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邪馬台国東遷説 その13
- 1 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 04:45:06.89 .net
- 九州の邪馬台国は東遷して大和朝廷になった。
東遷説の基本は、天照大神=卑弥呼+台与。
したがって東遷の時期は、台与時代のあととなる。
☆文献的根拠
1,魏志倭人伝の卑弥呼の倭国と、記紀における天照大神の高天原の類似性
2,記紀における神武東征の記述
3,古事記において、大久米命は刺青をしていると書かれている。
東征軍は刺青をしていた。倭人伝には、倭国の男子は大人も子供も
刺青をしていると書かれている。
4,記紀の神代は、矛や剣など九州の弥生時代を象徴する金属器が
登場し、近畿地方の金属器である銅鐸は全く登場しない。これは、皇室の歴史が
九州の文化の中で育ち、近畿地方の文化を経ていないことを意味する。
☆考古学的根拠
1,古墳時代を境に銅鐸が消滅し、鏡が広く普及する
2,古墳に代表される階級社会への突然の移行
墓制における弥生九州と古墳近畿の連続性、弥生近畿と古墳近畿の非連続性。
3,古墳の棺の副葬品などが弥生時代の九州の棺の内容に酷似。
すなわち、近畿地方の弥生時代と古墳時代では宗教的にも社会的にも
また、文化的にも激変が見られる。
前スレ 邪馬台国東遷説その12
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1405101121/
- 938 :日本@名無史さん:2014/11/18(火) 17:54:30.50 .net
- >>936
普段の仕事の一部なんじゃないの?
食事の用意や暖房、土器の燃料など、薪は必需品や
- 939 :日本@名無史さん:2014/11/18(火) 18:08:44.15 .net
- 農村はたいていのんびりしたいもんだぞ
よっぽどの利益にならないかぎり、無理して農地開墾なんてしない
薪は生木じゃないし、森きり開くほどほど消費しない
- 940 :日本@名無史さん:2014/11/18(火) 18:11:30.64 .net
- じゃあ、薪はどうやって作ったの?
- 941 :日本@名無史さん:2014/11/18(火) 19:17:01.30 .net
- 枯木や落ち葉が一番生活上簡易に使われますね
そっちの方が余計な体力を使わないから
- 942 :日本@名無史さん:2014/11/18(火) 19:26:35.42 .net
- 当時は鉄が貴重だから、木を切り倒すったって石斧だしな
- 943 :日本@名無史さん:2014/11/19(水) 08:23:01.84 .net
- >>940
薪拾いって言うじゃん。拾うんだよ。
- 944 :日本@名無史さん:2014/11/19(水) 11:29:05.26 .net
- 木を切り倒して燃料にしてたら、あっという間に禿山になりそう。
木はできるだけ切らずに、柴刈りに行くんだよ。
- 945 :日本@名無史さん:2014/11/20(木) 07:33:14.53 .net
- 当時、韓半島の山はことごとく禿山だったという伝承が有る。
- 946 :日本@名無史さん:2014/11/20(木) 07:41:34.96 .net
- 平安京の周りは禿山になり、
未だに禿山のままの小山があるそうな。
- 947 :日本@名無史さん:2014/11/20(木) 21:48:59.78 .net
- 明治時代は大文字山とか東山は禿山だったらしいよ
- 948 :日本@名無史さん:2014/11/20(木) 21:52:14.52 .net
- 燃料資源枯渇による環境破壊だな
- 949 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 05:07:07.30 .net
- つーか今、木が生えてるのって日帝時代の植林活動のおかげじゃん
- 950 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 08:49:01.71 .net
- >>943
へ〜、拾うだけでまかなえる地域があるんだ。
楽ちんでいいねえ。
- 951 :日本@名無史さん:2014/11/29(土) 05:34:13.00 .net
- >>950
まかなうとか話を勝手に広げるな。
- 952 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 22:48:07.79 .net
- 現在の天皇家の出生が九州であることは記紀に基づて疑いのないことであるのは共通認識だね?
- 953 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 22:50:19.50 .net
- もちろんですよ(#^^#)
- 954 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 22:58:43.63 .net
- 神武東征はあったとして1世紀
ただし神武かどうかは記紀を編纂した当時でさえ不明で天皇家の祖先の誰かのこと
さらに東征でなくどこでもいいから移住先を探してて流れ着いた先が奈良だっただけ
- 955 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:04:09.86 .net
- 記紀には神武東征が書かれていて、これが大和朝廷の始まりと
なっているからね。
日向を発ち、宇佐に行き、筑紫の岡田宮から安芸を経て吉備。
吉備で長期間過ごし、大和に入る。
しかし、この経路もなんか意味ありげだな。
まっすぐ大和に行くんだったら、四国に沿っていくのが一番良い。
どうして、筑紫の岡田宮まで寄り道したのか、どうして吉備に
長期間滞在したのか。
以前、中国人らしき人がここで言っていたが、神武天皇はとりあえず、
日向を離れ、永住の地を求めて旅に出た。
最終的に大和になったということだったが、これはある意味正解かも
しれない。一度は吉備に決めた気配も感じられる。
- 956 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:09:44.57 .net
- では、どうして神武天皇は日向を離れたのか。
これはやはり熊襲の圧迫があったのだろう。
だから、景行天皇、その息子の日本武尊、さらに
その息子の仲哀天皇と三代にわたって熊襲征伐に出かける。
しかし、熊襲には勝てなかった。仲哀天皇は熊襲との戦いで
戦死したとの説もある。やはり、熊襲は強力だったのだろう。
- 957 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:10:03.32 .net
- >>954
>神武東征はあったとして1世紀
なんでだよ(笑)建国は神武東征の26ウン十ウン年だろー(笑)
- 958 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:12:28.64 .net
- まー東征はあったというのは共通認識でOK♪
- 959 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:13:56.39 .net
- 東遷後の九州はどうなったの?
- 960 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:14:08.63 .net
- あとは・時期的な問題だけだよ!(^^)!
- 961 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:17:08.06 .net
- 回顧録形式の自演をやられてもな
- 962 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:18:39.92 .net
- 先ほど東征は1世紀とぬかした奴がいた
記紀に基づき皇紀を言えば現在は2674年
つまり神武の東征は紀元前7世紀というわけなのだが、何を根拠に1世紀といっているのかさっぱりわからない
- 963 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:19:52.26 .net
- ちなみに、1世紀頃の畿内は銅鐸文化真っ盛り
- 964 :日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:20:29.06 .net
- おやおや・神武天皇・どちらにいらしたの〜(笑)
- 965 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 15:44:33.70 .net
- >>959
東遷後の九州にも大きな勢力はあったと考えられる。
筑紫の君、火の君、豊の君など。
6世紀には、古代史最大の内乱と言われる磐井の乱があった。
筑紫の君・磐井と継体天皇の大和朝廷の衝突なのだが、
非常に激しい戦いだったと記紀に書かれている。
しかし、神武東征から磐井の乱までは、南九州の熊襲を除くと、
大和朝廷と九州の勢力の衝突はない。神武東征の前に
北部九州はある程度、支配関係ができていたのかもしれない。
- 966 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 16:32:57.71 .net
- そりゃ北部九州を押さえる者が日本を押さえるのよ。
- 967 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 16:38:08.20 .net
- 958
鏡を祭儀として祀るなら古代の赤城神社にもあったで
記録がほとんど残ってないからほとんど過去不明
- 968 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 16:40:50.20 .net
- ほとんど伝承が失われているからな
鏡が見つかったからそれ分かったの
- 969 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 16:42:28.93 .net
- どうにも調べていくと中国史あたりの夏とかそういったとこに繋がりそうなんだけどな
- 970 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 16:45:51.69 .net
- 筑紫は出雲といっしょに下っている
- 971 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 18:16:00.93 .net
- 出雲が高天原に降った、いわゆる出雲国譲りは、東遷説的には
260年か270年あたりと考えられる。
とすれば、その後、九州の文化が普及したことになる。
西谷墳墓なんかはその影響が見られるのかどうか。
- 972 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 00:18:56.90 .net
- 東遷説だからって神話にこじつける必要はないね。
神話と無関係に考古学だけでも成り立つかどうかが問題。
神話は九州説だろうが畿内説だろうがなんとでもコジツくんで根拠にならんわ
- 973 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 02:26:21.46 .net
- >>972
考古学者は、昔同じようなことを言っていたな。
考古学的な遺物は一つもないから、出雲は神話の中だけの話だと。
しかし、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から大量の銅剣、
数多くの銅鐸や銅矛が出てくる。ああやっぱり出雲はすごかったんだなと
いうことになった。
考古学は日本全国をくまなく掘って調査できるわけじゃない。
また、焼却したり、金属の場合は溶かしたりして、全部が
残っているわけでもない。人間の活動の痕跡などは土の中に
残るものでもない。
一つ定説を組み立てても、たった一つの発掘で覆ることもある。
このような考古学が決め手になるとはとても思えない。
また、考古学で邪馬台国や卑弥呼が出てくるはずがない。
邪馬台国や卑弥呼は中国の歴史書にだけ出てくる固有名詞で、
日本の呼び名ではない。従って土を掘っても日本からは出てこない。
考古学を信奉する人は何かおかしい。
- 974 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 08:20:04.08 .net
- ↑ そのとおり。特に畿内説のバカども。何にも証明できていないのに、確立
したかのように錯覚しているア○ウだ。
- 975 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 08:44:54.05 .net
- 従って、東遷説は考古学を拠り所にしてはならない。
- 976 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 10:07:28.31 .net
- >>975
考古学は元々、古代の文化を研究するものだから、
古代の文化を知る上では有用。
客観的な遺物は参考になる。
しかし、考古学はサンプル的な遺物で考えるものだから、
考古学が万能みたいな考え方はできないだろう。
本来、邪馬台国探しでは脇役というのが正しい。
- 977 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 14:06:26.02 .net
- 渡来人はなぜ山のほうに住んでることが多いのか教えてください
高麗や新羅などから渡来してきた場所は山間部に多いのはなぜですか?
源氏や平氏の集落も山のあたりに多いのはなぜなんだろう
- 978 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 17:12:33.27 .net
- 神武天皇は倭国からの支援要請で魏から使わされてきた武人という中国人
狗奴国を倒して邪馬台国からほうびとして東に国を作ることを許されて奈良に都を作った。
- 979 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 18:59:14.57 .net
- >>973
考古学者が全員そう言ってたわけじゃないよ。
それに、西谷遺跡とか重要な遺跡は知られていたし。
何かひとつ出てきたからといってひっくり返るようなことはないよ。
今までに出てきたものが全部消えてなくなったりしないから。
- 980 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 21:51:44.14 .net
- 銅矛が畿内にも進出して全国を統一したというのなら分かるが
銅鐸が作られなくなるのとほぼ同時期に銅矛も作られなくなるのよね
北九州の場合,むしろ
銅鐸が埋められる時期に,北九州でも銅矛を埋めるようになっていく
無槨だった墳墓にヤマト・吉備系の槨を付けることが増えていく。
弥生時代後期から末期にかけて瀬戸内系土器の比率が急激に高まり,
固有土器の出土率がどんどん減っていくので,
3世紀後半に伊勢・ヤマト・吉備・出雲連合の進出を受けたというほうが
土器の出土から言うとしっくりくる説明になる。
- 981 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 22:19:51.60 .net
- 矛について触れると墓穴を掘ることになるからよしたほうが良いよ。
- 982 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 22:23:17.85 .net
- >>981
説明してごらん
- 983 :日本@名無史さん:2014/12/03(水) 14:15:22.11 .net
- 畿内説、九州説それぞれに根拠あり 邪馬台国はどこなのか
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1417570628/
- 984 :日本@名無史さん:2014/12/03(水) 16:25:00.36 .net
- 銅矛は時代が降るにつれて大きくなっていったとされるが、
どういう意味があったのか。確か、刃は研がれていなかった
だから、武器ではなかったはず。
武器としては鉄の矛だったのだろう。
倭人伝にも「兵は矛、盾、木弓を用いる」とあるから、
卑弥呼時代でも矛が主要な武器であったのは確か。
とりあえず、矛は近畿地方とは無縁だな。
- 985 :日本@名無史さん:2014/12/03(水) 18:32:04.35 .net
- オカルト系の人だけど、銅鐸の使用方法について正解を出してる
https://www.youtube.com/watch?v=dFByeIriw6Y
- 986 :日本@名無史さん:2014/12/03(水) 18:33:07.58 .net
- 銅矛は矛ではなく、銅鐸と一緒に使用する
https://www.youtube.com/watch?v=Z5PEvmx22yg
- 987 :日本@名無史さん:2014/12/04(木) 13:59:14.59 .net
- http://www.youtube.com/watch?v=ZfYKGrEf6tM
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