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日本国は倭国の別種なのか

1 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 12:12:22.42 .net
旧唐書日本伝
日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。
あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。

この謎を考えてみよう。

2 :日本@名無史さん:2013/04/21(日) 19:27:00.32 .net
隋書倭国伝と日本書紀を読むと、同じ国とは思えない。

3 :日本@名無史さん:2013/04/22(月) 06:43:05.05 .net
倭国は「日本」に吸収された

4 :日本@名無史さん:2013/04/22(月) 13:48:53.57 .net
倭国は滅びたが倭人は残った。
そして中世の倭寇につながる。

5 :日本@名無史さん:2013/04/23(火) 13:46:02.91 .net
日本は倭国に附庸していた東の倭種。

6 :日本@名無史さん:2013/04/23(火) 15:28:12.19 .net
は?

7 :日本@名無史さん:2013/04/23(火) 22:00:41.11 .net
ほ?

8 :日本@名無史さん:2013/04/24(水) 03:13:53.55 .net
田母神俊雄「駅などの中国語、韓国語表示を止めろ!ここは日本だ!」

なんかおかしくない?

「駅などの中国語、韓国語表示を止めろ!ここは日本だ!」ではなくて
「駅などの中国語、韓国語表示を止めろ!ここは倭国だ!」でないと
意味が通じない。

もともと「日本」と云う言葉は半島の人が最初に云い始めた言葉。
日本列島には「倭国」と云う別の国の名前がありました。

田母神俊雄氏にはこれからは「日本」では無くて
「倭国」で発言して欲しい。

  なんでも鑑定団 愛のエメラルド

9 :日本@名無史さん:2013/04/24(水) 06:17:10.53 .net
倭国=近江王朝まで
日本=天武朝以降かなあ。

壬申の乱は実は明治維新以上の革命で、
日本書記つうのは、ほとんどその弁明のために
書かれているかも。

10 :日本@名無史さん:2013/04/24(水) 08:49:56.76 .net
白村江で九州倭国は滅びた。
天智の日本が後を継いだのだろう。

11 :日本@名無史さん:2013/04/25(木) 08:27:50.33 .net
>>1
二番目が正解というだけの話。たいした話じゃないよ。

「倭国」から「日本」へ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD

12 :日本@名無史さん:2013/04/25(木) 08:36:04.57 .net
7世紀後半から8世紀前半に国号、年号も含め、
大きな変化が起こっている。

ここで政権が変わった可能性は高い。

ちなみに、最古の木簡は太宰府の周辺で発見されている。

13 :日本@名無史さん:2013/04/25(木) 11:51:21.22 .net
最後の倭王は筑紫君薩夜麻。

14 :日本@名無史さん:2013/04/25(木) 23:10:55.31 .net
大倭国とはいわゆる出雲国デハ?

「日本」の語の初出は確か、、ニギハヤヒ大王(この時点では即位前でオオトシ?)が生駒信貴山系を越え奈良盆地に無血入城する際に云々。

ところで、大国主神/大己貴命の数多ある別称号に「所造天下大神」と言うのがありますが、
ここでイザナギ大神(尊)の別称号に確か、天下修理固成(あめがしたつくりかためなしし)大神

意味するところが殆ど同じなのが気になる年頃。

15 :日本@名無史さん:2013/04/25(木) 23:44:52.74 .net
わかりやすく言えば大和朝廷の「倭国」が、日本列島内の別の小国であった「日本国」を併合し
その名前が気に入った為、大和朝廷の「倭国」が改名して「日本国」を名乗ったって事でしょ。

16 :日本@名無史さん:2013/04/26(金) 21:41:16.83 .net
トンキンがまた変なことを言い始めた
歴史コンプレックスは創作で補うてか

17 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2013/04/27(土) 15:46:46.83 .net
旧唐書日本伝の説明は混乱しているように見えるが、すべて正しいと言える。
九州の倭国と本州の日本(日下・天下)は本来は別の国だったが、唐初から
670年まで、日本が「倭国」を名乗って唐に遣使していた時期があった。
この時期だけで見れば、倭国が日本国と改名したという説明も正しい。
また白村江で旧倭国が滅びた後、その地を合併したという説明も正しい。
通訳がうまくいかずに断片的に伝わったため、説明が矛盾していると取られたと思われる。

18 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2013/04/27(土) 15:53:29.41 .net
隋書倭国伝と推古紀の日中通交で共通するのは以下の2点のみ。
@通交の年代はともに607〜608年
A隋使の名前は裴世清
(隋書で裴清とするのは唐の太宗李世民の名前を避けたもの)
しかし@は、書紀の年代は天智紀でも疑わしい記事があることを考慮する必要がある。
Aも、裴世清が一度しか列島に来ていないという証拠は無い。
これに比べて、相違点はあまりにも多い。
@隋と唐
書紀では小野妹子は隋ではなく唐に派遣されている。
A倭王と倭皇
隋書は倭王とするが、書紀で唐帝は推古天皇を「倭皇」と呼んでいる。
B倭王の性別
隋書は倭王の字を「多利思北孤」とし、明らかに男性と見られる。
そこで推古女帝ではなく、聖徳太子や蘇我馬子を指すとする説があるが、
書紀の記事では皇太子でも大臣でもなく、推古天皇が前面に立っている。
また隋書では、倭王には太子が(別に)いたとある。
C裴世清の身分
隋書は文林郎、書紀は鴻臚寺の掌客とし、明らかに異なる。
D国書の有無
隋書の裴清は「宣諭」したのみだが、書紀の裴世清は国書を持参している。

19 :日本@名無史さん:2013/04/27(土) 21:29:51.55 .net
これは良スレ

20 :日本@名無史さん:2013/05/10(金) 21:42:23.92 .net
倭とは朝鮮半島の南の倭系部族国家の総称じゃないかと思う。

21 :日本@名無史さん:2013/05/10(金) 21:44:53.11 .net
>>20
魏志倭人伝を十回嫁アホ

22 :聖徳太子:2013/05/10(金) 23:30:37.92 .net
シナ人によれば倭人っていうのはチビで背骨の曲がった人間という意味らしい
倭なんて名乗るの止めてこれからは日本人って名乗ろうぜ

23 :日本@名無史さん:2013/05/13(月) 11:53:33.73 .net
九州王朝分派「倭国」(大海皇子)が、日本列島内の畿内の小国を支配し(671年)、
その名前が気に入った為、九州王朝分派畿内「倭国」が改名して「日本国」を名乗った。
その後畿内の「日本国」は、九州王朝本流「倭國」を695年から700年の
延べ7年がかりで征服支配した。

24 :日本@名無史さん:2013/05/13(月) 16:01:52.98 .net
>>23の訂正

九州王朝分派「倭國」(大海皇子)が、日本列島内の畿内の小国を支配し(671年)、
その名前が気に入った為、九州王朝分派畿内「倭國」を改名して「日本國」を名乗った。
その後畿内の「日本國」は、九州王朝本流「倭國」を695年から700年の
延べ6年がかりで征服支配した。

25 :日本@名無史さん:2013/05/13(月) 17:04:51.27 .net
日本、日の本(下)の国の謂われはたしか、、
曰わく、ニギハヤヒ(この時点ではオオトシ)が率いる軍団の強力無比な軍事力を背景にしたパワー外交(いきなり軍事侵攻はせず、先ずは外交官を派遣して利害得失を説いて恭順し服属するよう説いて、受け入れれば吉。もし反抗し防戦するなら完膚無きまでに殲滅する戦略)の結果、
奈良盆地の某勢力(王権)がニギハヤヒ側の折衝案を呑んで全面降伏。
それを承けて河内国から生駒信貴山系(斑鳩峰。場所不祥)を越え無血入城するさいに奈良盆地の素晴らしい光景を見て日の本の国云々と感嘆した事による。
とか、、

26 :日本@名無史さん:2013/05/13(月) 20:38:05.85 .net
上下エジプト合体で倭?

27 :日本@名無史さん:2013/06/14(金) 21:17:30.98 .net
旧唐書日本伝
@ 日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。
A あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
B あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。

@ABはすべて合理的に同時成立する。
謎は何も無い。
「倭国の別種」とは「倭国の分種」である。・・・説明終了

28 :日本@名無史さん:2013/06/15(土) 00:34:35.47 .net
>>22
ねーよw
倭人がちびなんてどこにも書いてない
倭とは曲がりくねって遠いとかスゴイとかの意味がある
朝鮮人は漢字無知の低脳なので理解出来ない

29 :日本@名無史さん:2013/06/15(土) 00:35:33.55 .net
大和朝廷の「倭国」が九州の小国「日本国(日の国)」を併合し
その名前を気に入って自ら「日本国」と名乗ったのでは。

30 :日本@名無史さん:2013/06/15(土) 01:36:17.32 .net
古い時代だと何をするにも人力になっちゃうんで、人口がほぼ国力なんですね。
だから百済とか新羅とか、いくつもの国々に分かれた状態の朝鮮から見たら、倭国は大国ってことに

広開土王碑など海外の史料に出てくる「倭」を、倭寇的なものだとか九州あたりの地方勢力とか見るのも、違うと思うんです。
高句麗の正規軍に対抗する兵力を動員できるのは、巨大古墳を継続的に造営する動員力が証明されている、ヤマトを中心とした王権と見るのが一番いい

31 :日本@名無史さん:2013/06/15(土) 01:56:41.92 .net
日本中央って国が東北にあったという伝説。

32 :日本@名無史さん:2013/06/15(土) 02:17:29.49 .net
今も日本国という山が山形と新潟の県境に
日本国という地名が山形の鶴岡に有るぞ

33 :日本@名無史さん:2013/06/15(土) 21:56:51.05 .net
小国とは金官加羅のこと。
小国金官加羅が倭国を併合した。

ただし金官加羅が日本なのではない。
「現在日本と称している国は小さな金官加羅がもとになっている」の意。

34 :日本@名無史さん:2013/06/16(日) 11:45:09.70 .net
>>30
普通に考えれば そういう結論しかないんだけど
いまだに九州王朝とか言う人がいるからねw

35 :日本@名無史さん:2013/06/16(日) 16:18:02.53 .net
>>30
国力がものを言うのはむしろ国民国家が総力戦を行う近代のこと。
古い時代においては総人口よりも戦闘技術がものを言う。
満洲族の一群が明国を倒した例を見ればわかる。

広開土王戦争のときは徒歩戦から騎馬戦に変わる変革期にあったから
そのことがあてはまる。

36 :日本@名無史さん:2013/06/16(日) 17:32:54.12 .net
>>34
広開土王と九州王朝とは時代が異なる。
九州王朝の時代は、517年〜700年である。

37 :日本@名無史さん:2013/06/16(日) 20:50:14.69 .net
>>35
清が中原へ入ったのは明が滅亡した後
それくらい常識

38 :日本@名無史さん:2013/06/16(日) 22:35:21.83 .net
>>37
厳密に言えばそうだな。では「明国を倒した」を「中国を征服した」と
言い換えよう。

その他にもいくらでも例はある。モンゴルの征服事業だって巨大な人口によって
なされたわけではない。

39 :日本@名無史さん:2013/06/16(日) 22:42:37.16 .net
>>38
厳密?何処が?凄く大雑把な話だよww
清は、明の復興を掲げて、明から独立した軍閥と戦った

モンゴルなどの遊牧民は人口の1/3が兵士で
兵力は人口に比して巨大
モンゴル帝国の動員数は分裂していた中東諸王国や
欧州の雑魚国家群と比べ文字通り桁が違う程巨大

40 :日本@名無史さん:2013/06/17(月) 01:59:22.01 .net
モンゴル兵力の強力さは、その移動速度と兵站能力に負う所にある。
一千のモンゴル兵は五万の他国兵に匹敵する。

又、モンゴル兵は、武器(弓)も強力で接近戦を必要としなかった。
現代戦で言えば、砂漠の戦車と誘導ミサイルの戦い。モンゴルがミサイル。

女性子供を除く男性は全員兵士であるから人口の40%は兵士である。

41 :日本@名無史さん:2013/06/17(月) 03:04:58.15 .net
モンゴル帝国は中核部族や身分の高い兵士が
槍や刀を持つ重装備の突撃騎兵だったのだがw

42 :日本@名無史さん:2013/06/17(月) 08:13:59.31 .net
実際、あんなでかい古墳をポコポコ作れるのって、すごい動員力

43 :日本@名無史さん:2013/06/17(月) 08:56:28.75 .net
槍や刀を持ち甲冑に身を固めた重装備の突撃騎兵はヨーロッパの騎兵。
モンゴル騎兵は軽量軽装備に強力な短弓。

44 :日本@名無史さん:2013/06/17(月) 09:33:46.24 .net
モンゴル帝国の重騎兵は案外知られてませんね
学校教育で元寇のときに短弓を強調されるきらいがあるからかな
軽騎兵で釣って、伏兵の重騎兵で突撃するのがモンゴル帝国の戦術

45 :日本@名無史さん:2013/06/17(月) 10:16:19.48 .net
>>40
>モンゴルなどの遊牧民は人口の1/3が兵士で兵力は人口に比して巨大

全くその通り。モンゴルは国民皆兵制度に近かったから、人口に比して戦力が
大きかった。
戦力は人口のみによらない、という私の主張に賛成してくれて有り難う。

>>44
>軽騎兵で釣って、伏兵の重騎兵で突撃するのがモンゴル帝国の戦術

そうだね。カルカ川の戦いもそのように戦われた。
ただし最初からそうだったのではない。遠征の途中で他民族から学んで
重騎兵を取り入れた。

46 :日本@名無史さん:2013/06/17(月) 12:07:53.12 .net
モンゴル騎兵一名につき、兵站部には馬5〜6頭いた。
兵站部ぐるみの全部隊の移動速度は一日千里(70km)。
モンゴル騎兵は数十kmも離れた所から波状攻撃を何回も繰り返すことをしたのである。
強大な敵にたいしては、軽装騎兵の波状攻撃による敵の疲弊をまって、
彼ら自身が重装騎兵と変身し、敵の陣営に止めをさしたのである。

ここで重要なのは、波状攻撃用の代え馬と打撃エネルギーの大きな弓矢。

47 :日本@名無史さん:2013/06/17(月) 14:46:12.87 .net
モンゴルスレに帰れ。

48 :日本@名無史さん:2013/06/17(月) 18:43:59.94 .net
>>46
軽騎兵は1人3頭、重騎兵は1人5頭が定め
>>45
蒙古族の重装騎兵は鮮卑以来の伝統だよww

49 :46:2013/06/18(火) 11:49:52.96 .net
兵站の馬が3頭では長距離遠征は不可能。
馬3頭体制は本拠地近隣の部族(邑)との戦闘体制だ。

本拠地(遠征先放牧地域等)から千里(70km)を超える遠征では、馬3頭の兵站では無理。

50 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 13:55:03.74 .net
>>49
誰もオマエの低劣浅薄な思い込みなぞ聞いて無い
事実は事実として受け容れろ

51 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 19:28:30.00 .net
>>50
>軽騎兵は1人3頭、重騎兵は1人5頭が定め
>蒙古族の重装騎兵は鮮卑以来の伝統だよ

上記は資料の間違い解釈

近距離弱小敵に対して侵略の場合では兵站体制が馬3頭
遠距離巨大敵に対して遠征の場合では兵站体制が馬5頭

52 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 22:51:25.93 .net
× 巨大
○ 強大

53 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 00:17:21.55 .net
>>50
重騎兵への軍令は、替え2頭を加えた5頭でそれ以外は3頭
3頭が基本で馬の損傷が激しい突撃重騎兵は2頭加えて5頭

54 :日本@名無史さん:2013/06/20(木) 09:53:13.61 .net
>>48
>蒙古族の重装騎兵は鮮卑以来の伝統だよww

3〜4世紀ごろの鮮卑や扶余に、人も馬も鉄札鎧で覆う重装騎兵があったが、それは12世紀のモンゴル軍
に直接つながるものではなかろう。

4〜5世紀の日本にも同じものはあったが、鎧を着て槍を持つ戦国時代の騎馬武者を古代の重装騎兵の伝統だ
とは言わない。

「他民族から学んだ」については例えば:
http://medieval2.heavengames.com/m2tw/history/miscellaneous_history_folder/mongol_weapons/index.shtml
「モンゴルの重騎兵はペルシャ征服の後に特に重装甲するようになった。」

http://books.google.co.jp/books/about/Genghis_Khan_s_Greatest_General.html?id=XXWFca82UvYC&redir_esc=y
「金属札鎧や鎖帷子は、シナ人や西方との戦争の後にはじめてモンゴル軍に取り入れられた」

(上記URLで書籍"Genghis Khan's Greatest General: Subotai the Valiant"の紹介ページを出した後、
書籍内検索の欄に"metal-scale armour"を入れて検索すると上記文章が出る)

55 :日本@名無史さん:2013/06/20(木) 10:56:41.13 .net
>>54
>http://medieval2.heavengames.com/m2tw/history/miscellaneous_history_folder/mongol_weapons/index.shtml

は、よく見たらなにか戦争ゲーム関係の資料だったね。
中身は極めてまじめで、なにかの学術書から持って来てると思うが、信頼度については判断にまかせる。

56 :日本@名無史さん:2013/06/20(木) 12:41:37.21 .net
信頼度は0だよwww
遥か以前の柔然時代に騎兵は鋼鉄製小札鎧を着て馬には馬鎧を施している

これへと繋がったのは鋼鉄製小札鎧を着て馬には馬鎧を施していた
4世紀の鮮卑であり、後のモンゴルへと直接繋がっている

57 :日本@名無史さん:2013/06/20(木) 16:47:51.62 .net
>>56
もうひとつの資料はスルーか? わざわざ出し方まで書いておいたが、読んでないだろうから
さわりの原文を引用しておこう。
"Metal-scale armour and chain mail were introduced to the Mongol armies only after
their war with the Chinese and the West."

>遥か以前の柔然時代に騎兵は鋼鉄製小札鎧を着て馬には馬鎧を施している

柔然は5〜6世紀だ。「遙か以前」には違いない。
同じ地域に存在したというだけの理由で、600年も後のモンゴルに「直結」したというのは
無理があるな。

中国の大学副教授が書いた次の論文:
http://www.wretch.cc/blog/guyman5408/8192052
によれば、柔然の重騎兵が突厥の軽騎兵に敗れ、隋の甲騎が唐の軽騎兵に敗れたことに
よって重騎兵は衰微し、軽騎兵の時代が訪れた。恐らくここに断絶がある。

58 :日本@名無史さん:2013/06/20(木) 18:46:27.42 .net
いや、無い。
唐の軍制でも重騎兵と軽騎兵は混在していたし
突厥も重装騎兵による突撃を得意としていた
しかも、そのブログにも書かれている通り
一般的に鉄騎は軍戸の負担が重い為に減ったと知られている
しかも唐も統制を回復し生産力が増すに連れ重騎兵が増えた

柔然は蒙古族で、匈奴以降清朝蒙旗に至るまで
その兵制や武具防具は連綿として継続している

59 :日本@名無史さん:2013/06/20(木) 21:48:43.76 .net
>>58
>唐の軍制でも重騎兵と軽騎兵は混在していたし

どこの軍隊にも軽騎兵と重騎兵はいる。高句麗壁画にも両方が描かれている。
偵察・遊撃用の兵種と打撃用の兵種は両方必要なのだから当たり前だ。

>その兵制や武具防具は連綿として継続している

私はモンゴル西征軍の重騎兵の装甲が当初からのものではなく、ペルシャなどから取り入れた
ものである(二つ目の資料では『西方」)という資料を示した。
それが鮮卑、柔然以来連綿として続く形式のものであるというのなら、お題目だけでなく、そのように
述べている資料を示さなきゃね。

なお、私が示した中国語の資料によれば、古代の重騎兵の人馬合わせた装甲が最大130kgにも
達し(人間の体重は入っていない)、あまりの重さに馬は並足か、せいぜいだく足(トロット)でしか
突撃できなかった、とある。
こんなものがカルカ川やリーグニッツで突撃したとは到底思えないね。

60 :日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:51:39.87 .net
いや、何所にもそんな事は書かれていない
息を吐く様に捏造する、それが厚顔無知な在チョンという生物。
しかもそのブログが引用してる教授は完全に異端扱いされてる色物

其処に書かれているのは、宋の時代に中国で重装騎兵が廃れたのは
年々防御力を加重した為に重量が60〜80`に達してしまった為
としか書かれていない、しかも実際には宋、西夏、遼は鉄甲騎兵を盛んに利用した様子が
史書に記されている、また宋の歩兵率が高いのは馬産地を失った為でしかない

その電波教授ですら唐初に重騎兵が減ったとしか結論付けていない
盛唐には重騎兵が増加している現実があるのだから当然だがねw

モンゴル西征軍の重騎兵は遼や西夏と同じ様に
元から重装備で鋼鉄製の鎧を纏い敵陣へ突撃していたのが現実

この事は、翠微先生北征録7巻、遼史34巻、宋史486巻に載っている
電波ブログと史書及び学者の趨勢、どちらが真実かは誰でも理解出来るね

61 :日本@名無史さん:2013/06/21(金) 10:54:10.13 .net
>>60
>いや、何所にもそんな事は書かれていない

中国語が読めないようなので、該当部分の引用と訳を載せておこう。

「据考古發現,一件完整的鐵具裝,約重40至50公斤,特製的重鎧可達100公斤。又据《宋史》卷一九七《兵志十一》載,
南宋初年,一領鐵甲的重量是45至50斤(約,26。86―29。84公斤)。可見,戰馬馱載的人甲和馬具裝的重量至少有60―80
公斤,最重者可達130公斤。重鎧揄チ了戰馬的負擔,使其難以持久戰斗,只有高大健壯而又穩重的馬匹才能充當甲騎
具裝的坐騎,即使是這樣的高頭大馬也只能以小跑、慢跑沖鋒。」

考古学の発見によれば、一件の完全な鉄製具装は40ないし50kgの重さがあり、特製の重鎧は100kgにも達した。
また宋史巻197兵志11記載によれば、南宋初年に一領の鉄鎧の重量は45ないし50斤(約27ないし30kg)であった。
これから見て戦馬が載せる人の鎧と馬の具装の重量は少なくとも60-80kg、最大130kgにも達した。重量の増加は
戦馬の負担を増加し、持久戦闘を困難にするので、大型で壮健かつ温順な馬のみが甲騎を載せることができた。
このような大型馬でも小走りかだらだら走りでしか突撃できなかった。

註:「具装」と言っているのが馬鎧のことと思われるが、あれだけの面積を覆うのに人の1.5~3倍でいいの?
とも思える。北方民族の本格的な馬鎧は100kgよりも重かったのでないか?
第一次大戦のタンクのように、しずしずとしか突撃できなかっただろうね。

62 :日本@名無史さん:2013/06/21(金) 21:04:54.32 .net
仕方無いな、歴史用語も中国語駄目な人の為に訂正してあげよう。

発見された考古物によれば、一揃いの鋼鉄馬甲は
40〜50kgの重さがあり、特注の重馬甲は100kgに近い。
又、宋史巻197兵志11にある所によれば
南宋初期の、一揃えの鋼鉄具足の重量は27〜30kg。
戦馬が駄載する具足と馬甲の重量は、最小60kg多くは80`最重は130kgに近い。
重馬甲の増加は戦馬の負担を増加させた。戦闘に持久使用する事は難しく
大型で壮健かつ沈着な馬だけが鉄甲騎の騎馬として充当する事が出来た。
此の様な大型馬も速歩でのみ突撃出来たのではないだろうか。

>>61の誤訳が無能力の故か悪意の故か、どちらだろうね。
鮮卑の時代から続く遊牧民族の重装騎兵が着た馬甲は
超重武装の宋よりは軽装で40〜50斤より稍軽い程度だったよ。

63 :日本@名無史さん:2013/06/21(金) 22:16:15.60 .net
古代中国の斤て223gじゃないのか?

64 :日本@名無史さん:2013/06/21(金) 23:30:45.60 .net
宋代だと約600c

65 :日本@名無史さん:2013/06/22(土) 09:06:06.01 .net
>>62
つっこみどころ満載だが発散を避けて要点のみ。

・人甲馬甲の合計重量130kg(最大)
 なんだかんだ言いながら結局これが原文中にあることを認めたな。
 >>60では「重量が60〜80`に達してしまった為としか書かれていない」と印象操作
 したのだから原文で議論した意味はあった。

・重量の数字のまとめ
 馬甲:40~50kg、最大100kg
 人甲:27~30kg
 人甲馬甲の合計:少なくとも(至少)60~80kg、最大130kg

・馬の走り方
 小跑:英語でトロット、繋駕レースの走り方。
 慢跑:英語でキャンター、流鏑馬(やぶさめ)の走り方。
 「只能」(それしかできない)とはつまるところ、騎兵突撃の華であるギャロップ(普通の
 競馬の走り方)ができない、と言っているのだ。

66 :日本@名無史さん:2013/06/22(土) 09:10:34.57 .net
>>62
>鮮卑の時代から続く遊牧民族の重装騎兵が着た馬甲は
>超重武装の宋よりは軽装で40〜50斤より稍軽い程度だったよ。

これがわからない。重装騎兵が馬甲を着る?
40~50斤(24~30kg)とは人甲、馬甲のどちらのことを言っているのか?

67 :日本@名無史さん:2013/06/22(土) 16:04:37.87 .net
>>65
まちがい→つっこみどころ満載だが発散を避けて要点のみ
正解→突っ込み所が無いけど悔しいので無理繰り些細な反抗をさせて頂きました

つっこみどころ満載だが発散を避けて要点を書くと
この教授の感想は他の学者からは無視されている。

あと、中国語が読め無い様なので訂正しておくと
具足と馬甲の合わせた重さを電波教授は、少なくとも60〜80kgではなく
最小60`平均80`最大は130`に近いと見ているし
指摘されて修正したようだが、電波教授も小走りやだらだら走りwではなく速足としてる

馬甲とは日本語の馬甲を指し馬が着る甲
宋・明の馬甲は飛び抜けて重武装で他の時代や遊牧民のそれと比べ重い

68 :日本@名無史さん:2013/06/22(土) 20:51:53.57 .net
>>67
>少なくとも60〜80kgではなく最小60`平均80`最大は130`に近いと

「至少」を辞書で引いて見ろ。ちゃんと「少なくとも」と出ている。この至少は60~80公斤ぜんたいにかかっている。
「人甲和馬具裝的重量至少有60―80公斤,最重者可達130公斤」
最小だの平均だのという言葉はどこにもない。存在しない言葉を訳してはいけない。

>小走りやだらだら走りwではなく速足としてる

小跑は一般に「小走り」、馬術用語で「トロット」だ。速歩はトロットだからそれでいいが、もうひとつの慢跑を無視
してはいけないね。慢跑は「やぶさめ走り」なのだ。とととん、とととん、と三拍子に聞こえる、あの走り方だ。
全速力ではないからわかりやすく「だらだら走り」と書いたのだ。実際、一般には慢跑はジョギングの訳語だしね。
(註:ジョギングの訳語はもうひとつ、跑歩がある)

>馬甲とは日本語の馬甲を指し馬が着る甲

ほほう、北方民族の馬甲は40~50斤、すなわち24~30kgなのか。それでは人甲なみではないか。
それでどうやって馬の身体を覆うのか?
ちなみに北方民族の馬甲は馬の前面だけでなく胴体全部をすっぽり覆うのが特徴だ。
人間用なみの重さの鎧でどうやって馬をすっぽり覆うのか教えてくれ。

69 :日本@名無史さん:2013/06/22(土) 22:45:49.76 .net
>>68
馮素弗の墓から見つかった特注の馬甲ですら40`で
一般の南北朝期の馬甲は精々25〜30`の物。
具足が30`にもなる全身装甲に為ったのは宋代以降
魏晋時代は脚部の防護も無く、南北朝を経て初唐に至っても
各部の隙間まで覆う具足は普及していない。

そもそも馬甲は将官の乗馬にのみ施されていたが
遊牧民が中原へ流入した後、馬甲を纏った重装騎兵部隊が発達した
つまり鮮卑族など蒙古系民族の突撃重騎兵という思想が産み出した産物

至少で最小。トロットは小走りじゃなく速足、小跑慢跑でトロットを指す
「だらだら走り」という馬術用語も慣用句も存在しない、俺様用語は困るよ

70 :日本@名無史さん:2013/06/22(土) 23:26:27.99 .net
倭と日本が別種ってのは「統治者の血族が変わった」ってことなんじゃないの
で、その交代のときに「倭じゃなくて日本にしようぜ」ってなり、
旧血族の土地も全部併合し終えた、と

71 :日本@名無史さん:2013/06/23(日) 00:37:04.89 .net
古代中国の別種って、同民族別部族くらいの間隔でしょ

72 :日本@名無史さん:2013/06/23(日) 22:16:03.21 .net
>>69
>つまり鮮卑族など蒙古系民族の突撃重騎兵という思想が産み出した産物

宋代の中国の話はほんの参考で、その鮮卑など古代の北方民族の重装騎兵が本題だった
のだが、古代の北方民族においても馬甲は25~30kgだったと言いたいのか?

>至少で最小
「至少」の意味は下記URLにあるから読んでね。もちろん「少なくとも」しか書いてない。
http://cjjc.weblio.jp/content/%E8%87%B3%E5%B0%91

それはそうと「平均」はどうなった? 「平均」は原文のどの字にあたるの?

>小跑慢跑でトロットを指す

「慢跑」の訳語がないと言われて思いついたの? だが残念ながら原文では
小跑と慢跑の間にコンマが打ってある。つまり二つの走り方は列挙だ。
こうなると本当に原文を自分で読んで訳したのか疑問になって来るな。

あと、慢跑はキャンターすなわち「やぶさめ走り」で、この方がトロットより速いのだ。
「トロットあるいはキャンターでしか走れなかった」のほうが君の説に合うんじゃないか?

73 :日本@名無史さん:2013/06/23(日) 22:32:50.02 .net
>>71
>古代中国の別種って、同民族別部族くらいの間隔でしょ

『唐会要』百済伝. 百濟者、本扶餘之別種 (百済はもと扶余の別種なり)

この場合は別種は王統の分れのことだな。
中国の概念では国とは民族より王統のことなんじゃないか?

74 :日本@名無史さん:2013/06/23(日) 23:34:01.71 .net
>>72
おいおい、恍けるな。もう一度書いいてやるからよく読め
馮素弗の墓から見つかった特注の馬甲ですら40`
一般の南北朝期北朝の馬甲は精々25〜30`の物。

「至少」の意味は下記URLにあるから読んでね。最大小的限度即ち「最小」と書いてる
http://baike.baidu.com/view/1201192.htm
そもそも、少なくともなのだから即ち最小であると、日本人には解る。

>>59では、馬は並足か精々速足とあったが、自ら速足で駆け駆足で突撃すると修正したようだ
何にせよ見解が事実に近づいた事は喜ばしく思う

百済の件は例外で大半は王統ではなく民族や部族に対して使われている

75 :日本@名無史さん:2013/06/24(月) 10:26:10.75 .net
>>74
>馮素弗の墓から見つかった特注の馬甲ですら40`

私が聞いているのは40kgではなくて25~30kgのほうだ。
古代北方民族の馬甲が25~30kg、すなわち人間用なみだったという説の根拠はなにか?
資料で示してね。 

>「至少」の意味は下記URLにあるから読んでね。最大小的限度即ち「最小」と書いてる

その同じ資料で英訳を見れば
"at (the) least; at lowest; to the least extent; anyhow; at any rate; in any case"
すなわち「少なくとも」と書いてある。中国語はある意味不正確だから英語の方があてになる。

まあ「少なくとも」と「最小」は通底するが、それをもって「少なくとも」を誤訳として
斥ける理由にはならない。
いわんや君の場合は「最小〜平均〜最大」という「誤訳」にもとづいているのだからね。

>何にせよ見解が事実に近づいた事は喜ばしく思う

ということは「慢跑=キャンター」と、訳文中の慢跑の欠落を認めたということだな?
「小跑慢跑=トロット」なる珍解釈は引っ込めるのか?

>百済の件は例外で大半は王統ではなく民族や部族に対して使われている

「大半」と統計がとれるほど資料があるのならまずそれを示せ。

76 :日本@名無史さん:2013/06/24(月) 16:34:26.20 .net
面白いのを見つけた。グーグルの飜訳サービスだ。
中英 http://translate.google.co.jp/#zh-CN/en/
英中 http://translate.google.co.jp/#en/zh-CN/

英中でcanterと入れると慢跑と出る。
同じくtrotと入れると小跑と出る。

英中でat leastと入れると至少と出る。
同じくleastと入れると最小と出る。

逆もやってごらん。第二義以下が小さい字で出ることもあるから注意してね。

77 :日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:31:21.84 .net
>>75
上古至五代軍事工程技術史は、周りに相手されない電波教授とは
比較にならない程信憑性に富む書籍だ

意味不明な言い逃れをしない様にw
中国語を説明するのに「中国語はある意味不正確だから英語の方があてになる」とは
詭弁と言わずして何と言おうか、諦めて訂正と謝罪をしなさい

まず君は>>59で筆を曲げ自分に都合よく曲解した
>あまりの重さに馬は並足か、せいぜいだく足(トロット)でしか突撃できなかった
という妄言を訂正しなければ駄目だよ。あと小跑慢跑とはトロットの事

ほら大半だ
高句麗,在遼東之東千里,南与朝鮮、ワイ貊,東与沃沮,北与夫余接。東夷相伝以為夫余別種,故言語法則多同,而跪拜曳一脚,行歩皆走。
先零別種テン零与鐘羌諸種大為寇掠,断隴道。
自索虜破慕容,蛮馬二万余人攻囲義陽,据有中国。ゼイゼイ一号大檀,又号檀檀,亦匈奴別種。
滑国者,車師之別種也。 テイ者,西夷之別種,号曰白馬。 エフタル国,大月氏之種類也,亦曰高車之別種,其原出于塞北。
薛干部,常屯聚于三城之間。〜而率屯山鮮卑別種破多蘭部世伝主部落。 尉遅迥字薄居羅,代人也。其先,魏之別種,号尉遅部,因而姓焉。
突厥者,蓋匈奴之別種,姓阿史那氏。 赤土国,扶南之別種也。 ケ至国,居西凉州界,羌別種也。 奚,本曰庫莫奚,其先東部胡宇文之別種也。
尚可孤,東部鮮卑宇文之別種也,代居松、漠之間。 突騎施烏質勒者,西突厥之別種也。 東女国,西羌之別種,以西海中復有女国,故称東女焉。
リョウ者,蓋南蛮之別種,自漢中達于?、?,川洞這間,所在皆有。種類甚多,散居山谷,略无氏族之別。
乾元元年,復為燕州。旧領県一,无?土戸。所領戸出粟皆靺鞨別種,戸五百。天宝,戸二千四十五,口一万一千六百三。両京道里,与幽州同。
党項羌,在古析支之地,漢西羌之別種也。 室韋,契丹別種,東胡之北辺,蓋丁零苗裔也。 南詔,本哀牢夷后,烏蛮別種也。

日本語と中国語が苦手なのはよく解った、日本語教育をあまり受けなかったのかな

78 :日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:15:51.35 .net
モンゴル馬は小型である。
鉄甲重装騎兵の馬としては体力不足である。
モンゴル馬は、長距離走行の耐久性はあるが重量物は運べない。

モンゴル騎兵が重装騎兵となりうるのは、
ペルシャで大型のアラビア馬を手に入れてからとなる。
ペルシャ戦以前の重装騎兵は短弓に長剣か槍の装備が精々である。

79 :日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:52:31.00 .net
とうとう何の資料も無しに妄想を騙るようになったかw

80 :日本@名無史さん:2013/06/25(火) 00:40:36.65 .net
>>78
そんなあなたにはこれ
ttp://oyoguyaruo.blog72.fc2.com/blog-entry-883.html

81 :日本@名無史さん:2013/06/25(火) 02:11:44.46 .net
モンゴル軽騎兵の伝統は今でも残っている。
モンゴル競馬だ。

数十kmの距離の競馬だ。
モンゴル馬は千里馬なのである。

一日に千里(70〜80km)を駆け続けられる馬、それがモンゴル騎兵の馬なのである。

82 :日本@名無史さん:2013/06/25(火) 09:01:59.18 .net
>>77
>上古至五代軍事工程技術史は、周りに相手されない電波教授とは比較にならない程信憑性に
富む書籍だ

宣伝文句はいいから、「25~30kgの馬甲」に関する文章を引用してくれ。

>中国語を説明するのに「中国語はある意味不正確だから英語の方があてになる」とは詭弁

あほらし。「中国語の意味を中国語で説明するのは不正確だ」ということを言ったのだ。
現に「至少」の意味を説明する「最大小的限度」という中国語は君を誤解させたではないか。

>馬は並足か、せいぜいだく足(トロット)でしか突撃できなかったという妄言を訂正しなければ

これはうろ覚えで書いたから「並足」は間違いだった。しかし「だく足(トロット)」は正しいし、
ちゃんとソースを提示しているからこそ君が反論できたことを認識すべきである。

>あと小跑慢跑とはトロットの事

原文の「コンマ」は無視するのか? 原文を飜訳してくれた人に、「コンマ」をどう解釈するのか
聞いて見たらどうか?

>ほら大半だ

このなかにも王統らしいのはいくつもある。まあ両方あるらしいことはわかったよ。

83 :日本@名無史さん:2013/06/25(火) 09:26:57.13 .net
>>78
>ペルシャ戦以前の重装騎兵は短弓に長剣か槍の装備が精々である。

その意見に基本的に賛成だ。
征服事業が始まったときのモンゴル騎兵は軽騎兵オンリーであって、そのなかに
作戦上の要求から遊撃用の弓騎兵と、打撃用の槍騎兵とが生じた。

つまり軽騎兵と重騎兵と言うよりは弓騎兵と槍騎兵があった。槍騎兵の武装は
弓騎兵とたいして変わらなかったが、この槍騎兵がペルシャ征服戦の過程で
装甲(あるいは専用の馬も)を取り入れて重騎兵になった、というのが今のところの
私の考え方だ。

ただしこのモンゴル重騎兵が馬まで装甲したかどうかは保留。その理由は、騎士が
鉄札鎧をつけて馬は無装甲、という昔のイラストがあるからだ。

なお、鎌倉時代の大鎧も重いものは27kgぐらいあったというから、鎌倉武士も立派な
重騎兵だ。ただし主武器は弓だけどね。

84 :日本@名無史さん:2013/06/25(火) 18:27:30.62 .net
>>82
頁480至483参照、見つかった鉄片から類推して30`前後と推定している

中国語の意味は中国語で説明するのが最も端的
至少が最小を意味する現実を受け容れたく無くからと屁理屈捏ねるのは止めたまへ

>>61では更に筆を曲げ字句と文意を改竄した、>>59以上に訂正と謝罪を要する

>>75で自分が何を書いたか思い出そう。小跑慢跑=トロットなる珍解釈とある
而し、小跑慢跑はトロットを指す、複数の話を混ぜて誤誘導しては駄目だよ

別種が王統ではなく部族や民族を指すソースを提示しているのだから
君は具体的な文言を挙げて反論しなければならない

>>83
下らない自演も根拠無い妄言も無意味だから止めようね

85 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 09:23:00.04 .net
>>84
>頁480至483参照、見つかった鉄片から類推して30`前後と推定している

それはどこの出土品か? 馮素弗墓馬甲の40`との関係は?
小さい方の25kgのソースは? それから前にも言ったが文章で引用してくれ。

>中国語の意味は中国語で説明するのが最も端的/至少が最小を意味する現実を受け容れたく無く

君が>>74で: >そもそも、少なくともなのだから即ち最小であると、日本人には解る。

すなわち「日本語では『少なくとも』と『最小』は同じ意味だ」と言っているのを見逃していた。
馬鹿の壁はここにあった。これを放置したままでは議論は無意味だ。
そこで、「少なくとも」と「最小」の違いを改めて考えて見よう。

ここに重さがそれぞれ1、2、3、4、5キロの物体A、B、C、D、Eがある。
「重さが最小の物体を選んで下さい」と言われれば君はもちろん重さ1キロのAを選ぶ。
一方、「重さが少なくとも1キロの物体を選んで下さい」と言われたらどうか?
この場合、A、B、C、D、Eのどれを選んでも正解なのだ。

「少なくとも」と「最小」は一見似ているが、実際にあてはめるとこれだけの差がある。
似たようなものだ、とは言っていられないのだ。

86 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 09:24:22.85 .net
君に頼まれた翻訳者は中国語の「至少」の意味を知らず、字面から「最小」の意味だと思った。
そこで「至少有60〜80公斤、最重者可達130公斤」の三つの数字のうち、60公斤を
「最小」とした。最大はもちろん130公斤だ。ここで真ん中の80公斤が浮いてしまった。
しかたなく翻訳者は80公斤に「多くは」と、原文にないことをくっつけたのだ。
君が「平均」と言っているのはこれだ。

実は60〜80公斤は、「少なくとも」の下限を、点でなく範囲で示したものだったのだ。
上記のように「少なくとも」は範囲を示す言葉だから、下限が範囲で示されても不都合はない。
原文は60〜80を下限とし、130を上限とする範囲を「少なくとも」で示しているわけだ。

依頼者の君はそんなこととは知らず、翻訳者がくれた訳文を金科玉条と押し頂いた。
そしてあろうことか、その訳文を根拠にして、正しく訳した私の訳文を「誤訳」と決めつけた
のだ。

その後の議論で君が>>62の訳文から一歩も出ず、原文に戻って考えることをしない理由は上記
の事情による。当たっているだろう?

87 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 09:26:33.58 .net
>小跑慢跑はトロットを指す、複数の話を混ぜて誤誘導しては駄目だよ

なんども言ったが君はこの解釈についても原文に戻らない。原文を改めて示せば:
"即使是這樣的高頭大馬也只能以小跑、慢跑沖鋒。"

ごらんの通り、小跑と慢跑の間にはコンマが打ってある。「小跑慢跑」という四字言葉は
「少なくとも」この原文についてはあり得ないのだ。

>別種が王統ではなく部族や民族を指すソースを提示しているのだから
>君は具体的な文言を挙げて反論しなければならない

ご希望により一例を挙げれば
”突厥者,蓋匈奴之別種,姓阿史那氏。”
突厥は蓋し匈奴の別種なり,姓は阿史那氏。

突厥が民族名なら「姓」や「氏」があるわけがなかろう。これは王統だ。
ちなみに匈奴も国家、すなわち王統の呼び名だ。
漢との外交交渉の結果として美女王昭君が匈奴王に贈られた話は京劇にもなっている。

88 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 20:21:38.91 .net
蒙古馬の様な小型馬では、いずれにせよ重騎兵は無理だよ。

蒙古軍の強さは、その機動速度と小型で強力な弓にある。
長距離高速移動ができる馬、弩のように強力で飛距離のある短弓。

89 :日本@名無史さん:2013/06/26(水) 21:57:46.61 .net
>>85-87
具合が悪くなると無意味な長文で論点を曖昧にするのは
逃げを謀る無知の典型的行動
内容の無い長文をダラダラ書いても何の意味も無い

苦しくなると意味も無く不要な要求を繰り返し逃げを謀るのは
愚昧な老害の典型行動
キミは電波ブログを持ち出したが出土品の具体例など書いて無い。
上古至五代軍事工程技術史頁480至483に
朝陽十二台郷、 長安草廠坡1号墓、敦煌285窟出土とある
鉄甲片重量估算、一套鉄馬鎧、大約重30余公斤。皮革の物は当然更に軽い

至小は中国語で最小を意味する、以下を読み勉強する事
ttp://baike.baidu.com/view/1201192.htm
至小有、「有」には一般的に或いは多くはという字義もある。
最重者可達130公斤、最も重いのは130`に近い。

自らの愚かな書き込みを省みてみよう>>75 >「小跑慢跑=トロット」なる珍解釈
とあるが、小跑慢跑はトロットを指す。自らの浅墓さを恨み諦めよう

無知蒙昧が歴史を知らずに知った蒙りをするから珍解釈を生む。
突厥の起源を記述するのに興隆後の突厥を持ってくる馬鹿は居ない、これは突厥部の事。
突厥とは彼等の自称であり民族名でもある。帝国となった突厥可汗の姓が阿史那
そもそも突厥が氏族名なら氏姓が阿史那とはなり様が無い、少しは考えてから書く事。
後漢書南匈奴列伝、姓虚連題。為政者の呼称は単于、姓は虚連題又は挛鞮

90 :日本@名無史さん:2013/06/27(木) 09:25:09.55 .net
モンゴルの優位は武装の優位ではないよw
短弓(笑)

91 :日本@名無史さん:2013/06/27(木) 09:31:07.11 .net
短弓もってウホウホやってたのは、北ユーラシアに腐るほどいたわけで、
そのなかでチンギスハンが優位に立てたのは、強運と重軽織り交ぜた釣り戦術

92 :日本@名無史さん:2013/06/27(木) 12:06:28.42 .net
>>89
>小跑慢跑はトロットを指す

「小跑慢跑」って、原文の「小跑、慢跑」のこと?
中国語で「小跑慢跑」と「小跑、慢跑」は同じなの?

93 :日本@名無史さん:2013/06/28(金) 09:55:16.23 .net
議論は結構だがスレタイも読めない奴らの言に説得力は無いな

94 :日本@名無史さん:2013/06/29(土) 23:04:35.38 .net
>>90-91

モンゴル軍が強力であったのは、

@騎馬軍団を支えた兵站能力(長距離高速移動) 
基地(放牧地)から戦闘地まで数百km
敵の探索外の遠方からモンゴル軍の攻撃が始まる。
ある日突然モンゴル軍が現れて攻めてくること。

A常に敵より飛距離の遠い破壊力の大きな短弓 
敵の攻撃を受けることがない距離から攻撃し敵に打撃を与えられる

95 :日本@名無史さん:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN .net
>>89
>突厥とは彼等の自称であり民族名でもある。帝国となった突厥可汗の姓が阿史那
>そもそも突厥が氏族名なら氏姓が阿史那とはなり様が無い、少しは考えてから書く事。

違うな。
阿史那氏が係累を率いて移住し、移住先で自らの集団を突厥と号した。
部族国家の成立であり、阿史那氏はその首長氏族。
部族国家が発展して可汗国家となると阿史那氏は可汗氏族となった。

はじめに阿史那氏ありきなのだ。

96 :日本@名無史さん:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN .net
その通り、突厥は国号。

97 :日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN .net
天智系が倭で、天武系が日本で、壬申の乱が易姓革命という風に認識されて混乱がおきたのではないだろうか?

98 :日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
それだと
>あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと

を説明できない。

99 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
日本(旧小国)=やまと
倭国の地=近江宮の支配が及ぶ範囲

100 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
やまとってのは律令制の大和国の範囲

101 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
やまとって言葉は、記紀以降の国名か人名以外で存在しないんだよね。

筑紫のように、筑紫郡、大字筑紫、筑紫神社、みたいな
固有地がない。
なのに、対外的国名は、倭か日本で、ヤマトは名乗っていない。

102 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
つまり、奈良県の旧国名としてしか使われていない。

103 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
い〜や
日本書紀の神功皇后の九州で山門県が出て来る
そこで土蜘蛛田油津媛を討った
どうも女王らしくこれが邪馬台国かも

104 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
福岡県山門郡ですね。
和名抄にも載っている古い地名ですね。

105 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
畿内には地方の勢力が移住していると考えられます。
もちろん、日向もその一つでしょう。

その移住勢力の一つに、筑後山門の勢力もいたのでしょうか。

記紀編纂時ヤマトの国名を主張できたのは、
その頃筑後大和勢力が実権を握っていたのでしょうかね。

106 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
虚見都 山跡乃國

107 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
日本神話ってイザナギが死んだ場所が中東だしなぁ

ヒノカグツチはスーリヤ

翻訳の仕方が間違ってて地名が日本列島内部とは限らなそう

108 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net
イザナギじゃなくて
イザナミだったか

いきなり出番の腐ったイザナミが相談した黄泉の神がブラフマー臭かったりもする

109 :日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN .net


110 :日本@名無史さん:2013/09/22(日) 16:36:11.41 .net
>>101
>記紀以降の国名か人名以外で存在しない・・・・・・・・・
奈良県天理市に坐す式内名神大社「大倭神社」や大倭直氏を、知らぬのか?

111 :日本@名無史さん:2013/09/22(日) 20:13:47.46 .net
しらぬ

112 :日本@名無史さん:2013/10/04(金) 17:10:23.80 .net
>>1
そのまま。
倭国が九州王朝のことで日本が近畿のこと。

113 :日本@名無史さん:2013/10/14(月) 10:24:20.08 .net
>>112
なるほどそういうことか
じゃあ卑弥呼は倭国の方か

114 :日本@名無史さん:2013/10/14(月) 15:54:33.85 .net
倭国というのは日本列島全体を指す言葉で日本はヤマト政権のこと。
ヤマト政権が日本列島を統一したという意味に過ぎない。

115 :日本@名無史さん:2013/10/14(月) 16:45:35.42 .net
完全に ひのもと、東の果て って中国からの視点だよね。
日本って中国語でなんて音なんだ。

116 :日本@名無史さん:2013/10/15(火) 00:53:34.41 .net
日(ひ)は肥の国の肥と同じだろう

117 :日本@名無史さん:2013/10/15(火) 12:45:14.30 .net
大和勢力は本家。倭国とは九州とかあっちの勢力。

118 :日本@名無史さん:2013/10/15(火) 12:47:49.99 .net
出雲には秦氏や物部氏もいれば、東北には蝦夷がいた。

119 :日本@名無史さん:2013/10/18(金) 21:42:09.21 .net
津軽はひのもとだし

120 :日本@名無史さん:2013/11/10(日) 01:55:53.75 .net
東南アジア、インドネシアとかが倭国だったとかじゃね?

米の流れ的に

121 :日本@名無史さん:2013/12/03(火) 08:12:49.47 .net
おそらく新しい日本という国号を使い出したのが天智天皇
その死後、近江(日本)大和(倭)と抗争する壬申の乱があり、
統合された

122 :日本@名無史さん:2013/12/03(火) 20:48:31.40 .net
肥国の別名は、建日向日豊久士比泥別。
肥は日に通じる。
日本の国名は日下に由来する。

123 :日本@名無史さん:2013/12/03(火) 20:51:56.58 .net
テスト

124 :日本@名無史さん:2013/12/03(火) 20:52:41.07 .net
テスト

125 :日本@名無史さん:2013/12/03(火) 22:23:26.91 .net
倭国は九州。邪馬台国も倭の五王も九州での話だ。
倭国の分家的存在が大和。
倭国は白村江で弱体化し、大和改め日本に呑み込まれた。

126 :日本@名無史さん:2013/12/04(水) 13:17:41.90 .net
カルト乙

127 :日本@名無史さん:2013/12/21(土) 11:31:59.42 .net
中世以後の日本は関西・関東の二つの焦点をもつ楕円のような国だが、
古代は九州・関西の楕円だった。
白村江=朝鮮出兵、筑紫君=豊臣秀吉、天皇家=徳川家康にたとえると
ずいぶん似ていると思う。

128 :日本@名無史さん:2013/12/21(土) 11:39:55.44 .net
>>125
惜しい。
倭国は九州と今の韓国。当然ながら倭の五王も九州と韓国の話。日本は本州。

129 :日本@名無史さん:2013/12/21(土) 21:13:37.83 .net
わざわざ海渡って回廊南部を入植、征服してるくらいだから
当然本州の西の方は支配下に収めてたよ

130 :日本@名無史さん:2013/12/21(土) 22:20:54.72 .net
127
その例え、面白い。

131 :日本@名無史さん:2013/12/24(火) 06:57:17.83 .net
江田船山古墳のワカタケルこそ倭王武。
大長谷のワカタケ、シキのワカタケルは「田舎のプレスリー」(笑)

132 :日本@名無史さん:2013/12/24(火) 15:57:56.41 .net
江田船山は欠字があるから分かりません(^-^)

133 :日本@名無史さん:2013/12/24(火) 20:35:36.65 .net
>>127
日本は現代でも二つの焦点をもつ楕円の国だ。ただし現代の問題は中央
官庁の役人どもに、この認識を持てる人がいなくなっているということ
だ。二つの焦点とは東京と大阪だが、この15年ちかくのデフレ時代、
大阪にもっと公共投資をすれば簡単にデフレを抜け出せるのに、そのこ
とが判る役人が一人もいなかった。官庁の官僚どものマ○ケさ加減よ!

134 :日本@名無史さん:2013/12/26(木) 20:52:38.02 .net
>>133
栗本慎一郎の信者乙。
シリウス云々はどうなった、蘇我氏はゾロアスター教徒なんだろw

135 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 19:17:16.93 .net
日本書紀は元明まで書けたのに、なぜ持統で止めたか?
それは文武の日本建国を隠し、神武まで遡らせるためだろう。

136 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 19:55:47.17 .net
>>115
リーベン

137 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 21:40:33.83 .net
九州王朝説っていつの時代の話だよw

138 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 22:05:38.16 .net
日本書紀は神代から日本で押し通してるが
続日本紀で建元も改名もさらっと書いてるよね(^-^)

139 :日本@名無史さん:2014/01/18(土) 22:50:23.04 .net
>>137
今時、倭国が畿内にあったと主張してる電波は居らんだろ

140 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 08:15:59.48 .net
百済系渡来人が朝廷を少数派独裁工作で乗っ取り自分達が原日本人であるかの様に工作した

つまり国内では日本=倭国百済起源説をやっていた最中の対外二枚舌示威行動

現在韓国人がやってる対日ネガティブキャンペーンと全く同じ

アメリカ人も最近は誰が生粋のインベーダーか察しがついてきたみたいだけどねw

141 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 08:26:36.27 .net
>>140補足 尤もアメリカ人は自分達もネイティブアメリカンを虐殺して土地を奪ったから韓国人に強く出られないみたいだねw

142 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 10:02:05.67 .net
新唐書では倭=日本、大宝は改元とした
でも続日本紀では建元なんだな

143 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 13:16:42.35 .net
倭、百済→日本
高句麗→渤海
比較すると面白そう。

144 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 13:26:33.04 .net
>>139
少なくとも大宝建元以前「倭国」が畿内にあった証拠はある。

145 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 14:49:20.32 .net
藤原宮の木簡だろ。文武即位前とは言い切れないが。

146 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 15:00:26.00 .net
だから、大宝建元以前と書いた。

147 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 18:40:36.64 .net
>>143
特に新鮮味は無いな

倭∈日本
靺鞨≒渤海≠高句麗

148 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 10:12:49.12 .net
小国は金官加羅。それが倭国を合併して日本になった。

149 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 20:40:00.28 .net
>>148
金官国は旧狗邪韓国で倭人の国
倭国が強大化したので自発的に併合され任那の中核になった

150 :PC:2014/01/21(火) 09:49:19.67 .net
>>149
狗邪韓国が倭人の国なのはその通り。
しかし3世紀末に北方民族に支配されて金官加羅になった。

151 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 19:28:51.55 .net
こんなとこで何してんのパフォコン爺

152 :日本@名無史さん:2014/01/22(水) 02:55:29.24 .net
梅原猛・埴原和郎 著 「アイヌは原日本人か」 

「頭骨の計測Data分析」133頁
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/1-thumb.jpg
●近畿
●朝鮮人

●中部 ●新潟
      ●千葉
  ●東北

近畿の人と朝鮮人が非常に近いことが目立つ

整理すると、
(1)アイヌは北方に住んでいても「寒冷地適応」を受けていない。
(2)朝鮮半島から渡来した弥生人たちは北方的要素をもっている。
(3)近畿人が朝鮮人に近いということは、近畿地方の人々は弥生人の混血の影響を相当に受けていると想像される。
(4)オンコロマナイと礼文華の違いから、道内でも道北と道南では小進化の速度が違っているようである。

生体計測値の全国統計資料(1910年代、40年代、50年代の3回に分けてとられた)からの分析(東大人類学教室、河内まき子)によれば、
日本人の特徴によって「中心部」と「周辺部」とに分かれる。
日本の中心部(近畿から山陽、九州の一部、四国の一部)はかなり朝鮮系に似ている。
周辺部(東海、関東、東北、北陸、山陰、九州の真ん中あたり)は別の特徴を持つ。
すなわち、国内における地域差がはっきりと出ている。

153 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 19:00:03.07 .net
>>152
古すぎる…


DNAでやれや

154 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 22:08:50.91 .net
>>152
近畿は古い時代の人骨が地形と土壌の関係で希少だっただけで
今は緯度と気温の影響を取り除くと
縄文時代と古墳時代の間に有意差は無いと結論出てるよ

155 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 17:18:04.95 .net
>>154
152は、現代人の調査だろ。

■日本人と韓国人のDNA

『アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった』
(総合研究大学院大学 『日本列島3人類集団の遺伝的近縁性』 2012年)

『(Y染色体のO2bタイプは)中国にはこれらのタイプはほとんどいないが、
系統関係では中国の主流であるOの仲間であり、日本と韓国で共通してみられることから弥生系としてよい』
(『Y染色体からみた日本人』より)

156 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 21:43:08.47 .net
倭国は朝鮮半島国家。日本は日本列島国家。全然別物だね。

157 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 23:38:10.83 .net
倭は日本列島だよ
朝鮮半島にも領土が有ったけど

『隋書』倭国伝
倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。

倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。
三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm

158 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 09:48:00.72 .net
>>157
それは隋の時代、卑弥呼から数百年後の話だね。
倭は朝鮮半島国家で版図は九州まで伸ばしたこともあるのさ。
大和朝廷とは何の関係もない。
卑弥呼も朝鮮半島の人。

159 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 10:25:13.62 .net
1000年以上経ってから考え出したウリナラファンタジーよりは信頼出来るはw

160 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 10:40:02.42 .net
最近朝鮮人が工作に必死なのが笑えるなw

161 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 10:48:38.84 .net
朝鮮人が工作だってさ。ははは。
100年経っても邪馬台国が見つからないのは何故?
それは朝鮮半島にあったからなんだよ。

162 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 11:20:55.44 .net
「朝鮮半島にあったから見つからない」ってマジモンの馬鹿かよwwww
そんなんムー大陸でもアトランティスでも同じじゃねえかw
朝鮮にあったという史料・考古資料を出せよ

163 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 11:29:33.61 .net
>>162
史料は魏志倭人伝。
東南水行1年に裸国、黒歯国があった。
3世紀には羅針盤が発明されておらず、遠洋航海は不可能。
裸国、黒歯国は日本以外には存在し得ない。
すると邪馬台国は日本から北西方向の海の向こうにしか存在し得ない。
即ち、邪馬台国は朝鮮半島以外に存在し得ないのである。

164 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 11:33:35.55 .net
病院へ行ってこい、即入院だろうがw

165 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 11:52:31.58 .net
>>163
なにバカな事をw
ハワイにポリネシア人が移住したのが3世紀頃なんだけど?
しかも何度も往復してるんだけど

166 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 13:30:16.99 .net
>>165
バカはお前さ。それは片道切符の航海だよ。

167 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 13:41:18.02 .net
>>166
ハイハイ、無知で馬鹿の赤っ恥くん
ちゃんと往復してたよ

168 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 14:32:45.45 .net
そもそも邪馬台国への道程をガン無視してる時点で…

169 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 15:31:54.89 .net
>>155
相変わらずこの手の誤誘導を謀る工作が痕を絶たないねえ

非O2b1のO2bグループは日本人には少ない
O2b1は日本で発生した系統

170 :日本@名無史さん:2014/01/27(月) 08:23:38.81 .net
倭は朝鮮半島国家。倭の五王は朝鮮半島の王。記紀に何の記述も無いのがその証拠。

171 :日本@名無史さん:2014/01/27(月) 18:59:59.10 .net
「宋書」倭国伝より

倭国在高麗東南大海中、世修貢職。
(倭国は高麗の東南大海の中にあり、世々貢職を修む。)

順帝昇明二年、遣使上表曰、
「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿。…」
(順帝の昇明二年、使を遣わして上表す。いわく、
「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土をひらき、畿をはるかにす。…」)

>倭国在高麗東南大海中
>渡平海北九十五國

172 :日本@名無史さん:2014/01/27(月) 21:48:26.01 .net
>>171
これこそ倭が朝鮮半島にあった証拠だね。
帆船が普及したのは宋の時代。
流れの速い対馬海峡を超えて兵力を展開できたわけがないのだ。
倭は朝鮮半島南部にあり、海を渡って支配したのは遼東半島の事なのだよ。

173 :日本@名無史さん:2014/01/27(月) 23:22:12.01 .net
>>172
倭人は船旅1年もしていた

カナヅチで海を渡れない朝鮮人とは違うぞ

174 :日本@名無史さん:2014/01/27(月) 23:22:54.88 .net
朝鮮人は泳ぎへた
へたれ

175 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 03:11:36.58 .net
どの時代の文献でも、倭国は朝鮮半島の東南にある島国なわけで、半島内のわけない
同じ理由で本州(畿内)でもない
奈良はソウルの真東

176 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 03:25:27.12 .net
>>175
会稽の東冶の東
文盲なの?

177 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 03:49:40.14 .net
>>176
それは魏志の「まさに会稽東治の東にあたる」の誤記だよ
会稽東治は「徐福が会稽の東にある国を治めた」の意味
つまり、「徐福が住み着いたという伝説の国は倭国のことに違いない」という内容で地理の話ではない

178 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 04:06:10.17 .net
>>177
後漢書倭人伝
「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同」

179 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 04:15:14.61 .net
『南史』倭国伝
倭國、其先所出及所在、事詳北史。

『北史』倭国伝
倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中依山島而居。

新羅の東南てどこ?

180 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 04:47:35.51 .net
>>178
だからそれが魏志からの引用の誤記なんだよ
誤記というより編者の解釈ミスのほうが正しいかな
後漢書が魏志を参考にしてるのは知ってるだろ?
>>179
百済、新羅の東南なら九州が妥当でしょう

181 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 05:23:29.44 .net
>>179
だから新羅も百済も全部位置が間違っているのさ。
百済は遼東半島にあり、新羅は北朝鮮北部にあった。
その東南の大海中の山島、即ち倭は朝鮮半島にあったのだ。

182 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 05:37:24.10 .net
>>179
『北史』百濟伝
 「其國東極新羅,北接高句麗, 西南俱限大海,處小海南」
 「其南,海行三月有躭牟羅國」
 百済は小海の南に有り、済州島まで三カ月。だから百済は遼東半島だね。

183 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 05:55:22.42 .net
キチガイwww

184 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 07:54:49.46 .net
>>179
『宋書』百濟伝
「百濟國,本與高驪俱在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。」
百済は本は高句麗とともに遼東の東千余里に有り、高句麗が遼東を攻略すると百済は遼西を攻略した。

『史記』夏本記
「百濟國西南渤海中有大島十五所,皆邑落有人居,屬百濟。」
百済国西南渤海中には友人の島が15有、皆百済に属す。

百済は誰がどうみても遼東半島国家だね。
倭は遼東半島の東南にあった大海中の山島にあった。
即ち、倭は朝鮮半島国家。卑弥呼も朝鮮半島人。日本史とは関係ない。

185 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 08:36:33.36 .net
百済と倭は友好関係にあっただけじゃないかw

186 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 08:56:30.52 .net
みんな、倭や邪馬台国が日本にあったという固定観念に取りつかれているだけさ。
だからいつまで経っても解けないのだ。

187 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 09:41:28.94 .net
解けないのは満州が受けたカルトの洗脳です。

188 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 16:12:29.55 .net
皆、事実を知るのが怖いから嘘を信じ込んでいるだけ。
邪馬台国は朝鮮半島に、百済は遼東半島に、楽浪郡、帯方郡は満州にあったのさ。
そして畿内は黒歯国。

189 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 16:17:07.15 .net
と現実から目を背けた寒いニートが居ます

190 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 17:48:35.43 .net
>>188
たぶん、お歯黒は、老齢対策。
入れ歯の無かった、時代の虫歯予防。

191 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 17:59:25.32 .net
もう記紀も殆ど内容わかってきたしな。
出雲丹波から畿内にかけての話が神話紀にまとめてある。

192 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 21:44:39.30 .net
>>190
文献と考古学が一致している!

193 :日本@名無史さん:2014/01/28(火) 21:51:38.60 .net
罪チョンの妄想は留まる所を知らないな
精神病院に障害隔離しないと危険なレベル

194 :日本@名無史さん:2014/01/29(水) 23:22:33.68 .net
漢書地理誌に「樂浪海中有倭人」ってあるよね。
楽浪海って渤海あたりか、せいぜい西朝鮮湾。百歩譲っても黄海あたり。
誰がどうみても倭人は朝鮮半島に住んでいた人達だよ。
邪馬台国は朝鮮半島国家なのさ。

195 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 01:09:49.89 .net
アホの戯言だなw
半島南部は倭国で正しいが。

196 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 05:27:08.50 .net
倭は新羅などを属国にして高句麗と朝鮮半島で覇権を争った軍事大国。
ところが、記紀には高句麗との戦争の記録は無ければ倭の五王も出てこない。
即ち、倭は朝鮮半島国家だっという事だ。
全ての文献は倭が朝鮮半島にあった事を示しているんだよ。

197 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 06:02:03.36 .net
本気なら即入院レベルの馬鹿だw

198 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 09:10:28.49 .net
>>196
それは、倭が大和朝廷と違うことの証明でしかないよ。
大和朝廷が、邪馬台国、倭国と全然別の国というのは同意。

199 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 09:42:37.41 .net
>>198
「倭が九州にあった」という説と「倭が朝鮮半島にあった」という説。
戦いの舞台が朝鮮半島である以上、朝鮮半島にあったと考えるのが自然じゃないか。
流れの速い対馬海峡を越えて兵力を展開するのは現実的ではないのではないか。
そのような強国が九州に存在したのなら、半島ではなく近畿を征服するだろう。

200 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 09:51:42.49 .net
半島南部は倭国に支配されていたからな。

201 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 10:19:49.14 .net
昔は国境線はないわけで、半島南部から日本列島にかけていた倭が、半島から追い出された
というのが正しい見方だろう。

202 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 12:00:18.08 .net
>>201
当時の朝鮮半島に倭を追い出せるような勢力は無いよ
新羅の始祖も倭から来たとある
済州島の始祖も倭から来た
半島南部は倭の領土

203 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 12:14:52.96 .net
自分は倭国と大和朝廷は別種だと思う。
その点、唐の見方に同意。

日本書紀見ると、新羅憎し、新羅憎しだよね。
新羅に領土を奪われだのが、大和朝廷の先祖の国だろうな。

204 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 12:17:58.69 .net
倭は北部九州から起こり
朝鮮半島南部や南九州、関西方面へ勢力を広げて行った
関西方面へ進出した勢力が大和朝廷へ発展し日本国となり
朝鮮半島南部での戦いで力を消耗した倭から政権を奪った

205 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 12:19:22.79 .net
>>201
その通り。倭は基本的には朝鮮半島国家で九州にも手を伸ばした。
邪馬台国も倭の五王も朝鮮半島の人達。
半島からは新羅によって追い出され、列島では大和政権に滅ぼされ消滅。
もっとも大和政権自体が、倭人の末裔が東征して開始した政権かもしれないが。

206 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 12:24:42.92 .net
後漢書にもある通り倭が博多近郊から興ったのは間違いない
その後同心円状に勢力を広げて行き半島南部にも進出した
古代においては日本と朝鮮の国境線は無かった。

207 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 13:13:09.07 .net
>>205
朝鮮半島中心では倭の風俗、気候風土とは全く合わないのだが。
あれは南方系の話、朝鮮には丹山もない。

208 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 13:58:01.85 .net
>>206
後漢書には倭の極南界に倭奴国があり、その金印が博多から出てきたんだ。
だから後漢書の示す倭の中心はそこより北、即ち朝鮮半島。
>>207
朝鮮半島南岸は暖流の影響で暖かく、倭の風俗にピッタリ。

209 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 14:53:29.10 .net
金印が出土した博多湾沿岸が倭の政治的中心地
漢代には領土は博多から北に向かって発展してたんだろう。

210 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 15:06:58.13 .net
          北京 上海 京城 釜山 福岡 佐賀 熊本 宮崎 岡山 松江 奈良
平均気温(年)  12.3 17.1 12.5 14.7 17.0 16.5 16.9 17.4 16.2 14.9 14.9
平均気温(8月) 24.9 27.7 25.7 25.9 28.1 27.8 28.2 27.2 28.3 26.8 26.9
平均気温(1月) -3.6  4.3 -2.4  3.2  6.6  5.4  5.7  7.5  4.9  4.3  3.9

211 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 15:13:00.37 .net
九州は大和より朝鮮半島に近いし、昔は行き来もしやすかったろうね。

212 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 15:14:34.79 .net
倭の別種は倭に含まれる

213 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 16:06:52.79 .net
>>211
黒潮や対馬海流は地球の自転と地形が原因で発生している現象であり、3世紀と現在の条件は変わらない。
昔は羅針盤や帆船も無く、技術も低かったので昔の方が行き来がしやすかったという事はあり得ない。

214 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 16:10:55.00 .net
>>209
対馬海峡は北から南に進出はしやすいが、南から北へ向かうのは困難。
生きてたどり着くのがやっとであり、兵力の展開など古代人には不可能。
倭人は半島から九州に向かって発展したと考える方が合理的ではないか。

215 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 16:19:07.26 .net
>>214
対馬海峡の海流は季節や時間によって変わるので
『対馬海峡は北から南に進出はしやすいが、南から北へ向かうのは困難。』
等といった事実はない。
対馬海峡の海流を熟知した倭人が壱岐、対馬、伽耶と進出したと考える方が合理的。

216 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 17:04:58.29 .net
>>208
>金印が博多から出てきたんだ。
あれは採取状況が怪しいから当てにならんよ。
それに丹山に青玉、真珠で冬温暖なら阿波周辺しかないけどな。

217 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 17:15:40.02 .net
>>214
倭人伝じゃ対馬の人々は日常往き来してるとあるけど。

218 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 18:14:58.29 .net
>>215
文化も人も朝鮮半島から来てるんだから、国家権力だけ日本列島から半島に進出した
と考えるのは無理があるよ。

219 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 19:03:58.21 .net
文化度と権力は別っていうね。
人を動かすのは技術ではなく人である。
技術や文化を持っている者を武力によって配下とする。
まずその技術や文化を欲しいと思うことが必要だが、
良く言えば理想家で悪く言えば自己中な正義感のような気質も必要。
アレクサンドロスやチンギスハンやヌルハチの如く世界史的にそう。
ローマのような高い技術や思想文化を持つ帝国がゲルマン土人にあのようにされるとは。
あの時代の戦の強弱は戦意と身体能力に大きく左右される。
鉄製武器は有利に働きはするが石製の鏃斧や竹槍でも効し得る範疇。

220 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 20:22:44.01 .net
>>218
考古学的には半島にも倭系遺物がたくさん出てきてるよ。

特に土器なんか生活必需品だから、当然人もいっている。

一昔前みたいに、半島→列島といった一方通行的な関係じゃないよ。

221 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 20:37:47.59 .net
筒形銅器、前方後円墳…
あと何があったっけ

222 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 20:54:11.28 .net
ヒスイも日本でしか産出しなかったな

223 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 21:02:37.28 .net
朝鮮半島より九州の方が温暖で農業生産性が良く人口密度も高い
多くの兵力が得られるから日本列島から半島に進出した
と考えるのが自然だな。

224 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 21:04:08.15 .net
>>217
あれは対海国の間違い。対馬は倭を日本と勘違いした後世の誤記だろう。
対馬の住民が対馬海峡を往来して穀物を買いに行くわけがないからな。

225 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 21:11:46.89 .net
間抜けな理由で都合よく解釈するなよw

226 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 21:32:43.64 .net
>>225
「対海国」の方が版が古く、「対馬国」を「対海国」と間違える可能性は少ない。
即ち、どちらが間違っているかと言えば、「対馬国」の方が間違いだ。

227 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 21:38:22.00 .net
古代朝鮮半島は倭の属国
これは確定だ

228 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 21:38:47.53 .net
>>224
対馬の住民は後の時代でも対馬海峡を往来して
九州本土や朝鮮半島に穀物を買いに行ってるよ。

229 :日本@名無史さん:2014/01/30(木) 21:41:15.21 .net
古代半島の南部は倭国の直轄領
その北にあった百済国や新羅地方が属国

230 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 04:58:39.60 .net
>>228
帆船が使われるようになった後の時代の話をしているよね。

231 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 05:03:47.68 .net
>>229
倭国は基本的に朝鮮半島国家だからそれは正しい。
高句麗との死闘は半島国家であってこそ必要な戦いだ。
毛利も島津も誰も半島で戦争しようなどと考えなかっただろう。

232 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 08:29:46.30 .net
倭人の本国は日本列島だが
朝鮮半島南部にも倭人が多く住んでいたんだ
高句麗の南下で朝鮮半島南部の倭人居住地が脅かされるようになったんで
本国の九州からも応援が来たんだ

233 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 09:46:10.21 .net
小さな日本が、大きな倭国を征服したそうだから、改名までは倭人の国でない倭国たった
んだろうね。

234 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 10:01:46.67 .net
倭と書いてヤマトと読む

235 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 15:03:26.01 .net
倭と書いてヤマトと読むのは後世の故事付だね

236 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 15:22:08.73 .net
>>232
何か証拠でもあるの?対馬海峡を越えて半島に兵力を展開できたの?

237 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 15:53:38.46 .net
>>235
>倭と書いてヤマトと読むのは後世の故事付だね

だね。
そんなこじつけまでしてるところが哀れ。倭と連続していないからこそのこじつけ。
倭国に成りすました朝鮮人の国が日本。チョンがやりそうなことだ。

238 :筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 15:59:59.12 .net
新羅の王は倭国の東北1000里のたまな国から来た人物。

倭国の都中心地=博多湾沿岸 その東北のおおよそ1000里

宗像一族の宗像市の田熊(たぐま)から渡った(赤ちゃんの頃流された)人物だろうな。

239 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 16:20:00.97 .net
>>236
広開土王の碑文とかあるじゃん

240 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 16:25:51.72 .net
白村江の戦いでも倭は4万以上の兵力を展開してたな。

241 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 16:53:53.01 .net
>宗像一族の宗像市の田熊(たぐま)から渡った

タバナのはずだが?何の共通点もないじゃんw

242 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 16:57:56.07 .net
手前勝手にものすごい短里設定してからに田熊ですと

243 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 16:59:30.88 .net
かろうじてただけがかぶっている。

244 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 18:43:38.31 .net
普通に丹波だよな。籠神社にも半島に渡った王の伝承が残ってるのに。
田熊?なにそれw

245 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 18:53:01.21 .net
くまぬか耳酋長の子の玉手見酋長のは浦島子とかぶる。

246 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:25:44.70 .net
>>236
他でもない三国史記に
倭人が船***艘を駈って攻め寄せたって記述が
散見されるんだけどw

247 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:36:57.07 .net
>>244
タンバじゃなくてタバナ
玉名だろう

248 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:46:59.78 .net
いや、タマナじゃなくてタバナ

249 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:06:15.41 .net
>>246
それは倭は朝鮮半島にあった証拠だよ。

250 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:09:11.38 .net
玉名なら倭国は天草灘の海中だなww

251 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 23:07:43.57 .net
>>249
海を渡って新羅族を攻めた倭は日本列島の国
そして半島南部も領土とし、百済国や新羅を従えていた

252 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 23:20:31.12 .net
梁書新羅伝には新羅に文字無しと書かれている

253 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 05:08:00.98 .net
>>251
対馬海峡は流れが速く古代船で軍事作戦など不可能。
半島内から海上作戦をしたと考えるのが自然。
列島国家が半島国家を属国にするなど不可能なのだ。
それ故にその記述は倭が半島にあったという証拠となる。

254 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 08:53:59.58 .net
>>253
白村江の戦いは何なの?

255 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 11:42:54.35 .net
>>254
この手の奴を相手してもしょうがないと思われ

256 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 11:48:49.71 .net
>>253
世界一のバカだなw
朝鮮学校だったしょうがない

257 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 15:22:52.36 .net
>>240
アマテラスの故郷を守るために必死だったね。

258 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 15:24:05.39 .net
慰安婦捏造朝日新聞と変態毎日新聞は日本から出ていけ

259 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 18:41:24.75 .net
>>254
もちろん、倭が朝鮮半島にあった事の証明だよ。
卑弥呼や倭の五王の時代からはかなり経った話で単純に同じ国とは言えないが。

260 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 21:36:23.32 .net
ライフスペースの定説オジサンみたいになって来たな、この基地外

261 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 22:18:20.83 .net
古代人が対馬海峡を越えて兵力を展開するなんて、技術的に不可能な話さ。

262 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 22:28:14.52 .net
>>261
>>254

263 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 23:23:55.10 .net
儒禮尼師今 十二年 春 王謂臣下曰 倭人屢犯我城邑 百姓不得安居 吾欲與百濟謀 一時浮海 入撃其國 如何 舒弗邯弘權對曰 吾人不習水戰 冒險遠征 恐有不測之危 況百濟多詐 常有呑噬我國之心 亦恐難與同謀 王曰 善

新羅本紀からだが、大雑把にいうと新羅王儒禮尼師今が倭国を攻撃しようとしたが、臣下に「我が国は海戦が出来ないからやめれ」と言われたと言う話。
当然、倭国は渡海しないと攻撃できない所にある、と言うことである。
(そして、逆に倭国には新羅を渡海して攻撃する能力がある。)

264 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 07:01:52.38 .net
>>263
半島南部は地形や潮流を熟知していないと海戦はできない。
対馬海峡を越えての攻撃など不可能だから、それはやはり倭が半島にあった証拠。
それに同じ新羅本紀には倭が5道から侵入した記事がある。
まさに倭が半島にあった証拠だ。

265 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 07:10:40.44 .net
659-661 第4次遣唐使 (日本国)
663年 白村江の戦い (唐と倭国の戦闘)
665-667 第5次遣唐使 (日本国)

倭国と日本国が異なるとの記述があるのは旧唐書だけ。
それは倭国と日本国が異なる国である国である事を唐は認識する必要があったからだ。

この時代、九州には大和政権に対抗するような勢力は存在しない。
即ち、倭国は朝鮮半島にあったという証拠である。

266 :筑紫倭皇帝:2014/02/02(日) 10:39:23.96 .net
変死体:内閣府の職員、ボートで漂流か 北九州沖
http://mainichi.jp/select/news/20140201k0000e040264000c.html

残念なニュースだ・・・
ハングルから流され倭国の都、中心地の博多湾沿岸の東北およそ1000里の地に漂着したのだろう・・
ハングルで新羅の王になった倭人の脱解王の逆になってしまったな・・

しかし、ハングル人や畿内節の自分の所に倭国や邪馬台国を必死にもってこようとする姿が滑稽だw
よほど、歴史書の記述を素直に理解できないアホばっかだなw

「三国史記」:子供の頃、倭(博多湾沿岸)の東北1000里のところから海に流された。
「三国遺事」:賀洛国(任那日本府)の海岸に船が漂着し、その中から出てきた少年が後の新羅の王脱解だった。
       脱解王「私はもと龍城国の者で・・(龍城国では)不吉と言われ
       船に乗せられここにつきましたが・・それが私です。」

龍城国と言えば、竜宮城→→志賀海神社の別名、龍の都・龍の宮→→安曇氏の本拠地→→君が代→→
→→安曇氏の祖先神を称える→→つまり博多湾沿岸で権力のあった大国主=倭奴国王

倭奴国と言えば倭国の極南界。 つまり倭国の本拠地は博多湾沿岸ってことだ。

ハングルも畿内節もあきらめろ。

267 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 10:46:57.29 .net
>>264
朝鮮半島に有ったら陸路で攻めるだろ。加羅だって百済だって陸路で攻めてる。
自分で書いてて頭おかしいと思わんのかね。

268 :筑紫倭皇帝:2014/02/02(日) 10:47:02.78 .net
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
       志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg
綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」本宮:神崎(筑紫平野)櫛田宮
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界・元海もとうみ)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg
卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野又は筑紫平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。

269 :筑紫倭皇帝:2014/02/02(日) 10:49:12.99 .net
国譲りとは・・・
一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため
出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。

しかし真実はなんの事はない。
大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。
倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」
大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。
もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。
国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。
筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい出雲に移住(追放)された。

だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、
後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族や邪馬台国の頃の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。
何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。

この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。

ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」

また天孫族が元々いたのは志摩国、
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾岸である。

270 :筑紫倭皇帝:2014/02/02(日) 10:51:45.37 .net
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
 魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
 後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」

元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
 唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
 倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
 今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」

旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
     日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
     筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」

このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。

「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。

271 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 10:56:50.98 .net
>>267
日本国内でも源平の合戦では水軍が活躍しただろう。
特に半島南部は地形が入り組んでおり、陸からの攻撃ができない場所が多々あるよ。

272 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 11:18:02.29 .net
倭国は朝鮮半島国家。しかし極南界は九州まで進出した。
天孫降臨は倭人の九州への上陸時の記録。
筑紫の日向の高千穂は唐津に上陸した後、脊振山地を超えて博多を目指した時の記録。
神武東征は半島から来た倭人の子孫が大和を制圧した時の記録。
大和朝廷の祖先は朝鮮半島から来た。

273 :筑紫倭皇帝:2014/02/02(日) 11:24:47.93 .net
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」

(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)

倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。

魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。
参考資料:http://www.j-real.com/ta-san/yamatai/map3.jpg ←当時の魏使に北に向かうという概念が無かった証拠。
                              (九州島は正に(当に)会稽郡東治(紹興市)の東にある。)

魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。

大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。

274 :筑紫倭皇帝:2014/02/02(日) 11:27:20.92 .net
倭国の覇者の変遷 大国主→卑弥呼→大国主→天孫族 へ

倭国はざっと
大国主(金印をもらった倭奴国王から代々)→卑弥呼→大国主(倭奴国王の王統)→天孫族

へと支配者が変わったんだよ。ざっとだぞ。また必死に壹與がいるとかちゃちゃ入れるなよ。

卑弥呼が女王となった倭国は魏志倭人伝の頃の 一時的 にという事だ。
倭国連合が乱れ 卑弥呼 が共立され倭国・邪馬台国の一大卒、伊都国の大国主の元にいたという事だ。
そしてその卑弥呼が直接治めるのが 伊都国のすぐ北の斯馬国〜奴国までということだ。
つまり奴国までが倭国だ。  
何故卑弥呼が斯馬国〜奴国までかというと伊都国は倭国にとって代々大国主が治める特別な存在(聖地)である。

天孫族はその間ずっと大国主が治める倭国〜卑弥呼が治める倭国とずっと斯馬国を拠点に
倭国を形成する一国の王、豪族として暮らしてたわけだ。
これが「神武以前の32世は筑紫の日向宮に都があった」につながる。

朝鮮の文化は支配下だった朝鮮半島から流入したもの。半島人が伊都国や斯馬国やその他の
倭国の国に家来として入ってきたものだろうな。

証拠に、天孫族はことあるごとに、自分たちの故郷は「筑紫(福岡)」「筑紫(福岡)」と明言してる。
もし、天孫族が半島人なら筑紫を治める前に自分たちは「韓国のどこどこからやってきた」と明言するだろう。
「筑紫」はことあるごとに明言するのに、「韓国」を明言しないという事は、天孫族の故郷は「筑紫福岡」だという事だ。
もちろん家来や普通の一般人として半島人が混ざってたのは否定しない。

275 :筑紫倭皇帝:2014/02/02(日) 11:29:56.63 .net
そして、天孫族は次第に倭国内で影響力を大きくし、倭国の超名門「伊都国(倭奴国)」を落とす。
これを、 「天孫降臨」 として記紀に記したのだろう。
(これは小大名だった織田信長が大国美濃を攻略し尾張美濃を領する大名になった時に
 天下に知らしめした 「天下布武」 と同じ境遇だろう。)
記紀には 天孫降臨 の際、戦闘があった事は明記されてる。
つまり、朝もやを掻き分け(奇襲か??)伊都国を陥落させる。
その作戦成功の爽快感から伊都国の高千穂に立ち、
「この地は韓国に向かい笠沙の御前を真来通り朝日が真っ直ぐ刺し夕日がよく照る所。故に吉き地なり。」と
感激したのだろう。
ちなみに俺はこの「笠沙の御前を真来通り」という表現。
これは倭国の「歴代の倭国王の王墓(古墳)の御前を真来通り」という事なんじゃないかとも思う。
実際に伊都国には古代より王墓と呼ばれる副葬品も素晴らしく豪華な古墳が多数存在する。

そして息子が治めていた伊都国を落とされた博多湾岸の大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい倭国の国外の遠い所、出雲に追放(移住)される。

ここに天孫族による倭国の乗っ取りが成功するという事だよ。

そして筑紫の覇者になった天孫族は、筑紫の国土自体を天孫族が作った国産みや
筑紫の神々(豪族・王)は天孫族に支配されるべき事を正当化するために筑紫神話や古事記があるという事だ。 
日本書記は後に筑紫から派生した大和がつごうよくもじっただけなんだよ。

ちなみに博多湾岸の大国主の地、千代の近くに「堅粕・かたかす」という地があり、
交差点名は「潟州・かたす」なんだな。 なんとも意味深だな。

要するに、倭国の聖地は糸島の伊都であり、天孫族の聖地はその北の斯馬(志摩)だろうな。
君が代は大国主を称えるものだが伊都を通り最終的には志摩の桜谷神社につながる。
現代の聖地も伊勢志摩という事実もなんとも感慨ぶかいな。

276 :筑紫倭皇帝:2014/02/02(日) 11:50:33.65 .net
>>272
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」

ハングル??ハングルの南部は倭国の領土。
新羅の王も倭人。
ちなみに倭国から渡った元倭人の新羅の王脱解はハングルの倭地を攻めたみたいだな。
しかし敗れて新羅の方へ逃げていった。
まあハングルは大昔から北朝鮮(高句麗)や中国、日本の国家のいずれかの支配下なんだよw

277 :筑紫倭皇帝:2014/02/02(日) 11:54:20.03 .net
大古より南ハングルはずっ〜と北朝鮮(高句麗)や中国(大陸)、日本(列島)のいずれかの国家の
支配下にあったのはガチ。
だから今のあの国民性が生まれた。

278 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 11:57:03.69 .net
>>271
そんな場所があるならそもそも倭国が半島への橋頭堡を失陥するような事になってねーよバーカ


余談だがに新羅は後代までまともな水軍がなかったようで、白村江の戦いの時も唐水軍を率いたのは唐将と、よりによって降伏した百済王子(扶余隆)だった。
新羅はなにをやってたかと言うと「騎兵隊を出して百済軍の陸上支援部隊を蹴散らしました(キリッ」だそうで…

279 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 13:58:27.35 .net
>>271
南解次次雄立
十一年 倭人遣兵船百餘艘、掠海邊民戸

奈勿尼師今立
三十八年夏五月 倭人來圍金城、五日不解、將士皆請出戰、王曰、今賊棄舟深入、在於死地、鋒不可當

實聖尼師今立
七年春二月 王聞、倭人於對馬島置營、貯以兵革資粮、以謀襲我

大倭国はわざわざ対馬に拠点を置いてから新羅を成敗する位置に在った
はい、完全論破。

280 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 16:37:57.82 .net
志摩から三雲って年寄の散歩程度の距離じゃないか
幼稚園生でももうちょっと遠くまで遠足に行くぞ

281 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 17:20:03.66 .net
>>276
倭奴国は朝鮮半島国家である倭の極南界にあり、倭国に連なっていた。
だから倭は朝鮮半島国家で何の間違いも無い。

282 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 17:22:49.72 .net
倭の都は日本に有ったから
半島の倭はその領土である事が確定した

283 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 17:32:43.61 .net
>>282
では記紀に倭の五王がいないのは何故?
高句麗との激戦の記録も無いのも何故?
答えは簡単。倭は朝鮮半島国家で大和朝廷とは何の関係も無いから。

284 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 17:35:39.85 .net
>>283
倭は九州を中心とした国家で大和朝廷は当時まだ成立していなかったから

285 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 18:52:54.47 .net
>>281
南解次次雄立
十一年 倭人遣兵船百餘艘、掠海邊民戸

奈勿尼師今立
三十八年夏五月 倭人來圍金城、五日不解、將士皆請出戰、王曰、今賊棄舟深入、在於死地、鋒不可當

實聖尼師今立
七年春二月 王聞、倭人於對馬島置營、貯以兵革資粮、以謀襲我

大倭軍は海軍を駈って海岸沿いを襲った。
大倭国はわざわざ対馬に拠点を置いてから新羅を成敗する位置に在った。
はい、超絶完全論破。

286 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 18:54:14.83 .net
>>283
九州の王が中国に朝貢してたからさ
北史と隋書には、倭には阿蘇山が有り火を噴くと書いてある
半島に火山有るか?

半島占領なら記紀に三韓成敗がある

287 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 19:06:54.79 .net
大業三年(607年)の朝貢は明らかに畿内の王権で間違いない

新唐書には多利思比孤は用明天皇と書いてあり
しかも初めて中国と通じたと書いてある
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。」

つまりそれ以前の倭とは別の王権と考えられる
だから「日出ずる所の天子」と堂々と名乗った

倭に都、邪馬台国が有ったのは九州
畿内の王権が徐々に九州を飲み込み倭を統一した

288 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 19:10:56.81 .net
大和王権は倭を統一し大倭を名乗った
これが正解
ついでに半島も成敗していた

289 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 20:27:09.73 .net
>>287
700年までが九州の倭で701年からが大和の日本だな

290 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:05:54.30 .net
>>286
倭国は朝鮮半島国家で九州にも勢力を伸ばした事があったのだよ。
三韓成敗って、何の戦いもせずにひれ伏したという話だっけ。

291 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:08:13.96 .net
>>288
大和政権は九州に残された朝鮮半島国家倭国の残党を成敗しただけさ。

292 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:17:59.99 .net
>>290-291

>>261
>古代人が対馬海峡を越えて兵力を展開するなんて、技術的に不可能な話さ。
>>264
>対馬海峡を越えての攻撃など不可能だから、

おーい、自分で書いたこと忘れてんぞw

293 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:23:35.80 .net
>>290
南解次次雄立
十一年 倭人遣兵船百餘艘、掠海邊民戸

奈勿尼師今立
三十八年夏五月 倭人來圍金城、五日不解、將士皆請出戰、王曰、今賊棄舟深入、在於死地、鋒不可當

實聖尼師今立
七年春二月 王聞、倭人於對馬島置營、貯以兵革資粮、以謀襲我

大倭軍は海軍を駈って海岸沿いを襲った。
大倭国はわざわざ対馬に拠点を置いてから新羅を成敗する位置に在った。
はい、超絶完全論破。

294 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:25:33.61 .net
>>290

隋書倭人伝
>有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。
倭には阿蘇山が有り火を上げている

>新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
新羅も百済も倭を尊敬し従っている

295 :日本@名無史さん:2014/02/03(月) 15:42:18.66 .net
住みたくない町
新大久保
大阪生野区

296 :日本@名無史さん:2014/02/03(月) 16:30:21.43 .net
>>294
>>290

>隋書倭人伝


>新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
>新羅も百済も倭を尊敬し従っている

倭国を尊敬してるとか従っているとは書かれてないな。
珍しいものが多いので尊重し、常に往来していると書かれてる。

しかも、その倭国は、秦王国(※朝鮮半島にあった国)で、婚姻制度は同じ姓では結婚しない
という朝鮮式だったと書かれてる。
女が家に入る時は犬を跨がなければいけないとも書かれている。これも朝鮮半島の習俗。

隋書に出てくる倭国は、九州にあるけれども(阿蘇山の近く)、その実態は朝鮮王朝だ。

297 :日本@名無史さん:2014/02/03(月) 18:50:18.71 .net
ここで倭と日本は別国家とか、多利思比孤は別王朝の王とか言ってる人は、
中国の明史に記録された日本国王「良懐」や「源道義」も日本に別の国家が
存在し、その国に王が存在したという認識なのかい?

298 :日本@名無史さん:2014/02/03(月) 19:17:21.22 .net
倭国は日本に征服されたというのは、唐書に書いてあるぞ。

299 :日本@名無史さん:2014/02/03(月) 20:35:39.53 .net
倭国伝と日本伝を別条で立てた旧唐書の「或曰、倭國自惡其名不雅、改為日本。」の方が確からしかったので新唐書では一本化された。
それだけのこと。

300 :日本@名無史さん:2014/02/03(月) 21:05:34.70 .net
>>297
多利思比孤は別だろう

301 :日本@名無史さん:2014/02/03(月) 22:20:53.47 .net
「雖有兵、無征戰」『隋書』

302 :日本@名無史さん:2014/02/03(月) 22:27:55.18 .net
鉄資源が国内で確保できるようになると、任那の重要性が以前ほどではなくなったからねえ

303 :日本@名無史さん:2014/02/03(月) 22:55:43.16 .net
>>296
南解次次雄立
十一年 倭人遣兵船百餘艘、掠海邊民戸
倭人が100艘余りの船で兵を遣わし、海辺の家々を略奪した

奈勿尼師今立
三十八年夏五月 倭人來圍金城、五日不解、將士皆請出戰、王曰、今賊棄舟深入、在於死地、鋒不可當
首都を囲む倭軍は船を捨てて深く侵入して来ている

實聖尼師今立
七年春二月 王聞、倭人於對馬島置營、貯以兵革資粮、以謀襲我
倭人は対馬に軍営を置いて武器防具兵糧を貯え、新羅を襲おうと図っている

どう読んでも海を隔てた日本列島だね

304 :日本@名無史さん:2014/02/03(月) 23:09:32.99 .net
「大国となし」「敬仰」を見えないニダ聞こえないニダしてるところでお里が知れるな。

305 :日本@名無史さん:2014/02/03(月) 23:50:46.60 .net
朝鮮半島が倭より優位に立った事は
過去1万年の歴史で一度も無い

306 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 09:02:06.20 .net
>>303
>>296は、倭国は日本列島の阿蘇山の近くと言ってるな。

307 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 09:18:42.06 .net
>>306
日本国王「良懐」も九州の大宰府にいたんだが。

308 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 09:23:57.22 .net
朝鮮半島にいたと言ってるとは違う書き込みに見えるな。
朝鮮人が日本列島を支配したと読めるが。

309 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 10:42:30.41 .net
まず、当時の人口や国土概念を考えろと。
現代から見れば緩やかな領域、言葉も通ずる一部の往来、戦。
要は半島南部、列島西日本が倭で後に継承される日本。
当然後の朝鮮国家とは関係ないと。

310 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 11:08:40.66 .net
昔は国境なんてないわ。
九州は、畿内より半島の方が近い。

311 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 11:12:35.93 .net
>>309
羅連合国家だろう。
新羅・加羅=伽耶・多羅=百済・耽羅・阿羅=安羅=済州島・末羅=倭国の邪馬台国・大羅=倭国の下関。
同時期の京都の太秦にも着目。

312 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 11:24:27.15 .net
>>311の修正。
羅連合国家だろう。
新羅・加羅と阿羅=安羅=伽耶・多羅=百済・耽羅=済州島・末羅=倭国の邪馬台国・大羅=倭国の下関。
同時期の京都の太秦にも着目。

加羅と阿羅=安羅=伽耶

大和朝廷「日本国」出生秘話
http://www.geocities.jp/waikoku/yamato9.html

安羅国で検索。
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%AE%89%E7%BE%85%E5%9B%BD&rls=com.microsoft:ja:IE-SearchBox&ie=UTF-8&oe=UTF-8&sourceid=ie7&rlz=1I7WQIB_jaJP556&gws_rd=cr&ei=ME3wUpi4MoG1lQXI3IDQCg

太秦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%A7%A6

313 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 11:53:17.69 .net
あれだろ、天孫降臨したニニギが、ここは韓国が見えるヤホーイ!と言ったというあれだろ。
天照大神は朝鮮人。

314 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 12:57:31.90 .net
>>313
高天原から来た天照大神出すなら、高天原から新羅経由の素戔嗚尊のセリフがセットなのに、無視とかぁ
お里がしれてるよ・・君。

315 :PC:2014/02/04(火) 13:56:53.77 .net
「辛国の城に始めて八流の幡を天降だして、吾は日本の神になれり」
by八幡大菩薩

満洲から八旗勢力を率いて任那加羅に侵入し、更に日本を支配した。

316 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 14:17:48.95 .net
>>315
騎馬民族神話か。案外、本当なのかもな。

317 :筑紫倭皇帝:2014/02/04(火) 17:20:44.76 .net
>>313
ば〜か

「ここは(大国主倭奴国王・倭国王が治めてた)ハングルを治めるのにも適してる、やっぱよかとこ〜」(博多弁)

っていって喜んだところだよ。

318 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 19:13:16.14 .net
>>315
なにこれ?
辛国って、カラクニか。天孫降臨と同じだ。

319 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 20:04:42.29 .net
あえて言おう、自演乙と。

320 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 20:40:09.34 .net
>>316
無知な馬鹿チョンの為に心優しい日本人様が教えてやろう
満洲で八旗の祖型が出来たのは契丹の時代で
紀元5世紀以降だ間抜け

321 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 20:43:41.75 .net
>>312の訂正。
倭連合国家だろう。
大倭国の領土としては任那となった元の狗邪韓国と馬韓と辰韓と耽羅
加羅と百済と新羅が大国である大和国に属国として付き従った

322 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 21:55:06.55 .net
新羅経由の徐福秦氏の氏神は、素戔嗚尊の子神の宇迦之御魂神だよ。

323 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 22:00:17.49 .net
宇迦之御魂神は
伊勢と伏見稲荷神社に祭られてるのが有名。

324 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 22:01:38.07 .net
深夜アニメのいなり、こんこんの女神さま。

325 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 22:02:15.03 .net
記紀編纂者が魏志倭人伝を読んでいる可能性は高いが、
卑弥呼についてはっきり書くことはできなかった。

日本での伝承が失われていたのだろう。

別種の国なら、伝承が失われていても仕方がない。

326 :日本@名無史さん:2014/02/04(火) 22:55:51.11 .net
まーそもそも「別種」の他の用例を見ると「ウリナラファンタジーがひろがりんぐwwwww」
な用語でないことはすぐに分かる訳だがなw

327 :日本@名無史さん:2014/02/05(水) 00:54:53.37 .net
倭の別種だから日本は倭に含まれる

328 :筑紫倭皇帝:2014/02/05(水) 01:40:15.85 .net
俺がウィキの九州王朝説に更に追加しよう。(ウィキの編集はしないが)

大国主は「漢委奴國王の金印」をもらった倭奴国王だと。
記紀に時代を超えて度々出てくる大国主は 漢委奴國王 の子孫であり
博多湾沿岸を中心、都としてた倭国の代々の中心人物。

卑弥呼の時は、この大国主を中心とした王たちの共立で卑弥呼が女王として
共立され倭国の聖地 伊都国=倭奴国 で君臨した。

天孫族はそのころはまだ倭国内の斯馬国(糸島志摩)程度を治めるぐらいの小国の王、豪族だった。

大国主=倭奴国の子孫 は倭国内では卑弥呼共立時代も絶対的な存在であり
筑紫内の神々(豪族・安曇氏宗像氏等々の始祖神)であるが、
天孫族の台頭で筑紫を追われる。

これこそが 天孫族と大国主の 「国譲り」 である。

大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい倭国外の出雲へ追放された。

天孫降臨は天孫族による 伊都国 攻略。

伊都国を攻略した天孫族は、小国尾張の小大名から大国美濃を攻略し成功させた織田信長の 「天下布武」 と同じような心境から
  「天孫降臨」 
を知らしめ天孫族の筑紫の支配を正当化するために「国産み」や「アマテラスとスサノオ」の契約等々の話を作り、
筑紫の豪族(王・神々)は天孫族に従うよう創造神話を作ったのだろう、と。

しかしながら、我ながらよくできた説だな。

329 :筑紫倭皇帝:2014/02/05(水) 01:41:13.37 .net
「空白の4世紀」

天孫族は斯馬国にいて、大国主や卑弥呼の時代の政治をみてきたからこそ、
中国との交流はしなかったのだろう。

中国の後ろ盾を使っても国はまとまらない。
狗奴国との戦いや卑弥呼共立等々で実証された。

だから天孫族は自分たちが筑紫を支配しても中国を必要としなかった。

これが「空白の4世紀」だろう。

もし天孫族が半島人なら決まって中国との交流はしただろうな。

330 :日本@名無史さん:2014/02/05(水) 07:18:31.56 .net
瓊瓊杵尊のY染色体はハプログループD2であると推測される。
これは瓊瓊杵尊の子孫によるデータに基づくものであり、
瓊瓊杵尊の御陵である可愛の山陵(宮内庁所管)の学術調査が
出来ないため確定的な結果ではない。

331 :日本@名無史さん:2014/02/05(水) 15:07:55.30 .net
梅原猛・埴原和郎 著 「アイヌは原日本人か」 

「頭骨の計測Data分析」133頁
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/1-thumb.jpg
●近畿
●朝鮮人

●中部 ●新潟
      ●千葉
  ●東北

近畿の人と朝鮮人が非常に近いことが目立つ

整理すると、
(1)アイヌは北方に住んでいても「寒冷地適応」を受けていない。
(2)朝鮮半島から渡来した弥生人たちは北方的要素をもっている。
(3)近畿人が朝鮮人に近いということは、近畿地方の人々は弥生人の混血の影響を相当に受けていると想像される。
(4)オンコロマナイと礼文華の違いから、道内でも道北と道南では小進化の速度が違っているようである。

生体計測値の全国統計資料(1910年代、40年代、50年代の3回に分けてとられた)からの分析(東大人類学教室、河内まき子)によれば、
日本人の特徴によって「中心部」と「周辺部」とに分かれる。
日本の中心部(近畿から山陽、九州の一部、四国の一部)はかなり朝鮮系に似ている。
周辺部(東海、関東、東北、北陸、山陰、九州の真ん中あたり)は別の特徴を持つ。
すなわち、国内における地域差がはっきりと出ている。

332 :日本@名無史さん:2014/02/05(水) 18:57:50.74 .net
溝口優司「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」

縄文・古墳時代の頭蓋・四肢骨計測値における地理的勾配の原因は気温差か

縄文・古墳時代の頭蓋・四肢骨計測値における地理的変異パターンと、
現代の気温、湿度、降水量などの環境変数の地理的変異パターンを、マンテルの行列順列検定法を使って比較した。
その結果、以下のようなことが示された。

・頭蓋の変異パターン
 ・縄文・古墳間に関連なし
 ・縄文・古墳ともに緯度と関連 (緯度を固定して偏相関をとると、縄文・古墳間に関連なし)
 ・古墳で年平均湿度と関連
・頭蓋+四肢骨の変異パターン
 ・縄文・古墳間に関連あり
 ・縄文・古墳ともに年平均気温と関連 (気温を固定して偏相関をとると、縄文・古墳間に関連なし)

以上の結果は、骨の計測値が縄文時代から古墳時代にかけて地域ごとにバラバラに時代的変化をしてきたことを示唆する。

これ(骨計測値の地理的変異パターンに時代間の類似性がないこと)が、今回の分析により、
縄文・古墳時代のそれぞれで、骨の計測値が緯度あるいは気温と関連していることを示唆するが、
古墳頭蓋のみ湿度と関連することに意味はあるのか?といった新たな問題が出てきた。

すなわち、国内に於いて気温と湿度の影響を取り除くと差異は認められない。

333 :日本@名無史さん:2014/02/05(水) 19:06:28.85 .net
>>321
俺のレスに、捏造の訂正すなっ

334 :日本@名無史さん:2014/02/05(水) 19:10:14.85 .net
>>331
その朝鮮韓国人ってぇ・・二重にしたり、エラ切り取って、日本人顔に成形してんだけどぉ・・

335 :日本@名無史さん:2014/02/05(水) 19:11:59.95 .net
>>331
>かなり朝鮮系に似ている。
ワザと、とぼけてるよねぇ・・

336 :日本@名無史さん:2014/02/05(水) 21:47:49.01 .net
神武天皇のY染色体はハプログループD2であると推測される。

337 :日本@名無史さん:2014/02/05(水) 21:55:01.10 .net
【天皇制】 出自は謎の継体天皇、日本書紀に系図はない 多くの古代史研究者が継体を新しい皇統の創始者、旧王権の簒奪者と見ている
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1391215293/

338 :日本@名無史さん:2014/02/05(水) 21:59:11.69 .net
>>330
忍穂耳までD2だが、Y染色体は父親から息子に継がれるものであるから、
天照大神が♀なら、そのタイプD2は系図に記されないいずれかの男親に由来する。
スサノオ、大国主、イザナギに比定される遺骨の染色体を調べれば彼らとの血縁の有無が明らかになる。
忍穂耳尊までD2でなければ、系図に偽りがあったことになる。

339 :日本@名無史さん:2014/02/05(水) 22:08:44.02 .net
>>337
一時代前の古代史研究者な。
最近の学者さんたちは概ね連続制を認めてる。

340 :筑紫倭皇帝:2014/02/06(木) 11:25:03.90 .net
ウィキの九州王朝説の中に「漢倭奴国王」の金印を埋めた(捨てた)所が
卑弥呼の墓の可能性があると書いてあったが・・・

となると、志賀島自体が径百余歩の卑弥呼の墓か??

金印は元々は細石(さざれいし)神社の御神体という話もあるが、
志賀島で発見された場所は、見事に志賀島の糸島方面というのはなんとも興味深い。
博多湾を挟んで見事に糸島半島と向かい合った場所から発見された。
これは興味深いな。

総数254基ある福岡県新宮町の相島の相島積石塚群は対岸が安曇氏の志賀島ではなく宗像だから
宗像一族の遺跡だろう。
http://kotobank.jp/word/%E7%9B%B8%E5%B3%B6%E7%A9%8D%E7%9F%B3%E5%A1%9A%E7%BE%A4

同じように対岸に糸島半島を見渡せる場所から発見された金印。

立花山がもし筑紫の日向の高千穂のクジフルタケなら
志賀島からまさに海ノ中道が一直線に伸びる「笠沙の御前を真来通り」もぴったり。
その場合は天孫降臨は斯馬国糸島半島からの天孫族による福岡平野の侵攻だろうな。

341 :筑紫倭皇帝:2014/02/06(木) 11:26:08.53 .net
まあ、西(糸島志摩)の天孫族が志賀島から海ノ中道を回り込んで
東の立花山方面から、千代堅粕(かたかす)潟州(かたす)の大国主を攻めたかもな。

その時の立花山からの眺望が「天孫降臨」であり、東から回り込む作戦が「神武東征」の東から攻めるモデルになった。

そしてまた、イザナギが西の天孫族であり、東から天孫族(イザナギ)を助けた国が博多湾岸の東にあるイザナミの国であり、
イザナギとイザナギが協力して大国主を筑紫から追い出した(国譲り)。

国譲りを成功させれば、次は筑紫の支配だ。
博多湾を挟んでイザナギ(西)とイザナミ(東)のちょうど真ん中には能古島がある。
この島をまず一番初めに共同で生んだ島(国産み)として天孫族による筑紫支配がスタート。

イザナギとイザナミは喧嘩をして最終的に西の天孫族が覇者になったわけだ。

実に今日も、福岡王朝は絶好調!

342 :日本@名無史さん:2014/02/06(木) 22:01:15.03 .net
九州か出雲に有った日本国を大和朝廷の大倭国が征服して併合し
「日本」って国名が気に入って「俺らの国名を日本にしよう」って成ったんだろ。

343 :日本@名無史さん:2014/02/06(木) 23:54:12.86 .net
古代出雲王朝は実在した
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1320722760/l50

344 :日本@名無史さん:2014/02/07(金) 13:32:08.50 .net
九州に在った倭を奈良地方の豪族が征服して併合し大倭を名乗り
国名を日本国とした。

345 :日本@名無史さん:2014/02/07(金) 13:48:45.05 .net
中学生スレ

346 :日本@名無史さん:2014/02/07(金) 14:26:35.73 .net
いや、幼児化した棺桶前老人スレ

347 :日本@名無史さん:2014/02/07(金) 16:23:19.17 .net
大和朝廷が「日本」を使う前に、任那日本府があったらしい。
任那日本府の方が、日本の首都だったってことか。

348 :日本@名無史さん:2014/02/07(金) 17:09:21.75 .net
>>347
任那日本府は日本と云う国号が出来た後に任那日本府と命名されたもの
当時は任那倭府であろう

349 :日本@名無史さん:2014/02/07(金) 17:16:37.38 .net
>>347
しばらく前に、百済の将軍の碑で、朝鮮半島に最古の「日本」表記があることが
ニュースになぅてたね。

350 :日本@名無史さん:2014/02/10(月) 09:42:22.10 .net
「アジア人の人類史から見た日本人の二重構造」
http://www.ishikari-c-college.com/topics/2013/10/10-7.html

2重構造を調べていくと、地域によっていろいろ意外な特徴があることがわかる。
北海道・東北・沖縄の人達は当然、縄文人の特色が出ます。また西日本の人達は
渡来弥生人の特色が出るのは当然ですが、京都を中心に近畿地方の人達は平均的
な日本人のデーターと全く違う数値を示します。100%渡来弥生人の特徴を一段と
示すそうです。京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まな
かったと思われます。

351 :日本@名無史さん:2014/02/10(月) 19:32:38.81 .net
溝口優司「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」

縄文・古墳時代の頭蓋・四肢骨計測値における地理的勾配の原因は気温差か

縄文・古墳時代の頭蓋・四肢骨計測値における地理的変異パターンと、
現代の気温、湿度、降水量などの環境変数の地理的変異パターンを、マンテルの行列順列検定法を使って比較した。
その結果、以下のようなことが示された。

・頭蓋の変異パターン
 ・縄文・古墳間に関連なし
 ・縄文・古墳ともに緯度と関連 (緯度を固定して偏相関をとると、縄文・古墳間に関連なし)
 ・古墳で年平均湿度と関連
・頭蓋+四肢骨の変異パターン
 ・縄文・古墳間に関連あり
 ・縄文・古墳ともに年平均気温と関連 (気温を固定して偏相関をとると、縄文・古墳間に関連なし)

以上の結果は、骨の計測値が縄文時代から古墳時代にかけて地域ごとにバラバラに時代的変化をしてきたことを示唆する。

これ(骨計測値の地理的変異パターンに時代間の類似性がないこと)が、今回の分析により、
縄文・古墳時代のそれぞれで、骨の計測値が緯度あるいは気温と関連していることを示唆するが、
古墳頭蓋のみ湿度と関連することに意味はあるのか?といった新たな問題が出てきた。

すなわち、国内地域間に於いて気温と湿度の影響を取り除くと差異は認められない。

352 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 16:28:34.23 .net
生活保護不正「韓国籍と見出しに取るな」 時事・田崎史郎氏の発言巡り議論
朝日新聞は「韓国籍」を見出しに取らず
http://www.j-cast.com/2014/01/22194800.html?p=all

353 :日本@名無史さん:2014/05/02(金) 21:35:12.81 .net
三韓征伐

354 :日本@名無史さん:2014/09/17(水) 04:39:11.57 .net
倭国ってのは大友皇子の近江朝廷、日本は天武軍だろ

355 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 20:33:10.72 .net
>>354
正確には、天武を支持したくにが日本

356 :日本@名無史さん:2015/08/28(金) 00:26:22.26 .net
日本は日本から見た呼び名
倭国は中原から見た矮な倭人の国
山海経だな

同じかと言ったら違うんじゃね?

357 :日本@名無史さん:2015/09/14(月) 18:25:41.03 .net
>>356
確かに違うな
山海経は前3世紀、日本国は後7世紀。ゼンゼン時代が違う

358 :日本@名無史さん:2015/09/14(月) 21:46:46.79 .net
>>353
当時の倭人の間では神聖な場所だったから金印を埋めたのではないだろうか
では、その後の卑弥呼の墓もその神聖な場所にあるのではないか

という話。真偽はともかく、トンデモな話ではないよ
ただ、捨てたのであれば筋は通らない

359 :日本@名無史さん:2015/09/14(月) 23:00:16.51 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

360 :日本@名無史さん:2015/09/14(月) 23:00:52.34 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

361 :日本@名無史さん:2015/09/15(火) 22:01:05.48 .net
日本はもと小国だが、倭国を併合した。

つまり小国の時代は倭国ではなかった。

362 :日本@名無史さん:2015/09/21(月) 05:50:32.29 .net
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州


(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書)

363 :日本@名無史さん:2015/12/21(月) 12:41:18.92 .net
卑彌呼は満鮮にいた
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%E5%8D%91%E5%BD%8C%E5%91%BC

364 :日本@名無史さん:2015/12/21(月) 13:00:06.21 .net
・ 女王国の東渡海千余里にある倭種の国とは日本である。
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%E5%8D%91%E5%BD%8C%E5%91%BC

365 :日本@名無史さん:2015/12/22(火) 09:36:58.74 .net
新スレ
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1450744002/l50

畿内説や九州説に飽きたら、ぜひどうぞ(笑

366 :日本@名無史さん:2015/12/25(金) 03:38:35.60 .net
「日本」は、もともと、百済地方の呼び名だった。

http://img.hani.co.kr/imgdb/resize/2012/0607/00432833701_20120607.JPG
▲昨年7月、中国西岸骨董市場で発見され現地学術誌に公開された百済人「祢軍」の墓誌銘拓本。

今日の日本の国号が本来、百済の土地を称する言葉であり、国号成立に百済人らが関与したと
いう学説が提起された。

7世紀の百済滅亡期、義慈王と唐に投降して官吏になった後、日本に使節として派遣された「祢軍
(禰軍)」(613〜678)という人物の墓誌銘の文章に彫られた「日本」の文字が現在の日本の国号で
はなく百済の他の表現という根拠が見つかったという。この様な主張をしたのは日本古代史学界
権威である東野治之(とうの はるゆき)大阪市立大教授だ。


墓誌銘の「日本」は祢軍が日本に使節に行った背景を書いた部分に登場する。「660年官軍(唐
軍)が私たちの蕃国(百済)を平定した日…日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ、風谷に
残った輩は盤桃を信じて堅く抵抗した…」という内容だ。

文中の「日本」を既存学界は公式国号と見たが、東野教授は「技巧を凝縮させた墓誌銘の文章と
見れば決して国号とは見られない」と否定した。墓誌銘に記録された当時、百済など中国の周辺
国は国号を使わず、扶桑・風谷・盤桃など自然環境的特徴に基づいた隠喩的名称を使ったが、唯
一、日本だけ公式国号を使ったはずがないという論旨だ。

墓誌銘の「日本」は中国から見る時「日が昇る所」という意味ですなわち百済を示すということだ。
彼は「墓誌銘で実際、倭国(日本)は‘ヘジュァ(海左:海東側)’、‘ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記さ
れたと推定される」として「当時、国号が存在したとすれば書いた人は日本という表記を使わなか
っただろう」と主張した。

ハンギョレ新聞(韓国語) 「日本は本来百済の土、称する言葉だった」
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/536435.html

367 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 10:57:52.68 .net
【5月5日 AFP】日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来する
「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」

もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、
先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、
いずれもこちらの説が有力であることを示している。

http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2798334/7175562

368 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 13:48:23.14 .net
>>362
いかにもお前さんの民族がやりそうな捏造だな。

1,その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
2,或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
3, 或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、と。

ここから以下の「結論」を導き出すわけだ。
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

369 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 15:06:04.10 .net
日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html

特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif

つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg
http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s-IshidaFig1.jpg

370 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 08:01:32.38 .net
「そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う」

唐に入朝した人が複数いて、その話を総合していることが伺えるな。
いろんなことを言っているらしいが、大体が尊大な態度の使者だったみたいで
この人達何しに朝貢にいったんだろう

371 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 11:04:36.81 .net
>>370
倭国を乗っ取って成りすましだな。

372 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 16:18:12.52 .net
>>371
いや、白村江のことを色々言われるのが嫌で別の国だと言ったか、
白村江以降倭国が敗戦国の印象がついたのでそれが嫌だったんだろう
使者の態度が尊大だという情報と符合するのはこっちだと思う

373 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 16:53:18.75 .net
縄文人のDNA分析完了。本土日本人とは無関係だった。

>日本列島3集団(アイヌ,本土日本,琉球)と縄文人を用いた主成分分析の結果、
>縄文人と遺伝的に類似の集団は見られず、遺伝的に非常に特異な集団であることが明らかとなった。

http://www.jstage.jst.go.jp/pub/pdfpreview/asj/122/1_122_122.117.jpg
http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s-IshidaFig1.jpg

374 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 17:45:30.51 .net
ウソは、あかんよ

375 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 17:53:21.97 .net
「アジア人の人類史から見た日本人の二重構造」
http://www.ishikari-c-college.com/topics/2013/10/10-7.html
2重構造を調べていくと、地域によっていろいろ意外な特徴があることがわかる。

北海道・東北・沖縄の人達は当然、縄文人の特色が出ます。また西日本の人達は
渡来弥生人の特色が出るのは当然ですが、京都を中心に近畿地方の人達は平均的
な日本人のデーターと全く違う数値を示します。
100%渡来弥生人の特徴を一段と示すそうです。
京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われ
ます。

梅原猛・埴原和郎 著 「アイヌは原日本人か」

http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1-thumb.jpg
近畿の人と朝鮮人が非常に近いことが目立つ

(1)アイヌは北方に住んでいても「寒冷地適応」を受けていない。
(2)朝鮮半島から渡来した弥生人たちは北方的要素をもっている。
(3)近畿人が朝鮮人に近いということは、近畿地方の人々は弥生人の混血の影響を相当に受けていると想像される。

私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)

376 :日本@名無史さん:2016/01/14(木) 18:36:40.86 .net
>>347
日本の首都を日本府と言うヤツはいない

377 :日本@名無史さん:2016/01/14(木) 18:42:04.06 .net
>>31
>>32

人国記 陸奥国

陸奥国の風俗は日本の偏鄙成故に人の気の行詰りて気質のかたより其尖なる事万丈の岩壁を見が如に、而邂逅道理を知るといへども、改て知ると云事すくなく、たとへ知るといへども江の水の流なくて塵芥之積りて清る事なきが如し。
さるほどに名人の名を呼ぶ程の人は不得聞を也。末代以て如此成べし。右之如之気質故、頼母敷ところ有て、亦なさけなき風俗也。五十四郡の内いづれも二つ三つに少づゝ風俗分れたれども、大枢に替る事なく如此。

此国の人は日の本の故也。色白くして眼の色青き事多し。人の形儀いやしふ而、物語卑劣なれども、勇気正き事日本に可劣国とも不被思也因茲也。朋友無益討果、主君へ志を忘、父母へ孝を忘などする類不知其数。
雖然男子上下ともに勇を以て本とする処なれば、偏鄙偏屈なりといへども潔き意地あって耻を知、故是を善とす。女之風俗色白くまみ長く、而其顔色もうるはしきといへども、其形儀音声更に述に不及して悪き也。
此国の上臈と上方の下臈と其甲乙を云ふに上方の下臈女房にも嘗て不及也。然ども心底はやさしく情有て気の正き事も上方の男よりもはる/\上なり。

378 :日本@名無史さん:2016/01/14(木) 18:49:25.17 .net
はい論破と

>長野県湯倉洞窟縄文早期人骨(mtDNA D4b2)、青森県尻労安部洞窟縄文中期人骨(mtDNA D4h2)、
>福島県三貫地貝塚縄文晩期人骨(mtDNA N9b&M7a2)出土の縄文人骨から抽出した核ゲノムを解析
>日本列島3集団(アイヌ,本土日本,琉球)と縄文人を用いた主成分分析の結果、
>縄文人と遺伝的に類似の集団は見られず、遺伝的に非常に特異な集団であることが明らかとなった。
http://ir.soken.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=4960&file_id=19&file_no=1

>全ゲノム解析法を用いた縄文人と渡来系弥生人の関係の解明
>縄文人の系統的な位置を確認するために,湯倉洞窟と尻労安部のSNPデータを用いて現代人との比較を行った。
>双方に共通するSNPは5万6千箇所あまりで,これを現代日本人と中国(北京)のデータと比較した。
>主成分分析を行ったところ,このSNPデータで琉球と本土日本の現代人,及び中国人集団は分離されたが,
>尻労安部と湯倉縄文人はいずれの集団とも離れたところに位置することが分かった。
>現代日本人の成立には,その後の大陸からの影響が大きかったことをうかがわせるものである。
http://www.kahaku.go.jp/disclosure/duties/imgs/h25houkoku.pdf

379 :日本@名無史さん:2016/01/14(木) 20:56:19.78 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

380 :日本@名無史さん:2016/01/14(木) 20:56:55.04 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

381 :日本@名無史さん:2016/02/01(月) 08:12:46.83 .net
あなたは40代ロサンゼルス新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?

それともいくつですか?

それともいくつですか?

それともいくつですか?

382 :日本@名無史さん:2016/06/05(日) 09:52:35.43 .net
>>340
当時の中国人は「ヤマト」を「倭奴」と音写したのかな?
時代によって「ワイヌ(アイヌ)」とも「ウェト(エド)」とも読めるという話を聞いたが……

383 :日本@名無史さん:2016/06/07(火) 19:49:13.12 .net
「倭奴」は、
「匈奴」と同じく、蛮族「倭」に「奴」を付けたもの

384 :日本@名無史さん:2016/06/25(土) 20:07:13.84 .net
どう考えても「大和」 を「ヤマト」って読めないな

385 :うちなーんちゅ:2016/11/18(金) 08:39:23.08 .net
倭のナ国は沖縄。当時言語学的に沖縄は倭国に属していた。
極南海とも一致し、倭国と日本の二つの国がったこととも符号する。

386 :日本@名無史さん:2016/11/18(金) 09:09:58.33 .net
当時の沖縄は無人だろ

387 :日本@名無史さん:2016/11/18(金) 09:40:08.49 .net
>>366
遣隋使より後だからかなり疑わしい

388 :日本@名無史さん:2016/11/18(金) 12:23:38.52 .net
>>386
んなわけないだろ

389 :日本@名無史さん:2016/11/18(金) 12:36:21.13 .net
沖縄は縄文時代に津波で全滅して
次に人が住み始めるのは鎌倉時代だぞ

390 :日本@名無史さん:2016/11/18(金) 13:28:30.91 .net
宮古島だけの話をされても・・・

391 :日本@名無史さん:2016/11/18(金) 14:10:56.59 .net
倭→天智
日本→天武

392 :日本@名無史さん:2016/11/18(金) 21:38:36.42 .net
天智こそ倭国を滅ぼした張本人じゃないのか?

393 :日本@名無史さん:2016/11/19(土) 17:37:43.43 .net
>>384 奈良は山戸だよ大和は完全に当て字

394 :日本@名無史さん:2016/11/19(土) 17:50:55.71 .net
>>347 当時のヤマトはオオキミを中心とする豪族連合でまた中華王朝に冊を受けて無かったから國じゃ無かった
だからヤマトと百済や隋唐との行き来の際には百済系渡来人や中華系渡来人やがヤマトの外交官として遣わされる事もザラで
向こうから見ると訳分からん海賊の寄合みたいに蔑まれる事も有った
その際に日出処の(野)党即ち日本との呼称が用いられて居りこれを百済系渡来二世の藤原不比等が国号に用いた

天智天武の側近は軒並み百済系渡来人で固められて居たので例の日本は倭国の別成り(俺達白村江でも負けて無いよ負け知らずだもんね)に至ったので在るが
実際には天武が壬申の乱に於いて勝てたのは東近畿から東海の倭人豪族(含む帰化人渡来人)のお蔭であったのに藤原氏の仕切りで天武統は彼等を低く遇したので
その恨みで現在日本中で新しい皇居に最も適している地所は犬山モンキーパークになっており虚仮にされた諸豪族による皇室に対する呪詛が幾つも複雑に掛けられている
金持ちトヨタが皇室の話になると歯切れが悪くなるのもそれらの一

395 :日本@名無史さん:2016/11/19(土) 17:54:08.26 .net
>>394訂正
×天智天武の側近は軒並み百済系渡来人で固められて居たので例の日本は倭国の別成り(俺達白村江でも負けて無いよ負け知らずだもんね)に至ったので在るが
    ↓
○天智天武の側近は軒並み百済系渡来人で固められて居たので例の日本は倭国の別成り(俺達白村江でも負けて無いよ負け知らずだもんね)に至ったので在るが(本当は無二のA級戦犯)

396 :日本@名無史さん:2016/11/19(土) 18:00:14.03 .net
外務省の省章は現在でも藤原下がり藤紋の形状にデザインされた外の字

397 :日本@名無史さん:2016/11/19(土) 18:06:59.13 .net
豊臣秀吉の朝鮮出兵の第一近目標は外交窓口を藤原氏から豊臣氏へと完全に移行する為であってその為に文禄の役では朝鮮王を国境の外にまで追い立てて明の使臣も交えて講和し豊臣の外交権を認知させたし途中捕虜にした王子も丁重に扱った
徳川は豊臣の次を主張すると明と友好関係を結べないと考えて王政復古を演出する為に形式上は自らは征夷大将軍に留まり外交窓口を藤原氏に戻した実際には鎖国徳川管理貿易をしたり朝鮮通信使を江戸に来させたりしてたけどね

398 :日本@名無史さん:2016/11/19(土) 18:10:54.67 .net
>>397訂正
△徳川は豊臣の次を主張すると明と友好関係を結べないと考えて
    ↓
○徳川は明清動乱には巻き込まれたく無かったので無理に豊臣の次を主張すると明と友好関係を結んで大陸から引き籠れないと考えて

399 :日本@名無史さん:2016/11/22(火) 14:27:04.68 .net
倭→ユダ
部落→ヘ(ブ)ライ

400 :うちなーんちゅ:2016/11/24(木) 00:34:43.09 .net
後漢書
 倭
  建武中元二年(57年)倭の奴国、朝賀す。倭国の極南界なり。
旧唐書
 倭国
  倭国はいにしえの倭の奴国なり。倭国者、古倭奴国也
 日本
  日本国は倭の別種なり。日本国者、倭国之別種也。
新唐書
 日本
  日本はいにしえの倭の奴なり。日本、古倭奴也。

・随書の琉球は現在では、ほぼ台湾説です。それなら何故、沖縄は琉球と呼ばれる
 のか、明の時代に沖縄側から中国に琉球との名称とすると、申しでた。
・後漢書の倭の奴国は、倭国の極南界とありそれに該当するのは、南九州か南西
 諸島であり、奈良や京都は該当しない。
・旧唐書の日本国は倭国の別種とは、王家の系統の別れと解釈されるので、天皇
 家の万世一系が疑われる。
・天孫降臨の舞台は南九州であり、倭が天皇家のルーツと関わっているのなら、
 その鍵を握るのが倭の奴国なら、奴国が歴史から消されるのはありえる。
・新唐書の日本には、日本書紀の歴代天皇が記載されているので、日本人の情報
 提供者がいた、その提供者の情報が反映されている。冒頭が、いにしえの倭の
 奴国ではなく、倭の奴となっている。この部分は旧唐書の倭の奴国をごまかす
 巧妙な記述だと感じている。つまり嘘ではないが誤魔化せる。
・沖縄の王家も家紋は、宇佐神宮の神紋と同じ左三つ巴です。この神紋は中央の
 ヒメ大神の紋です。ヒメ大神の両脇は応神天皇と神宮皇后です、そのように
 重要なヒメ大神ですが、素性は謎です。そのヒメ大神と沖縄は何らかな関係が
 あると推測します。
 の神様です。

401 :日本@名無史さん:2016/11/29(火) 22:32:05.18 .net
日本国は倭国の別種なりって結構適当なこと書いてたんじゃないの?
梁書なんかだと扶桑国ってたぶん日本列島の国なのに、まるで違う位置にあるみたいなこと書かれてるじゃん
そもそも倭国って呼び方がふわふわしすぎだし

402 :日本@名無史さん:2016/11/30(水) 02:46:40.00 .net
後漢書まで来ると結構具体的になるね。
倭国の定義をボカしたいのは古代の日本にとって不都合だったからだな。

403 :日本@名無史さん:2016/11/30(水) 18:16:26.48 .net
>>385 下関に在る有名な漁港の名前知ってる?

404 :日本@名無史さん:2016/11/30(水) 18:23:08.31 .net
シラ(シルラ)って高床建築の事でこれも南方系

405 :日本@名無史さん:2016/11/30(水) 18:24:21.90 .net
バイカル湖畔で高床なんかに住んでたら凍死しちゃうからねw

406 :日本@名無史さん:2016/11/30(水) 21:46:42.38 .net
北方系がバイカル湖畔に住んでたのは3万年くらい前の話だぞ

407 :日本@名無史さん:2016/12/01(木) 14:01:24.57 .net
「倭国と日本国は別種」というのは中国側の誤解じゃないか?

思うに中国側は同じ日本に対して、
「格下の蕃族だけど敵にはあまり回したくない強い国」と、
「やたら日の出る国をアピールしてくる、列島の不思議人畜無害国」という2つの像を持っていた
俺はここで前者を倭国、後者を扶桑国と仮定する
こう考えたのは、梁書で明らかに倭国と扶桑国が別のものとして扱われているからだ

そしてこの扶桑国、俺は大和王権支配地域そのもの、つまり倭国と同一だと考える

山海経とかに出てくる扶桑はさておき、
梁書に限っては扶桑国の風俗(仏教がある。鹿を飼ってるなど)は大和そのもの
そしてこれは、旧唐書の言う倭国の風俗そのものでもある

この扶桑国の扶桑樹は、タラヨウ(貝多羅葉)だと思うんだ
タラヨウは東海地方から九州にかけて分布していて、
なおかつ梁書の記述のように赤い実をつけるし、文字を書くのにも使われる
(1/2終了、つづく)

408 :日本@名無史さん:2016/12/01(木) 14:01:49.06 .net
(つづき2/2)

梁書の言う扶桑国王「乙祁(オケ)」が人名であれ称号(オオキミあたり)であれ、
仁賢天皇か顕宗天皇のどちらかだろう

そして、倭の五王・武は雄略天皇と武烈天皇の二人を指していた(偶然同名で記述された)のだ
南斉と梁の間、倭王武についての記述は20年ほどブランクがあるんだし、
記述する国も違うんだから、別人を同じ名前で表記することはあり得ると思うんだ

ここで、そもそも梁書の根拠とする扶桑国とは、
「普通中、有道人稱自彼而至、其言元本尤悉、故扞録焉」であって、
継体天皇の時代に梁を訪れた自称扶桑人から聞いた話に基づいている

ここで、
扶桑国サイド:顕宗天皇or仁賢天皇、継体天皇
倭国サイド:雄略天皇、武烈天皇
と置いてみる

そうすると、
倭王武[*南斉書]→扶桑国王(乙祁)[*梁書]→倭王武[*梁書]→扶桑国王[*梁書]は、
雄略天皇→顕宗天皇or仁賢天皇→武烈天皇→継体天皇となる

梁にとって、倭王と扶桑国王の二つの存在があるのだと思わせたものは、
武烈天皇から継体天皇にかけてのイザコザが関係していたのではないか?
本来の扶桑国は倭国の雅称に過ぎなかったのに、別々のものだと錯覚したのではないか?

そして隋代には「日出ずる処の天子」といったふうに、
最終的に国号を日本に変えたことから、中国側にとっては扶桑国が彷彿とされ、
「日本国は倭国の別種」という認識に至ったのかもしれない

409 :日本@名無史さん:2016/12/01(木) 15:58:11.32 .net
>>404
シラ/シルラ、、、斯羅(シラ、シロ)/新羅

概ね、古代の朝鮮半島の東側を斯羅地方と言って小国や豪族等の小勢力(領主)があまた存在しせめぎあっていた中からそれらを糾合、統合してやがて統一国家としたのが新羅(ハングルでは、シルラ)
朝鮮半島の3国時代の始まり始まり。
更に、権謀術数、遠交近攻の腹芸を駆使して唐と連合して高句麗と百済(両国の王家の始祖は朱蒙。)を滅ぼし朝鮮半島を統一。
この時期に避難民が日本列島に押し寄せた。
フジワラとは、空耳で百済倭国の意味。和国(日本)の中の百済(国、人)
ヤタガラス。三足鳥(烏)は正に百済と高句麗の両国王家の紋章かつ国旗。

日本書記等に呉国の記述が有りますが、呉国をクレと呼ぶのがポイント?
クレ、、、(高)句麗(くら、くり、くる、クレ、くろ)

410 :日本@名無史さん:2016/12/01(木) 16:10:40.78 .net
ヤタガラスが三本足とか記紀にはない、後世の創作によるものだね

411 :日本@名無史さん:2016/12/01(木) 23:04:42.96 .net
>>410
熊野大社(権現)系の神紋は三足烏=ヤタガラス

三足烏=太陽神(太陽に棲むと言う伝説の神鳥。、、、フェニックス/不死鳥。

412 :日本@名無史さん:2016/12/01(木) 23:29:52.99 .net
中古、中国言うところの別種には、Aから派生したBは同族、後継

同時期、別種の用法で解りやすい例は、高句麗が滅亡した後にその大王家の娘婿が起こした勃海(パレ)国の事を確か、、、高句麗の別種と説明して痛希ガス
この勃海国と我が国は正式な国交を結んでいて、
日本書記?には勃海国の使節が来朝しているから、お前ら分かっているやろうな?何べんも口を酸っぱくして言っているように拝礼儀礼は中国式の立礼でちゃんと行うように!!(キリ
上代から古代には、貴人、目上の人に逢うとその場に蹲踞、膝付いて拍手を奉る礼法を慣習、たしなみとしていたところ、
律令制を取り入れ国際国家を標榜するため、礼法他も国際標準の中国風に無理やり改めたらしい。
しかし、夫祖より連綿と受け継がれ骨身に染み着いたモノはなかなかあらたまらず、
朝廷は度々旧来の礼法の禁令と中国風礼法の強制、徹底の下命が出た

413 :日本@名無史さん:2016/12/02(金) 01:24:05.46 .net
>>411
三本足設定は中国のゲイ神話の影響を受けた後世のものだよ
そして三本足烏は矢で殺されているから不死鳥ではない
太陽と烏という組み合わせはアポロンに通じるけど・・・
エジプトのベンヌ(フェニックス)と関連させるのは厳しいと思うな

>>412
なるほどー!

414 :日本@名無史さん:2016/12/05(月) 14:30:21.40 .net
>>407-408で長ったらしいのを書いた者だけど、
よくよく見てみたら扶桑国の風俗に一番近いのは高句麗であることに気づいた
「中国の東にある」「男が小屋を建てて女が気に入ったら結婚」
「貴人第1位と第2位に共通する対盧」
でも、継体天皇の出身は福井県で、
ここは高句麗から海流に乗って辿り着く場所でもある
扶桑国は高句麗そのものかもしれないし、
高句麗の近くにある小さな国かもしれないし、
高句麗の文化を仕入れた日本かもしれない

415 :日本@名無史さん:2017/01/30(月) 01:59:39.68 .net
>>369
中国でさえ色々な遊牧民族が流れ込んでいるのに遊牧民の通り道みたいな朝鮮半島が一つの民族なんてありえない
日本に亘ってきてるのも多種多様な混血民族だよ・・・
現在の朝鮮人は最後に流れ込んだツングース系だよ
だから日本語とは発音が全然違う
過去の百済は1500年前に滅亡しちゃってるし現在の朝鮮人と日本人の遺伝的な繋がりは薄い
むしろ中国人に近いじゃないか

416 :日本@名無史さん:2017/02/25(土) 15:44:36.00 .net
https://youtu.be/85-XncAUZXc

417 :古代史の名無し:2017/02/25(土) 18:33:14.09 .net
>>1

謎でもなんでもない。

旧唐書の「扶餘勇者,・・・,是時走在倭國」は、百済崩壊で、
扶餘勇(百済王子)は倭国に居て扶余豊(百済王である)を応援していたことを意味する。
白村江敗戦で扶余豊は高句麗に逃げた。
白村江で多くの百済貴族が倭国に着き、扶餘勇と合一したと思われる。

旧唐書の「麟コ二年(665),封泰山・・・倭四國酋長赴會,・・・」は
白村江の罪で倭国王は中国に行かねばならない。倭国は壊滅状態にある。


天智天皇(中大兄皇子)が百済将軍を使って朝鮮山城を作る。
これは扶余勇のこと。その範囲は北九州から滋賀県。これは百済残滓政権。
天智が即位したのは大津に遷都後で、高句麗が滅びるさなかの668年2月。
百済王を名乗っていた扶余豊が捕らえられた時期はわからないが、
668年12月に流刑になっている。百済王が捕らえられ、扶余勇が王に即位したのだろう。

旧唐書の「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。」
の日本は 倭国を従えた近江朝のこと。日本は朝鮮半島を指す言葉。
近江朝は百済だからどうやらそれを名乗ったのだろう。

新唐書の「咸亨元年(670),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。
使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。・・・」は
壬申の乱で近江朝が旧倭国に滅ぼされたことが対応し、
倭の名を冒したから近江朝は、「日本」を自称していたに違いない。
670以降のことで、百済は無くなり、倭国は壊滅状態、高句麗も滅び、
東夷の総称として日本と名づけた可能性はある。

時の国際情勢を読めばこれ以外の結論はない。

418 :日本@名無史さん:2017/02/25(土) 19:03:25.81 .net
ひどいもんだ

419 :日本@名無史さん:2017/02/25(土) 20:14:17.93 .net
天智天皇が水城の修復など、北部九州に
様々な事績を残しているから、こちらが九州王だろう。

圧倒的な力をもって、郡評制などそれなりに日本中に
影響力を持っていたが、白村江で大幅に力を失い、
大津近江京に疎開するものの、現地の天武系勢力に
政権を奪われる。
とはいえ、天智系の影響力は広範囲に及んでおり
のちには天智系に皇統を取り戻されることになる。

420 :古代史の名無し:2017/02/25(土) 21:28:44.75 .net
>>417 つづき
扶余勇は百済の復興を願うから、立地上、北九州にいたと思われる。
筑紫野市の説明する大宰府の羅城などをふくむ50km超の防衛設備は
扶余勇が作ったと考えるのが妥当。百済の首都と比較できるプラン。

近江朝は疎開では無く、扶余勇(百済)の倭国への進出と考えられる。
朝鮮山城はさすがに九州のものは大陸への備えだろうが、
瀬戸内や高安の城は瀬戸内を進撃する敵の防衛には不向きだ。内陸部にある。
これは倭国を押さえるための城と考えたほうがわかりやすい。
高安は河内・大和(倭国の中心)を抑えるのに格好の場所である。

421 :古代史の名無し:2017/02/25(土) 22:27:32.14 .net
>>417 のつづき、
近江朝=百済=日本=扶余勇説の詳細は
http://blogs.yahoo.co.jp/longhistoryjapan/55709321.html
を参考にしてください。

こんな簡単明解な説は国史の多くの人は考えているのだろうけれど、
現皇室の始祖=桓武、桓武の始祖=天智、天智の始祖=百済となるので、
言いにくいだけだろう。

422 :日本@名無史さん:2017/02/25(土) 22:47:36.42 .net
http://fuum.me/archives/439

倭は外国からみた呼び名で、日本はこの記事どおり、自らの呼称として名づけたもの。人の入り混じりは確かに歩けど、国はまた別の観点から考えるべき。

423 :古代史の名無し:2017/02/25(土) 23:50:43.15 .net
禰軍墓誌に日本があるが・・・。

倭人はヤマトを自称していた。
中国が倭と名づけているので、記紀ではヤマトに倭を当て字として使った。
それなら、日本と書いてヤマトと読んでもいい。
それで日本書紀はヤマトに日本を当て字に使った。
「日本」の起源はヤマト以外にあるに違いない。
ヤマトの国の人間が自国号を考えるならヤマト読めるものを考えるはず。
どうころんでも、日本をヤマトとは読めない。

424 :日本@名無史さん:2017/02/26(日) 13:28:52.36 .net
天智は百済系、天武は新羅系

425 :日本@名無史さん:2017/02/27(月) 03:48:55.85 .net
実際には新羅系の秦氏が百済系を自称したのは
天武の系列が滅んだからだな

426 :日本@名無史さん:2017/02/28(火) 12:23:06.76 .net
秦氏は天神族である、天武政権は唐、新羅の連合政権である

427 :日本@名無史さん:2017/02/28(火) 12:36:18.20 .net
新羅と百済は日本の朝貢国属国の歴史があって遣唐使の席次問題で下に見られてた国

428 :名無し:2017/03/01(水) 19:15:46.25 .net
その新羅系、百済系と言う根拠は、怪しい物がある。
両者とも無関係な可能性もある。

近畿地方で半島とDNAが近くても、日本から攻めてそうなった。
そう考えても同じ結果になる。

429 :日本@名無史さん:2017/03/01(水) 20:51:55.34 .net
>>424
百済系というより、百済です。418を読んでね。
>>426
天武政権は唐、新羅の連合政権というのは実証できる?
>>428
王家の移動のみの場合、DNA比較には意味がない。
百済系には論拠がある。418を読んでね。

430 :日本@名無史さん:2017/03/01(水) 23:19:06.77 .net
>>424
そういうのは陰謀論ではないの?

ネットによくある、天武天皇は蘇我氏の子孫。

それから時が経ち、天智系の桓武天皇に戻り東北地方を攻める。

431 :日本@名無史さん:2017/03/01(水) 23:29:14.90 .net
国号を「日本」、おおきみ(大王)を「天皇」と定めたのは天武天皇

てか、話し飛ぶけど、蘇我氏と聖徳太子が編纂した「天皇記」や「国記」が焼かれてしまったのは残念だなぁ・・・
中臣鎌足(藤原)の子の藤原不比等が編集した「古事記」、「日本書記」しかないからもうそれ以上の歴史は判らなくなってしまった・・・

432 :日本@名無史さん:2017/03/08(水) 11:27:15.91 .net
>>431
「天皇記」や「国記」。ないものを残念がってもしかたがない。
あったと書いてあるだけで、実在しないことはよくあることなのだ。
昔の人は、印刷がないから書物が公に晒されることがない。ひそかに適当なことを
書く可能性がある。日本の歴史書はまず文学と見なければならない。
例えば、大化の改新は大宝律令より先に律令制があったと潤色したのが現代では見破られた。
近江令が何巻あったと天智びいきの派の書に出てくるけれど、実態がない。
記録は信用できても、書物は信用できないと先ず見なければならない。
記紀はじめ考古学史料の裏づけがない限り信用できない。

歴史書を作るのはたいへんなことなのだと思う。木簡。コピーするのも大変。
人を使って記憶させ、組織を作って綿々とやらなければ、正確なものなど出来ないと思うよ。
中国の史書はそんな感じがするね。
日本の史書はそのようにして作ったのかね。現場を知らないで言っているのだが。

433 :日本@名無史さん:2017/03/08(水) 11:55:57.29 .net
蘇我氏、葛城氏、物部氏の祖にあたる伊迦賀色許売(いかがしこめ)、伊迦賀色許男(いかがしこお)姉弟は、

倭国(阿波)に葬られている。

434 :日本@名無史さん:2017/03/08(水) 12:01:32.95 .net
>旧唐書日本伝
日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。
あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。

8世紀倭国(阿波)から倭国の別種(大倭)へ遷都。その大倭を日本と改名。

435 :日本@名無史さん:2017/03/08(水) 12:32:45.57 .net
zarakokuに何言っても無駄。

普通、議論でソース示したら納得するものだが、
zarakokuはそのソースが畿内説だから間違いと言ってくる。

AさんとBさんが議論してて、そこにzarakokuが割り込んできて、
Bさんに「あなたは間違いだ」とzarakokuが言う。
Bさんが「そのソースは?」とzarakokuに聞くと
「Aさんが言ってるから」と言う。

つまりアホでキチガイ。

436 :日本@名無史さん:2017/03/08(水) 20:33:27.07 .net
>>434
念仏を唱えているように聞こえる。>>417はどうですか?

437 :日本@名無史さん:2017/03/08(水) 20:43:50.95 .net
近江朝など存在した形跡がない。

438 :日本@名無史さん:2017/03/09(木) 08:22:24.59 .net
3世紀の大和に【ヒメ】と【トヨ】がいました。
太古から続く出雲族のお二人でした。

これだけなら誰が見ても魏志の卑弥呼と台与だと分かります。
だから記紀では時代を大きくずらしました。

そうしないと【ヒメ】から5世代前のスサノオが倭国王・帥升だと分かってしまいます。

107年、後漢の安帝に朝貢、見返り品がないという事はどうやら朝貢は失敗したようです。

白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
新生「日本」の歴史を、始祖スサノオのぶざまな朝貢の記述から始めるわけにはいきません。
だから記紀では時代を大きくずらしました。
国史とはプライドです。たとえ100歳を超えるおかしな年齢になろうともプライドを優先しました。

そして新称号を採用しました。「天皇・皇后」です。

【ヒメ】には婿がいました。
日向から来たイワレヒコという男です。
この男を新称号「天皇」に格上げし、カムヤマト・イワレヒコ・スメラミコトという大げさな名前にして、
この男の東征をやたら強調し大王感を演出、初代天皇としました。

そして【ヒメ】を新称号「皇后」に格下げし、母方の称号タタラと妹のイスズを付け足し、
ヒメタタライスズとしました。

  【トヨ】にも婿がいました。スキトモと言います。
このスキトモもオオヤマトヒコ・スキトモノ・スメラミコトという大げさな名前にし、大王感を演出しました。

また大王たるもの、周りに複数の女性がいないと不自然なので、
泉媛、飯日媛、賦登麻和訶比売命など、とっくに途絶えていた磯城氏の娘を后とし、大王感を演出しました。
  【トヨ】はアマトヨツとされ、4代皇后に格下げされました。

439 :日本@名無史さん:2017/03/09(木) 10:49:31.58 .net
新羅天武政権のときに畿内小国は九州倭国と一つになりニホン(ニッポンではない)
を名乗った

440 :日本@名無史さん:2017/03/09(木) 10:50:31.74 .net
倭国とヤマトは対立関係にあったのだ

441 :日本@名無史さん:2017/04/01(土) 22:00:24.62 .net
旧唐書日本伝「日本国は倭国の別種なり」とか隋書倭国伝に推古天皇が登場しないとか、これは史書におけるエイプリルフールと言える。しかしこれは勿論エイプリルフールではなく隋唐の政治的立場の表明だろう。
面白い事に唐と同様に日本も日本書紀推古紀の遣「唐」使記事で分かるように「隋と言う国は存在しない」と奇妙な事を主張している。
すべては
日出処天子致書日没処天子無恙云々
から始まった。

442 :日本@名無史さん:2017/04/01(土) 23:59:07.54 .net
筑紫勢力 漢委奴国王(57年 後漢書)->九州王朝
肥国勢力 親魏倭王(238年 魏志)->邪馬台国->九州王朝に吸収合併
畿内勢力 元小国で倭国を併合 印綬不明(703年 旧唐書) ->大和朝廷

443 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 00:16:21.17 .net
>>441
記紀の年代が嘘なんだよ
推古天皇の時代は実際に隋じゃなくて唐なんじゃないの?

444 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 06:58:30.77 .net
同一文化圏の別種
つまり硬度ヒスイ(現在の新潟県原産)に象徴される同一文化圏が
より早期に稲作文化の影響を受け入れた九州を中心とする支那などとの海外交易勢力と
従来の各地で狩猟採集定住地域群の海上国内交易勢力とある年代で分かれている
ようになるはず
おそらく日本で最初に戦乱が起こったのは、稲作文化、つまり領地が発生
することになる九州地域からだろう、それが支那の言う倭
そして稲作文化が徐々に広がるにつれ、戦乱もそれ以外の地域でも勃発するように
なっただろう、その元は国内交易勢力が支那の言う日本
その日本が倭を内部吸収した
だから、推古天皇の時代にも筑紫の軍が帰るという記述が古事記にもある
倭はその後の日本の防人、つまり対外的な防衛軍の拠点にもなった

445 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 12:08:36.48 .net
第2回遣隋使と第1回遣唐使の記録は日本と中国でぴったり合うから、この時代あたりの日本書紀の年代は一応正しいと考えられる。
書紀編纂者は推古時代の中国が隋である事を百も承知で「唐」と書いている。これも極めて奇っ怪な事だが政治的立場の表明だろう。
ところで日本書紀編纂者は三国志のみならず中国歴代史書をすべて所持していたと推定される。

446 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 12:19:00.52 .net
本当の古代史
辰韓の鉄=遼寧省鞍山市の鉱山地帯
公諱隆字隆百済辰朝人也=隆は遼寧省の百済人であり公州の百済人ではない
この文は辰韓の位置を間違えていたり遼寧省の百済を知らない人には理解不能
「辰王がいた方の百済人」とかっこよく書いたら未来人には意味不明となった
渤海の国号、震=大氏発祥の地が過去の辰韓だった
震が辰に通じるのは自明だが、辰韓を韓国東部と解釈して思考停止するのは踏み込み不足
辰州、奉国軍、節度。本高麗蓋牟城。唐太宗會李世勣攻破蓋牟城、即此。
渤海改為蓋州、又改辰州、以辰韓得名。
高句麗の蓋牟城は遼寧省撫順市に比定されており、その位置は鞍山市の北東である
帯方郡(4900戸)=営口市、半径5km
あとは魏書韓伝にそってならべる
多婆那國=倭国(大連)東北1千里=中朝国境の卒本地方
好太王の碑文にある倭、百残、新羅の位置=遼寧省から鴨緑江の下流域
倭の五王が南朝に派遣した倭国使は靴をはいていない
通説(痛説)では裸足の集団に広域大戦争をさせてしまった
「西暦391 - 412年」中に、「倭」は「高句麗」と「鴨緑江」にて職貢図によれば「裸足」で戦わなければならない
のちに坂上田村麻呂の東北遠征が西暦800年に行われ、異民族風のアテルイが捕まえられる
何なんですかこの古代史!順序が逆ならまだしもなぜこうなるの
西暦400年に鴨緑江を攻め、その400年後に東北地方を攻めるのは不自然だ
この時点で倭=日本列島説はアウト
そもそも日本列島は韓と界接していないので最初からアウト
2重の意味で倭=日本列島説はアウト
http://i.imgur.com/9GXhZ3N.jpg
http://i.imgur.com/zVOyZ0J.jpg
http://i.imgur.com/jgCdJPf.jpg

447 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 12:19:18.12 .net
西暦400年代、倭、百済、新羅は好太王に故郷を追われ朝鮮半島に逃げ込み拡散分布する
東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五國=海北とは遼寧省南岸
東、西、海北には領土があるが南の領土はなぜ主張しない=南進中を意味する
ここで博多中心説を採ると博多の南には領土があるはずなのでアウト
ここで奈良中心説を採ると西側の国が少なすぎるのでアウト
つまり倭王武にとって帰る国などなかった
道遥百済(省略)句驪無道=倭国、百済、句驪は陸続き、句驪はひどいと南朝に泣きついた
故郷を奪ったので句驪無道なのです、倭王武の悲痛な叫びを曲解せずまじめに聞きましょう
半島各地で任那ができる、倭国本体南下する
最後の遣使記事は502年=引越し中を意味する
西暦500年代初頭、倭国本体は九州に上陸し、先住民を土蜘蛛あつかいする
天孫降臨記念日を太古の昔に設定した日本書紀はこの時点でアウト、証拠能力ゼロ
志賀島の金印=先住民にとられないように埋めて隠すも、埋めた場所を忘れる
前方後円墳は堤防の概念がない先住民が積み上げた塚を倭国人がこれ幸いと墓に転用したものだ
塚の作成年代≠墓になった年代、これ重要
ため池あるとこ古墳あり、ため池なければ古墳なし
倭国人は堤防の概念、その他中国文明を知っており最初から巨大古墳を作っていない
6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった(wikipedia参照)
上の理由は残土を堤防に使う
塚を墓であると主張するには副葬品などの提示が必要だ
塚はあっても墓はない、いわゆる空墓がかなりあるのはなんででしょう?

448 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 12:19:42.95 .net
百済の熊津城=熊岳城
白江の口=熊岳城の南西、白沙湾
「百済辰朝人」であるところの「扶余隆」は百済五方「北方」の城「熊津城」で暮らしていた
熊岳城の南西に「白沙湾」という地名がグーグルマップでも発見できる
これはいったいどういうことだ!
熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城
韓国西部の公州に行くには高句麗の中を通らなければいけない
つまり熊津道は高句麗の手前側(唐に近い側)にあったはずだ
詔發淄、青、萊、海之兵七千人=山東省の北側から出撃した
人怪其故,答曰:擬削平遼海,頒示國家正朔
劉仁軌自ら「遼海」と明示しており、どうみても渤海湾(遼東湾)のことだ
公州の西の海を遼海と呼ぶのならインド洋も遼海だ
なお言うまでもないが、劉仁軌の役職は檢校「帶方州」刺史だった
扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口
熊津江(熊岳河)と白江(浮渡河)とは開口部が違う川である
熊津江を出て白江に向かったところ白江の口で倭兵と遭遇したのだ
通説の錦江説は合っていますか?白江の上流に熊津江があるのではありません
百済平定物語は渤海の東側にある遼東半島のお話しであり、公州を攻撃したのではなかった
劉仁軌と扶余隆が共同し遼東湾を平定(残党狩り)していることは注目に値するだろう
顯慶之始、王師有征(省略)馬韓餘燼、狼心不悛、鴟張遼海之濱、蟻結丸山之域
扶余隆の墓誌にも「遼海之濱」とある
(蘇)定方自城山濟海、至熊津江口=蘇定方が平定した百済もまた遼東半島である
通説が正しいならばこの箇所は「至白江口」となる。白江=錦江説、アウト
大連の北側にある白沙湾を日本列島から攻撃するのは西暦660年では不可能なはずだ
かの有名な白村江の戦いに作文疑惑が浮上した!
日本書紀には資治通鑑や三国史記を見ながら作文した箇所がちらほらある
特に天智紀は作文だらけ、白村江のくだりは全部作文
白村江への旅程については何も書かず、いきなりワープしているではないか!
宇宙船艦ヤマトのようにワープしている時点で作文確定!
http://i.imgur.com/5buzTh0.jpg
http://i.imgur.com/9eYBu4V.jpg

449 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 12:20:01.69 .net
倭=日本列島を主張する日本書紀のおかげで重要な比定位置はことごとく南東に平行移動した
日本で見つかっている古い木簡は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
日本で見つかっている古い石碑は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
楽浪郡は紀元前108年にできたはずで、いくらなんでも漢字の伝来が遅すぎる、はいアウト
檢校帶方州刺史、劉仁軌は遼海を削平(平定)する、遼海とは遼河が注ぎ込む海、遼東湾のことである
この遼海を拡大解釈しなければならない帯方郡=ソウル説、アウト

仮説の検証2項目
武藝啓(省略)有扶餘之遺俗=渤海人は奈良の支配者の出自が遼寧省にあることを知っていた(ビンゴ)
いまだに奈良公園ではシカを放し飼いにしている
坂上田村麻呂の東北遠征800年=この仮説で無理なく説明可能、大和朝廷史観では遅すぎる(ビンゴ)
邪馬台国=近畿説九州説、大和朝廷史観全部まとめてアウト
500年上陸説が正しい

450 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 12:20:19.53 .net
「アイヌ人と渡来人の混血は7世紀が始まり」…遺伝学研究所
2015年08月24日 16時52分
http://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/1/0/10761.html

 国立遺伝学研究所と東京大学の共同チームは、アイヌ人や日本列島本土人の遺伝情報を解析した結果、
遺伝子配列の違いから、縄文人の子孫と見られるアイヌ人と、弥生人の子孫とされる渡来人の混血は、7世紀に始まったと推定する研究結果を8月24日までに発表した。

 日本列島には、おもに北海道に住むアイヌ人、琉球諸島のオキナワ人、日本各地に分布して生息する本土人の3種類の人類集団が居住している。
国立遺伝学研究所の斎藤成也教授らのチームは、性染色体以外の遺伝情報を調べて、60万カ所で見られる遺伝子配列の違いを解析した。

 その結果、毛髪と歯、顔の造形に関係する2つの遺伝子の近くに存在する塩基配列が異なる部分の解析から、アイヌ人と日本列島本土人には大きな違いがあることが判明した。

 研究チームは、アイヌ人を縄文人(採集狩猟民)の子孫、中国大陸から渡来した漢民族や朝鮮民族を、弥生人(農耕民)の子孫と仮定した場合、
日本列島本土人における縄文人の遺伝的割合は約20%に達し、これら二つの民族の混血は、少なくとも55世代前、すなわち7世紀ごろに始まったものと突き止めた。

 斎藤教授は「遺伝子解析の結果、アイヌ人が東アジアのなかで独自の系統的位置を占めていることが明確に示された」と話している。

 なおこの論文は日本人類遺伝学会が発行する「Journal of Human Genetics」電子版に掲載された。

国立遺伝学研究所と東大の共同チームが日本列島本土人の混血モデルを解析した図(国立遺伝学研究所の論文より作成)
http://www.hazardlab.jp/contents/post_info/1/0/7/10761/%E6%B7%B7%E8%A1%80.jpg

451 :日本@名無史さん:2017/04/25(火) 20:26:18.74 .net
90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?

95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です



この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ

452 :日本@名無史さん:2018/01/17(水) 22:15:26.40 .net
むしろ、同じと考える根拠が無い。
倭の五王一つとっても、とても近畿日本の王とは考えられない。九州倭国の王だと思うのが当然の考え。
大和朝廷は九州倭国の都太宰府を遠の朝廷と呼んでいた。
磐井を筑紫の君と呼んでいた。
どう見ても自分達と同格扱いしている。

453 :日本@名無史さん:2018/01/17(水) 22:17:26.22 .net
>>434
違う。
別の国だと言っているの。

454 :日本@名無史さん:2018/01/17(水) 22:18:50.40 .net
>>27
間違い。

455 :日本@名無史さん:2018/01/17(水) 22:19:50.49 .net
別種は別種。
違う国だと言うこと。

456 :日本@名無史さん:2018/01/18(木) 02:19:44.30 .net
古事記と日本書紀で倭と日本は同じ歴史を持つ同種なのは証明されてますが?

457 :日本@名無史さん:2018/01/18(木) 04:53:22.27 .net
>>456
イミフですw

458 :日本@名無史さん:2018/01/18(木) 04:53:42.75 .net
むしろ、同じと考える根拠が無い。 
倭の五王一つとっても、とても近畿日本の王とは考えられない。九州倭国の王だと思うのが当然の考え。
大和朝廷は九州倭国の都太宰府を遠の朝廷と呼んでいた。
磐井を筑紫の君と呼んでいた。
どう見ても自分達と同格扱いしている。

459 :日本@名無史さん:2018/01/18(木) 07:26:30.38 .net
>>456
起源は同じだけれども、別れたんだよ。
別(ワケ)とされた者が天皇になった歴史が記紀にも書かれている。
分家が本家を乗っ取る歴史が何度かあった。
旧唐書にも類似の記述があるわけさ。

460 :日本@名無史さん:2018/01/20(土) 10:58:09.78 .net
大和朝廷が倭を統一したから倭(やまと)
天武朝が天智朝を易姓革命したところで国号日本(やまと)変更されても同種の大和朝廷なのは変わらん。

461 :日本@名無史さん:2018/01/20(土) 16:39:56.30 .net
倭が大和朝廷だという証拠は?

462 :日本@名無史さん:2018/01/20(土) 16:50:17.86 .net
邪馬台国畿内説スレのFAQに正解が書いてあるよ

463 :日本@名無史さん:2018/01/20(土) 17:25:00.88 .net
あれは妄想の類

464 :日本@名無史さん:2018/01/20(土) 19:48:40.26 .net
>>463は反論できなくて悔しいようだ

465 :日本@名無史さん:2018/01/30(火) 13:46:53.40 .net
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

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