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邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった

1 :魏使の旅程:2012/03/12(月) 22:40:30.26 .net
邪馬台国は当時の天体測量の結果楽浪郡の南一万二千里、すなわち宮崎の何処かにあった。会稽は帯方郡の南一万二千里にある。編者陳寿は郡を取り違えた可能性が高い。

20 :日本@名無史さん:2013/01/21(月) 14:56:57.54 .net
>>15
kwask!

21 :日本@名無史さん:2013/01/21(月) 15:03:51.45 .net
日向といっても広い、宮崎といっても広い、さてそのどこにあったのかが問題だ。

22 :日本@名無史さん:2013/01/21(月) 15:39:22.82 .net
普通に考えれば、
宮崎ではここが 邪馬台国女王之都 のダントツ第一候補だよな
天岩戸、天岩戸神社、高千穂神社、三田井氏伝説とその小字には神殿、その他にも神話伝承史跡にあふれかえってる

http://shogo33333.ninja-web.net/miyazaki-kourakuti/takachihokyou/takachihokyou.html

23 :日本@名無史さん:2013/01/21(月) 19:38:58.42 .net
西都原に比べれば、宮崎市の古墳はつつましい感じなのがなんとも不思議発見・・、

24 :日本@名無史さん:2013/01/21(月) 19:44:40.69 .net
>>22
高千穂はほとんど近世のこじつけだぞ

25 :日本@名無史さん:2013/01/21(月) 20:00:41.05 .net
>>24
へー、あっち方面の方はそういうことをなさるんですか?
それで近世はいつ頃、江戸時代とか??

26 :日本@名無史さん:2013/01/21(月) 20:38:10.58 .net
そもそも神話の高千穂って霧島だろ

27 :日本@名無史さん:2013/01/21(月) 20:45:46.92 .net
ざんねーん、
霧島は鹿児島県と宮崎県の県境で、霧島連峰のひとつの活火山、まあ南高千穂だ
>>22 は神高千穂(上高千穂)で宮崎県と大分県と熊本県の三県境で、いわば北高千穂なんだよ、阿蘇山の東な

28 :日本@名無史さん:2013/01/21(月) 20:53:44.93 .net
>>21
南面が開けた場所無いのか?日に向うだからな日が立つが列島の東の端

南面がひらけた場所堀まくれよ九州人。

29 :日本@名無史さん:2013/01/22(火) 09:04:36.22 .net
>>28
サゼッション サンクス。真南向きは意外になくてねえ、
日向はあらかた東南向きなんでそれならいっぱいある   >>13 なんかはそうだね

30 :日本@名無史さん:2013/01/22(火) 18:05:32.80 .net
>14
の旧藩絵図をみると、延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩とある。
邪馬台国の時代、宮崎には4カ国くらいあってもよさそうだ。

31 :日本@名無史さん:2013/01/22(火) 20:03:31.83 .net
宮崎の山中には、五ヶ瀬・高千穂もあるなあ、合計候補は五カ国か。

32 :日本@名無史さん:2013/01/22(火) 21:15:15.02 .net
4世紀代の古墳だけを見ると延岡(+富高支部)、川南・持田、西都原、生目(+檍支部、本庄支部)
の4つくらいの勢力があったようには思う。
規模を見ればそのころは生目が第一勢力だったように見えるしそう書いてる人も多いな。
西都原は規模がそんなに大きくはないが数は相当多いのだけどな。

33 :日本@名無史さん:2013/01/22(火) 22:11:18.39 .net
前スレのあの遺跡は竪穴建物246、石包丁233に対し石鏃97鉄鏃50だ。
鉄製工具32鉄製漁具4他不明鉄器鉄片110程度か。
石鏃は5.3cm9.4gの人体に対して殺傷力がありそうなものもあるが大半が長2、3cmのたぶん古来からの狩猟用。
前線基地なら土器のほとんどが畿内系なり瀬戸内系なり北部九州系なりに偏らなきゃおかしいわけだがそんなこと無いしな。
畿内なりの前線基地の可能性を常に考えるが剣も矛も出てないし可能性は極少ではないかなと素人は思う。

34 :日本@名無史さん:2013/01/22(火) 22:56:48.05 .net
むしろきわめて治安が良い平和が想像される
環濠とかあっても厳重なものではない
戦死遺体とかどこか一箇所でも出てたか
あの遺跡はどうか分からんけど鹿児島県や人吉盆地と共通する土器石器もあるし元々熊襲とか無かったんじゃないの

35 :日本@名無史さん:2013/01/23(水) 01:05:32.44 .net
日向神話にはホオリ命(山幸)とホデリ命(海幸)の喧嘩(戦争)らしいものは描かれてるな。
滅ぼすんでなく組み込んだということになっている。
あとは婚姻で同盟的に統一していったような感じ。
高天原がどこかってことになるんだが…
在地より優れた土器文化を持った人の移入があったとして、その人々は初期にいくらか搬入する。
しかし住むなら絶対作らなきゃならないのでその場合は作ったことのある土器に偏るな。
外来側が在地側を討伐対象のような敵対対象とはせず、在地側も平和で受け入れる環境なら、
代を経るごとに在地や周辺のものが取り込まれ(弱)、逆に浸透(強)していき、特異性が弱まっていく方向になるな。
しかしそれら外来の人々の少なくとも集落の初期には周囲と違った特異な様相がなきゃならん。

36 :日本@名無史さん:2013/01/23(水) 09:12:38.19 .net
そのカギは、やはり鉄製武器器具の存否ではないでしょうか、
これが一番説明しやすい特異な様相かと

37 :日本@名無史さん:2013/01/23(水) 19:15:56.53 .net
土器が伝わるのって隣から順に長い年月かけて…とも限らんよな
何十日かで来れるし移住して珍しい土器作ってれば教えてくれってことになりそうだし
鉄器は材料を仕入れないとどうにもならんけど

38 :日本@名無史さん:2013/01/23(水) 20:34:07.21 .net
宮崎には甕棺とか木槨墓とかほとんどの住居に主柱の無い集落とかどこから来たのって感じのがある。
甕棺とか木槨は北部九州と中国?と思うけど柱の無い住居の集落はモンゴル?
柱が無いなら壁が柱の役割もしているってことだが。

39 :日本@名無史さん:2013/01/23(水) 23:37:17.30 .net
宮崎の弥生後期の集落遺跡で破鏡(前漠鏡)が6.4uの小型住居内に廃棄された状態で見つかった。
去った住人が不要と考え、住居廃棄後にこれを目にした者も欲しがらなかったと思われる。
鏡を欲しがる卑弥呼と異なるぞ。

40 :日本@名無史さん:2013/01/24(木) 00:12:08.61 .net
まとまって移動したんでなければ去ったというか死んだ可能性の方が大
組織を離れ一家族一個人で生きるのは難しいつか6.4uなら個人か?
亡くなった人が大事にしていたものを盗むのは良くないと思って住居解体の後に鏡ごと竪穴を埋めでもすればすぐ分からなくなる

41 :日本@名無史さん:2013/01/24(木) 19:27:27.60 .net
小型の竪穴住居では主柱が無いものもある全国的に

42 :日本@名無史さん:2013/01/25(金) 11:20:55.19 .net
治安が保たれた平和が維持されるには、飢饉が起こらないか
起こってもじゅうぶん代替可能な豊かな海の幸山の幸が必要。
飢え死にしそうになって近隣の集落に蓄えがあれば誰かが絶対
「隣を襲撃して奪い取ろう背に腹は代えられない」そうだそうだと
こうなる。怨恨が生まれて連鎖増殖して大乱状態になる。
近隣でなく遠いここまで平和が脅かされれば守るために武装化する。
5世紀以後とか見れば武器馬具類で溢れて完全に武装化している。

43 :日本@名無史さん:2013/01/25(金) 12:48:38.49 .net
邪馬台国でググった件数:
北九州説や筑後山門説なぞ、声の大きい一部の人間の意見らしい。
まあがんばってるのは熊本県下の人吉・阿蘇と鹿児島県えびの市、どれも山中だね。
ダントツは西都市で32万6千件もあった(驚)。高千穂も少なくない。
そのわりに西都原古墳群を紹介するHPの写真は桜や菜の花メイン、肝心の古墳群の迫力に乏しいな。
村人が働く芋畑の中の古墳をかすめ飛ぶ戦闘機の写真なんかいいと思うけどね。

"邪馬台国福岡説" 117,000 件 (朝倉 27,500、山門 15,600、八女 12,800)
"邪馬台国大分説"  88,600 件 (宇佐 41,400)
"邪馬台国宮崎説"  83,100 件 (西都326,000、高千穂 26,800)
"邪馬台国熊本説"  77,400 件 (阿蘇 32,900、人吉 31,800)
"邪馬台鹿児島説"  78,000 件 (えびの 60,200、大隅 12,400)

44 :日本@名無史さん:2013/01/25(金) 19:27:27.92 .net
なぞとは引っかかる言い方だな
全国どこでも各自の自論を尊重して進めていけばいい
先鋭化したりステルスマーケティングみたいなことやってもつまらんだろ
知らんことを知れれば面白いし面白くなきゃ意味ない

45 :日本@名無史さん:2013/01/25(金) 20:22:34.59 .net
世間で畿内説と九州説と言っても九州説=北部九州のことだからな
マスコミが取り上げるなり自治体がアピるなり余程しない限り泡沫
そんなんせんでいいけどたまには古墳以外の遺跡も保存してもらいたいもんだな
宮崎にそんな金の余裕があるはずもないが

46 :日本@名無史さん:2013/01/26(土) 07:12:15.96 .net
主柱に頼る家屋は大きさが限られるんだよ

47 :日本@名無史さん:2013/01/26(土) 07:14:25.22 .net
世間でいわれるのは「どこが好きか」というレベル。学問的な話とは無縁。

48 :日本@名無史さん:2013/01/26(土) 08:12:57.87 .net
宮崎西都市は好感度No.1、立派じゃないか

49 :日本@名無史さん:2013/01/26(土) 09:30:08.31 .net
新田原辺りの台地集落は保存状態良さそうだし、
川沿いたんぼの遺跡は津波かぶってて散々だろうから、
西都原古墳とセットで三か所を見学できると、お勉強コースにいいんだけどね

50 :日本@名無史さん:2013/01/26(土) 12:21:13.69 .net
倭国大乱(桓霊間とすればAD146-189)の時代に軽武装で居れるものだろうか。
僻地だが大乱が冷害や旱害による食糧不足が原因だとすれば南下圧が強まりそうなものなんだけど。

51 :日本@名無史さん:2013/01/26(土) 13:27:50.06 .net
それは大いに有る
しかし宮崎県には無い、発掘する金が無いのだ

52 :日本@名無史さん:2013/01/26(土) 13:53:16.50 .net
>>50
異民族同士なら殺し合うだろw
南は異民族の領域か?日本の運命を決めるさあ、ファイルアンサー。

53 :日本@名無史さん:2013/01/26(土) 20:00:01.26 .net
ネット上で見た都道府県別の白血球抗原?の遺伝子出現頻度を見た限りでは異民族と呼べるような差異は無い。
自分は理系ですら無いのでただ数字眺めただけで何のことやら説明できるものではないけど。
宮崎と岡山は結構近いような傾向に見えた。
10通りくらいの遺伝子の組み合わせの格数字が畿内以西のどこにもに共通するところが無いものは無いみたい。
どこかに似通った数字の県がある。
ただ一つだけ突出気味なのがあってそれは沖縄の数字に割と近いが宮崎や沖縄よりもっと高いとこがある。

54 :日本@名無史さん:2013/01/27(日) 11:42:00.49 .net
尾花Aの北50mほどの竪穴住居から鏡1面が出ていたりする。

55 :日本@名無史さん:2013/01/28(月) 21:09:34.25 .net
その住居は36uで特段大きいわけでもなくてそこで最大の住居は2倍以上の面積がある
そこの北500mほどに湯牟田遺跡てのもあって、放射性炭素年代測定ではAD70〜240前後
出土鉄器の中には重量765.7gの朝鮮半島製の鉄斧もあるそう

56 :日本@名無史さん:2013/01/29(火) 20:27:13.51 .net
有屋室父母兄弟臥息異處は花弁状住居のことだって言う人がいるしそうかもと思ってたけど
弥生終末期にはノーマルな方形ばかりで円形もちらほらって感じになってるみたいだ
弥生後期の紀元後まで混在してるんだけど集落の中の花弁タイプの割合が小さくなってるみたいだし
だんだん廃れていったのかもしらんね
花弁状の方が高い処に寝たり棚として使ったりデザイン的にも衛生的にも優れてると思うんだけどな

57 :日本@名無史さん:2013/01/29(火) 21:20:03.08 .net
ネットで湯牟田遺跡のレポート見たけど
普通の集落?で、斧とか鉄製品が普通に出てるんだねえ

58 :日本@名無史さん:2013/01/29(火) 22:16:42.21 .net
武器になるようなものは弥生時代のものは鉄鏃石鏃それぞれ数本と鉄刀1本くらいか
多数なのは磨石とか石包丁で狩猟と農耕の普通の集落だと思うんだけど鉄器が結構出てるね

59 :日本@名無史さん:2013/01/29(火) 22:43:09.68 .net
宮崎は弥生時代に製鉄をやっていたそうだよ。

60 :日本@名無史さん:2013/01/29(火) 22:44:34.21 .net
>>56
花弁状は古墳時代まで続いているよ。

61 :日本@名無史さん:2013/01/29(火) 22:56:24.90 .net
そんな貧弱な武装で済むわけがない常識的に考えて

62 :日本@名無史さん:2013/01/29(火) 23:08:14.58 .net
こんだけ山で隔てられてれば攻め込もうとも思わんぞなもし

63 :日本@名無史さん:2013/01/29(火) 23:11:59.28 .net
攻撃に出るんだよ。

64 :日本@名無史さん:2013/01/29(火) 23:13:30.16 .net
>>59
製鉄をやってたのはどこの遺跡?

65 :日本@名無史さん:2013/01/29(火) 23:34:20.91 .net
延岡祝子遺跡などが言われているね。

66 :日本@名無史さん:2013/01/29(火) 23:44:36.71 .net
ありがとう

67 :日本@名無史さん:2013/01/30(水) 21:30:25.10 .net
鉄器を保有する行為が北から入ってきたのは疑いがないんだが
鉄器を専ら北から何らかの方法で入手したのか、自ら製作もしていたのか

68 :日本@名無史さん:2013/01/30(水) 22:23:44.32 .net
AD100年代くらいに鉄器が急速に増えてるな
紀元後100年くらいまでは鉄器は希少…だと思ってるんだが、、、
台地辺縁なんだが奥まってて緩やかに下がるから台地上からも近付かないと見えないだろう
つまり隠れ家みたいなとこの1軒から19点の鉄鏃鉄片が出ていたり(向原第一)
この住居はAD50くらいに営まれたみたいなんだがかなりイレギュラーに見える

69 :日本@名無史さん:2013/01/31(木) 10:29:51.42 .net
量は少ないけど、かなり進んだ技術を有していたことは間違いないね。
南九州は、呉から技術を入れていたのではないかな。

70 :日本@名無史さん:2013/01/31(木) 10:36:41.45 .net
C14年測はたくさんの試料を測定して真ん中あたりを…でおよその目安に使うのは良いんだろうが
1つや2つの測定結果を過信していいもんでもなかろう
土器編年を軽視しちゃいかんね

71 :日本@名無史さん:2013/01/31(木) 10:41:36.66 .net
>69
東シナ海を直で渡っていた?
漂流してたまたま流れ着くことはあっても計画的に渡海とか考えにくいな

72 :日本@名無史さん:2013/01/31(木) 19:39:36.52 .net
南島伝いに渡っていたんだろう。

73 :日本@名無史さん:2013/01/31(木) 20:23:17.62 .net
奄美以南でしか採れない貝製の腕輪が九州各地から畿内までの古墳で出てるしね
つまり行き来していたということ
ずっと行けば台湾さらに呉の南部に達することまで知っていたのかどうか
少なくとも間接的には知っていたんじゃなかろうか

74 :日本@名無史さん:2013/01/31(木) 20:32:04.58 .net
弥生中期から瀬戸内系の土器が多くなるし伊予や吉備との行き来があったのも確実
北部九州系の土器もあるので北部九州との往来も

75 :日本@名無史さん:2013/01/31(木) 20:43:49.73 .net
鉄滓が出てもそれは素材としての鉄を入手して鉄製品に加工したものだろうな

76 :日本@名無史さん:2013/01/31(木) 23:17:09.11 .net
もし吉備にも北部九州にも行っていたなら銅鐸や鏡の様子を知っていたはず。
見はしなくても話としては。

77 :日本@名無史さん:2013/02/01(金) 04:59:11.92 .net
鉄滓と鉄屑の区別ができていないようだ。

78 :日本@名無史さん:2013/02/01(金) 18:48:09.44 .net
弥生時代の人骨の殺傷痕は、石鏃によるものが一番多いらしい

79 :日本@名無史さん:2013/02/02(土) 16:56:01.49 .net
あの時代の遺跡って殆ど台地上だね
数メートル程度の微高地もあるにはあるけど

80 :日本@名無史さん:2013/02/02(土) 17:16:33.45 .net
西都など低地のインター付近も発掘調査したと思うんだけど
どんな具合だったかご存知の方いらっしゃいませんか?

81 :日本@名無史さん:2013/02/02(土) 17:57:13.93 .net
西都インター周辺は
蔵向 確認調査の結果、調査不要
大辻屋敷 終了(平成10年度)
小田河原 確認調査の結果、調査不要
宮ノ前 確認
宮ノ東 確認 本掘
ってなってるみたいだよ

82 :日本@名無史さん:2013/02/02(土) 18:08:39.66 .net
調査不要ということはなんも出てきそうにない?
川の氾濫とか津波とか?
ありがとう

83 :日本@名無史さん:2013/02/02(土) 18:22:08.53 .net
2000年くらい前の巨大津波を経験して台地に住むようになってたのかもしれないね

84 :日本@名無史さん:2013/02/02(土) 18:39:21.01 .net
宮ノ東というところは数百軒以上の竪穴建物が出ている遺跡だけど
そのあたりは入り江の最奥だったのかもしれない
ttp://flood.firetree.net/?ll=32.0773,131.4248&z=4&m=3&t=2
+3mではないのだけど土砂の堆積期間が短いので
全国的にこんな感じになっていた場所は多いと思われてる

85 :日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:37:45.08 .net
とりあえず尾花A遺跡とか宮ノ東遺跡とかの隣接地と、
目の前にあるのにほとんどが手付かずの古墳。
掘る前から何かあるのが分かってるとこだけでも膨大だ。
予算があるんだろうかw

86 :日本@名無史さん:2013/02/02(土) 23:19:52.17 .net
まあどっちにしろ数百年後…大和朝廷の統治が確定して、
薩摩や大隅を分離して律令制を広めようとしたころ、
長期に渡る戦いによって疲弊し荒れ果てていたんではないかな。
古墳規模縮小が全国的傾向に増して著しいのでは…
代わりのように地下式横穴墓が増えるけど、古墳を作る国力が無くなっていったんでは。
地下式横穴墓の副葬品にも武器は非常に多いが農具が少ないように思う。
国力人力をすり減らして行ったのかな。

87 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 01:23:26.10 .net
やっぱり戦をしていたんだろうか
だとするといったい何百年平和が訪れなかったのだろうか
平和は大事だは

88 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 02:53:12.99 .net
そう。日向は元々大隅薩摩を合わせて日向国。建日別。熊曾国。同族的であり戦に明け暮れていたわけではなかった。
記紀によれば何かの理由で日向(薩摩大隅日向)から東征した。
純粋な日向の系統はすぐに絶え、大和の血がだんだん濃くなりアイデンティティは無くなった。
大和に近い圧を受け易い日向(のち+薩摩)は婚姻と不戦を選び、大隅(はじめ+薩摩)は徹底抗戦を選んだ。
初めは日向勢力も大きく何度も日向から妻を迎えて例えば雄略天皇の皇后も日向女の娘である。
同時に大隅薩摩との争いが不可避となり日向豪族も戦いを余儀なくされた。
大和と隼人の間で退くに退けない状況。
争いは数百年に及び疲弊していき豪族の力は次第に弱まり人々は貧しくなり少なくなり古墳を作る力はなくなり、単なる大和の先兵と化して行った。
大和から最も遠い大隅コア部の反乱が隼人の最後の抵抗である。
全てが終わった時、日向には荒れた土地とわずかな人しか残っていなかった。

89 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 07:21:11.68 .net
似たようなことを近現代に見たようなことがある気がする
火の鳥みたいな話を書けそうだななんか

90 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 07:24:05.43 .net
つか火の鳥にヤマタイ国とクマソ国が出てきて棚

91 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 07:45:05.44 .net
日向から東征軍を出したというならば、その日向の系統がすぐに絶えたなどという
事態に陥るはずはない。日向は古墳時代の唐書から古墳時代を通じて繁栄を続けて
いる、これは東征した地域からの物資が入っていたからこその繁栄だ。
大隅が徹底抗戦? 大隅に大きな古墳があることを知らんね。大隅と薩摩が戦った
なんてことはないよ。

92 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 11:29:20.87 .net
絶えてはないけど、手研耳は誅殺されて神武天皇と畿内の妻との子が継承してるよ。

93 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 12:00:55.84 .net
>>91
大隅と薩摩が戦ったなんてどこにも記されてない。
あえて言えば大隅と大隅だろうか。
古墳時代の大隅の南東部と北西部で同じ主義とは言いがたいな。
南東部では大きな古墳を作ってるな。

94 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 15:15:01.15 .net
同族だから戦わないってのもよくわからんな
普通近所の連中と土地争いが戦争のもとじゃないの?

95 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 15:16:55.50 .net
今でも殺人事件の半分以上が家族親族内らしい

96 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 16:57:54.83 .net
家族親族だからこそ戦いになる例は数え切れない

97 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 19:07:28.16 .net
それよりwikiの隼人の項をなんとかしたらw
地下式横穴墓の解説とか滅茶苦茶だ
出典が何十年も前のばかり1960年代とか何を考えてんだかな
別にwikiだからいいけど

98 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 19:51:06.78 .net
荒廃した日向を素通りし隼人の乱を鎮圧して捕虜を連行していく大和の軍が去ったそのころ…
眼下の荒れ果てた田畑跡・破れた家々・打ち棄てられた構造船、傍らの草茫々の古墳を
ぼんやりと眺めながら袖にてんとう虫が止まり涙が頬を伝う我王500歳的な人は絵になる。
ほんとはその2、30年後の大和の平城京郊外で両腕を失った彫物師の我王だけど。(火の鳥)
そんな風景が広がっていたのではないかと割と思うな。
他がいちはやく戦乱から離れ開墾に没頭していた時に戦いを繰り返した結果か…と。

99 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 00:01:56.64 .net
戦いを繰り返したとしても好き好んでやったんじゃなければ災難もいいとこだ

100 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 02:14:52.55 .net
隼人にしろ別に悪事を働いたわけではない自衛行為だろうがそういう時代なので仕方ない。
西岸を行く大和役人一行を侮辱とか言われるが過程を無視しちゃいけない。
日向が数百年かけて得たものがかつての同胞の薩摩大隅との間の遺恨と自国の荒廃だけだったとしても
その非は自らに求めるしかない。災難は大和がもたらしたものではない。自ら呼び込んだようなものだ。
いや単にそういう時代だった。そんな大昔の真偽もどうだかってことで何も思わんだろ普通。

101 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 22:19:59.72 .net
手塚治虫史観

102 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 23:36:01.83 .net
手塚治虫がヤマタイ国をどこに比定していたかは知らんが
狗奴国=クマソ国としていたようだな
ネット上では根拠と共にこのへんに持って来る人も結構いるようだ
去年全国紙でも宮崎平野説が紹介されてたことがあったな

103 :日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:27:07.37 .net
どこがギルティなんてナンセンス。
橿原市と姉妹都市の縁で今某デパートで物産展やってるそうで何か買ってきとるわ。
興味あったら行ってみたらいいですよ。

104 :日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:36:07.20 .net
すまん今詳しく聞いたらとっくに終わってるわ物産展。

105 :日本@名無史さん:2013/02/05(火) 22:31:53.85 .net
姉妹都市なら橿原市より桜井市とかなんじゃ…

106 :日本@名無史さん:2013/02/06(水) 10:16:07.87 .net
証拠に基づかない妄想、空想をいくら述べたところで何の役にも立たない。
問題は、倭人伝に従って邪馬台国の所在を探求したらどこになるか、それが
記紀や考古学資料によって裏付けられるかということだ。

107 :日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:27:00.95 .net
書物は全面的に正しいとはされないので実質考古学によってしか進展しないな。
類例が無いとかどれだけ大規模な遺構が出ても邪馬台国云々となれば可能性を
主張するための材料のひとつにしかならんけどな。
でももし、国内に有るか疑わしいが親魏倭王印とか、親晋倭王印とか、下賜品目録
が記された簡とか、何も読み取れなくてもAD240前後の簡とか、そういうものが
そんなに時差無い層から出土すれば大騒ぎだろうけどな。
印は仮に国内にあったとしても移動されてそうだけどな。

108 :日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:54:53.41 .net
現在、連続式や伊都国糸島が通説なら、まだ進展する余地は十分あるよ
多くの人は他の可能性を知らないだけだろう。

109 :日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:24:47.28 .net
>書物は全面的に正しいとはされないので
そんな前提はまちがっている。疑うべき理由がなければその記載は重要な資料となる。

>考古学によってしか進展しないな。
考古資料は多くの場合、補助資料にしかならない。

110 :日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:41:36.31 .net
アピ活動やって世論誘導することで予算が来易くなるくらいはあるかもしらんね。
何処に何が比定できるか可能性の議論はやり尽くされているから百年やっても何も進まんよ。
言いたいことは分かるんだが、重要な資料となるんだが、同じことの繰り返しで進まない。
考古学しかない。

111 :日本@名無史さん:2013/02/07(木) 00:01:10.97 .net
その割に花弁状住居は直視しようとしない。
本来これこそ重要な手がかりとなる遺跡だろうに。
金印レベルの遺物なら別だが、余程じゃない限り考古学で文献は否定できない。
行程を考慮しなかった場合、何をもって奴国、投馬国、狗奴国、邪馬台国を判別するのか?

本来、文献に関して言えば考古学はそれを補完するものでしかなく
補完できるか、できないか。考古学はそれだけにとどまる。

112 :日本@名無史さん:2013/02/07(木) 18:24:52.10 .net
そう、考古学では国の名前とか、一つの国の領域がどこからどこまでかとか国家体制
がどうだったのかなど、まったく分からない。
今の考古学者は、すべて思い込みでかってな主張をしているだけだ。

113 :日本@名無史さん:2013/02/07(木) 21:53:20.09 .net
文献は超重要だが新たに発見される可能性は皆無に近く…
話は変わるが布留系土器と言っても使われている土も違う搬入品と在地の土を使っている模倣品がある
当たり前だがこのへんの解釈ががかなり重要だろうな

114 :日本@名無史さん:2013/02/07(木) 23:15:09.15 .net
南九州の議論はこれから。まだ何も始まってない。
論争に取り残されまいとする危機感はよくわかる

115 :日本@名無史さん:2013/02/07(木) 23:18:27.77 .net
つまり在地系土器も作って布留系土器も作ってたということですか?

116 :日本@名無史さん:2013/02/07(木) 23:46:53.40 .net
>>114
少し昔は西都原も5世紀からだとか生目の古墳もただの山、
一部に古い可能性があると指摘する人がいたくらいで、
弥生遺跡と不毛に近いくらいかわずかだったからな。
よって記紀はインチキ視だったが最近の考古学的発見で
見直され始めた。

117 :日本@名無史さん:2013/02/07(木) 23:49:26.15 .net
>>115
そういうことになるんじゃないかな。
でも解釈になるとどうしても主観が入るな。

118 :日本@名無史さん:2013/02/08(金) 02:45:51.12 .net
文献史料に限界のある時代は考古資料によってしか学術的進展がないのは当たり前だろう。
あと文献と考古はどの時代でもお互い補完する事はあってもどちらかの補助になるとか
そう言う扱いで歴史を語る奴はきちんとした論は立てられない。

119 :日本@名無史さん:2013/02/08(金) 07:21:27.26 .net
考古学というのは、まだそんなレベルなんだよ。邪馬台国の所在をかたることなんぞ
とてもとても。

120 :日本@名無史さん:2013/02/08(金) 07:51:01.78 .net
語ってほしくないだろう。
客観に徹するから信頼が置かれてる。
邪馬台国とか一文字たりとも出さないはず。
想像で多くを語る考古学者は考古学者とは思われてない。

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