えて帰還する。
つまり、紀伊勢力の海軍を借りて、日向の海洋民を追い払った。
その後、姫はお産のために日向を去る事になるが、二度と戻ってこない。
その時の子供の子孫が、つまり神武と同じ「高貴な正統」として後に現れるニギハヤヒの事だろう。

236 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:57:58.99 .net
神武天皇はニギハヤヒ体制畿内の豪族ナガスネヒコに大敗し、
生駒山地を越えることが出来ず紀伊に転進(敗退)しているが、
一説には紀伊で傷が悪化して死去し、以後は紀伊豪族による
北伐譚とも言われる。

237 : 忍法帖【Lv=10,xxxPT】(2+0:5) :2013/02/15(金) 23:04:41.06 .net
むう

238 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 23:32:55.86 .net
釣針千本てのは鉄器を手に入れた過程でしょう。
海幸は海人=はいと=隼人。
日向西部(薩摩大隅)の鉄器は日向東部(日向)地域に比べて今のところかなり少ない。
争いらしい争いだが、婚姻による宥和によりいったん統一し強力な隼人を味方とすることに成功した。
東征した先で神武天皇崩御後、大隅系妻の子は畿内系妻の子に誅殺されてしまった。
さらに日向東部(日向)から妻を娶るくせに西部から娶らない。
激怒した隼人は長年に渡って抵抗するようになって日向も疲弊して凋落した。

239 :日本@名無史さん:2013/02/16(土) 00:32:10.42 .net
5世紀以後の薩摩+大隅北西部+肥後南部と日向+大隅南東部の墓制が明らかに違うのはその現われだろうね
前者は板石を積み上げて松かさ様の外観の石室に遺体を置いて埋めた墓
&前方後円墳はほとんど作らない
後者は竪坑を掘り横坑(羨道)を掘り家形(切妻型寄棟型)ドーム形の玄室に遺体を置き、羨道は石で閉塞する
&前方後円墳を作る
副葬品は武器が多い

240 :日本@名無史さん:2013/02/16(土) 02:03:29.01 .net
「海人=はいと=隼人」
精薄は必ずこういうことを言い出す

241 :日本@名無史さん:2013/02/16(土) 06:17:02.25 .net
でも大学の先生でもそういうことを言う人もいるよ

242 :日本@名無史さん:2013/02/16(土) 09:37:17.95 .net
>>241
だから何?

243 :日本@名無史さん:2013/02/16(土) 11:36:04.51 .net
大学の先生もアホだってこと

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