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邪馬台国 巨大津波滅亡説

1 :日本@名無史さん:2013/03/29(金) 12:12:53.02 .net
3世紀頃にメガ津波で消滅しました。
日本列島に生きる者の宿命です。
皆さん、諦めましょう。

2 :日本@名無史さん:2013/03/29(金) 13:09:57.78 .net
万世一系の皇国史のイメージが崩れるんでタブーになってます。

3 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:27:45.18 .net
このたびの大分県佐伯市・竜神池の津波堆積物調査で、
西暦200年頃、東日本大地震を上回る超巨大津波が九州東海岸を襲ったことが分かった。
およそ卑弥呼の時代である。

http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/nankai_trough/5/iin_okamura.pdf
(pdfのp6〜p7、No.3の堆積物黒バンドは西暦684年の天武地震、No.4のバンドが卑弥呼時代のもの)

天照神話には、スサノオノミコトが高天原へ上がる際、山川が揺れ海原がとどろいたので、
アマテラスはスサノオが攻めてきたと想い、弓矢を構えたという。
打ちつづく巨大地震と大津波で皆々が疑心暗鬼になっていたことがうかがえる。
巨大津波に慄いて東に新天地を求めた邪馬台国、
しかし2000年後に再び東日本巨大地震、さて皇国の命運やいかに・・・、

4 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:31:24.14 .net
邪馬台国は、富士山の噴火で溶岩流にのみこまれて消滅した。
幻の富士王朝こそ邪馬台国。

5 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 14:42:14.61 .net
筑後川一帯なら湾内だから、まともに波かぶることはないかな?

6 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 15:13:52.02 .net
雲仙岳の噴火の火砕流で対岸への肥後津波はあったらしいけど
地震津波に有明海は強いらしい
もっとも邪馬台国筑後平野なら、神武東遷はなかったかもの意見あり

7 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 15:17:08.49 .net
吉野が里が遺棄されたのは3世紀後半だな。
高地性集落もこの時期か?

8 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 16:15:55.79 .net
吉野ヶ里は縮小しながらも、9世紀までは集落があった。

9 :日本@名無史さん:2013/03/30(土) 20:48:44.53 .net
現場を見たことないので、航空写真での印象だが、
発掘された吉野ヶ里区域は小高い丘でなかったのかな
もともと水が得にくいので住む人はなかったが、大乱抗争勃発でやむを得ず城柵内に避難生活するようになった。
しかし間もなく平和が訪れたので徐々に元の定住地へ戻った。
ただし一部は水も得られたので細々と9世紀まで使用された・・、とか?

10 :日本@名無史さん:2013/03/31(日) 10:48:34.28 .net
吉野ヶ里は9世紀の木簡が出ているから、
権力が他に移ったあとも、役所機能などが残されていたのだろう。

11 :日本@名無史さん:2013/03/31(日) 10:54:31.20 .net
吉野ヶ里は8世紀の集落跡。
年代測定が間違っているんだよ。

12 :日本@名無史さん:2013/03/31(日) 10:58:11.36 .net
典型的な弥生中期の吉野ヶ里が8世紀なら、
日本中の弥生遺跡が800年程新しくなりそうだな。

13 :日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:11:30.48 .net
縄文文化は江戸時代まで続いていたし、
コンクリートで石の代替品を作る技術によって石器文化は今も続いている。
鉄器時代は繁栄を極めていて、東京スカイツリーは鉄器文化の頂点だろう。
稲作文明を守るためにTPPの例外品目にしようと躍起になっている。

人の営みなんて、昔とちっとも変わっちゃいないのだ。

14 :日本@名無史さん:2013/03/31(日) 14:09:35.20 .net
自然災害で争乱状態になることも考えられるからな。

15 :日本@名無史さん:2013/03/31(日) 16:24:17.90 .net
古代気候と社会の共振現象 年輪酸素同位体比法による古代推定降水量の変動
(西暦初頭はpdfの13-16ページ参照)
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf

16 :日本@名無史さん:2013/03/31(日) 18:57:46.61 .net
邪馬台国が東九州を襲った大津波で壊滅したとしたら宮崎海岸か志布志湾岸。
大陸から薩摩半島、大隅半島へ上陸し宮崎へと北上した熊襲が邪馬台国か。

17 :日本@名無史さん:2013/04/03(水) 00:48:14.82 .net
日向ってのは神武天皇のふるさとだから、邪馬台国とは限らない。
だから、巨大津波は神武東征の理由にはなりえても、邪馬台国の滅亡理由にはなりえない。
と思う。

18 :日本@名無史さん:2013/04/05(金) 19:01:38.68 .net
魏志倭人伝の邪馬台国はライバル「呉」の牽制の為に「魏」が東南海上に造り出した幻の国である。
同時代に存在した国は大和地方にあったものだけ。これが邪馬台国と言えば邪馬台国と言えなくもない。
従って九州に求めても所詮無理な話しである。

19 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 09:30:37.53 .net
弥生時代(BC400年〜箸墓築造AD250年)の鉄器出土量は 北部九州>>>>>>>>>>近畿 なのをどう説明するんだ?

20 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 09:33:24.59 .net
弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。

 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【∩銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により
卑弥呼(アマテラス)の邪馬台国【○銅鏡祭祀】に国を譲る【銅鐸一斉処分:九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
 これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、倭「和」国は分裂し、卑弥呼は急死する(男弟/魏の張政/
狗奴国による暗殺説)。

-分裂した倭「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘

 卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は、投馬国長官♂を婿として迎え、旧奴国&隅国(隼人)とも同盟を結び、肥後
狗奴国(後の熊襲)を一網打尽にし、倭「和」国を再統一した。
 「和」国再統一の偉業をなした男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、中国大陸
における五胡十六国の戦乱の影響から距離を置くべく、都を筑紫・博多から先遣隊長ニギハヤヒが拓いた奈良・三輪
山麓(纏向)へ東遷し、その女系先祖・卑弥呼(アマテラス)&台与以来の【○銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始する。

※古事記・日本書紀が、日向長官の先祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑
弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の
末裔)による系図操作。
 ∩銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の功績を消され出雲に祀られる。

21 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 09:34:18.38 .net
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(双方の男系男子途絶による)政権交代

4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬国)系大王【四道将軍派遣→国造任命→ヤマトタケル九州平定】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王【神功の三韓征伐→倭の五王(讃珍済興武)】
   →(高句麗の南侵に脅かされた)金官伽耶(任那)・百済・新羅への軍事支援により「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王【仏教伝来→白村江の戦い→律令国家】


-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
  …継体大王の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
  …筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
  …「白村江の戦い」完敗→百済・任那滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を喪失。国力低下→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
  …両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
  …筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都

22 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 18:51:28.04 .net
津波、火山の爆発で神武は行われたでしょうね。
神武天皇の東征の碑が大隅半島の霧島市福山宮浦神社、
東串良町柏原にあります。
当時、火山も活発で生活に支障が出たのでしょう。

23 :日本@名無史さん:2013/04/06(土) 19:40:23.01 .net
>>18
魏も呉も滅亡してから魏志倭人伝が書かれた。そのような狙いが有る訳が無い。

24 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 17:06:45.63 .net
この写真は佐賀平野で海抜+3m想定だけど、これを宮崎まで持って行き、
写真モードを地図モードに戻し、口地形にチェックを入れ、
さらに巨大津波の想定で、海抜を+20mにすると宮崎県は凄いことになるな。
約2000年前の卑弥呼のころ、こんなことが起こったんじゃないかな、そのまんま滅亡だ!!

http://flood.firetree.net/?ll=33.2198,130.3140&zoom=11&m=3&type=satellite

25 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 18:00:02.80 .net
>>22
津波、火山の爆発で神武は行われたでしょうね → 津波、火山の爆発で神武東征は行われたでしょうね
でした。

26 :日本@名無史さん:2013/04/07(日) 21:07:42.98 .net
違うね。地球温暖化に伴う海面上昇が原因だろう。
有明海が海になった。

27 :日本@名無史さん:2013/06/12(水) 00:16:24.93 .net
大雨と洪水に伴う土砂崩れにより山上の集落は川に流れました。
この時被害に遭ったのは卑弥呼と娘婿の天稚彦です。
この事があって、妻、卑弥呼を亡くした大国主は出雲に出ました。
幸いなことに、裕福で権力のある親戚の計らいで出雲という土地を確保出来ました。

28 :日本@名無史さん:2013/06/24(月) 17:55:02.13 ID:zGzJcVlM!.net
邪馬台国は朝鮮半島にあったんだよ。
大和は裸国か黒歯国のどっちかだろうね。

29 :日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:01:42.97 .net
沖縄の海底遺跡が邪馬台国じゃないの?

30 :日本@名無史さん:2013/06/25(火) 08:24:33.19 .net
>>29
違うよ。あれ人工物じゃないよー

31 :日本@名無史さん:2013/06/25(火) 21:53:31.05 .net
邪馬台国は、やっぱり江田船山古墳に近い菊池川沿いの環濠集落だったと思われます。
大雨で、全部流され川の底。掘っても痕跡を探すのは難しそう。

32 :日本@名無史さん:2013/06/25(火) 21:56:30.70 .net
氾濫で埋められたようなところの方が残りやすいけどな
台地とか堆積と侵食がどっこいどっこいのとこは後の耕作で削られて消えてしまいやすい

33 :日本@名無史さん:2013/06/25(火) 22:32:55.97 .net
川底掘ってみろよ。何か出てくるかもよ。
ただし、自己責任でね。

34 :日本@名無史さん:2013/06/25(火) 23:29:22.27 .net
>>30
止めてよ! 観光客が来なくなるじゃないか。

35 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 07:15:17.15 .net
邪馬台国は信濃にあったんだよ

36 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 21:09:31.47 .net
邪馬台国は、会津にあった。
耶麻郡こそ邪馬台国そのもの。崇神天皇の時代、諸国平定の任務を終えた四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が、この地で合流したことに由来するという。
会津美里町の伊佐須美神社縁起にも同様の伝承がある。
その時、邪馬台国は滅んだものの、邪馬台国の女王卑弥呼の血すじは今も引き継がれている。
「八重の桜の」の山本八重、やまとの名と、女王としての風格が備わっている。

薩摩の西郷隆盛、会津の西郷頼母、この地で間接的に戦うことになったのも因縁を感じる。

37 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 21:53:43.03 .net
"邪馬台国会津説" 約35件

38 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 23:15:00.16 .net
すげぇ、さすが会津だ。35人も基地外がいやがる。

39 :日本@名無史さん:2013/06/27(木) 08:21:35.39 .net
山本がなんで邪馬台やねん

40 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 23:26:38.98 .net
ならぬものはならぬのです。

この頑なさこそ、邪馬台国の伝統ではないでしょうか?

41 :◆HKZsYRUkck :2013/06/29(土) 00:35:20.97 .net
>>40
つまり邪馬台国が西遷してナラ(奈良)になったと!

42 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
しかし、そうは奈良ないのです。

43 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN .net
おーい、山田くん、>42に奈良づくしを

44 :日本@名無史さん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN .net
奈良っていうのは平らなってことだから、まあ、要するに盆地のことだよ。
山門も山に囲まれた盆地のことだし、
邪馬台国の候補地は盆地でなければ奈良ない。

45 :日本@名無史さん:2013/09/22(日) 11:02:22.33 .net
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/

46 :日本@名無史さん:2013/11/30(土) 23:06:23.65 .net
http://www.youtube.com/watch?v=wuDOebvhhe0
南端の北に南端はある

47 :日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:13:17.13 .net
だから邪馬台国ってのが本当にあったの?

48 :日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:19:58.23 .net
あったこと前提で言ってるんだもんなあ
日本の記録史には残っていないから中国の文献に頼るしかないんじゃん
まあ平仮名もカタカナもできる前の話なんだろうが

49 :日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:57:36.84 .net
ここで神代文字

50 :日本@名無史さん:2014/04/16(水) 09:25:06.42 .net
書けよ神代文字

あるなら

51 :日本@名無史さん:2014/04/16(水) 10:15:28.48 .net
神代も知らず竜田川

52 :日本@名無史さん:2014/06/22(日) 02:42:31.50 .net
神代もきかず じゃないと意味が通じんな

千早に振られて神代もいうことをきかず

53 :日本@名無史さん:2014/06/22(日) 10:41:27.68 .net
神代にも知らんぷりされたから、水をくくったんだってば竜田川

54 :日本@名無史さん:2014/09/23(火) 09:04:50.28 .net
『ホツマツタヱ』は高天原は日高見国(宮城県の仙台)にあったとし、天照大神の宮殿
「ヤマテ宮」が存在したという。これにヒントを得て、ヤマタイを東北弁で訛らせる
と「ヤマデェ」に近くなることから、邪馬台国は仙台にあった、ということもできる。
実際には仙台の語源は「千体仏」説が最有力で、その他にも諸説あるが、みな仙台は
当て字であって読みはセンダイかそれに近かったとする説ばかりであり、ヤマト・
ヤマタイ・ヤマデェ等の読み方とかかわりそうな説がない。『ホツマツタヱ』に
至っては江戸時代の偽書であり「ヤマテ宮云々」は問題外。ただし日本書紀に出て
くる日高見国(ひだかみくに/ひたかみのくに)が今の仙台平野のことであるのは
通説通りで問題ない。また仙台の東北に位置する「本吉郡(もとよしぐん)」は
宮城県の東北部の三陸海岸だが、古代では今の気仙沼市の全体・南三陸町の全体・
登米市の一部・石巻市の一部まで含んでいた。千田俊文は、縄文時代の文化的
中心地が三陸海岸地方であること、古代から全国どこにも祀られることがないと
されてきた開闢の神々(「別天つ神」や「神世七代」の神々)を祀る神社が、なぜか
本吉郡に多く存在すること、延喜式の中臣祓の祝詞に出てくる日高見国の考察、
などから本吉郡こそ日高見国であり高天原であるという説を立てた(この千田の説は
『ホツマツタヱ』とは無関係)。天照大神=卑弥呼とし、高天原=邪馬台国とする
かつてありがちだった電波説を援用すれば、その千田俊文の「本吉郡=日高見=
高天原」説の上に、さらに邪馬台国でもあったと付け加えることも可能だろう。
ただしその千田俊文本人は邪馬台国に関しては九州説だったが。またこの地域は
古来津波で有名であり、ムー大陸の沈没とはここにあった文明が津波で滅んだこと
である、というムー大陸説もすぐできる。これは木村政昭の「琉球=ムー大陸説」
のパクリであったりなかったり。

55 :日本@名無史さん:2015/05/28(木) 14:57:56.71 .net
語れ

56 :日本@名無史さん:2015/06/03(水) 06:34:10.15 .net
神戸(兵庫県)。神の岩屋戸。
六甲山(正式な名称ではなく山系全体の通称)、、、ムコウの山。ムコウ=日向(ムコウ市等)、向。
ムコウが転じて武庫(兵庫)。

天照皇大神荒魂のツキサカキ イヅノミタマ 向津日女命。西宮廣田神社の主祭神
ムコウの日女神
六甲山上には六甲日女神社。通常、ロッコウ日女神社。しかし、本来はムコウ日女神社(=日向日女神社)ではなかったか?


因みに、10世紀のいわば憲法にあたる律令、延喜式中に於いて
記紀神話に於ける高天原とは高天山(金剛山)の東麓一帯、葛城、御所市、五條市(奈良県)を指す。
と明記されています。
御所市の高天地区には神話の高天原の故地云々の石碑が立っています。
市名の御所はいにしえにここが都(ヤマト=国の都の意味)だったことによります。
地名は古代を無言で物語ります。
又、どうやら日本列島の中心地、畿内含めナカの国、ナガの国、と呼ばれていたのかもしれません。
ナガスネヒコ様は字義からも正ににナガの国の大王(大国主命)、
神話には蘆原中津国。と表記。又、各地にナカ、ナガの付く地名や山川他があまた残っているのも傍証になるかと。
ヤマト探しはある忌み不毛な議論です。
それぞれの国、勢力の中心地が都=ヤマト(京都)ですから、あまた存在していても何ら不思議ではないことになります?

57 :日本@名無史さん:2015/09/12(土) 04:30:27.99 .net
◆関連スレ◆
邪馬台国は東北にあったワケだが
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1412729934

58 :日本@名無史さん:2015/09/21(月) 14:13:04.15 .net
違うね。
巨大地震と巨大津波が起きた結果、倭人の国の統合が進んだんだよ。
2000年前後のころの巨大津波が知られてきた。

59 :日本@名無史さん:2015/09/21(月) 16:51:22.39 .net
>>58
おいw
2000年頃って紀元前2000年頃?
今から2000年前の間違いじゃなくて?

60 :日本@名無史さん:2015/09/30(水) 12:53:59.41 .net
日向。
今日の一般的な読みはヒュウガ。
少し古めかしたら、ひむか。ピムカ。
別の読みでは、ムコウ。
文字は、日向、向日。向。六甲(意外ですが、六甲山と言う山はありません。)、(武庫、ムコ。転じて兵庫)

、、、京都府日向(ムコウ)市
、、、西宮廣田神社の祭神は天照大神荒魂。こと、撞賢木厳之御魂天疏向津日女(媛)命。
、、、向津日女命。津(ツ)は接続詞で、〜の。くらいの感じですから、向(ムコウ)の日女命。
向は先行した大和の大王家(所謂、イズモ王家)の家名と漏れ聞きますから、ムコウ大王家の日女命。

61 :日本@名無史さん:2015/09/30(水) 13:06:13.11 .net
津波があったのって、
>3だと
西暦0年ごろと、680年ごろじゃん。
卑弥呼の頃はまったく起きていない。

62 :日本@名無史さん:2015/09/30(水) 13:17:19.94 .net
家の地元の鎮守神社(淡路島の東沿岸)は時の天皇ご不例(天然痘罹患)により伊勢国の某神社(雄略天皇の御代に鎮座?)を
遠来より当地に勧請して創建されたと伝わり、
少なくとも爾来一千四百数十年になります。
近年、その後背地(海岸から、二キロほど)に当時の町が私立の総合病院を誘致しました。
その建設に取り掛かったら、とんでもない事に地中に大量の流木、倒木がワンサか出て来て
建設スケジュールが遅々として進まず閉口した。と聞いています
と言う事は、とんでもない津波が押し寄せて、林立していた立木(古来、松林が有名でした)をなぎ倒した。
と考えるのが順当なところ。
南海沖等を震源としたメガ地震により度々大津波に見舞われたのでしょう。

63 :日本@名無史さん:2015/09/30(水) 22:14:44.70 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

64 :日本@名無史さん:2015/09/30(水) 22:15:13.75 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

65 :日本@名無史さん:2015/10/10(土) 16:34:01.87 .net
今から約2000年前頃(約ということで正確ではない)、大津波が南海を襲った
ことが調査で判明している。また、尾張地方の弥生遺跡が紀元100〜200年の
ころ洪水か津波かは不明だが、被害にあっている。

古墳前夜、弥生末期に大地震津波+気候変動に寄る豪雨が発生するなど、
社会の変革を迫られる事態に陥ったのかもしれない。

66 :日本@名無史さん:2015/10/10(土) 18:21:04.20 .net
大津波で弥生人達が死に絶え、無人の荒野になった宮崎沿岸部の農業適地に、
邪馬台国の母体になった人たちがラクラク入植出来たので、
その後、東九州の古墳文化が急速に花開いたのだろう。
記紀に云う「脊猪の空国」とはこのことだったのではないか。

67 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 04:08:31.38 .net
” 児童108人中74人・教諭13人中10人 ”が犠牲になった「大川小」

▼津波前と後の大川小の航空写真 比較
http://i.imgur.com/seQu7Ko.jpg
http://i.imgur.com/fItSwWP.jpg

▼裏山から大川小を撮影した風景( 震災前後写真
http://i.imgur.com/cYKNBru.jpg
http://www.orion311.com/pics/okawasyo203.JPG
http://i.imgur.com/DF7VhCW.jpg

▼津波の流れと避難経路
http://i.imgur.com/RULdJQS.jpg
▼大川小のすぐ西側の「北上大橋」を襲う津波映像
https://www.youtube.com/watch?v=k2nL7vGu_Xo

▼学校にたまった瓦礫
http://photoarchive.c.yimg.jp/res/emgphoto-0822/057/81822.jpg
http://i.imgur.com/HJ9lxm7.jpg
・震災前はこれ。
http://www.orion311.com/pics/okawasyo202.jpg

▼大川小の周辺で回収されて、持ち主と連絡が取れないランドセルや体操着
http://i.imgur.com/1uMQKtH.jpg
▼大川小で犠牲になった孫のランドセルを見つけ、肩を落とし持ち帰る男性
http://i.imgur.com/bNADLWa.jpg

68 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 04:45:15.96 .net
>>60
京都府向日市
日向市じゃなくて向日市だよ
向日神社もある

69 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 04:51:25.44 .net
豊姫⇔淀姫
日向⇔向日

70 :日本@名無史さん:2016/01/29(金) 18:18:54.57 .net
>>61
よく読め。200年頃だから卑弥呼が歴史に登場する239年より約40年前だw

この頃、津波で九州が壊滅したとすると畿内説に有利かもね

71 :日本@名無史さん:2016/01/29(金) 22:15:21.23 .net
ポンペイは何層にも遺跡が重なっていた。
西都原遺跡のさらに下を掘ってみれば謎は解けるはず。

72 :日本@名無史さん:2016/02/01(月) 00:03:26.06 .net
東日本大震災の大津波でも全員が死んだわけではない。
大勢の生き残った者が、ここはやばいと思い引っ越しを決めた。
火の国九州だから、噴火もあったかもしれない。
それが神武の東征ではないのか?

73 :日本@名無史さん:2016/02/01(月) 00:13:51.40 .net
有明海は干潮時に1キロ2キロ先まで泥のだ。
阿蘇、島原の火山灰が大量に流れ落ちた結果だと思う。

74 :日本@名無史さん:2016/02/29(月) 07:49:03.72 .net
中国の歴史書で、単なる水行は河川交通で、それが海上交通を意味する例は1つもありません。
海を行くときは、必ず文には「海」と明示します。

これで、九州であることが明らかな不弥国から南へ河川交通を利用してたどり着く邪馬台国は、
九州島内であることは明らかです。

★畿内説論者が、海を水行する例として出てきた文

>沢散王属大秦、其治在海中央。北至驢分、水行半歳、風疾時一月到。最与安息安谷城相近。(魏志注魏略西域)
「海」の明示あり

>赤土国、扶南之別種也。在南海中、水行百余日而達所都。土色多赤、因以為号。(隋書南蛮)
「海」あり

>流求国、居海島之中,当建安郡東、水行五日而至。(隋書東夷)
「海」の明示あり

>注輦国東距海五里、西至天竺千五百里、南至羅蘭二千五百里、北至頓田三千里。
>自古不通中国、水行至広州約四十一万一千四百里。(宋史外国)
>(※数字からして明らかに海)
「海」の明示あり

>佛逝国東水行四五日、至訶陵国。(新唐諸蛮)
>(※シュリヴィジャヤから東なので当然ながら海)

これだけないように省いてるけど、実は、
「又五日行至海^、蕃人謂之質、南北百里、北岸則羅越国、南岸則佛逝国、佛逝国東水行四五日」で、
「海」の明示あり

75 :日本@名無史さん:2016/03/09(水) 00:07:24.04 .net
纏向の遺跡の中から、出雲、尾張、吉備、摂津の陶器が出てきたそうだが、
みんな海神族の住む地域だが、何故内陸の盆地に寄り集まったのだろうか?
そこに済めば何か良い物があるか、そこが安全だからではないだろうか?
ノアの箱舟のような日本中が沈むほどの大津波が起こったのではないか?
そのために近隣の低地の海神族が仲間を頼りに集まってきた。
最後に日向の邪馬台国から来た海神族が神武なんだろうと思う。

76 :日本@名無史さん:2016/03/09(水) 01:14:29.74 .net
海人族の首都が内陸でも構わないでしょ
政治をする分には海沿いじゃなくても良いし

まあでも津波の被害が無いように首都は内陸って事なんだろうね

77 :日本@名無史さん:2016/03/12(土) 18:55:14.86 .net
時期は微妙だが、約2000年前に巨大津波があったらしい痕跡が見つかっている。
東南海連動の巨大津波。

78 :sage:2016/04/02(土) 04:20:04.66 .net
少なくとも、奈良に都が置かれたのは
風水の影響と聞いたが。

79 :日本@名無史さん:2016/04/02(土) 08:47:04.13 .net
風水とは、
まさに巨大自然災害対応を含む古代人の生活の知恵の集大成ではないのか

80 :日本@名無史さん:2016/04/02(土) 15:08:25.03 .net
>日本中が沈むほどの大津波が起こったのではないか?

日本中はないかも知れんけど、大阪の上町台地の海沿いは壊滅しただろうな。
九州でとんでもない津波ということは、朝鮮半島南岸や中国の沿岸にも
被害があったのかもしれない。

81 :日本@名無史さん:2017/07/21(金) 17:12:09.38 ID:UEyJrsLO0
このスレまだ落ちてないのか

82 :日本@名無史さん:2017/07/29(土) 10:04:48.01 ID:YC8j+aBH4
済州島に師木津から上陸した呉軍は葛城女王宮に攻め寄せます。
上陸阻止の緒戦で、日嗣ミマキイリヒコは戦死しています。
日嗣の御子は、外敵に対しては天津神の御子なのです。
一歩も退かずに戦うのが、その本分なのです。
天津神の御子に武器を向けた者は、即刻死刑なのです。

呉軍はハンナ山の南面にも回りこみ、沙本の丹田に侵入します。
大将軍ヒコユムスミが出撃して激闘となります。
そしてヒコユムスミも亦、闘死を遂げたのです。
この勇将ヒコユムスミの曾孫が神功皇后です。

83 :日本@名無史さん:2017/07/29(土) 12:42:29.46 ID:YC8j+aBH4
天照こと大倭初代女王クニアレヒメの墓が沙本に近接する丹波にあるのです。
チチハヤヒメは、あくまで決戦で勝負するつもりなのです。戦力の分散は避けたかったのです。
そしてヒコユムスミの出撃を制止したのです。「勝手なことすんじゃねえ」
ヒコユムスミはクニアレヒメの末男なのです。クニアレヒメの墓が呉軍に荒されることは
我慢できなかったのです。チチハヤヒメの制止を無視して出撃しました。
しかし、大倭の男子精鋭軍はこの戦闘で壊滅したのです。

呉軍は葛城女王宮の北と南に布陣しました。
済州島東端の湊である遠津も呉軍の制圧する所となります。
葛城女王宮は、北と南と東の三面を攻囲されたのです。

84 :日本@名無史さん:2017/07/29(土) 16:27:47.21 ID:YC8j+aBH4
チチハヤヒメは、大倭海軍と協力して総反撃する段取りは既に取り決めています。
しかし、海軍が具体的にどのように行動するかまでは取り決めていないのです。

チチハヤヒメの手元の戦力は、女軍たる女王親衛隊の生き残り300人足らずと
ハンナ山に退避させた人民2千人余りです。人民達も武装させ総投入するつもりです。
対する呉軍は、完全武装した甲兵2万人です。やつらは中国の三国相克の内戦で
鍛え上げられた呉朝正規の精鋭兵達です。水兵や兵站兵も含めるともっと大勢います。
チチハヤヒメは約10倍の敵と決戦するつもりなのです。

大倭に敵対する狗奴国の連中が呉軍を道案内しているようです。
敵は、大倭の軍事的急所を手に取るように的確に突いて来ています。
チチハヤヒメは、ヒコサメマの無愛想な面構えを思い出します。
やつが敵の誘導役となっているのかもしれません。
ヒコサメマは初代のサボビコです。初代天皇たる神沼河耳天皇の御伴人の将です。
神沼河耳天皇を暗殺したチチハヤヒメに報復する機会を狙っていたのです。
大倭の軍事的弱点を知り尽くしている人物なのです。

85 :日本@名無史さん:2017/08/05(土) 08:21:32.14 ID:TLvz8GS3S
チチハヤヒメが総攻撃を掛け、大倭海軍と敵を挟撃すると決めている、
その日時は今日の深夜です。あと数時間後なのです。

しかし来援してくれるはずの大倭海軍の大将たる
タギシミミやヒコフツオシノマコトがどこに上陸するかは
彼等が状況判断で独自に決めることなのです。

後にミマキイリヒコ天皇となる日子坐王も海将として大倭海軍に加わっています。

日子坐王をヒコフツオシノマコトの養子に押しこむことで
チチハヤヒメは膨大な養子料を取り立てたのです。

こういうやり方で私財を蓄えるチチハヤヒメこそが、
大倭の家長たる伊那エナツなのです。
この「イナエナツ」が大倭の君主号なのです。

86 :日本@名無史さん:2017/08/05(土) 14:22:19.91 ID:TLvz8GS3S
表音は「イナエナツ」ですが、その意味するところは「千那エナツ」です。
「高貴なるエナツヒメ」の意味です。
千那エナツたるチチハヤヒメは、天皇やその正后たる女王よりも格上の存在なのです。
大倭は、彼女が、神沼河耳天皇との共同事業として建国したのです。

チチハヤヒメと神沼河耳天皇とが、高御産巣日と神産巣日であり
イザナミとイザナギでもあるのです。

チチハヤヒメが、唯一神たるイザホワケスメラミコトの、唯一の妻なのです。
彼女だけが、皇族認定や皇族同士の婚姻、養子縁組の認可権を持っているのです。
皇族は、イザホワケスメラミコト神の御伴人、というのが大倭の根幹なのです。
彼女にとって、天皇はあくまで、神の御伴人の総指揮官でしかないのです。

エナツというのが彼女の本名です。意外に可愛らしい名前を親につけてもらっています。
倭人伝では「シオエツ」と表音表記されています。

87 :日本@名無史さん:2017/08/07(月) 02:26:40.01 ID:Znq74sG/r
チチハヤヒメはこの時、迷いに迷っています。
北の敵主力を撃つべきか、南の中敵を撃つべきか、それとも東の弱敵を撃つべきか。

「ミマツよ、オレはどの敵を攻めたらいいんだ?」
チチハヤヒメは側近のミマツヒメに質問します。
ミマツの返答は支離滅裂です。

チチハヤヒメは、この女子を、忍者頭に任命し、便利使いしています。

「もう、いいよ、ミマツ。お前の話は要領を得ない。」
ミマツヒメに質問したのは時間の無駄でしかなかったようです。

どうせ明日には、全軍全滅しかないのです。
チチハヤヒメは、女王ヒミカに幕引きさせようと思い立ちます。

「ミマツよ。ヒミカを連れて来い。」

とたんに、ミマツヒメは、恐怖で顔を引きつらせます。
「絶対に嫌。」ミマツヒメは、きっぱりと拒否します。
ヒミカは極めて危険な女子なのです。

88 :日本@名無史さん:2017/08/07(月) 07:50:07.72 ID:aXQ3Bqj9V
>>1 邪馬台国は津波より前に阿蘇山大噴火・九州大地震で奈良に首都移転したんだろう。

 近畿の大古墳群は征服王朝のシンボルのように見える。対外でなくて対内国向け絶対権力の誇示用だ。

89 :日本@名無史さん:2017/08/13(日) 18:27:36.14 ID:Z/4EzrDt9
「チチッ、このくそ忙しい時に、役立たずが」
チチハヤヒメは臆病なミマツヒメを罵ります。

チチハヤヒメは、イラチの質なのです。
だからチチハヤと陰口を叩かれているのです。
チチハヤヒメは自らヒミカの居住区へ向かいます。
そして、ヒミカを担ぎ上げ、この大広間に運んできました。

ヒミカは、イロとトヨという、二歳児の双子を抱いています。

「ヒミカよ、オレはどの敵を攻めたらいいんだ?」

「エナツ、東の敵を攻めるがよい。」

「てめえ、誰に向かって口聞いてんだ?」

チチハヤヒメは他者から命令されることが大嫌いな性格なのです。
反射的に、草ナギ剣を引っこ抜いて、ヒミカに突きつけています。
チチハヤヒメは頭が悪いのです。
ヒミカが「姉ぞ、いとしき」しか言葉をしゃべれないことを忘れていたのです。

「ちょっと待て、何で、てめえがしゃべれるんだ?」
チチハヤヒメは首をかしげます。ヒミカの目つきは尋常ではありません。

90 :日本@名無史さん:2017/08/13(日) 20:53:13.65 ID:Z/4EzrDt9
「エナツよ、わたしはイザホワケ大神の御心、天照であるぞ」
ヒミカの声色ではありません。クニアレヒメの声色です。

「エナツ、東の敵を攻めるがよい。敵を撃ち滅ぼすことまちがいなし」
どうやら死んだ初代女王クニアレヒメが、ヒミカに神掛かったようです。
チチハヤヒメはこの神示に従うことにします。

「ミマツ、皇族を全員この部屋に集めるんだ」
チチハヤヒメ自身は、戦っている各部隊に作戦を伝達するために
忙しく立ち回ります。

一個小隊の女軍を、ハンナ山に向かわせます。
そこに待機している海軍信号兵に、大倭海軍への総攻撃信号を発信させるためです。

チチハヤヒメは大広間に戻ります。すでに、皇族全員が集合しています。

「エナツよ、イザホワケ大神は生贄を求めておられるぞ」

ヒミカに神掛かりは続いているようです。
チチハヤヒメは誰にしようかと皇族達を見渡します。

皇族全員集合といってもミマツヒメ以外は、すべて子供達です。
頼りなくても、戦力となるのはミマツヒメしかいないのです。

厳密には、皇族の子供は、皇族候補生です。
チチハヤヒメが皇族を認定して、初めて正式に皇族となるのです。
この認定料がべらぼうに高くつくのです。

ミマツヒメの子供達は除外することにします。
残るは、ヒミカの子供だけです。

91 :日本@名無史さん:2017/08/13(日) 23:23:54.12 ID:Z/4EzrDt9
チチハヤヒメはトヨという小さい方の男子をヒミカから奪い取ります。
「イクメイリヒコ、イザノ、てめえらが沙庭をやるんだ。
しっかり押さえつけていろ。」
チチハヤヒメはトヨをイクメイリヒコとイザノの兄弟に押し付けます。

「お前は今、我が子となった。
お前をタケトヨハズラワケと名づけよう。」
チチハヤヒメはトヨを手早く、自分の子として皇族認定してしまいます。

「東の敵を攻めるがゆえに、敵を撃ち滅ぼすならば、この者はウケイ死ね」
チチハヤヒメはトヨの心臓を草ナギ剣で刺し貫きます。

沙庭となったイクメイリヒコはタケトヨハズラワケが死ぬ間合いを計っています。

「東の敵を攻めるがゆえに、敵を撃ち滅ぼすことまちがいないと、
イザホワケスメラミコトは言っておられます。」と
イクメイリヒコが言おうとした、その瞬間の出来事です。

タケトヨハズラワケがかっと目を見開き、しかと言ったのです。
「母よ、夜が明けるまで、軍を動かしてはならぬ。」

「何だって」チチハヤヒメは驚愕しました。
こちらが真実の神の神示なのです。

92 :日本@名無史さん:2017/08/13(日) 23:54:12.94 ID:Z/4EzrDt9
「てめえ、オレをだましやがったな」
チチハヤヒメはヒミカに駆け寄ります。
そして、髪の毛を掴んで床に引き倒します。
手ごたえが変な具合です。自分からぶっ倒れたような感じです。

「てめえ、コラッ、ヒミカ、死んじまってるじゃねえか」

ヒミカはすでに死んでいました。
何者かが、ヒミカをデク人形として使い、チチハヤヒメを誑かしていたのです。

「総攻撃は中止だ」チチハヤヒメは怒声を放ちます。

「ミマツ、オレが戻って来るまで、お前が指揮を取るんだ。
オレはハンナ山へ行ってくる。」
チチハヤヒメは駆け出したのです。

ハンナ山の頂上は、葛城女王宮から西へ7キロほどです。
チチハヤヒメは夜の山道を走り抜けます。

坂の上から、集団が降りてきます。
敵のようです。呉軍には、山いくさに慣れた山岳歩兵が大勢いるのです。
彼等が、翌朝の総攻撃に備えて、山を制圧するために動いた可能性は高いのです。

チチハヤヒメは、肩に巻きつけていた、鎖斧を解きほぐして使える状態にします。

93 :日本@名無史さん:2017/08/14(月) 00:10:12.12 ID:5V/j2yxKe
坂の上の敵と見た集団は、大勢の豚を連れたハエです。
この豚飼いの男がチチハヤヒメの父なのです。
もちろん、とっくにハエは死んでいるのです。
「あの連中」が、またぞろ幻術を使ってチチハヤヒメを誑かしているのです。

「やれやれ」チチハヤヒメはタメ息をつきます。
「カニ目の次は、ハエかよ」

カニ目というのは、彼女がクニアレヒメにつけたあだ名です。
目と目が大きく離れた悪相だったのです。そして極端な垂れ目だったのです。
しかし、見る角度によっては可愛らしい顔つきだったのです。

ハエというのが、クニアレヒメの兄です。

「エナツよ、婚ひたし」

ハエの姿は、あの夜と同じです。巨根が反り返っています。

「エナツよ、あの夜と同じようにワシを歓喜の中で絞め殺しておくれ」

偽神示の次は、セクハラ攻撃のようです。
しかし、嫌なことを思い出させてくれます。
チチハヤヒメはあの夜イキまくったあげくに
身につけた殺人体術が作動して、ハエを締め殺してしまったのです。
チチハヤヒメはカマキリ女なのです。

94 :日本@名無史さん:2017/08/14(月) 00:17:44.74 ID:5V/j2yxKe
SM殺人のような事件ですが、この事件によってチチハヤヒメは苅羽井家から勘当されたのです。
苅羽井家というのは清日子の家です。
ハンナ山の西の尾根の先端の小山が三輪山です。
三輪山の西側急斜面にあった狭い高所貧地が清日子の所有する土地だったのです。

苅羽井からさらに西へ下った峠の地が、春日です。ここにこの地域に住む人々の共同墓地があるのです。
清日子やメヒ、ハエはここに眠っているのです。

家から勘当され行き場がなかったチチハヤヒメは、ハンナ山を根城とする女子盗賊団に加わったのです。
チチハヤヒメが「あの連中」と呼ぶのは、この女子盗賊団の幹部連です。
盗賊として先輩筋の連中なのです。
生意気だったチチハヤヒメは何度も彼女等によってリンチに掛けられています。

今でもチチハヤヒメの私財を管理しているのが、この幹部連なのです。
つまり、チチハヤヒメはこの連中との腐れ縁により、しゃぶり尽くされているのです。

チチハヤヒメはこの集団から分流して、師木津に本拠をおく女子愚連隊を興したのです。
この時代の彼女のスケ番名跡が「苅羽田戸弁」なのです。
チチハヤヒメがこの連中にしゃぶられる構図は、
大倭を建国して、その専権者となった今も、スケ番時代から全く変わっていないのです。

「てめえら、モノマネで遊ぶのも、たいがいにしやがれ」
チチハヤヒメは、鎖を飛ばしてハエを引き倒します。
ハエとその巨根と見えたのは、倒木とその大枝です。

95 :日本@名無史さん:2017/08/17(木) 04:22:50.78 ID:Z9I0kM3ZS
ハンナ山にたどりついたチチハヤヒメは悪い予感が的中していたことを知ります。
自軍は全滅していたのです。海軍信号兵も人民達も、指揮役の女軍たちも殺されています。
江南矛で滅多突きにされています。呉軍山岳部隊の仕業です。
呉軍山岳部隊は少し離れたところに分散して野営し仮眠を取っているようです。
かれらは蛮族討伐が完全勝利に終わることを確信しているのか哨戒兵すら立てていません。

つい先ほど送り出した女軍一個小隊の兵士達を探します。
新しい血の臭いを嗅ぎわけながら彼女達の遺骸を探り当てます。
彼女達も全滅しています。しかし殺され方が違います。幅広の短剣で
急所を一突きにされて殺されています。サメマの得意とする武器です。
やはりあの男が来ていたのです。

チチハヤヒメは自分が囲まれていることに気づきます。
中国兵の臭いではありません。自分と同じ倭兵の臭いがします。
「クソ野郎ども、出てきやがれ」チチハヤヒメは叫びます。

20人ほどの黒装束の男達が岩陰から現れます。体型や武装を見れば誰だかわかります。
ヒコサメマと御伴人達です。覆面をしています。

「大倭本国に他国の軍隊を手引きした罪は重い。サメマ。貴様に死刑を与える」
チチハヤヒメは処刑宣告します。執行するのはもちろん彼女自身です。

サメマは覆面を取ります。彼の方も責任の所在を明確にします。
「チチハヤ!、お前は神沼河耳天皇を殺した。」サメマはケジメを取りに来たのです。
「死ねや、大逆人!」サメマは短剣を突き込んできます。御伴人達も散開して攻囲して来ます。
邪馬台国と狗奴国との最初の戦いがここに始まったのです。

96 :日本@名無史さん:2017/08/18(金) 05:54:37.89 ID:RMg40gkTy
大倭建国は212年です。チチハヤヒメと神沼河耳天皇とが共同して軍事クーデターを成功させ
河俣家を打倒して済州島の実権を奪い大倭を建国したのです。建国の大宴会では
神沼河耳天皇がチチハヤヒメを自らと同格の国家指導者たる千那エナツと持上げ
酔っ払っていたチチハヤヒメは琴を弾いて自ら作詞作曲した歌を歌い返礼したのです。
この歌が「物部の我が夫子」であり大倭の聖歌となります。この歌の中でチチハヤヒメは
「イザホワケスメラミコトの御子ヒコフト二スメラミコト」と歌って神沼河耳天皇の
神権的天皇位を保障したのです。この瞬間に多島一家六代目総長たる神沼河耳天皇は
大倭初代天皇となったのです。チチハヤヒメと神沼河耳天皇とは密月関係にあったのです。
220年までには基礎領土を確立しています。台湾海峡から津軽海峡までを制海したのです。
220年の大倭クリルタイにおいてチチハヤヒメは路線闘争に負けて失脚し皇籍剥奪されて
中国大陸に追放されたのです。チチハヤヒメが神沼河耳天皇を暗殺した場所は台湾の山中です。
チチハヤヒメに協力してくれたのが楚人長江ソツビコです。
呉朝の荊州軍閥に出入りする武器商人です。裏の顔は大倭の対中工作機関の幹部です。
チチハヤヒメは追放された最初の三年間は浪邪郊外の山窟に監禁されていたのです。

97 :日本@名無史さん:2017/08/24(木) 06:30:28.66 ID:Cs0qJTXpy
「禁固三年」といっても小便刑ではありません。チチハヤヒメは半死状態に置かれていたのです。
倭建やミマキ「あの連中」こと盗賊団も神沼河耳天皇の摘発を受けて、済州島から追放されて
います。サメマが山狩をしたのです。倭建はチチハヤヒメが盗賊団に加わった際に
忠誠の証としてさしだした私生児です。ハエの子です。この時点でチチハヤヒメは倭建に対する
親権を喪失しています。倭建は「あの連中」に育てられ首領として担がれた「神の子」なのです。
チチハヤヒメが生涯、命令権を行使できなかった唯一の大倭皇族なのです。皇族となったのも
かなり後追いです。クニアレヒメが大毘古を生みハエイロドが大毘毘を生んだとき
会わせ認定のようなかたちで皇族認定されています。
チチハヤヒメに工作上の協力者として強い興味を持っていたのが長江です。
長江がチチハヤヒメの監視者達と交渉し自分に譲ってほしいと望みますが監視者達は首を縦に
ふりません。三年を期してチチハヤヒメを衰弱死させるよう天皇と女王から厳命されていたのです。
倭建と「あの連中」も山窟周辺をうろちょろしています。チチハヤヒメはその体臭が強烈だったのです。
日本書記では名草トベです。彼女の監禁場所はその強い臭気でわかるのです。
倭建は長江の嫡妻と嫡男とをさらい、チチハヤヒメ救出を強要したのです。
この長江の嫡妻が倭比売です。嫡男が日子坐王なのです。双方の交渉窓口を務めたのが、
ミマキとミマツです。ミマツも荊州人です。長江が貧民の子を買って女子工作員として
訓練したのです。ミマツは頭が大変良く美貌だったのです。言語能力が卓越していました。
長江の裁量で日子坐王の婚約者となったのです。ミマキとミマツの談合が成立しました。
倭比売が自ら望んでチチハヤヒメと同じ鯨面文身し衰弱死してくれたのです。
チチハヤヒメの監視者達は長江が大金で買収しました。身代わりの遺骸ができあがり
女王クニアレヒメの元へ送られ神沼河耳天皇が尾張のはずれに丁寧に葬ったのです。
チチハヤヒメは山窟を脱出できたのです。チチハヤヒメを蘇生させてくれたのもミマツです。
この時の見返りの約定が「日子坐王を大倭天皇にすること」なのです。

98 :日本@名無史さん:2017/08/27(日) 04:51:20.87 ID:vYZTwmSDh
自由の身となったチチハヤヒメは長江に協力して呉朝に対する破壊工作を遂行しながら
神沼河耳天皇暗殺計画を進行させていたのです。
神沼河耳天皇のあだ名が「タカクラジ」です。「クラジ」とは「暗路」です。
「○△吉」の意味です。「タカクラジ」は「タカ吉」なのです。
ホークスファンの意味ではありません。体中にタカが住んでいただけのことです。
暗殺の機会は四年後にやってきました。
長江は新しい丹鉱を台湾で発見したので検分してほしいとタカクラジを台湾の山中におびきだしたのです。
この方面に目が無いタカクラジは少人数の御伴人だけ連れてやってきたのです。
タカクラジは剣の達人です。多島一家最強の男だったのです。長江がタカクラジに組付き刺し違え
剣を使えなくします。ミマツと長江の部下達、チチハヤヒメ、倭建、ミマキ、「あの連中」ら
屈強の男女が岩陰から飛び出して寄ってたかってタカクラジと御伴人を惨殺したのです。
日嗣の御子ヒコクニクルは直ちに殉死して神沼河耳天皇の崩御を完成させました。
跡目はヒコサシカタワケです。通称がニギハヤヒです。日嗣の御子は実子の大毘毘です。
チチハヤヒメは、金で傭兵を雇い300人からの軍隊を一夜でつくりだします。
そして済州島に奥津から逆上陸したのです。北東に15キロ進めば春日です。
ここに女軍の屯所があるのです。チチハヤヒメ自身が女軍の創設者なのです。
すぐに配下に加え指揮権を確立します。勝負あった、なのです。日嗣の御子大毘毘は
母たるハエイロドに連れられ忠誠を誓うため自らやって来ました。
済州島防衛責任者ヒコサメマはトビハヤヒメを連れて逃げたのです。
逃げ遅れたニギハヤヒ天皇と天照は捕らえて軟禁します。南九州に兵隊を飛ばし
ヒコクニクル未亡人のヒミカを連行させます。そしてヒミカの子供である
大倭海軍の二大部将タギシミミとキスミミに忠誠を誓わせたのです。
チチハヤヒメは復権を果たしたのです。

99 :日本@名無史さん:2017/08/31(木) 03:22:40.88 ID:xXlgOiqpV
チチハヤヒメは鎖でサメマの剣の刺突を防御します。
一段で終わらないのが、サメマの短剣術なのです。
三十段くらい、バリエーションを持たせて連続攻撃が来ます。
それをしのいだら、今度は脇から、背後から御伴人が突き込んできます。

大倭皇族武将は、自分と似た体型の若者を御伴人として取立て
自分の得意とする武術を仕込んで、鍛え上げる傾向があるのです。
サメマの御伴人達も、サメマの短剣術を完全に習得した屈強の若者達なのです。
攻撃力だけを評価すれば、サメマと同レベルなのです。

ここは尾根筋の木の無い岩場です。囲まれる側のチチハヤヒメは不利です。
谷筋を100mくらい下ったところに密林があるのが見えます。そこへ戦場を移すことにします。
彼女は崖を走り降ります。走りながら全裸となります。草ナギ剣は邪魔になるので背中に負います。

チチハヤヒメは蛇体です。闇夜の密林では図柄が保護色の働きをします。

密林の中での戦闘は二時間が経過しました。
ようやく御伴人を十人ほど片付けたところです。あと半分です。

木の上から矢が飛んで来ました。丹塗り矢です。
先端に丹が塗り込んである特殊な暗殺用の武器です。
「あの連中」がサメマの加勢に入ったのです。

100 :日本@名無史さん:2017/08/31(木) 06:48:21.99 ID:xXlgOiqpV
「サメマよ、わたしはイザホワケ大神の御心、天照であるぞ」

「邪心の妹は、わたしに剣を突き付け、長生きするのもほどほどにしやがれ、
と死を強要したのであるぞ。サメマよ。愛しき子よ。わたしの仇を討っておくれ」

やつらは、またぞろ、慈愛の初代女王のモノマネをしています。

「サメマよ、わたしは天照に仕えるククリヒメであるぞ」

「邪心の姉は、わたしをきたない女の豚小屋に監禁しわたしは撲殺されたのであるぞ。
サメマよ。愛しき夫よ。わたしの仇を討っておくれ」

今度は、トビハヤヒメのようです。サメマとは愛人関係にあったのです。
きたない女とは豚を飼うことが得意だった大倭第三代女王のことです。

「サメマよ、わたしは天照に仕える月読みであるぞ」

「邪心の姉は、わたしを総括に掛け、台湾海峡に突き落としたのであるぞ。
サメマよ。愛しき子よ。わたしの仇を討っておくれ」

次は、ハエイロドの登場です。倭建の子を妊んでいたハエイロドは心情不安定だったのです。
チチハヤヒメとの取るに足らない論争の結果、激して自ら、海に身投げしたのです。

サメマと御伴人達は憎悪と闘気を増幅させます。武闘のギアを上げて来たのです。
偽神示を真に受けているようです。根は純情な男達なのです。

「おい、てめえら、ヒミカのモノマネもやってくれよ。」
チチハヤヒメは木の上の敵をからかいます。
「姉ぞ愛しき」しか言わなかったボケ女のモノマネはさすがにやりません。

丹塗り矢が何本も飛んで来ます。それが返答のようです。

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