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九州の古代史【邪馬台国畿内説前提】

1 :日本@名無史さん:2015/09/18(金) 21:00:14.38 .net
古代九州の話となると邪馬台国論争に終始してしまうので、個別に語れる場所はないかと。
畿内説への反論は畿内説スレにて、九州説を前提とした古代九州の話は九州説スレにてどうぞ。

147 :日本@名無史さん:2017/04/25(火) 20:33:24.24 .net
90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>89
狗邪韓國は何人の領土?

95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>91
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です



この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ

148 :日本@名無史さん:2017/04/27(木) 10:10:48.46 .net
1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い??

149 :日本@名無史さん:2017/05/09(火) 04:12:59.86 .net
国際博物館の日

ICOM(国際博物館会議)では、5月18日を「国際博物館の日」とし、博物館が社会に果たす役割について
広く市民にアピールしています。当協会では、賛助会員の方々から寄付を募り、より多くの皆さまに
博物館に親しんでもらうための活動に取り組んでいます。

なぜ5月18日なのか?

1977年にモスクワで開催されたICOMの第11回大会で、「国際博物館の日」を設ける決議が採択されました。
第11回大会は5月18日から29日まで開催されたことから、5月18日を「国際博物館の日」としたようです。


2017年の「国際博物館の日」について

ICOM(国際博物館会議)による2017年のテーマは
“Museums and Contested Histories : Saying the Unspeakable in Museums"
 「 歴史と向き合う博物館 ―博物館が語るものは 」です。

https://www.j-muse.or.jp/02program/projects.php?cat=8

★記念事業一覧★
https://www.j-muse.or.jp/02program/pdf/IMD2017list.4.27

150 :日本@名無史さん:2017/05/09(火) 13:05:39.62 .net
崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。

つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。

それがいるのだ。

@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト  生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト   生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト    生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ        生きてたアマ「トヨ」ツが女王

見事にヒメとトヨの時代。

そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。

これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home

151 :日本@名無史さん:2017/05/15(月) 13:47:37.25 .net
畿内説というワードをスレッドタイトルNGにしてほしい。

152 :日本@名無史さん:2017/05/15(月) 15:07:44.27 .net
>>147
どうみても、ただの通説だろ
どこが失言なの?

153 :日本@名無史さん:2017/05/15(月) 15:14:51.07 .net
右翼はそれが許せない

154 :日本@名無史さん:2017/05/15(月) 19:11:35.27 .net
当時の韓人と今の韓国人が別だという事がわかっていないんだよ

155 :日本@名無史さん:2017/05/28(日) 16:16:02.03 .net
近畿地方の集団は日本人としては非常に変わっており、
日本人全体の平均からは外れている
(埴原和郎=福岡県出身)

156 :日本@名無史さん:2017/07/26(水) 19:38:50.83.net
倭人が支配した新羅『新羅本紀』
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵
紀元前20年
瓠公という倭人、瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
諸王に仕えた重臣で。金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。
新羅の3王統の始祖の全てに関わり新羅を建国した倭人である。
初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠で同一人物。 
後に倭人の四代目新羅王、脱解尼師今が新羅に着いた時に瓠公の家を継いだ。
この瓠公の屋敷が歴代新羅王の王城である月城。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。
朴氏初代の朴赫居世朴氏=瓠公は倭人であり。
金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)説話では、
鶏の鳴き声を聞いたので瓠公が調べると、金色の小箱なかから小さな男の子が現れた。
金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)の起源は倭人であり倭人が支配した。

157 :日本@名無史さん:2017/07/26(水) 20:25:46.16.net
マルチするな。

158 :日本@名無史さん:2017/09/23(土) 12:17:39.04 .net
邪馬台国はヤマトですね
ご先祖様が土蜘蛛や蝦夷のひとはヤマトが嫌いなので反発しているのですよ

九州説の聖人である古田氏は親鸞聖人の研究者でもある
反権力的思考と九州説の相性が良いのでしょう

九州説は反権力ですから民進党支持者も多そうですね
代々木系もいらっしゃるでしょう
どちらにしても日本の主流派から外れた人達です

159 :日本@名無史さん:2017/09/23(土) 17:04:14.80 .net
皇国史観全盛時代だった戦前には、皇国史観の総本山たる東大の肝いりで邪馬台国九州説の推進をしてたんだけどな

当時は邪馬台国畿内説は権力との戦いの日々だったらしい

160 :日本@名無史さん:2018/01/30(火) 16:03:49.86 .net
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

2J8VS

161 :日本@名無史さん:2018/01/30(火) 22:47:32.60 .net
邪馬台国

162 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 22:06:05.36 .net
>>65でぐだぐだ言ってる人がいるけど、大陸に史書で「水行」という言葉が
川の移動に「水行」が使われているのはガンジス川とソンホン川の、今も河川交通に
使われている国際河川の大河二つだけだよ

あとはすべて海

川を移動するときには通常は「泝流」または「順流」の語を使う
九州島内のしょぼい小さな川を水行することはない

163 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 22:28:36.12 .net
>>162
例文をどうぞ

164 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 22:38:42.01 .net
>>163
新唐書のこんなのでいいかな?

又「泝流」五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北「泝流」二百里,至神州。又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都
丸都縣城:吉林省通化市集安市丸都山にあった高麗王都の故地
神州:吉林省臨江市西南葫芦套村の対岸(北朝鮮側)
どちらも、中国、北朝鮮国境の鴨緑江沿い
顯州:吉林省延辺朝鮮族自治州和龍
天寶中王所都は、天宝年間仁王が都を置いたの意味

旅程記事の「水行」は「陸行」とセットの概念で、ほぼ海に使われる
ガンジス川とソンホン川では例外的に川にも使われている
「陸行」とセットの川の移動は「泝流」

大陸史書の地理・旅程記事で「陸行」の語を使うことを「発案」したのは実は三國志が最初

「水行」の解釈は「陸行」とセットで考えると理解しやすい

165 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 22:54:09.93 .net
>>163
ついでにガンジス川の水行は梁書で
循海大灣中正西北入,歴灣邊數國,可一年餘到天竺江口,「逆水行」七千里乃至焉
天竺江がガンジス川

ソンホン川は新唐書
安南經交趾太平,百餘里至峯州。又經南田,百三十里至恩樓縣,乃「水行」四十里至忠城州
安南   ハノイ       Hà Nội
交趾太平 ハノイの北西部   Giao Chỉ Sơn Tây
峯州   越池        Việt Trì
南田   越池の西面
恩樓縣  富壽        Phú Thọ
忠城州  錦溪        Cẩm Khê

166 :日本@名無史さん:2018/03/07(水) 01:26:50.43 .net
水行で検索すると河っぽいのが一杯ひっかかるけどな

167 :日本@名無史さん:2018/03/07(水) 01:42:19.66 .net
>>166
以前よそで川の水行の有無で戦ったことがあって、史記から新唐書までの範囲の正史(二十四史)には川で「水行」とされているのはガンジス川とソンホン川しかないのは確認済みだよ

川の水が行く、という意味のものはあるけれど、正史の地理、旅程記事で、「川の水行」はガンジス川とソンホン川のみだよ

あと多分「罔水行舟」がたくさんヒットすると思うけれど
「如罔水行舟」は、「水なき(罔)を舟で行くが如し」で、「水」は「ない(罔)」の目的語、
舟で行くの「行」とは直接繋がってなくて、水行で検索かければ引っかかるけど、
水を行くって意味じゃない

168 :日本@名無史さん:2018/03/07(水) 08:23:48.86 .net
漢書地理志/金城郡
「河關,積石山在西南羌中。河水行塞外,東北入塞内,至章武入海,過郡十六,行九千四百里」

169 :日本@名無史さん:2018/03/07(水) 23:02:01.77 .net
それ、「水行」じゃなくて「河水」が行くって書いてるんじゃ……

あ、「河水」ってのは黄河のことな、今で言う○○川の意味で○○水って呼んでた時代の記述だから。

170 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 01:39:37.71 .net
>>140
>大王と言うほどでもない

臣の偉いのが大臣
連の偉いのが大連
そして
王の偉いのが大王

これだけのこと

171 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 01:50:33.40 .net
河關,積石山在西南羌中。河水行塞外,東北入塞内,至章武入海,過郡十六,行九千四百里

河關(黄河の始まり)は,積石山で(積石山は)羌中の西南に在り。河水(黄河)は塞外を行き(流れ),東北(に流れて)塞内に入り,章武に至り海に入る,郡を過ぎること十六,九千四百里を行く(の長さだ)

塞外は万里の長城の外、塞内は万里の長城の内側

172 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 06:37:08.07 .net
黄河が長城の外を流れてるんだ

173 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 06:50:40.41 .net
流れてますな

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Map_of_the_Great_Wall_of_China.jpg

174 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 07:15:37.32 .net
金城郡河關県の話だよね
黄河の始まりはもっと奥地じゃないかい

175 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 12:17:47.62 .net
>>174
>金城郡河關県の話だよね
>黄河の始まりはもっと奥地じゃないかい

事実としてはそうなんだけれど、当時の大陸の人の認識は、
伏流水が積石山のところで地上に流れ出して黄河が始まると思っていたという話だそうだ
積石山のところで黄河の源流がぐるりと向きを変えるので、その辺から
そういう認識(積石山が黄河の源流)になったともされる
河關県の河關も河(黄河)の始まりにちなんで付けられた地名

176 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 12:27:55.04 .net
そこにいくらツッコミ入れても、この文が「水行」の用例になることは無いんじゃ無いの?

177 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 16:55:14.79 .net
史記から新唐書までの「水行」を全検索して全例検討したけれど、
地理・旅程記事で「水行」が、ガンジス川とソンホン川以外に使われている例はないよ

物資の輸送=漕運記事では、水上交通の意味で水行が使われているが、
黄河やその支流の渭水のことで、これも九州全土よりも長い大河

いずれにしても、九州説のうち筑紫平野説の「川の水行」で
主張する長さ20キロの御笠川のような小河川で「水行」が使われている例はないよ

178 :日本@名無史さん:2018/03/11(日) 01:55:06.41 .net
>>177がちょっと分かりにくいので修正

史記から新唐書までの「水行」を全検索して全例検討したけれど、
地理・旅程記事での「水行」は基本的にはすべて海で、川の例は
ガンジス川とソンホン川だけで、それ以外に使われている「川の水行」の例はないよ

物資の輸送=漕運記事では、水上交通の意味で水行が使われているが、
黄河やその支流の渭水のことで、これも九州全土よりも長い大河

いずれにしても、九州説のうち筑紫平野説の「川の水行」で
主張する長さ20キロの御笠川のような小河川で「水行」が使われている例はない

179 :kimiaki harada:2018/03/11(日) 12:14:52.79 .net
著作権は原田 君明にあります。

韓国対馬仏像盗難事件  これが日本に渡来したは、800年〜700年以前の時
鎌倉時代
韓国盗賊は、秀吉朝鮮出兵時に盗まれたと韓国捏造教育に基づいて犯行自供
安土桃山時代 豊臣秀吉 関白太政大臣になったのは400年から450年前である。
時代が300年程前で大きくズレている。
韓国朝鮮において、儒教台頭し仏教が迫害を受けていたらしいですが、
壊される位ならと日本近所に売りに来たと考える方が自然である。
対馬に対し仏像被害返還と賠償支払うべきである。韓国仏像帰国させたいのなら
800年分保管料を支払い謝罪すべきである。収監も要求する。

時にNHK 沖の鳥島 特集などで
韓国 アホ学者気取りが未だに朝鮮先進国気取りを2000年前にしてた虚像を暴く
韓国 前方後円古墳の実態は、任那日本府 後であり
鉄は当時 日本岡山県 備前長船 鉄生産地 からもたらされている可能性にやの
行き着くと思われる。
皇紀は2670年 韓国 前方後円古墳は1世紀  神后皇后時代に近い朝鮮討伐
日本武尊命は関東に鉄を求めて伊勢大名時代に関東・小笠原勢力と同盟に至っている
つまり、3000年から3500年前には、鉄は日本で現地生産されていた。
須佐の男時代に朝鮮討伐あり 森も木もありません不毛大地では、農作物も育たず
戦費を回収出来ませんで面白くありませんと帰国したみたいです。
貨幣経済は平安になってからであり、物々交換主流時代である。 
不毛大地の朝鮮と日本では国力に差があり過ぎて、中国は高い値で売れる方に先に
売りに来る。唐辛子が良い例である。高句麗も中国属国であった太古昔より後進国韓国と
思う。ハングルは15世紀 世宗王を待っても貴族両班弾圧し、農業潅漑設備水路も
日本が併合後に持ち出しで作った位 農業3千年以上遅れていた。
物々交換の時代 金延べ棒 銀延べ棒 鉄延べ棒は貴重であり高価であった
出土品は日本からで任那持って来た鉄延べ棒 =当時お金で差し支えないと思われる。
唐辛子同様に鉄は日本からで朝鮮にもたらされたと考える方が、日本鉄生産と時期
年代はの符号して行くと考えられる。 古代朝鮮優位説等在日コリアンと韓国学者
願望論に過ぎない。

180 :日本@名無史さん:2018/03/12(月) 12:01:24.71 .net
2013年、畿内説は破綻しました。。。。

181 :日本@名無史さん:2018/03/13(火) 00:48:10.16 .net
破綻してるのは>>180の理性だろ?

182 :日本@名無史さん:2018/03/13(火) 18:28:39.90 .net
そもそも水行って、水を使って行う修行のことじゃないの?
神聖な邪馬台国に行くためには、そういう修行が必要だってだけの話

183 :日本@名無史さん:2018/03/13(火) 18:29:30.50 .net
みずぎょうと読むわけだな

184 :日本@名無史さん:2018/03/14(水) 21:11:32.28 .net
で、「水行」に小さな川の水行はないことを確認すると、奴国が福岡平野である時点で、
北側にしか海がないので、南への水行はできないことが確定する

185 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 08:59:40.19 .net
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、

186 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 09:07:02.66 .net
    ↑
こいつが乱立荒らしの犯人です

187 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 12:18:34.41 .net
>>181
理性は元から乏しいが知性も破綻したんじゃね?

188 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 13:07:36.47 .net
人格は前から

189 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 13:33:08.21 .net
畿内説なんてそんなもんだ。

190 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 13:50:46.14 .net
そいつ、畿内説じゃ無いぜ、どう見ても
畿内説は破綻したって連呼してるじゃないか

191 :日本@名無史さん:2018/03/19(月) 16:54:33.23 .net
>>1
優れた考古学者達によって、スレッドタイトルの前提が論破され尽くしたねw

192 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 06:15:37.70 .net
で、南に水行できない時点で、九州説は破綻する

193 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 12:05:51.07 .net
方角なんて間違えるはずがない、という前提が間違ってるもんな

194 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 13:28:13.55 .net
陸行1月で全ての説が破綻してるからなあ

195 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 23:23:23.61 .net
>>194
俺は畿内説を採るが、日本海経路で投馬国を出雲、上陸地点を丹波として
そこから巻向まで行けば陸行1月も相場だと思う

196 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 23:29:04.26 .net
福岡付近から、出雲まで水行20日
ただし出雲の場所が決めがたく、
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野か、
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野か、
あるいは妻木晩田遺跡のある大山付近か、いずれかが候補

そこから丹波へ行くまでが水行10日
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う

どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう

水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい

水行中の日数は、夜に浜辺で休んだ日数や潮待ち、天気待ちも含むと思う
投馬国滞在日数は含まないんじゃないかな これはあくまで「かな」程度
陸行部分は、途中の集落の滞在日数も含むと思うが、そんなに大きな町も途中にはなさそう
あっても、丹波国の竹野付近と与謝野町くらいかな

遺跡の分布や神社の名前からして、出雲と大和の往来はこのルートでいいんじゃないかと思っている
ただ、丹後半島を縦断するより、回りこんで若狭湾に入った方が楽かもしれないとも思う

197 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 00:11:28.05 .net
道中に野宿はない。かならず人里で宿泊してると思うよ


なぜなら、人の手が入っていない土地はほとんど森の中で道すらないから通行不可能だ

198 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 00:37:38.25 .net
>>197
>森の中で道すらないから通行不可能だ

出雲と大和の往還路とかは、道すらないってことはないと思う
縄文時代の広域流通は船(沿岸航路)だと思うけれど、
内陸国が孤立していたとも思わないし、主要勢力を結ぶ動線は道があったと思う

199 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 01:16:22.49 .net
道があるところなら集落も散在してるだろ

一日で行き来できないほど離れてるとこなら道なんてつながってないだろうから、往来できるとこなら野宿はないはずだよ

200 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 01:24:33.86 .net
有間皇子ですら、家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉 に盛る と
歌っているんだから、弥生時代も草枕で旅をしていて何の不思議もないと思うけどな

201 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:34:39.98 .net
縄文弥生時代の交通の主力は海運。

202 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:48:05.95 .net
>>201
それは>>198にも書いてあるだろ
「主力が海運である」ことが、「陸路の存在を否定」するものではないってこと

有間皇子の例でも、飛鳥時代でも野宿している様子が示されているんだから、
なぜ、そんなに躍起になって否定しようとするんだい?
「自分の言葉を修正したら負け」教の人なの?

203 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 09:58:45.24 .net
陸行一月はあり得ないと言うこと。
魏志倭人伝で唯一の写本間違い。

204 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 10:24:24.69 .net
いや、オレだって陸路の存在自体を否定してるつもりはないよ

日本の自然環境的にいって陸上道路を維持するにはかなり労力がいるんだから、恒常的に往来が活発な場所じゃないとすぐ森に飲まれて道路なんて消えちゃうから、
一日で往復できる範囲より離れた村のない区間はなかったと言ってるだけ。

海路でも同様で、船を着けやすい場所には元々村が作られてたはずで、船を着けられないような地形環境の区間以外では上陸して村で宿営するのが普通だったと思うんだよ
野宿は例外の特殊状況だったとね

205 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 10:30:58.38 .net
弥生時代に大和なんて交通手段が乏しくて発展しようがないし、出雲と大和の間の交通とか言われても、現代なら新宿駅とどこかローカル線の駅の乗り換え案内みたいなもので、意味のある交通路ではない。

206 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 10:32:44.42 .net
>>194
>陸行1月で全ての説が破綻してるからなあ

本当にこれ。
だから、魏志倭人伝でここだけは1日と考えるしかない。
九州説だろうが、畿内説だろうが、同じこと。

纒向に行くのに日本海側に上陸するバカはいない。

207 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 12:14:18.91 .net
弥生時代後期には若狭からヤマトに抜ける方向の移動ルートがすでに発達してたようだから、>>206の発言は考古遺物の知見に反する妄想だね

208 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 13:07:47.84 .net
>>206
>纒向に行くのに日本海側に上陸するバカはいない。

出雲も丹波も弥生末期の王墓級墳丘墓の時代に巨大墳墓を作っていた強国なんだよ

倭国の様子を報告する役目を持つ魏使としては、この二つの地域を経由するのは
当然の経路と言える

209 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 13:14:31.49 .net
>>204
>船を着けられないような地形環境の区間以外では上陸して村で宿営

「船を着けられる地形環境」は「点=港」であって、区間じゃないと思う
「船を着けられないような地形環境」で、どうやって上陸するのか、てのも疑問

野宿、野営は陸行部分のこととして話しているつもりだった

九州説の人は、陸行一月を認められないようだけれど

210 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 13:50:36.10 .net
>>209
180は下がわ2行以外は陸路の話だぞ
道路が森に飲まれてすぐに消えてしまうと書いてあるだろ、海路が森に飲み込まれて消えたら驚くよ

オレは「陸上交通で往来があったと思われる区間(山陰-山陽間、要するに出雲-吉備間やら若狭-畿内間など)では道路近くの村の間隔が一日行程より短かったはずなので野宿不要」のほうな
村の間隔が短くなかったら陸上交通なんて成立しないよ、でも実際に道路があったらしい場所があるんだから村は散在と言うより密にあったに違いないよ、って考えてるんだ
野宿なしでの陸行1月は可能ってね

まあ、舟行よりか高コストだけど。

211 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 21:26:53.49 .net
>>210
東海道のような「街道」整備は考えなくていいだろう?
道といってもけもの道程度だろう

一つの平野の中ならば、それなりに密に集落があると思うけれど、
峠越えの道がないとも思わない

弥生時代の推定人口からして、遠距離間の陸路移動も当然あると私は考える

212 :日本@名無史さん:2018/03/21(水) 22:41:47.40 .net
>>211
>弥生時代の推定人口からして、遠距離間の陸路移動も当然あると私は考える

流浪人以外はないよ。
神武だって主に船で移動だ。

213 :日本@名無史さん:2018/03/22(木) 18:35:15.99 .net
>>211
そりゃ街道整備とかは早くても飛鳥時代頃からだろうけどな、もっと粗末な普通の道でも利用頻度が低ければ早期に森に飲まれて消えちゃうよ
獣道が獣道程度に維持されるのにも相応の利用頻度は必要

峠越えの道は、さすがに利用頻度の高い一部の峠以外にはなかったんじゃないかな

214 :日本@名無史さん:2018/03/22(木) 18:45:56.02 .net
少なくとも、中国からの行使や、倭国の上流階級は、普通は通らないよ。
まれにそういうところを通ると、魏志倭人伝に草木が生い茂って前を行く人も見えないようなところを進んだとか書かれてしまうw

215 :日本@名無史さん:2018/03/23(金) 23:05:34.26 .net
>>213
>獣道が獣道程度に維持されるのにも相応の利用頻度は必要

けもの道がけもの道程度の維持されるのは、獣が獣道を利用するからってこともあるんだよ

古事記にも大国主が馬で出雲からヤマトに向かおうとしたって記事もあるし、そこまで陸路を否定する理由が分からない
又其~之嫡后、須勢理毘賣命、甚爲嫉妬、故其日子遲~、和備弖三字以音、
自出雲將上坐倭國而、束裝立時、片御手者、繋御馬之鞍、片御足、蹈入其御鐙而

216 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 13:35:40.48 .net
>>215
オレは陸路交通が全くないと言ってるんじゃないよ

いくらかの重要箇所ぐらいは陸路で往来可能なルートがあると思うが、そういうルートは重要さゆえに交通量もあってルート上に村が散在するはずだ、
野宿せざるをえないような箇所がなくなる程度の密度で宿泊可能な村があるはずだと言っている。

そのような密度で村が集まるようなルート以外では陸路はつながらないだろうとは言ってるけど。

217 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 13:51:38.09 .net
>>215
魏志倭人伝に、邪馬台国に馬はいないとあるのだから、出雲は邪馬台国ではないんだよ。
あと、大和に行こうとしたではなく、倭国にだろ。

218 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 15:37:15.70 .net
>>217
>あと、大和に行こうとしたではなく、倭国にだろ。

記紀では倭国をヤマト国と読むんだよ

「神代でも、陸路で出雲からヤマトへ行くのが当然」とされていたというための引用

馬がいるかどうかは、あまり立ち入ってもしょうがない
記紀か三国志のどちらかあるいは両方が不正確ってことだ
馬は記紀編纂時の後付けだろう

219 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 20:33:19.73 .net
記紀ではってのは間違いで古事記限定だったと思うが? →倭国をヤマト国

220 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 22:02:03.93 .net
>>219
>記紀ではってのは間違いで古事記限定だったと思うが? →倭国をヤマト国

ここは正確に認識してくれ
日本書紀では、天皇関係はヤマトの音に「日本」を当てているが、土地の名前や
豪族名ではそのまま「倭」でヤマトと読ませているよ
~武天皇紀
乃特賜名、爲椎根津彥(椎、此云辭毗)、此卽「倭直部」始祖也

記紀では倭と書いて「ヤマト」と読むのは前提

日本書紀には第一巻に「日本、此云耶麻騰。下皆效此」という註があるけれど、
「倭」には記紀ともに注記なくヤマトと読ませている

221 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 23:05:09.03 .net
逆に言うと、古事記が出来た頃までは倭をヤマトと読んでも、日本をヤマトと読むことはなく、日本書紀の編者らが新しく読み方を当てたんだよ。
つまり、日本と書いてヤマトと読むようになったのは8世紀はじめだということがわかる。
それは政治的な意図によるもので、おそらくはそもそも倭は近畿日本ではないのだろう。

222 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 23:34:44.88 .net
死刑スタッフ以外ニグループ100件以上介護保険税金泥棒殺ッテマス100森友ノロウイルス虐待スイッチ押死山手ローン戦争シテルンデシタッケ郡大報酬薬害モヤシテ老害麻薬王盗難ケタチガイ違反重々振戦耶炉ウドモ
https://anago.5ch.net/test/read.cgi/welfare/1441750123/

223 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 00:25:29.75 .net
>>221
>つまり、日本と書いてヤマトと読むようになったのは8世紀はじめだということがわかる。

これはそうだろう
天武持統朝の頃、もしくはその直前に日本という国号を作ったと考えられている
唐会要を信じるなら、武則天に対する長安3年(703年)の遣唐使(厳密には遣周使)が
初めて日本と名乗ったことになる

>それは政治的な意図によるもので、

ここまではいいが

>おそらくはそもそも倭は近畿日本ではないのだろう。

ここが飛躍している
九州説の願望が入りすぎ
703年の遣唐使(遣周使)も日本書紀に普通に書かれている大和朝廷の派遣だし、
粟田真人を九州王朝の人間とは言わないだろ

224 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 07:00:38.05 .net
>>221
>おそらくはそもそも倭は近畿日本ではないのだろう。

倭は、「倭大國魂神社」が日本で唯一鎮座する、倭国(阿波)で確定。  @阿波

225 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 11:59:50.40 .net
>>223
九州王朝デムパたちは九州王朝存在下での出来事で書紀に書かれている出来事すべてが九州王朝の歴史を横取りしたものとか荒唐無稽なことを言ってるから、
その記述で反論とするには厳しい気がするな

226 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 15:40:38.23 .net
>>223
>703年の遣唐使(遣周使)も日本書紀に普通に書かれている大和朝廷の派遣だし、

そりゃあ、701年には大和朝廷が九州を含む全国の支配を確立しているからね。

227 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 22:40:11.39 .net
>>226
獲加多支鹵大王な影響圏が埼玉から熊本まで広がってるから、
「701年には」どころじゃないよね?

228 :日本@名無史さん:2018/03/25(日) 23:23:08.06 .net
神社が鎮座するっておかしな言い方だよな
倭大國魂神が鎮座する本社は、大和神社(大倭神社)だ

延喜式では大和坐大國魂神社

229 :kimiaki harada:2018/03/28(水) 01:00:20.92 .net
原田 君明に著作権あります。

魏志倭人伝で邪馬台国やまたいこく

九州統一以前 大和朝廷大名時代

一つ目
近く国から邪魔な大国  邪魔な台地ある国  大和台国 やまたいこく
周辺国から女が王を勤める嫌な大国意味 呼ばれてた悪評をそのまま記録した可能性と

2つ目
あの国の名は 、何て名前です?聞かれ 九州人が方言全開で
あれは〜「大和ったい!!」  大和台地の国?ってこと?
邪魔な大国なんだけどね。(笑) 「大和ったい!!」九州弁が全開?・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
邪馬台国???????
第179代目番目  神武天皇  皇帝即位 2470年 歳月  大和王朝
第304代目  明仁陛下  王暦2470年+皇紀2670年
大和台国  5140余年
ないし 九州弁外して 「 大和国」 5140余年になるか?

時に事実は小説よりも奇也
奈良大和は遷都して皇帝即位から2670年
佐賀大和建国 5140年 福岡→出雲→ここで勢力拡大一気に進み伊勢
天照大神 弥生戦国武将なんですね。

230 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 06:01:23.37 .net
>>228
>延喜式では大和坐大國魂神社

徳島県美馬(ミマ)市美馬(ミマ)町にある、「倭大国敷神社」「倭大国魂神社」二座は「倭」と付く神社である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。
一方、「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。

阿波国美馬郡条には「倭」   
大和国山辺郡条には、「大和」

何故、阿波国であるにもかかわらず、「倭」と付く神社があるのだろうか。

これは、阿波が「倭(やまと)」であり、一方、奈良は「大倭・大和(おおやまと)」ということが、はっきり示されているのである。  @阿波

231 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 07:27:46.99 .net
アマテラスが戦国武将かよ。
まあ、各地を攻略して領土を広げたという点では間違いではないのか。

232 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 08:21:52.67 .net
鬼道で衆を惑わすというのは、攻略になるのか?(困惑)

233 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 08:40:22.07 .net
>>231
>まあ、各地を攻略して領土を広げたという点では間違いではないのか。

でも各地といっても、倭国(阿波)国内での話だがね。  @阿波

西日本一帯なんて誇大妄想してるから、辻褄が合わなくなるんだよ。  @阿波

234 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 13:29:17.76 .net
鬼道は含まれないだろ。
武力ではないから。

235 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 13:36:37.30 .net
>>234
>武力ではないから。

逆に、卑弥呼が武力を使ったって話は、どこかにあったっけ?
狗奴国と争ったとは書いてあったが、原文は
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯・烏越等詣郡説相攻撃状
で、「素より和せず」だからなぁ
一応、「相攻撃状」とも書いてあるけれど

236 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 15:56:45.10 .net
まあ、卑弥呼共立に不服だったのが狗奴国だろうね。

237 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 21:55:45.87 .net
倭女王「卑彌呼」と狗奴國男王「卑彌弓呼」は、ペアの命名に見えるよね
まあ音訳の当て字だし、どこまで対応しているかは分からないといえば分からないけれど、
同じ文化圏なのは間違いないように見える

238 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 22:36:11.60 .net
狗奴国は肥後熊本。
筑後平野には戦乱の痕跡が多い。

邪馬台国側の砦として大野城、基肄城の名が魏志倭人伝に見える。
狗奴国側の砦は、魏志倭人伝に名前がある菊池彦が将を務めたであろう菊池城だろう。

肥前と筑紫の国境になる
吉野ケ里から安永田遺跡の地域
同じく肥後と筑紫の国境になる
大牟田を中心とした地域

これらの地域は、鉄の武器や
戦死遺体が多く出土する。

筑紫と肥が長く戦っていた痕跡といえるだろう。

畿内には何もない。

239 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 22:43:48.18 .net
>>238
>邪馬台国側の砦として大野城、基肄城の名が魏志倭人伝に見える。

こういう嘘を散りばめるから、九州説は相手にされないんだよ

ナとマは意外に交代しないんだよな
クナとクマは別に考えた方がよい

毛野国の方が音韻的には狗奴国に合う

240 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 22:45:15.43 .net
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg

241 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 22:56:28.28 .net
>>237
たぶん、人名、固有名詞じゃなくて地位の名前、称号なんじゃないかな

242 :日本@名無史さん:2018/03/28(水) 23:08:23.38 .net
>>239
同意。

狗馬国じゃないとオカシイね。

243 :日本@名無史さん:2018/03/29(木) 00:02:09.67 .net
>>240
ぜんぜん発音が似てないものを牽強付会してる項目が多すぎて恣意が目立ちすぎだね

244 :日本@名無史さん:2018/03/29(木) 08:09:26.32 .net
>>243
一部はそうだね。
だから、他の人の意見を聞いて修正している部分もある。
あとは、名前だけではなく、反時計回りの周旋を想定して決めている部分もある。

245 :日本@名無史さん:2018/03/29(木) 08:20:49.07 .net
>>241
でも、名曰卑彌呼 名を卑彌呼と曰うってばっちり書いてあるしなぁ

246 :日本@名無史さん:2018/03/29(木) 08:23:22.16 .net
ヒミコ、ヒナタ、ヒメコ、いずれにしても実際には固有名詞ではないだろう。
そもそも貴人を実名で呼ぶ習慣があまりなかっただろうし。

247 :日本@名無史さん:2018/03/29(木) 08:26:34.79 .net
>>242
馬はメと読むらしいから、それではクマにならない。
あと、大野城は少し苦しいが、基肄城はかなり正しいと思うよ。
でも基肄城があるなら、その前後に大野城があるべきだよね。
狗奴国の側に菊池の名前もあるし。

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