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足利義詮は本当に無能だったのか?

1 :日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:06:38.93 .net
親とか子とか兄弟とか叔父さんとかが凄すぎるだけで、二代目としての守成の役割は果たしたのでは?


2 :日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:35:33.64 .net
逃げまわった話ばっかり強調されてるけど義満時代の基盤を作ったのは義詮だよ。

3 :日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:55:06.42 .net
楠木正行の首塚の隣に葬ってくれって言える義詮すごいよ

4 :日本@名無史さん:2012/10/07(日) 11:37:49.53 .net
太平記がいまいち人気ないのが、足利三代にはハンディだな。
おれには最高に面白いんだが。

5 :日本@名無史さん:2012/10/07(日) 17:00:27.80 .net
太平記は面白いよ。

6 :日本@名無史さん:2012/10/07(日) 23:32:11.78 .net
寛大とういか人間としての器がが大きい感じ。

7 :日本@名無史さん:2012/10/08(月) 02:07:56.85 .net
幕末に木像梟首の一人に選ばれていたんだから、少なくとも当時教えられてた日本史においては、それなりのプレゼンスを認められていたのだと思う。



8 :日本@名無史さん:2012/10/08(月) 18:19:28.31 .net
>>7
尊氏と義満のおまけ的な扱いだと思うが。
建武新政を打倒した尊氏と「日本国王」で頼山陽に叩かれた義満と比べて
なんかやったっけ?

9 :日本@名無史さん:2012/10/08(月) 19:27:58.88 .net
尊氏と義満だけ晒すとカンチャン待ちみたいで気持ち悪いから、一順子作るために巻き添えを食らったか。


10 :日本@名無史さん:2012/10/09(火) 07:13:17.71 .net
木造梟首されたのは単に南北朝時代の将軍だったからに過ぎない。義詮が特に悪いことをしたわけではない。
天皇政権に対して謀反を起こした尊氏、正統の南朝を滅ぼした義満とは全然違う。

11 :日本@名無史さん:2012/10/12(金) 22:53:36.05 .net
「国宝神護寺三像とは何か」を読めばいい。

12 :日本@名無史さん:2012/10/28(日) 17:31:24.48 .net
鎌倉攻めの大将となった

13 :日本@名無史さん:2012/10/29(月) 15:07:30.41 .net
>>12
数え4歳だったけどな

14 :日本@名無史さん:2012/10/30(火) 01:09:06.43 .net
その四歳児が、新田勢を従えて鎌倉を落とし北条を完滅させたんだからな

15 :日本@名無史さん:2012/10/30(火) 13:14:25.00 .net
千寿王がいなきゃほとんどの武将が新田に荷担しなかったかもしらんが、それは義詮自身の能力ではないだろ。

16 :日本@名無史さん:2012/10/30(火) 23:02:39.79 .net
南朝に天皇、上皇を奪われるという致命的なチョンボをやっちゃったからな

17 :日本@名無史さん:2012/10/31(水) 10:01:53.64 .net
>>16
尊氏の責任


18 :日本@名無史さん:2012/11/03(土) 22:31:33.95 .net
あれだけ戦の場数こなしてて死なないだけ偉い

19 :日本@名無史さん:2012/11/06(火) 01:08:57.72 .net
尊氏と義アキラのしぶとさは異常だろ…

20 :日本@名無史さん:2012/11/07(水) 02:44:49.79 .net
鎌倉時代の足利家は随一の勢力を持っていた

21 :日本@名無史さん:2012/11/16(金) 18:18:49.38 .net
尊氏謀反の時点で無事に鎌倉から無事に脱出できた強運はすごいわ。

22 :日本@名無史さん:2012/11/16(金) 18:48:09.54 .net
よく考えると親子3代で驚異的な強運としぶとさだな…
勝てそうで勝てない相手。

23 :日本@名無史さん:2012/11/17(土) 10:14:43.23 .net
政変、クーデターの多い中で頼朝の息子のように断絶しなかったのは運がいいのだろうけど
観応の擾乱がなければ南北合一も尊氏の代でできて、九州も平定できていただろうに

24 :日本@名無史さん:2012/11/26(月) 18:38:30.34 .net
目立たないだけで、誰も無能なんて言ってないと思う。

だれが言ってんの?

25 :日本@名無史さん:2012/12/13(木) 22:46:54.48 .net
>>21
異母兄弟は捕まって死んでるしね。

26 :日本@名無史さん:2013/01/28(月) 19:58:58.59 .net
>>17
足利尊氏が九州で反旗をひるがえす足利直冬(尊氏庶子)討伐のために
九州へ向かった隙に南朝がキを攻めた。
当時、尊氏に命じられて都を守っていたのは嫡男の義詮。
しかし、義詮はあわてて近江国へ逃げ、その間に南朝に、北朝の3上皇・祟光天皇・皇太子を奪われた。

都へ戻った義詮は、広義門院のもとへ行き、早速連れ去られた祟光天皇の代わりに
女院の院宣によって新たな帝を立てることを願いあげたが、広義門院から
みすみす上皇・天皇・皇太子を奪われる失態を犯しことで説教をくらったらしい

27 :日本@名無史さん:2013/01/28(月) 23:22:04.59 .net
尊氏と義詮の逆境での強さにあやかりたい

28 :日本@名無史さん:2013/01/29(火) 23:31:06.14 .net
戦も強い、政治もできるで完璧なヒーローじゃん

29 :日本@名無史さん:2013/02/02(土) 20:59:57.14 .net
義詮は尊氏と比べられてかわいそうな面もある。
本当は尊氏より政治面では能力があったと思う。
惜しむべきは短命だったことだ。

30 :日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:46:42.42 .net
義詮と満詮はもっと評価すべき

31 :日本@名無史さん:2013/02/07(木) 20:25:45.95 .net
女狂いってのは太平記の作り話だよね?

32 :日本@名無史さん:2013/02/08(金) 01:21:46.59 .net
ラッキーマンでモテモテだったってことか…

33 :日本@名無史さん:2013/02/08(金) 06:48:53.60 .net
>>26
ある意味、足利義詮は逃げ足の早さが生き残る秘訣だったのかもしれんね。
足利家嫡流だから生きている限り誰かが持ち上げてくれただろうし。
そう考えると、あやかろうにも他の奴じゃ真似できないかもw

34 :日本@名無史さん:2013/02/13(水) 21:02:14.97 .net
>>26 広義門院の院宣もらったのは義詮がやったこと?
誰かの入れ知恵じゃなくて?

35 :日本@名無史さん:2013/02/13(水) 21:40:29.73 .net
>>17>>26>>34
義詮の失態を尊氏が尻拭いしたというのが正しいだろ

36 :日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:32:55.04 .net
>>35 逆で尊氏の尻拭いの半生じゃないか?

37 :日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:41:10.35 .net
直冬の方が戦上手だったよね

38 :日本@名無史さん:2013/02/19(火) 21:53:19.60 .net
直冬と義詮の二頭政治だったら室町幕府最強

39 :日本@名無史さん:2013/02/19(火) 22:21:46.29 .net
戦上手の直冬も、ラッキー義詮の前では、どうにもこうにも

40 :日本@名無史さん:2013/02/20(水) 21:37:07.99 .net
直冬は別に戦上手というわけでもないぞ。最初の紀伊攻めぐらいがガチの軍功で
九州での勢力拡大は舅の少弐頼尚の力がほとんどだよ。直冬の役割は将軍の実子
というブランドを活かして軍勢催促したことにある。その後少弐に切り捨てられて中国地方に逃げて
山名に拾われたあともほとんど同じことをやっていた。

41 :日本@名無史さん:2013/02/21(木) 18:19:00.77 .net
>>40
それでも本当の将軍足利尊氏と敵対する目的で旗揚げして
将軍の庶子というだけで軍勢がついてきたのは直冬の凄さ
義詮など将軍の嫡子として足利家正規軍つけられていても逃げ回りまくり

42 :日本@名無史さん:2013/02/23(土) 11:32:11.18 .net
正平の時はまさに南朝が京を占拠できるカオス状態だからで最も「南北朝時代」というに
ふさわしい時だったからな。朝廷、幕府が分裂という応仁の乱に匹敵する政治状況
を招いた尊氏の観応の擾乱以来の政治センスの欠如こそが問題にされるべきだろう。

このカオス状態で足利の庶流が多く没落した中で直冬をうまく使って保身どころか六分之一殿
と呼ばれるまでのし上がった山名時氏こそが真の梟雄といっていいだろう。

43 :日本@名無史さん:2013/02/27(水) 16:22:11.10 .net
>>42
尊氏は、義詮には生まれながらのカリスマ性があり、
新田義貞が鎌倉を攻めた時も武士たちは誰もが4歳の千寿王(義詮)
を主君として戦ったために勝てました(義貞は千寿王の家来)と
後醍醐天皇に手紙送ってるじゃん

4歳にして鎌倉幕府を滅ぼすほど強かった義詮が
それから約20年後の観応の擾乱では戦わずして逃げ回っているとは
尊氏もどんな言い訳を考えたことやら

44 :日本@名無史さん:2013/02/28(木) 01:36:55.27 .net
闘鶏に狂ってた

45 :日本@名無史さん:2013/03/07(木) 11:41:22.75 .net
>>3
偉大な父を持つ二代目としての苦悩が感じられるんだよな。
理想の二代目像を楠木正行の生き様に重ねてたんだろうな。

46 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 12:22:28.54 .net
義詮は観応の擾乱で直義派だった斯波や上杉さらに山名大内まで帰参させた
その辺りは見事だったよ
直義派も尊氏とは違って義詮にはそれほど敵意はなかっただろうけど

47 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 00:24:14.41 .net
義詮の死因て暗殺なの?

48 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 19:27:33.58 .net
病死

49 :日本@名無史さん:2013/04/05(金) 21:42:32.38 .net
若すぎるその死は、やはりプレッシャーから来る不養生から来たものか?

50 :日本@名無史さん:2013/04/13(土) 12:54:11.80 .net
徳川秀忠は義詮の生き様を随分参考にした、と秀忠伝記物で読んだ気がするな。

派手なことはやらなくても事業の地盤固めをして三代目に渡すのが役割、みたいな。

51 :日本@名無史さん:2013/04/14(日) 02:46:37.25 .net
>>49
それもあるけど数えで3歳で総大将になってから子供時分に移動の連続。
同じく子供時代に旅が多かったモーツァルトとか、
あの時代の道路事情からくる移動の悪影響が身体の出来る前の子供にはあったというし
命縮めた原因のひとつではあるのではないかな。

52 :日本@名無史さん:2013/04/28(日) 11:35:09.33 .net
>>51 同世代の後村上帝も幼少から半端ない移動で寿命縮めたしね

53 :日本@名無史さん:2013/05/02(木) 20:20:59.40 .net
>>49
義詮の母方の北条氏などもっと短命なのが多かったから
そんなもんじゃね?

54 :日本@名無史さん:2013/05/03(金) 23:02:32.79 .net
無能じゃないと思うけど一番の功績は義満を現世に誕生させたこと

55 :日本@名無史さん:2013/05/04(土) 15:33:45.66 .net
短い政権で、実権を与えた人がコロコロ変わっていってる

最初は仁木→次は細川清氏→最後は斯波義将→亡くなる直前に細川頼之

56 :日本@名無史さん:2013/05/06(月) 17:21:22.72 .net
>>54
父親なんか特定できないんじゃね?
義満は母方の従兄弟が後円融天皇だったもんで
自分も皇族みたいにふるまってるし

57 :日本@名無史さん:2013/05/07(火) 07:01:50.75 .net
>>56
その気配は無いらしいよ>皇族ふるまい

58 :日本@名無史さん:2013/05/08(水) 15:49:39.98 .net
>>56
義満は自分の正室に女院号を与えてるだろ
本来、天皇の后妃か、皇女にしか与えられないのに

59 :日本@名無史さん:2013/05/08(水) 16:02:57.13 .net
>>58
それは日野康子が天皇の『准母』になったからであって、むしろ皇族気取りじゃないからこそそう言う手続きをとってる

60 :日本@名無史さん:2013/05/08(水) 17:13:36.27 .net
政治的にも戦闘的にも、父や息子に見劣りはしたものの、
あの動乱の中で、まだ不安定な足利体制を維持しただけでも、評価の対象にはなるんじゃないか。
毛利三兄弟で一番地味な隆元なくして、元春や隆景の様な優秀な弟がいてもうまくまとまらなかったのと同じで、
決して、いなくてもいい様な小物ではないと思う。

61 :日本@名無史さん:2013/05/08(水) 18:26:35.00 .net
>>59
妻を天皇の「准母」にする発想がもう…
これまで天皇の准母になれるのは天皇の后妃か皇女だけだったろ。

息子を親王に準じて天皇の御前で元服させているし。

後円融天皇は義満に天皇位を奪われると本気で思っていたらしくノイローゼとなり、
側室が義満との密通によって孕み義満の子を天皇にしようとしていると怒りだして
側室を刀の鞘で殴り、驚いた側室が実家へ逃げ帰っている

62 :日本@名無史さん:2013/05/08(水) 19:47:47.23 .net
>>61
> 後円融天皇は義満に天皇位を奪われると本気で思っていたらしくノイローゼとなり、
> 側室が義満との密通によって孕み義満の子を天皇にしようとしていると怒りだして
> 側室を刀の鞘で殴り、驚いた側室が実家へ逃げ帰っている

全部資料的裏付けのない妄想じゃん

63 :日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:13:17.80 .net
>>62
「後愚昧記」読んだことないの?
一次史料に書かれてある史実じゃん

64 :日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:34:29.86 .net
>>63
気持ちの部分全部オマエの妄想じゃんw

65 :日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:51:00.11 .net
>>64
どこが?
原文読んだ?

66 :日本@名無史さん:2013/05/09(木) 09:56:44.30 .net
>>61
平盛子

67 :日本@名無史さん:2013/05/09(木) 15:12:48.14 .net
>>66
高倉天皇は生母の身分が低かったため
生母の姪で関白夫人の平盛子の猶子となった
盛子の姉は高倉天皇中宮平徳子

義満の妻の出た日野家は天皇と姻戚関係ないだろ

68 :日本@名無史さん:2013/05/09(木) 20:37:59.93 .net
>>60
まず古典の「太平記」からして小物扱いだよね<義詮
実際は政治・軍事で功績を挙げて南北朝合一の道筋を作って
次代に繋げてるんだから十分二代目の重責は果たしてると思うんだけどなあ。

69 :日本@名無史さん:2013/05/10(金) 19:24:43.43 .net
>>65
後円融の妄想ってことじゃ?

70 :日本@名無史さん:2013/05/18(土) 01:05:04.16 .net
よく秀忠と似てるとは聞くけど
曹丕とも被る

71 :日本@名無史さん:2013/05/20(月) 10:35:34.10 .net
色んな意味で秀忠とは欠片も似てない

72 :日本@名無史さん:2013/05/28(火) 04:43:31.74 .net
曹丕ほど性格悪くないだろう

73 :日本@名無史さん:2013/05/28(火) 15:41:16.31 .net
南朝からは、信用に値しないという扱いだったような

74 :日本@名無史さん:2013/05/28(火) 18:25:30.09 .net
そりゃ義詮も南朝を欠片も信じておらんからな

75 :日本@名無史さん:2013/05/30(木) 02:49:28.41 ID:34EVz3yS!.net
秀忠が義詮に敬意を払っていたのは確か。

76 :日本@名無史さん:2013/05/30(木) 03:03:21.65 .net
南朝信じている奴なんて当時いないだろ

77 :日本@名無史さん:2013/06/08(土) 20:40:16.82 .net
やはり直冬は別格だったな

78 :日本@名無史さん:2013/06/09(日) 10:04:46.02 .net
>>77
太平記では尊氏の正室赤橋登子が我が子義詮のために
尊氏の庶子を皆冷遇して寺に入れたと書いてあるんだよね

79 :日本@名無史さん:2013/06/09(日) 21:40:21.92 .net
>>78
皆じゃないし、庶子を寺に入れるのは良くある話

80 :日本@名無史さん:2013/06/09(日) 21:56:34.87 .net
>>78
大体盛り立てる母体の集団(母親の実家)がない庶子とか寺に入れてもらえるだけ御の字だろ

81 :日本@名無史さん:2013/06/09(日) 23:59:37.17 .net
足利将軍家は分家は鎌倉の基氏系以外作らなかったのは何故だろう
庶子はみんな寺に入れてしまってる。
後の徳川なんてたっくさん分家作ったし、北条もいっぱいある。

82 :日本@名無史さん:2013/06/10(月) 12:00:06.48 .net
>>81
登子の男子が義詮と基氏の2人しかいなかったからだろ

家康は正室不在だったため(最初の正室は殺害、
2度目の正室も結婚一年半で聚楽第へ逃げ帰って死亡)
側室の子を将軍に取り立てたり御三家に取り立てたり好きにできたけど

83 :日本@名無史さん:2013/06/10(月) 13:05:09.55 .net
>>82
歴代将軍という意味で
義満なんか子供一杯いるのに一家くらい立ててやばよかった。
政略結婚も積極的とは言えないし。

84 :日本@名無史さん:2013/06/10(月) 15:42:05.62 .net
>>83
足利義満は長男足利義持以外に、次男足利義嗣も取り立てたが
義満死後、義嗣は義持に粛清され、殺されてしまっただろ。

85 :日本@名無史さん:2013/06/12(水) 17:39:58.28 .net
弟の満詮の子供たちてどこいったんだろう?

86 :日本@名無史さん:2013/06/13(木) 10:49:30.51 .net
>>85
満詮の子は全員出家してるね
義満に子が大勢あったので抗争になることを避けたのかもしれない

87 :日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN .net
むしろ満詮一代だけでも俗体で存在できたのが奇跡かもな。義詮の他の子息は出家させられてるし。

88 :日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
義詮こそ、鎌倉幕府(北条氏)と室町幕府(足利氏)を結ぶ結節点。
時代の節目のキーパーソンとして、もっと注目されてもよかろう。

89 :日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
そういえば、源頼朝も血縁粛清だし、足利将軍家もそういう感じだな。
伝統なのか?

90 :日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
一族内で殺し合いもせず結束が保たれてる方が希少だわい

91 :日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
>>8990
だから徳川家康は秀忠の血を本家にしつつもそれには劣るが万が一のために御三家とか残したんだな。
あくまで本家の補完勢力にとどめたのが上手い。
ただ忠長だけは切腹くらっちゃったけど。

頼朝や義満も兄弟に序列つけて補完勢力にすべきだった。

92 :日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN .net
>>89
中国を見ろよ
呉楚七国の乱、西晋の八王の乱から明の三代永楽帝まで、骨肉の争いばかりた
河内源氏の争いの多さなんて、かわいいもんさ

93 :日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN .net
正室も渋川幸子とか地味だよな
有力な武家公家でもないし

94 :日本@名無史さん:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN .net
世継ぎは必要だし、スペアもいるけど、一人っ子政策って感じで、大変だなw

95 :日本@名無史さん:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN .net
>>93
渋川って、足利支流のなかでも有力な分家のひとつではある
格式だけなら細川や今川よりは上のはず
ただ、赤橋とか日野に比べると、どうしても目立たないな

96 :日本@名無史さん:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN .net
渋川氏は九州探題出してた名家だよな。
足利家の中興の祖の足利泰氏の次男の子孫で
(同母兄の長男が斯波氏、異母堤三男が足利宗家の先祖)
足利宗家の庶兄の家系にあたる。

97 :日本@名無史さん:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN .net
尊氏てなんで、あんなの直冬に冷たかったんだ
もう少し直冬に優しかったら歴史変わってたかもしれない

98 :日本@名無史さん:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN .net
>>97
側室の子供だから。

あと、自分が後醍醐天皇に寝返って討幕にいったために
正室の実家(赤橋北条家)が不幸なことになったから。
正室に対して申し訳ない気持ちがあったはず。

99 :日本@名無史さん:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN .net
>>98
母親は側室ですらないだろ
それでも一応は寺に入らせて
一門の中での役割与えてやったのに
無断で還俗すりゃそりゃ見放したくもなるわ

100 :日本@名無史さん:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN .net
>>98
尊氏自身、側室の子なので側室冷遇はない
側室の子は正室の子よりも優先されないというだけで相応の父子関係は結ぶ

直冬は尊氏が独身時代に身分の低い女に手を付けて産ませた庶長子
正室を迎える以前に側室を持つことは許されず(側室を持つには正室の許可が必要)
北条から正室を娶る際、それ以前に他の女たちとの精算を求められた
そのため尊氏は正室を娶る前に他の女に産ませた長男と次男を寺に入れて精算し身辺をきれいにした

庶長子って直冬に限らず悲惨な最期を遂げている人多い

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