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アンチ会津のキチガイ総合スッドレ
- 1 :日本@名無史さん:2012/04/15(日) 06:40:11.37 .net
- そろそろまとめようか
- 510 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 07:00:17.50 .net
- だから4月25日の達しは、4月下旬の事件の記述あたりに出てこない。
「修蔵は15日をもってこれを受け取り、直ちに左の案をもってこれを郤くべく、
総督府へ申し送り、総督府はこれを仙台藩に達せり」という、例の処分の直後に、
「しかるに修蔵らは一方に仙台、米沢を脅喝するも…」と続けて、
4月25日の「一時の詐略」を示して解説している。
つまり著者の藤原は、世良は仙台・米沢に対して「脅喝」を加えながらも、
徳川慶喜処分が各藩に知れ渡ったので、会津に対してだけ謝罪を許さないと言う態度を取れなくなり、
仕方なく4月25日の達しを示したが、それは「詐略」であり、許す気は毛頭なかったと言いたいために持ち出してるのだよ。
仙台と会津との交渉は、その1か月以上前、仙台兵が4月10日、会津国境の土湯口に迫り、
会津兵と戦闘を開始するのとほぼ同時に開始されている。公式には仙台の会津討伐戦中の出来事。
「仙台戊辰史」によれば、4月11日、
仙台藩から会津に若生文十郎・横田官平が派遣され、伊達慶邦の親書を示して容保に降伏を勧めた。
容保は「文久2年以来、国事に尽くしたすえ、正月には伏見の戦で精兵500余りを失ってしまったから、
今日においては国境を防御することは容易ではない。仙台候の好意で降伏謝罪をもって社稷が保てれば望外の喜び。
領土を削られるくらいはもとより覚悟の上である」と言って、重臣会議を開いてる。
その重臣会議では佐川官兵衛以外に反対が見られなかった。
そのあとひと悶着あるのだが、佐川もその後、若生を訪れて周旋に感謝し、降伏に一致した。
これが「仙台戊辰史」による最初のころの情勢。
このあとで長州藩士の中村小二郎らが土湯口に出て監視し、
さらに、世良が介入することで急速におかしくなっていく。
- 511 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 07:01:25.67 .net
- 「仙台戊辰史」は、総督の九条道孝は嘆願を受理してもよいと言う立場に変わっていくが、
参謀の世良には嘆願の受理の意思はまったくなかったと見ている。
それどころか、4月25日付のお達しのあと、
米沢藩執政の木滑要人らの嚮導で会津の降伏使節が若松を出発したと言う情報が入ると、
露骨に談判を妨害する行動を取り始める。
仙台藩は4月26日付で次のような届出を行っている。
「会津容保謝罪嘆願のため、家来ども別紙名元書立の通罷越候由、米沢より申入候につき、
陣門へ相通じ承申候間、先以てこの段お届け申し上げ候、以上 4月26日
仙台中将内 但木土佐 米沢中将内 木滑要人
(以下会津側使節の名前)」
ところが、この届出を受けた総督府参謀からは次のような指示が届いている。
「今般、会津藩人が仙台表に来たいと申し出ているそうだが、
右は朝敵天下に入るべからざるの罪人ども、仙台藩においては征討の勅命を蒙っているのだから、
決して国内に引き受けてはならない」
「仙台戊辰史」は
「この達しが届きたるは、関宿の会見を終わりたる後なりしかど、これによりて略略参謀らの意見のある所を察したれば、
会津嘆願の趣旨を貫徹するは容易の業ならざるを知りたり」
と記している。要するに、4月25日に寛典の余地を示しながら、
実際に降伏使節が来ると言う情報がもたらされると「引き入れてはならない」と厳命したので、
参謀たちが何を考えてるか分かりましたと言う記述だな。
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