2ちゃんねる スマホ用 ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

◎邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)に存在した!3

1 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 20:25:17.16 .net
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。

1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
  尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
  9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
  邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
  これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
  人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。

朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。

前スレ
◎邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)に存在した!2

http://mimizun.com/log/2ch/history/1337166055/

2 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 21:57:09.88 .net
しかし西都原は邪馬台国の時代に合わないため、比較的支持は低い

3 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:11:27.20 .net
合わなさ杉
4世紀かせいぜい3世紀末からだろ>西都原

4 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:17:05.58 .net
しかも主要な古墳郡はモロに畿内の影響を示したもの

5 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:24:41.29 .net
畿内の古墳よりも早いか同時期かってとこだろう。畿内の影響か、畿内へ影響を
与えたのかはこれからの問題だ。

6 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:24:47.01 .net
マキムク型とか○○の○分の○の相似古墳とかそれは畿内の影響を受けていたってことで
畿内の方がでかければ畿内説を補強する材料になる

7 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:35:41.10 .net
明らかな同一設計図(法)の広がりを持ってるから畿内中央政権の学説が成り立っているんだろ…
てか、地方古墳の立て看板にも説明記載されてるレベルの話だぞ…

8 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:44:14.67 .net
いつの学説だよ。立て看板が根拠か。

9 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:44:42.71 .net
年代が3世紀半ばくらいにならないと卑弥呼の墓じゃないんで…

10 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:46:48.89 .net
おめでたい連中だな。マキムク型なんてのは、現代のアホな学者がつけた仮のネーミングに
すぎない。物を作るときにまず大きな物を作ってそれを2分の1、3分の1にするか?
ジャンボ機を作ってそれから小型機を作ったのか? 普通、物は小さい物を先に作ってその
技術を使ってそれより大きな物を作るものだ。古墳だって同じだろう。いきなり大きな物を
造るなんてことはない。機内の古墳は地方の古墳ができた後に造られたもんだよ。

11 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:00:48.21 .net
畿内より古い可能性をそれなりの証拠と共に示さなきゃ話にならんよ

12 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:00:49.72 .net
うわ…
古墳についての学術書の一二冊でも読めばわかりそうなモノだが、ここのやつらはそれもせず西都原がーとなのたまってるのか?

まあ自分の研究に自信がおありなら2ちゃんじゃなく学会にでも発表したまえ

13 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:05:24.50 .net
1冊だけタイトルと出版年を教えてください

14 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:07:57.52 .net
畿内の古墳は槨をもっている、しかし、日向の古墳には槨のないものがある。
槨のないものの方が古そうだな。
副葬品も検討してみろ、畿内の古墳をまねたのならばそれと同様のものを副葬
するのが自然だ。しかし、日向の古墳の副葬品は畿内のそれとはちがうものが多い。

15 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:09:54.20 .net
自分の力で見つけなさい

16 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:11:17.43 .net
とりあえずメサホは典型的な5世紀前半畿内型
畿内に少ない4世紀柄鏡型を調べたら良いんでないの

17 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:13:51.82 .net
とりあえず畿内古墳統一規格の話だろ?
西都原古墳郡の代表的なのはそれにあたる

18 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:15:15.70 .net
4世紀とか5世紀とか卑弥呼云々に関係ない。

19 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:23:46.91 .net
西都原、吉野ヶ里、宇佐=時代が合わない
平原遺跡=伊都国濃厚

さあ九州説、あとはどこだ?

20 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:24:53.05 .net
古墳は特別な遺物とか70代女性遺骨とかそんなのが出ないと何だってことにならない。
纒向みたいに3世紀の巨大な掘立柱建物跡とか出ているのかな?
ふさわしい居館がないとね。

21 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:30:45.05 .net
これは畿内説だけでなく他の多くの説に言えることだけど
旁国21か国どころか、奴国、投馬国、狗奴国さえかなり曖昧な比定なのに
なぜ邪馬台国だけ明確にわかるのか、というのが疑問。
町おこし的な説ゆえなのだと一応解釈してるけど。

22 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:37:12.78 .net
>>21
そのとおり
我が町に卑弥呼がいたらいいなって話
「ここが邪馬台国どぇ〜す」とか書かれた立て看板でも発見しないと確定は無理
勿論文字を使わない時代だから未来永劫確定は不可能だろう
ただ発掘調査の進展で当時の日本の様子をある程度浮き彫りにすることが出来るから調査員の成果を待ちましょう

23 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:42:53.75 .net
>>19
>西都原、吉野ヶ里、宇佐=時代が合わない
そんなことは簡単に言えることではない。古墳の年代なんぞいくらでも動く。
決定的な証拠はない。

24 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:47:09.33 .net
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告之

狗奴国は邪馬台国に匹敵しすぎなんですけど狗奴国がどこなのかも看板に書いといてほしい

25 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:50:46.47 .net
やっぱ畿内しかない気がしてきた

26 :日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:58:50.62 .net
じゃあ邪馬台国畿内派スレ行けばいいじゃん^^

27 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 06:45:56.99 .net
弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。

 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)
の邪馬台国【銅鏡祭祀】に国を譲る【銅鐸処分→九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
 これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、「和」国が分裂、卑弥呼は急死(男弟/魏の将軍張政/狗奴国による暗殺説)。

-分裂した「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘

 卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎えた後、旧奴国&隅国(隼人)と同盟を結び、肥後狗奴国(後の熊襲)
を一網打尽にし、倭「和」国を再統一した。
 「和」国際統一の偉業をなした男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、五胡十六国の戦乱の影響から
距離を置くため、都を筑紫・博多から先遣隊長ニギハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷。その女系先祖・卑弥呼(アマテラス)
&台与以来の【銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始する。

※古事記・日本書紀が、日向長官の先祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
 銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の偉大な功績を消され出雲に祀られる。

28 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 06:47:32.76 .net
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(双方の直系男子途絶による)政権交代

4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬国)系大王【四道将軍、ヤマトタケル征東、熊襲討伐、国造任命】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王【倭の五王(讃珍済興武)→獲加多支鹵大王】
   →(高句麗の南侵に脅かされた)百済・新羅・伽耶(任那)への軍事援助により「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王


-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
  …継体の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
  …筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
  …「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を完全喪失。国力大幅低下&大増税→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
  …両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
  …筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都

29 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 10:21:52.06 .net
年代なんていくらでもいじれる。

30 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 12:00:24.88 .net
投馬(つま)国って薩摩国のことなんジャマイカ?

31 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 14:33:03.96 .net
投馬国とは狗奴国のことかもね?
邪馬台国の7分の5なら匹敵し得るし

32 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 20:11:36.38 .net
いくらでもいじれるわけないだろう
調査もしてないが墳丘の形で推定で○世紀とはされる

33 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 20:15:45.87 .net
>>31
変な薬でもやってるの?

34 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 21:02:54.26 .net
仮に邪馬台国を西都原に持って来るとして狗奴国と投馬国をどこに持ってくるつもりなの?

35 :日本@名無史さん:2013/02/04(月) 23:14:37.86 .net
>狗奴国は邪馬台国に匹敵しすぎなんですけど
どこをみて匹敵すると思っているのかな。狗奴国は旁国の一つにすぎないし、
官は1人しか書いてないし、倭人伝より後の史書では名前すら消えてしまっているし。

36 :日本@名無史さん:2013/02/05(火) 00:05:19.65 .net
自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王 @後漢書
なんてのがあったりする
自己解釈で勝手に改変したような感が否めないけどな

37 :日本@名無史さん:2013/02/05(火) 00:16:48.34 .net
後漢書がいうのは拘奴國。倭人伝が書くのは狗奴国。位置もちがう、国名もちがうのに
同じとみるのはそれこそ自己解釈。

38 :日本@名無史さん:2013/02/05(火) 20:17:45.05 .net
航空機事故に関する続報
このニュースはテレビでは流れない重要なことなので

【航空】ボーイング787バッテリー問題、米NTSBが内部告発者の情報に関心[13/01/25]
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1359075767/
電池本体=日本
充電器=英系アメリカ工場
過充電防止装置=フランス

内部告発者の1人、マイケル・レオン氏は英メギット傘下セキュラプレーン・テクノロジーズ社が充電装置の出荷を急いでいたと主張。
この充電装置について、仕様と一致せず、正常に作動しなくなる可能性を指摘していた。

39 :日本@名無史さん:2013/02/26(火) 23:01:21.25 .net
粘土槨の古いものはいつごろかな?

40 :日本@名無史さん:2013/03/21(木) 20:10:42.35 .net
先週の16日にBSプレで放送された「古事記ガール 日向路を旅する」
内容はともかく「古事記ガール」が気になる。
宿無し物乞い娘に聞こえてしまう・・・

41 :日本@名無史さん:2013/03/21(木) 22:39:40.47 .net
確信犯で掛けてたんではないのw
まず出てくるだろう高千穂はどこに比定していたのかとかいろいろ気になる。
禊祓から天孫降臨までどう描いてたのかとか。

42 :日本@名無史さん:2013/03/22(金) 16:39:10.82 .net
高千穂が九州であることは異論は無いのだが、
高千穂町or霧島山高千穂峰の二択で異論がないかというと、
必ずしもそうでもないですよ。

43 :日本@名無史さん:2013/03/22(金) 17:24:25.82 .net
鹿児島側の霧島市と、都城・えびの側の霧島と、
高千穂周辺のつながりがイマイチピンと来ないんだよね

44 :日本@名無史さん:2013/03/22(金) 19:29:11.28 .net
北の高千穂については、阿蘇あたりを含めて高千穂と読んでいた確かな証拠がある。
南の霧島山の天逆鉾はレプリカ。
本物?は行方不明だが本物と言うのも記紀を読んで誰かが刺したものと思われる。

45 :日本@名無史さん:2013/03/22(金) 19:56:25.37 .net
高千穂町周辺=上高千穂
阿蘇=下高千穂
らしい

46 :日本@名無史さん:2013/03/23(土) 03:40:03.84 .net
阿蘇は外輪山の部分が大きくて中は高原のように草が生えてる
だから高千穂と呼ばれるのも納得いく
溶岩がゴロゴロした殺風景な山だと高千穂なんて地名はつかないだろう

47 :日本@名無史さん:2013/03/23(土) 17:12:52.00 .net
日本神話に記録されてるのは
高千穂町の”高千穂峡”じゃぁなく
霧島山の”高千穂峰”に
天照大神の孫であり神武天皇の祖先である
邇邇芸命が高千穂峰に誕生するんだからね

48 :日本@名無史さん:2013/03/23(土) 21:12:17.49 .net
記紀を読んでると霧島山の高千穂峰のように思えてくるんですけどね

49 :日本@名無史さん:2013/03/23(土) 21:34:55.23 .net
日向国は古くは建日別と言うのですが、
景行天皇の皇子の豊国別が日向国造になったと書いてあります。
豊国別って?意味深なネーミングを…
景行天皇が六年も滞在されたというのもどういうことなんですかね。

50 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 00:46:40.53 .net
それが5世紀前半、男狭穂塚と女狭穂塚が作られた時で、
仁徳天皇前後の時代じゃないかと思ってる。
景行天皇かどうかは分からない。不敬のつもりはないけど、
実在性とか在位期間とか本当のところは誰も断定できない。
全く根も葉も無い話とまでは思わない。
5世紀前半頃に何か類することはあったんだろうと思うね。

51 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 00:53:24.58 .net
九州は少なくとも7世紀あたりまでは、
機内王権とかは関係無しにマイペースなもので。

52 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 00:56:06.17 .net
畿内とは関係ないのですかね?
景行天皇じゃなくて九州王朝?の王だったとか?

53 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 01:31:56.33 .net
畿内にも人物はいたのでしょうが、
九州で熊襲退治をやった人物とは別物でしょう。

記紀で九州の豪族の話を組み込んだものと思われます。

54 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 18:48:13.01 .net
高千穂の峰とは霧島の高千穂の山のことだろうか?
当時、そのような名称で呼ばれていたか?単に高い山の忌みではないだろうか。
南薩摩の笠沙とはかなりの距離があり簡単には行けない。笠沙近辺で高い山又は
山岳信仰となりえる山は開聞岳と金峰山だけだ。開聞岳麓には海幸彦伝説の枚聞(ひらきき)神社もあります。

http://www.ten-f.com/hirakiki.htm

55 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 19:08:22.06 .net
笠沙の御前も比定地はひとつじゃないんだよこれが

56 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 19:12:35.51 .net
高千穂の意味は一般名詞で「高い山が千重につらなる」と言うほどの意味。

しかし、日向風土記にはその由来が書いてある。
土蜘蛛の兄弟が瓊々杵尊に「千の穂を蒔かれませれば、眼下すべて豊かな田園となって
世はあなたの元で定まるでしょう」と進言したと言うもの。
そこで千穂の峰という名称が出来、
それが神武東征によって一般名詞となって全国に広まっていった、と言う説。
これもいかにも正しそう。どちらが先かは結局解っていない。

57 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 20:09:40.10 .net
豊国別命ってことは、豊国造腹の子という解釈もできそうな

豊国造は伊甚国造と同祖/宇那足尼
伊甚国造は房総の国で、下海上国、武蔵国、千葉国の国造と
同祖で、出雲臣族。
豊国別命の孫 老男命という名も意味深で、
下海上国の領域にあった匝瑳に、老尾神社がある。

出雲臣族が景行に使役されて兵として西に行ったんじゃないか。
国東には、国前郡武蔵郷という地名も。。

58 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 21:02:13.82 .net
チョット遊んでもいいんだけどヤメとこ〜^^

59 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 21:19:10.06 .net
男狭穂塚・女狭穂塚以後は陳腐化して規模も縮小して面白くない
4世紀は地域色あって盛況だったのに
まだ地域性は失われておらんw
7世紀とかもう古墳時代も終わりに近づくころだが
西都原の鬼の窟古墳(円墳)と、三財の常心塚古墳(方墳)の
横穴式石室+外堤という形は奈良の石舞台古墳しか類似例がないのだ

60 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 21:25:15.45 .net
>>58
遊んでってくれ

61 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 21:30:49.26 .net
景行の父 垂仁に因む生目神社も宮崎に。

景行の義理の母である狭穂姫は、添上郡に地盤がある。

景行が九州遠征の際に通った、周防国の娑麼(サバ)も、
サホ=スオ=サハ
で音が通る。

女狭穂塚もサホ。

熊襲を征服した地も、大隅国贈於郡(ソオ)
景行の母は狭穂姫??

狭穂姫は、垂仁の夢の中では、錦色の小蛇。

出雲系の出自ではないか。

サオとは諏訪か。

62 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 21:55:20.66 .net
古墳で出雲系を感じるには方墳?
方墳はきわめて少ないが、女狭穂塚の陪塚に方墳がある。
蛇=出雲として高原町の霞神社とかかな。
主祭神が大国主命という。

63 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 21:56:07.64 .net
阿蘇神社創建は景行18年。
阿蘇氏は景行に従って東国から来たんでしょう。

科野国造の系譜に、タケミナカタの子孫に
阿蘇姫があって、武五百建命の妻となっている。

神武なんていなかったという前提があると、
阿蘇神社社家の出自は、この方がすっきりする。

64 :日本@名無史さん:2013/03/24(日) 22:03:55.76 .net
>>62
出雲といっても、出雲あるいはヤマトから東国に流れた人々
じゃないかと。

武蔵国横見郡に、
吉見百穴横穴墓群

があって、ここは兄多毛比命を祀る神社などもあり
武蔵の中心であった可能性がある。

65 :日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:40:54.65 .net
トヨクニワケが出雲臣族とは

66 :日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:04:21.98 .net
常心塚古墳は馬子の墓にそっくり
鬼の窟古墳は独自の円形アレンジですかね
鬼の窟古墳が先かもしらんけど

67 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:55:40.85 .net
景行天皇の個人名は、オシロワケ。
母のヒバスヒメ・サホヒメは、丹後・但馬出身。オシロという名の式内社が但馬にある。
小代神社。
サホヒメの一族は但馬国造家 日下部宿禰氏、九条家の隠し系譜では但馬国造は
神部直氏(三輪氏)。欠史八代の出雲王朝の家柄。
但馬国造同族が国造になった甲斐には、日下部という古地名があり、式内社の神部神社
が2社ある。
甲斐においては、オシロがヤシロに転訛して地名が残っている。
その甲斐国八代郡には、垂仁8年創建の甲斐一宮、浅間神社がある。
ちなみに、但馬国にも式内社の浅間神社がある。

日向に八代郷があり、景行との関わりを偲ばせる。
なお、日向にも浅間大神を祀る都萬神社があり社家は日下部氏である。
都農神社は大国主を祀るが、都農には三輪姓が多く、神部氏=三輪氏の移住が
認められる。

但馬、甲斐、日向と、三輪氏と日下部氏のペアに関連する神社や、社家が
存在する点で共通しているが、景行で切ると綺麗に繋がる。

偶然の一致ではなく恐らく、景行に使役された出雲族の痕跡か。

この一族の痕跡の古さは但馬→甲斐→日向の順 

68 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 01:19:27.58 .net
男狭穂女狭穂塚を境に4世紀の持田とか大きな古墳を作った各地の勢力がその勢いを弱くしている
滅亡はしていないけど相当動揺したらしい
西都原の旧来の勢力は東の新田原に築造場所を変えたらしい
西都原で前方後円墳が復活するのは100年くらい後
移住を伴っていたのかな?

69 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 01:36:21.24 .net
5世紀前半に何かあったらしい
狭穂塚の後しばらくは西都原は円墳ばかり
監視要員や移住者のうち有力な者の墓だろうか
6世紀に復活するが2段でランクダウンしている
全国的に古墳築造は盛りを過ぎているけど

70 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 08:59:55.03 .net
東征で天孫族はみんな出て行ったんだろ。
残ったのは円墳の海人族だけ。
伝承にも同じような話がある。
いわく、日向人が温和な芋がら木刀なのと醜女ばっかりなのは、
良い血はぜんぶ東征で出て行ったからだと。

71 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 14:03:02.96 .net
お知らせ

市原警察署の生活安全課の帰化人創価警官の指導の元、
入学式から2週間ほど、在日の創価学会員を主体とした自称防犯パトロールが、
2週間ほど行われることになりました

生活安全課の指導であることと、パトロールであることは、
絶対に公言してはいけないとの指導も、帰化人創価警官より出ています

期間中は2人組の在日の創価学会員が、頻繁に創価批判者の自宅周辺を、
うろつき回ると思われます
日本人の方は、充分に注意してください

72 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 18:27:01.03 .net
>>70
東征はあったとすれば4世紀
時代が違う
5世紀のは地方豪族を弱める全国的な施策の一環
移住とかはあったとしてももっと後の律令制が敷かれるころ
と思う

73 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 19:23:38.41 .net
凶暴な血や美人は抜かれてどっか行った

74 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 19:36:44.11 .net
馬子の墓も2段の方墳か上円下方墳だろうとされとりますがな

75 :日本@名無史さん:2013/03/26(火) 21:58:03.41 .net
聖徳太子の記録の不完全さは、

まだ文字が十分に普及してなくて、
記録があまり残ってないのか、

それとも、実質大和朝廷とは別の政権で、
記録が消失しているのか。

76 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 00:40:12.14 .net
聖徳太子は実在しなかったからだろう。

77 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 00:49:44.08 .net
蘇我氏は実在したし聖徳太子も実在した

78 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 00:58:07.18 .net
常心塚には仏教系の伝承が残っているのが面白いな
即身仏とか本当かは分からんけど

79 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 01:24:13.07 .net
聖徳太子の功績は実在した。
聖徳太子が聖徳太子であるかは考える余地がある。
しかし蘇我氏渡来人説は完全に否定されている。

80 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 08:31:56.83 .net
東征は三世紀だろう。四世紀は朝鮮半島に進出していた。四世紀末に大敗したので
しばらく富国強兵につとめたんじゃないかな。

81 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 08:57:13.27 .net
東征前の日向神話のどこにもそんなことは書いていない。
朝鮮半島に進出していたのは北部九州だよ。

82 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 10:59:29.62 .net
東征が先だ。東征してから、朝鮮進出。
当然のことながら、東征の前に九州統一。朝鮮に進出したころは、北部も南部もない。

83 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 12:05:43.13 .net
東遷、東征つっても、規模で意味がまるで変わってくる。
10万人の大軍団が、ローラー作戦で畿内まで完全支配してしまったのか、
10人の一家が、あちこち寄り道しながら場所を探して、畿内に住み着いたのか。

俺は下に近いと思っている。

84 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 12:21:20.67 .net
巨大な古墳は東征した勢力が造ったもの。となれば、自ずからその規模は見当が
つくだろう。

85 :日本@名無史さん:2013/03/27(水) 12:38:15.48 .net
仁徳天皇陵の建造には380万人日が必要という試算があるが、
15年、年間200日働くとすれば、一日あたりの人数は1300人ほどである。

彼らの食料を、支配した領民から税として徴収したとすれば、
その10倍から20倍の人口の支配地をもっていたということになるだろう。

三万人弱といったところか。

86 :日本@名無史さん:2013/03/28(木) 10:04:48.23 .net
畿内は弥生時代に発展してきた環濠集落など拠点集落が消滅・衰退、巨大なマチと
いうべきマキムクがいきなり出現した。ということは、弥生集落の発展ではない。
まったく別の勢力による流通拠点が築かれたということだ。
東海、関東の物資を九州に送る中継基地、物流センターだな。
当然のことながらそのセンターを作ったのは九州勢力だ。

87 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 00:27:34.20 .net
生目神社と東征の妄想

宇佐八幡宮の神領地である宮崎庄に含まれるため、
庄園の鎮守として八幡神を勧請したのが創まりと考えられ[1]、
『宇佐大鏡』に因れば天喜4年(1056年)には既に鎮座していた。−wikiより

生目神社の宝治二年銘神面及び天文五年銘神面
宝治銘神面は縦51.2センチメートル、横31.1センチメートル、鼻の
高さ22.7センチメートル。裏面の「土持右衛門尉田部通綱、宝治二年五月日」
の墨書銘から鎌倉時代中期の宝治2年(1248年)の作である事が判り、
現在確認されている県内最古の有銘仮面とされ、また県土持氏の2代目
である通綱の存在を裏付ける史料ともなっている。−wikiより

生目神社は宇佐八幡宮、神官の土持氏が祭祀にあたったと考えられ、
土持氏は、古代氏族田部氏の後裔で、田部氏は物部小前命を祖とする。

物部小前命は、鳥見連、登美連、高橋連の祖でもある。

東征した者が征服したナガスネヒコの「登美」の名を負っている。
生駒には登美、鳥見という地名が残り、生駒は生目に通ずる。

東征は、日向の物部氏が主体となって行い、それは生目(垂仁)
や崇神といった物部の力が強かった時代ではなかったのか。

88 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 19:23:48.92 .net
天孫降臨が渡来人の日本への漂着であれば薩摩半島が一番可能性が高い。
大隅から宮崎への神武東征の伝承は生み伝いに渡って行った可能性を示す。

89 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 19:18:03.30 .net
天孫は記紀では山幸系としてるが、海人族の可能性は高い。

天皇は自らをウズの御子という。
ウズは産むのことだが、海の渦とも同義。
渦は女陰と同義で、太陽が毎朝出てくる場所。
この概念はエジプトや西アジアにもあり、かなり普遍的な概念だったらしい。
エジプトにも日本の古墳にも、太陽をのせた船を操る人の壁画がある。
その渦から地上まで太陽を運ぶという意味があり、
それはエジプトではファラオ、日本では天皇だ。

90 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 19:21:48.18 .net
では、なぜ、太陽が陸からのぼるエジプトがそうなったのかと言うと
元々は、太陽神アメンはシリアの征服民の神で
フェニキア人と近縁の部族だからだ。
フェニキア人は言うまでもなく海の通商の民であり、
ユダヤの別名でもある。

91 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 19:49:05.05 .net
イスラエルが崩壊したとき、
本来が海の民であるかれらが海に逃げたのは理にかなっている。
そのとき、彼らが太陽が生まれると言う東の果てを目指したとしても何一つおかしくはない。

フェニキア人はネコ王のときにアフリカ一周を達成してるし、
ペルシアとの貿易によりインド洋航路を既に知っていた。

本来、アマとは日本では海と同義であり、
ヘブライ語では「遥か遠く」、ハラはハーラー、「山」、あるいは「聖山」だ。
高天原の「高」は後代、中華思想の導入で付随したもので
「万葉集」のうた等にも元々はついていない。「アマノハラ」が正確な音だ。
(同じく、高千穂も本来はチホ「千の穂」だ)
つまり、遠くの山、聖山シナイ山からの民であるという意味だろう。

92 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 21:20:33.29 .net
秦の東に不老長寿の国があるという信仰と
キリスト教の東の国にプレスタージョンというキリスト教国があるという信仰は似てるかもしれない
漢代にキリスト教が流行ったということは
秦の時代にもユダヤ人が出入りした可能性がある
熊野には徐福伝説があるし、外来勢力の到達を暗示してる
熊野から吉野に至る奧駈道は修験道の聖地であるが
熊野の勢力が神武を手引きした
神仏混合の時代になり
仏教優勢の時代になると神武東征ルートは西方の仏教伝来と同一視され
奧駈道が神仏混合の聖地となった

93 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 21:49:35.18 .net
フェニキア人は地中海東端から発して西端まで行き着いているね

94 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 22:18:14.72 .net
言うまでも無く宮崎で太陽が毎朝出てくる場所は海。
夏至には北東方向から出て北西方向へ沈み、
冬至には南東方向から出て南西方向へ沈むのだが…
夏至の日の出の位置を伸ばして行くとズバリ畿内になる。
美々津(東征出発地の伝説、ただし記紀に記述なし)でほぼ天香具山付近、
青島神社でおよそ伊勢神宮付近、鵜戸神宮でおよそ熊野市付近を通る。
まあただの偶然でしょうけどね。
ttp://pcrice.web.fc2.com/sun/

95 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 23:02:37.98 .net
レイラインはあちこちで一致してるよ
偶然じゃない。

96 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 23:54:33.62 .net
およその夏至の位置を意識しながら造作したのだろうね。
夏至の日の出の位置を伸ばしたらどこを通るか。
高千穂神社は数十mの誤差で明石海峡の五色塚。
天安河原は京都御所内を通って琵琶湖、浅間山、南相馬市付近で太平洋。
ここまで正確に知ることは絶対に不可能なのである程度狙って確率を上げたうえでの偶然と思われる。
畿内を通れば何らかの重要史跡は通ることになるだろう。

97 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 23:58:16.56 .net
後世の京都御所とか完全に偶然だしね。

98 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 00:35:00.68 .net
>>91
天原=海原ということですか

99 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 01:00:26.64 .net
海にでれば海と空が繋がる。境界域は曖昧に成る。アマ天海こんなもん大陸系民族の概念かよ?w

100 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 08:42:14.01 .net
天孫降臨も邪馬台国もみんな福岡でしょ。
機内とか宮崎とかアホの妄想丸出しw

総レス数 1027
339 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★