2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

◎邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)に存在した!3

1 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 20:25:17.16 .net
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。

1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
  尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
  9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
  邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
  これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
  人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。

朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。

前スレ
◎邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)に存在した!2

http://mimizun.com/log/2ch/history/1337166055/

2 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 21:57:09.88 .net
しかし西都原は邪馬台国の時代に合わないため、比較的支持は低い

3 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:11:27.20 .net
合わなさ杉
4世紀かせいぜい3世紀末からだろ>西都原

4 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:17:05.58 .net
しかも主要な古墳郡はモロに畿内の影響を示したもの

5 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:24:41.29 .net
畿内の古墳よりも早いか同時期かってとこだろう。畿内の影響か、畿内へ影響を
与えたのかはこれからの問題だ。

6 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:24:47.01 .net
マキムク型とか○○の○分の○の相似古墳とかそれは畿内の影響を受けていたってことで
畿内の方がでかければ畿内説を補強する材料になる

7 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:35:41.10 .net
明らかな同一設計図(法)の広がりを持ってるから畿内中央政権の学説が成り立っているんだろ…
てか、地方古墳の立て看板にも説明記載されてるレベルの話だぞ…

8 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:44:14.67 .net
いつの学説だよ。立て看板が根拠か。

9 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:44:42.71 .net
年代が3世紀半ばくらいにならないと卑弥呼の墓じゃないんで…

10 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:46:48.89 .net
おめでたい連中だな。マキムク型なんてのは、現代のアホな学者がつけた仮のネーミングに
すぎない。物を作るときにまず大きな物を作ってそれを2分の1、3分の1にするか?
ジャンボ機を作ってそれから小型機を作ったのか? 普通、物は小さい物を先に作ってその
技術を使ってそれより大きな物を作るものだ。古墳だって同じだろう。いきなり大きな物を
造るなんてことはない。機内の古墳は地方の古墳ができた後に造られたもんだよ。

11 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:00:48.21 .net
畿内より古い可能性をそれなりの証拠と共に示さなきゃ話にならんよ

12 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:00:49.72 .net
うわ…
古墳についての学術書の一二冊でも読めばわかりそうなモノだが、ここのやつらはそれもせず西都原がーとなのたまってるのか?

まあ自分の研究に自信がおありなら2ちゃんじゃなく学会にでも発表したまえ

13 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:05:24.50 .net
1冊だけタイトルと出版年を教えてください

14 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:07:57.52 .net
畿内の古墳は槨をもっている、しかし、日向の古墳には槨のないものがある。
槨のないものの方が古そうだな。
副葬品も検討してみろ、畿内の古墳をまねたのならばそれと同様のものを副葬
するのが自然だ。しかし、日向の古墳の副葬品は畿内のそれとはちがうものが多い。

15 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:09:54.20 .net
自分の力で見つけなさい

16 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:11:17.43 .net
とりあえずメサホは典型的な5世紀前半畿内型
畿内に少ない4世紀柄鏡型を調べたら良いんでないの

17 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:13:51.82 .net
とりあえず畿内古墳統一規格の話だろ?
西都原古墳郡の代表的なのはそれにあたる

18 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:15:15.70 .net
4世紀とか5世紀とか卑弥呼云々に関係ない。

19 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:23:46.91 .net
西都原、吉野ヶ里、宇佐=時代が合わない
平原遺跡=伊都国濃厚

さあ九州説、あとはどこだ?

20 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:24:53.05 .net
古墳は特別な遺物とか70代女性遺骨とかそんなのが出ないと何だってことにならない。
纒向みたいに3世紀の巨大な掘立柱建物跡とか出ているのかな?
ふさわしい居館がないとね。

21 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:30:45.05 .net
これは畿内説だけでなく他の多くの説に言えることだけど
旁国21か国どころか、奴国、投馬国、狗奴国さえかなり曖昧な比定なのに
なぜ邪馬台国だけ明確にわかるのか、というのが疑問。
町おこし的な説ゆえなのだと一応解釈してるけど。

22 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:37:12.78 .net
>>21
そのとおり
我が町に卑弥呼がいたらいいなって話
「ここが邪馬台国どぇ〜す」とか書かれた立て看板でも発見しないと確定は無理
勿論文字を使わない時代だから未来永劫確定は不可能だろう
ただ発掘調査の進展で当時の日本の様子をある程度浮き彫りにすることが出来るから調査員の成果を待ちましょう

23 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:42:53.75 .net
>>19
>西都原、吉野ヶ里、宇佐=時代が合わない
そんなことは簡単に言えることではない。古墳の年代なんぞいくらでも動く。
決定的な証拠はない。

24 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:47:09.33 .net
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告之

狗奴国は邪馬台国に匹敵しすぎなんですけど狗奴国がどこなのかも看板に書いといてほしい

25 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:50:46.47 .net
やっぱ畿内しかない気がしてきた

26 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:58:50.62 .net
じゃあ邪馬台国畿内派スレ行けばいいじゃん^^

27 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 06:45:56.99 .net
弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。

 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)
の邪馬台国【銅鏡祭祀】に国を譲る【銅鐸処分→九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
 これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、「和」国が分裂、卑弥呼は急死(男弟/魏の将軍張政/狗奴国による暗殺説)。

-分裂した「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘

 卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎えた後、旧奴国&隅国(隼人)と同盟を結び、肥後狗奴国(後の熊襲)
を一網打尽にし、倭「和」国を再統一した。
 「和」国際統一の偉業をなした男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、五胡十六国の戦乱の影響から
距離を置くため、都を筑紫・博多から先遣隊長ニギハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷。その女系先祖・卑弥呼(アマテラス)
&台与以来の【銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始する。

※古事記・日本書紀が、日向長官の先祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
 銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の偉大な功績を消され出雲に祀られる。

28 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 06:47:32.76 .net
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(双方の直系男子途絶による)政権交代

4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬国)系大王【四道将軍、ヤマトタケル征東、熊襲討伐、国造任命】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王【倭の五王(讃珍済興武)→獲加多支鹵大王】
   →(高句麗の南侵に脅かされた)百済・新羅・伽耶(任那)への軍事援助により「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王


-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
  …継体の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
  …筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
  …「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を完全喪失。国力大幅低下&大増税→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
  …両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
  …筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都

29 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 10:21:52.06 .net
年代なんていくらでもいじれる。

30 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 12:00:24.88 .net
投馬(つま)国って薩摩国のことなんジャマイカ?

31 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 14:33:03.96 .net
投馬国とは狗奴国のことかもね?
邪馬台国の7分の5なら匹敵し得るし

32 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 20:11:36.38 .net
いくらでもいじれるわけないだろう
調査もしてないが墳丘の形で推定で○世紀とはされる

33 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 20:15:45.87 .net
>>31
変な薬でもやってるの?

34 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 21:02:54.26 .net
仮に邪馬台国を西都原に持って来るとして狗奴国と投馬国をどこに持ってくるつもりなの?

35 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 23:14:37.86 .net
>狗奴国は邪馬台国に匹敵しすぎなんですけど
どこをみて匹敵すると思っているのかな。狗奴国は旁国の一つにすぎないし、
官は1人しか書いてないし、倭人伝より後の史書では名前すら消えてしまっているし。

36 :日本@名無史さん:2013/02/05(火) 00:05:19.65 .net
自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王 @後漢書
なんてのがあったりする
自己解釈で勝手に改変したような感が否めないけどな

37 :日本@名無史さん:2013/02/05(火) 00:16:48.34 .net
後漢書がいうのは拘奴國。倭人伝が書くのは狗奴国。位置もちがう、国名もちがうのに
同じとみるのはそれこそ自己解釈。

38 :日本@名無史さん:2013/02/05(火) 20:17:45.05 .net
航空機事故に関する続報
このニュースはテレビでは流れない重要なことなので

【航空】ボーイング787バッテリー問題、米NTSBが内部告発者の情報に関心[13/01/25]
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1359075767/
電池本体=日本
充電器=英系アメリカ工場
過充電防止装置=フランス

内部告発者の1人、マイケル・レオン氏は英メギット傘下セキュラプレーン・テクノロジーズ社が充電装置の出荷を急いでいたと主張。
この充電装置について、仕様と一致せず、正常に作動しなくなる可能性を指摘していた。

39 :日本@名無史さん:2013/02/26(火) 23:01:21.25 .net
粘土槨の古いものはいつごろかな?

40 :日本@名無史さん:2013/03/21(木) 20:10:42.35 .net
先週の16日にBSプレで放送された「古事記ガール 日向路を旅する」
内容はともかく「古事記ガール」が気になる。
宿無し物乞い娘に聞こえてしまう・・・

41 :日本@名無史さん:2013/03/21(木) 22:39:40.47 .net
確信犯で掛けてたんではないのw
まず出てくるだろう高千穂はどこに比定していたのかとかいろいろ気になる。
禊祓から天孫降臨までどう描いてたのかとか。

42 :日本@名無史さん:2013/03/22(金) 16:39:10.82 .net
高千穂が九州であることは異論は無いのだが、
高千穂町or霧島山高千穂峰の二択で異論がないかというと、
必ずしもそうでもないですよ。

43 :日本@名無史さん:2013/03/22(金) 17:24:25.82 .net
鹿児島側の霧島市と、都城・えびの側の霧島と、
高千穂周辺のつながりがイマイチピンと来ないんだよね

44 :日本@名無史さん:2013/03/22(金) 19:29:11.28 .net
北の高千穂については、阿蘇あたりを含めて高千穂と読んでいた確かな証拠がある。
南の霧島山の天逆鉾はレプリカ。
本物?は行方不明だが本物と言うのも記紀を読んで誰かが刺したものと思われる。

45 :日本@名無史さん:2013/03/22(金) 19:56:25.37 .net
高千穂町周辺=上高千穂
阿蘇=下高千穂
らしい

46 :日本@名無史さん:2013/03/23(土) 03:40:03.84 .net
阿蘇は外輪山の部分が大きくて中は高原のように草が生えてる
だから高千穂と呼ばれるのも納得いく
溶岩がゴロゴロした殺風景な山だと高千穂なんて地名はつかないだろう

47 :日本@名無史さん:2013/03/23(土) 17:12:52.00 .net
日本神話に記録されてるのは
高千穂町の”高千穂峡”じゃぁなく
霧島山の”高千穂峰”に
天照大神の孫であり神武天皇の祖先である
邇邇芸命が高千穂峰に誕生するんだからね

48 :日本@名無史さん:2013/03/23(土) 21:12:17.49 .net
記紀を読んでると霧島山の高千穂峰のように思えてくるんですけどね

49 :日本@名無史さん:2013/03/23(土) 21:34:55.23 .net
日向国は古くは建日別と言うのですが、
景行天皇の皇子の豊国別が日向国造になったと書いてあります。
豊国別って?意味深なネーミングを…
景行天皇が六年も滞在されたというのもどういうことなんですかね。

50 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 00:46:40.53 .net
それが5世紀前半、男狭穂塚と女狭穂塚が作られた時で、
仁徳天皇前後の時代じゃないかと思ってる。
景行天皇かどうかは分からない。不敬のつもりはないけど、
実在性とか在位期間とか本当のところは誰も断定できない。
全く根も葉も無い話とまでは思わない。
5世紀前半頃に何か類することはあったんだろうと思うね。

51 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 00:53:24.58 .net
九州は少なくとも7世紀あたりまでは、
機内王権とかは関係無しにマイペースなもので。

52 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 00:56:06.17 .net
畿内とは関係ないのですかね?
景行天皇じゃなくて九州王朝?の王だったとか?

53 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 01:31:56.33 .net
畿内にも人物はいたのでしょうが、
九州で熊襲退治をやった人物とは別物でしょう。

記紀で九州の豪族の話を組み込んだものと思われます。

54 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 18:48:13.01 .net
高千穂の峰とは霧島の高千穂の山のことだろうか?
当時、そのような名称で呼ばれていたか?単に高い山の忌みではないだろうか。
南薩摩の笠沙とはかなりの距離があり簡単には行けない。笠沙近辺で高い山又は
山岳信仰となりえる山は開聞岳と金峰山だけだ。開聞岳麓には海幸彦伝説の枚聞(ひらきき)神社もあります。

http://www.ten-f.com/hirakiki.htm

55 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 19:08:22.06 .net
笠沙の御前も比定地はひとつじゃないんだよこれが

56 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 19:12:35.51 .net
高千穂の意味は一般名詞で「高い山が千重につらなる」と言うほどの意味。

しかし、日向風土記にはその由来が書いてある。
土蜘蛛の兄弟が瓊々杵尊に「千の穂を蒔かれませれば、眼下すべて豊かな田園となって
世はあなたの元で定まるでしょう」と進言したと言うもの。
そこで千穂の峰という名称が出来、
それが神武東征によって一般名詞となって全国に広まっていった、と言う説。
これもいかにも正しそう。どちらが先かは結局解っていない。

57 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 20:09:40.10 .net
豊国別命ってことは、豊国造腹の子という解釈もできそうな

豊国造は伊甚国造と同祖/宇那足尼
伊甚国造は房総の国で、下海上国、武蔵国、千葉国の国造と
同祖で、出雲臣族。
豊国別命の孫 老男命という名も意味深で、
下海上国の領域にあった匝瑳に、老尾神社がある。

出雲臣族が景行に使役されて兵として西に行ったんじゃないか。
国東には、国前郡武蔵郷という地名も。。

58 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 21:02:13.82 .net
チョット遊んでもいいんだけどヤメとこ〜^^

59 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 21:19:10.06 .net
男狭穂塚・女狭穂塚以後は陳腐化して規模も縮小して面白くない
4世紀は地域色あって盛況だったのに
まだ地域性は失われておらんw
7世紀とかもう古墳時代も終わりに近づくころだが
西都原の鬼の窟古墳(円墳)と、三財の常心塚古墳(方墳)の
横穴式石室+外堤という形は奈良の石舞台古墳しか類似例がないのだ

60 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 21:25:15.45 .net
>>58
遊んでってくれ

61 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 21:30:49.26 .net
景行の父 垂仁に因む生目神社も宮崎に。

景行の義理の母である狭穂姫は、添上郡に地盤がある。

景行が九州遠征の際に通った、周防国の娑麼(サバ)も、
サホ=スオ=サハ
で音が通る。

女狭穂塚もサホ。

熊襲を征服した地も、大隅国贈於郡(ソオ)
景行の母は狭穂姫??

狭穂姫は、垂仁の夢の中では、錦色の小蛇。

出雲系の出自ではないか。

サオとは諏訪か。

62 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 21:55:20.66 .net
古墳で出雲系を感じるには方墳?
方墳はきわめて少ないが、女狭穂塚の陪塚に方墳がある。
蛇=出雲として高原町の霞神社とかかな。
主祭神が大国主命という。

63 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 21:56:07.64 .net
阿蘇神社創建は景行18年。
阿蘇氏は景行に従って東国から来たんでしょう。

科野国造の系譜に、タケミナカタの子孫に
阿蘇姫があって、武五百建命の妻となっている。

神武なんていなかったという前提があると、
阿蘇神社社家の出自は、この方がすっきりする。

64 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 22:03:55.76 .net
>>62
出雲といっても、出雲あるいはヤマトから東国に流れた人々
じゃないかと。

武蔵国横見郡に、
吉見百穴横穴墓群

があって、ここは兄多毛比命を祀る神社などもあり
武蔵の中心であった可能性がある。

65 :日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:40:54.65 .net
トヨクニワケが出雲臣族とは

66 :日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:04:21.98 .net
常心塚古墳は馬子の墓にそっくり
鬼の窟古墳は独自の円形アレンジですかね
鬼の窟古墳が先かもしらんけど

67 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:55:40.85 .net
景行天皇の個人名は、オシロワケ。
母のヒバスヒメ・サホヒメは、丹後・但馬出身。オシロという名の式内社が但馬にある。
小代神社。
サホヒメの一族は但馬国造家 日下部宿禰氏、九条家の隠し系譜では但馬国造は
神部直氏(三輪氏)。欠史八代の出雲王朝の家柄。
但馬国造同族が国造になった甲斐には、日下部という古地名があり、式内社の神部神社
が2社ある。
甲斐においては、オシロがヤシロに転訛して地名が残っている。
その甲斐国八代郡には、垂仁8年創建の甲斐一宮、浅間神社がある。
ちなみに、但馬国にも式内社の浅間神社がある。

日向に八代郷があり、景行との関わりを偲ばせる。
なお、日向にも浅間大神を祀る都萬神社があり社家は日下部氏である。
都農神社は大国主を祀るが、都農には三輪姓が多く、神部氏=三輪氏の移住が
認められる。

但馬、甲斐、日向と、三輪氏と日下部氏のペアに関連する神社や、社家が
存在する点で共通しているが、景行で切ると綺麗に繋がる。

偶然の一致ではなく恐らく、景行に使役された出雲族の痕跡か。

この一族の痕跡の古さは但馬→甲斐→日向の順 

68 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 01:19:27.58 .net
男狭穂女狭穂塚を境に4世紀の持田とか大きな古墳を作った各地の勢力がその勢いを弱くしている
滅亡はしていないけど相当動揺したらしい
西都原の旧来の勢力は東の新田原に築造場所を変えたらしい
西都原で前方後円墳が復活するのは100年くらい後
移住を伴っていたのかな?

69 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 01:36:21.24 .net
5世紀前半に何かあったらしい
狭穂塚の後しばらくは西都原は円墳ばかり
監視要員や移住者のうち有力な者の墓だろうか
6世紀に復活するが2段でランクダウンしている
全国的に古墳築造は盛りを過ぎているけど

70 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 08:59:55.03 .net
東征で天孫族はみんな出て行ったんだろ。
残ったのは円墳の海人族だけ。
伝承にも同じような話がある。
いわく、日向人が温和な芋がら木刀なのと醜女ばっかりなのは、
良い血はぜんぶ東征で出て行ったからだと。

71 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 14:03:02.96 .net
お知らせ

市原警察署の生活安全課の帰化人創価警官の指導の元、
入学式から2週間ほど、在日の創価学会員を主体とした自称防犯パトロールが、
2週間ほど行われることになりました

生活安全課の指導であることと、パトロールであることは、
絶対に公言してはいけないとの指導も、帰化人創価警官より出ています

期間中は2人組の在日の創価学会員が、頻繁に創価批判者の自宅周辺を、
うろつき回ると思われます
日本人の方は、充分に注意してください

72 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 18:27:01.03 .net
>>70
東征はあったとすれば4世紀
時代が違う
5世紀のは地方豪族を弱める全国的な施策の一環
移住とかはあったとしてももっと後の律令制が敷かれるころ
と思う

73 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 19:23:38.41 .net
凶暴な血や美人は抜かれてどっか行った

74 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 19:36:44.11 .net
馬子の墓も2段の方墳か上円下方墳だろうとされとりますがな

75 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 21:58:03.41 .net
聖徳太子の記録の不完全さは、

まだ文字が十分に普及してなくて、
記録があまり残ってないのか、

それとも、実質大和朝廷とは別の政権で、
記録が消失しているのか。

76 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 00:40:12.14 .net
聖徳太子は実在しなかったからだろう。

77 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 00:49:44.08 .net
蘇我氏は実在したし聖徳太子も実在した

78 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 00:58:07.18 .net
常心塚には仏教系の伝承が残っているのが面白いな
即身仏とか本当かは分からんけど

79 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 01:24:13.07 .net
聖徳太子の功績は実在した。
聖徳太子が聖徳太子であるかは考える余地がある。
しかし蘇我氏渡来人説は完全に否定されている。

80 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 08:31:56.83 .net
東征は三世紀だろう。四世紀は朝鮮半島に進出していた。四世紀末に大敗したので
しばらく富国強兵につとめたんじゃないかな。

81 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 08:57:13.27 .net
東征前の日向神話のどこにもそんなことは書いていない。
朝鮮半島に進出していたのは北部九州だよ。

82 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 10:59:29.62 .net
東征が先だ。東征してから、朝鮮進出。
当然のことながら、東征の前に九州統一。朝鮮に進出したころは、北部も南部もない。

83 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 12:05:43.13 .net
東遷、東征つっても、規模で意味がまるで変わってくる。
10万人の大軍団が、ローラー作戦で畿内まで完全支配してしまったのか、
10人の一家が、あちこち寄り道しながら場所を探して、畿内に住み着いたのか。

俺は下に近いと思っている。

84 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 12:21:20.67 .net
巨大な古墳は東征した勢力が造ったもの。となれば、自ずからその規模は見当が
つくだろう。

85 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 12:38:15.48 .net
仁徳天皇陵の建造には380万人日が必要という試算があるが、
15年、年間200日働くとすれば、一日あたりの人数は1300人ほどである。

彼らの食料を、支配した領民から税として徴収したとすれば、
その10倍から20倍の人口の支配地をもっていたということになるだろう。

三万人弱といったところか。

86 :日本@名無史さん:2013/03/28(木) 10:04:48.23 .net
畿内は弥生時代に発展してきた環濠集落など拠点集落が消滅・衰退、巨大なマチと
いうべきマキムクがいきなり出現した。ということは、弥生集落の発展ではない。
まったく別の勢力による流通拠点が築かれたということだ。
東海、関東の物資を九州に送る中継基地、物流センターだな。
当然のことながらそのセンターを作ったのは九州勢力だ。

87 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 00:27:34.20 .net
生目神社と東征の妄想

宇佐八幡宮の神領地である宮崎庄に含まれるため、
庄園の鎮守として八幡神を勧請したのが創まりと考えられ[1]、
『宇佐大鏡』に因れば天喜4年(1056年)には既に鎮座していた。−wikiより

生目神社の宝治二年銘神面及び天文五年銘神面
宝治銘神面は縦51.2センチメートル、横31.1センチメートル、鼻の
高さ22.7センチメートル。裏面の「土持右衛門尉田部通綱、宝治二年五月日」
の墨書銘から鎌倉時代中期の宝治2年(1248年)の作である事が判り、
現在確認されている県内最古の有銘仮面とされ、また県土持氏の2代目
である通綱の存在を裏付ける史料ともなっている。−wikiより

生目神社は宇佐八幡宮、神官の土持氏が祭祀にあたったと考えられ、
土持氏は、古代氏族田部氏の後裔で、田部氏は物部小前命を祖とする。

物部小前命は、鳥見連、登美連、高橋連の祖でもある。

東征した者が征服したナガスネヒコの「登美」の名を負っている。
生駒には登美、鳥見という地名が残り、生駒は生目に通ずる。

東征は、日向の物部氏が主体となって行い、それは生目(垂仁)
や崇神といった物部の力が強かった時代ではなかったのか。

88 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 19:23:48.92 .net
天孫降臨が渡来人の日本への漂着であれば薩摩半島が一番可能性が高い。
大隅から宮崎への神武東征の伝承は生み伝いに渡って行った可能性を示す。

89 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 19:18:03.30 .net
天孫は記紀では山幸系としてるが、海人族の可能性は高い。

天皇は自らをウズの御子という。
ウズは産むのことだが、海の渦とも同義。
渦は女陰と同義で、太陽が毎朝出てくる場所。
この概念はエジプトや西アジアにもあり、かなり普遍的な概念だったらしい。
エジプトにも日本の古墳にも、太陽をのせた船を操る人の壁画がある。
その渦から地上まで太陽を運ぶという意味があり、
それはエジプトではファラオ、日本では天皇だ。

90 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 19:21:48.18 .net
では、なぜ、太陽が陸からのぼるエジプトがそうなったのかと言うと
元々は、太陽神アメンはシリアの征服民の神で
フェニキア人と近縁の部族だからだ。
フェニキア人は言うまでもなく海の通商の民であり、
ユダヤの別名でもある。

91 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 19:49:05.05 .net
イスラエルが崩壊したとき、
本来が海の民であるかれらが海に逃げたのは理にかなっている。
そのとき、彼らが太陽が生まれると言う東の果てを目指したとしても何一つおかしくはない。

フェニキア人はネコ王のときにアフリカ一周を達成してるし、
ペルシアとの貿易によりインド洋航路を既に知っていた。

本来、アマとは日本では海と同義であり、
ヘブライ語では「遥か遠く」、ハラはハーラー、「山」、あるいは「聖山」だ。
高天原の「高」は後代、中華思想の導入で付随したもので
「万葉集」のうた等にも元々はついていない。「アマノハラ」が正確な音だ。
(同じく、高千穂も本来はチホ「千の穂」だ)
つまり、遠くの山、聖山シナイ山からの民であるという意味だろう。

92 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 21:20:33.29 .net
秦の東に不老長寿の国があるという信仰と
キリスト教の東の国にプレスタージョンというキリスト教国があるという信仰は似てるかもしれない
漢代にキリスト教が流行ったということは
秦の時代にもユダヤ人が出入りした可能性がある
熊野には徐福伝説があるし、外来勢力の到達を暗示してる
熊野から吉野に至る奧駈道は修験道の聖地であるが
熊野の勢力が神武を手引きした
神仏混合の時代になり
仏教優勢の時代になると神武東征ルートは西方の仏教伝来と同一視され
奧駈道が神仏混合の聖地となった

93 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 21:49:35.18 .net
フェニキア人は地中海東端から発して西端まで行き着いているね

94 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 22:18:14.72 .net
言うまでも無く宮崎で太陽が毎朝出てくる場所は海。
夏至には北東方向から出て北西方向へ沈み、
冬至には南東方向から出て南西方向へ沈むのだが…
夏至の日の出の位置を伸ばして行くとズバリ畿内になる。
美々津(東征出発地の伝説、ただし記紀に記述なし)でほぼ天香具山付近、
青島神社でおよそ伊勢神宮付近、鵜戸神宮でおよそ熊野市付近を通る。
まあただの偶然でしょうけどね。
ttp://pcrice.web.fc2.com/sun/

95 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 23:02:37.98 .net
レイラインはあちこちで一致してるよ
偶然じゃない。

96 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 23:54:33.62 .net
およその夏至の位置を意識しながら造作したのだろうね。
夏至の日の出の位置を伸ばしたらどこを通るか。
高千穂神社は数十mの誤差で明石海峡の五色塚。
天安河原は京都御所内を通って琵琶湖、浅間山、南相馬市付近で太平洋。
ここまで正確に知ることは絶対に不可能なのである程度狙って確率を上げたうえでの偶然と思われる。
畿内を通れば何らかの重要史跡は通ることになるだろう。

97 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 23:58:16.56 .net
後世の京都御所とか完全に偶然だしね。

98 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 00:35:00.68 .net
>>91
天原=海原ということですか

99 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 01:00:26.64 .net
海にでれば海と空が繋がる。境界域は曖昧に成る。アマ天海こんなもん大陸系民族の概念かよ?w

100 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 08:42:14.01 .net
天孫降臨も邪馬台国もみんな福岡でしょ。
機内とか宮崎とかアホの妄想丸出しw

101 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 08:49:54.56 .net
素直に判断しろよ 低能ども
宗像にしろ住吉にしろ志賀海にしろ総本宮総本社は全部福岡
神武東征も全てが福岡で素直に話がまとまる

古代史はぜ〜んぶ福岡周辺(筑紫周辺)で中心で興った事実なんだよ

つべこべ無駄な議論してんじゃね〜 低能どもが

102 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 09:08:40.78 .net
滋賀県

君が代にも歌われる博多湾の「志賀の浜長きを見れば幾年あらん 千代に八千代まで」
この長い浜が畿内にはないため一番それっぽい琵琶湖周辺に「志賀」をあてはめたことから
滋賀になる。 まあ昔は琵琶湖に志賀町があったしな。
まあどっちにしろ日本の古代史はすべて福岡周辺の出来事であったことには違いないしな。

103 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 09:21:29.98 .net
だからよでっち上げ何だよ魏志なんてw
民俗血統描写も大嘘偽装国家を仮想してる。

104 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 09:45:07.98 .net
旧唐書
「日本国は倭国の別種であり 小国だった日本が倭国を併合した」

新唐書
「神武以前の日本の統治者が筑紫城にあり 後に大和地方を治めた」

これはつまり、本家の筑紫・福岡(倭国・邪馬台国)にいた天孫族(分家)が東征して
大和を治め大和朝廷から日本と呼び名を変え、後に白村江で弱体した本家筑紫を
併合した(大化の改新)事実を中国の歴史書がきちんと記し残しているという事実だよ。

日本の表舞台の古代史はぜ〜んぶ福岡周辺での出来事なの。
覚えときな。無駄な議論すんな、バカたれたち。

105 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 10:08:02.00 .net
日本古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南在海中島而居 東西五月行南北三月行 
國無城郭聯木爲柵落 以草茨屋 左右小島五十餘皆自名國而臣附之 置本率一人検察諸部 
其俗多女少男 有文字尚浮屠法 其官十有二等 其王姓阿毎氏
自言初主號天御中主 至彦瀲凡三十二丗 皆以尊爲號 居筑紫城  彦瀲子神武立
更以天皇爲號徙治大和州 次曰綏靖 次安寧 次〜

106 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 10:53:22.69 .net
筑紫女学院は福岡だが、古代の筑紫は九州島全体のことだろ、
もんだいは筑紫城の場所で正解は?

107 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 10:59:16.75 .net
ば〜か、筑紫は本来福岡の事なんだよ
それをそのうちに勝手に九州と拡大解釈をするようになっただけだ

九州をさすときは筑紫「島」な
島がついてないときは福岡のことだ 覚えとけ。

108 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 11:13:40.23 .net
単純に筑紫といえば、筑紫国、
または、旧筑紫郡筑紫野市筑紫の地方を指す。

そこには筑紫神社もある。

109 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 11:18:11.83 .net
それから、福岡があるのは筑紫平野。
筑紫平野の後ろだから筑後平野。

ちなみに宮崎が日向になったのも景行天皇の時で天孫降臨のだいぶ後。
天孫降臨が宮崎の高千穂になったのは江戸時代に勝手に早とちりしただけなんだよw
高千穂には天孫降臨の時には建てた神殿跡も出てないし、
筑紫(福岡)の日向の高千穂の飯盛山の麓には神武の時と時代がかぶる
日本最古といわれる三種の神器も揃う、また巨大神殿跡も発掘されてる
吉武高木遺跡もあるしな。吉武高木遺跡では戦いをして負傷した人たちの人骨もたくさんでてるし、
何度も言うが宗像も住吉も志賀海神社も大分(だいぶ)八幡宮等々も
当時に起源をもつ神社は全部福岡に総本社総本宮があるからな。

いちいち宮崎だとか畿内だとか妄想ばっか言ってないで
魏志にも旧唐書にも新唐書にも朝鮮に残る記述にもまったく矛盾のない、
発掘された埋葬品の豊富さや地理的条件といい
すべてに矛盾もない福岡がすべてなんだよ。
いちいち希望をもって畿内だの宮崎だのいうなっての。まったく発掘でも埋葬品でも
無理ばっかなのになww

110 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 11:20:13.24 .net
筑紫城は太宰府政庁のうえの山城である大野城である。
神籠石がぐるりと山を取り巻いている。

太宰府政庁の周囲から、弥生中期以降の遺跡が出てくるので、
相当古くから集落は存在する。

111 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 11:24:11.08 .net
有明海の平野は筑紫平野。
福岡は福岡平野。

筑紫神社周辺より北が筑前国
南が筑後国。

まとめて筑紫国。

112 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 11:57:09.10 .net
筑紫城が大宰府あたりにあったなら、大いに説得力はある。
そうなればあえて「筑紫」を福岡に限定する必要はなく、古代の筑紫=九州島でなんの問題もない

また筑紫城と邪馬台国の卑弥呼城が同じものであったとこだわる必要もないし、
むしろ邪馬台国は魏代の一時期において、魏に通じた一族が建てた一小国でしかなかったということもありうる。
筑紫城の遺跡あれば十分、二兎を追うものは一兎をも得ずだ、、、。

113 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 12:07:04.31 .net
めんどくせえww

筑紫は九州じゃないって言ってんだろボケ
九州=筑紫島になったのもだいぶ後なんだよw

筑紫は福岡 筑紫島が九州なんだよ 必死にむりくり宮崎こじつけんなバカw

それから今でも大宰府は十分福岡(筑紫もしくは福岡)という認識で一致するぞ
覚えとけボケ

いいからもう宮崎に無理くりこじつけようとするのはやめろ。

114 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 12:17:34.93 .net
筑紫と「倭」血統の邦(想像血統偽装)は別物だろ。倭は大陸南部派生領域語ひつこい位民俗描写と地理感の南誘導が嘘臭さい。

115 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 12:19:59.57 .net
>>113
ま、そうむりやり筑紫と筑紫島の違いにこだわると、通る話も通らなくなるよ。
筑紫城がどこにあったかが最大最優先、
日本古倭奴也 と言ってるんだから、倭奴国の福岡大宰府大野城あたりだったでじゅうぶん説明できるし。

116 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 12:22:29.54 .net
「倭」呼称は北方系民族に使える呼称じゃ無いだろ。

117 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 12:26:08.31 .net
金印の漢委奴国王印は、筑紫王の印
親魏倭王は、肥国王の印

前の印が返却されるか、
明らかに別政権でなければ、
印は発行されない。

旧所有者と新所有者で、
戦争が誘発される可能性があるから。

それでは冊封された意味が無い。

118 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 12:44:32.86 .net
俺は 大宰府=筑紫城 
   筑紫一帯(福岡周辺のこと)=筑紫城

の可能性もあるし、個人的に神武一族の集落かもと思ってる吉武高木遺跡もありえるかなとも思ってる。

ただ筑紫=九州島(もしくは宮崎)って考えは、もう発想が飛びすぎてあまりにもありえないな。
そもそも筑紫島を九州と置き換えるようになったのもだいぶ後の時代だし
筑紫=九州(宮崎)と考えるのはあまりにも無理くりで身勝手w
無理矢理に邪馬台国纏向説を唱える畿内派と同じぐらい無理があるな。

119 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 12:44:43.67 .net
親漢の筑紫王と親魏倭王を時期的・地理的に区別して考えるのはだいじなことと思う。
特に、親魏倭王は30余国から共立された王であったし、
さらに魏王朝以後の王はどうなったかもある。

120 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 12:56:31.10 .net
まあ 筑紫=筑紫城(倭国もしくは邪馬台)って解釈が一番しっくりくるかな。

とにかく筑紫を九州という解釈に無理矢理にもっていこうとする宮崎派は
あまりにも暴力的で、無理矢理邪馬台国畿内説をとなえる連中と同じレベルだな。

121 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 12:56:38.99 .net
>>118
筑紫という言葉に強い思い入れがあるようだな。
(筑紫野市の王だと、ただの田舎の王になってしまうよ)
だけど筑紫も筑紫島も九州のことだ、といいきったほうがはるかに有利。
筑紫の王なんだから九州全体の王だゾ、という意味になってはるかに偉そうに聞こえるからね。

122 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 13:01:24.86 .net
>>121
筑紫は筑紫だろ。
南九州はそもそもクマソw

筑紫とクマソを一緒にすんな。
倭国は九州北部だけで十分通じる。

むしろ西都原は一クマソ(クマソの豪族)の墓の可能性が強いのが事実ww

123 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 13:10:39.30 .net
>>122
ま、そうだったかもしれぬがな。
手に余る連中をも禦してこそ天皇家というものよ。
なにしろ筑紫城の主こそ皇統と書いてあるのだからゆっくり構えればよい。
日向から出立した神武とかいう人物も奴国辺りへご先祖をお迎えに来たようだし。

124 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 13:30:34.00 .net
まあ筑紫城は奴国や伊都国や邪馬台連合の後を統治した筑紫周辺(福岡周辺)の勢力、もしくはその都、
又は神武一族の集落(邑・クニ)のことかもしれんが、

それを筑紫=九州(もしくは宮崎)と仮定するのにはあまりにも暴力過ぎってことだな。

そもそも発掘や遺跡でもそれらしいものが全くないけど無理くりこじつけてんのが
今の天孫降臨宮崎説(南九州説)だからな。

しかし福岡なら地理、記述、遺跡、出土品、装飾品等々どれをとっても遜色ないしな。
いつになれば本当の古代史が表にでるのかな(笑)
しかしここまでかたくなに九州北部説を無視する学会や宮内庁等々ほんと不思議だな。
国家の威信(プライド)なのか何なのか真意はわからんがな。

125 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 13:43:20.84 .net
韓国が消したい事実である九州北部勢力による朝鮮半島への侵攻と影響(一部支配)、
日本があまり認めたくない朝鮮半島と天孫族の係わり、

ここら辺をうまいこと韓国と日本の学者がお互いあいまいにして
winwinの関係にしてるようにもみえるんだよな。

126 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 13:44:58.15 .net
漢倭奴国王の筑紫城こそ神話の高天原だったと考える手もあるな。

まず共立の肥国王・卑弥呼らをして熊襲平定を進め、
そのあたりを神話では、天照からニニギ・神武に到る物語に仕立てた。

そして筑紫城〜卑弥呼城時代のあれこれを雲の中に隠した上で東遷に臨み、
われわれは高天原から天下ったものの一統という記紀のあらすじにした、、、日本古倭奴也。

127 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 13:57:02.77 .net
>>124
高天原が地上にあっては、神聖なる記紀神話があからさまな偽りだったことになって困る。
だから、筑紫城も卑弥呼城も宮内庁としては永久にハイとはいえないだろうよ。
内心わかってても建前の問題(民間人が言のは問題ない)だな。

128 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 14:07:15.83 .net
数年前、
宮内庁の職員が庁舎のパソコンから反九州説、畿内説の立場から
畿内の古墳についてだったか、ウィキペディアに書き込んでいた事実を思いだしたw

たしか畿内の古墳を発掘しないことについてだったか??
やっぱ九州北部説を抹殺するために必死なんだなって思ったことを覚えてるよw

129 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 14:42:03.95 .net
魏が南に持って行きたかったのは理解できますし、やはり故意に東を南に変えたのかなと思いますね。
どう解釈しても最後にこれ。
東とすれば適距離で邪馬台国が畿内に収まりますから。

130 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 14:50:48.56 .net
魏がそんなことをしなければならぬ理由はみあたらぬ
それに東に読み変えたところで畿内に届くわけもなし、宮内庁さえ得るところなしだなww

131 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 18:34:34.14 .net
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=lc&p=3

132 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 19:10:43.25 .net
大石規雄BLOG 低く 飛ぶ

レイシストに生卵をぶつけて、何が悪い 2

13/04/07
※以下、KYさんという方より、『レイシストに生卵をぶつけて、何が悪い』という記事への反論をいただいたので、それを紹介した上で、再反論させていただきます。
KYさんより
初めまして
 >レイシストに生卵をぶつけて、何が悪い.
 立派な傷害罪だからですよ。過去に生卵の欠片で失明した例があるのだから、その可能性も考慮せずに「足にぶつけたからノープロブレム」と言い抜ける連中の気が知れません。


大石より、KYさんへの返答
 なぜレイシストに生卵をぶつけても構わないのかについてお答えします。
 KYさんは、卵を投げられた人が失明した事例もあり、傷害罪にもなるから、投げてはいけないというご意見ですね。
 しかし今件の場合、通り魔的に、一般通行人が突然生卵を投げられたわけではありません。差別デモに参加するレイシストを狙って卵が投げられたのです。
 であるならば、たとえ投げられた卵でレイシストが失明することがあっても、倫理的な問題はないでしょう。

 殺すとか、レイプしていいなどという発言は、実行されれば傷害罪以上の話です。そうした暴力を煽動する輩が、生卵を投げられ、当り所が悪く失明することがあったとして、何が問題なのでしょうか。

133 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 20:27:00.97 .net
神話に言う高天原の具体的な姿こそ筑紫城と考えれば(仮置きすれば)、
当時の前後関係を理解しやすい。

すなわち高天原は(筑紫城は)比較的長い歴史を有していたというから、
じつは、狗奴国を含む30国を統治するために共立された邪馬台国の黒幕だったかもしれない。
あるいはその一時期において、邪馬台国そのものだったのかもしれない。

134 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 20:39:30.66 .net
>高天原は古事記冒頭には「訓高下天云阿麻下效此」とあり、天は「アマ」と読むように指定がある。

>筑紫城の王、姓は「阿毎」氏、自ら言うところの初主は「天御中主」と号し「彦瀲」に至る...

135 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 20:55:22.87 .net
なんでキチガイがわいてんの?

136 :日本@名無史さん:2013/04/09(火) 06:33:12.40 .net
国民皆が受け入れる神話でなければ廃れてしまうんだよ。
解釈もそのへんよく考えてやるべきかもしれんよ。

137 :日本@名無史さん:2013/04/09(火) 20:05:26.61 .net
垂仁天皇(活目尊) 4世紀前半
景行天皇
成務天皇 4世紀中頃
仲哀天皇
応神天皇 4世紀末

東征と言うのがあったとしたらこのあたり

138 :日本@名無史さん:2013/04/09(火) 20:23:01.75 .net
4世紀は前方後円墳築造の最盛期
【西都市】
茶臼原23(柄鏡形)29m  茶臼原24(柄鏡形)29m
西都原13(柄鏡形)79.5m 西都原35(柄鏡形)70m
西都原72(柄鏡形)79m  西都原81(撥形)  53m
西都原83(柄鏡形)84m  西都原88(柄鏡形)48m
西都原90(柄鏡形)96m  西都原91(柄鏡形)63m
西都原92(柄鏡形)53m  西都原95(柄鏡形)79m
西都原99(柄鏡形)61m  西都原100(撥形) 57.3m
西都原225(柄鏡形)74m
【延岡市】
南方1(柄鏡形)71m  南方10(柄鏡形)79m
【川南町】
川南11(柄鏡形)106m 川南39(柄鏡形)114m
【高鍋町】
持田1(柄鏡形)120m 持田47(柄鏡形)53.2m 持田48(柄鏡形)78m
【国富町】
本庄13(柄鏡形)75m 本庄15(柄鏡形)73m 本庄18(柄鏡形)80m
【宮崎市】
檍1(撥形)52m 
生目1(撥形)136m 生目3(柄鏡形)143m  生目22(柄鏡形)101m
【串間市】
福島4(柄鏡形)60m

139 :日本@名無史さん:2013/04/09(火) 22:09:54.36 .net
100m級とかは畿内の天皇陵400m級と比べたら陪塚くらいのもの

140 :日本@名無史さん:2013/04/09(火) 23:17:28.90 .net
400m級は一時期でそんなのは少数派
開化天皇…105m 崇神天皇…242m 垂仁天皇…227m
景行天皇…300m 成務天皇…218m 仲哀天皇…242m
応神天皇…425m 仁徳天皇…486m 履中天皇…360m
反正天皇…148m 允恭天皇…227m 安康天皇…38m
雄略天皇…76m  清寧天皇…115m

141 :日本@名無史さん:2013/04/11(木) 11:15:28.40 .net
前方後円墳はどこにでも造られた墓だ。けして大王の墓ではない。
大王の墓は特別のはずだからな。

142 :日本@名無史さん:2013/04/11(木) 11:24:31.99 .net
別スレで、農業用のため池を掘った残土の山を古墳に成形しなおし、墓にしたのではという見方もあった。
上の巨大古墳で周囲に池を持つものと持たないものを区別比較し、
ため池の構造や用水範囲とかを、農業土木の専門家に見てもらえば、意外にかんたんに是非が分かるだろう

143 :日本@名無史さん:2013/04/11(木) 12:00:58.42 .net
ため池が必要なところではため池を掘る。堀が必要なところでは堀を掘る。
たとえば、マキムクでは堀を掘ってるだろ。東海から来た物資を大阪湾へ運ぶ
ための堀だ。その残土を使って箸墓を造っている。

144 :日本@名無史さん:2013/04/11(木) 12:07:48.84 .net
そしてのちのち、古墳の上部に施主責任者、裾の方には死んだ人夫を葬る。
辻褄あっとるな。

145 :日本@名無史さん:2013/04/11(木) 12:12:42.71 .net
それに力の誇示だな。「不満があるなら戦ってみるかい」と言われたところで
山を造ってしまう連中と戦うって奴はいないだろう。戦わずに人々を服従させて
いくことができるんだ。

146 :日本@名無史さん:2013/04/11(木) 12:21:28.06 .net
巻向は我が国の公共事業の始祖か。
卑弥呼争奪戦よりはるかに有意義だ。
そういう解説ができれば、修学旅行団も観光客も巨大な墓を眼で見て勉強になり喜ぶな。桜井市も潤うだろうし・・。

147 :日本@名無史さん:2013/04/13(土) 17:47:46.65 .net
宮崎古墳人
1.南九州山間部タイプ:低顔広顔で縄文人に近いが歯が現代人並みに大きい
2.宮崎平野部Iタイプ:高顔狭顔で北部弥生人に近い
3.宮崎平野部IIタイプ:高顔狭顔だが眼窩や鼻部の高径が低い

148 :日本@名無史さん:2013/04/13(土) 21:35:52.76 .net
縄文人弥生人という括りはともかく、西の県境に近い地下式横穴墓で発掘された
多数の人骨からは縄文的形質が優勢ながら弥生的形質も見えるということらしいな。

149 :日本@名無史さん:2013/04/15(月) 21:19:49.47 .net
弥生前期の時点で宮崎平野部と都城あたりでは弥生の遺跡が散在するが
この2つはたぶん由来が違う

150 :日本@名無史さん:2013/04/16(火) 21:36:37.18 .net
弥生時代の早い時期にやって来た少数の渡来人と多数の縄文人が混血。
あるいは混血せずとも縄文人が稲作を開始した。

151 :日本@名無史さん:2013/04/16(火) 21:53:22.48 .net
宮崎の古墳は周溝が池として利用されているのは皆無だな。

152 :日本@名無史さん:2013/04/17(水) 13:17:47.63 .net
西都原の台地上に巨大古墳を築造したくらいだから、
奈良・大阪のように、周溝をため池として利用する考え(隠された意図)はなかったと推測できる。

153 :日本@名無史さん:2013/04/17(水) 22:07:13.11 .net
歴史構造って謎が謎を呼ぶな
が答えは総て単純^^

154 :日本@名無史さん:2013/04/18(木) 12:21:23.74 .net
答え教えて

155 :日本@名無史さん:2013/04/20(土) 07:03:54.49 .net
仮に低地に古墳があっても墳丘を堤の一部に利用しようとはしなかったろう。
もし周溝に水が溜まるようになればむしろ埋めていたかもしれん。
低地に溜池を作るのはやむをえない場合だけ。
蚊の発生や伝染病の元になる。
地形図を見ても溜池の殆どは人家からは少し離れたとこの谷地形を堤で塞いだ形で、
低地には殆ど作られてないだろう。
かなり長い距離でも水路を作って水を引いてきてた。

156 :日本@名無史さん:2013/04/20(土) 07:26:21.85 .net
蚊が伝染病を媒介するとか知っていたとも思えんけど、
もしかすると経験則でなんとなく知っていたのかもしれん。
少し掘り込んで低い堤で囲った池を至近にたくさん作ったほうが水路も短くて済むだろうに、
殆ど距離を置いた山際にしか作っていない。
溜池を作るようになったのはずっと後の時代だが、弥生時代にも好んで台地上に住んでいる。

157 :日本@名無史さん:2013/04/20(土) 22:33:10.26 .net
日本書紀
夏四月、吐火羅國男二人・女二人、舍衞女一人、被風流來于日向。

ここでいう日向は宮崎のことかな?
やっぱ漂流ルートがあるんかな

158 :日本@名無史さん:2013/04/20(土) 23:48:26.67 .net
ttp://www.data.kishou.go.jp/kaiyou/db/FK/daily/current_FK.html
トカラ列島なら黒潮がまともに流れてるとこだね
素人目には完全に海流に任せたら着くのは難しいようにも見えるけど

159 :日本@名無史さん:2013/04/20(土) 23:58:13.01 .net
あんたら大陸系の羊人種か?w

160 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 00:11:27.64 .net
吐火羅國って、トカラ列島のことか?

(斉明)三年の秋七月の丁亥の朔己丑に、覩貨邏国(とくわらのくに)の男二人、女四人、筑紫に漂ひ泊れり。言さく、「臣等、初め海見嶋に漂ひ泊れり」とまうす。乃ち駅を以て召す。

海見嶋ってあまみしまのことだから、地理的に変

161 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 00:23:03.50 .net
>>159
羊人種なのか豚人種なのか魚人種なのか知らん
遺伝子なりきっちり調べてくれればいいんだが
調べても色々あって公開しきらんのか知らんけど

162 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 00:53:07.24 .net
吐火羅ササン朝残党説
舎衛女は後に百済王族より先に書かれる扱いでただの漂着民でないのは明らか

163 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 01:10:01.96 .net
最初に南方と北方両方面から。(弥生前期) 北+南
間を置いてさらに北から。(弥生後期) 北+北vs北+南
統一されるのが古墳時代前期。 北+北+南

164 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 14:09:51.25 .net
蛇行剣は鍛造?鋳造?

165 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 19:28:00.04 .net
鍛造だったらすごいね

166 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 20:02:33.28 .net
島内地下式横穴墓群
人骨200以上、短甲5、冑3、胡禄金具1、蛇行剣10、鉄刀21、鉄剣45、鉄矛4、
鉄鏃632、骨鏃150、刀子87、鉄斧3、ヤリガンナ12、鑷子2、耳環5、
轡1、辻金具6、貝製釧42、ガラス製小玉61

167 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 22:01:39.03 .net
覩貨邏國(旧・吐火羅國)
トハーリスターン、トハリスタン、バクトリア
アムダリヤ川上流、南北千余里、東西三千余里
ササン朝最後の君主ヤズデギルド3世が逃亡して抵抗した地

168 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 22:22:52.78 .net
そんな国の人間なんでアマミジマなんて地理情報もってんだ?嘘臭いw

169 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 22:23:07.11 .net
島内地下式横穴墓群か。邪馬台国の遺産だな。

170 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 22:38:31.92 .net
まあ嘘臭いな
なんでそんなとこから来なきゃならんの

171 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 22:53:03.16 .net
吐火羅國はタイあたりのドヴァーラヴァティー王国ってのが通説
ただ、中国の史書で吐火羅(トカーレスタン)と堕羅鉢底(ドヴァーラヴァティー)の使い分けがきんとされてることを説明できない

172 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 23:59:54.36 .net
トカラ列島は関係ないのか…

173 :日本@名無史さん:2013/04/27(土) 14:55:28.28 .net
蛇行剣というのは5世紀から畿内でも結構出ているらしいな。
旧日向国内からは20数本出ているらしいが。
5世紀前半からってのは地下式横穴墓の出現と重なる。
出土の傾向が畿内とここらに偏っている二段逆棘鏃というものもある。
4世紀までとは絶対何か変化しているな。

174 :日本@名無史さん:2013/04/27(土) 19:03:23.32 .net
畿内で作られたものが移入されていたのか?
その種々の武器をどこに対して使おうというのか
人骨は地元人のものなのか
まあ女性や子供や老人の骨も多いらしいから地元人なんだろうな
なぜそこまでして戦う必要があるのかさっぱり分からん
畿内で東海とかだったら先に土地がたくさんあるがなぜ端部にこだわるのか
北部九州王朝に遮られていたとして、南九州を確保しても半島へ向かうには
結局北部九州沿岸を通らきゃならないし意味合いは少なそうなのにな

175 :日本@名無史さん:2013/04/27(土) 23:01:41.41 .net
南九州から指揮者が出ていたからだよ。死んだときに故郷に戻せる者は戻すさ。

176 :日本@名無史さん:2013/04/29(月) 07:44:46.41 .net
蛇行剣なら2000年あたりの時点で35本かそれくらい出土していたから、
今は宮崎県内で40は超えていると思うよ。

177 :日本@名無史さん:2013/04/29(月) 12:27:24.67 .net
蛇行剣って出土数は圧倒的に宮崎が多いけど、
最古のものは宮崎でなく福岡なんだよな

178 :日本@名無史さん:2013/05/02(木) 00:55:10.68 .net
日向国の風俗 無体無法の事のみ多く 只気の尖なるに任せて
己が理と見る時は 非と云ふ人ありといへども 曾て用ひず
己が非と云う時は 人来て道理といへども 曾て従わず
その理非は第二にして その談ずる所の人と口論に及び
終に討ち果たすの類多き風俗なり 「人国記」

おいおいおい…芋茎木刀はどこに行った?
戦国時代だったから?

179 :日本@名無史さん:2013/05/02(木) 13:19:18.75 .net
討ち果たすなよ

180 :日本@名無史さん:2013/05/02(木) 19:45:10.37 .net
真面目な議論をすると討ち果たしたりするから芋茎木刀を良しとする風が生まれた。

181 :日本@名無史さん:2013/05/02(木) 22:34:58.84 .net
いやこれは県民性みたいな要するに作者の主観やろ?
芋茎木刀も昭和30年頃に誰かが作ったものらしいですよ

182 :日本@名無史さん:2013/05/04(土) 12:47:22.00 .net
県内某で非常に古い時代の水田遺構が検出されたのはご存知ですか。
その層をC14年代測定したところ2860±70年BPとか。
…が全く触れらないので全く知られていないという。
理由があるのか知らんので遺跡名は伏せるけどw

183 :日本@名無史さん:2013/05/04(土) 13:51:09.99 .net
九州北部の最古レベルの水田遺跡の年代測定でもそれくらいが出てる

184 :日本@名無史さん:2013/05/07(火) 23:39:29.13 .net
ほんまかいなw

185 :日本@名無史さん:2013/05/08(水) 04:54:08.01 .net
菜畑遺跡か板付遺跡?

186 :日本@名無史さん:2013/05/08(水) 07:08:32.01 .net
菜畑遺跡じゃないかな
一昔前なら縄文晩期にあたる時期の最初期の水田遺跡は北部九州でたくさん出ているからね
その時期に近いものが出ても特に…って感じなのかも
そんな昔の水田は均整もとれてなくて区画も極小サイズで見栄えせんしw

187 :日本@名無史さん:2013/05/16(木) 11:00:07.91 .net
日向の花弁状間仕切り住居は北の方から廃れていってるみたいね
南の都城あたりでは古墳時代になってもまだ残ってる

188 :日本@名無史さん:2013/05/18(土) 00:30:57.49 .net
朝鮮半島製の鉄器が出る=北部九州を通ることが出来た
5世紀初頭とかだが、一つしかないオリジナルの銘入りの舶載鏡と蛇行剣が出てる児屋根塚とか、
通行出来ていたらしい証拠みたいなものは多い。

189 :日本@名無史さん:2013/05/18(土) 23:26:09.21 .net
日向では銅鐸は一つも出ていないが小さな鉄鐸というものが出ている。
地下式横穴墓は5世紀に西方のえびの〜都城あたりに突如として大量に築かれるが、
平野部はそれほどでもない。旧来の高塚古墳も継続して築かれる。
西方の地下式横穴墓は6世紀には減じて、分布の中心は東方平野部に移るようだ。
西方での地下式横穴墓の大量築造の時期と、鉄鐸の出土時期は概ね重なる。
もしかすると仏教と関係があるのではなかろうか?
仏教公伝は6世紀前半から中頃とされるが、百済では4世紀末迄には伝来している。
勢力圏のなるべく西端近くに地下式横穴墓を築きたかったのではないか。

190 :日本@名無史さん:2013/05/19(日) 00:11:40.50 .net
西方浄土という言葉もある。
邪馬台国には全然関係ないがw
邪馬台国の時代もその後も北部九州を介した行き来が不可能になったことは無いんではないかな。

191 :日本@名無史さん:2013/05/19(日) 17:27:20.92 .net
もし東征があったとして神武天皇は信念を持って東征したと思いたいね
後に隼人と呼ばれる人々も北九州も吉備も協力して戦の無い新しい国を作りたかった…みたいな
漫画とかで描いてくれれば良いのだけど

192 :日本@名無史さん:2013/05/19(日) 23:08:54.16 .net
4世紀後半当時、既に畿内は他を圧倒する関東〜九州の中心勢力だった。
戦いを傍観して疲弊したところを攻撃して滅ぼすつもりだろうと考えただろう。
咎無くとも地域勢力は弱める方向で、それは北九州や吉備も例外ではない。
むしろ北九州、吉備の方が危機感は強く、吉備のより協力的な姿勢に現れている。
独断で和平し、利害の一致する北九州吉備の諸勢力に根回しして畿内へ向かった。
理想はあったろうが、理想どころではない生存のための、勢力を考えて悲壮感漂う決死の戦い。
しかし当時の日向は相当戦慣れしていたろうし、性能の劣らない鉄製武器も持つ。
4世紀後半当時の畿内の天皇陵とされる古墳の規模は200m台前半と若干小さくなっている。
これを衰えや混乱と捉えれば軍事的成功の可能性は高まる。

193 :日本@名無史さん:2013/05/21(火) 08:31:46.25 .net
墓がでかいのはくそ田舎だった証拠。
魏志倭人伝にも卑弥呼の墓は一周100歩程度の円墳と書いてある。

お前ら畿内とか宮崎とか夢見すぎなんだよ。

魏志倭人伝や記紀やその他すべてに合致するのは九州北部、福岡しかね〜んだよ。

邪馬台国も神武東征の出発地日向もぜ〜んぶ福岡周辺の出来事なんだよ。

福岡周辺の遺構は全て魏志倭人伝にも記紀にも合致するからな♪

お前ら畿内とか宮崎とかとにかく夢見すぎなんだよ

194 :日本@名無史さん:2013/05/21(火) 08:35:36.90 .net
大体な大陸とずっと争ってんのに巨大な墓なんか作ってる暇なんかね〜だろw

よく考えろバカなお前らどもw

195 :寺毛安政 (てらもうあんせい):2013/05/21(火) 16:33:29.37 .net
>>193
福岡の東に海なんかあるかよw

196 :日本@名無史さん:2013/05/21(火) 17:55:50.63 .net
>>195
ばかじゃね〜の。
ただでさえ今の福岡県でも三方向を海に囲まれてるというのにww
玄界灘、豊後水道、瀬戸内海とな。

大体なお前宮崎から東征したらどこに行くんだよww バカがw

魏志倭人伝、記紀、その他中国韓国に残る資料、遺跡、出土品
その他諸々を冷静に当てはめるとすべて福岡周辺の遺跡は何の妄想や想像もすることなく
全てきれいに揃ってるし記述どうりなんだよ。

変な妄想や想像していつまでも畿内だ宮崎だの「お花畑脳」でワイワイ言ってんじゃね〜よ糞どもがw

冷静にすべての記述や福岡周辺の遺構や出土品を見比べて、冷静に判断しろ。

いつまでもちょっとしか揃ってもないくせにSFみたいに宮崎だの畿内だの言ってんじゃね〜よ、キチガイどもが。

福岡になるとまずいのが天皇と朝鮮半島の係わりがって部分がより濃くなるから
福岡が表にでてこないだけなんだよ。
それをいいことに宮崎だの畿内だのお花畑脳でいつまでもSFみたいな事言ってんじゃね〜ぞ、バカども

197 :日本@名無史さん:2013/05/21(火) 18:26:40.81 .net
言わんとすることは頭にあるけども
いいじゃん勝手に言い合えば
完全に妄想ではないし

198 :日本@名無史さん:2013/05/21(火) 18:59:20.10 .net
宮崎弁で「がもじん」って言葉がある。
鬼、妖怪、化け物、といった意味。
例:はよ帰らんと‘がもじん’が来てさらわれてん知らんよ
そん頭はなんごつ(何事)かw‘がもじん’みたいな頭して
語源は土蜘蛛だろう。

199 :日本@名無史さん:2013/05/21(火) 19:46:09.27 .net
従わない者は土蜘蛛として討伐されただろうさ
東征とかやれば特に危険視されて念入りに弱体化させる
磐井はやられとる
奈良時代までにほぼ中央集権化
北部九州の方が東征って言葉に合う

200 :日本@名無史さん:2013/05/21(火) 23:47:26.14 .net
北九州は倭人伝には合わない。倭国の乱で破れた所だ。だから衰退している。

201 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 02:28:31.09 .net
昔、狗奴国があったとこかぁ

202 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 06:44:18.65 .net
鎌倉幕府見れば分かりますが、東国武士が主体となったが、支配者は天皇家にルーツのある河内源氏

九州王朝が全軍あげて近畿を征服したのではなく、
内乱が起きて王族や神官が亡命するように逃げて、
近畿の豪族に迎えられたのではないでしょうか

ビザンツ帝国がオスマントルコに滅ぼされたあと、ロシア帝国が継承者を名乗りますが、
ビザンツがロシアを征服したわけではありませんよね

203 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 07:31:20.58 .net
内乱じゃなくて白村江で九州勢力が壊滅して、
王族の天氏が,畿内に脱出したものと見ている。
すでにそれなりの権威を持つ存在だった。

前線司令官の筑紫王サツヤマは、捕らえられている。

同時に文官も移動しただろうから、7世紀後半から、
畿内王権は一気に整備が進んだ。

204 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 09:26:24.87 .net
>>196
>大体なお前宮崎から東征したらどこに行くんだよ

古事記読んだの?
日向→宇佐→岡田(北九州市)→安芸→吉備
ちゃんとルートが書いてあるがな

205 :寺毛安政 (てらもうあんせい):2013/05/22(水) 18:16:42.39 .net
>>196
福岡の冬は温暖だったのかあ。知らなかった。w

206 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 18:20:51.10 .net
>>196
>三方向を海に囲まれてるというのにww
玄界灘、豊後水道、瀬戸内海とな

三方向になんて倭人伝には書いてない。一方向真東が海なんだよ。
三方向なら三方向海に囲まれてたと倭人伝に書かれてないとおかしいだろw

207 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 20:43:17.31 .net
島だ。四方海だよ。

208 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 21:00:21.61 .net
東征は記紀の言う通り2度あったと考えれば良い。
一度目は日向を起点とする神武の東征、二度目は北九州を起点とする神后・応神の東征。
中国の文献が言う筑紫城云々の東征は二度目のほうだ。

209 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 21:55:26.22 .net
1回目の東征で完了。その後は畿内は植民地。

210 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 22:00:18.43 .net
植民地かどうかはともかく、
知り合い、親戚筋が畿内にいたら、
白村江の時に、畿内に逃げようって気にも
なるかもな

211 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 22:09:42.02 .net
隋書が東は倭に付擁する国々だって書いていただろ。

212 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 22:37:52.98 .net
筑紫城の東征は11世紀成立だから、日本書紀なんかも読む機会があって、
その知識に自己解釈を加えて記したものだと思うな。
あと、縄文人と弥生人の戦いが〜ってよく見るけど、あれはちょっとなあ
衣食住足りた現代の頭で考えればイデオロギーの違いで戦争をやりそうに考えるけど
あの時代の戦前や素より和せずの原因はそんなものじゃないと思う
ある墓群の人骨は弥生的なものも縄文的なものも混在しているそうだよ

213 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 23:28:44.33 .net
白村江は記紀編纂の50〜60年ほど前で、当時を体験した人も僅かに生きてる。
その時に東征があったとしたら、そう書くしかない。
作為は出来んでしょ。

214 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 23:33:27.24 .net
東征はないね。
大戦争の痕跡はないから。

九州勢力が壊滅して、疎開しただけのことだよ。

215 :日本@名無史さん:2013/05/22(水) 23:46:17.19 .net
鉄鐸、蛇行剣、二段逆刺鏃で検索したら東征の伝説が根も葉も無い話ではないという気になるかもしれんよ

216 :日本@名無史さん:2013/05/23(木) 00:26:13.05 .net
弥生系が縄文系を侵略した、先進未開、優劣…、どうしても固執したがる人がいるが、
和を以て貴しとなすを崩したがるのはどういう人かいな?
日本が日本たりえたのはそれがあったからではないのかな
和を以て〜は事勿れとか事大しろってわけじゃないし弊害になることもあろうけどさ

217 :日本@名無史さん:2013/05/23(木) 00:31:09.75 .net
ついでに畿内の古墳の被葬者が隼人の盾に守られて眠っているからな。

218 :日本@名無史さん:2013/05/25(土) 14:42:17.26 .net
神武東征にやたら船が多いのは東征ではなく半島(満州も)から九州に南征
したことをカモフラージュしただけ。

219 :日本@名無史さん:2013/05/25(土) 14:47:56.83 .net
>>218
そういう根拠は全くない。新羅本記には、

295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、
百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を
渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。

これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。
冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもって
おりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。

というようなことが書かれている。

220 :日本@名無史さん:2013/05/25(土) 22:51:33.22 .net
まぁ朝鮮半島の伝記類には日本にとって陰になる重要な秘密が残されてる

秘密だけどねw

221 :日本@名無史さん:2013/05/26(日) 00:36:25.72 .net
そこまで書いて秘密ってそんな無体な…
投稿とかするつもりなら仕方ないか

222 :日本@名無史さん:2013/05/28(火) 12:59:21.25 .net
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/

仏教・神道・宗教・歴史・政治経済・心理学・超常現象・・・

読めば読むほど面白い情報の宝庫!

『中杉弘のブログ』をぜひご覧ください。

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/

223 :寺毛安政:2013/05/28(火) 13:07:53.39 .net
結局神武も卑弥呼も満州、朝鮮半島から九州にやってきたんだね。

224 :日本@名無史さん:2013/05/29(水) 00:39:14.02 .net
北部九州から入ってきたものはたくさんあるものな。
人の流れはあった。
例えば、花弁状間仕切り住居は弥生中期前半に北部九州で少数営まれて、
中期後半から肥後や特に日向で大量に営まれた、
たぶんこういう順で倭国大乱や卑弥呼の時代より前だが、
その後古墳時代にも蛇行剣とかまず少数が北部九州で出て、日向で大量になったパターンはある。
鉄器は弥生に北部九州で大量、日向ではそれよりかなり少数だが、古墳時代に急激に増加した。

225 :日本@名無史さん:2013/05/29(水) 17:18:43.12 .net
銅鐸はともかく銅矛も一本も発見されず
海を渡って高知でも何十本も出土しているのに意地でも出ない
住居形式や周溝墓や鉄器は入って来た
何故なんですかね

226 :日本@名無史さん:2013/06/02(日) 08:44:05.76 .net
弥生時代には北九州と南九州は対立していたんだろう。花弁状住居が北九州経由というのは
どうかな? 北九州のが古いというのはさしたる根拠はないね。

227 :日本@名無史さん:2013/06/03(月) 23:59:21.66 .net
銅鐸も無い。銅矛も無い。弥生の銅鏡もわずか。
そのわずかな弥生の鏡も副葬でなく住居内に放置されて埋もれているという。
瀬戸内方面からの流入土器は模倣したり折衷したりしていたらしいので、
外来物に興味はあったのだろうと思うけど。
対立?要らないと思った?欲しいけど手に入らなかった?
そんなとこまでは分からないですよね。

228 :日本@名無史さん:2013/06/04(火) 01:26:25.72 .net
銅鐸も銅矛(初期のものを除く)も銅鏡も祭祀の道具
宗教のように人々が感じる/感じない、信じる/信じないで感じない信じない側にとっては無価値になる
統治者に威信を与えたり人々が纏まったりに役立たないのならガラクタかせいぜい飾り置物だ

229 :日本@名無史さん:2013/06/04(火) 08:16:58.22 .net
>>226
花弁状住居って最古とされるのが北九州にあるらしいけど
その時期にまとまって出るんでなくてぽつんと一つだものね

230 :日本@名無史さん:2013/06/04(火) 11:40:17.40 .net
花弁状住居の形態にも古いものと新しいものがある。形態的にみたら北九州ののは
新しいものだ。

231 :日本@名無史さん:2013/06/05(水) 10:16:52.10 .net
畿内説の人に尋ねるが畿内の古墳が卑弥呼の時代3世紀半ばのもの
ではなくしかも前方後円墳なのは納得がいかないわけだが(卑弥呼の墓はこのころは円墳)
(弥生時代だから)

232 :日本@名無史さん:2013/06/05(水) 11:19:16.35 .net
畿内説は箸墓は3世紀半ば築造で卑弥呼の墓だとしておるのだから、
弥生時代だから〜という話と噛み合うわけがないな。
卑弥呼死亡時は古墳時代。

233 :日本@名無史さん:2013/06/05(水) 17:17:32.90 .net
>>231
纏向型古墳を知らねえの?
九州説って相変わらず無知だなw
円墳に葬った後、翌年か翌々年に祭壇を付け足してそこで祭祀をやるんだよ
だから纏向型古墳って円墳+方形の祭壇で前方後円墳なの。
馬鹿すぎ。

234 :日本@名無史さん:2013/06/05(水) 17:18:09.21 .net
>>232
「魏志倭人伝」読め。
卑弥呼が死んだのは3世紀だ。
捏造するな。

235 :日本@名無史さん:2013/06/05(水) 17:45:23.85 .net
>>233
桜井市教育委員会の調査で、前方部と後円部は、同時に作られたことが
わかっている。

236 :日本@名無史さん:2013/06/06(木) 07:51:51.15 .net
遮ってすみません。
北の高千穂に くしふる神社 があります。
旧称 くしひ大明神 くしふる大明神という。
肥国のことを「建日向日豊久士比泥別」と言う。

建日 向 日豊 久士比根別 と分けたりするのでは。
建日にも 豊日にも 向かう 霊び(不思議霊妙)の根源の国
くし(不思議霊妙な)火の根の国の意も掛けているのか。
肥の国は火の国で狭義には阿蘇山周辺の肥後北部か。
霊び根別、奇し火根別、櫛火根別。

状況説明的な前半の 建日向日豊 は文字の順をいじって対する様をより表そうとした。
九州には最初に北東の豊日と南西の建日があった(仮定)。
日向日とはまず建日と豊日の国境線。
次にそこに割って入る形の二国に挟まれた地域で佐賀+熊本北部+宮崎。
偶々現在の無アクセント地帯に概ね相当します。
これは肥国のことだと書いてあるが、本来の建日向日豊久士比泥別は
阿蘇近辺を本拠本願とする建・豊に挟まれた佐賀+熊本北部+宮崎。
後に白日別が出来てより建・豊の日向日的な性格が強い地が後に宮崎の地に変わり、
当地の地形的な日迎の意も掛けて分離命名。
他の建日向日豊久士比泥別は奇し火の根の山も含むしそのまま肥国。
順序の違いはあったのだろうという前提での妄想。
まあ全然違うでしょう。

237 :日本@名無史さん:2013/06/06(木) 07:59:34.53 .net
水行10日で玉名までいくから邪馬台国北九州福岡県説は崩壊するな

たぶん九州南部のどこかだろう。それなら日向が・・・

238 :日本@名無史さん:2013/06/06(木) 08:20:45.61 .net
伊都国から1500里短里で熊本県北部になりますよ

239 :日本@名無史さん:2013/06/06(木) 12:13:52.32 .net
さらに二月行 二千里で、熊本南部ですな。

240 :日本@名無史さん:2013/06/06(木) 20:06:17.39 .net
だいたい陸行一月なんて、突然長旅が出てくるのがおかしい。「月」を「日」の誤記とすれば
全てのつじつまが合う。九州の東海岸を水行で迂回するのに10日、着いた海岸からやや内陸の
西都原まで陸行1日だ。

都合がいいと言うだろうが、南というのは東の事だ、と言うよりははるかにまし。
「日」の両足が伸びれば「月」に見えるからね

241 :邪馬台国は都城:2013/06/06(木) 20:52:31.14 .net
出発日到着日からの日数だろう。
途中同盟国なんかを通過した場合そこの首長に挨拶しなければならないだろうし
挨拶したとき宴を催されたり、経路が複雑だったり、具合が悪くなって足踏みしたり
したことが予想される。

242 :日本@名無史さん:2013/06/06(木) 21:27:52.32 .net
>>240
実際三国志にあきらかな南と東の誤記があるからなんとも言えん

243 :邪馬台国は都城:2013/06/06(木) 21:38:02.19 .net
・自女王國以北其戸數道里可得略載(経路に書かれている国々のこと)
・自女王國以北特置一大率檢察諸國(伊都國に設置)

この二点から考えると南と東の誤記というのはないな。

244 :邪馬台国は都城:2013/06/06(木) 22:02:12.25 .net
ただし二回連続で同じ方角に進む記述のところは方角の誤記があるかもしれない。
同方向に進むのに中継地を書く必要があるのか疑問。
奴國と投馬國のことね。
奴國のところは「行」という字も入ってないし。単なる脱落だとは思うが。

245 :◆HKZsYRUkck :2013/06/07(金) 23:52:28.19 .net
>>237
俺の持論は、水行は渡海でも舟行でも河遡でもない、ということなのだ。
【陸】の語義は「丘や山がうねり続く、堅固な大地」。その「陸行」の対となる
「水行」というのは、ずぶずぶの湿地帯の行程であるべきだろう。

当時形成されつつあった筑後平野下流部の、大小の湖沼が点在し、
葦原が広がる湿地帯。相当つらいぞ。

246 :日本@名無史さん:2013/06/09(日) 08:47:58.99 .net
ずぶずふの湿地帯を或いは泥にまみれ、或いは嵌り沈み、行く事十日、
あるいは、堅固な大地を行くこと一月で女王の都する所に至る。

247 :林修:2013/06/09(日) 13:29:04.57 .net
>>240
水行10日陸行※(15日 総計25日)=(約)1月 

キミは漢文は結論しか書かないことをしらないね。
伊都国から西都原まで25日(約1月)かかるという意味。
伊都国から船で熊本県玉名まで10日そこから東に向かって海まででて大分から
宮崎県まで南下約陸行15日。そこが西都原。

248 :日本@名無史さん:2013/06/09(日) 14:09:41.49 .net
>246
つまり、佐賀伊都国から湿地帯を行けばショートカットになるがそれなりに苦労する。
固い陸行けばそのような苦労は無いが3倍くらいかかる。
当時の海岸線を見ると柳川あたりがこれに該当する。

249 :日本@名無史さん:2013/06/13(木) 00:09:39.00 .net
佐賀から水行10日陸行1月だろ。南九州以外にはないね。

250 :日本@名無史さん:2013/06/13(木) 13:06:41.76 .net
水行10日and陸行1月、水行10日or陸行1月、どちらかでまた違ってくるし
出発地も論争があるし
いくらやってもまた振り出し
どこ説にしろ
当時の舟で水行10日陸行1月かかるのか実験した人はいないよね?

251 :日本@名無史さん:2013/06/13(木) 18:08:49.49 .net
日向のうち宮崎に相当する部分は肥国の一部だったのではないかという見方は結構ある。
花弁状住居は熊本にもある。

252 :日本@名無史さん:2013/06/13(木) 18:22:39.85 .net
一部だった時期があったかもと言うべきかな。
何度も触れられているが、花弁状住居は佐賀でも発見されてる。
弥生末の鉄器急増のあれは熊本から高千穂経由で入って来た気がする。

253 :日本@名無史さん:2013/06/14(金) 23:54:38.61 .net
98 :日本@名無史さん:2013/06/14(金) 11:16:37.40
宮本常一氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)
第一は、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは宗像三神を信仰し、あわびや魚、海草を採取しながら移動する定着性の低い海民であった。
尼崎、海部などの地名が残っているのは、かれらの居住地と推定できる。
第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。
第三は、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民である。
かれらは、住吉の神を祀り、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住した。
貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。

254 :日本@名無史さん:2013/06/14(金) 23:56:09.13 .net
↑って神武東征と関係あるんかな?

255 :日本@名無史さん:2013/06/15(土) 17:16:24.57 .net
>>254
海人と言っても海に潜って漁をする人々は少ないと思う
黒潮に乗ってやって来る人が多そうな土地だけど
外洋で引く潮もあるし特に長い砂浜海岸で足の付かないとこまで出るのは自殺行為だし魚も豊富ではないし

256 :日本@名無史さん:2013/06/15(土) 17:22:15.24 .net
解釈次第で最短水行10日なんだろうけど、
そこまでの記し方で投馬国より日数がかかる可能性大だろうし、
となると水行10日and陸行30日だろうね。
投馬国に水行しか書いていないのは陸行が出来ない状況があったのかもね。

257 :日本@名無史さん:2013/06/15(土) 21:42:21.68 .net
南九州系の海民が瀬戸内に拠点を築いているのは、神武東征のときについてきた連中では?

258 :日本@名無史さん:2013/06/17(月) 23:18:53.20 .net
何ヶ月も前に十六紋使ってるのかとか言ってた人がいると思うけど、使ってるの確認した。
ストリートビューがここまで来てるとは思わなんだ。
ttp://goo.gl/maps/O9sBT

259 :◆HKZsYRUkck :2013/06/17(月) 23:23:26.45 .net
>>255
「住吉」「墨江」がなぜ海人の神かというと、「スム」というのは「潜る」という
意味だからなのだ。九州にはまだ方言として残っているらしい。

260 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 00:04:53.11 .net
住吉や須美江という地名があります。
須美江の方はリアス式海岸で波穏やかな潜水に適したところもあります。

261 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 10:23:03.61 .net
寺毛安政は蘇我馬鹿子

262 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 10:49:15.42 .net
>>204
>古事記読んだの?
 日向→宇佐→岡田(北九州市)→安芸→吉備
 ちゃんとルートが書いてあるがな

神武北征ですか??w 宮崎の東は太平洋ですが・・・w

>>205
>福岡の冬は温暖だったのかあ。知らなかった。w

あんた何処と比べてんの?? あんたらってお花畑脳になって宮崎と比べてない??www
砂漠地帯を流れる砂を多く含んだ黄河流域の魏からすれば、福岡は肥沃で冬も温暖でしょうな♪
しかも福岡の冬は暖流の対馬海流の影響を受け最低気温も高く、氷点下になることも滅多になく
冷え込む宮崎等より真冬の最低気温が高いという事実♪
しかも朝鮮半島の影響をうけ福岡では雪が降らないという事実♪
降っても積もることは滅多になくちらつく程度が限界♪
逆に宮崎や鹿児島の方が大雪が降るからな♪

263 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 10:56:07.95 .net
>>259

福岡人だけど、沈むを潜るの代わりによく使いますね。

264 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 10:57:06.01 .net
それから、宮崎が日向になったのは景行天皇が
「この地は太陽に向かってるから日向にしよう」と名付けてから。
天孫降臨のころは「日向」ではない♪
で、筑紫島は九州、筑紫は福岡周辺ときちんと使い分けてる。

その景行天皇が筑後を訪れた時に
「ここは筑紫の後ろだから筑後にしよう」と筑後を命名。

よって筑紫の日向は普通に福岡にある高千穂(高い山)なんだよ。

残念ながら宮崎派も畿内派もいい加減あきらめろ。
あんたら と ん で も 過ぎw

何もそれらしいものも発掘も発見もされてないくせにww
ただの伝説と妄想だけでお話しないのww

265 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 11:30:00.57 .net
それからそれから、中国の宋書には
「神武以前の26代は日向宮に住んでいた」と書いてある。
天照大神は19番目に登場、それから天孫降臨にも登場する神々が次々に登場する。

もちろん宮崎は日向ではない。クマソの土地だしなw
しかも天孫三代しか神話が残らない宮崎とかwww
その三代すらまともな遺跡も住んでいた遺構も全く見つかってないwww 妄想しすぎww

益々本当の「筑紫の日向の高千穂」の麓にある吉武高木遺跡が怪しいね♪
戦闘種族が住んでいたと予想される吉武高木遺跡の周辺には
その前に捨てられた吉武大石遺跡や吉武樋渡遺跡等、吉武高木遺跡以前から
代々人が住んでるからね♪

天孫降臨の時建てた宮殿かもしれない大神殿も見つかってるし、
発掘された装飾品も文句のつけようもない豪華なものばかり♪

高天原は吉武高木遺跡から日向峠をはさんで反対側の麓にある、天照大神または卑弥呼の墓
ともいわれる平原遺跡がある前原(伊都国)側かもしれないね♪
平原遺跡も日向峠の前原側の麓だしね。

天孫降臨は天孫族による日向峠の福岡側の占領、つまり倭国の乗っ取りだったかもね♪

266 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 11:42:40.09 .net
さらに基本中の基本♪

天孫降臨の場所は「この地は韓国に向かい」と古事記に書いてある。

韓国は空の国でも韓国岳でもない。

魏志倭人伝にも倭国へいく道程にもでてくる韓国だ。

「帯方郡から韓国を経て倭国の北岸、狗邪韓国に到着する」と

つまり倭は朝鮮半島にも影響力をもっていたということ。
ある意味朝鮮半島の南の一部も倭国だったということだ。

よって筑紫はその領土を守るため朝鮮と度々闘っている。

だから何にも出てこない宮崎も畿内ももうあきらめろ。
どうあがいたって遺跡も装飾品も豪華で色々な歴史書等々に登場する記述通りの
ものが当てはまる福岡には勝てないんだよ。

267 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 22:12:16.38 .net
中国の宋書にそんなこと書いてあったっけ?
記紀を元に書いているようだが記紀には邪馬台国については書いていない。
神武東征の意味も・・・

268 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 23:40:36.39 .net
KARA
ラララララ〜、ラララララ〜

269 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 23:57:31.42 .net
北九州の遺跡遺物は単に朝鮮に近いという地理的なものだろう。
根拠にはならんよ。

270 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 00:01:05.58 .net
>>266
たしかに古事記では福岡を想像して書いてあるように思える。
>韓国に向かい >朝日の直刺し夕日の日照る国
反論はパターン化したものがある
勝手に知っていた筑紫北岸を想像しただけとか
そもそも古事記が偽書ではないかとか
日本書紀は勅撰正史であるがゆえに作為可能性が…とか
結局わからんので同じことの繰り返しになるけど

271 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 08:44:01.80 .net
福岡は無関係だろう。南九州から韓国に向かうときにどこがルートだったのかの
問題だ。当時、北九州は通れない、となれば薩摩から舟だろう。

272 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 13:32:11.06 .net
「筑紫の日向の高千穂」ではなくて「竺紫の日向の高千穂」

竺紫(王宮)の日向(東)に高千穂(高い山)のある場所が邪馬台国

273 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 13:44:22.57 .net
金印も日向峠の前原側(伊都国)にある細石神社の宝物だったという話もあるし、
高天原は日向峠の前原側の事かもな♪

ちなみに細石神社とは「君が代」にも登場する「さざれいし神社」なんだよな♪

中国の北史・隋書に「安帝の時倭人が朝貢した。これを倭奴国という」
これは倭奴国(わのな)ではなく(いと)国、つまり伊都国なんだろうね♪

日向峠の伊都国側にある細石神社の宝物だった金印♪ 倭奴国♪ 感慨深いね〜♪

旧唐書には「倭国とは古の倭奴国なり」の記述あり♪

やっぱ天孫降臨とは天孫族による日向峠の福岡側、倭国の乗っ取りを記したものかもね♪
天照大神の兄スサノオの活躍は倭を乗っ取る際に戦った、倭国・邪馬台国連合の他の王たちとの
熾烈な戦いを記したもので、三種の神器の太刀はその時倭国連合の中のクニで手に入れたものかもな♪

倭国は戦いに乱れてたという魏志の記述にも合うしね♪

遺跡から出てきてるものの豪華さや記述どうりの品々や物証も、
その他全てにおいて福岡は否定されるものがないんだよな〜♪

やっぱ普通に自然に考えてほぼ全てが福岡だろうな♪

ちなみに福岡平野はどこを掘っても弥生時代の遺跡が現れるとも言われてるからね♪
工事のたびに遺跡発見♪ 工事中断中断♪ 
あまり素晴らしいものが発見されそうになるとそれ以上の発掘を中止したりするしなw
ビルや道路が作れなくなるからな♪ 福岡じゃそんなふうに埋もれてる弥生遺跡はまだまだいっぱいあるぞ♪

とにかく畿内や宮崎のとんでも説のものたちはちょっと無理矢理すぎで、とんでも妄想ばかりで気持ち悪いw
なんにも出てないくせにw

274 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 14:01:19.81 .net
ちなみに、福岡の宮地嶽神社(宮地嶽神社の総本社)♪
あそこの息子の知り合いという男から話を聞いたんだが、古墳の発掘について、
ちょっと発掘したら余りにも装飾品が豪華だったんでこれ以上発掘したら国に土地をとられる?とか
そんな話で中止して全部発掘しなかったとその知り合いの男が言ってたぞ(笑)♪

神功皇后♪ またまた古い話で、福岡にはほんと古い話がいっぱい詰まってますな♪
さすがは本物の歴史の舞台、福岡ですな♪

275 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 20:35:19.76 .net
俺も福岡出身だが、宮地嶽神社の胡散臭さは異常w
名島神社とかもそうだが福岡の宮司は胡散臭い連中が多すぎ

276 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 21:39:16.76 .net
宮地嶽神社の拝殿って出雲大社みたいな太い注連縄があるんだね。
宮崎神宮には拝殿にも鳥居にも注連縄が無かった気がする。
鵜戸神宮は鳥居にあったかなあ?
何か意味があるのかな

277 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 21:58:02.73 .net
工事中にいろいろ出てきて、
こっち側にもっと有りそうだなと思っても、
そこから先が別の人の土地で掘れない。

なんてのはよくある話。

278 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:00:11.44 .net
宮地嶽神社は、福岡エリアと北九州エリアの間と見るべきか、
その間の独立エリアと見るべきか?

279 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:29:00.56 .net
宮崎神宮の手水舎だけは注連縄で囲ってある。(たぶん。)
洗い落とした邪気みたいなものが出て行かないようにしとるんではないか?
定期的に祓うんではないだろうか?(想像)
注連縄は入って来ていいが、そこから出てくるなって意味だと個人的に勝手に解釈している。
正月の注連縄は迎え入れる、外して燃やすのは帰ってもらう、こういう意味みたいにこれも勝手に思い込んでる。
神主や巫女ではないので詳しくは知らん。
注連縄の意味合いも各地で異なっているかも知らんしよくわからん。
天岩戸神社は一の鳥居(最初の鳥居)は注連縄があるみたいだが、二の鳥居(最後の鳥居)には無いな。

280 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 23:04:58.69 .net
いや違う。
天照大神が岩戸から出た時に注連縄で塞いでもう入れないようにしたとある。
同時に注連縄の内にある神は出て来るなってことで、要するに神はここを跨ぐなという意味だ。
注連縄の太さは跨ぐなという願の強さ。

281 :日本@名無史さん:2013/06/20(木) 00:00:36.44 .net
宮地嶽神社の主祭神は神功皇后なんでしょ
神功皇后にしめ縄とはどういうこと

282 :日本@名無史さん:2013/06/20(木) 08:14:16.34 .net
竹屋の村
風土記の意味するところでは、皇祖ホノニニギ命が、日向の国贈於(そお)の郡、高千穂の〔木患〕生(くしふ)の峰に天降りになって、
ここから薩摩の国の閼駝(あた)の郡の竹屋の村にうつり給うて、土地の人竹屋守の娘を召してその腹に二人の男子をおもうけになったとき、
その所の竹を刀に作って臍の緒を切り給うた。その竹は今もあるといっている。

283 :日本@名無史さん:2013/06/20(木) 19:12:41.87 .net
初歩的な質問で申し訳ないけども
天降於日向襲之高千穗峯矣 の 襲 とは何のことなんでしょうか。

葛城襲津彦とか日向襲津彦とか百襲媛とかいるけど
国とかそんな意味なんじゃないかなと思ったりするのだが。

到於吾田長屋笠狹之碕矣 の吾田とは南薩の阿多のことか。
日南市にも吾田という地名はあるけどどうなんだろう。
延岡の縣は相当古くて吾田や英多と書いていたらしいですが。

284 :日本@名無史さん:2013/06/20(木) 20:28:42.76 .net
襲名、世襲
〜を引き継ぐ

葛城襲 日向襲 熊襲

285 :日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:11:40.53 .net
>>275
ホームページ見たけど北部九州王朝の〜って載ってた
北部九州王朝とは古田説の九州王朝のことなんかね?

286 :日本@名無史さん:2013/06/21(金) 23:42:00.99 .net
てことは熊襲は熊が地名であって、球磨囎唹とか解釈違い勘違いってことか

287 :日本@名無史さん:2013/06/22(土) 09:36:24.29 .net
クマとは魏志倭人伝に云うクナのことだろう。
邪馬台国が魏に助力を求めるほどのクナ国である。
あの占い婆は味方にすることを考えなかったのか。

288 :日本@名無史さん:2013/06/22(土) 12:23:41.04 .net
神武天皇までの日向三代はそれをやったかもしれない。
狗奴国は邪馬台国の対抗勢力とはいえ大八洲日本の地にあった集団。
魏の力を借りてまで滅ぼそうとする卑弥呼の行為は外患誘致に近い。
邪馬台国も後の日本の地にあった国だが、個人としての卑弥呼などは唾棄すべきではないんか。
卑弥呼=天照のはずがない。

289 :日本@名無史さん:2013/06/22(土) 19:10:19.54 .net
王朝といえるほど整ったのは、
筑紫の6世紀以降の大宰府くらいだろ。

4世紀5世紀は、景行天皇から神功皇后あたりで、
チャンバラやってた時代だし。

3世紀の共立卑弥呼の時代は、それぞれ独立で、
不可侵条約を締結した程度だろう。

290 :日本@名無史さん:2013/06/22(土) 19:57:45.12 .net
4世紀の日向は古墳作りまくってたけど
バランスよく作ったものだなと感心する
かなり組織が整っていたように思う
そのころの九州はどうなってたんだろうな

291 :◆HKZsYRUkck :2013/06/22(土) 20:11:30.66 .net
ふと思ったんだが、海女か海士かって問題は重要だよな。

魏志倭人伝の記述は、「男子は大小と無く、皆黥面文身す」。
普通に読めば女は刺青してなかったっぽい。

んで>>253の瀬戸内の海人の分類だと、男のみ漁をするのは、
> 第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
>かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。
となる。
ただし、谷川健一「日本の地名」では、大山祇(綿津見神)を信仰するのは安曇氏で、
彼らは九州北部の出身なんだよな。

292 :日本@名無史さん:2013/06/22(土) 21:27:10.91 .net
末盧國の好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之の様子は魏の使いが見たものだろうけど
男子無大小皆黥面文身というのがその時の魏使の見聞に基づくのか判然としない。
日向(宮崎)の遺跡の出土鉄器の中に刺突漁具の類も少数あるけれども、
男漁女耕と言えるほど漁をしていたのかどうか。
不知火海あたりは適地が多そうだけど。
一大國では不足ではあるけれども農耕をやっているし、漁の色濃い末盧國でも
焼畑のような収奪的農耕や採集も兼業していたろうと思う。そしてそれは女性の仕事で、
女が漁に出ることはあっても従たる役割で刺青もしていないかもしれない。
つまり第一と第二の区別はそんなに厳然としたものではない気もするのだけどな。

293 :◆HKZsYRUkck :2013/06/23(日) 00:26:17.77 .net
たしかに、倭人伝の記述も舌足らずだし、邪馬台国の時代と>>253とのタイムラグも
あるし、さらに>>255の言うよう日向では海幸山幸神話のように釣漁法が
多かったかもしれない。
でも一方、山における女人禁忌の起源が古くに遡れるように、海士か海女かという区別も
けっこう厳密に守られてきたものだとも思うのよ。禁忌が継続するということは、
それを補強するイベントが継続的に生じたということだよね。もちろんそれは、
「彼らの解釈で」ということだけど。

294 :日本@名無史さん:2013/06/23(日) 01:24:49.03 .net
突いて漁してればサメとか寄ってくることもあるだろうし
刺青ってやっぱり潜水漁をする人たちなのかな

295 :日本@名無史さん:2013/06/23(日) 01:37:05.77 .net
普通に宗教的な意味じゃないか

296 :日本@名無史さん:2013/06/23(日) 06:31:09.38 .net
>>291
大山祇=綿津見なの?
そこがまずおかしい気がする。

297 :日本@名無史さん:2013/06/23(日) 06:41:02.76 .net
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ama.html
長い歴史過程のなかで,海士と海女の分布にはかなりの変化があったと考えられる。
1935年ころの調査では,日本の南西部(沖縄,鹿児島,宮崎,長崎など諸県)と北東部(岩手,福島,履城の諸県)にかけては,ほとんど海士が占め,その両地域の中間部に海士・海女が共存している。
海女が優位を占める地域は,福岡,山口,福井,石川,三重,静岡,千葉県などであり,これら諸地域では,明治時代以後に海女が現れたところも少なくない。
海士の地域に海女が稼業するようになった理由として,遠洋漁業など強い労働力を必要とする,より有利な漁労に海士が進出し,その空白を海女が埋めて潜水漁労に従事するにいたったものと解される。

298 :◆HKZsYRUkck :2013/06/23(日) 18:13:17.46 .net
>>296
あ、素で間違えてた、
大山祇神の別名は和多志大神だった。山の神なのにワタ(海)の神格もあったと。
てなわけで、安曇氏のことは忘れてくだちい。

299 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 19:32:20.95 .net
宮崎に安曇っぽい地名とかあんまりないよね
日下部とか三輪という姓の人はいるけど

300 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 21:53:51.45 .net
何も問題ないな。末盧国から東南へ陸行するんだよ。

301 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 22:02:23.09 .net
魏志倭人伝を読んで逡巡するのは飽きた。
結局何も進まんのだから。
纒向の土器みたいな多国籍を思わせるモノが出ないと
広域に影響を及ぼす大国の都としてはふさわしくない。

302 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 22:13:51.19 .net
九州の古墳なんて全て盗掘されていて発掘しても何も出ない

303 :日本@名無史さん:2013/06/27(木) 00:23:32.63 .net
宮崎に纒向のような遺跡は無い。
数十〜200軒くらいの集落遺跡はあるようだけど普通の集落。
熊本某の様に厳重に環濠を巡らすものではない。
鉄器は出るけれども、熊本某の様に多すぎるほどの出土数ではない。
北九州系や瀬戸内系の土器は出るようだが割合は纒向ほどではない。
周溝墓はあるけれども、群を抜くほどの多数さではない。
特に注目されるような何かが無いと駄目だな。

304 :日本@名無史さん:2013/06/27(木) 13:54:59.18 .net
神武天皇が自分の国を見て発した言葉。♪
「私の国はトンボが交尾をしたような形をしている」

まさに筑紫の日向にある、麓に吉武高木遺跡がある飯盛山♪
その中腹にある「百貫石」から見下ろした吉武高木遺跡と福岡平野♪

福岡平野を西側から見下ろした風景は油山が福岡平野の一部にせり出しており
とんぼの交尾のような形(ハート型に近い)をしておりますな♪

やはり高天原は日向峠の伊都側で天孫降臨は伊都側勢力による
日向峠の福岡側の占領と完全な統治を意味してるかもね♪

305 :日本@名無史さん:2013/06/27(木) 15:18:34.83 .net
日向峠(ひなたとうげ)は違うでしょ
日向はひむかであって、文字がない時代にひむかと名づけられたものがひゅうがに変遷することはあっても、
日向(ひなた)と日向(ひむか)が等しいってのは、漢字が入ってきた後の発想

306 :日本@名無史さん:2013/06/27(木) 16:22:23.90 .net
と、クマソ(宮崎)が申しております

307 :日本@名無史さん:2013/06/27(木) 18:12:35.22 .net
筑紫国(白日別)、豊国(豊日別)、肥国国(建日向日豊久士比泥別)、熊曾国(建日別)
この境界を知らんのだけど、豊国、肥国、熊曾国のどこに含まれたのか
日本書紀によれば日向国造の初は豊国別と言うとは書いておるけれども。
これは気になる。
邪馬台国九州説の範囲で語る時には狗奴国でも邪馬台国でもどっちでもいいが。
狗奴国の方が面白そうでもあるな。

308 :日本@名無史さん:2013/06/27(木) 21:57:53.83 .net
>>304
神武天皇が腋上の○間丘から眺めたのは東征、即位後の事。
トンボの交尾のようなのは秋津島(本州)のこと。
腋上の○間丘というのは御所市内の古称。
ではないの?
福岡平野がハート型のようになっているのはその通りだな。

309 :日本@名無史さん:2013/06/27(木) 23:11:07.95 .net
大和朝廷に敵対するのに大和朝廷の墓制の前方後円墳を作るわけがなかろうもん
地下式横穴墓というものも作るが
その地下式横穴墓を埋葬主体部にした前方後円墳とか確信しながら作ってんだよ

あとどこからどこが何国だとかは明らかにせんでよろしい
地域融和国内融和にヒビが入ることになっても敵性内外国人を利するだけで良いことは無い
どこからどこまでと判然とする筈がないが様々な名付けから融和の願いも感じられることがある
今になってどうしても別を作ろうと言うなら俺は少数派の方に付くわ馬鹿者が
皆日本人だ
別を作るのは左翼の常套手段で三国人か何かも乗っかるが子供騙しは効かんから無用だ

310 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 00:11:33.51 .net
注目される何か
穀璧、燕の刀銭、児屋根塚古墳出土舶載銘入四獣鏡、蛇行剣、鉄鐸、
檍1号墳の木槨・地下墓道(長17m)などは注目されるんじゃないか。

311 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 08:39:22.16 .net
>>310
それじゃあ天孫族がいた日向としてしょぼすぎるし、
何の根拠にもならんなw 所詮宮崎は伝説だけだろww

「筑紫の日向」の福岡は総てにおいて十分すぎるほどの実証が揃ってるからな。

伝説に沿った地理関係もそうだし、古墳や副葬品にしても
総てにおいて十分すぎる。

ましてや記紀や中韓に残る歴史書の記述にも総て自然に収まるしピッタリ。

まあ近畿も宮崎も必死なって記述にこじつけてるが、無理が多すぎw

やっぱ自然に考えて「筑紫の日向」は福岡だろうな。

ほぼ全部福岡周辺で起ったことだろ。

312 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 08:50:34.34 .net
ちなみに邪馬台国は宇佐とか言ってる人もいるが、
宇佐八幡宮の元宮は福岡からショウケ峠を越えたところ飯塚市にある
大分(だいぶ)八幡宮だから♪

「おおわかれ」とも言うらしい♪
大分八幡宮は宇佐神宮だけじゃなく箱崎八幡宮の元宮でもあるからな♪

ちなみにショウケ峠の由来は神功皇后がショウケに担がれて越えたとかそういう理由だぞ♪

やっぱ邪馬台国や天孫降臨も総て福岡周辺で起こってた史実だろうな♪

神功皇后が三韓征伐の軍を解散したした地だから「おおわかれ」というとかだったぞ♪

313 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 08:58:20.06 .net
元宮じゃなかった(笑) 本宮だった♪

「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」♪

314 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 08:59:41.31 .net
因みに大分八幡宮には古墳があるんだけど、
もし発掘したらすごいことが起こる可能性もあるね♪

315 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 10:22:06.31 .net
筑前大分か、あのへんも重要地点だな。
大宰府や甘木朝倉からみて、冷水峠超えて向こう側、と割と近く、
遠賀川の源流に近いので、北九州ともつながりがある。
というか、筑豊は感覚的には北九州に近い。

そして、筑豊という名前のとおり、
筑紫と豊の国の間に位置する。

福岡市周辺の豪族である息長氏、
筑後付近の景行天皇(のモデルとなった豪族)
北九州を本拠氏とする仲哀天皇(のモデルになった豪族)

佐賀の一宮である淀姫神社は神功皇后の妹ということなので、
こちらも息長氏の分家だろう。

316 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 11:20:13.51 .net
宇佐邪馬台国論者の見解では、
宇佐八幡宮の裏山にある古墳が卑弥呼の墓という♪

となれば、宇佐八幡の本宮、飯塚の大分八幡宮の裏山にある古墳が卑弥呼の墓なのかもな♪

伊都国井原(いわら)山の水無鍾乳洞だったり大分八幡宮だったり、
福岡は本物のロマンが詰まってる地ですな♪

317 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 16:58:09.18 .net
息長氏は湖北の豪族だろうよ

318 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 22:33:48.17 .net
邪馬台国が災いの種なら棄ててしまえばいいんや

319 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 22:46:25.18 .net
仲哀天皇崩御から応神天皇即位の間に東征があったとするのが状況重視の東遷説

320 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 22:49:03.41 .net
私は今、求職中なんですが、仕事をしていない人間は、他人に文句を言う資格もない
他人に怒る資格もない。
他人にを指図する資格もない,
じゃー死ねということですか?
独立行政法人都城病院、手術部の和田さつきさんに言われました。
でも、世の中には仕事をしたくても働けない人もたくさいるのに、よく平気でこういう事言うなと、
腹立たしく思いました。
どれだけこの方は、えらいのでしょうか。

一部の看護師が、こんな暴言を吐いてる病院なんて上に立つ指導者の看護部長の管理能力を疑います。

このような暴言を吐く看護師を雇用している独立行政法人 病院機構の能力のなさにとてもあきれます。

普通、このよう暴言を吐く看護師は、懲戒免職及び通常解雇処分に値するほどの大問題ですよ。

早急に対応をとり早く処分を希望します。

321 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 23:46:57.07 .net
>>291
>「男子は大小と無く、皆黥面文身す」
弁辰人は男女とも刺青をしていたらしい。
伊都国までしか到達していないなら、その先が当時どうだったのかは分からないね。

322 :日本@名無史さん:2013/06/29(土) 00:16:48.00 .net
定説のように言われるけれど、環濠集落内に王や高官が居たとは限らない気もする。
王が居たとすれば緊張関係にある隣国に近い、大きくはない国なので、防備が厳重にされた。
大国なら王の居住するところは城柵を厳重に設けるが、その周りは環濠無し、
国境近くは環濠集落化する。勢力が広がって緊張線が遠ざかれば、
環濠集落から通常集落に移行する。みたいなモデルを想像したりもする。
環濠を巡らす集落があまりない宮崎説を応援するなら。

323 :◆HKZsYRUkck :2013/06/29(土) 00:30:44.06 .net
>>321
おお、興味深い。
倭人伝であえて「男子」と限定しているということは、朝鮮半島南部の
集団とは別だと認識していたということなんかな。

324 :日本@名無史さん:2013/06/29(土) 01:37:16.93 .net
魏書 東夷傳 弁辰
>男女近倭 亦文身
男女共に文身とは確定できんかも
倭人伝もそうだが解釈が分かれるような記し方

これも興味深い

以大鳥羽送死 其意欲使死者飛揚 
大鳥羽を以て死を送る。その意、死者をして飛揚せしめんと欲す。?

國出鐵 韓 [シ歳] 倭 皆從取之

325 :日本@名無史さん:2013/06/29(土) 19:22:40.76 .net
単に周囲があまりに険しいから北部九州ほど環濠が発達しなかったのと違うか
あと集落は台地上が多いらしいから排水とかそんな役割としての環濠も必要性薄

326 :日本@名無史さん:2013/06/29(土) 20:34:00.69 .net
邪馬台国などはなるようにしかならんのだから捨て置け!

327 :日本@名無史さん:2013/06/29(土) 21:20:58.40 .net
BS-TBS 特集・天孫降臨の高千穂町、 邪馬台国はここだったかも

328 :日本@名無史さん:2013/06/29(土) 21:59:29.66 .net
書いてくれたから見たぞBSのそれ
神々しい日の出じゃ
北の高千穂も南の高千穂もどっちも高千穂で良いな

329 :日本@名無史さん:2013/06/29(土) 22:17:38.85 .net
高千穂町じゃなくて新燃岳のそばの高千穂峰の方

330 :日本@名無史さん:2013/06/30(日) 00:51:10.87 .net
10世紀の延喜式編纂の時代には中国という下から二番目の国力で
水田に関しては往時の技術では開発しきったと思われる江戸末期でも
大国(延喜式)肥後の80万石台に比べて日向は40万石台
弥生や古墳の初め頃は森林原野の中に農地が点在するという風景で
つまり人口や国力が平野面積に相応しい水準に追いついてはいない。
半ば強制的な移民等を含めて開発するようになると、国力は平野面積
特に沖積低地にほぼ比例するようになった。
古墳から見れば古墳時代も段々と相対的な力が小さくなっている。
移民や開発は朝廷為政者の思うところにより加減が働いたのかもしれない。
ということやろかいねえ

331 :日本@名無史さん:2013/06/30(日) 05:49:00.22 .net
九州新幹線ができた今でも宮崎は陸の孤島
どげんかせんといかんと思って脱出したんだろ

332 :日本@名無史さん:2013/06/30(日) 09:30:40.66 .net
当時の陸路ってどのくらい開発されてたんだろ?
やっぱ海路が主流じゃない?

333 :日本@名無史さん:2013/06/30(日) 10:30:08.32 .net
海路が選べるなら海路で行くと思う

334 :日本@名無史さん:2013/06/30(日) 18:57:50.28 .net
陸路で行くとなると川を渡るたびに難儀しなきゃならんからな。
全行程陸路で行くとすれば阿蘇高千穂を通る。
海路陸路併用なら水俣あたりまで海路でそこから陸路で行く。
全行程海路だと北回りでも南回りでも距離的にはかなり遠回り。

335 :◆HKZsYRUkck :2013/06/30(日) 19:07:12.40 .net
普通に日豊本線の経路じゃないのん?

九州西岸に幹線が通って、そこら東岸にアクセスするなんて発想は
明治以降の話な気がする。

336 :日本@名無史さん:2013/06/30(日) 19:57:25.56 .net
そうかもしれんね
駅伝制が整った時の道も概ね日豊線に近い形みたいだし

337 :日本@名無史さん:2013/06/30(日) 20:09:53.78 .net
倭人伝の行程では、肥前国の松浦から佐賀までが陸路。
筑後川の筑紫国との境界から水行。

途中太牟田荒尾付近で投馬国。
肥後国宇土半島、八代付近で再上陸。

肥前国と肥後国、旧肥国の領域から一歩も出ていない。

338 :日本@名無史さん:2013/06/30(日) 22:09:25.58 .net
美々津から南なら砂浜を利用せん手は無いだろ
小河川なら河口が浅くなったり塞がったりしてて徒歩で渡れそうだ
大きな川でも対岸まで数十mまで狭まって都合が良い
と机上で思ったが砂浜を歩くのは硬い地面を歩くより相当疲れるし砂浜は無しかね

339 :日本@名無史さん:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN .net
馬と馬を運用する体制があれば相当使える。
しかし弥生時代にそんな体制があったとも思えん。
そもそも弥生時代の馬は確認されてないだろ。

340 :日本@名無史さん:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN .net
家形埴輪や舟形埴輪は貴重なんだが
よくこういうものを作ったなと感動を与えるようなモノが出れば良いな
巨大古墳等は組織力や国力は大きかったと思っても感動はしない
精巧で遊び心溢れる住居でも良いし土器でも良い
高い水準の精神性や技術力を持ちながら日常を送っていたと考えると畏敬の念も高まる
そういうのを見るとその時代のそこに身を置いてつい想像する
習って自分も作れるようになりたいと思ったりするだろ
弥生や古墳は実利至上になって粗雑になっている印象を受ける
花弁状住居も廃れて後には何の変哲も無い四角いモノばかりになっているものな

341 :日本@名無史さん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN .net
>魏書 東夷傳 弁辰

>以大鳥羽送死 其意欲使死者飛揚 
>大鳥羽を以て死を送る。その意、死者をして飛揚せしめんと欲す。?

死者の国は天空にあるというその観念が影響を与えた可能性はなかろうか。
宮崎の古墳が殆ど台地上ばかりにあるその精神に何か関与していないだろうか。
死者の国は地下にあるという観念は古墳や地下式横穴墓で見られる。
羨道を閉塞するのは大石でイザナミの行く手を遮ったことを連想させる。

>國出鐵 韓 [シ歳] 倭 皆從取之

倭人は弁辰に鉄を取りに言っていたらしい。
朝鮮半島で製作されたと思われる鉄器も出土している。
半島と往来のあった地域には思想の取捨選択の機会もあったはず。

342 :日本@名無史さん:2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN .net
どこの川にも、わたしでもし食ってるやつがいるんだよ。
川は渡れなかったなんて言うのは迷信に近い。
道案内の猿田彦を侮ってはいけない。

343 :◆HKZsYRUkck :2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN .net
>>324,>>341
そういえば、たしか「新唐書東夷伝」に流鬼国からの朝貢品に
鷹の羽があったとか読んだ気がする。流鬼国はたぶん樺太だかカムチャツカだか、
あのへんの北の国(適当ですまんw)。

横穴墓との絡みで考えると、古来の日本人(というか、列島に住んでた人たち)の
世界観は水平で、高天原ー中津国−根の国という鉛直構造は後世持ち込まれた
ものらしい。だけど古墳では前期は竪穴、後期に横穴墓でなんか違う気もする。

344 :日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN .net
>>343
むしろ横穴墓は大陸の方が早いのでは?
横穴だから世界観は水平ってのは無理がある気が…

345 :日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN .net
根の国に行ってこっち(中津国)には戻って来ないでくれと思ってたかな?
神社は実は祟りを恐れて祀ってることが多いし
天から下って地上に来て死んでまた天に戻るってのとは違うね

346 :日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN .net
↓海人臭のあるインドネシアの天孫降臨神話

兄弟は、上からビケール(長女)、ヒアン(長男)、トンギイル(次男)パルパラ(三男)、メスラーング(次女)。
五人は空の上で、雲の中を泳いでいる魚を釣って暮らしていました。
確執は、兄妹の間ではなく、ヒアンとパルパラの間で起こります。

そう、ヒアンから借りた釣り針を、パルパラが亡くしてしまうのです。
・・・まんま、山幸彦・海幸彦ですね(笑)

ヒアンから、「貸してやった釣り針を返せ、他の釣り針じゃダメだ」と無理を言われたパルパラですが、昔、逃がしてやった魚「キリパポン」に助けられます。
ケルケリーという魚が喉を痛めていることを知り、その喉から釣り針を取り出すことに成功するんです。

こうして、パルパラはヒアンに釣り針を返すことができたわけですが、これで話しが終わっては、何か拍子抜けでしょ?
そう、復讐譚が抜けてるんです。

一計を案じたパルパラは、昼寝しているヒアンの頭の上に棚を作り、その上にお酒の入った竹の筒を置くわけです。
「ムニャムニャ・・・」
目を醒ましたヒアンが、むっくり起き上がると・・・。
そりゃ、酒がこぼれて当然だっつ〜の。
それなのに、パルパラは、
「あ、兄さん、僕のお酒をこぼしたね、なんてことしてくれるんだ」
なんて白々しいことを言って、嘆くわけです。

・・・なんか、前半だけを読むと、ヒアンが意地悪なようですが、つまり、あれですね。
パルパラの性格も、どっこいどっこいか、と。さすが兄弟(笑)

347 :日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN .net
で、ヒアンは慌てて雲を掻き、穴が開き、その下に地面があることがわかります。

そんで、下の地に降りてみようという話しになるわけですが、最初に地上に降り立ったのは誰だと思います?

ヒアン?パルパラ?
いえいえ、わんこです。
長女のビケールが飼っていた「パタラ」という犬に綱をつけ、一旦下に降ろし、
また、引き上げると、パタラの足には白い砂が付いていました。
・・・ノアの方舟神話における、鳩のような役割ですね。

「やっぱりよい地があるみたい」
これで確信した5人は、それぞれ自分のわんこを連れて、地に降りるのです。

ただ、末っ子・メスラーングだけは怖がってしまい、結局天の上に戻りました。

この時、4人は、それぞれ自分の犬を連れていました。
上から、パタラ、コプル、ワカル、セングウル。

兄弟が降り立った地は、「バート」と呼ばれる地で、今でも尊い地とされているんだそうです。

348 :日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN .net
日本神話の水平構造とか鉛直構造といった言説は、
日本文化が北方文化と南方文化の混合でできていることを強調するために使われているんだけど、
個人的には筋がよろしくないと思う。

349 :日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN .net
天(あま)=海人(あま)とか
なぜ隼人の地である日向に天孫降臨神話があるのか
とか考えさせる説話だな

350 :日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN .net
火の玉が宇宙を生み出して空間・時間・物質・水を造り出したそうです

351 :日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN .net
宮崎出身の漫画家は北部九州説、畿内説、御用学者等からフルボッコ覚悟で漫画描いてくれ〜
邪馬台国から神武、古墳時代終末にかけての凋落まで
大暮維人とかおるんだろ
火の鳥チックに
映画化とかされればなお良し

352 :日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN .net
そういうタイプの漫画家じゃないでしょ

353 :日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN .net
:::/\\                   /  / /ヽ::::::::::::
:::: ヽ \\       ィ▲,        /  / / /::::::::::::::::
:::: ( \ \\    <`∀´>      l  三 / / ):::::::::::::::
:::::::ヽ ヽ . ミヽヽ    | |       /   二 / /::::::::::::::::::
::::::: ( \ ヽミ ヽヽ   | .|   +  /    二 ___/ヽ ...::::::::::::::
::::... /ヽ ヽ ニ ヽヽ |,,,| ┼  //   ニ _______/   ...:::::::::
:::.   ヽ____  ニ ヽ`l  ヽ__//    ニ ____ノ     .....::::::::::
      ヽ___,  ニ l ::   ′    ニ ___ノ +   + ....:::::::::
        ヽニ -‐ ,l ::     __ ≡ __ノ+ ┼ *    :::::::::
         ヽ---'''ヽ、  ,,,;''''='''''__ +  ┼  +  .::::::::::
 :::::...     + ┼ + EEi''!Q.Qー-、___~'''''ー-、   :....::::::::::::
  :::::::....     + ┼ EEi. Q. Q  +~~'''ヽ ..:...::::::::::::::::::::
   :::::::::::::::::.....    +  EEi. Q.  Q  ┼  :....:::::::::::::::::
    ::::::::::::::::::::....: + * EEi Q   Q  .....:::::::::::::::::
      ::::::::::::::::::::::::::...  + EE!  Q    @.....:::::::
        ::::::::::::::::::....::....::.  カカ  @...::::::::::::::::
>>351よ、お前は死ぬのです
次に生まれ変わるのは北朝鮮人です その次は韓国人に その次は統一朝鮮人に。
そしてその次は在日朝鮮人に…
絶対に日本人になる事ありません、良く暮らしなさいウェーハッハッハ

354 :日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN .net
捏造はフルボッコにすべきだが記紀とかからの推論なら許されるだろ
漫画や小説はあくまでフィクションとしてだし最後には凋落するんだから受け入れ易そうだし
古墳なら最後の鬼の窟とか常心塚まで
もののあはれを感じるラストにすれば日本人の感性的にはウケる
畿内説以外で売れるように描ける人がいたらすごいが

355 :日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN .net
こう言っちゃなんだが
モニュメントじゃなくて堤防でも作って治水でもやるべきだったんだ
そんなに残しときたかったんか
もう誰が葬られてるのかも分からんが

356 :◆HKZsYRUkck :2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN .net
>>346,>>347
海と山との対立というモチーフは江南地方からベトナムにかけて
分布しているそうで(吉田敦彦「日本神話の源流」)、海幸山幸の話も
そこから来たのは間違いないよね。たぶん直接には呉越。

銭塘江の海嘯に見られるように、東シナ海は大陸棚の影響で
干満差が大きいんだと。

357 :日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN .net
やっぱ呉越か
あのへんから九州に来てるよね

358 :日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN .net
>>356
隼人はインドネシア系やないの?呉越系なの?
よくいわれるインドネシア系の根拠は釣針喪失譚だけだけど。

359 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
その辺りのクエスチョンもクリアーしちゃった^^

360 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
宮崎の弥生・古墳の遺跡から漁具はほんの少ししか出ておらんよ
それに比べたら圧倒的に大量の石包丁とか農耕系の遺物

361 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
呉越から来たのは家船の民で、B民

362 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
>>361
その呉越の血、お前にも混じってるから安心せえ。

363 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
呉越系渡来人によって稲作が伝播されたってのが有力になってんじゃないのか?
http://www.naro.affrc.go.jp/karc/contents/ondanka/ondanka3/index.html
↑九州の地域ごとの気候変動への強さが分かる
流れに関係ないが稲作ってことで

364 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
べつに家船の民にもB民にも何の感情も持ってないから、
俺の中にその血が入ってても何とも思わんよ
タブーは無視して、純粋に学問的見地から語ろうよ

365 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
>>364
呉越が争ったのはBC600年からBC300とかそのあたりだが
その家船の民はその頃に呉越の地にいたのか?
家船の民が渡海するような船と航海術を持っていたのか?
逃亡のために渡海てのは第一には敗軍の将兵らを考えるが
海上生活者が渡海に迫られるような事態になったのか?

366 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
家船の民はずっと後になって出来たんじゃないの?
日本語を話す近世の日本人のひとつで呉越関係ないw

367 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
http://www.ao.jpn.org/kuroshio/hachijo2005
この八丈島にやってきた人たちって、
何らかの事情で大陸から黒潮に乗ってやって来た人たちだと思うんだよね
大陸を離れた理由は何故なんだろう

368 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
果たして八丈島だけに辿り着いたんだろうか?

369 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
>>363
その発送は単純すぎる
では陸稲は誰によって伝播
したのかな?

370 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
>>367
弥生・古墳時代には土器形式から伊豆、神奈川県南部からの渡島と書いてあるな
それ以前には琉球、マリアナ諸島、関東、近畿、中部
弥生・古墳のはある程度計画的っぽいがそれ以前は意図せず流れ着いた感
それなら八丈島だけとは限らないと思う

371 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
>>370
ポリネシア人だって2000kmを往復して島を探していた
流されるってことは自力で移動できないってことだぞ
孤島に流れ着くなんて幸運は無いです

>>367
大陸の人は海が苦手だから無理
遠洋航海できたのは台湾とか島の人達だろうな
九州は島が多いから航海は普通だったろうな

372 :◆HKZsYRUkck :2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
>>358
吉田敦彦によると、山幸彦が竜宮の侍女から水をもらったとき
器に玉を入れたのと同じエピソードが、カンボジアにあるらしい
(ただしこっちは指輪)。
たぶん南方系とひとくくりにしてる中に、いろんな要素が混じってるんだろうね。

>>367
八丈島にはアウトリガー式の丸木舟があって、「カンノ」と呼んでるんだよね。
西インド諸島原住民の「カヌー」を連想させる。
もちろん八丈島は近世以降アメリカの捕鯨船がたびたび来てるから、
そっち経由で伝わった可能性は高いけど、書紀の応神天皇の条に
「伊豆の国に命じて船を作らせた。疾く走るので『枯野』と名づけた」という
記事があったりする。また常陸国風土記には「軽野(地名)の東に船が
流れ着いた」という記事もあって、「カレノ」「カルノ」という言葉と船とが
妙に結びつくのだ。
…てなことを谷川健一「日本の地名」に書いてあって、俺はけっこう感動したのだ。
ただし、谷川先生はこの件については事例を列挙しただけで、結論めいた
ことは書いていない。まあ、そりゃそうだよなw

373 :日本@名無史さん:2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN .net
豊玉姫は綿津見国へ戻って帰って来なかった
死去したことの比喩
綿津見国は観念的に根の国に近い
沖へ行って強い流れの黒潮に乗ることは自殺に等しい
海路として船を使うとしても沿岸水行は絶対

374 :日本@名無史さん:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN .net
竜宮城

375 :◆HKZsYRUkck :2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN .net
「海の彼方の他界」って概念は、ユーラシア大陸の東と西の
どんづまりで濃いんだよね。フランスブルゴーニュ半島には
竜宮城そっくりの伝説がある(田中仁彦「ケルト神話と中世騎士物語」
中公新書)。

>>373,>>374
海の彼方の常世の国を琉球では「ニライナカイ」と言うけど、
伊波普猷によると「ニライ」は「根の方」という意味らしい。
この観念は中世まで受け継がれて仏教の西方浄土と結びついて、
補陀落渡海になっちゃうんだけど、そのメッカの紀伊半島は
まさに黒潮ハイウェイの乗り場だよな。
てなわけで、自殺に等しいのは同意w

>>371
実際のところ、ポリネシア人も「数撃ちゃあたる」作戦で玉砕しまくって
たんだろうけどね。ただ、島の周りでは海流が淀むので、海流まかせで
案外たどりついちゃうのも事実。
帆走するなら目的地と方位の把握が必須だけど。

376 :日本@名無史さん:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN .net
ニライカナイから来て(生)、ニライカナイへ帰る(死)らしいな>琉球神話
死んだら空に行ったり地下に行ったり、沖縄〜本土〜半島南部の間にいろいろあるんだな。
豊玉姫の綿津見国に帰ったってのは琉球神話の考えに近いね。

377 :日本@名無史さん:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN .net
ニライカナイがなんとかとか合唱で歌った覚えがあるんだが
当時はなんのこっちゃで終わってたんだが
作詞者は琉球神話を思い浮かべてたんだなとふと思った

378 :◆HKZsYRUkck :2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN .net
>>375
あうう、「ニライナカイ」とか書いてるじゃん俺…。 orz

379 :日本@名無史さん:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN .net
仲井て何ぞwと思ったけど触れんかったんだタイプミスだろ気にすんな
ニライカナイとか俺も中学以来忘れてた
しかも意味知らんし

380 :日本@名無史さん:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN .net
根の国ってのは恐れが突出してる気がするんだが
自分らが多くの者を殺めたり恨みを買ったりの自覚があったからっぽいが
罪悪感から祟りを防ぐために神社をあちこちに建てた
平和な土着状態だと死んだら空に行ったり海に行ったりしてたんだろう
空は人の住まいと繋がってるが、海の彼方って考えは根の国に近いな

381 :日本@名無史さん:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN .net
>>374
太平洋側だけでなく日本海側にも浦島太郎系の話があるらしいが
記紀をヒントにしたのか記紀編纂以前から各地にあったのか気になるな
知る術は無いんだろうが

382 :日本@名無史さん:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN .net
全てが九州に収まるという前提で以下仮定。

南至投馬國水行二十日 官曰彌彌

彌彌は海人を強く臭わせる名。
後に大耳とか垂耳といった名も見える。
海人と親和性が高い隼人や宗像。
海上を主たる食料獲得の場とする。
火山灰土で農耕に不適あるいは平地が少ない、波穏やかな内海の地。
領域は、大隅半島鹿児島湾岸〜薩摩半島(都か)〜天草葦北〜長崎〜佐賀北岸あたり。
戸数5万戸。

対する邪馬壹国(山人国)は陸上を主たる食料獲得の場とする。
すなわち稲作畑作の農耕。
北九州〜大分(都か)〜宮崎〜大隅半島東岸。
戸数7万戸。

山人の一派である奴国。福岡県西部南部。戸数2万戸。

本来は山人の狗奴国。熊本県北部。戸数3〜4万戸。

383 :日本@名無史さん:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN .net
18万戸72〜90万人も九州にいたのか
日本の人口を少なくとも400万くらいには見積もらなきゃならなさそうだが

384 :日本@名無史さん:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN .net
当時の倭は一夫多妻だから
もっと人口は多いと思うよ

385 :日本@名無史さん:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN .net
弥生時代の日本の人口って60万くらいとしてる人が多いんだろ

386 :日本@名無史さん:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN .net
北九州〜大分〜宮崎ってのは語彙は似てるんだよね豊日方言とか言って
宮崎は崩壊して無アクセント化してるから聞いても一緒には思えないけど
最初はアクセントがあったと思うんだよ
異なるアクセントに挟まれた地域で無アクセント化が起こりやすいらしい
熊本の北部や佐賀も似た状況で無アクセント化

387 :日本@名無史さん:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN .net
筑肥エリアは平坦で語尾がゆっくり上がる
大分は語頭が強くてあと投げっぱなし
鹿児島はいったん上がって下がる
というイメージ

388 :日本@名無史さん:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN .net
弥生期の人口60万人は過小だと思うね。
それと、弥生期の農耕は基本的に平野が主力だが、
平野って案外少なくて、

関西以西では、福岡から佐賀熊本の有明海沿岸で、
全体の1/3を占める。

最初は少し標高の高い台地から発展を始め、
感慨技術が上がるに連れて、低湿地まで開発されていく。

熊本や福岡の太宰府、甘木朝倉は少し標高が高い所。
まずここから始まって、だんだん海側へ広がっていく。

畿内も同じ。

最初は兵庫あたりではじまり、奈良湖や大阪などの
標高が低いところに進出を始める。

389 :日本@名無史さん:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN .net
>>382
そーいや、日向に耳々津というのがある、もとは彌彌津か?

390 :サガミハラハラ:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN .net
そうですね、耳川のミミは投馬国王彌彌の名からきています。
そして美美津はその耳川の河口の港だということでミミ津としたのです。

391 :日本@名無史さん:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN .net
>>390
はいはい、お薬飲むの忘れたらダメですよ。

392 :◆HKZsYRUkck :2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN .net
>>390
谷川健一は、名前にミミのつく人たちは耳輪がキーアイテムの海人だと言ってるよね
(「青銅の神の足跡」)。だから各地の地名に反映されている蓋然性はある。
ただ、その分布は九州から吉備、畿内にまで及ぶから、それだけで投馬国に
比定するのは無理筋な気がする。

393 :日本@名無史さん:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN .net
投馬国とか邪馬台国の位置は、倭人伝に従って決めなければいけないね。

394 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
>>392
人物埴輪の耳って、髪型が美豆良の物にはついてない。
美豆良は、大きな耳を表してるのかもしれない。
縄文時代から古墳時代まで、耳は大きいのがよいという風潮があったんじゃなかろうか?

395 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
>>388
傾斜地の方が水利的にやりやすそうなところもあったかもしれない。
風土記に稲作が高千穂で始まったかのような記述も見られるようだし。
個人的には違うと思うが。
山間部の特に険しいところでは上の方に水田(棚田)があってそういうところは八重(ハエ)と呼ばれていたりする。
そういうところは今はもうかなり放棄されて自然に帰って分からなくなっている。
昔の航空写真等を見たら分かる。

396 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
>390
耳川は美美川と書いたり耳津川と書いたりするらしいが、
じゃあミミって何だよって話になるよな
ミとかミミとか確かに水を思い浮かべるし宗像とか南方とか水方ミナカタで水辺やさらに海幸的なものも考える
尊称の御ミも考える
要はなるほどわからん

397 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
宮崎の大きな河川には北川、祝子川、五ヶ瀬川、大瀬川、耳川、小丸川、一ツ瀬川、大淀川があるが、
祝子(ホオリ)、五瀬(イツセ)、大瀬(逢瀬)、一ツ瀬(イツセ)、大淀(小戸)の意を念頭に名付けたんじゃないかと思う。
古墳時代とかそのあたりからそれらしき呼び名があったかは確認しようがないが疑問。
一ツ瀬川は江戸時代には米良川と呼んでいたらしいし。
それ以前に何と呼んでいたかは分からないけれど。
えらいローカルな話

398 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
現存する宮崎の一番古い地誌って何かな?

399 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
風土記逸文

400 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
だな♪

宮崎派も畿内派も必死になってるけど、
残念ながら筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪

ちょっと古事記よんでみたけど、益々確信しましたわ♪

今まで中韓に残る記述や遺跡や出土したものやその他諸々を
冷静に判断してもどう考えても福岡だなって思ってたけど、
古事記の国産みやヤマサチ、竜宮城等々
古事記読んで、益々福岡、というか、まんま福岡でしょ!って
記述ばっかで逆にびっくりしましたわ♪

401 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
神武天皇の祖父ヤマサチと結婚した【海神・綿津見神】の娘トヨタマ姫♪
神武天皇の父を出産する際にヤマサチと交わした約束、
「出産の際には絶対に覗かないで!」
とヤマサチと約束を交わしたが、ヤマサチは覗いてしまう♪

トヨタマ姫は
「この子を育てるために、私は【海の道】を通ってあなたのところへ行こうと思ってたけど、
あなたが出産を覗いたために、私は恥ずかしくてもうあなたのところには行けません」
と、綿津見神の元(竜宮城ともいわれる)に引きこもった♪

そして、代わりに妹の玉依姫に神武天皇の父の育児をまかせるために、
妹をヤマサチの元(吉武高木遺跡??)へ送った♪

そして妹の玉依姫と神武天皇の父が結ばれて神武天皇誕生♪♪

全てほんとに福岡周辺で起こってた事実なんだね♪♪

402 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
きたー!
古事記の方読んでたら福岡なんじゃないのと思えてくるのは皆認めるところなんじゃないかな
風景描写とか

403 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
なぜこの話の舞台が福岡かというと♪

天孫降臨の日向(糸島側)や神武天皇の出発地の筑紫の日向(福岡側)は
福岡の日向峠でその両側で天孫族による筑紫(倭)の乗っ取りを以前、示唆したわけだが、

このトヨタマ姫の竜宮城、父親の 海神・綿津見神 ってのが
実は 志賀島 にある 志賀海神社 が日本全国の 海神・綿津見神社 の総本社なんだよね♪♪
しかもその志賀海神社は別名を「龍の都」「龍の宮」とも言われてるんだなこれが♪♪

トヨタマ姫が言った
「私は【海の道】を通ってあなたのところに行こうと思っていた・・・」
 海の道 って正に志賀島から福岡平野に向かって伸びる砂州の陸地、「海の中道」のことだろ♪♪

404 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
し・か・も
志賀海神社ってのは「君が代」が語り継がれてる神社なんだよね、これが♪♪

 君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
 あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という
 花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや

 志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
 今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
  いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな


ち・な・み・に
畿内の琵琶湖がある滋賀県♪♪
あれはきっと
「志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで・・」

長い吹上の浜がない畿内に、唯一長い浜があるとすれば琵琶湖の浜なんで
志賀の浜を琵琶湖の浜にあてはめて滋賀県になったと思うぞ♪♪

405 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
風土記や日本書紀を読む限り、奈良時代初期に「認定」された天孫降臨の地は南九州でしょ
当時ですら、臼杵と曽於の両方の伝承があったようだが。

406 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
奈良時代の初期に「認定」って、
それって藤原不比等らによるいわいる「日本書紀」の話でしょ♪

そもそも「日本書記」の奈良時代以前の記述に疑問がもたれてるご時世なのに♪♪

古代史は「古事記」の方が普通に重要視されるでしょ♪

義務教育レベルなら「日本書記」が正解だろうけどね♪

しかし、天照大神の両親とされるイザナギ、イザナミの話も全部普通に福岡の出来事
としてきちんとはまるんだよね♪♪

宮崎や畿内等のただの伝承や伝説じゃなく、なんの問題もなく福岡なんだよな♪♪

407 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
はて、福岡博多で確定というのがもっぱらだと思うが・・・・

408 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
古事記偽書説もあるんだが…
帝のお墨付きって点では断然日本書紀でしょ

409 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
イザナギとイザナミがまず生んだとされる「オロコロ島」♪♪
博多湾に浮かぶ「能古島」が怪しいね♪♪

イザナギが死んだイザナミと黄泉の国と地上の間で完全に離別した大岩は
福岡の玄海灘に突き出した「芥屋の大門」がかなり怪しいしね♪♪

地上と黄泉の世界の境目、「限界」=「玄海」 と考えると面白いね♪♪

しかも「芥屋の大門」は「君が代」で最後に出てくる「苔むす姫」の桜谷神社の近くだしね♪♪

【君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで】

さらに、伊勢志摩にある「夫婦岩」の本家本元であろう福岡の志摩町 の二見が浦「夫婦岩」も近くにあるしね♪♪

やっぱ、古事記の筑紫の日向はどう考えても福岡でしょうな♪♪

410 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
宮崎のもだろうがその福岡の地名も記紀の前からあったことが証明できんやろ。
豊玉姫を祀ってあるのなら青島神社とかあるし…全国各地にありそうだが。
現実として実在の地に祀るしかないがそこが豊玉姫の返った所とはならんだろうし。
返った所を現実の地とすれば海人の国で相応に広範な地上のどこかなんだろ。
そこが福岡かも知らんしどこかかは分からんけど海人と親和性があるどこかかな。

411 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
そしてそして何より、

イザナギが黄泉の国から戻り禊ぎをして生まれたとされる住吉三神♪♪
「筑紫の日向の橘の小戸のあわらぎ原」を住吉の地とした住吉神社♪♪

現在の総本社は大阪の「住吉大社」とされるが、
本来の住吉神社の本社は 福岡 の 住吉神社 だからね♪♪

以下、ウィキペディアより 福岡住吉神社の概要

 日本全国に2,129社ある住吉三神を祀る神社の中で最も古い神社であるとされ、
 古書には「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されている。

やっぱどう考えても筑紫の日向は福岡でしょうな♪♪

412 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
さらにさらには、

天照大神とその弟スサノオとの誓約の際に天照大神から生まれたとされる
「宗像三女神」の宗像大社も福岡が総本社だからね♪♪

以下、ウィキペディアより

 日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社である。
 全国の弁天様の総本宮ともいえる。

宗像三女神の 六ヶ岳連峰 への降臨の話も実に
筑紫の日向の 高祖山連峰 への天孫族の天孫降臨と
山の形状や標高も似てて実に面白い♪♪

413 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
>>408
それは逆だ
天皇に都合の悪い事も書いてあったからボツになったと考えられる
つまり古事記には日本書紀より価値が有る
日本書紀は改変が多いから古事記より信頼度が低い

414 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
住吉と対になる田吉があるのは宮崎だけ!
大淀川を挟んで北が住吉、南が田吉。
地勢の特徴は地名の通り。

415 :◆HKZsYRUkck :2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
>>394
おお、卓見かもしれない。
言われてみれば、まさに付け耳だよなw

ちなみに>>392の耳飾(すまん、耳輪じゃなかった)は、魏志倭人伝の
「タン耳」で、これは「耳を担ぐ」という意味らしい。これは玉を連ねたやたら長い
イヤリングで、寝るときや労働するときには邪魔なので頭に乗せるんだそうな。

416 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
だいたい、あんな2000mもあろうかという所に、
中国に残るような記述

旧唐書「神武以前の日本の支配者は筑紫城にいた」
宋書「神武以前の23代は日向宮に住んでいた」

をあてはめると、宮崎みたいな険しい高地にいたとしたら
天孫族みんなただの引きこもりだろ♪♪
そもそも宮崎にはそんな痕跡は全くないしね♪♪

一方福岡の志摩町では・・

 福岡県志摩町教委は、21日、志摩町小金丸の「一の町遺跡」から弥生時代中期から後期にかけての大規模集落跡が見つかったと発表した。 
 大型建物を含む掘っ立て柱建物群遺構が確認され、大型建物のうち二棟の規模は、弥生期では最大級。
 当時の拠点集落と考えられ、糸島地域(志摩町附近)にあったともいわれる古代のクニ「斯馬国(しまこく)」との関連を指摘する専門家もいる。
 大型建物は3棟で、1棟は、南北約7.8メートル、東西約7メートルの大きさ。その北東に位置する別の棟は、南北約6.1メートル、東西8メートル以上あったと見られる。
 この2棟は、床面積が50平方メートル以上におよび町教委は、「祭祀、あるいは大陸外交の施設など、集落内で特殊な役割を持った建築物ではないか」と推定している。
 周辺で10棟を超える建物跡も見つかった。

こんな話とかいっぱいあるのにね♪♪

417 :◆HKZsYRUkck :2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
>>395
>個人的には違うと思うが。

同意。
記紀にあえて「狭田、長田」とあるということは、そうじゃない田を前提に
しているということだよね。
最初期の板付(福岡)や坂元A(都城)なんかは台地下の湿地だし、
畿内では河内湖畔の潟、関東では谷筋の谷地だ。
傾斜地に田を作るためには切って盛って畦を作る工程が必要なわけで、
それは「「耕して天に至る」」という人間の営みを誇示するものであれ、
作りやすいものではない気がする。

でもって、本当の最初の水田は、沖積平野河川の氾濫原に作られたと思う。
三日月湖とか点在する大小の湖沼のほとりの芦原ね。初期の水稲栽培では
施肥という概念はなかったはずで、そうすると上流から運ばれる土砂に含まれる
窒素が頼りになる。
ただ、そういう場所では必ず氾濫に巻き込まれるので、遺構は残りにくいんだよな。

418 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
何処説でも自由勝手にやったらいいんだ
記紀が日向に一纏めにしてるからこうなる
いろんな地の神話を纏めたんじゃないかと思うし
日向国説をそのひとつに並立してればいいんだ
古墳では宮崎の方が多いけど少し後の鉄鐸の分布では福岡と宮崎に勢力があったみたいだし
相互に婚姻したり友好したりもしてたんじゃないか
トヨタマヒメのとこで戦ったような気配は無い
海幸は荒々しい心を起こして山幸の国へ攻め寄せたらしいがこの海幸は豊玉姫の海人の国とは別
海幸と山幸は兄弟らしいしもっと近いところだろう
鉄鐸は記紀から100〜300年前でそんなに遡らない
鉄鐸のころの福岡と宮崎の記憶は人々の伝承に残ってたと思うんだよ

419 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
毎日、佐賀から久留米まで筑紫平野を通勤していると、
広大な水平面というのは、意外と厄介だなと感じることがある。

傾斜が殆ど無いので、大雨の時はなかなか流れていかず、
雨がふらなくても川の水は豊富だが、川から数メートル程度の
田畑まで水を上げる方法が、人力しかない。

適度に傾斜があれば、適度に高くなった川の上流から、
水路を作って一段低い田畑に水を流し込めばいい。

広大な水平面だけの場合、高さがないので、流し込める
高い川がない。ここらでは有名な朝倉の三連水車は、
一段高い田畑まで水を持ち上げる仕組みである。

そういう意味でも適度な傾斜がある土地のほうが、
最初はやりやすかったのではなかろうか?

420 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
>でもって、本当の最初の水田は、沖積平野河川の氾濫原に・・・

それはほんとの最初の水田で、日本に入ってきたころは造田技術はある程度発達
いていたんじゃないかな。

421 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
>>419
全く同じように思う。
谷川みたいな急傾斜の河川のそばなら、竹なんかを使って
水を引くことが傾斜が無い平野より容易だったろうなと想像する。
冷水だと収量面でマイナスのように思うが出来なくはなさそう。
傾斜がほとんど無い平野で自然の流れに任せて水を得るには
数kmも離れたところから水を引かなきゃならない。

422 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
佐賀の弥生の水田遺跡も割と傾斜がある山地の麓に集中しているしね。
あのあたりの平野のかなりがまだ海だったのもあるけど。

423 :◆HKZsYRUkck :2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
>>419,>>421
記紀に日本列島の美称として「豊葦原瑞穂の国」と書かれている意味は
大きいと思うのよ。同じイネ科で湿地を好む葦が生える湿地はは、水稲作と互換の
生態系。その葦原が「豊」かな大地にたどり着いた人々の喜びが反映された美称だなと。

技術的に言うと、生えてる葦を刈り取って籾を播くだけ。もちろん大雨が降れば
稲は浸水するが、水が引けば元に戻る。もともとそういう環境で自生していた作物だから、
よっぽどのことがない限り全滅はしない。
一方、斜面の棚田の場合は、畦が崩れれば湛水そのものが不可能になるよね。

>>420
私見だけど、それは沖積平野の水田遺構が見つかりにくいことから生じた説だと思う。

424 :日本@名無史さん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN .net
北部九州と緊張状態にあったら鉄素材が半島から手に入らなくなるな。

425 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN .net
日本最古の農業用水路もやっぱ福岡か!!♪♪

古事記・裂田の堰♪  日本書記・裂田の溝♪

426 :日本@名無史さん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN .net
来ると思った>裂田の溝
北部九州って古墳時代くらいになると鉄の用途が農工具にシフトしてるよね
戦争が無くなって生産力拡充に注力できた
そうはいかなかった日向いつまでたっても鉄器は武器が主

427 :日本@名無史さん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN .net
古事記「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」
日本書紀「日向の襲の高千穂の峰」、「日向の高千穂の櫛触の峰」、「日向の襲の高千穂のくし日の二上の峰」、「日向の襲の高千穂の添山の峰」
山城国風土記逸文「日向の曾の峰」
日向国風土記逸文「日向の高千穂の二上の峰」
薩摩国風土記逸文「日向の国の曽於の郡の高茅穂のくしふの峰」
懐風藻「襲山降蹕之世」
新撰姓氏録「天孫降襲」

428 :日本@名無史さん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN .net
>>416
魏志倭人伝には伊都国には代々王が居て邪馬台国に属していると書いてるぞ
伊都国の王が居た所が筑紫福岡辺りだろ

429 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN .net
天孫降臨にしても魏志倭人伝の「伊都国に代々・・」にしても
福岡周辺(日向峠周辺)がかなり怪しいのが現実だね♪♪

天孫族による邪馬台国連合(伊都国??)又は倭国の乗っ取りを
「天孫降臨」として記してると考えても面白いんだよな♪♪

元々栄えてる福岡周辺(邪馬台国連合又は倭国)の王たちを
次々と従えていって天孫族の支配を正当化した、
「天孫降臨」やそれにまつわる話♪♪

ヤワタノオロチも邪馬台国連合の国々に例えると面白いし
(スサノオがアマテラスに献上した太刀は戦利品)、
日向三代が次々婚約や契約で味方につけていった
綿津見神や宗像三女神や住吉三神等々の出来事♪♪

天孫族による筑紫(福岡周辺)の平定、つまり、
邪馬台国連合(倭国)の乗っ取りと考えると面白いね♪♪

神武天皇が筑紫の日向から東征を開始したのも
天孫族が筑紫を平定したのにも関わらず、
「いまだに(筑紫周辺で)あちこちに自らを 王 と名乗る者が絶えない」
と嘆いているような一面もあるしね♪♪

福岡周辺の遺跡の豪華さや出土品をみても
神武天皇の嘆きも納得だね♪♪

どっちにしろ、このころの話は全て福岡周辺+αの話だろうな♪♪

430 :日本@名無史さん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN .net
邪馬台国・福岡は神武天皇たちに滅ぼされたのか、
福岡は情けない土地柄だなあ♪♪

431 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN .net
>>430
日本最古の王墓とされる吉武高木遺跡の王
(ヤワタノオロチにも例えられるような強大な王の国)を、

日向峠を挟んで糸島側、高天原を治める
アマテラスの弟スサノオが滅ぼしたのかもしれないね♪♪

そして手に入れたのが戦利品の 草薙の剣 ♪♪

まあ、いろんなパターンが考えられるけどね♪♪

いや〜しかし本物の歴史の舞台であろう福岡は
いろいろな現実性のある歴史のロマンがいっぱい詰まってますな〜♪♪

宮崎や畿内は伝承や伝説だけでぱっとしないのが現実だね♪♪
正直宮崎の高千穂とか言われてもなんの神秘性もパワーも感じないのが現実♪♪
俺の話ね♪

432 :日本@名無史さん:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
日向峠を挟んで糸島側と福岡側って戦争した痕跡があるの?

433 :日本@名無史さん:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
接する所は日向峠と、今宿、生の松原付近の長垂海岸辺りかな。
武器の鉄器や銅器は両側からおおくでるが、
吉野ヶ里や安永田遺跡のように、
直接的な戦の痕跡といわれるものは自分は知らない。

距離が近く、国の規模もそれほど大きくないので、
おそらくはかなり早い時期に決着がついたものと思われる。

434 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
>>432>>433
このサイトなんかどう??♪♪
http://ncode.syosetu.com/n2508o/94/

 〜中国の史書である「新唐書」が日本の歴史を述べたところで「王姓は阿毎あま氏、初首は天御中主と号す。
 彦瀲げんれんに致るおよそ32世、みな尊を以て号となし、【筑紫城】に居る。彦瀲の子神武立つ。
 更に天皇を以て号となし、うつりて大和州に治す・・・」と書いていることなどを上げている。〜

 〜吉武高木遺跡は早良平野を環流する室見川中流左岸(下流に向かって左側)の扇状地に立地する。
 1984年の調査で弥生時代の金海式甕棺墓かめかんぼ木棺墓など11基・銅剣・銅矛などの武器11口
 銅鏡1面・玉類464点が見つかった。
 これらの墓地の周辺には集落跡が広がっている。この吉武高木遺跡の東50bからは高床式の12×9.6bの建物跡の周囲に廊下をめぐらせた、
 王の居室と見られる遺跡がある。この周辺の墓跡は何千もあり、1世紀の頃に大集落があったことを示している。
 これによって、早良平野には、そのころ早良国があったこと、それがやがて伊都国か奴国に滅ぼされたと〜

吉武高木遺跡の隣にある吉武大石遺跡からは見つかってるだけで
(発掘した部分だけで確認ができた遺体だけで)優に500体を超える遺体、
しかも戦いで傷ついた遺体が発見されてんだよね♪♪

もしかたら、卑弥呼と一緒に埋葬された遺体かもね♪♪

435 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
こんなのもどう??♪♪
http://plaza.rakuten.co.jp/kuma050422/diary/201104080000/

 〜隣の吉武大石遺跡は武士の遺跡だとみなされています。あまり副葬品が無いのです。
 副葬品は多紐細文鏡、細形青銅器、磨製石剣、ヒスイ勾玉、碧玉管玉が出土しています。
 北九州では前期の支石墓の時代(田村、新町)から、弥生時代前期中ごろ木棺墓(伯玄社)の時代を経て、
 吉武高木、中期前葉から中期中ごろの墳丘墓の吉野ヶ里をへて中期後葉の須玖岡本、三雲南小路の時代に至る。
 
 吉武大石では多くの体内に残った青銅器破片が出てきた。戦闘の証拠である。
 吉備の遺跡からはこのようなことは無い。清水遺跡は丁寧に葬られた骨に大量の矢が刺さっていたが、
 これはむしろ勇者を送る儀式だったという説がある。

 戦争が日常化した北九州、大きな悲劇があった山陰、戦争を回避した吉備、そしてそれを最終的に実現しようとした大和〜

福岡平野の東側には「神武原」という地名が残されてるんだよね♪♪
あの宇佐八幡宮の本宮であり箱崎八幡の元宮でもある 大分(だいぶ)八幡宮(ショウケ峠の飯塚・筑豊側)へ通じる
ショウケ峠の福岡側の麓が正に「神武原」♪♪

なんか意味深だね♪♪ 
吉武高木遺跡周辺も神武原周辺も緩やかな傾斜地なんだろうね♪♪

436 :日本@名無史さん:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
弥生時代に武士w

437 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
一大卒を任された天孫族(伊都国又は古事記では日向峠の伊都側の高天原)が
邪馬台国の中心地、筑紫(倭)を占領したとする、天孫降臨や、占領(平定)を正当化するその他古事記の様々な話と解釈するもよし、

福岡側の天孫族が、卑弥呼がいた伊都国(高天原)を占領し
平定したと解釈する、天孫降臨やその他古事記の話♪♪

前に示したように筑紫の日向は福岡の可能性はかなり大だし、
遺跡や出土品、中韓に残る記述、古事記その他諸々、
否定する材料がない本物の歴史の舞台福岡だからこそ、
SFみたいな飛んだ話や伝承だけじゃなく、
実際の出てる物等々、様々なより現実に近い話(ロマン)がいっぱい出てくるんだよな♪♪

438 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
神武天皇の祖父ウミサチを追ってトヨタマ姫(海神・綿津見神の娘)が上陸した所が、
日向峠の糸島側の志登神社だから、
天孫族は糸島側なのかな〜♪♪

邪馬台国連合(卑弥呼)、古事記ではイザナギに高天原を治めよと指示されたアマテラス♪♪

邪馬台国連合の中心地はやっぱり福岡平野かな♪♪

海神・綿津見神の総本社、「龍の都」「龍の宮」とも言われる志賀海神社♪♪
トヨタマ姫が本当ならば神武天皇の父を育てにウミサチの元へ渡ろうとした「海の道」=「海ノ中道」♪♪
「私は、この子を育てようと 海の道 を通ってあなたの元へ行こうと思ってた・・
だけどあなたが出産を覗いた為に、私は恥ずかしくてあなたのところにはもういけない・・」
といって竜宮城とも言われる父の元に引きこもった♪♪

何の否定もできないね、福岡の場合わ♪♪

イザナギから生れた住吉神社も、アマテラスから生まれた宗像大社も、
時代は違うが神功皇后の宮地嶽神社も、宇佐神宮の本社も全て福岡だからね♪♪

これで筑紫の日向が福岡じゃない方がおかしいですわな♪

中韓に残る記述も遺跡や出土品、その他全て諸々ね♪♪♪

439 :日本@名無史さん:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
ド素人が見るから福岡になるんでしょう。

440 :日本@名無史さん:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
日向が日向国と書いてなきゃ日向じゃないってんなら、筑紫も筑紫国と書いてなきゃ筑紫国じゃないだろ。
強引すぎやしないか?
高千穂が祖母山の近くの高千穂のことは某神宮神託や風土記逸文でも証拠はあがってるぞ。

441 :日本@名無史さん:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
筑紫ではなく竺紫な
竺=中心
紫=高貴
竺紫で権力の中心、すなわち都という意味だろう

442 :日本@名無史さん:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
海人系の話はほとんど福岡なんじゃないのと思うけどな
神宮皇后とか宗像三女神は海人系といえば海人系じゃないの
半島との間で行ったり来たりが多かったのは明らかだし話も生まれやすかったはず
福岡の海の水平線の向こうには半島があるが宮崎の海は水平線の方に行ったら帰って来れそうにない

443 :日本@名無史さん:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
>>441
千櫛国とか千[木患]国とかな
高貴そうな響きの名にしたものだなあ

444 :日本@名無史さん:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
ひなた峠

445 :日本@名無史さん:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
高千穂は北の高千穂(上高千穂)+阿蘇(下高千穂)、南の高千穂峰のどちらかで異論はない?

446 :日本@名無史さん:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
日向峠はヒナタ峠
ヒナタとヒムカじゃ意味が違う
○ヒムカ→ヒュウガ ×ヒナタ→ヒュウガ

447 :日本@名無史さん:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN .net
八幡大菩薩は台風
台風といったら福岡

448 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
なぜ出雲と交渉してたのに、日向の襲に降臨したのか?

449 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
方言的には熊本あたりまで出雲色が見られなくもない

450 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
半島系の鉄器やら奄美以南の貝製装飾品がうんたらかんたら。
そのあたりまでは往来があったんだろうね。
海人系の話というのもあってもおかしくはなさそう。

451 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
イザナギから生れた住吉神社♪
アマテラスから生れた宗像大社♪

単純に力関係からするとイザナギというアマテラスの父とされる人物が生んだ
住吉神社の方が宗像大社より古いし強いかもね♪

その住吉の「日本第一住吉」「住吉本社」とも詠われる最古の住吉神社が
福岡平野にあるということを考えると、
やっぱ邪馬台国連合の中心地や天孫族の「筑紫城」「日向宮」の関係性も
邪馬台国連合が福岡平野で、伊都国か日向峠周辺が天孫族なのかな??♪♪

一大卒=高天原と考えるとまた面白いんだよな♪♪
邪馬台国連合の卑弥呼に一大卒を任されていた天孫族♪♪
イザナギから高天原を治めよと言われたアマテラス♪♪

そのように元々邪馬台国連合・倭国連合の中でも力を持っていた天孫族が、
卑弥呼やその周辺の王たちから邪馬台国連合・倭国連合の中心を乗っ取ってそれを記したのが、
古事記の国産みから始まる、一連の筑紫の日向(邪馬台国連合・倭国連合)
の乗っ取りを正当化する古事記の話になってるんじゃないのかと♪♪
倭人伝の卑弥呼が殺されたという話や、古事記のスサノオが「俺は高天原を治めるアマテラスの弟だ」と
言うとアシナヅチは恐れてクシナダヒメを嫁にやった天孫族が元々強いことを示すような
下りとか、
元々邪馬台国連合・倭国連合でも力があった、または一大卒=高天原を治めていた
天孫族が卑弥呼等々の邪馬台国連合・倭国連合の中心を乗っ取ったという話ね♪♪

本物のロマンが詰まってるから、本物の筑紫の日向の福岡は面白いね♪♪

452 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
それから、スサノオが「俺は高天原を治めるアマテラスの弟だ」
の一言で手にしたクシナダヒメってのがまた
博多の総鎮守と言われる、正に今山笠の奉納が行われている櫛田神社なんだよね♪♪

この話も天孫族が博多(福岡平野)の強力な影響力を持ってた人物(家柄)を
天孫族の味方につけた、または影響下に置いて天孫族が福岡平野の支配をしたことを
正当化する話の一つだろうね♪♪

海神・ワタツミや住吉、宗像、等々福岡周辺の有力な家を次々に味方につけた
事を示して、福岡周辺(邪馬台国連合・倭国連合の中心)の支配を正当化したんだろうな♪

しかし、ほんとに福岡には本物の歴史が沢山つまってますな♪♪
ただの伝承だけじゃなく実際に今残ってる物等々もね♪♪

全ては、藤原不比等らによる「日本創世」の作り話から本物の歴史の故郷
筑紫の日向の福岡が陰に隠されるようになったんだろうね♪♪

不比等らが日本創世の作り話を作ったが、その日本書記に書いてあるような比定地が嘘だから
宮崎等からはそれらしいものは何も残ってないし、何も出てこない♪♪

出てくるのは後付けで何とでもできるような神社や名前とかぐらいしかないいもんな♪♪

453 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
方言なら筑紫の方が畿内語より遠いタイ
筑紫の日向の福岡ってなんば言いよっと?
そげなものは無か

454 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
筑紫国の日向峠(ひなたとうげ)なのか、筑紫島の日向国(ひむかのくに)なのか

455 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
筑紫島って表現はそれほど一般的な表現ではない。
筑紫国も日向国も、筑紫島という言葉がなくても
位置は特定できるので、筑紫島という言葉の必要性が薄い。

筑紫国の日向の、という解釈のほうが、
可能性は高いだろうな。

456 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
ひなたとひむかが問題だな

457 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
いやいや記紀の国産みのとこで九州のことを「筑紫洲」と呼んでるじゃないですか。
記紀編纂の頃は既に前方後円墳や地方豪族や共立といったキーワードが浮かぶ世は遠く、
中央政府の出先機関としての大宰府が機能していた時代ですから。

458 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
垂仁天皇御宇八つの日出しを射落とさしめ給ふ説
俗説云、垂仁天皇の御宇に九つの日輪出でしかば、天文博士をめしてうらなはせしめらるるに、
北のはずれなるはまことの日輪にて、南にならびたる日輪は烏のばけたるにて候。
此烏は地より八町上に在るべし。
射手に勅ありて射させらるべきか、然らずんば天下の物怪なるべしと奏しける故、
さもあらばとて射手八人に宣下ありければ、八人の射手共武蔵国入間郡に高き棚をかまへ梯をかけてのぼりける。
是日本にて梯のはじめなり。
ころは垂仁帝十八年二月十日辰刻なり。
帝もこれを叡覧ましませんが為、武蔵国に行幸あり。
かくて八人の射手ども思ひ思ひに神祇に念じて矢をはなつにに、八筋の矢八つの日にあたつて、筑紫日向国宮崎郡に落つる。
それよりしてひうがとは日に向かうと書くなり。
其後帝難波京に環御ありしかば、程なく八つの日輪を献じける。長さ一丈五尺の烏尾はば一丈六尺はしは三尺八寸あり。
其烏の首をきらせて見給へば、二寸四方の玉一つ宛有り。
其中にいづれも一寸六分の釈迦の像一体あり。
かかりしかば、八つの玉を一つは尾張国熱田の社に、一つは伊勢の外宮に、一つは紀伊国日前宮に、一つは信濃の国諏訪社に、
一つは豊前の国宇佐八幡宮に、一つは逢坂関明神に、一つは摂津国住吉社に、一つは帝の御宝蔵にこめられける。
かの射手共は坂東八箇国を賜り、天文博士にもそこばくの所領を充行はると云ふ。

459 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
これは江戸時代の俗説を集めた『広益俗説弁』だけど、
なんで日向国だけ筑紫日向国なんだろうね。

460 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
>>459
個人的に思うところがあったんではないですか。
作者は熊本藩士で九州の歴史や江戸中期の現状を良く分かっていたはず。
当時の日向は細分化され小藩乱立で、古墳は森林に埋もれ遺跡などは明らかになっていない。
にわかに信じ得ず、日向=福岡説の人と同じような疑念を抱いたのかもしれません。
つまり、「日向国」でなく「筑紫日向国」ではないのかと。

461 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
しかしその日向=福岡説は次第に勢いを弱めつつあるのではないでしょうか。
鏡でも特に価値を置かれたと思われる画文帯は宮崎での出土は福岡のそれを上回ります。
最近の自動車専用道路の建設工事に係った範囲だけで数百〜千弱程の弥生古墳期の住居が出たらしいですし。
何も無かったわけでは無いことが急速に明らかになってきました。

462 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
日向の古墳を見れば、それなりの人口があったことがわかるし、
筑紫、肥、豊とそれぞれが大人口を抱えていたことが推測出来るだけの遺跡が腐るほどある。

人口や規模は、あまり指標にならないと思う。

463 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
>>452>>452
伊都国一大率の叛乱→九州邪馬台連合王国女王卑弥呼の処刑(248)→
一大率を率いる人物が邪馬台国王(男王)を名乗る→政情不安、乱多発→
伊都国or伊都国以外の何処かor諸国協議の上で臺與を擁立…ってことかい?

464 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
西都原古墳群は平野部の外れの高台、平野部を見下ろす位置にあり象鼻山と似てる
しかし平野部のど真ん中にある前方後円墳とはその死生観が明らかに異なる

465 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
>>464
>魏書 東夷傳 弁辰

>以大鳥羽送死 其意欲使死者飛揚 

そこでこれ。
水田の広がる沖積低地の真ん中に築かれた古墳は数少ない。
高台に作る事にこだわったのはこういう思想も含まれていた…かもしれない。
住むところも見晴らしの良い高台にこだわっていた。
地形上否応無くそうなったとはいえ山間部でも谷底ではなく高台に住む。

466 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
どこの国でも、王様は高いところがお好き

467 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
近江では平野部にあるんだよな
やはり大和の前方後円墳は近江の影響が強いのかな

468 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
王様も殿様も猿も高い所が(
大和の古墳は割合低いところにあるから周溝に水が溜まりやすくて灌漑用の溜池に使ったりしているね

469 :◆HKZsYRUkck :2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
>>465
その一文を>>324で読んで以来考えてたんだけど、
どことなくも風の神への信仰を感じさせる記述だよね。
高台(斜面)といえば野ダタラで、いかにも金属の民っぽい。

470 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
弥生時代中は数でも質でも北部九州が圧倒的で日向は弱い
厳重な環濠や大量の鏡の出土する北部九州は畿内含めて当時の最先進地のように思える
戦争が進歩の源というのを地で行ってたのかもしれない
気候変動に弱い北部九州は容易に集落間→国間の紛争になっていたかもと
ttp://www.naro.affrc.go.jp/karc/contents/ondanka/ondanka3/index.htmlで説明がつきそう

471 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
九州全域の弥生遺跡の多さは、
すでに飽和していたんじゃないかと思えるフシもある。

もちろん、低湿地側への拡大も促されるだろうし、
また、生存戦争も多かったのではないだろうか。

もちろん、他の開いている地域への移住も盛んだっただろう。

472 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
西都原に前方後円墳が導入されると同時に絵画土器(鍵・唐子由来?)が入ってくるんだよな
どちらも威信財として通用してたんだろう

473 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
>>470
でも吉野ヶ里は規模で三内丸山に負けてる
しかも建物の高さも大きさでも負けてるw
縄文人が本気なれば弥生人はいちころ

474 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN .net
三内丸山とは比べちゃいかんよ
あれは例外

475 :日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ

476 :日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
主に農耕を生業にする弥生の人々と主に狩猟漁撈を生業にする縄文の人々で戦ったら
たしかに後者の人が強そうだ
武器は鉄剣・鉄鏃vs石鏃・石斧で弥生有利ではあるけど縄文を舐めてかかれるものじゃない
弥生時代の防具は貧弱てのが通説みたいだし

477 :日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
神武東征の主戦力って、顔に刺青した久米氏でしょ
農耕民というより漁労民って感じがする

478 :日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
農耕も狩猟も並行してやっていたみたいなんだが漁撈はどうかな…
刺青は海に潜って漁をする人々の間で行われていたというイメージを持っているんだが、
もしそうなら湾入した地形のとこだろうしそういう場所が全く無い延々と砂浜な平野部は
そのような漁撈には適してないんだよね。

479 :日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
銅鐸・銅鏡はもちろん後期の銅矛・銅戈なども武器としては役に立たない。
何かの満足心を得るだけのただの飾り。

480 :日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
ずっと半農半漁だよね
弥生時代だって貝塚はある
水田してても川で魚とってたし
狩猟の方が大変

481 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
>>473
三内丸山って出雲みたいなもんだろ♪♪

もし三内丸山が筑紫の近くにあったら出雲や畿内みたいに
最終的には筑紫がその気になれば筑紫の軍門に下ってるよ♪♪

482 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
>>463
邪馬台国連合・倭国連合は元々互いの国(邑)同士が戦争をしてたからね♪
平和が訪れたのは卑弥呼が即位しての少しの間だけだから、
卑弥呼が殺されたのは天孫族(伊都国)の仕業じゃなくても他の国も同じこと
考えてるから、天孫族がってことじゃないかもね♪♪

でも、最終的に筑紫(邪馬台国連合・倭国連合の中心)福岡を奪って支配したのは天孫族だろうね♪♪

483 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
極端に言えば天孫降臨や国産み等々の古事記の話は
天孫族による筑紫平定(福岡周辺平定)の話でしょ♪♪

しかし、当時の筑紫(福岡周辺)は日本列島でも最強国家の集まりで
互いが覇権を競ってた♪♪

筑紫(福岡周辺)を押さえる=今の日本列島の天下統一 ぐらいのインパクト以上のものがあっただろうからね♪♪

その証拠に大和朝廷(畿内)によって筑紫(倭)が併合されただいぶん後の769年に、
大和の役人が筑紫(倭)の首都だった大宰府を訪れて、
大宰府の成熟度(貨幣の流通等々)や人や物の多さに驚いて
中央に(畿内に)
「大宰府は天下一の都会なり!!」と報告してるからね♪♪

畿内は倭(筑紫)を平定してから75年以上たってからも、
本物の強者や文化が発達してた筑紫(福岡)には到底足元にも及んでなかったという事だよ♪♪

西暦800年にもなろうかという時でもその状況なんだから、
その500年前の筑紫とその他日本の状況は
文化的にも力的にも天と地の差があっただろうね♪♪

484 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
だって、天孫族による筑紫(福岡周辺)の支配が
90%以上完了してたであろう神武天皇の頃でさえ
神武天皇が
「いまだに(筑紫周辺に)自らを 王 と名乗るものが絶えない」

と嘆いてるんだから、邪馬台国連合の頃も表向きは卑弥呼だけど、
裏では俺こそが 王 だと野心を燃やしてた王(豪族)は当時から
いっぱいいただろうね♪♪

卑弥呼が処刑されるのも仕方ないね♪♪

485 :日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
神武の兄弟は4人居たから
イツセとイワレが東征してもまた九州に残っていたはず
神武の頃なら九州に正当な王が居るほうが当然

486 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
神武は4男坊だから3人の兄のうちの一人(イツセ)と東征しても、
2人の兄が筑紫に残ってるからね♪♪

本家は兄にまかせ、4男坊の神武は筑紫に残っていても 筑紫の王 になれる可能性は0に近い♪♪

それならば噂で聞いてる東方のいい国を目指して(征服をしに)東征を開始したんだろうね♪♪
神武は男のロマンに懸けたんだろうね♪♪
すさまじい人物だね♪♪

そして兄の死や長い年月がかかってしまったり、苦難の連続だけど見事にやってのけた♪♪
ほんとすさまじい人物だな♪♪

現在でも一旗揚げてやると田舎を飛び出したのはいいものの、
成功しないうえに田舎(故郷)にも戻れないって男はいっぱいいるのにな♪♪

神武は凄まじい男だ♪

487 :日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
筑紫が筑紫の国で、日向がひなたとうげなら、
襲、背宍之空国、吾田、笠沙とかはどうなるの?

488 :日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
笠沙って、鹿児島の笠沙かね
ならば、熊襲の国の笠沙?

鹿児島が熊襲領域かどうかは知らんけど。

489 :日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
地元の郷土史家は【斎殿原】だと言ってたな
名前は忘れた

490 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
吾田は延岡(縣、アガタ)のことでしょ?
900年代には延岡あたりの地名として英多と出ているよ

491 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>487
>襲、背宍之空国、吾田、笠沙とかはどうなるの?

俺もド素人だし、古代史を研究できる時間があんまりないから、
俺なりに詳しく調べてから回答したいんだけど、

>>490さんの吾田は延岡(縣、アガタ)の指摘でいくと
日本書記ってのは嘘や改ざんが多いんであんまり好きじゃないんだけど、
日本書記に神功皇后が319年に縣県に香椎宮を建てるって記述があるんでしょ♪♪
日本書記じゃ福岡平野の香椎宮あたりのことを あがた って言ってたんじゃない♪♪

笠沙もよく調べてないから自論を言いたくないけど、鹿児島はクマソの土地だし、
第一に宮崎の高千穂から遠すぎるよね♪♪
昔の人は歩いてたのに、南九州に比定すると全ての土地が離れすぎたり、遠すぎたり高すぎたり
するよね♪♪ 昔の人しても現実的に不可能なんじゃないの??って宮崎派の人も
自分で言ってて疑問を持たないの??♪♪

福岡周辺なら記述通りのものが沢山残ってるし、何の問題もなく天孫族も行き来できるし、
全ての事から考えても筑紫の日向は福岡だって解釈した方が自然でしょ♪♪

福岡なら筑紫の日向の小戸に妙見岬ってのがあるから怪しいけど、
「笠沙の御前を真来通り」でしょ♪♪
笠沙の御前=代々の王の墓 とも考えられるんじゃない??♪♪

492 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
奴国をウィキで調べるとこんな事書いてるよ♪♪

 奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、
 『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」にあらわれる倭人の国である。
 大和時代の儺県(なのあがた)、現在の福岡市付近に存在したと推定される。

「笠沙の御前」にしても、古事記じゃ
『この地は韓国に向かい、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故ここはよき地』
と、言ったと書いてあるから、
笠沙の御前が代々の 王 の墓なら、日向峠周辺には福岡側にも伊都国側にも
吉武高木をはじめ平原や井原等々、王墓と言われるものが沢山あるからね♪♪
当時はその古墳たちも今よりきれいにはっきりとしてただろうからね♪♪
今みたいにビル等や形もあいまいじゃなくて、
農村地帯に小高く一際目立つような歴代の王たちの墓がね♪♪

だから
「この地は韓国に向かい歴代の王たちの御前を通り朝日が真っ直ぐ刺し夕日がよく照るいい国だ」
といってそこに宮殿を建ててすんだって考える事もできるんだよね♪♪

493 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
もしかしたら天孫族は元々「斯馬国」にいたかもね♪♪

今の糸島半島の北側の志摩町♪♪

いまでこそ糸島と志摩町は地続きになってるけど、当時は間が海になってたみたいね♪♪
だから、ウミサチを追ってトヨタマ姫が上陸した 志登神社 が今は糸島の平野の中にあるけど、
昔は糸島の北と南は海で隔たれてたと考えると 志登神社 から上陸したのは正しいんだよね♪♪

海になってた(海面が上昇してた)と考えると、今より気候も温暖(地球全体)だったんだろうね♪♪

志摩町にはイザナギ、イザナミを象徴する本家本元であろう二見が浦の 夫婦岩 もあるし、
俺が黄泉の国との 限界=玄海 じゃないのって述べた 芥屋の大門 があるし、
アマテラスの両親、イザナギイザナミの頃はまだ天孫族は志摩の「斯馬国」にいたかもね♪♪

ちなみに 芥屋の大門 に 大祖神社 ってのがあるんだけど、
その神社はイザナギとイザナギを祀ってるんだって♪♪

494 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
で、「斯馬国」から福岡の日向峠周辺に進出(移り住んだ)した時に天孫族が

「この地は韓国に向かい歴代の王たちの御前を通り朝日が真っ直ぐ刺し夕日がよく照るいい国だ」

といって日向峠周辺に住んだんじゃないのかな♪♪

古代のことだからわからないけど、
筑紫の日向は福岡と考える方がどう考えても自然だよね♪♪

495 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
それは神武の先祖のことだけで
天孫は日本中に居たぞ
出雲だって天孫が絡むし鹿島も天孫
諏訪は国津神だが鳥海山にも天孫降臨伝説が残る
三内丸山だって天孫が作った国かもしれん

496 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
北九州論者は、よりどころとするものがあまりにも少ないのが最大のネックです。
唯一にして最大の武器は「韓国に向かっている」という一説です。
韓国に面しているのは北九州以外ありえない!というわけです。
「是地者、向二韓国一、真二来通笠沙之御前一而、朝日之直刺国、夕日之日照国也。(ここは韓の国に面し、笠沙の岬に繋がり通り、朝日が真っすぐに刺す国、夕日が照り輝く国だ)(古事記:712年)」
しかし、「唯一」と書いたように、それ以外の根拠がない。
考古学的にはその地域から勾玉や鏡がでてきたり、かつては繁栄していた事実があきらかになっていますが、出土物と記紀を直接つなげるものがないのです。
ニニギの時代=稲作の伝来(弥生初期)と出土物の時代が一致している、よって間違いない、というのが彼らの論理ですが、弥生初期に発達していたとされる遺跡は他にもいくらでもある気がします。
そして、根拠がない以上、ひたすら主張するしかないのです。

497 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>495>>496
君たち、俺がその前に俺が書き込んだのを読んでから、
一つ一つに反論してくれ♪♪

君たちの主張がただの強がりにしか見えんし、
ちゃんと根拠を示して反論してくれ♪♪
なんならまた書こうか??♪♪

君たちの何の根拠もないただの強がり発言は、
そのまんんま君たちに返すよ♪♪

宮崎は「そのまんま」さんの地だしね(笑)♪♪

俺が前に書いたものにちゃんと根拠を示して反論してね♪♪

はい、どうぞ↓↓♪♪

498 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
まず、質問@♪♪

何で、アマテラスの父、イザナミが生んだとされる 住吉神社 の 
最古神社「日本第一住吉」「住吉本社」とも云われる 住吉神社 が
福岡平野にあるの??♪♪

ちゃんと根拠も示して納得がいく説明で反論してね♪♪

499 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
で、質問A♪♪

次に、アマテラスが生んだとされる 宗像三女神 ♪♪

なんで日本全国の宗像三女神や厳島神社や日本の弁天様の
 総本社 と言われる 宗像大社 が福岡県にあるの??♪♪

ちゃんと根拠も示して納得がいく説明で反論してね♪♪

500 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>497
まず韓国が朝鮮半島を指してるとは限らない
「韓国に向かい」と書いてあるのは古事記だが
古事記では韓國という国の名前は全く出てこない
日本書紀だと国名として韓國が出て来るが、「韓國に向かい」という記述は無い
つまり両者は区別されていた

501 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>498
つまり福岡が高天原だと言いたいのかい?

記紀にはニニギは日向の高千穗に降臨したが福岡に高い山は無い
最高峰は釈迦岳でなんと仏教の名前がついているwww

ニニギを筑紫日向に埋葬したと書いてあるが福岡にそんな伝説は無い
ニニギのお墓はたしか宮崎に有るぞ
宗像三女神を祀っているのにニニギは忘れたとかバカげてる

つまり筑紫日向が福岡だとはまったく言えない

502 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
次に、質問B♪♪

それからそれから、宮崎のそれこそ 『唯一』 の得意分野(笑)♪♪
日向三代の話だけど♪♪

神武天皇のおじいちゃん、ヤマサチとトヨタマ姫の話だけど♪♪

トヨタマ姫は 海神・綿津見神 の娘で 住んでる所は 竜宮城 とも言われてたよね♪
その、現在でも別名を「龍の都」「龍の宮」とも言われてる日本全国の 海神・綿津見神 の
総本社 志賀海神社 は何で福岡にあるの??♪♪
しかも、トヨタマ姫が言ってた「海の道」って志賀海神社から伸びる「海の中道」じゃないの??♪♪

まさか 竜宮城 が福岡でヤマサチが宮崎の高千穂とかそんなぶっ飛んだSFみたいな
強引な話にしないよね♪♪

現在でも「陸の孤島」、九州新幹線や東九州自動車道も通ってないのに、
そのころに志賀島と宮崎を何度も行き来してたんだ(笑)??♪♪
あっ!!トヨタマ姫が言ってた
「海の道を通ってこの子を育てにあなたのところに行こうと思ってた」の
海の道って九州島又は筑紫島の事かな??♪♪

地球規模で見ると 海の道 かもね♪♪(笑)

天孫だから宮崎説からすると 宇宙 から眺めてたんだろうね(笑)♪♪


まあ、まず基本中の基本のこの三つの質問に
ちゃんと根拠も示して納得がいく説明で反論してね♪♪

まず、この三つだけでも普通に考えれば筑紫の日向は福岡だね♪♪

503 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
そして止め
国産み神話で「筑紫の島」を産んだと書いてある
つまり筑紫=九州である

ただし九州には、筑紫の国、豊の国、肥の国、熊襲の国があったとも書いてある
筑紫国とだけ有れば福岡あたりだと思うが、筑紫の日向と有ればこれは九州の日向である

504 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>500
あらら(笑)♪♪
いまだにまだ古代史を「日本書記」メインで考えてるって(笑)♪♪
日本書記の古代のくだりは嘘や古事記の改ざんで有名なのに♪♪
君はお話になりません♪♪
まず、ちゃんと俺の@、A、Bの問いに
きちんとちゃんと根拠も示して納得がいく説明で反論してね♪♪

505 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>504
アホだな
その三つの神社が同じ地域にあることが矛盾してるのに
それを元にしてるオマエの説は最初から成り立ってないぞ

506 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
福岡脳
福岡が邪馬台国で、ニニギの降臨地で、高天原です!
www

507 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
しまった、竜宮城が抜けてたw

福岡が邪馬台国で、ニニギの降臨地で、高天原で、竜宮城です!

508 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>504
@アマテラスの父、イザナミが生んだとされる これは記紀の記述だな
Aアマテラスが生んだとされる 宗像三女神 これも記紀の記述だな
Bこれも記紀の話

>日本書記の古代のくだりは嘘や古事記の改ざんで有名なのに♪♪
つまり
@ABも根拠は嘘や改竄だな
君はお話になりませんねーwww

509 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>501
君も凄い自論を展開するね(笑)♪♪

>ニニギを筑紫日向に埋葬したと書いてあるが福岡にそんな伝説は無い

いやいや、君が無知なだけでしょ(笑)♪♪
ニニギの話も福岡にはいっぱいあるよ♪♪
可也山だったり最古の水稲農耕伝来地 曲り田遺跡 の直ぐ近くにある天降神社とか
 宗像三女神が 降臨した六が岳連峰なんかは
旭・天冠・羽衣・高祖・崎戸・出穂の六峰で
 
ニニギの陵は第一峰旭岳に尊のなきがらを、第二峰天冠山には冠を、第三峰羽衣岳には羽衣
を埋葬して葬ったそうじゃないか♪♪

君が記した 宗像三女神 と ニニギ の墓♪♪

宗像三女神が降臨した六が岳連峰♪♪

名前もばっちりはまってるしやっぱ福岡は意味深だね〜♪♪

 
>つまり筑紫日向が福岡だとはまったく言えない

お前は 神 か!!♪♪ 話になりませぬ♪♪

510 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>505
だから言ってるでしょ♪♪
天孫降臨や国産み、その他の話は
天孫族による 筑紫の日向 つまり福岡周辺平定の話だって♪♪
つまり、昔は 筑紫の日向を押さえる=天下 だったんだよ♪♪

だから君たち
まず、ちゃんと俺の@、A、Bの問いに
きちんとちゃんと根拠も示して納得がいく説明で反論してね♪♪

>>508
あのー・・・ 「記紀」って「古事記」と「日本書紀」の事ですけど・・・♪♪
もしかして知らなかった??♪♪
君はそれも知らなくて「日本書紀」だけを頼りに宮崎説を唱えてたんだね♪♪

しかも日本書紀の事自体をもっと調べたら♪♪
「日本書紀」の古代史つまり奈良時代の前は嘘や改ざんだらけってのは 常識 の話だから♪♪

だから君たち
まず、ちゃんと俺の@、A、Bの問いに
きちんとちゃんと根拠も示して納得がいく説明で反論してね♪♪

511 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>501
しかし、君が示した 宗像三女神 と ニニギ の話♪♪

深く研究してみる価値がありそうだね♪♪

宗像三女神が 降臨 した六が岳連峰♪♪
旭・天冠・羽衣・高祖・崎戸・出穂の六峰♪♪

ニニギの陵とされる
「第一峰旭岳に尊のなきがらを、第二峰天冠山には冠を、第三峰羽衣岳には羽衣
 を埋葬して葬った」

という話♪♪
調べる価値がありそうだね♪♪

さすが本物の歴史が詰まった 筑紫の日向 福岡 なだけなことはあるね♪♪

 

512 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
@天孫降臨、神武東征の神話と住吉三神は関係ありません。
A宗像三神も同様です。
B竜宮城とか龍の都とか龍の宮って、漢語を使う以上かなり後付けらしさがあり、このままでは根拠として弱いです。

513 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>500
それって結構大事なことだと思います。

514 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>505
>アホだな
 その三つの神社が同じ地域にあることが矛盾してるのに
 それを元にしてるオマエの説は最初から成り立ってないぞ

まず、君は住吉、志賀海、宗像がそれぞれ「総本社」が福岡にあるってのが矛盾してるっての??♪♪

実際に福岡にあるんだから認めなきゃ♪♪ 君はその三つの現在も否定(現実逃避)してるんだね♪♪
大体、宮崎派って「日本書紀」のみを頼りにして「宮崎だ!」って必死に主張してる所がかわいらしい(笑)♪♪

さんざん「日本書紀」の奈良時代以前の記述には嘘や改ざんが多いというのは 定説 になってるのにな♪♪

必死にその「日本書紀」だけを頼りに「宮崎だ!」って叫んでる君たちはほんと可愛いよ(笑)♪♪

515 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
ひ な た 峠

516 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>512
まったく回答になってません♪♪

イザナギ、アマテラス、ヤマサチの話にセットでそれらも出てきますが、
同じ 筑紫の日向 なのに 降臨 だけが 宮崎の高千穂 ですか??(笑)

そんなSFのような話、まるで筑紫の日向宮崎派は邪馬台国畿内説を唱える論者のようですね♪♪

無理のある話ばっかりで宮崎派は実に面白いね♪♪

イザナギが筑紫の日向で禊ぎをして生まれた住吉、
海神・綿津見神の娘をもらったヤマサチ、
イザナギの子でありヤマサチの3代前のアマテラスが生んだ宗像

総てが揃ってる福岡が普通に 筑紫の日向 と考える方が自然だね♪♪

君が言ってることは、
「それら3社は福岡にあっても、天孫降臨や神武東征の 筑紫の日向 は宮崎だもん!!」
ってだだこねてるようなもんだよ♪♪

ほんと宮崎派はかわいらしい♪♪

517 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
君は、伊邪那岐命の神話と天津日子番能邇邇藝命の神話を地続きのものだと考えてるんだね
じゃあ、
「到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原」
ってのは、筑紫国の日向峠に橘小門があって、そのなかに阿波岐原があるってことなのか?

518 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
イメージとしては、
糸島から日向峠を通って室見川流域に出る。
立花山(現油山)ふもとから、
川に沿って小戸港に至る。
アワギハラは、百地の砂浜か、海そのものか。

519 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
筑紫の日向という言葉だけを見て神武記すら読んでいないみたいだな。
日向より発たして筑紫に幸行ましきとあるぞ。日向国から筑紫国に向かったから
こその言葉であり、日向が筑紫国の中ならばあり得ない言葉だね。

520 :◆HKZsYRUkck :2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>502
そう単純でもないみたいだぞ。
民俗学的に見ると、瀬戸内海の本州側は九州北部と連続する風俗
(たとえば常設の若者宿)が見られるのに対して、四国側は九州南部と
共通するらしい。たとえばトヨタマヒメでおなじみの産小屋とか。
(泉ら,1978)、大林太良「東と西 海と山−日本の文化領域−」

宮本先生の同様の研究は>>253で紹介されてるな。

521 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
九州東部はどっちかといえば、瀬戸内海文化圏だからな。
豊後水道、佐賀関で四国とのつながりは強いだろうな。

522 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
笠沙のそばに大昔の石垣の跡がある
神聖視されていて発掘されてないようだが、調べて見ると楽しいかも
沖縄とかの民家の石垣に似てるんだよね
比較的小さな石を積んだやつ

523 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
薩摩半島の笠沙という地名はごく最近、町おこしで付けられた地名で、
そこに笠沙という地名があるからということから論理を構築するのは本末転倒

524 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
>>519
その筑紫の岡田宮って福岡じゃなくて北九州市

最初に筑紫が出て来るのは国産みで
古事記「筑紫の島」
日本書紀「筑紫州」
つまり島の意味が有るんだよ

筑紫の〇〇なら国よりも島の意味が有る

525 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
まさか筑紫と竺紫を混同してる馬鹿はいないよな?
 
一方、倭にはシ(例:倭文=シズ)という読みがあるからややこしい

526 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
筑紫=倭(シ)国が城を築いた地、ってのが正解かな

527 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
そして、シ国の本拠地は四国

528 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
そして、どこよりも発展する筑紫

529 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
神戸や横浜が発展したのと同じ理由かな?

530 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
半島と貿易しても発展できねーよw
神武天皇がこんなことヤダと言ったぐらいだし

531 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
神武が居たのは、京都郡みやこ町立上高屋小学校の下流域にあった高屋宮だから

532 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
ジンギスカンや秦の始皇帝などのように、新しい権力者は、しばしば生産力の低いところからおきて、肥沃、温暖な地を支配するにいたっている。

533 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
大衆の中の優等生レベルごときとヤリ合っても話しにならないんじゃね?

534 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
>>530
半島と連絡できないと素材としての鉄が入手できない
当時の日本は製鉄できなかったことになっている
伊都国に一大率を特置し周囲を睨みながら壱岐対馬にヒナモリを置いた邪馬台国の主目的の一つは半島との連絡路の確保だった

535 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
古事記での筑紫福岡の優位性も分かってそのうえで、だからなあ。
一番の強みは記紀編纂時に既に日向国があったということだ。
決着なんてつきやしないし言い負かすべく言いたいこと言い合ったらいいんだ。

536 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
>>535
筑紫の日向、天孫降臨や神武東征が何にもない宮崎のはずはなかろう♪♪

面白い事に、いまだに俺の基本中の基本の@AB質問に
まともに答えれてる回答はいまだに無し♪♪

なんの根拠もなく、ただ現実逃避して「日本書紀」のみをたよりに
宮崎だ!宮崎だ!と遠吠えしてるのが宮崎派の現実だよ♪♪

SF大好き宮崎派のみなさん♪♪

基本中の基本のまずは@ABの質問に
まず、きちんとちゃんと根拠も示して納得がいく説明で反論してね♪♪

537 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
>>536
神武東征の行程を見直せよ
出発が日向だぞw
そして筑紫の岡田宮に向かった

538 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
九州時代の神武天皇の嫁が「日向國吾田邑吾平津媛」
つまり日向国の吾平津姫

つうか神社で重要なのは由来
住吉大社は神功皇后を記念して立てられたもの
神功皇后は畿内生まれで熊襲と三韓を成敗して畿内に帰った
@は何を主張したいんだかまるで不明www

539 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
それから、補足♪♪

Bの質問の志賀海神社の 海神・綿津見神 ♪♪

これも、アマテラスの父 イザナギ が 筑紫の日向 で禊ぎをして 住吉 と一緒に生んだ 神 だよね♪♪

なんでこれらの神々が本物の 筑紫の日向 福岡 にあるのに 
単純に「日本書紀」のみを頼りにしてる宮崎派からすると、 天孫降臨 等の有名なものだけ宮崎なの??♪♪

あんまりに現実逃避しすぎて「日本書紀」のみを頼りに 天孫降臨 とか有名なものは宮崎だって叫んでる
姿があまりにも滑稽なんですけど♪♪

ちなみに、アマテラスの弟 スサノオ がもらった妻も 博多の総鎮守 櫛田神社 の クシナダヒメ だね♪♪
まあ、ここら辺はいいとして、

ま ず  基本中の基本@ABの質問に
きちんとちゃんと根拠も示して納得がいく説明で反論してね♪♪

>>496
あたりで、あまりにも宮崎派が、「筑紫の日向福岡派」は古事記の「韓国に向かい」だけの記述のみを頼りにして
根拠がないくせにしゃしゃりでてるとか大口叩いてたから、
すぐ基本中の基本の@ABの質問にもきちんと根拠も示して反論してくれるものと思いきや、
宮崎派はどうやら勢いだけだったね♪♪

宮崎派は
ま ず  基本中の基本@ABの質問に
きちんとちゃんと根拠も示して納得がいく説明で反論してね♪♪

540 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
>>537
当時宮崎は 日向 ではない♪♪
景行天皇が
「ここは日がよくさす国だから 日向 にしよう」と名付けた♪♪
その後景行天皇は 筑後 を
「ここは 筑紫 の後ろだから 筑後にしよう」と名付けた♪♪

>>538
君は由来を大切にしてるんだね♪♪
その君が大切にしている由緒によると
住吉の地は
イザナギが禊を行った
「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」が住吉の地であると定められてるんだけど♪♪
で、その 筑紫の日向 が福岡じゃないってなら
なんで日本最古といわれる「住吉本社」「日本第一住吉」が福岡にあるの??♪♪

541 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
>>538
ついでに、その住吉と一緒に 筑紫の日向 で生まれた
海神・綿津見神 の総本社も福岡にあるの??♪♪

かっこよく説明してね♪♪

あんまり強がらないで、 「筑紫の日向 は 福岡」 だからだよって認めたら楽になるんじゃない??♪♪

まだこれって ド素人の俺 からの基本中の基本の質問だからね♪♪

542 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
筑紫も日向も記紀編纂時に九州の国をそう呼んでいたに過ぎない。
神武の時代に九州の国を何と呼んでいたかは分らない。
倭人伝には筑紫も日向も登場しないのだから。

「日本最古といわれる」・・・地元の人間はどこでも大抵そう言う。

543 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
隋書には竹斯がでますね。

544 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
>>540
当時の筑紫は筑紫じゃないって言ってるのか?

見事な墓穴だなw

545 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
>>540
>筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原

筑紫の日向・・・福岡の日向峠とか言ってなかったか?
峠で禊をしたんだな。なんて奇抜なw

546 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
>>541
♪やめてくれんか
ムカつく( ^∀^)♪

547 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
>>541
筑紫の日向って福岡のどこだよ
はっきり場所を言ってくれ

話しはそれからだ
つうか、おハナシにならない

548 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
日本書紀だけでなく、風土記にも日向の襲に天下ったと書いてあるな

549 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
たしかに糸島は朝日のよく射す国、夕日のよく照る国だな。
地形図も見たけども高祖山から連なる稜線の南側ってことでの全国的なヒナタ地名じゃないのか?
稜線の北側は日向って言わんだろ?

550 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
ヒナタなのかヒムカなのか

551 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN .net
糸島には私財を遺跡発掘に使った原田大六さんという人も居た
何がどことか各々勝手に主張すればいいのだ
どうせ絶対の決着は着かないのだから自分の思うところを主張はしても相手の否定はしなくていい

552 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
考古で可能性を天秤にかけろと言ったら伊都国佐賀平野説より糸島説に傾くわな。

553 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
糸島説は考古学で決めたわけではないぞ。単なる地名に飛びついただけだ。

554 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
伊都国は前原だろうが

555 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
伊都国前原は、原田大六の創作劇場

556 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
伊都国が前原というのは、合理的でない。使者が唐津で上陸したというのは、伊都国へ船で
行くことはむずかしかったからだろう。有明海を目指したというのならば下船が理解できる。

557 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
>>549
その指摘を受けて、俺も地形図を見てみたけど、
ほんと 地形図 と 地名 の関係性を見てたら俺が唱えた
高天原=日向峠の糸島が側説がプンプンするね♪♪

しかも、当時は糸島の北と南は海で隔たれてたってのも地形図が物語ってるね♪♪

中国の史書に残される「筑紫の日向宮」又は「筑紫城」に帰ったヤマサチを追って
トヨタマ姫が上陸したとされる 志登神社 も今は平野の真ん中だけど、
地形図がきちんと当時は海(海岸線)だった事を物語っている♪♪

海岸線が侵入してたとすると、当時は気候も今より温暖(地球全体)だったのも想像つくしね♪♪

558 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
福岡の日向峠ね。峠の茶屋の婆さんが卑弥呼だったって説だな。

559 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
志村けんのひとみ婆さん

560 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
しかも、その海で隔たれた 北側 の 島国 になる 旧志摩町 ♪♪

「一の町遺跡」と「斯馬国(しまこく)」の関連性♪♪
イザナギ、イザナミの頃はまだ天孫族は 斯馬国 にいたとする俺の説♪♪

地形図を見ても怪しい 地名 ばっかなんだよね♪♪

可也山・火山・彦山等々の怪しい山々や、なんといっても怪しいのが
 初 って地名があるんだよね♪♪ 全てがはじまった 初 という解釈も面白いね♪♪
他にも、イザナギ、イザナミを象徴する本家本元であろう 夫婦岩 ♪♪
俺の説では、黄泉の国と現実の世界の 限界=玄海 を意味する 芥屋の大門 ♪♪
そして、「君が代」で最後に登場する「苔むす姫」とニニギの妻 コノハナノサクヤビメ を祀る 桜谷神社 ♪♪
苔むす姫はイワナガ姫と同一人物だとして伝承されてるみたいだね♪♪
そして、「ニニギの陵」「ニニギが降りた」「神武の国見の山」等々の伝承もある可也山の麓にある 御床 という地名等々♪♪

実に志摩町も怪しいね♪♪

斯馬国から日向峠付近に進出した天孫族が、
「この地は韓国に向かい、代々の王墓の御前を真来通り、朝日が真っ直ぐ刺し、
夕日がよく照る国だ」といって住みだしたのかもね♪♪

それから、よく 日向 を「福岡の何処だよ」って特定させて懸命に困らせようとする
筑紫の日向宮崎派がいるけど、 日向 ってのは特定の地名じゃないと思うよ♪♪
もっと言えば、日がよく当たる所一帯を 日向 というと解釈するとおのずと答えは見つかってくるよ♪♪

簡単に言うと 筑紫の日向 は狭い一か所の事を指す言葉ではない♪♪
ようは、 筑紫の中の日向と呼ばれるような所 って解釈のほうが自然だよ♪♪

宮崎派は 日向=国 にしないと宮崎が完全になくなるから必死だろうけど、
筑紫国の中の日向と呼ばれる所 ってのが自然な解釈だろうね♪♪
それはもちろん 筑紫の中でも一か所ではなく 複数 あるってことだよ♪♪

561 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
では、日向から筑紫へ行くというのはどういう意味だ? 

562 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
俺の説を簡単にまとめると、

元々 斯馬国 にいた天孫族はしだいに糸島(伊都国・一大卒)に侵入して
後に、邪馬台国連合・倭国連合を 『『乗っ取り』』 、邪馬台国連合・倭国連合の中心地
福岡平野をも支配するようになる♪♪
(倭人伝によると、卑弥呼が直接治めていたところは斯馬国から奴国まで)

その福岡平野及びその周辺地域の支配、つまりは『筑紫の平定』を正当化して記したものが
国産みから始まる天孫降臨云々の一連の話である♪♪

 筑紫の国土や筑紫(福岡周辺)に代々いる有力豪族や家柄は全て天孫族が生み出したとし、
 その豪族や家々と婚姻や契約等々で天孫族の味方、もしくは影響下においた事を記し
 天孫族による筑紫の支配を正当化したもの♪♪

天孫族による領土拡大や引締めは後代まで代々続く♪♪

 福岡県内様々なところに残る、天孫族の伝承やそれを物語る地名の数々(神武の烏尾峠等々)は
 天孫族による筑紫の拡大、引締めの軍の行程等を記したもの♪♪
 もちろん神武も筑紫の完全な平定を進めていた♪♪
 神武が「いまだに自らを 王 と名乗るものが絶えない」と嘆いているのもその証拠♪♪
 
もちろん筑紫の拡大や引締めを筑紫(福岡県内)で行っていた神武は次第に東征を考える♪♪
東征を決意した神武は 筑紫の本拠地 に戻り3人の兄のうちの一人と東征開始♪
成功♪♪ 大和朝廷の基礎を畿内に作る♪♪

563 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
妄想を聞いているのではない。筑紫の中の日向から筑紫に行くというのは、大笠から
日本へ行くというような話で意味が不明だと言ってるんだよ。

564 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
大笠→大阪

565 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
そして、本家と分家として互いに成長した王朝が、
分家(大和)によって700年頃統一される♪♪

筑紫の伝承を大和が受け継いでるってことは、大和にとって筑紫はやはり、
親分というか 本家 だったんだろうな♪♪

もし大和が全く関係ない王朝なら、筑紫の伝承を残すことなく勝手に新しい話を作ればよろしい♪♪

しかし、筑紫の伝承を残したといっても、そこは藤原不比等らのすること♪♪
大和が強大な国家に見えるように筑紫の伝承を少しずつ改ざんして「日本書紀」完成♪♪

そして、日本書紀の記述を頼みに本家筑紫にかみつく 筑紫の日向宮崎派 ってとこだな♪♪

566 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
>>563
質問してんのなら、どこの記述で何にどんな風に書いてるのかとか
詳しく書けよ♪♪

だだばっかりこねてんじゃないっつーの♪♪

頭があまりよろしくない人ほど、わざと文を難しくしたりして、
「自分はなんでも知ってるんだー!」って誇示するんだって♪♪

君も万人にわかりやすく質問等してくれよな♪♪

567 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
神武は日向峠から船で筑紫に向かったんだなw
川も無いのに
m9(^Д^)プギャー

イザナギは日向峠で禊をしたんだなw
水も無いのに
m9(^Д^)プギャー

ニニギは日向峠に降臨したんだなw
あんな低い山なのに
m9(^Д^)プギャー

568 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
日向は、高千穂あり川あり海ありの
広範囲な地名を指してる

569 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
これまでの話を忘れているのか? もうろくしてるな。

537 :日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN >>536
神武東征の行程を見直せよ
出発が日向だぞw
そして筑紫の岡田宮に向かった

570 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
日向峠を降りたところには室見川があるよ。

571 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
>>567
とうとう 筑紫の日向宮崎派 壊れました♪♪

>神武は日向峠から船で筑紫に向かったんだなw
 川も無いのに
 
室見川がありますが??♪♪
君の理論(宮崎派の論)からすると・・
神武天皇は高千穂峡から太平洋まで急流下りや滝をダイブしたりしたんですか??♪♪

>イザナギは日向峠で禊をしたんだなw
 水も無いのに

「筑紫の日向の日向峠」で禊ぎをしたんじゃないいですよ♪♪
宮崎書紀にはそう書いてるんですか??♪♪
「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」です♪♪

> ニニギは日向峠に降臨したんだなw
 あんな低い山なのに

宗像三女神が降臨したという「六ヶ岳連峰」も
天孫降臨の「高祖山連峰」 も高さも容姿もそっくりですよ♪♪
「六ヶ岳連峰」はニニギの陵との伝承も残っているようですね♪♪
むしろ、天孫族は宮崎のような高い山にナップサックでも背負ってみんなで
本格的な登山をしたのですか??♪♪
天孫族はよほどの登山家なんでしょうね♪♪
「六ヶ岳連峰」や「高祖山連峰」は一般人でも簡単に登れますが、
「海人」であるはずの天孫族はよっぽど名を馳せた「アルピニスト」でも
あったんでしょうな♪♪ 宮崎派の見解ではね♪♪

572 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
>>571
じゃあ室見川の上流が日向なんだね〜w
と言う事は地点じゃなくて範囲だね
そこに日向国が有った

福岡にニニギの稜ありますか?
有ったらそこも日向国の範囲になるぞ

日向国は福岡の事だ!
そう主張してるんだぞ

573 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
横からでフォローするつもりもないが、
宮崎日向は古事記では襲の国だからね。

そして大祝祓には、日向「国」とは書かれていないよ。

574 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
古事記が嘘とまでは言わないが日本書紀の方にかなり重きを置くけどな。
勅撰だとかそういう肩書きは置いて、一書曰…と髄所で異伝を記したり日本書紀の方が遥かに誠実さを感じるだろ?

575 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
>>571
喧嘩っつーことなら日向=日向国説側に参加せざるをえないな。
@「日向は古事記の熊曾国である」A「熊襲は未開の縄文人で賊軍である」
B「そんなところがニニギ〜神武の過ごした地のはずがないのである」
根の前提としてこの三段論法がお決まりだと思うが、これを語る方が自説に囚われて壊れているものと思われる。
別に熊襲だろうが隼人だろうがなんだろうが構わんが、
@最初から間違っている。境界線が古事記のどこかに記されておったか?
A弥生土器もイネ等多種多様な栽培食物類も鉄器も古墳もあるんだが
B知らん。記紀を編纂した人と勅を下した帝に言ってくれ。
こういうことだから最初から聞く気が起こらんのですたい。

576 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
それでも糸島博多付近説の人の言うこともわかるんだよな
天孫降臨と東征出発地は先進地のウチだ!
おまえんとこは隼人が乱を起こしていただろ
唐の脅威もあったしな…その状況を考えろ
政治的思惑で隼人を絡めるべく嘘書いたんじゃないか?ってそういうことだろ?
言われんでも分かってるがな

577 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
火闌降命
  坂合部宿祢―――火闌降命八世孫、邇倍足尼の後―――――――――右京神別下
  坂合部―――――火闌降命七世孫、夜麻等古命の後――――――――和泉国神別
  阿多御手犬養――同神六世孫、薩摩若相楽の後――――――――――右京神別下
  二見首―――――富乃須洗利命後――――――――――――――――大和国神別
  大角隼人――――火闌降命より出る―――――――――――――――大和国神別
  日下部―――――阿多御手犬食同祖、火闌降命の後――――――――摂津国神別

南九州人全体が隼人ってわけでもなく、720年(養老4年)に反乱を起こした部族だけが隼人と呼ばれるんかな?

578 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
そもそも、天孫降臨の後、猿田彦は伊勢に帰っていったんだから、神話を北九州だけで考えるのは無理

579 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
南九州人全体が隼人ではない。隼人と呼ばれるのは720年(養老4年)に反乱を起こした部族だけではない。

580 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
どのあたりが隼人とそれ以外の境界かというのは、書く必要性も気力も無い。
どうしてもと言うのなら文献と考古学で見ればかなりはっきり分かるのではないの。

581 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
考古学って、地下式横穴墓とかで判断するの?

582 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
卑弥子が熊襲だった可能性も高い訳で
何故なら金印が天皇家に伝わっていないのは変

583 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
何でこのスレにド素人という外野が入り込んで来るだ?
神道マニアの雑魚が満足するスレでソコではしゃいでろよ(笑)

584 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
>>582
その事柄は典型的な発想の転回が使える

書き手側になんらかの心理的なシコリあったんだろうね

585 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
私は全部別の国と思ってる。

九州王朝の筑紫、
邪馬台国の肥国、
神武天皇の日向

のちに筑紫が九州を統一するが、
邪馬台国や神武天皇の時代には別の国。

肥国などの大国とは婚姻政策など
熊襲国は軍事力
この辺は景行天皇の熊襲退治からの推測。

586 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
ただし、景行天皇のモデルとなった豪族は、
むしろ、肥国から来たフシもあり、
福岡を拠点とする神功皇后の先祖を、
引き入れたかもしれない。

587 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
>>584
その割には神功皇后が卑弥子かもしれんと書いてる訳だが
しかも神功皇后を卑弥子にするため年代を操作している
中国の皇帝から頂いた金印を無くすのか?

三種の神器+金印の方が権威が増すだろ
まだ遣唐使を続けていた時代だしな

588 :日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN .net
結論は
天皇家は最初から金印を持っていなかった
よって卑弥子とヤマト朝廷は別の系統である

589 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
自前で権威を作れるようになったら、金印なんて邪魔なだけだろう

590 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>589
じゃまなら捨てるのか?
先祖が貰った金印なら、大事にすると思うがなあ
何百年も昔で中国の王朝だった魏も滅んでいるし

591 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
天皇家は紀元前660年から日本を統治してるって歴史書を作っておいて
その中で3世紀半ばの親魏倭王を知らないと正直に書いたらぽっと出の新参者だってばれちゃうから

592 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
つまり知らなかったって事だなw

593 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
円(方)形周溝墓、水銀朱ベンガラ朱、鉄器の副葬なんかの西日本標準様式が
弥生の終わりに宮崎平野中央部で行われていたということは重要だと思います。
鍛治鉄滓が出たりで全く遅れた地域ではない。
弥生末に人口が急激に増加しているように見えるんだが、対して北部九州は
相対的にもしかすると絶対的に人口を減らしてるんじゃないか?と思ったりする。
卑弥呼が貰った金印紫綬は天子の印より下だし、対等を志向する当時の天皇朝廷
にとっては不都合で、仮に伝わっていても隠した可能性はじゅうぶんありそう。

594 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>585
おそらく全部一緒でしょ♪♪
筑紫も邪馬台国連合・倭国連合も天孫族も♪♪
そもそも、天孫族は筑紫の話だし、
天孫降臨とかだけは宮崎だって言ってる筑紫の日向宮崎派の主張がおもしろすぎるんだけど♪♪
日本書紀の記述のみを頼りにしてても現実性もなにもないのにね♪♪
「筑紫の日向」の「日向」は国名ではなく、日向と呼ばれるような場所って解釈が正解でしょうな♪♪
要するに、「筑紫の日向と呼ばれる地域」って事ね♪♪
まあ、そうなると全く宮崎は蚊帳の外だけど、まあそれが現実でしょうな♪♪
日向が宮崎であってくれって願望はよくわかるが、まあ無理でしょうな♪♪

それから、「日本書紀」のが信憑性があるとか言ってる宮崎派がいるけど、
その理由として、「神武東征」等が詳しく書いてあるとか、誠実さを感じるって書いてたけど、
天孫族の降臨の地からニニギが移動した行程も、さぞかし詳しく書いてるの??♪♪

九州北部に降臨して、はるばる阿蘇??や海路??を通ったはずだろうけど、
そこらへんの苦労話もちゃんと書いてるの??♪♪

まあ所詮、願望だけの宮崎派だからね♪♪ 
古代史の信憑性も 古事記>日本書紀 でそもそも日本書紀は嘘や改ざんが多いことでも知られてるしね♪♪
 
日本書紀のみを頼りに、(中韓にのこる記述や遺跡や出土品を全く無視して)
「天孫降臨は宮崎だ!」としか叫べないのが宮崎派の特徴だからね♪♪

595 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>563
>妄想を聞いているのではない。筑紫の中の日向から筑紫に行くというのは、大笠から
 日本へ行くというような話で意味が不明だと言ってるんだよ。

普通に今でも使うんじゃない♪♪
同じ「筑紫」内の移動なら、日向から(本拠地のある)筑紫に行くって♪♪

例えば 筑紫国=福岡県 と例えるなら、
朝倉(市)から福岡に行く♪♪ とか、
筑後(市又は地域)から福岡に行く♪♪ とか 筑豊(地方)から福岡に行く♪♪って

別に自然でしょ♪♪ 
日向(地方)から筑紫に行くってのも、同じ筑紫内の移動なら普通の表現でしょ♪♪

君は、同じ福岡なのに
「筑豊から福岡に行くって表現がおかしいだろ!」って言ってんだよ♪♪
ごく普通の表現ですけどな♪♪

日向=国 にこだわるから筑紫の日向宮崎派は支離滅裂になるんだよな♪♪
まあ 日向=国 じゃなくなれば宮崎は全く関係なくなるから必死なんだろうけど♪♪

596 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
日向峠に住んでいた神武天皇
可哀想だな
国民が多くて100人ぐらいかw

597 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
日本書紀の信憑性を疑うのに、
天孫降臨を信じてるのがシュールw

598 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>594
>天孫族の降臨の地からニニギが移動した行程も、さぞかし詳しく書いてるの??♪♪

[木患]日二上天浮橋 より ウキジマリタヒラに立たして
膂宍の空國 を 頓丘(ヒタオ) より覓國行去て 吾田長屋笠狹之碕 に到る

解説とかされてるけど結局何のことやら
日田尾とか浮橋とか字名であるところもあるけれども後世の名付けだろうしなあ

599 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
日向の国の風土記に曰く、臼杵の郡の内、知鋪の郷。天津彦々火瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲をおしわけて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。
時に、天暗冥く、夜晝別かず、人物道を失い、物の色別き難かりき。
ここに、土蜘蛛、名を大鉏(おおくわ)・小鉏(をくわ)と曰うも の二人ありて、奏言ししく、
『皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ』とまおしき。

600 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
天孫降臨なんて、所詮神話よ
口伝のいろんな話が混じってできたんだろう

601 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
天孫降臨は真実
1万2千年前は空飛ぶ船が世界中を飛び回っていたんだよ

602 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>598
やっぱり、神武東征のように詳しく書いてないいんだね♪♪
九州北部から宮崎の高千穂までニニギが歩くとしたら、阿蘇や関門海峡等々、
あるだろうけど、実にうすっぺらい記述だね♪♪

それなら、俺が比定する、
「韓国に向かい、笠沙の御前(歴代の王たちの墓の御前)を真来通り、朝日が
真っ直ぐ(日向峠より刺す)刺し、夕日がよく照る」日向峠の糸島側から、
ニニギが移動して、英彦山や宗像三女神が降臨した六が岳(ニニギの陵との伝承あり)等々の
福岡県内の伝承が残る山まで移動した行程ととらえる方が自然だね♪♪
日本書紀はあまり好きじゃないけどね♪♪

それこそ初めから「宮崎だ!」っていうんなら、
邪馬台国畿内説論者のようなSF染みた幼稚な発言になっちゃうよね♪♪

>>599
どこまでその伝承がただしいか、冷静に宮崎の実情を見てみなきゃね♪♪
現天皇家でも象徴的存在になってる 三種の宝物 等々どれでけのものが宮崎からでてるのかという現実ね♪♪

福岡は、例えば宮地嶽神社でも 金の冠 が見つかってるし、
出てきてるものが、もう一杯ありすぎて困っちゃうんだよね♪♪
それでも 筑紫の日向宮崎 を唱えるって、よほど現実逃避をしてるようにしか思えないんだよね♪♪

宮地嶽の 金の冠 等は、ニニギの陵ともいわれる宗像三女神が降臨した 六ヶ岳連峰 にも比較的近いし、
旭・天冠・羽衣・高祖・崎戸・出穂の六が岳♪♪
ニニギの陵とされる
「第一峰旭岳に尊のなきがらを、第二峰天冠山には冠を、第三峰羽衣岳には羽衣 を埋葬して葬った」
とかの伝承に合わせても面白いね♪♪

本物の 筑紫の日向、福岡 は沢山こんな話がゴロゴロ出てくるからね♪♪

603 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>597
>日本書紀の信憑性を疑うのに、
 天孫降臨を信じてるのがシュールw

どんだけ 筑紫の日向宮崎派 はレベルが低いんだよ♪♪
ド素人の俺に指摘されて悔しくないの??♪♪

古事記って知ってる??♪♪
ちなみに「古事記」と「日本書紀」のことをまとめて「記紀」っていうんだよ♪♪

604 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>597
>日本書紀の信憑性を疑うのに、
 天孫降臨を信じてるのがシュールw

どんだけ 筑紫の日向宮崎派 はレベルが低いんだよ♪♪
ド素人の俺に指摘されて悔しくないの??♪♪

古事記って知ってる??♪♪
ちなみに「古事記」と「日本書紀」のことをまとめて「記紀」っていうんだよ♪♪

605 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
いやいや、古事記すら筑紫日向が豊かであったことなんか書いてないだろ。
金の冠が出土したところで、それが彦火瓊瓊杵となんの関係があるんだよ。

606 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=131.45888539867&latitude=32.003223817264
ここ(+印)は弥生後期〜終わり頃の120軒くらいの住居が見つかったところなんだが、
この西方に浮橋という小字名がある。
弥生末か下っても古墳から現在まで残るとか到底信じ得ないことで、
普通は間違いなく後付けだと決め付けるが他にも意味深な小字名があるので一応紹介。

607 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>602
宮地嶽の冠って古墳から出たものなんだろ
古墳時代の金銅製の馬具とか金製耳飾とかなら宮崎でも出てるぞ

608 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>606
意味深な地名がかたまってついてる方があやしい
問題はどこまでさかのぼれるか

609 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>602
韓国は朝鮮半島じゃないぞ
古事記では半島を韓国と一言も書いていない
霧島連山に韓国岳がある

610 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
馬韓弁韓辰韓狗邪韓国

611 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>610
それ古事記に全く出てこない

612 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>609
でも♪ 
魏志倭人伝にはでてくるんだよね♪♪

「倭国へは帯方郡より 韓国 を経て倭国の北岸 狗邪韓国 に到着する」♪♪

倭人伝の倭国はまだ天孫族が「乗っ取る」前の邪馬台国連合・倭国連合だろうね♪♪
俺の説では天孫族はこのころまだ糸島の北と南は海で隔たれてた、
当時の北側の島国 斯馬国 にいた♪
そして卑弥呼が直接治めるのは 斯馬国 から 奴国 まで♪♪
つまりは、福岡平野一帯が邪馬台国連合・倭国連合の中心地だったんだろうな♪♪
その倭国連合は朝鮮半島の南の一部まで影響力を持つ一大海洋国家だったんだろうな♪

その一員だった天孫族は伊都国(日向峠の糸島側)に侵入する♪
世に言う「天孫降臨」♪♪

しだいに強力化した天孫族は邪馬台国連合・倭国連合を乗っ取る(筑紫の中心福岡平野を周辺を支配)♪♪
国土や筑紫の豪族は全て天孫族が生んだとして、婚姻や契約で次々に天孫族の味方として
筑紫の支配を正当化したのが、国産みや天孫降臨やその他の話♪♪

で、筑紫平定(現福岡県域)を平定してた天孫族の神武が東征を決意♪♪

すべて、なんで天孫族の故郷が 斯馬国 なのか、
国産みや天孫降臨が 筑紫支配(福岡周辺) を正当化したものか、
神武の東征に至るまでも、俺なりの 根拠 を示してる♪♪

また一つ一つ書くのが面倒だからあえて書かないが、
ド素人の俺よりレベルの低い中途半端反論はやめてくれよ 
筑紫の日向宮崎派 のみなさん♪♪

613 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>612
記紀に邪馬台国が出てこないから
それには何の意味も無いぞ
しかも魏志倭人伝では邪馬台国は南に陸行一月wwww

記紀を引用しても倭人伝を引用しても
九州北部説は墓穴w

614 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>611
りっぱに出てきてるじゃん♪♪

「この地は韓国に向かい笠沙の御前を真来通り朝日が真っ直ぐ刺し夕日がよく照る国」って♪

立派に古事記に登場してますがな♪♪

615 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>614
出て来るのはそこだけ、それは半島を意味していない
何故なら古事記では半島を韓国と全く呼んでいない

日本書紀だと半島を韓国と呼んでるが、韓国に向かいが消えてる
霧島連山も韓国なんだよねえ

616 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>613
ちょー、君君w♪♪

それって「魏志倭人伝に筑紫も天孫降臨も出てきて無いから何の意味もないぞ!」

って言ってるようなもんだよ(笑)♪♪

なんでこんなにド素人の俺からみても 筑紫の日向宮崎派 はレベルが低いんだか(笑)♪♪

筑紫の日向宮崎派はあんま必死になりすぎないで冷静になってみたら(笑)♪♪

617 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>615
ヒント♪♪

お茶漬け♪♪

ド素人のおれより、なんか低いよね、 筑紫の日向宮崎派 って・・・

618 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
>>612
>その一員だった天孫族は伊都国(日向峠の糸島側)に侵入する♪
 世に言う「天孫降臨」♪♪

自分で書いて思ったんだが、 伊都国 は邪馬台国連合の 一大卒 を
任されていた 重要 な国♪♪
その 伊都国 を見事に落とした(攻略した)からこそ、

「この地は韓国に向かい、笠沙の御前(歴代の王の御前)を真来通り、
朝日が真っ直ぐ刺し(日向峠から) 夕日がよく照る国。故にここはいとよき地なり」

と言って、住んだのだろうね♪♪
伊都国の北の島国 斯馬国 からやってきた天孫族が発する言葉としてピッタリだね♪♪

そしてアマテラスの弟スサノオが、
「俺が高天原を治めるアマテラスの弟スサノオだ」と言うとクシナダヒメの
父親がビビってクシナダヒメを嫁に出した話にもつながるしね♪♪

「あの一大卒伊都国を落としたアマテラスの弟」と考えると、
福岡平野にいた豪族や有力な家もやっぱ天孫族に一目置くだろうしね♪♪

ちょっと我ながらあっぱれだね♪♪

 

619 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
魏志倭人伝と記紀を混同した自説に酔ってるw

620 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
古事記の韓国と日本書紀の空国は対応してると考える。

621 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
で、アマテラスが伊都国で手に入れた 鏡 八咫鏡 ♪
スサノオが福岡平野で邪馬台国連合・倭国連合の中心国??(ヤワタノオロチ)
を攻略して手に入れた 剣 草薙剣 ♪

後、三種の神器の一つ 勾玉 だけど♪♪
後の研究にとっておこうかな♪♪

なんかヒントがあるといいな♪♪

622 :日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN .net
どうでもいいけど、糸島の北側の志摩から南の三雲のほうに侵入して来て
「この地は韓国に向かい」はないだろう
糸島・早良平野の日向説をとるなら、出雲を制して九州北岸にやって来るところから出発しないと

623 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN .net
>>622
もちろん 天孫降臨 の高千穂と比定されてる 高祖山 に登って眺めた時だよ♪♪

高祖山の北側は イザナギイザナミ が生んだ 能古島 や 志賀島 になる♪♪
天孫族がいたとする 斯馬国 は高祖山からは北西だからね♪♪

もしかしたら高祖山からみた能古島た志賀島の関係を 「笠沙の御前を真来通り」と
言ったのかもな♪♪

高祖山から 斯馬国 は北西だから、高祖山からまず 北側 の海(笠沙の御前??)を
みるだろうから北側は開けてるので 韓国 に向かいという表現ははまるだろうな♪♪

高祖山から韓国方面を見た時に 斯馬国 が間に入るならその指摘は的確だろうけど、
高祖山から斯馬国方面は、高祖山から韓国方面を眺めた時に視界に入ってこないどろうな♪♪ 
斯馬国の東側の端は入ってくるだろうけどね♪♪

624 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN .net
高祖山から可也山(斯馬国)は単純に西といってもいいような位置だしね♪
正確には西北西♪♪

高祖山から単純に 北 眺めれば能古島や志賀島等がある海だから、
「この地は韓国に向かい」で全く問題ないと思うよ♪♪

625 :日本@名無史さん:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN .net
実家が糸島で、高祖山に登った経験があるけど、
山頂からだと、西区から博多湾方面はよく見渡せるんだが、
志摩から唐津方面はあまり見わたせない。

ここには元寇のときの望楼跡があるんだが、
これは博多湾の監視のためのものだね。

626 :日本@名無史さん:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN .net
可也山(糸島富士)はむしろ、麓の大門あたりからのほうがよく見える。

627 :日本@名無史さん:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN .net
出雲と交渉してたのに何故筑紫の日向に降臨したのか?
猿田彦はなぜ伊勢に帰ったのか?
神話を史実と混同していたらわからないだろう。
神話は神話学にまかせればいい。

628 :日本@名無史さん:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN .net
日時を特定できる記述が歴史、特定できない記述が神話とされてるだけで、年代は変わらないだろ

629 :日本@名無史さん:2013/07/22(月) NY:AN:NY.AN .net
神話はだいたい二千年以上の前の出来事
天地創造や人類誕生が同じ年代のわけ無い

630 :日本@名無史さん:2013/07/23(火) NY:AN:NY.AN .net
日本書紀が九州南部支配の正統性を示すために【ずっと大昔の契約でそうなった】
と由来を語ったのが海幸山幸の説話だと岡田英弘は書いている
オレも賛成だが、しかしサイトバルの古墳群の説明はどーなるのか
奈良時代以前に畿内に隼人がいたのも確かのようだ

631 :日本@名無史さん:2013/07/23(火) NY:AN:NY.AN .net
それは可能性として頭に入ってますぜ>支配正統性のため
それでも…てのがこのスレなんだろうと思う

632 :日本@名無史さん:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN .net
邪馬台国は周施五千余里の島なんだよ。
九州では無いな。

633 :日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN .net
九州の沿岸のどこかを出発して九州一周して出発地に戻るとすれば900km近くになる。
半周なら450kmで五千余里(短里)に近くなる。
唐津-佐賀-熊本-阿蘇-大分-宇佐-小倉-博多-唐津の北部九州一周で大体五千余里。

634 :日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN .net
>>632
その当時は東北まで回ってくるのは無理だろ

635 :日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN .net
邪馬台国は唐津から二千里弱。
五千里は往復してちょっと寄り道した程度。

636 :日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN .net
鏡も権威の象徴でなくなったために墓に埋められた。
銅鐸も同じ。土に埋めることでその魔力を封じ込める。
古代人らしい発想ですね。

637 :日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN .net
燃えないゴミは
今でも地中に埋めるけど

638 :日本@名無史さん:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN .net
要らないものは地下へ。
日本人らしい発想ですね。

639 :日本@名無史さん:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN .net
朝鮮人だとウンコは道ばたに捨てる

640 :日本@名無史さん:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN .net
>>638
そうだよ
水に流すという発送も有る
でもそれが自然界の輪廻なのだよ
分かる?

641 :日本@名無史さん:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN .net
土に埋めるっていうか死地に赴くに当たって持たせるって感じなのでは。
山幸に関してだけど弥生の遺跡は小高いところにあることが多いし関係するところがあるのかもね。
あと弥生も初めの相当前から北部九州系?の遺物が出るところがある。檍とか。
こういう状況だから記紀が全くの作り話とは思えんのですよね。

642 :日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN .net
戦前の記紀信仰は宗教だと言うなら戦後の記紀インチキ視も宗教
どうしてこう両極端なんだと
そうしないと出世できない業界だからだろうなあ
誰かに師事して上に気に入られること言わないと難しいだろうし

643 :日本@名無史さん:2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN .net
天孫降臨や神武東征をまじめに信じると、藤原氏(中臣氏)やらまで九州出身になっちまう
南九州出身っぽいのは、東征の時に活躍する大伴氏と久米氏だけ

644 :日本@名無史さん:2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN .net
曽津毘古も曽の男という意味らしいな。

645 :日本@名無史さん:2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN .net
○津△ で ○の△ のような意味
方言で ‘俺のもの’ を ‘俺が「つ」’ と言うが

646 :日本@名無史さん:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN .net
どこの方言?

647 :日本@名無史さん:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN .net
このスレタイの地方の方言です。
「俺がつ」「誰がつ」は高年齢層で、中年以下は「俺んと」「誰んと」と言う。
「誰がつか?」「誰んとや?」方言でも違う言い方が並立している。
方言スレじゃないが。

648 :日本@名無史さん:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN .net
高年の人がもっとくだけて言うと「誰つ?」と言ったりもあるんだぜ

649 :日本@名無史さん:2013/08/06(火) NY:AN:NY.AN .net
田舎でも方言は失われてるよ。
地震の事を宮崎県全域でナエと言ってたんだけど今言われても何それ?でしょ。
誰んととかは方言でも博多の方言だしね。
若い人が必ずしも標準語化せずに新たな方言を生み出すことがあるのが少し違うところだね。

650 :日本@名無史さん:2013/08/06(火) NY:AN:NY.AN .net
もう方言スレにするかw
西日本の広い範囲できのこをナバと言う(言った)
ナは「地」か?
ナエはナの震
ナバはナの葉
ナハ(那覇)はナの覇
ナ国(奴国)はナの国
ワナ国(倭奴国)は倭地の国

651 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/06(火) NY:AN:NY.AN .net
卑弥呼や天孫族が活躍した頃の筑紫福岡の平民(支配される側)の墓の主流 甕棺墓 の分布も、
せいぜい福岡県域で弥生後期に一部長崎県や熊本県に広がった程度♪♪

やっぱ 古事記 の国産みや天孫降臨その他諸々の話は、
せいぜい福岡県域内での天孫族の筑紫支配を正当化した話という俺の説を象徴するような結果だね♪♪

卑弥呼伝々の話も当時の時代の最先端地域福岡(筑紫)内での戦国模様、
勢力争いを記したものだよ♪♪

つまり福岡県域(筑紫)での話を現代の歴史好きが、邪馬台国や天孫降臨は「おらが村!吾田(笑)」だって
畿内派や宮崎派が必死に根拠(大したものも出ないのに)もなく叫んでるだけだね♪♪

本物の筑紫の日向福岡にはいっぱいいっぱい重要な根拠となるものが果てしもなく出土してるのにね♪♪

須玖岡本遺跡の絹や璧等々、福岡には本物がいっぱいありすぎてほんと困るね♪♪

卑弥呼は須玖岡本、奴国の丘公園あたりかな〜♪♪
わかんないけど、福岡周辺(筑紫)周辺の出来事を大げさにみんな「我が田だ!吾が田だ!おらが村だ!」
だって言ってるのは確かだね♪♪

652 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/06(火) NY:AN:NY.AN .net
 元禄元年の記録にあって『熊野権現社須玖村枝村岡本に在り』、
 文久年間の記録にあって『熊野権現岡本に在り、岡本・野添・新村...』、
 寛政年間の記録にあって『百姓和作矛を鋳る型の石を掘り出す...』。

奴国の丘にある春日熊野神社、イザナギイザナミを祀ってるみたいだけど、
歴史的(考古学的??)に糸島がかなり怪しいんだよね♪♪

大陸から伝播した支石墓や筑紫(北部九州)独特の甕棺墓も糸島だし、
甕棺墓も最期までつかってたのも糸島だし、やっぱ天孫族は俺の推測どおり
糸島の北側の当時は海で隔たれていた 斯馬国(しまこく) にいたんだろうな♪♪

そこから古代より力のある伊都国(倭奴国)を落とし、
邪馬台国連合・倭国連合を「乗っ取り」、その中心地、福岡平野(筑紫)を支配した♪♪

その筑紫の支配を正当化したものが、天孫降臨やウミサチヤマサチやイザナギ
アマテラス等々の筑紫の国土や天孫族が生んだ筑紫の豪族との結婚や契約の話♪♪
筑紫(福岡県域)を平定してた神武が神武東征に至るまで等々♪♪

福岡(筑紫)の話をみんな(畿内派宮崎派)は「おらの村の話だべ」と
さけんでるのが今の現状でしょうな♪♪

653 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/06(火) NY:AN:NY.AN .net
甕棺墓は筑紫の100年後に朝鮮半島でも見られるようになるってことは、
魏志倭人伝にあるように筑紫(倭国)勢力が朝鮮半島にも力が及んでた、
そして筑紫(倭国)の朝鮮の領地を守るために、神功皇后の度重なる朝鮮出兵等々、
きちんと話もつながるしね♪♪

糸島平野の真ん中にある志登神社に残る、(ヤマサチを追ってトヨタマ姫が上陸したのが志登神社)
も今は平野だからおかしいと思うが、ウィキより

>弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、
 まだ北部は島として取り残されていた。
 志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。

↑こういった状況が今は平野だが今でも伝承が残るという
トヨタマ姫とヤマサチの話もかなり逆に現実性を帯びる形になってるしな♪♪

やっぱ筑紫の日向どころじゃなく邪馬台国や天孫族ってのは福岡周辺の話
だと考えるのが自然なんだよ♪♪
宮崎や畿内は違う文化を持つ文明があったってだけなんだよ♪♪

654 :日本@名無史さん:2013/08/06(火) NY:AN:NY.AN .net
甕棺墓はわずかにあるようだが神功皇后の話は全く欠片すら見当たらないな
記紀に従っても日向と関係ない時代だけど北部九州だから全く知らんで居られたものなんかね
イザナギイザナミとかは伝承のある神社や禊池もあるんだけれども

655 :日本@名無史さん:2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN .net
神功皇后の度重なる朝鮮出兵??www

656 :日本@名無史さん:2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN .net
>>652
天孫族なんて日本書紀作った時に考案されたファンタジーだから

657 :日本@名無史さん:2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN .net
当時の地元の人から違うと反発される斉明天皇にするわけにもいかず
‘神功皇后’にしたとして、仲哀天皇は何なんだって話が。
男王と壹與だと言われるんだろうけど。
神功皇后は北部九州に集中的に残ってる伝承で宮崎にはたぶん無いよね。

658 :日本@名無史さん:2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN .net
神武東征と三韓征伐は時代が違うし

659 :日本@名無史さん:2013/08/08(木) NY:AN:NY.AN .net
記紀では、時代というか場所が違う

660 :日本@名無史さん:2013/08/08(木) NY:AN:NY.AN .net
>神功皇后は北部九州に集中的に残ってる伝承で宮崎にはたぶん無いよね。
北部九州の連中が記紀をみていろいろ伝承をつくったんだよ。

661 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN .net
>>660
うん
多分修験者連中なんだろうけど、宮崎にはナギナミからニニギ、サノまでの遺跡?が全てある
まるで観光スポットだ

高千穂の銅矛刺したのも修験者らしいが

662 :日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN .net
神宮皇后の元になる人物が北部九州にいたと思う。
関係ない橿原と檍原だが、
檍(アワキ)とは黐木(モチノキ)や橿木(カシ)の総称の意がある。
モチノキはモチノキの意の他にタブノキの別称でもある。
橿は橿で、カシの他にモチノキとも読む。いずれも照葉樹。
ごっちゃにしていたのか何なのかとにかく橿原と檍原はイコールに近い。
古事記の阿波岐は意味なく読みを当てただけか?
阿波岐原だったら橿原とは関係は無くなる。

663 :日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN .net
檍の古墳が作られたころにやって来た人がいて(イザナギ)、
その人は帰ったけど子を残してて、四代くらい後に畿内方面に行った。
檍1号墳は3世紀末から4世紀初めの築らしいから、それは4世紀後半くらい。
…という想像。
しかも檍のはホケノ山と類似するところがあるという。

664 :日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN .net
四世紀が全盛。
前方後円墳は地域色が濃く、平野部各地で代を継いで築かれ組織立てされている。
五世紀以後は全国規格のつまらないもの。

665 :日本@名無史さん:2013/08/12(月) NY:AN:NY.AN .net
宮崎には櫛が副葬されている古墳があります。
櫛=別れ の考えは相当古い時に元があって、
黄泉国の化け物から逃げる時に櫛を投げつけた、
これは記紀編纂の遥か前に根拠がありました。
5世紀以後の古墳はたしかに全国規格と言うか、
畿内規格と言うか、変哲も無く見た目につまらん
ものですが、代わりに地域色を出しているものが
あります。

666 :日本@名無史さん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN .net
メサホとか作ってて面白くなかっただろうなとは思う
規格が出来上がってて創造性ゼロ
大仙陵を眺めてれば済む
それに比べて鬼の窟とか作る側のモチベは高そう
見ても面白い

667 :日本@名無史さん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN .net
>>665
規格統一はある意味日本の完成と見ていいんでは?
すごいことだよ

あと、櫛も含めて日用品は副葬するんでは?
これは生身の人間のままあの世に行くという発想で、どちらかというと道教の神仙思想に近いのかも
弥生から古墳時代は墓の世紀だが、はっきりした【あの世】観は不明だ
そこも詳しく知りたいね

668 :日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN .net
完成とまではいかなくとも日本の元は出来ていたのでしょうね。
倭王武(5世紀末)の祖先は自ら東征毛人、西服衆夷、渡平海北、
とやってきたという上表文に大きな嘘偽りは無いように思います。
5世紀前半、倭の五王では讃の時代に4世紀に築かれてきた古墳
とは様相を変える男狭穂塚と女狭穂塚が築かれたようです。
西服衆夷は5世紀前半に行われたのでしょうか?

669 :日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN .net
魏志倭人伝が描く邪馬台国のような高度な政治的状況があったくらいだから、
征服と平和裏の併合はさかんに行われただろうね
オレ自身はむしろ後者の場合が多かったように思う
武力制圧をした地域に前方後円墳を強いるにしてはそれは広範囲に過ぎる
主力が水軍だったにしろ、あまりに広い

しかし、成果を中国に対して誇るには【武力】を理由にするしかないわけだ

余談だが"渡りて海北の95国を平らぐ"と、半島の征服地が最多なのは面白いね

670 :日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN .net
『三國志』によると弁辰韓は二十四国、馬韓は五十五国
『百濟本記』によると任那は十国
『駕洛國記』によると伽耶は六国
合わせて九十五国

倭王武が宋国から認められた朝鮮半島の領地としては、帳尻があってるんじゃないかと

671 :日本@名無史さん:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN .net
>>670
すごい!( ・∇・)

672 :日本@名無史さん:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN .net
ジャストすな。
計95国と知っていたんだろうから、書物を見せてもらったり聞いたり結構行われていたんだな。

673 :日本@名無史さん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
この時代、大和朝廷が朝鮮半島でパワーゲームをしてたのは違いないだろう

674 :日本@名無史さん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
当時すべての史書を知ってたはずはないので雄略の捏造ではないだろう
面白いもんだね。これが検証というものか

675 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
>>674
その宋史に外国伝日本国に神武東征以前は
「およそ二十三世、筑紫の日向宮に都があった」と記述があるのに
都合のいいところだけ認め、
宮崎や畿内が危うくなる部分だけは認めない 筑紫の日向宮崎派 畿内派 であった♪♪

まあ国内の遺跡の分布や埋蔵品、古事記等々、また外国に残る全て記述、物証を冷静に判断したら
筑紫の日向は普通に福岡だという事は誰もが納得できる結果だね♪♪

都合の良いとこだけは認め都合が悪いとこは徹底的に目を背ける
二枚舌筑紫の日向宮崎派、邪馬台国畿内派ってとこだね♪♪

ちなみに宮崎の高千穂には天孫族が23世過ごした形跡などはない♪♪
しかも出てくるものも本物の筑紫の日向福岡とくらべるとしょぼすぎてお話にならないレベル♪♪

福岡の場合は否定できるものがないのが現状だからね♪♪

676 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
 
 初めの主は天御中主と号する。
 ぎは天村雲尊といい、その後は、みな尊をもって号とする。
 つぎは天八重雲尊……およそ23世、みな筑紫の日向宮に都した。
 彦瀲(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)の第4子を神武天皇と号し、筑紫の宮から入って大和州の橿原の宮に居住した。

宮崎に比定するのでは絶対無理な話だね♪♪
やっぱ様々な時代の貴重な遺跡が沢山残る本物の筑紫の日向 福岡 での話だろうね♪♪
大体、基本的に 筑紫 は 福岡周辺 のことだからね♪♪

いまだに、 日向 ←この 文字 の部分だけをとって 宮崎 と言い張ってる事が笑えるね♪♪
まさに世紀の勘違いだね♪♪

677 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
>彦瀲(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)の第4子を神武天皇と号し、
 筑紫の宮から入って大和州の橿原の宮に居住した。

まあ宋書に残るこの記述からも、
神武天皇は筑紫(本家福岡)の分家として大和で分家の王として即位した♪♪
そして後の白村江の後、分家の 大和 が 本家 筑紫福岡 から実権を奪い
本家筑紫福岡の歴史(天孫降臨から国譲りやアマテラス、ウミサチヤマサチ、宗像住吉志賀海等々)を引き継ぎ
日本書記を完成させたと考えるのが自然だね♪♪
大和が筑紫と関係ないのなら、筑紫(福岡)の歴史を伝承させることなく
全く新しい話を作ればいいだけの事♪♪

筑紫の日向宮崎派はその伝承に 世紀の勘違い を受け継いだまま、
「天孫降臨等はおらが町だ」っていまだに叫んでるってのが現状だな♪♪

678 :日本@名無史さん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
>>675
宋書と宋史間違えてないか…(´д`|||)

宋史の記述は、日宋使の坊さんが献上した古事記のダイジェスト版からの引用

679 :日本@名無史さん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
ド素人らしいからしょーがないのか?(´д`|||)\( ´∀`)

680 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
>>678
あれれ??
都合の悪いことだけダイジェスト版とか言って目を背けてる
二枚舌さんですか??(笑)♪♪

で、旧唐書の
「倭国とはいにしえの倭奴国(伊都国)の事である。
 国王の姓は・・・  ・・・総て32代、いずれも尊と呼ばれ
 筑紫城に住んでいた。ひこなぎさの子神武がたちあらためて
 天皇と呼ばれるようになり都を大和州に・・・」

これもダイジェストっていうの??(笑)♪♪
旧唐書はもしかして古事記より古いかもね♪♪
外国にもきちんと様々な記述が残ってんだから♪♪
二枚舌の筑紫の日向宮崎派はあんまり必死に抵抗しなさんなって♪♪

だせば次々と冷静に考えれば本物の筑紫の日向は福岡だって思う
外国を含めての記述や物証も次々福岡の地中に埋まってんだから♪♪

681 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
>倭国とはいにしえの倭奴国(伊都国)の事である。

あの、宮崎の高千穂のてっぺんから発見された
「漢倭奴国王」の金印の倭奴国ですか!!!

筑紫の日向宮崎派は日々こんな妄想をしてるんだろうね♪♪♪

682 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
まあどちらにしろ

ダ イ ジ ェ ス ト 版 (笑) 

にしても筑紫の日向は宮崎でないことは確かですな♪♪

悪あがきしすぎですよ 二枚舌 の筑紫の日向宮崎派さん♪♪

683 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
まあせいぜい、福岡県域の筑紫の話を、
宮崎だとか畿内だとか話を膨らませて
自己満足の妄想をしてるのが筑紫の日向宮崎派でしょうな♪♪

684 :日本@名無史さん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
>>675
福岡の日向峠に都があったのかwww
しかも宮まであったとな
知らなかったなあ

で、その遺跡はどこ?

685 :日本@名無史さん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
>>682-683
で、遺跡はどこ?

686 :日本@名無史さん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN .net
吉武遺跡群だろね。

687 :日本@名無史さん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN .net
>>680
いや、宋書と宋史、間違えてるっしょキミ
倭王武(=雄略)が95国を平らげたっていう上表文は宋書で宋史じゃないよ
そこは認めて謝れば?

688 :日本@名無史さん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN .net
>>682
宋史、読んだら?
日宋使がきたのは太宗のとき
そのダイジェスト版古事記(日本書紀かもな)を読んで『日本のような劣る国でも代々伝姓しているのに何故我が国は…』と嘆いたという

素人ならなおのこと勉強しなきゃね

689 :日本@名無史さん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN .net
まあまあいいじゃないですか。
言いたいこと言ってそれは違うと罵倒しながらw訂正すればいいんや。
古事記を読んでると日向は筑紫のことかなと思う部分もあるでしょ。
鏡がアホみたいに出る北部九州と違って古墳時代の画文帯くらいの時にならないと一般的ではないし。
鉄器にしろ先駆けているし水田跡も多いし。思うところはじゅうぶん分かるよね。
>>670>>674の!?みたいな時は面白いな。

690 :日本@名無史さん:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN .net
大昔は奈良にある高天神社が高天原って思われてたくらいだから、邪馬台国どころか天孫降臨も国生みの地も宮崎じゃないだろうな
出土品見れば北九州が一番有力だよ

691 :日本@名無史さん:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN .net
>>690
邪馬台国は中国の権威頼みで日本列島内で幅を利かせてた感じ
旧倭国の伊都国を従わせてるのは面白い
中国頼みという点で同じ性質の国だったのでは?

だけど北九州だと、前方後円墳の成立が遅いね
畿内王朝の倭国とは別物か

692 :日本@名無史さん:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN .net
卑弥子の墓は円墳だと思うが

693 :日本@名無史さん:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN .net
いん、だから邪馬台国は九州説を採る

694 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
狗奴国の都ではないか。

695 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
江戸時代までの日本の支配階級文化といえば、お歯黒だけど、
南北九州には、お歯黒の人骨はでてるの?

696 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
黒歯国ってのは魏志倭人伝に出てくるよな
森浩一もそれについて何か書いてたが…忘れた

697 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
>>695
その支配階級が何時から始まったかの考察が無い
邪馬台国にその風習が無ければ
違うという事になるな

698 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
やっぱ宮崎も畿内も天孫降臨や邪馬台国に関係なく
国産みや天孫降臨や神武東征その他は 筑紫 すなわち
現在の福岡県域程度の話だという事がよくわかるな♪♪

古事記の伝えより古い可能性がある旧唐書、
「倭国とはいにしえの倭奴国(伊都国)の事である。
 国王の姓は・・・  ・・・総て32代、いずれも尊と呼ばれ
 筑紫城に住んでいた。ひこなぎさの子神武がたちあらためて
 天皇と呼ばれるようになり都を大和州に・・・」

もそうだが、 432年成立の後漢書には、

「57年倭奴国が朝貢してきた。使者は自らを大夫と称している。
 倭奴国は倭国の極南界である。・・・」

これと、倭人伝を合わせても倭国は朝鮮半島南部から九州北部(中心地は代々博多湾岸か伊都国)、
の国だと一貫して伝えてるのがわかる♪♪
邪馬台国(卑弥呼が直接治める範囲)は俺が以前示したように、
糸島半島の北側の島、天孫族の故郷 斯馬国から福岡平野の奴国まで、
つまり、邪馬台国の中心地は福岡平野にあった♪♪
後に、糸島半島の南側、伊都国を落として高祖山連峰に降臨した天孫族が倭奴国(伊都国)を足掛かりに
倭国連合邪馬台国連合をのっとり、福岡平野(邪馬台国連合・倭国連合の中心地)を支配する♪♪

甕棺墓の分布にしても同じ♪♪
つまり筑紫福岡の話を君ら筑紫の日向宮崎派や邪馬台国畿内派は「おらが町の話だ!」と
勝手に話を膨らませて盛り上がってるだけってこった♪♪

また面白いことに、あの博多湾を攻めた世界最大の帝国 元 は、自分たちは 倭奴 を攻めたと思ってるみたいだな♪♪

699 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
まあ、天孫族の筑紫福岡の支配を正当化したものが天孫降臨や国産みや
その他の話諸々だな♪♪
その根拠はめんどくさいから何度も書かんがな♪♪

しかし 元 が博多に攻めてきた時の逸話がまた面白い♪♪

 倭奴 は海の東に極小の国土しか持たないのに独り 元 に服属せず・・・
 唐 が 百済 を攻めた時 百済 は 倭奴 の兵を借りたが白村江で敗れた。
 倭奴 は物欲しそうにうろうろしながらも撤退した。
 今の 倭奴 は昔の(敗戦したような) 倭奴 ではない・・・

こういった記述にしても、
倭奴国や邪馬台国、倭国の中心地が代々福岡周辺(博多湾周辺)にあったことを
外国が理解しているという証拠だね♪♪

もう筑紫の日向宮崎派も邪馬台国畿内派もあきらめて
本物の筑紫の日向福岡にひざまづきなさい(笑)♪♪ 

まあ「君が代」も博多湾岸という話もあるし、
幕末の志士、特に薩摩藩(君が代を国歌に選定した)はそこらへんの
事情をつかんでたのかもな♪♪
明治天皇も九州王朝の末裔とすり替えられたという話もあるし、
九州王朝や邪馬台国を後世に残さない為、
明治期に全ての寺社から貴重な書物が焼き払われた事実は悲しいね♪♪

700 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
>>697
お歯黒は古墳時代の人骨や埴輪にみられる、という記述はみかけるけど、
実際どこの古墳で見つかったのか、どんなに博識な人も知らない

701 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
古事記
「次に『筑紫島(九州)』をお生みになりました。」

筑紫の島には四つの国が有る
・筑紫の国
・豊の国
・肥の国
・熊襲の国

702 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
筑紫 白日別
豊 豊日別
熊襲 建日別
火 建日向日豊久士比泥別

703 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
肥国の火、肥、日は、漢字がない時代には音しかわからんからな。
日国なら、日本国に通じる。

704 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
俺もそう思う。
日 が正しい。

705 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
筑紫国 福岡
豊国  大分
肥国  佐賀・熊本

これは異論は無いだろう
すると熊襲は残りになる

熊襲   宮崎・鹿児島

つまり神武天皇は熊襲の出身だった!

706 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
神武が記紀通りに日向の出身だとすると、
日向の一豪族だった神武が、

熊襲に追い出された、
神武自身が熊襲の豪族だった

可能性がある。

707 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
>>698
ああ、それね
魏志倭人伝には奴国が二つ出てくる
博多の奴国と狗奴国の一歩手前の奴国
この奴国は『女王(卑弥呼)の境界の尽きるところ』と魏志倭人伝(3世紀)にある
それを後漢書(5世紀)の作者が混同したんだよ
よく間違う人多いんだよ
キミは宋書の件といい、東洋史の知識に欠けるね
倭国の成長は東アジアの動乱の中の一事件として考察した方が理解が早いし現実的だ
スレの主旨とは離れるかも知れんがね

708 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
>>699
君が言ってるのは古田武彦の説だろ?
あまりキワモノと関わらない方が身のためだよ

709 :日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
>>704
ヒは霊(ヒ)の可能性もあるが、ここでは炎の意味だろうね
ちなみに、ヒ・チ・ニ・カ・ケは霊力を表す言葉で、神霊などの核となる言葉らしい

710 :日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
焔(ほむら)、炎(ほのお)のように火のことをもともと「ほ(ぽ)」と呼んでいたと考えられる

711 :日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
納得。
面白いね。

712 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
>>707
お前らほんとおれより知識ないなw♪♪

>東南のかた奴國に至ること百里。
 
 最初のこの奴国は伊都国から東南に百里で奴国に到達するという説明♪♪

>次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。〜次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

 これは伊都国の次の国から順番に卑弥呼が直接治める国を紹介したもの♪♪
 つまり一周してきて最後に奴国に戻ってるという事だよ♪♪

 要するに邪馬台国もせいぜい福岡県域だったという事だ♪♪
 そして邪馬台国倭国連合の中心地もやはり福岡平野一帯だったって事だよ♪♪

全てが、外国の記述、出土品、古墳の分布、甕棺墓、古事記等々すべてが揃う本物の筑紫の日向福岡に
ただ君の必死な根性論(笑)

>>707
>この奴国は『女王(卑弥呼)の境界の尽きるところ』と魏志倭人伝(3世紀)にある
 それを後漢書(5世紀)の作者が混同したんだよ 

混同したんだよ←(笑)

で対抗してくるなってのw

713 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
だいたい君たち>>707は 日向 ←だけで何にもでてないし、諸外国の記述にも不都合だし、
宮崎とか不可能なくせに君たちのただの根性論で勝手に妄想ふくらませんな(笑)♪♪

本物の筑紫の日向福岡のように否定できる材料がないどころか、
次々に>>699のように外国にも、やっぱ筑紫の日向は福岡なんだなって
倭国や倭奴国や邪馬台国の中心地が一貫して福岡周辺にあったんだなってものを
出してから反論してこい♪♪
君たちの何にもないくせにただ根性論だけで宮崎に否定するような低能な議論はやめてくれ♪♪

まず、君たちはこのスレの>>400から読み直して、勉強してきなさい♪♪
そしてまともな反論してきなさい♪♪
宮崎などが本物の筑紫の日向福岡に勝てる議論などはないがな(笑)♪♪

714 :ド素人の俺が見ても筑紫の日向はどう考えても福岡でしょ♪:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
天孫降臨の際 戦闘 があったことも
君たちが大好きな日本書紀には示唆してるみたいだな♪♪

まあ俺が唱えた天孫降臨は天孫族の故郷 斯馬国 から 
邪馬台国の一大卒でもある 伊都国 を天孫族が落としたという説とも
合致するな♪♪

いや〜 本物の筑紫の日向福岡はほんとロマンが詰まってて面白いね♪♪
まあ>>400から読み直すとほんと面白いね♪♪

715 :日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
読まねえよwwww

716 :日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
>>712
>一周して戻る

キミの妄想

717 :日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
日本書紀に

(孝徳白雉五年)夏四月に、吐火羅国(とくわらのくに)の男二人・女二人、舎衛(しやゑ)の女一人、風に被ひて日向(ひむか)に流れ来たれり。
(斉明)三年の秋七月の丁亥の朔己丑に、覩貨邏国(とくわらのくに)の男二人、女四人、筑紫に漂ひ泊れり。
言さく、「臣等、初め海見嶋に漂ひ泊れり」とまうす。乃ち駅を以て召す。
辛丑に、須弥山の像を飛鳥寺の西に作る。且、盂蘭盆会設く。暮に覩貨邏人に饗たまふ。或本に云はく堕羅人(たらのひと)といふ。
(斉明五年三月)丁亥に、吐火羅人、妻舎衛婦人(めしやゑのめのこ)と共に来けり。
(斉明六年)秋七月の庚子の朔乙卯に、高麗の使人乙相賀取文等、罷り帰りぬ。
又、覩貨邏人乾豆波斯達阿(とくわらのひとげんずはしだちあ)、本土に帰らむと欲ひて、送使を求ぎ請して曰さく、
「願はくは後に大国(やまと)に朝らむ。所以に、妻を留めて表とす」とまうす。乃ち数十人と、西海之路に入りぬ。
(天武)四年の春正月の丙午の朔に、大学寮の諸の学生・陰陽寮・外薬寮及び舎衛の女・堕羅の女・百済王善光・新羅の仕丁等、薬及び珍異しき等物を捧げて進る。

とトハラの貴人が日向に漂着した記事があるんだが、
これが天孫降臨の地が日向になったことに影響してるんかな?

718 :日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
海見嶋って奄美

719 :日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
>>718
するどい

720 :日本@名無史さん:2013/09/04(水) 13:02:57.38 .net
チンポ

721 :日本@名無史さん:2013/09/04(水) 21:14:48.21 .net
西宮原は邪馬台国ではなく、狗奴国の一部じゃないか。
ただ、東遷して大和朝廷になったと思う。

722 :日本@名無史さん:2013/09/06(金) 17:28:39.36 .net
それが一番妥当な考えだろう。

723 :日本@名無史さん:2013/09/06(金) 23:32:40.45 .net
このスレ消えてるのになんで書き込めるんだろう

724 :日本@名無史さん:2013/09/09(月) 23:46:51.03 .net
西都の古墳と太宰府天満宮と宇佐神宮を
グーグルアースで見て点と線で結ぶと
直角三角形になる、そして卑弥呼の銅鏡は鏡ではない
周りの線は360本で真ん中の丸い突起物はよく見ると
地球儀でリアルに書いてある、UFOに乗るためのハードディスク
考古学者たちもタブーで口を閉ざしている
研究者hayasi hiroshiのyoutubeで
327 328 卑弥呼はエイリアンだった
を見てください

725 :日本@名無史さん:2013/09/19(木) 00:34:10.72 .net
i@o@i

726 :日本@名無史さん:2013/09/29(日) 11:56:46.21 .net
卑弥呼がエアリアンだなんてありえん。

727 :日本@名無史さん:2013/10/01(火) 02:28:37.08 .net
はやし浩司のブログ見たけどすごいね
考古学者たちの学説がひっくりかえるかも。

728 :日本@名無史さん:2013/10/02(水) 13:00:01.93 .net
国生み〜天孫降臨は福岡
何故なら「日向の」ではなく「筑紫の」だから
日本書紀は「国名小地名」で場所を表してるよ
神武天皇のスタート地点も北部九州だろう
宮崎−大和の考古学的な繋がりが薄い

729 :日本@名無史さん:2013/10/02(水) 23:50:53.79 .net
国生さゆりの出身地、鹿児島県鹿屋(かのやし)市、ここが国生みにふさわしい場所。
朝鮮半島南端の加耶地方と地理的にも似かよっており、ニニギが上陸したのも北九州勢力の妨害を避けてこの地だった。
同じ発音だったのを漢字を充てて、後の時代に読み替えたのだろう。

730 :日本@名無史さん:2013/10/02(水) 23:51:54.06 .net
国生さゆりの出身地、鹿児島県鹿屋(かのやし)市、ここが国生みにふさわしい場所。
朝鮮半島南端の加耶地方と地理的にも似かよっており、ニニギが上陸したのも北九州勢力の妨害を避けてこの地だった。
同じ発音だったのを漢字を充てて、後の時代に読み替えたのだろう。

731 :日本@名無史さん:2013/10/02(水) 23:54:20.69 .net
大事なことでもないのに2度、送信されてしまった。

732 :日本@名無史さん:2013/10/03(木) 00:05:53.77 .net
>>728
宮崎-大和の考古学的繋がりは極めて濃い。
これだけ離れたところなのに間をほとんど飛ばして共通した武器や装飾品が集中的に出る。

733 :日本@名無史さん:2013/10/03(木) 05:48:36.66 .net
西都原は投馬(tuma)国だよ。
妻ね。
筑紫平野の邪馬台国の親戚だろう。

734 :日本@名無史さん:2013/10/03(木) 08:29:19.28 .net
>>730
隼人はカヤのつく名前が多い
鹿屋が由来というか名残かも知れんね

735 :日本@名無史さん:2013/10/04(金) 06:49:22.75 .net
>>734
カヤは出雲系でなけりゃ伽耶じゃないのか?

カヤナルミ:『延喜式』「祝詞式」にある『出雲国造神賀詞』では賀夜奈流美、飛鳥坐神社・加夜奈留美命神社では加夜奈留美とされている女神

736 :日本@名無史さん:2013/10/04(金) 10:06:53.46 .net
>>735
そっちは頭の方だね
隼人の場合、アツカヤ、サカヤ、イフチカヤその他

737 :日本@名無史さん:2013/10/04(金) 11:12:49.26 .net
>>736
頭の方なんだけどカヤって言ったら、隼人を降した山幸彦の息子であり、神武の父ちゃんでもあるのが
ウガヤ葺不合命だぁね

738 :日本@名無史さん:2013/10/04(金) 23:45:16.11 .net
>>737
そういや付いてるけど、この場合『鵜毛の萱吹き』の意味だぁね
当て字かも知らんけど

739 :日本@名無史さん:2013/10/05(土) 09:10:16.66 .net
>>738
カヤ数ケ人ってのに反応し過ぎてゴメンネw

鵜茅の父ちゃんの山幸は塩土翁って海神の協力を得て隼人を降したし、嫁さんと息子の嫁は海神の娘な姉妹だよね?
それとは別に、大国主命は根堅州国の素戔嗚尊の娘を嫁にしたよね?

>>735の出雲のカヤナルミを見ると、カヤ(伽耶)+ナル(ナラ=国)+ミ(イザナミのミと同じく女の意)なら、カヤナルミ→伽耶国の女って意味かな?…と
すると大国主命が行った根の国は死者の国でなく(死人を嫁にするわきゃないわな)、根(ネ)の方(カタ)ス(住か?)国→北方の居住地で
死者の国である根の国とは別物(コッチは多分、根来とか「死人に会いたければ熊野に行け」って話もある紀州の方)かなと思うわけよ

で、なんで伽耶が気になってるかと言うと…次レスに書くわ

740 :日本@名無史さん:2013/10/05(土) 09:41:14.47 .net
>>739の続き
カヤていうか伽耶国を意識してんのは、そこが半島南部から鉄その物なり鉄鉱石を日本に持ち込む為の要地だっていうだけで、それ以上でも以下でもない。
まぁ山幸の塩土翁は、大国主命の素戔嗚尊かなって感じ。もしくは鉄さえ入手出来れば、山幸の塩土翁は、カヤナルミを入れた出雲の女でも良いわけで

で、ヒミコってのはヒムカで日向国だと思ってるし、それが南の狗奴国(海幸=狗のマネしたり、犬のように仕える隼人の国)に攻められたんだから
日向の勢力が後退する先は、北の豊国(トヨ)か東の伊予(イヨ)なら、ヒミコの後がトヨでもイヨでも成り立つんだが
豊玉姫が山幸の嫁だし、伊勢神宮に豊受が祀られてんだから後退した先は「日向国の御伊勢さん()大御神社」のちょい北でもある豊国だろうね

741 :日本@名無史さん:2013/10/05(土) 09:49:59.49 .net
仕事前なんで連投スマン
>>740の続き
でまぁ文字通り鉄を握って故地の日向国を取り戻し、隼人を降してから
崇神までかけて東征したんだろうけど、この流れが日本の古名じゃないかと思うわけよ

「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』)
だから、豊国+葦原国の後に安芸・長門・伊予・(元は安芸の勢力内だった水穂国(=赤穂の穂)で、たぶん畿内に至ったまでの順な国名なんじゃないかな?

742 :日本@名無史さん:2013/10/07(月) 08:12:41.56 .net
>日向国を取り戻し、隼人を降して
そんなことを考えているからだめなんだよ。古墳には隼人の盾の痕跡がある。
隼人を1番頼りにしていたと考えないとな。

743 :日本@名無史さん:2013/10/07(月) 19:13:59.17 .net
福岡県の沖ノ島は年間200名の男性しか入れない
卑弥呼との関係が怪しすぎる。

744 :日本@名無史さん:2013/10/08(火) 20:00:53.55 .net
>>742
なんで駄目なのか分からないが、天照大神が忍穂耳に天降れ言って息子の邇邇芸命が日向国に出張って
邇邇芸命の息子の山幸が隼人を降ろして従えてから、山幸の息子の神武が東にも従えるべき土地があるって東征するんだろ?
東征時点で隼人を従えてても問題ないし、カヤナルミをググると関連で神武の嫁にも行き着く不思議もあるわけでw

745 :日本@名無史さん:2013/10/08(火) 20:42:31.21 .net
あと隼人って骨格からして違ったらしいね、あと言語も。
朝鮮半島に日本が進出してたのも、朝鮮半島の国から日本が大国と見做されていたのも、朝鮮半島の良質な鉄を日本が求めていたのも分かってる

それを踏まえて、神話的な部分(少なくとも記紀編纂時に皇室は九州から来てたと認知)とかをも踏まえた上で整合性を持って纏めればこうなろ?

ただ、神武が一代で畿内まで行ったのは嘘だろうし、その間に勢力図が変わった九州を再度支配に行った(景行とかの頃)のも事実だろうね
隼人は隼人舞いとかさせる扱いでしょ、まぁ隼人も数種類いたみたいだけども

746 :日本@名無史さん:2013/11/10(日) 15:44:42.99 .net
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。

http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg
綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」

綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg
http://assets.flips.jp/images/users/keyanootoyuransen/contents/4c8f18d5a28af.jpg?_=1284446421

卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍

そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。

日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。

747 :日本@名無史さん:2013/11/24(日) 09:40:32.86 .net
>>728
具体的にはどんなもの?

748 :日本@名無史さん:2013/11/26(火) 03:17:11.34 .net
宮崎が神の国なんていうのは後世の学者がでっち上げたもので、
地名なども後から都合のいいように付けたものだと
聞いたことあるが、いつ、どこで聞いたのか忘れてしまった。
だれか知りませんか。

749 :日本@名無史さん:2013/11/28(木) 21:24:15.03 .net
そんなことは聞いたことがない

750 :日本@名無史さん:2013/11/28(木) 21:39:07.81 .net
宮崎こそ、神武天皇東征出発の地。
日本のふるさとだろう?

宮崎の北斗十字星は世界遺産。

751 :日本@名無史さん:2013/11/28(木) 21:55:43.90 .net
>>748
梅原猛の【日向神話をゆく】って本で半分否定して半分肯定してたな

752 :日本@名無史さん:2013/11/28(木) 22:13:29.15 .net
京都郡みやこ町に上高屋小学校というのがある
その下流が高屋で高屋宮があったんだろう
そこが神武が育った地

じゃぁ佐土原は・・・
熊襲の本拠地だろうね

本居宣長の勘違いが未だに尾を引きずってる

753 :日本@名無史さん:2013/11/28(木) 23:00:45.25 .net
『日向風土記』の逸文を読んでみよう。

ニニギノミコトは天の八重雲を押し分けて日向の二上の峯に天降ってきたが、ときに天は真っ暗で昼も夜も分からなかった。
天つ神が困っていると、忠告する土蜘蛛があった。名をオオクワ、コクワという。
この土着の民が、稲の霊力によってこの闇は晴れるというので、千穂の稲を籾として投げたところ、
天は晴れ、日月も輝いた、という記述である。
「風土記」は和銅六年(七一三)の詔に応じてできたものである。
とすれば奈良時代において、ニニギノミコトが降臨されたのは臼杵郡内の智鋪の里、
すなわち今の宮崎県西臼杵郡高千穂町であると考えられていたことはまず間違いない。

(梅原猛著、天皇家の"ふるさと“、日向をゆく・新潮社刊)

754 :日本@名無史さん:2013/11/28(木) 23:02:15.47 .net
本居宣長以前に大馬鹿がいたってわけね

755 :日本@名無史さん:2013/11/28(木) 23:16:41.69 .net
歴史の捏造すると必ず矛盾が生じてバレるんだよな

756 :日本@名無史さん:2013/11/29(金) 00:18:13.74 .net
親王らの撰の日本書紀より稗田阿礼の古事記に信を置くってのはおかしな話よなあ
古事記には偽書の疑いすらあるだろ

757 :日本@名無史さん:2013/11/29(金) 00:49:34.43 .net
古事記は天武天皇の勅語に基づいているそうだが。

758 :日本@名無史さん:2013/11/29(金) 01:41:13.80 .net
>>753
後の方で、イザナギのあわぎ原やらウガヤフキの遺跡やら天岩戸まで揃ってるのは不自然だと書いてたな
オレもそう思うわ

759 :日本@名無史さん:2013/11/29(金) 10:12:44.91 .net
京に都が移れば、年月の経過とともに良きも悪しきも集積する
江戸に移っても、東京になってもしかり。

高千穂もそもそもの始まりはいたって質素、しかし何かしら魅力ある人たち・モノどもであったのであろう
歳月を経て、成らば我もとあれやこれやが押しかけ、それば数百年も続けば不自然の塊になる
それが今の姿ではないのか

760 :日本@名無史さん:2013/11/29(金) 20:28:13.54 .net
西都原に前方後円墳が導入されて、同時に絵画土器が入ってきてる
この事実をどう説明するのかな?w

761 :日本@名無史さん:2013/11/29(金) 21:06:41.86 .net
俺は出家して今、仏教をやっている
日本中の僧侶が一度は宮崎に行きたいと言っている
その割に京都人みたいなプライドないんだよな宮崎は

762 :日本@名無史さん:2013/11/29(金) 21:15:22.87 .net
出家してるなら2chなんかやるな
世俗から離れろ

763 :日本@名無史さん:2013/11/29(金) 21:31:47.59 .net
ほとんど人の気配のない西都原台地に鎮まる大中小の古墳群は、浄土もかくやと想わせられる世俗を離れた風景だ
無の心で古墳づくりに精出した古代人の息使いをも感じられる気がする

高千穂の方はいまなお幾多の神仏が人々の日常生活の中にある
こちらも不思議な空間だなあ

764 :日本@名無史さん:2013/11/30(土) 06:50:17.20 .net
2ちゃんねるはネット浄土
神々の集う出雲のようなところ

765 :日本@名無史さん:2013/11/30(土) 10:01:47.70 .net
早朝からいいことをいうではないか
たしかに古墳は地上の浄土だったんだろもんな、箸墓しかり、男・女狭穂塚しかり

766 :日本@名無史さん:2013/11/30(土) 11:37:18.55 .net
マイナーだが、前方後円墳は道教の神山(壺形)を模したという説もあるもんな

767 :日本@名無史さん:2013/11/30(土) 11:50:39.59 .net
古墳は考古学の対象であると同時に、当然ながら宗教学の対象でもあるべきではないか
まだ仏教が渡来していない時代だったから、
ある種の道教の影響は大いに考えられるところ。

768 :日本@名無史さん:2013/11/30(土) 17:41:15.75 .net
http://www.youtube.com/watch?v=wuDOebvhhe0
>南端の北に南端はある

769 :本田:2013/11/30(土) 18:38:15.14 .net
×親王らの撰の日本書紀
○親王らの撰の日本紀


>古事記には偽書の疑いすらあるだろ
日本書紀は偽書。
作者も成立年代も不明。

770 :日本@名無史さん:2013/11/30(土) 18:49:11.58 .net
>>769
作者というものをどういう概念で捉えてるか知らんが、監修は舎人親王だろ
親王だよ。皇族。
おまけに720年以降の史料に度々現れる
平安時代には貴族相手の日本書紀の講義が数回行われていて、漢字の訓などの変更があった
この講義の講師が太安万侶の子孫の多人長オオノヒトナガで、こいつが突如『古事記』なるものを世に出してくる
偽書は古事記の方だろう

771 :日本@名無史さん:2013/11/30(土) 19:00:43.88 .net
>>751>>753
十数年前なら確かに不自然な感じはしていたが現在はまた違う。
今、檍地区と言われているところに何も無いわけではなくて、
日向では珍しい甕棺が見つかったりはしていたのですが、それ以降
ある古墳がホケノ山との類似性を指摘される古い時代のものであることが分かったり、
5世紀以後だが馬具を取り外し或いは装着したままの馬が埋葬された遺構が多数見つかったり、
それらが判明したのはほとんど2001年以降で、それも道路幅程度の限られた範囲だけで、なんですよ。
2001年以降で住居だけで千数百軒は見つかっているんではないでしょうか。
それより前の20世紀中の認識や著書は当然それらが無い前提だから。

772 :日本@名無史さん:2013/11/30(土) 20:58:59.02 .net
>>770
日本書紀では古事記にも稗田阿礼にも一切触れられていない
出雲国風土記(733)の内容が日本書紀(720)には含まれず古事記(712?)には含まれる
各所で引用される古事記は内容が所謂「古事記」と異なり、つまりは普通名詞 であり固有名詞ではない
上代特殊仮名遣を知り得れば執筆可能という単純な反論に抗しえない
…偽書と決めつけることはできないが、疑わしいところはたくさんあるな

773 :日本@名無史さん:2013/11/30(土) 21:17:19.02 .net
オオノヒトナガ撰「古事記」 説

多人長「日本書紀私記」甲本(「弘仁私記」)(812)が「古事記」の初出

774 :日本@名無史さん:2013/11/30(土) 23:30:30.88 .net
日本書紀で使われていない上代特殊仮名遣が使われているというのも、却って…。
それでもいろいろ思うところがあって偽書説は偽書‘説’のままでいいやん。
やっぱり昔や今の人の思いも尊重しなければならないな。

775 :日本@名無史さん:2013/11/30(土) 23:45:13.98 .net
古事記は信頼できるよ
古来からの伝承を一生懸命文章にした事が分かる
そのために天皇がカッコ悪かったり出雲を書き過ぎたりしてる

結果古事記は不採用になり
日本書紀は体裁を考えて天皇をカッコ良く書き直している
大国主は大幅カットしている
古事記が偽書だとすると書いたのは出雲系になるが、書く意味が無い

776 :日本@名無史さん:2013/12/01(日) 00:30:38.34 .net
古事記も日本書紀も信頼する。
和を以て貴しとなす。

777 :日本@名無史さん:2013/12/01(日) 07:37:03.67 .net
日本書紀の天皇もかっこ悪いよ。女をだましたり、虐待したり。

778 :日本@名無史さん:2013/12/01(日) 11:37:39.41 .net
>>776いつの時代も政治家が好んで使いそうなうまい言葉だ。
そうやって人民を騙してきたんだろうな。

779 :日本@名無史さん:2013/12/01(日) 14:19:39.84 .net
>>772
うむ、そういうこと
日本書紀は特に神話については【一書にいわく】と異論を多く載せてるが、
その中で古事記とぴったり一致するものはひとつもない
ひとつもないんだよ。おかしいだろう。

780 :日本@名無史さん:2013/12/01(日) 14:22:41.43 .net
推古天皇で記述を止めているのもわざとらしい
古事記は所詮日本書紀のダイジェストでしかない
研究は日本書紀によるべきだろう

781 :日本@名無史さん:2013/12/01(日) 14:51:41.59 .net
>>779
都合悪い事を消したくて書き直したのだから
無くて当然だ

782 :日本@名無史さん:2013/12/01(日) 16:12:41.21 .net
国譲りとは・・・
一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため
出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。

しかし真実はなんの事はない。
大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。
倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」
大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。
もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。
国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。
筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい出雲に移住(追放)された。

だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、
後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族や邪馬台国の頃の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。
何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。

この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。

ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」

また天孫族が元々いたのは志摩国、
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾岸である。

783 :日本@名無史さん:2013/12/01(日) 16:13:48.34 .net
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
 魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
 後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」

元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
 唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
 倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
 今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」

旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
     日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
     筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」

このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。

「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。

784 :日本@名無史さん:2013/12/01(日) 16:15:32.83 .net
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg
綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界・元海もとうみ)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg
卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。

785 :日本@名無史さん:2013/12/01(日) 16:16:26.09 .net
〜まとめ〜

「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」

(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)

倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。

魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。

魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。

大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。

786 :日本@名無史さん:2013/12/01(日) 18:44:34.65 .net
>>781
日本書紀とだいたい内容同じなのに?

787 :日本@名無史さん:2013/12/01(日) 20:24:05.20 .net
古事記の方が後の時代に書かれたものだろうな

788 :日本@名無史さん:2013/12/02(月) 07:55:31.93 .net
>何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
間違えてないだろ。当時の旅人は方角、距離を確かめることが絶対に必要。
間違えてたら戻れない。

789 :日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:37:04.61 .net
http://www.youtube.com/watch?v=wuDOebvhhe0
南端の北に南端はある

790 :日本@名無史さん:2013/12/02(月) 13:33:07.83 .net
伊都国(倭奴国)と位置関係

☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
  現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。 
  それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。

☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
  福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
  「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
  これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
  自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
  これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
  元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。

☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
  伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
  現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
  今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
  福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
  要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
  当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
  基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
  (北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)

791 :日本@名無史さん:2013/12/02(月) 13:33:39.13 .net
古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述


「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」


現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。

792 :日本@名無史さん:2013/12/03(火) 21:44:44.68 .net
ある時代に倭国から使者がやって来た。
その南には狗奴国があった。
時代が変わって帯方郡に倭国を名乗る使者がやって来た。
その使者は実は狗奴国からだったのだろう。
魏志倭人伝にはそう書かれてる。
時系列を理解できてないと滅茶苦茶な解釈になるw

793 :日本@名無史さん:2013/12/05(木) 18:07:38.23 .net
一見トンデモ説だが、真をついているかもな。委奴国や帥升は北部九州に過ぎなかった。
その後、北部九州と中南部九州の間で倭国の乱が起こり、中南部が勝利した。倭国の範囲は
北部九州から九州全体に一挙に拡大したわけだ。
朝貢国である北部九州が攻撃されたとなれば、魏は、通常は、攻撃してきた非朝貢国に制裁
を加えることとなる。しかし、倭の場合には、北部九州と中南部九州が形の上では新女王を
共立し、勝者と敗者を明確にはしなかった。北部九州は中南部九州と合併して拡大したとい
う体裁になったわけだ。そこで、魏は既成事実を認め、倭国全体を冊封国とした。

794 :日本@名無史さん:2013/12/05(木) 19:52:13.69 .net
>>793
まあ、中国の目に止まった倭人とその王権はせいぜい九州方面だったのかもね
次の問題としては、邪馬台国と同時期の弥生後期における広範囲の墓制の共通性だ
これが畿内王権誕生と倭国拡大の謎の鍵と言えないか
オレ個人は、九州王権移動説は採らないんだが

795 :日本@名無史さん:2013/12/05(木) 22:05:10.91 .net
帥升とは個人名ではなくて、
 帥=将軍
 升=昇
将軍から王に昇った人物という意味

つまりそこで政権交代が起きてる

796 :日本@名無史さん:2013/12/05(木) 23:14:52.13 .net
畿内王権とか大和王権というのが問題だな。大きな古墳があるというだけで、そこに王権が
あったという証明はなされていない。九州が統一され、その九州勢力が本州へ東征したとし
たらどうなるかな? 東征の拠点が畿内におかれ、いかに強権を行使しようと、そこに王権
があるわけではない。九州の王権に基づく一大率がおかれたというに過ぎない。

797 :日本@名無史さん:2013/12/05(木) 23:36:19.75 .net
畿内(つーか東海)から九州征伐に行った将軍が金属器という力を得て謀叛したんだよ

798 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 01:44:04.22 .net
>>796
まさしく西都原がそうなのだろうが(大集落の跡は今のところ未発見)、
基本墓のある場所近くに政府があったはず
九州の王権が、畿内の空き地に前方後円墳を次々造らせたとも思えん

799 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 08:11:22.08 .net
>基本墓のある場所近くに政府があったはず
あなたが言う政府とは何かな? 倭国全体の唯一の政府のことなのか、それとも各地域の首長の居所
ということなのかだ。前者ならば、ほぼ同時期にあちこちにかなりの大きさの墳墓が造られているの
だから、政府がどこにあったのか、分からないこととなる。

800 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 10:16:53.18 .net
>>799
倭国とは倭国王の主催する権威と財産(土地人建物)の総体だ
倭国王の【いる所】が政府だな。君主制国家とはそういうもの
中国的意味での王とは本来、あちこちに城(市場といっていい)と領地を持っていて、
それらを【往復】する存在だ
それで王というらしい

財産である領地内に墓を造るだろうということ
西都原も倭国の一部には違いなかろうが、倭国王の直轄とは思わんね

801 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 14:04:54.29 .net
倭国王が臣下と同じ形の墓を造ったのだろうか。前方後円墳は各地で造られている。これは倭国王の墓ではなく、臣下の
墓なのかも知れない。また、仮に倭国王も前方後円墳を造っていたにしろ、最大の墓が倭国王の墓とは限らない。

802 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 19:53:52.52 .net
>>801
そこんとこがまさしく、弥生時代にすでに存在した墓制の共通性だよね
同じ型の墓をこしらえてその墓制連合同志で祭祀を行う
それが政治結合の表現だったのでは

基本的に倭国王より大きな墓を地方豪族が造ることはないと思う
岡山や兵庫のそれは、単にそこに大王がいたということだろうな

803 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:05:24.84 .net
西都原は前方後円墳と同時に絵画土器が入ってきてる
ある時期に突然、畿内の文化が入ってきた

804 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:35:29.50 .net
宗像神社って、相当怪しい。政府置くならここじゃなかろうか

805 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 21:23:43.96 .net
宗像は水方で海人系で海幸系で山幸系大和朝廷系皇統系に敗れて東国を主に全国に散った系でしょう。

806 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 21:49:06.28 .net
宗像大社の元社が沖ノ島の社だっけ。
宗像大社から交代で常駐しているそうな

807 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:37:43.11 .net
天皇の胸方、旨方という意味らしい。

808 :日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:56:39.62 .net
宗像姓は九州だけでなく東北に多いよ
特に福島あたりに多くて青森まで分布する
正統は安土桃山時代に断絶したはずだけど

809 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 05:16:17.99 .net
性は明治以降勝手につけることができたので
由緒ある家系以外意味ないよ

810 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 10:14:23.43 .net
山幸は海幸を従わせただけで討ったりはしておらん。

811 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 10:16:03.85 .net
邪馬台国の女王の墓は薩摩富士、四国の讃岐富士にはその分霊が祭られている。
しかし、東にもっと大きな富士があると知って東征を決意。
大和は東海勢力を討伐するための拠点にすぎず、
尾張(倭国の外れ=終わり)からヤマトタケルは出兵した。

812 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 11:00:28.47 .net
名古屋は、天下分け目の戦いが11回起こったそうですが、
いったいどういうお土地柄なんですかね

813 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 11:01:47.24 .net
>>811
やっぱ薩摩富士だったか。枚聞神社。

814 :日本@名無史さん:2013/12/07(土) 13:33:57.51 .net
本殿がなくて山自体を信仰の対象とする山岳信仰は、開聞岳の方が三輪山よりずっと古そうですね。
なんといっても、橋牟礼川遺跡など縄文時代からの重畳遺跡がありますから。
こちらの方が渦巻き刺青の縄文系女王の国にふさわしいです。

815 :日本@名無史さん:2013/12/13(金) 00:08:18.00 .net
西都原とは成都の意。蜀、つまり、蚕のことだ。
野蛮な魏とは関係がない。
邪馬台国とも関係がない。

816 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:57:20.67 .net
邪馬台国

817 :日本@名無史さん:2014/01/10(金) 07:51:31.75 .net
生目古墳群の1号墳にトレンチを入れた調査の模様が先日地元局で報じられたそうですね。
三段構築で、段と段の間の斜面にも細かく段が付いているのが特徴だそうです。

818 :日本@名無史さん:2014/01/10(金) 09:29:02.86 .net
宮崎の発掘も進展してるのか
邪馬台国は南部九州にあったという説にだんだん近づいてるようだ

819 :日本@名無史さん:2014/02/03(月) 20:37:14.54 .net
謎が解き明かされる&amp;#684;&amp;#65279;&amp;#684;&amp;#65279;&amp;#684;&amp;#65279;&amp;#684;&amp;#65279;&amp;#684;&amp;#65279;

820 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 08:12:35.05 .net
日向から近畿を越える立派な埴輪や蔵、玉璧などが出土しているのが近畿説論者にとっては
くやしいところだろう。

821 :日本@名無史さん:2014/02/06(木) 21:01:07.54 .net
多数決で決めたらいい

822 :日本@名無史さん:2014/02/10(月) 22:06:25.00 .net
西都原に前方後円墳が導入されるのと、西都原に絵画土器が入ってくるのは同時代なんだよな

823 :日本@名無史さん:2014/02/11(火) 10:32:13.97 .net
西都原の古墳がいつ造られたのかは分かってないね。

824 :日本@名無史さん:2014/03/01(土) 16:06:25.86 .net
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=55081

また、大隅から重要物出土。

http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=51642

町田遺跡では、元々、人骨や矢じり等も出土。

今回の祭祀用石刀の出土で、近くの天神段遺跡からは祭祀用の
西日本最古の石剣も出土。高隈山の目の前でこのような祭祀用石剣・刀が
出土したことから高隈山を崇めていた可能性は高い。

また、同じく大集落跡や大規模な横穴式古墳なども出土し、この地域が
相当文化の栄えた国か集落であったことが伺える。そして、すぐ近くには
正統霧島神社があることから高隈山が高千穂の峰であった可能性もある。
だからこそ、ニニギは笠沙に向かう途中、鹿児島湾沿いの高隈山麓(鹿屋
体育大学近く)の高千穂神社で休憩した伝承が残っているのだろう。
解明を急いでもらいたいし、まだまだ高速道工事で出土しそう。

825 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 12:34:14.19 .net
>>824
楽しみだね
隼人の正体が判明するといいな

826 :日本@名無史さん:2014/04/08(火) 16:19:18.47 .net
「邪馬台国に科学の目」-読売新聞より
http://rekisitannbou.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/-m-bec7.html

827 :日本@名無史さん:2014/04/08(火) 18:40:41.67 .net
邪馬台国と製鉄
http://www.shundaichi.com/37034393402148822269123923506937444.html

828 :日本@名無史さん:2014/04/08(火) 20:41:48.01 .net
大隅の唯一の前方後円墳は社宅作る工事でぶっ壊したんだぜ〜
調査はしたのかね?

829 :日本@名無史さん:2014/04/17(木) 00:02:22.61 .net
http://www.okunomasao.com/suikoutouka.html

830 :日本@名無史さん:2014/04/21(月) 14:06:37.32 .net
全国邪馬台国連絡協議会が設立されました。

4月19日(土)全国の主な邪馬台国関連の歴史研究団体が参加して、首記の
全国邪馬台国連絡協議会(全邪馬連)が設立されました。
邪馬台国と古代史の解明を目指すのが設立の趣旨です。

連絡先 http://www.zenyamaren.jp

7月19日 第1回東京地区大会を予定しています。

831 :日本@名無史さん:2014/04/30(水) 18:36:18.98 .net
2.魏志倭人伝の邪馬台国関係地への行程解釈表

卑弥呼までの邪馬台国本拠地は九州北部にあった。以後七代は戦闘前線の西都原を都とした。
魏志倭人伝は四つの情報を整理したものと思われる
@の行程 Aの行程 Bの行程 Cの行程
 (水行を推定) 地点名&区間距離(里) 推定現在名&累計距離(里)  (推定航路・行路)
帶方郡 (今のソウル付近)
南至 乍南乍東 南至 南至
↓ 七千餘里 7,000里 ↓ ↓
 (佐世保湾) ↓ ↓  (佐世保湾)
↓ 狗邪韓國 ↓ ↓
 (大村湾) 始度一海 ↓  (大村湾)
↓ 千餘里 8,000里 ↓ ↓
↓ ↓ ↓ ↓
↓ 對馬國 対馬 ↓ 水行十日
↓ 又南渡一海 ↓ ↓
 (諌早の瀬戸) 千餘里 9,000里 ↓  (諌早の瀬戸)
↓ ↓瀚海(かんかい 現在の玄界灘 ↓
 (有明海) 一大國 壱岐 ↓  (有明海)
↓ 又渡一海 ↓ ↓
 (千年川) 千餘里 10,000里 ↓  (千年川)
 (※現在名=筑後川) ↓ ↓  (※現在名=筑後川)
↓ 末盧國 唐津市・東松浦郡 ↓ 遡上
↓ 東南陸行 ↓ ↓
↓ 五百里 10,500里 水行二十日 千年川上流地点
↓ ↓ ↓

832 :日本@名無史さん:2014/04/30(水) 18:37:09.84 .net
↓ 伊都國 福岡県糸島郡 ↓  (陸行に移る)
↓ 東南 ↓ ↓
遡上 百里 10,600里 ↓  (阿蘇小国町)
↓ ↓ ↓ 陸行一月
↓ 奴國 今の博多? ↓ ↓
↓ 東行 ↓ 阿蘇山が真近に
↓ 百里 10,700里 ↓ 見えたとの記録あり
↓ ↓ 90%地点 ↓ ↓
↓ 不彌國 宇美町? ↓  (阿蘇郡蘇陽)
↓ 邪馬台国まで ↓ ↓
↓ 残り1,300里 ↓  (高千穂町近く)
12,000里 ↓ ↓
邪馬台国本拠地 ↓ ↓
※この当時は海面は現在より ↓ 女王之所都
 十メートル高かったとのこと。 ↓  (西都原)
 したがって、大村湾と有明海は瀬戸でつながってた。 ↓ ※戦闘前線

http://6603.teacup.com/tuneyuki/bbs?

833 :日本@名無史さん:2014/05/03(土) 17:00:57.96 .net
安本教授の指摘は、まだ終わったわけではないのだ。
なんと、夜須町と大和郷の間で見られるような地名の一致が、北九州と南九州の間に、そして、南九州と近畿の間にも見られるという。
わかりやすく相対表を作成すると、次のようになる。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/1541/yamato3.html

834 :日本@名無史さん:2014/07/16(水) 18:05:39.85 .net
東遷説スレであったけど宮崎の地名は後付が多いらしい
木花(キバナ)とか漢字の読みも知らずに木花之佐久夜毘売を木花というところのサクヤ姫と考えて付けたとしか思えない
延喜式神名帳でも確定している神社が3つだけで全部小社
宮崎神宮のWikipediaを見ると記録には残っていないが古いに違いないとか悲しくなって来る
宮崎にはあらゆるタイプの古墳があるというがレプリカとして作られたのか

835 :日本@名無史さん:2014/07/16(水) 20:10:56.29 .net
高千穂峡って、なんか神秘的で、なんかあると勘ぐりたくなるなあ。
これ以上書くとオカルトになってしまうが・・・

836 :日本@名無史さん:2014/07/16(水) 23:37:00.19 .net
高千穂峡は東西に開けてないし
やっぱり後付の観光用史跡だね

837 :名無し:2014/08/28(木) 16:23:15.83 .net
 「サンデー毎日が入手できない」。宮崎県都城市の市民から連絡が入った。発売されたばかりの9月7日号が、
8月27日午前に市内書店から消えてしまっているというのだ。
市内の主要4店舗に確認したところ実際にいずれも売り切れていた。開店早々の購入や予約販売などで、
次の入荷を待たなければならないという。

当該号には都城市に関する記事がある。「権力批判ブロガー怪死の闇」というタイトル。参議院議員、
産廃業者、暴力団の3者の癒着を批判していた女性ブロガーが2009年に怪死したという内容のもの。
具体名を上げていないが、参議院議員は昨年首長から転身した人物。また、産廃業者も今春公共事業を巡る詐欺事件で
逮捕されたことが記載してあり、誰を指すか明白だ。

不思議なのは09年の事件が今になって記事化されたことだが、今春産廃業者が逮捕されたことで地元では
再度この怪死事件に焦点が当てられた背景がある。女性ブロガーの死は今も事件か自殺か結論が出ないまま。
誰が何を表面化させたくなかったのか。都城市で次の入荷予定は30日だ。

http://www.data-max.co.jp/politics_and_society/2014/08/14725/0827_dm1504/

838 :日本@名無史さん:2014/09/13(土) 06:31:13.32 .net
836
837
あの垂直壁のような峡谷がさらに狭まって、跳んでぎりぎり渡れるか渡れないか
という箇所があって、戦いの最中渡れたり落ちたりのお話とかもあります。
宮崎県の高千穂町のあたりは上高千穂と呼ばれ、熊本県の阿蘇外輪山東麓を下高千穂と呼ばれました。
V字谷上の緩傾斜面は五ヶ瀬川本流の東西方向と支流の南北方向に広がって、田畑と家はそこで営まれています。

839 :日本@名無史さん:2014/11/01(土) 17:10:12.44 .net
あげ

840 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 08:45:11.58 .net
生目(豊国別)→本庄(久邇止美比古命)→西都原(諸県君)という系譜が想定されているそうですが。
どうなんだろうね。
豊国別皇子と日向国の始まりが3世紀末から4世紀初頭で良いのかな。
一ツ瀬川や大淀川下流の相当な地域は湿地や海だったらしい。
宮崎神宮にも古墳がありますけど、市街地のほぼ真ん中に広島古墳群というのがあったそうです。
鳥趾状のように陸地が広がっていたらしい。

841 :日本@名無史さん:2014/11/04(火) 21:33:20.42 .net
豊国別とか諸県君が実在したのかすら定かでない
ただ確実に畿内との通信があったということは言える
日向国風土記が失われてるのが痛い

842 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 16:21:24.15 .net
古墳のデザインとかって見ただけでコピーできるもんなのかな?

843 :古文は結果しか書かない:2014/11/15(土) 10:39:35.23 .net
水行10日陸行(16日、合計26日約)1月

( )の部分が省略されてる。

よって邪馬台国は西都原。

844 :日本@名無史さん:2014/12/06(土) 20:52:49.74 .net
南九州の山間部古墳人は,「低・広顔」傾向を示し,宮崎平野の古墳人は「狭・高顔」傾向が強い。
眼窩および鼻部の形態も,顔面全体の形にそれぞれ相応している。
ここにおいても宮崎平野の柿木原古墳人は顔面全体の形は他の平野部古墳人に似ているが,
眼窩および鼻部の形態は山間部古墳人に類似している。
南九州の山間部古墳人の顔面頭蓋は,西北九州,大友両弥生人および縄文人に近いが,
これらよりもより強い低顔性が認められ,大きな特徴に数えられる。
宮崎平野の古墳人は北部九州の弥生人に近似しているが,柿木原古墳人の眼窩および鼻部はむしろ西北九州弥生人に近い。

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/29416/1/ishi_i1044ronbun.pdf

845 :日本@名無史さん:2014/12/13(土) 09:16:14.63 .net
南九州で検出される弥生時代の大溝について
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/10543/1/AN0004083X_v73_p9-26.pdf

846 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/14(日) 16:56:49.47 .net
うむ

847 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/14(日) 19:14:51.96 .net
西北九州弥生人というのは、弥生と縄文の中間のような古いタイプの弥生人?

848 :日本@名無史さん:2014/12/14(日) 22:46:28.68 .net
そう。
弥生時代の縄文人的骨格の人々。

849 :日本@名無史さん:2014/12/15(月) 00:24:33.11 .net
つまりよく分からんのだけど、そこで出てくる頭蓋長幅示数とは、こういうものらしい。

頭蓋長幅示数
超長頭型 64.9≧
過長頭型 65.0〜69.9
長頭型   70.0〜74.9 
中頭型   75.0〜79.9
短頭型   80.0〜84.9
過短頭型 85.0〜89.9 
超短頭型 90.0≦   

上に行くほど縄文人的で、下に行くほど弥生的ということらしい。
畿内人は示数85ほどらしい。
宮崎では平野部で下の傾向が強いということらしい。

850 :日本@名無史さん:2014/12/15(月) 02:07:53.60 .net
畿内でも宮崎平野部でも短頭型がほとんどで、過短頭まではいかんわな

851 :日本@名無史さん:2014/12/15(月) 07:47:42.16 .net
長頭というのは、後頭部の張り出しが大きく、
短頭と言うのは、後頭部の張り出しが小さい。
短頭では側頭葉が発達し、長頭では後頭葉が発達する。
後頭葉は視覚を司るところで、狩猟では重要な部位。
中世に中頭傾向が強まっていたのは戦闘という狩猟行為に類似することが頻繁に起こっていたから。
現代日本人は過去に例が無いほど急激に短頭化している。

852 :日本@名無史さん:2014/12/15(月) 20:20:15.42 .net
短い間にそんなに変化するならよく使われる使い方はできない気がする
今後狩猟や戦闘が主になってそれが続いたら長頭化するってことでしょ?
つか遺伝子とか頭示数?であそこの県がどーのここの県がこーの
最近見かけるようになったけど功罪あるなーって思う

853 :日本@名無史さん:2014/12/15(月) 22:49:44.95 .net
化石人類ではほとんどが長頭であるが、現生人類では人種によりまちまちであり、以前は人種分類上重視された。
しかし、近年、時代的変遷とともに短頭に傾く現象(短頭化現象)が世界の各地で観察されるようになり、
それに加えてまた頭の形の生物学的根拠が不明のままでいるところから、
頭蓋もしくは頭示数は以前ほどには重要なものとみなされなくなった。
https://kotobank.jp/word/%E9%A0%AD%E8%93%8B%E7%A4%BA%E6%95%B0-854819

854 :日本@名無史さん:2014/12/21(日) 09:09:15.63 .net
835さんへ
そうですね。元々、日向(ひむか)の中心は大隅。大隅隼人があまりにも抵抗するため
朝廷は802年に薩摩の国を分離し中心をを加世田(現みなみ薩摩市)から川内(現薩摩川内市)へ
移し国府をおいた。また、713年に大隅の国を分離し中心を鹿屋から国分(現霧島市)へ移し国府を
置いたが、720年に最後の大乱が鹿屋で起こり大軍を投じて鎮圧した。

855 :日本@名無史さん:2014/12/21(日) 09:36:34.15 .net
元々、大隅隼人は熊襲であり中国大陸からの渡来人と思われえる。彼らは天孫降臨の
野間の岬の先の笠沙(みなみ薩摩市)に上陸したが平地が少なく住むに適していないため
佐多岬を回ると内之浦に適地を見つけ標高900mの国見岳に高屋山陵を置いた。
明治初までは比定され明治天皇も巡行された。

この国見岳からは眼下に肝属平野が一望できる。その後、彼らは内之浦から志布志湾波見経由で
肝属平野に勢力を拡げ、都城→宮崎→西都へと拡げたと思われる。南九州各地に古墳や遺跡、
天孫降臨関係の地名等が散在している所以です。大隅には神武東征の碑が2か所あります。
鹿児島湾内奥福山(霧島市)の宮浦神社と、志布志湾柏原(波見の向かい)にあります。

神武東征が本当に東征だったのか姶良カルデラの大爆発で住めなくなり集団移住を余儀なくされた
結果だったのか。同じ一族が宮浦と柏原から、両方からの出航だったのではないだろうか。
そう考えると志布志湾〜鵜戸神宮、宮崎海岸、そして美々津経由で大分〜北九州〜瀬戸内海へと
長い旅を行ったのもうなづける。

東九州道の工事等により大隅から重要な遺跡が数多く出土している。あげればきりがないので
調べられたらわかります。今回も鹿屋市串良の川久保遺跡より鉄の鍛造工房跡が出土。南九州
から初めてのうえ異なる工程のものが出たのは珍しいとのこと。遺跡は大地の端で串良川
(肝属川支流)の上流。そのすぐ上で、川まで降りる道も残っていました。
上流まで船で行けたため、肝属平野奥から数々の古墳、遺跡が出ました。

この遺跡の下の串良川沿いに霧島神社があります。川沿いはくぼ地で田園地帯ですが、あ
この神社は川沿いに三角形の人工的な感じ山となっています。この霧島神社の斜め上に高速
道路を造っており、そこから様々な遺跡が出土しています。その延長戦上には高隈山が聳えており、
これが信仰の対象だったのではないか、だから西日本最古の祭祀用石剣、石刀等が出土したのでは
ないかと思います。

大隅は今後調べる価値大です。

856 :日本@名無史さん:2014/12/21(日) 10:05:06.28 .net
高千穂の峰、古代、そのような名称の山はなかった。山に名はなかったので、
後で付けられた山、地名。単に高く聳え立つ山を称しただけでしょう。
霧島も同様。霧が立ち込めて霧の上部が島に見えることから霧島と称される
ようになっただけで鹿児島・宮崎県の霧島山だけでなくどこにでもある。

福岡にも日向に相当する地名あり。天孫降臨が、からくに(韓国)と関わりが
あるならそちらが本命かもしれません。

857 :日本@名無史さん:2014/12/21(日) 10:26:21.76 .net
韓国(からくに)だから韓国ね〜
もう語呂合わせしかできなくなってるんだな
九州説を唱えてるやつらは利権絡みか?

858 :日本@名無史さん:2014/12/21(日) 16:34:11.84 .net
記紀で、韓国(からくに)と対応するのは膂宍の空国(そししのむなくに)。

859 :日本@名無史さん:2014/12/21(日) 17:56:12.56 .net
>>854
>720年に最後の大乱が鹿屋で起こり大軍を投じて鎮圧した
鹿屋じゃなくて霧島市ではないの?

860 :日本@名無史さん:2014/12/21(日) 19:22:43.68 .net
>>855
大隅の根占の旧家からは中国の洪武通宝・永楽通宝などの明銭が残されていたり
出土したりと古来から中国大陸と交易が盛んだった数々の出土品で判明してるな

861 :日本@名無史さん:2014/12/21(日) 22:47:19.86 .net
古代と中世の話をごっちゃにしていいものか

862 :日本@名無史さん:2014/12/22(月) 19:21:05.77 .net
大隅は言葉が薩摩7に日向3を足したような感じだ

863 :日本@名無史さん:2014/12/25(木) 21:24:33.42 .net
絶対価値観の基準数値0が実は2つあった感じなのかな?

864 :日本@名無史さん:2014/12/25(木) 23:00:51.74 .net
大隅や日向は
異なる2つの絶対価値観がぶつかったところ

865 :日本@名無史さん:2014/12/25(木) 23:18:01.09 .net
数学は絶対論理性が必要だが
人間集団の観念価値感なんて曖昧のゆりかごの中w

866 :日本@名無史さん:2014/12/26(金) 00:09:37.59 .net
顔高(顎から鼻の付け根までの長さ)が高い平野部と、低い山間部。
鼻が細い高い平野部と、幅広で潰れ鼻気味の山間部。みたいな違いが随分あったそうだよ。

867 :日本@名無史さん:2014/12/26(金) 00:49:58.93 .net
大隅人半島古墳人の顔高や鼻の幅や高さは北部九州弥生人と同程度

868 :日本@名無史さん:2014/12/27(土) 13:00:34.89 .net
855さんへ

確かにそう思っていましたが、鹿屋市永野田町にある国司どんの墓、これは初代国司
「陽候史麻呂(ヤコノフヒトマロ)」が720年に鹿屋を巡察した際に大隅隼人に
急襲され、逃げた川の手前で命尽きた場所です。これが隼人の反乱の発端となったと
言われてます。国分にも永野田の地名あり。

鹿屋には国司城跡もあり、元々大隅の中心地と思われます。


http://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-1b76.html

やはり、ひむか、またはひむか勢力を削ぎ歴史から神話に封じ込めたい
権力者がいたのでしょう。それは半島系の藤原一族しか考えられません。
曽於市岩川、都城市山之口、日南市飫肥の弥五郎どん、巨人伝説、熊襲の
酋長説、そして竹内宿寝伝説があります。この宿寝の子孫が曽我氏とも
言われてます。

869 :日本@名無史さん:2014/12/27(土) 16:26:32.14 .net
なんというかネトウヨの在日認定と同じレベル。

870 :日本@名無史さん:2014/12/28(日) 09:30:29.58 .net
>>864
ぶつかって和解して協力する誓いをしたのが神話
道具交換の意味は分からんけども

871 :日本@名無史さん:2014/12/28(日) 17:48:33.49 .net
南西の山間部の古墳時代の人々は縄文的だけど
弥生時代の北部九州人とも混血しているようだって話。
熊襲や隼人が何者なのかは分からないが、五島列島の人々は隼人に似ていたらしい。

872 :日本@名無史さん:2014/12/29(月) 13:50:45.11 .net
藤原氏が祖と称する天児屋命は日向にいたことになっているし天児屋命の古墳もあるぞ
話も比定も本当かどうかは知らないし信じろと言われても無理があるが

873 :日本@名無史さん:2014/12/29(月) 13:51:22.59 .net
>>872
>>868

874 :日本@名無史さん:2014/12/29(月) 14:33:54.10 ID:K/20SG/Y/
★性犯罪者 福山雅治 が紅白に!遂に逮捕者が! NHKはこの真実を知らない!!★
アミューズは企業ぐるみで福山雅治の犯罪隠蔽
30歳代の一般人女性を毎日監視するため現在も盗聴盗撮ストーカー犯罪継続中!
2011年5月上旬開始
2012年3月20日 午後1時○○分 福山雅治が被害者女性を脅迫
同日午後 福山、アミューズ社員、アミューズ大里洋吉会長も同席し4時間もの犯罪隠ぺい対策社内会議を開く
『福山雅治の主な犯罪共犯者』
★アミューズ全役員社員
福山雅治と毎日盗聴盗撮
被害者の全裸盗撮写真を見て社員間で嘲笑
【被害者の個人情報を不特定多数の芸能関係者に流失させた】
【アミューズ社員は福山雅治の犯罪が表沙汰にならぬよう主に2chで工作活動中】
★【主犯格! 川島カヨ 】(ナインティナインのオールナイトニッポンの放送作家 元『福山雅治魂のラジオ』放送作家  創価学会員 暴力団関係者)
福山から依頼され被害女性を盗聴盗撮し後日福山に買い取らせる
川島から買い取った盗撮写真を福山は【小原信治】(ニッポン放送 福山雅治の魂のラジオ放送作家)ら芸能関係者に転売し大儲け

50歳代後半のアミューズ幹部市毛るみ子
「相手は吹石と違って素人だしバックもないから集団で追い詰めれば勝手につぶれるでしょ大丈夫よ福山君」
【市毛るみ子は福山が被害女性に謝罪させないまま犯罪をこのまま無かったかのようにする思惑である】
【川島カヨは被害者の悪口や盗撮写真をアミューズ社員とSNSで流す】
【福山雅治は被害者に未だに謝罪一つしない (できない】福山は罪の意識が全くなし! 「誰が始めたか判らない」と福山はシラを切っている
犯罪の尻拭いを市毛るみ子に一任し逃げ回る】
福山雅治は金の為に被害女性が死ぬまで犯罪をやる、集団でやっているから絶対逮捕されないと豪語している
【まだ被害者から被害届等は出されていない】

【アミューズ幹部市毛 福山雅治チーフマネージャー佐藤 大野 事件開始当時の福山雅治チーフマネージャー石田 五十嵐正子】が被害者に福山が謝罪させぬようさまざまな方策を練っている
以上福山雅治とアミューズの世間に公になっていない不都合な真実

875 :日本@名無史さん:2014/12/29(月) 17:39:28.33 .net
信じられないな記紀神話は。
何でこういうのが当時の世間で通って勉強会までやっていたんだか皆目わからない。

876 :日本@名無史さん:2014/12/29(月) 18:39:40.33 .net
南は貝領域だからよ今の中共もあれだが

877 :日本@名無史さん:2014/12/30(火) 00:14:15.88 .net
おっ、琉球スレから出張ってきたのかい

878 :日本@名無史さん:2014/12/31(水) 20:55:58.04 .net
古墳時代の南九州の地下式板石積石室墓は、
弥生時代の長崎の板石積石棺墓が伝搬したものだろうな

879 :日本@名無史さん:2015/01/15(木) 04:15:19.58 .net
754 名前:日本@名無史さん :2015/01/15(木) 00:14:06.15
卑弥呼も邪馬台国も、陳寿の頭の中では明確に特定されてる。
陳寿は、倭国は周旋五千里ばかりとし、邪馬台国は不弥国から南へ水行20日、さらに
南へ水行10日、陸行1月とした。

「そのままだと九州を通り越す」と言う奴は馬鹿。保証する。

天才陳寿は、出鱈目を書いたのではない。
彼の地図に矛盾はない。

水行は、河川交通。
魏志において、河川でなく海の場合は、必ず海と書いてある。
川を遡るのは時間がかかる。江戸時代、川越から日本橋の往復で2週間。
上りが多く、整備されていない川だと、20日で数十kmがやっとだ。

道無き道を歩くのも大変で、1日5kmも進めない。
街道が整備された江戸時代の例から、1日20km進めると言うやつはキチガイ。

陳寿が明確に特定した邪馬台国は、東に海がある。

以上を総合すると、邪馬台国は、大分から宮崎の辺り。
それ以外にはあり得ない。

880 :日本@名無史さん:2015/01/15(木) 21:12:42.86 .net
大分と宮崎は言葉がかなり似ているからどこかに根拠があるんだろうとは思ってる。
邪馬台国とかは分からないけど、もしかするとそういうこともあったりするのかもね。

881 :日本@名無史さん:2015/01/17(土) 23:46:43.61 .net
男狭穂塚女狭穂塚も日向国府も西都
邪馬台国は西都

882 :日本@名無史さん:2015/01/18(日) 05:01:13.23 .net
男狭穂塚は5世紀前半に出来たというから新しすぎる
81号古墳が3世紀のものだというが位置が古墳群の端っこで
形式が古式でも出来たのは新しいのではないか

883 :日本@名無史さん:2015/01/18(日) 08:43:24.14 .net
畿内の古墳はどんどん古くなったわけでw 西都原も検証し直してみろよ。

884 :日本@名無史さん:2015/01/18(日) 09:58:14.07 .net
土器がずれたのなら、宮崎の古墳も
古くなりそうだね。

885 :日本@名無史さん:2015/01/18(日) 10:19:37.20 ID:Q/sBUdpf.net
男狭穂塚が卑弥呼の墓で、それを邪魔するように築かれた前方後円墳の女狭穂塚が、
台与を滅ぼした大和の墓なんじゃないか?

886 :日本@名無史さん:2015/01/20(火) 02:29:42.85 .net
えびのの地下式横穴墓から大量の副葬品が出たらしい。
甲冑や鉄刀、鉄剣など1000点を超えるらしいが、鏡が出ていない。
それにしても、地下式横穴墓ってのはなんか不思議だな。
日本ではかなり珍しい。中国あたりにこういう墓制があるのだろうか。

887 :日本@名無史さん:2015/01/20(火) 19:20:25.56 .net
全国紙で報じられてる
副葬品の数も質も高いらしいね
横穴墓じたいは九州全国的にあるみたいだ
手間がかかる地下にというのが珍しいらしい

888 :日本@名無史さん:2015/01/20(火) 20:45:14.80 .net
全部輸入品なのか、自前で作ったものものもあるのか、
そのへんが気になるな。

889 :日本@名無史さん:2015/01/21(水) 00:49:51.17 .net
地下式横穴墓は、横穴であるが見つかりにくい。
権力を誇示するにではなく、巨大な勢力に抵抗していた民族が、
墓を荒らされないための知恵として開発した形式なのではないか。
大和朝廷に抵抗した隼人の墓ということで良いと思う。

890 :日本@名無史さん:2015/01/21(水) 01:00:00.55 .net
急に出てきたものなので、政変があったような感じを受ける。
鹿大が主体ってことは、やっぱ隼人と目してるのかな?

891 :日本@名無史さん:2015/01/21(水) 01:31:53.85 .net
>>889
副葬品のいくつかは大和朝廷から配られたって話だが
抵抗してたら貰えないだろ

892 :日本@名無史さん:2015/01/21(水) 13:18:28.71 .net
>>891
大和の支配下に入っても、墓の形態は当分続いたってだけだろ。

893 :日本@名無史さん:2015/01/21(水) 19:23:30.74 .net
南九州の古墳時代5〜6世紀の墓から副葬品などが完全な形で出土!

宮崎県えびの市の1500年前の古墳時代のものとみられる墓から、
刀や甲冑などおよそ400点もの副葬品が完全な状態で出土しました。
専門家は「これだけの副葬品が完全な状態で一度に見つかるのは全国でも例がない。
この地域の極めて高い地位の人物の墓とみられる」と話しています。

大量の副葬品が出土したのは150余りの古墳時代の墓が確認されている
えびの市内の「島内地下式横穴墓群」の一角でおととし見つかった、
1500年前のものとみられる墓です。
えびの市によりますと中から、男女とみられる2体の骨と共に刀や甲冑
それに矢などの副葬品およそ400点が完全な状態で出土したということです。
古墳時代の墓では、副葬品が損傷したり盗まれたりしたものが多く、
えびの市と共に調査に当たっている鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也准教授は
「これだけの数や種類の副葬品が完全な状態で一度に見つかるのは全国でも例がない。」
としています。
そのうえで橋本准教授は「副葬品のレベルから、極めて高い地位にいた
この地域の首長の墓と考えられる。南九州で独自の文化を築いた人々と
大和政権との関係をより詳しく知る手がかりになる可能性がある」と話しています。

NHK‎ニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150119/k10014804901000.html

894 :日本@名無史さん:2015/01/21(水) 19:38:56.17 .net
未盗掘の首長級墓から大量の副葬品!
宮崎県えびの市・島内地下式横穴墓群
http://www.nishinippon.co.jp/import/miyazaki/20150119/201501190002_000_m.jpg

宮崎県えびの市教育委員会は19日、同市島内の島内地下式横穴墓群から
2体の人骨と武具や装飾付き馬具など大量の副葬品を納めた
古墳時代中期末−後期初頭(5世紀末〜6世紀初頭)の未盗掘の墓が見つかったと発表した。
副葬品が土に埋もれずほぼ完全な状態で見つかるのは極めて珍しい。
朝鮮半島製とみられる大刀(たち)や、大和政権との関係を示す甲冑一式も出土しており
首長級の有力者が埋葬されたとみられる。

遺体を安置する墓の玄室(奥行き2.25メートル、高さ0.94メートル、幅3,1メートル)には
女性の遺骨1体と男性とみられる遺骨1体とともに、矢羽根周辺に黒漆を塗ったものを含む
約300本の矢や箱に入った状態の鏡など計400点を超える副葬品があった。

銀メッキで鞘などを装飾した銀装円頭大刀が出土したのは九州で初めて。
朝鮮半島=百済ないしは伽耶=で作られた物と様式が酷似しており半島製と判断できるという。
また衝角付冑と短甲、肩甲などが完全にそろって出土した甲冑は、
他の国内遺跡から出土した大和政権下で作られたものと様式が似ており、
大和政権との政治的関係を示している。

玄室が土に埋まらなかった為、馬具や大刀の柄に繊維や革など有機物も残っており
当時の製法や使用法の解明についても期待できる。
調査に当たった鹿児島大総合研究博物館の橋本達也准教授(考古学)は
「武器や馬具の特徴から埋葬された人物は朝鮮半島で軍事や交易の交渉に関わるなど
大和政権と政治的関係を持っていた可能性がある」と話している。

ソース 西日本新聞
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/miyazaki/article/140283

895 :日本@名無史さん:2015/01/21(水) 21:33:31.69 .net
>>886
御桶代の原型みたいな箱に入った鏡も発見されてますね

896 :日本@名無史さん:2015/01/22(木) 09:03:00.16 .net
>>894
大和政権のものと似ているって、単に朝鮮様式だっただけだろ。

897 :日本@名無史さん:2015/01/22(木) 19:33:56.54 .net
どこ製のものかは分かっても入手経路までは分からんわな

898 :日本@名無史さん:2015/01/22(木) 23:26:18.59 .net
この地域まで大和政権の配下になってたんかな?
それとも…?
隼人との関連とか分からないことばかり。

899 :日本@名無史さん:2015/01/22(木) 23:48:25.46 .net
6世紀初頭頃の墓だそうだから、大和政権の分断工作に乗った勢力じゃないかな。

900 :日本@名無史さん:2015/01/22(木) 23:59:08.07 .net
というと、この首長は隼人の一派閥だろうってこと?
そのへんから分からんのだけど。
6世紀初頭っていうと継体天皇のころだね。

901 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 00:21:19.68 .net
そうだね
相応の知能がないとわからないよ

902 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 00:25:44.77 .net
>>901
高知能なあなたが蒙昧な私に全てを教えてくださいよ。
この様式は6世紀中に消滅してるよね。

903 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 00:35:25.15 .net
継体天皇の即位に反対して北部九州では磐井が反乱を起こした
隼人かどうかは置いといて、南九州でも反対派と肯定派に分かれた
南北朝の時のように
…という可能性は想像する

904 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 00:42:43.57 .net
ストレートに本質と言うか真実を
ぶちまけると色々問題が出てくるもんだよ

905 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 00:53:27.51 .net
そうだね
知ってても言うべきでないことがある

906 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 02:34:40.25 .net
完全にヤマトに組み込まれれば、墓を隠す必要もなくなるね。

907 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 17:58:36.08 .net
何で隠す必要があったんだ

908 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 20:25:04.51 .net
対立勢力に攻撃されてるなら、財宝を埋めた墓を隠したくなるだろ。

909 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 21:38:46.39 .net
財宝が無い場合でも隠してるんだが
宮崎平野人は前方後円墳を維持しながらこの形式を入れたようだ

910 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 21:59:58.88 .net
九州スレで、博多から南に水行して久留米に着くことが分かったぞ。

911 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 22:19:02.33 .net
博多から久留米ならどこかで陸路で行かなきゃならないだろ
博多湾に向かう川と有明海に向かう川の境あたりは分水嶺っていうか
人工的な運河でも無ければ陸地だ

912 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 22:26:44.90 .net
>>911
今でも数百メートル歩くだけで、で川を乗り継げるらしい。
しかも、その中間には池か沼がある。昔はつながってたかもね。

913 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 22:28:12.95 .net
オスマン艦隊の山越えって知ってるか

914 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 22:29:54.16 .net
>>912
数百メートルなら陸路ぶんはカウントしなかったかもな。

915 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 22:47:48.27 .net
西都原も久留米から見て南だから、可能性はあるな。

916 :日本@名無史さん:2015/01/23(金) 23:13:39.05 .net
いきなり申し訳ない
今言われてる財宝武器甲冑と共に葬られてる人物は、元からの地元民か、
それとも畿内や他の地域・国の人か、どちらか分かりますか?

917 :日本@名無史さん:2015/01/24(土) 00:23:56.98 .net
地元民

918 :日本@名無史さん:2015/01/24(土) 01:16:17.17 .net
西都は全国紙に載るような発見はないのか

919 :日本@名無史さん:2015/01/24(土) 10:23:27.92 .net
地下式板石積石室墓の横穴式のものが、前方後円墳の祖形だという説をどこかで見た覚えがある。

920 :日本@名無史さん:2015/01/24(土) 21:12:19.92 .net
岡山あるいは徳島あたりの弥生のが祖形というのが主流

921 :日本@名無史さん:2015/01/24(土) 23:10:30.54 .net
分からないままの方が良いこともあるんではと思うが

922 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 00:19:21.28 .net
どっちにしろ邪馬台国はないだろw
七万戸だよ弥生時代に
あるわけねーでしょ

923 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 05:41:26.95 .net
熊本県南部から鹿児島県北西部を中心とする薩摩隼人の領域に分布する「地下式板石積石室墓と呼ばれて来た墳墓の構造が、
実は神ノ島遺跡など西海諸島で相次いで発見された特殊な構造の墳墓と極めてよく似ていたのである。
引用「長崎県の考古学」より

924 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 05:50:46.71 .net
>>923
肥前国風土記には五島列島に隼人と似た人々がいると書いている
また鹿児島の古墳を作っている石が天草のものと分かったとか
九州の西側は海によってけっこう広くつながっている

925 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 05:53:10.78 .net
箱式石棺が縄文時代からあるのは、長崎

926 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 08:55:39.28 .net
鹿屋の中尾遺跡からハート型象嵌の付いた全国でも珍しい太刀が出土した時に、
黎明館の副館長は大和政府から与えられたものに違いない、地元にこんな刀を
製造できる力はないとすぐ新聞に掲載。今回のえびのでの出土もそうだが、
どうも南九州から重要な遺跡が出土すると困るらしい。

今の学会もそうだが、藤原以降の日本の政治には具合が悪いのだろう。
東九州道の建設で大隅から重要な遺跡がどんどん出土しているが、鹿屋市
串良の川久保遺跡の古墳時代の鉄の鍛造跡、これもえびのと同じ隼人圏
(大隅隼人)、えびのは隼人の防衛ラインの可能性もあり。しかも独自に
鉄、武器の製造も行っていたと思われる。半島から鉄を取り入れていたか
鉄の製造の技術を得ていたか。

半島にあったと言われる伽耶、そこから落ち延びた人々が住んだのが鹿屋か、
鹿屋の熊襲(後の隼人)が北上して北九州、半島へ渡り、建設したのが鹿屋か。
謎は多い。熊襲は紀元前に中国から渡来した民、春秋戦国の呉か徐福一行か。

927 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 09:36:44.69 .net
隼 人 渡 来 人 説 参 戦

928 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 11:40:52.61 .net
>>125

地図を見ると、北部九州の小さな小さな国土で韓国を支配するのは不可能とわかる。
本州にも進出できないのにどうやって韓半島に進出できるというのだろう?

929 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 15:09:23.56 .net
魏志倭人伝の人口比を考えれば、不可能ではないわなあ
それが北部九州だけだったのかはしらんけど

930 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 17:47:27.13 .net
>>924
天草と島原半島も繋がってるんだよな色々

931 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 19:43:28.50 .net
鹿児島-熊本南部-長崎
大分-宮崎-鹿児島
福岡-熊本-宮崎 
の何かがあるな

932 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 20:21:46.12 .net
某全国紙の記事では朝鮮半島のモノが強調されてる感じを受けたんだが
半島製というのは特筆するくらい珍しいものなの?

933 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 21:08:22.76 .net
珍しいのは銀装飾付きの大刀(百済または伽耶製らしい)で、
半島製ということ自体は別に珍しいというほどではないんではないの?
例えば集落遺跡の鉄器では日本製(大半)と半島製と判定されるもの(少数)なんだろ。
何かあったよな半島製の鉄斧とか

934 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 22:14:38.92 .net
>>926
鹿屋の人?
鹿屋という地名と、厚鹿文(アツカヤ)取石鹿文(トロシカヤ)等の熊襲の首長、
盧茲草葺不合(ウガヤフキアエズ)尊、半島南部の伽耶、がどう関係し、
または関係しないのか、地元ではどんな感じで解されてる?

935 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 22:28:17.30 .net
延暦14年5月10日 大伴部阿弖良およびその妻子親族六十六人を日向国に配流す。
承和14年 日向国「俘囚死に尽くし存する者少なし。」
日向は蝦夷人に酷い事をしたよね?

936 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 23:18:10.26 .net
延暦14年(795年)
承和14年(847年)

52年も経ってるんだから寿命ですがな。
処刑などせず普通に暮らしてたってことだ。

937 :日本@名無史さん:2015/01/26(月) 00:07:01.00 .net
隼人や熊襲なら盛況な時があってもどっちにしろ大和朝廷軍に討伐されて続かない話
理由は叛いたとしか書いてないし不明

938 :日本@名無史さん:2015/01/26(月) 19:54:57.10 .net
>>895
気になる事象だな
はやく全貌知りたい

939 :日本@名無史さん:2015/01/26(月) 20:31:28.59 .net
全貌を受け止める覚悟があるのか
そこがまず問題だ

940 :日本@名無史さん:2015/01/26(月) 20:55:44.60 .net
全貌理解の切れ口は鋭いですよ?

941 :日本@名無史さん:2015/01/26(月) 20:56:24.21 .net
発見された物の中に勾玉はないの?

942 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 00:00:34.72 .net
>>940
その鋭い切れ口が誰に向かうか自分に向かうか。
狭量な人が知ると刃を向けたがるんで、
何から何まで公表して良いと思わないな。

943 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 00:29:29.54 .net
熊襲隼人大和のカオスでセンシティブなことなんだから軽い気持ちでやっちゃいかんわ

944 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 01:59:48.83 .net
女王国の北に21国あるのだから、北部九州でないことは明白。
その余の、遠絶にして詳らかにできない某国というのが本州だろう。

そして、女王国の東には海があり、その向こうには倭種が住むという。
そこは四国であり、女王国は九州東部で決まり。

そして、四国の南については書いてあるが、女王国の南については
書いてない。
これは、女王国が九州東南部であり、南には他に国がないことを示している
と考えられる。

西はどうかというと、奴国という、女王国に向けて南下した不弥国の
西にある国(奴国)の南に、女王国と対立する狗奴国があると書いてある。
つまり、女王国の西は狗奴国。

魏志倭人伝は、最小限の文章で、九州全域、女王国の東西南北を
明確に記述しているのだよ。

奴国→不弥国
↓   ↓水行
↓   ↓水行
↓  投馬国
↓    ↓水行
狗奴国  ↓陸行
    女王国(海)→四国
    (海)

945 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 05:49:56.88 .net
>>944
これだと女王国は大分になるぞ
よく勘違いされるが東に四国があるのは大分
宮崎の東には海しか無い
宮崎と大分の境はずっと山だ

946 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 07:47:30.95 .net
卑弥呼の国は、大分と宮崎、両方だったのかも。

947 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 12:59:44.33 .net
両方足しても7万戸は無理

948 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 13:37:33.31 .net
奴国だけで2万戸だったわけで、大分だけでも、その3.5倍はあるだろ。

949 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 20:13:04.10 .net
紀元後200年推定人口 (1996年某氏推定)

美濃+尾張+三河+遠江+駿河+伊豆・・・・・・・・・・・・・54,400
大和+河内+摂津+和泉+山城・・・・・・・・・・・・・・・・・・30,200
伊勢+志摩+近江+伊賀+紀伊+播磨+丹波+淡路・・・70,300
丹後+但馬+因幡+伯耆+出雲+石見+隠岐・・・・・・・・17,700
美作+備前+備中+備後+安芸+周防+長門・・・・・・・・48,900
阿波+讃岐+伊予+土佐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30,100
筑前+筑後+肥前+豊前+豊後+壱岐+対馬・・・・・・・・40,500
肥後+日向+大隅+薩摩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・64,600

950 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 20:14:55.32 .net
肥後+日向+大隅+薩摩の内訳では肥後が圧倒的多数だったはず
後の奈良時代とか見ると

951 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 20:31:13.23 .net
邪馬台国の時代は核家族だったからね。

952 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 21:36:00.12 .net
奴国は博多近辺で筑後平野の一部も含むか、くらいのエリアで2万戸。
推定と全然合わないな。

953 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 21:39:48.26 .net
薩摩の橋牟礼遺跡がそれまで謎だった
日本の縄文時代と弥生時代の時代区分を
史実的に学術的にも初めて証明した遺跡で有名

954 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 22:01:06.11 .net
大正時代まで縄文土器と弥生土器の前後関係も確定してなかったのか

955 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 22:10:43.73 .net
>>952
> 奴国は博多近辺で筑後平野の一部も含むか、くらいのエリアで2万戸。
> 推定と全然合わないな。

推定が間違ってるんだろ。
逆に推定が合ってるとしても、邪馬台国7万戸は、奴国との比率で捉えるべき。

956 :日本@名無史さん:2015/01/27(火) 22:51:58.04 .net
江戸時代は肥後1国で85万石とか

957 :日本@名無史さん:2015/01/29(木) 00:08:57.46 .net
宮崎の弥生はたぶん疎らな開拓地が点々とあるくらいの人口が少ないとこ

958 :日本@名無史さん:2015/01/29(木) 19:33:51.51 .net
天照大御神が瓊瓊杵尊に持たせたのは、稲穂、鏡、勾玉、剣。
天孫降臨まで稲作はなかったが、先住民は何故か稲作の知識を持っていた(日向国風土記)。

959 :日本@名無史さん:2015/01/29(木) 21:35:41.88 .net
縄文の終わりごろに水田を作っていたんならそりゃ知ってるだろう
北部九州や瀬戸内海の状況も知ってたし

960 :日本@名無史さん:2015/01/29(木) 21:55:27.11 .net
銅鐸も銅剣も銅矛もない化外の地

961 :日本@名無史さん:2015/01/29(木) 22:03:56.30 .net
銅鐸は畿内の先住民のものだし、銅矛は朝鮮人のものだよ。
銅剣は役立たずだし。

962 :日本@名無史さん:2015/01/29(木) 23:25:38.71 .net
銅鐸、銅剣、銅矛はともかく、

養蚕をして絹織物を作る
海に潜って魚や貝を捕る

アウト

963 :日本@名無史さん:2015/01/30(金) 00:27:17.38 .net
>>961
たしかに銅剣は武器としては役立たず
でも代わりに何か役立つもの持ってたの?

964 :日本@名無史さん:2015/01/30(金) 21:04:08.82 .net
天孫降臨が高千穂峡の高千穂ならニニギノミコトは熊本人ですね

965 :日本@名無史さん:2015/01/30(金) 22:08:40.86 .net
ニニギノミコトは福岡人
熊本は通り道

966 :日本@名無史さん:2015/01/30(金) 22:39:36.80 .net
>>886
詳細報告
南九州で見つかった豪華な数々の副葬品400点もの
稀に見る質と量は大型前方後円墳級に匹敵するものらしい

967 :日本@名無史さん:2015/01/30(金) 23:15:41.25 .net
>矢羽根周辺に黒漆を塗ったものを含む約300本の矢や、
>箱に入った状態の鏡など計400点を超える副葬品
>銀装円頭大刀が出土したのは九州で初めて

豪華だが武器防具類に偏る

968 :日本@名無史さん:2015/01/30(金) 23:29:46.70 .net
>>967
古墳時代における九州トップに位置する
指導者だった墓ではないかと言われてますね

969 :日本@名無史さん:2015/01/30(金) 23:58:56.98 .net
鉄製農具や石包丁型鉄器が出土する方が発展した社会が想像される
とも取れる

970 :日本@名無史さん:2015/01/31(土) 00:32:06.81 .net
>>968
そこまで言ってないだろw

971 :日本@名無史さん:2015/01/31(土) 01:02:02.47 .net
その武力で何をどうしたのかってのが問題だ

972 :日本@名無史さん:2015/01/31(土) 01:31:12.00 .net
社会の発展途上で武力偏重して仮に発展基盤が破壊されると、
武力を除いたら何もなくなる状態になる。
中世なら生産もある程度上がっているが時代はまだ古墳時代。
概ね安定して開墾や生産に邁進した北部九州は後の発展に繋がった。

973 :日本@名無史さん:2015/01/31(土) 02:24:10.52 .net
>>964
高千穂峡なら四国に韓国があることになる

974 :日本@名無史さん:2015/01/31(土) 08:43:31.71 .net
宮崎人は熊襲や隼人と言われると激怒するそうだな?

975 :日本@名無史さん:2015/01/31(土) 21:13:58.94 .net
本物中の本物の宇宙才に会ったことある?

976 :日本@名無史さん:2015/01/31(土) 22:06:21.73 .net
>>975
その宇宙才が全部ぶちまけてくれないかな
もうスレも終わるし

977 :日本@名無史さん:2015/01/31(土) 23:14:37.28 .net
>>973
延岡の古名称は縣さらに昔は吾田もっと昔は英多と書いたんでしょ?

978 :日本@名無史さん:2015/01/31(土) 23:31:57.61 .net
そもそも古事記に、半島のことを「韓国」と書いた用例はない。
日本書記には「膂宍の空国」によることから、古事記のもとになった口伝の「からくに」は空っぽ国という意味だと考えられる。

979 :日本@名無史さん:2015/02/01(日) 00:09:47.69 .net
>>978
韓国のくだりは日本書紀には無いな。
高千穂については、日本書紀の日向の襲の高千穂峯なら、霧島山の高千穂峰しか無いな。
で、膂宍空国自頓丘覓国行去、到於吾田長屋笠狭之御碕。
覓は求める。国を求めて吾田長屋笠狭之御碕でやっとある人と出会った。

980 :日本@名無史さん:2015/02/01(日) 00:17:38.04 .net
譬えば鹿の角の如し。無実たる国なり。

981 :日本@名無史さん:2015/02/01(日) 01:19:38.31 .net
>>974
そんな配慮の無いことを口にしない
隼人は好意的に見る人もいる
歴史は勝者の歴史

982 :日本@名無史さん:2015/02/01(日) 02:18:34.22 .net
高千穂町の高千穂峡なら四国が空っぽの国か
どっちにしても四国の人は怒るだろうな

983 :日本@名無史さん:2015/02/01(日) 07:18:43.29 .net
誰も天照大神の古墳を探そうとしない。
日本列島にいなかったことは、みんな気付いてるからね。

984 :日本@名無史さん:2015/02/01(日) 08:34:01.34 .net
死んでないから、古墳がないのは当然じゃん

985 :日本@名無史さん:2015/02/01(日) 17:57:45.53 .net
宮崎の大きい神社は住まいの跡とかそういうのなんでしょ

986 :日本@名無史さん:2015/02/14(土) 10:30:32.28 ID:Cf+QA5uci
日本書紀が編纂された頃もだが、それ以前に高千穂の峰という呼び名の山が存在したか?
そんな地名はまだないはず。高千穂の峰とは高く聳え立った山との意味。天孫降臨神話は
大陸から渡来人が上陸したこと、日向(ひむか)の中心は大隅、しかも襲の国の中心は
鹿屋近辺であったと思われることから高千穂の峰は高隈山ではなかろうか。

日向から大隅の国が分国させられ国分に国府が置かれまつろわぬ隼人勢力が分断させられ、
天孫降臨は霧島と意図的にされてきたと思われます。東九州道の遺跡発掘からもそのことが
裏付けられようとしています。

高隈山麓、鹿屋体育大近くの高千穂神社に残る伝承、高隈山を仰ぎ見る位置に人工的に造られた
と思われる霧島神社、この神社と高隈山の間で出土している数々の遺跡等を本気で調べると面白いのでは?

987 :日本@名無史さん:2015/02/14(土) 10:47:05.36 ID:Cf+QA5uci
http://w01.tp1.jp/~a394336126/223otsuka.htm

大隅邪馬台国論の河野氏の説です。説得力があります。大隅から出土する重要遺跡を頭から否定する学会。しかも地元の学者が否定しますが派閥に属しているからで、学問上の見解ではなく政治上の見解です。

この大塚古墳でもこんな僻地に早くからできるはずがないなど偏見ではなく頭からの否定です。渡来人が渡ってきたように大隅は当時、日本で一番大陸と近く先進的であったはずです。だから多くの古墳が残り数多くの重要遺跡が出土しているわけです。僻地は今の時代の話です。

988 :日本@名無史さん:2015/03/08(日) 08:59:29.78 ID:UZd79seCm
邪馬台国は畿内はない。魏志倭人伝の内容とあわない。邪馬台国があったと思われる頃、
大阪は今よりも海が入り込み奈良も湿地帯の可能性が高い。また、纏向遺跡は如巨大な
都市で突如出現している。まず、纏向がなぜできたかを解明することが先なのに機内派は
先に機内ありきで、無理に当てはめている。

箸墓は巨大すぎて魏志倭人伝の卑弥呼の墓とは大きさが違いすぎる。卑弥呼の墓は円墳と
思われることからも違う。それと、箸墓の環濠から出土した木片の炭素年代で墓の成立を
決めるのは無理な手法。魏志倭人伝の邪馬台国(本当は邪馬壱国)は1年中温暖で魚や
生野菜を食べられ、住民は顔にも刺青をしていたと書いてあることから南九州、
下手すると奄美、沖縄の可能性あり。

ただ、楽浪郡からの距離だが、対馬まで一千里、対馬から壱岐まで一千里、壱岐から末盧
まで一千里と同じ距離だ。これは、距離ではなく1日という意味か距離不明の意味か。
また、楽浪郡を拠点に各地への距離を書いているとの説もあり、それだと北部九州で落ち着く。

南九州が邪馬台国の可能性もあるが魏との関係を考えれば北部九州の可能性が高い。邪馬台国の
北に一大卒を置いたとあるが、監視拠点であったのかもしれない。大宰府が一大卒ではとの気もする。
最近の大隅地方、えびもからの重要遺跡の出土から、中国南部から渡ってきた渡来人(呉の末裔か?)
が薩摩半島の笠沙〜大隅半島内之浦〜志布志湾へ上陸して肝属平野を中心にして北上して都城、
宮崎、西都へと視力を延したかもしれない。

また、宮崎海岸へも上陸したかもしれないし、川内、天草、島原、五島などへも上陸したかもしれない。
大隅と五島、高知、熊野、青森など、海に面した地域が言語、DNAなど関連性が多いようだ。
大隅から熊本〜北部九州へ北上して邪馬台国ができたのか、中国山東半島経由で北部九州へ渡った一派が
邪馬台国を作ったのかはまだ謎だが、えびのからの遺跡に半島との繋がりも発見されている。

これを即大和朝廷からの贈答品と決めつけるのは早計。鹿屋市串良の下久保遺跡からは1500年前の
大規模な鉄の鍛造工房が発見された。しかも、志布志湾から真下の串良川まで船が接岸できた。
志布志湾沿岸、えびの、西都原、これらの関連性を早急に調べるべきであろう。

989 :日本@名無史さん:2015/04/14(火) 22:26:12.27 ID:jdzOzI9zC
九州には「串」の付く地名が多いが、何か意味があるんだろうな。

990 :日本@名無史さん:2015/04/18(土) 20:43:49.63 ID:SeSkLRmn8
都城を中心とする南九州の地名が和歌山県の紀伊半島の地名と逆回りで十数か所一致するという話もあったな。

991 :日本@名無史さん:2015/05/06(水) 00:31:06.02 ID:jVzjgQweM
串は天孫降臨の「筑紫(ちくし)の日向(ひむか)の高千穂のくしふる峰」の「くしふる」の「くし」に由来すると思います。
また、志布志湾に上陸した中国大陸からの渡来人は船を操る民で、紀伊半島だけでなく、天草・島原、五島、出雲、能登、津軽などとの
地名、言語、DNAなど関連が多いそうです。尾張もですね。

992 :日本@名無史さん:2015/05/06(水) 00:36:32.59 ID:jVzjgQweM
都城には諸県の君なる大王、また、仁徳天皇に見初められた髪長姫も都城。
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1001523164.html

志布志湾〜都城・えびの、宮崎、西都の南九州は日本の歴史の原点。

993 :日本@名無史さん:2015/05/15(金) 14:03:11.48 ID:J/1hiYuYT
原田常治『古代日本正史』

994 :日本@名無史さん:2015/06/14(日) 09:21:51.45 ID:b51a65YzZ
https://www.pref.kagoshima.jp/ba08/suzu.html

またもや出ました。相変わらず大和朝廷の影響が及んでいたなどとの戯言。
しかも2012年に出土したにも関わらず今頃の発表。よほどまずかったのでしょう。
発見された時、女性の遺骨、大量の太刀や装身具が発見され、それだけでも大発見。

この青銅の鈴は中国製。大和の影響力が及んでいたのではなく、やはりこの地が大陸からの
渡来人の地で、志布志湾に上陸した渡来人が南九州へ拡がり、そして北九州にまで影響を
及ぼして朝鮮半島に伽耶(任那)を作ったものと思われます。その伽耶はやはり鹿屋では
ないでしょうか。

志布志湾一帯の平野の遺跡は大和朝廷により壊されたり隠されたりしていますが山手の
遺跡は辛うじて守れており1500年〜2000年の時を経て高速道建設で出土しました。

南九州に神代3山陵、神武、神武東征の碑が散らばっているがその南端は大隅。渡来人が
今の宮崎県日向市近辺に上陸して南下したとは思われず。やはり、南から北上したのが各地の
伝承となっていると思われます。それを売らずけたのが今回高速道ルート、その他の開発等から
出土した数々の重要遺跡。

やはり古代ひむかの中心は大隅であり、この出土した遺跡の正面には仰ぎ見るように高隈山が
そびえてます。この遺跡のすぐ下の川久保遺跡からは5世紀の大規模な鉄の鍛造工房も発見。
その真下には不自然なピラミッド形の小山があり、頂上には祠あり。何の説明もない古びた祠。
祠へは参道が作ってあり、入り口には霧島神社の鳥居があるだけ。江戸時代に霧島神宮の僧侶が
この神社の資料等を強奪したとの伝承あり。

995 :日本@名無史さん:2015/06/14(日) 09:37:18.53 ID:b51a65YzZ
長くなり申し訳ありません。
http://www.masahiko-fukushima.com/ramune1/15_minami_kyuusyuu.html

地図で見ると、これまで先行していた西都原等宮崎地方を追いかかるように
大隅から遺跡が出土。今のところ5世紀頃が多いが本当なのか、もっと古い
のかもという気もします。今後、大崎〜志布志〜串間にかけて、さらに期待
されます。大量に出土している地帯が串良です。串間と同じ串が使われて
ますが、元は櫛かもしれません。そうです、天孫後輪のくじふるとの関係です。

996 :日本@名無史さん:2015/06/20(土) 17:08:19.42 ID:eFUXlYkUx
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/dfa3241cf12432febe1480c01c9f5375
台湾人、張明澄が魏志倭人伝を解読。邪馬台国は阿久根と書いてあるが、出水の方が可能性高い。

997 :くらも天狗:2015/06/21(日) 16:06:09.49
漢の時代に夏至の時の影の長さの差により南北間の距離を求める手法が
開発された。その法によると狗邪韓国から七千里北は北緯約40°となる。
そこから一万二千里南は宮崎の地となる。そこで邪馬台国の位置は
天体測量で定められたものであることが分かる。なお、なお北緯40°は
鴨緑江の河口付近となり、郡(楽浪郡および帯方郡も含め)の南境
と見られる(山形明郷)。邪馬台国を西都原とすることは普通
墓と都は少し離れた所にある可能性が高く大淀川の川辺が邪馬台国
であろう。


なお北緯40°は鴨緑江の河口付近となり、郡(楽浪郡および帯方郡も含め)の南境と見られる(山形明郷)。邪馬台国を西都とすることは墓と都は少し離れた所にある可能性が高く大淀川の川辺が邪馬台国であろう。

998 :日本@名無史さん:2015/06/23(火) 06:01:58.52 ID:xxAERqP0l
>>996 魏志倭人伝は漢文訓読より英訳して読む方がいいんだろうな。

 他の漢文も一度英訳すべきだ。現代シナ語訳も必要だ。

999 :日本@名無史さん:2015/07/04(土) 23:48:00.14 ID:WgIeED1pq
今まで思わなかったことだが、魏志倭人伝は中国で書かれた歴史書。
これまで日本人が、方角、距離で侃侃諤諤の議論を行い比定地で争って
きたが、なぜ中国の学者に解読を依頼しなかったのだろう。
それが一番早い気がする。

帯方郡から対馬、壱岐、末蘆国の各距離が同じだった気がします。なぜ?

1000 :日本@名無史さん:2015/07/05(日) 23:37:04.13 ID:bv8cMI9hZ
それは単にプライドの問題。

1001 :日本@名無史さん:2015/07/06(月) 10:58:13.38 ID:oBQM0R4yL
真実がわかると失職する学者が困るし。天皇家の出自が問題になるので

1002 :日本@名無史さん:2015/07/11(土) 17:47:20.94 ID:Snq5gpHZ0
そうなんですか。歴史は正しくはないんですか。正さないんですか。

1003 :日本@名無史さん:2015/07/12(日) 09:42:37.73 ID:mScSPEWLc
勝ったものが都合よく書き換えるのが歴史。戦前・戦後の歴史も米英中心だし、
中国、朝鮮の反日も裏には米英がいますから。

1004 :日本@名無史さん:2015/07/12(日) 13:44:24.40 ID:NMzTd+sp9
大隅から続々重要遺跡が出土しても無視の学会。それでいいのか!

1005 :日本@名無史さん:2015/07/19(日) 09:13:57.62 ID:/bK0TZDny
またまた出土。大崎町の天神段遺跡から2100年前の鉄族(鉄の矢じり)出土。
これは福岡や佐賀で出土した鉄族と同年代の国内最古。大隅と北部九州と関連が
あったのだろうと。半島南部を支配していた倭人とは本土土着の縄文人だったのだろうか。
揚子江流域の呉越人などではないかとも言われてます。その彼らが北部九州や南部九州へ
渡った。そう考えると今回の謎も解けるし、南九州に天孫降臨や神武東征が渡来人によるもの
という推測もたちます。やはり、南九州ルートは、川内、吹上から志布志湾へ上陸し縄文人と
同化しながら勢力を伸ばし、海岸線と内陸部から宮崎へ進んだことが、南九州各地に点在する
神話と符合します。

1006 :日本@名無史さん:2015/07/31(金) 18:00:11.16 ID:OrIToEoAm
魏志倭人伝に倭人は温暖な気候で生野菜を食し鯨面分身を施していたとあることから
呉の風習と似ています。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54324876.html
呉の鯨面分身についてです。

1007 :日本@名無史さん:2015/07/31(金) 23:48:41.49 ID:eyDrCGjPI
涙腺崩壊 号泣
http://power-of-nature.blue/cmyhl/

1008 :日本@名無史さん:2015/09/14(月) 09:43:30.00 ID:LndnjQOjy
中国の国書に書かれている倭人とは山東省あたりの呉越の人々でしょうね。だから、朝鮮の三国史記にも古代より朝鮮南部を倭人が
支配し新羅建国にも倭人が関わっているのでしょう。山東省の倭人は朝鮮南部だけでなく北部九州へも渡来。また、山東省又は江南
方面から中部九州(熊本か)、薩摩半島・大隅半島の南部九州へも渡来したものと思われる。だから、天孫降臨が笠沙の岬なのだろう。
高千穂とは後世名づけられた山名であり、元は細長く天にそびえる山と思われます。

海上から又は接岸時に見えた山が高千穂の峰ではなかろうか。南部九州では薩摩半島の金峰山、開門岳、大隅半島の国見岳、高隈山
あたりが有力。北部九州だとどこでしょうか?

1009 :日本@名無史さん:2015/09/23(水) 10:21:39.56 ID:NKDHsfvNf
今の遺跡発掘は道路工事など公共工事や奈良など学術的調査が必要な場所しか公的工事は行いません。
それ以外は自己負担になります。だから、重要な遺跡が壊されたり届けられなかったりするわけです。
志布志湾沿岸、王子遺跡周辺、東九州周辺など重要遺跡出土の可能性の高い場所は国策で調査すべきです。

それとも変なのが出たらまずいんすかね。

1010 :日本@名無史さん:2015/10/04(日) 05:09:59.50 ID:EBMkQ2wdO
■在日韓国人の道徳的感覚の異常性

※大前提、朝鮮人(韓国)に日本人の常識は通用しない

1:韓国人との契約は交わしても無駄、
平気で約束を破り、さらに被害者面をしてきます

2:韓国人は妬み嫉みを妄想で恨に変え、末代まで恨み続けます

3:韓国人にとって良い事は自分のおかげ 悪い事はすべて日本人のせいである

4:韓国人は恩を受けても感謝することなく、仇で返すのが通常である

5:韓国人は常に日本人の悪口を真偽問わず吹聴して回ります、しかし日本人に対しては 韓日友好と叫んでいます

6:韓国人はフェアプレイの概念が存在しません

7:韓国人は努力する事よりも、他人の足を引っ張ることに情熱を注ぎます。

8:韓国人は何事も「ゴネればゴネるほど得だ!」という価値観を持っています。

9:韓国人は震災や事件、事故で日本人が死んだと聞いたらとても喜びます

10:韓国人にとって英雄になる手っ取り早い方法は日本人を殺す事です。

11:日本人は韓国人に殺されても文句を言ってはいけないと本気で思っています

関連記事
■私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。
(明治18年(1885年)3月16日) 福沢諭吉『脱亜論』
■もはや韓国とは「基本的価値を共有」していない= 外務省
http://www.j-cast.com/2015/03/03229378.html?p=all

1011 :【朝鮮半島は邪馬台国時代から日本の領土である!】:2015/12/24(木) 11:36:49.93 ID:1upAWidJm
朝鮮人!よく聞け!


中国北方から朝鮮半島は日本の領土だ!


邪馬台国の女王卑弥呼は朝鮮半島を治めていたことが分かった!


明治政府はこの歴史的事実を根拠にし、日韓併合を断行したものと思われる!


朝鮮半島は3世紀の昔から日本の領土である!


http://c.2ch.sc/test/-/history/1450557970/i

1012 :大満州先生:2016/03/02(水) 18:07:17.33 ID:SBIQ28h1w
ポクの本を買って読めば分かるのである。卑弥呼は北朝鮮人なのである。ポクの本に書いてある。

1013 :ポクはパカである( ̄∀ ̄):2016/03/02(水) 23:19:32.14 ID:siZc3fZOh
ポクは満州先生である( ̄∀ ̄)

1014 :日本@名無史さん:2016/04/01(金) 12:05:19.79 ID:PtFKM1qin
高千穂という名は、
海洋民族から見ると天に届く大きな帆に見えたことから名付けられた。
阿蘇、霧島などの火山を、元々は高い千の帆と言ってたのではないか?

1015 :日本@名無史さん:2016/04/01(金) 12:36:06.62 ID:PtFKM1qin
火山そのものではなく、その立ち昇る噴煙のことです。

1016 :在日北朝鮮人工作員コング:2016/04/01(金) 17:09:00.22 ID:eUsCibad5
ピミらはパカたな。ピミコはポクの祖国にいたのてある。ポクの本に書いてある。長兄はよく理解している。ピミらも見習うぺきてある。

1017 :日本@名無史さん:2016/12/26(月) 10:02:54.53 ID:+toTOpCp9
またもや鹿屋市細山田から2000年前の青銅ののみが出土。全国で3例目だが精巧さは最高かも。

1018 :日本@名無史さん:2017/03/12(日) 10:19:34.18 ID:TKw/jIruj
高千穂などの地名は古代なく後で付けた名ですね。霧島もそうです。
宮崎県の高千穂は山岳信仰でしょうね。鹿児島の霧島も後で付けた名で、
霧島の麓の旧隼人、国分は7500年前は海です。霧島市の入口の高台、
上野原遺跡の真下まで海だったようです。ここも本当は大隅です。

しかし、国分平野ができて今のように人が住みだしたとはいえ、それも
上野原など高台から降りてきた縄文人や志布志湾に上陸した渡来人が移住して
開けたと思われます。歴史的には浅い地域で元の霧島神宮、鹿児島神宮が古い
くらいで古い遺跡は出ないです。

だから、ここも後で政治的に天孫降臨の地とされた気がします。それは明治初めの
神代3山陵の比定によってでしょう。霧島市にある高屋山陵、明治初めまでは
旧内之浦町の国見岳にあり明治天皇も行幸しています。薩摩川内市にある可愛山陵、
これも旧高山(本来は神山)町の甫与志岳にあったのを、天皇家のルーツを隠すためか
県内に分散したようです。

1019 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 09:49:42.55 ID:NQwps6pFs
天孫降臨の日向(ひむか)は国ではなく地名との説あり。それだと福岡に日向の地名があり、韓国へ向かうとも符合します。宮崎県の高千穂や鹿児島の霧島山は天孫降臨地ではなく後付けでしょう。

九州北部か南部(薩摩半島)のどちらかでしょう。

1020 :日本@名無史さん:2017/06/04(日) 10:46:55.45 ID:jiAkxxN84
沖縄から国内最古の完全な人体出土。
魏志倭人伝を素直に読めば邪馬台国は奄美か沖縄になるので否定されているが、
本当は沖縄の可能性もあり。邪馬台国の風俗は顔や体に入れ墨を入れており、
これはサメから守るため。また、服も南方ほいし温暖な気候で生野菜を食べて
いたことから南方ぽい。

九州北部や奈良は気候、風習が違うと思われます。九州南部〜沖縄の間では?

1021 :日本@名無史さん:2017/12/16(土) 11:07:10.50 ID:vCvEKEnca
邪馬台国は宮崎県だったかもな。地図を見ると、延岡と四国の宿毛の間の距離が、釜山と対馬(下島)との間とほぼ同じくらい。宿毛沖には小島があるので釜山〜対馬よりは楽だが。

1022 :日本@名無史さん:2017/12/16(土) 11:08:53.66 ID:vCvEKEnca
(続き)ここで鍛えられた航海術が、瀬戸内海みたいな甘っちょろい海しか知らなかった北九州(大分、福岡)のクニを押さえて、邪馬台国を九州の覇者に押し上げたんじゃないかな。

1023 :日本@名無史さん:2017/12/16(土) 11:12:01.27 ID:vCvEKEnca
(続き)延岡から南に流されると太平洋を流され続けるので、対馬海流に流される日本海以上に恐ろしい。ここで鍛えられた人間だからこそ、朝鮮半島を行き来できたんだと思う。

1024 :日本@名無史さん:2017/12/16(土) 11:15:56.17 ID:vCvEKEnca
(続き)邪馬台国が奴国よりもずっと南にあるにもかかわらず、邪馬台国の女王が奴国に常駐した謎もこれで説明がつく。常時延岡〜宿毛を行き来して長距離航海に馴れた邪馬台国の力が他のクニを圧倒するようになったのは当然だ。

1025 :銀河 秋彩:2017/12/17(日) 10:24:28.91
邪馬台(→ やまと)国の発祥地は、魏帝・曹芳の認めた、
倒語(逆しま語)の、投馬国(とまや ←)である。

それにしても、日本@名無史は、無知米納!(笑)

1026 :銀河 秋彩:2017/12/17(日) 10:27:42.74
ヤマト王権の移動
http://ginga3396.blog.fc2.com/blog-entry-782.html

1027 :銀河 秋彩:2017/12/17(日) 10:30:34.25
 ヤマト王権の移動
西暦248年9月の日の出時の日食(天照大神=台与→豊の出現)
【●鏡圏】臺与(蘇我氏)の「投馬国(とまや←倒語)」
⇒ 「邪馬臺(→ やまと)国・(発祥地)トカラ列島の宝島」
⇒ 斉明太上天皇(宝皇女)の(天草)御所ケ浦島・比良宮
【宮崎康平の邪馬臺国】
⇒ 推古太上天皇(額田王)の女王国(薩摩)
⇒ 西暦639年・倭国(物部氏)孝徳天皇(大国主命)と
合併(大倭国薩摩=女王国)『万葉集』に記載在り。
唐軍の劉 仁願【天智天皇■大伴氏】と委奴国(薩摩)
⇒ 推古太上天皇(小野妹子=蘇因高)のイ妥国(臺国)・『隋書』 
⇒ 日本国(九州・奈良)

総レス数 1027
339 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★