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九州の古代史【邪馬台国畿内説前提】
- 1 :日本@名無史さん:2015/09/18(金) 21:00:14.38 .net
- 古代九州の話となると邪馬台国論争に終始してしまうので、個別に語れる場所はないかと。
畿内説への反論は畿内説スレにて、九州説を前提とした古代九州の話は九州説スレにてどうぞ。
- 491 :日本@名無史さん:2018/04/20(金) 17:55:14.56 .net
- おっと、ボケていた。
- 492 :日本@名無史さん:2018/04/20(金) 18:02:47.34 .net
- >>489
>散々他のスレで九州には国産も輸入も水銀朱が沢山あり
これが既に捏造
九州からは国産の水銀朱は弥生時代の遺跡からは出ていない
- 493 :日本@名無史さん:2018/04/20(金) 19:06:52.01 .net
- >>482
火の国から肥に変更されたのは奈良時代のこと
天智天武辺りの時代でも火の国だから、時代性を考えろと言いたい
それとも九州王朝は八世紀半ばにも存続してたのかな?
- 494 :日本@名無史さん:2018/04/20(金) 19:07:59.99 .net
- しもた、アンカー数字間違い
- 495 :日本@名無史さん:2018/04/20(金) 19:32:01.88 .net
- 肥前肥後の区別をつけて論じるときに不便だし、古事記でも肥国だよ。
火の国というのが原義なのはわかるが、具体的にどの文献かな?
- 496 :日本@名無史さん:2018/04/20(金) 21:40:54.51 .net
- 諸国の国名を雅字に変更させたときに火から肥やしに変えられたんだが
それまでは紀伊は木の国だし上野は上毛野だ
記紀は(つまり古事記もだ)基本的に変更後の国名だろ
- 497 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 06:35:38.03 .net
- >>491
>おっと、ボケていた。
それが「実力」なんだよ
- 498 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 06:36:20.40 .net
- 出雲も筑紫も日向も大和も阿波も記紀以降に自分勝手に付けた国名
だから、混乱を招いた。
記紀は倭国(阿波)国内の出来事。 @阿波
- 499 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 06:49:04.82 .net
- >>475
公孫淵は237年に燕王を称し、独自の元号を定めるてるから
独立を目指して独自の度量衡を定めてたとしても不思議はない。
- 500 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 06:50:44.36 .net
- 空想は根拠になりません
- 501 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 06:51:27.65 .net
- >>476
畿内説だと卑弥呼が魏から貰った大量の真朱は何処へ行ったんだ?
- 502 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 08:27:03.51 .net
- どっかにあんじゃね?
知らんけど
- 503 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 08:27:52.38 .net
- >>473
九州北部では中国産の水銀朱が出土してますよ。
- 504 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 08:37:41.20 .net
- >>498
粟の科野国伊奈評ってどこ?
- 505 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 08:40:27.32 .net
- >>503
>九州北部では中国産の水銀朱が出土してますよ。
時代が合わないから、魏からとは言えないんじゃないかな
- 506 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 08:51:10.20 .net
- >>501
>畿内説だと卑弥呼が魏から貰った大量の真朱は何処へ行ったんだ?
50斤で、漢代の度量衡だと11.3キロくらいにしかならないよ
眞珠、鉛丹各五十斤
畿内の古墳だと一つで水銀朱200キロくらい使ってるのもあるから、
ちょっと使えばすぐなくなる量だね
- 507 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 09:35:26.71 .net
- >>504
>粟の科野国伊奈評ってどこ?
意味がよく分からないんだが
粟国に科野国はない 信濃国じゃないの? @阿波
- 508 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 09:42:46.98 .net
- >>506
>畿内の古墳だと一つで水銀朱200キロくらい使ってるのもあるから、
ちょっと使えばすぐなくなる量だね
時代からみて、萩原墳丘墓の中国産真朱だろうね。 @阿波
- 509 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 09:54:11.41 .net
- >>507
記紀の全てが粟で起きた事派は
科野も粟と言っている
- 510 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 11:23:51.66 .net
- >>507
>粟国に科野国はない
これと、伊都国に邪馬台国はないっていうのは同じくらい当たり前のことなんだがなぁ
こんな単純なことを認めないって言い続けてるヤツがいるんだよなぁ
- 511 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 12:10:15.07 .net
- >>505
3世紀のものもありますよ
>>506
畿内の何処で中国産朱銀朱がだたんでしょう?
- 512 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 12:16:21.44 .net
- >3世紀のものもありますよ
どれ?
- 513 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 12:24:39.42 .net
- ていうか、10キロしか朱を使ってないケチな墓があるのか?
- 514 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 12:25:03.32 .net
- >>499
元号は変えるのが当たり前だけど度量衡は変えない方が普通だしなあ
- 515 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 13:02:46.00 .net
- >>512
証拠は出さない九州説
- 516 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 13:09:51.37 .net
- >>514
元号も度量衡も変えるのが当たり前だけど普通は度量衡は急に大きく変えたりしないだけのこと
燕の場合は魏に情報が漏れないように里を極端に小さくしたんだろう。
- 517 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 13:15:28.69 .net
- そんな空想になんの意味がある
- 518 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 13:19:39.82 .net
- >>516
>度量衡も変えるのが当たり前だけど
当たり前じゃないww
- 519 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 14:56:58.53 .net
- 九州よりまだ南の南西諸島、琉球、奄美辺りは後に九州、四国、畿内へ流入した部族らの限りなくスタート地点に近い一大拠点やったと思う。
- 520 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 15:04:18.64 .net
- >>516
たいていは前代の度量衡を追認してるだけで定めたとか吹かしてる
口先だけ変更だよ
- 521 :日本@名無史さん:2018/04/21(土) 15:16:01.77 .net
- 度量衡は変えないのが普通
ただ地域差の排除+皇帝権威のための欽定だな
- 522 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 09:46:05.12 .net
- なに言ってんだ?
度量衡は時代と共に大きく変わってるだろ。
あと里など同じ単位でも国によって大きく違う。
三国志時代なら、振興国の魏と、東夷世界などで違ってもなんら不思議はない。
- 523 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 11:41:30.39 .net
- 秀吉の時に大きく変更されるまでは日本の度量衡も中国のと同程度だったんだけど、知らんのだな。
- 524 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 13:02:13.25 .net
- >東夷世界などで違ってもなんら不思議はない。
東夷世界というが、戦国の七雄の頃は半島北部まで燕の領域だし、
秦の始皇帝の度量衡の統一に従っている範囲だ
公孫氏も元来、漢の冊封を受けた諸侯だし、漢魏尺、魏晋里を使わない理由がない
報告書や古書の情報から、三国志、魏志倭人伝を撰述するときに、距離を調整したと
考える方が合理的
- 525 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 13:13:59.05 .net
- そこでハゾク文書は一を十にす
ですよ。
実際の値の10倍になっていると見るべき。
- 526 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 14:14:09.55 .net
- >>525
>ハゾク文書は一を十にす
これは何?
- 527 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 17:15:13.18 .net
- 魏志中の文で
破賊文書は 、旧 、一を以って十と為す
とある。
戦果報告は10倍にして報告するという慣例。
- 528 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 17:47:05.91 .net
- >>527
これだね、了解
三國志/魏書 凡三十卷/卷十一 魏書十一 袁張涼國田王邴管傳第十一/國淵
田銀、蘇伯反河間,銀等既破,後有餘黨,皆應伏法。
淵以為非首惡,請不行刑。太祖從之,ョ淵得生者千餘人。
破賊文書,舊以一為十,及淵上首級,如其實數。
太祖問其故,淵曰:「夫征討外寇,多其斬獲之數者,欲以大武功,且示民聽也。
河間在封域之內,銀等叛逆,雖克捷有功,淵竊恥之。」
太祖大ス,遷魏郡太守。
つまり、司馬懿にとっての功績を讃えるためには、倭国の朝貢は
より遠くからと「盛った数字」と見るのがよかろう、ということだね
- 529 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 18:14:25.40 .net
- 距離を盛った、過剰報告だということは、つまり短里だと整合するという発想そのものが間違いだって事でもあるよね
むしろ整合性がとれる単位をこそ偽物と考えるべき
- 530 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 18:34:01.87 .net
- 数倍に盛って報告するのはよくあること、
と言うことである。
- 531 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 18:46:59.72 .net
- その盛り盛り報告を集めた代物が精確なはずないって分からんのか
末期症状だな
- 532 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 18:48:20.02 .net
- 東夷伝里が弥生時代にしては驚くほど現実地図と対応しているのは
事実
- 533 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:04:36.25 .net
- >>524
>公孫氏も元来、漢の冊封を受けた諸侯だし、漢魏尺、魏晋里を使わない理由がない
当然漢に冊封されていた時点では漢の度量衡を使っていただろうが
元号を独自に立てた時点で冊封体制からの離脱を意味する
度量衡も独自のものを使わないと完全に独立したことにならない。
- 534 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:05:54.36 .net
- つまり合計万二千里は 万二千里にしたかった。
実際は千二百里だったと。
この場合の一里は、、、?
- 535 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:06:33.33 .net
- 公権力による統一度量衡がなかった春秋戦国期ですら、諸国間での度量衡の違いは誤差レベルしかなかったのにな
何倍も違うとか、普通じゃないよ(つまり、秀吉による改定度量衡も普通じゃない)
- 536 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:22:55.04 .net
- 度量衡は丈尺寸分について定義したが
歩と里の定義はしていない。
- 537 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:24:24.01 .net
- >>532
>東夷伝里が弥生時代にしては驚くほど現実地図と対応しているのは
魏志倭人伝
(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実
千々賀遺跡 北東30キロ 三雲遺跡群
1里=60メートル
魏志倭人伝
(伊都国から) 東南百里 至奴國 ちょっと語順入れ替え
現実
三雲遺跡群 東北東18キロ 比恵・那珂遺跡群
1里=180メートル
方角も、距離もメタメタじゃないか?
現実に合っていないよ?
- 538 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:26:54.93 .net
- >>536
>度量衡は丈尺寸分について定義したが
>歩と里の定義はしていない。
1歩=6尺
1里=300歩
って決まってるから、尺を決めれば、自動的に決まるんだよ
唐のときにこの関係をいじったけどね
- 539 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:29:22.43 .net
- 燕が秦の度量衡に従ったという根拠は?
- 540 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:29:49.24 .net
- 現実には度量衡は時代によって変化している
- 541 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:31:08.63 .net
- >>534
>つまり合計万二千里は 万二千里にしたかった。
まさに、万二千里にしたかった、まず万二千里ありき、なんだよ
西方の大月氏国が、大体万二千里で
淮南子の東方之極も万二千里だから、それに合わせてるんだと思う
まあ、大月氏国の方も、西方之極の万二千里に合わせてると見ることもできるけど
だから、
>実際は千二百里だったと。
>この場合の一里は、、、?
これは考えなくていいと思う
九州北部の福岡平野から、二ヶ月で行く⇒大体千三百里くらい?
から逆算してるっぽさも感じる
あと、海を渡るまでを万里にしてるようでもある
- 542 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:33:26.64 .net
- >>538
そのとおり、
時代によって、一歩五尺だったり
六尺だったり、5.3尺にいじったりしている。
そして何より、東夷である日本では
丈尺寸分はほぼ中国に合わせているものの
奈良時代で一里が533mだったり
戦国時代以降で4000mだったりと
全く合わせていないことから見ても
歩や里を合わせる義務はないことがわかる。
- 543 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:36:24.50 .net
- 楽浪郡のある朝鮮半島の横幅が四千里なんだから、
東夷伝里で測定してるでFA。
あとはキナイコシの
「わざわざ遠回りして煙に巻いて結論連打フラッシュ」
が炸裂します。
- 544 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:39:25.93 .net
- ぜんぶ畿内説テンプレに書いてあることだな
九州狂人がテンプレを目の敵にするのも
わかるわ
- 545 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:42:34.52 .net
- キナイコシが場違いな議論放棄
- 546 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:56:39.46 .net
- 一律10倍なら、正確に地点地域の位置を反映してる情報になるのでは
- 547 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 19:59:23.17 .net
- >>546
だよねw
それが東夷伝里と仮に名付けているだけで。
- 548 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 20:02:10.96 .net
- ずいぶん前から5倍誇張説がある。
一律5倍でピッタリ合うよ。
- 549 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 20:06:59.03 .net
- やっぱり東夷伝里はあったんだ!
- 550 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 20:31:40.35 .net
- >>549
倭国より直接的に関係する高句麗なども二千里四方=東夷伝里記載ですから、
否定しようがないわけです。
- 551 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 21:09:35.92 .net
- 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
- 552 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 21:22:55.54 .net
- >対馬海峡が三千里
あれ?なんで?
一大國と對海國の大きさは?
〇一大國と對海國(海域であって)
×一大島と對海島、あるいは
×壱岐島と対馬島
- 553 :日本@名無史さん:2018/04/22(日) 22:08:48.26 .net
- 都合の悪いことには触れない九州説
>>537を再掲
魏志倭人伝
(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実
千々賀遺跡 北東30キロ 三雲遺跡群
1里=60メートル
魏志倭人伝
(伊都国から) 東南百里 至奴國 ちょっと語順入れ替え
現実
三雲遺跡群 東北東18キロ 比恵・那珂遺跡群
1里=180メートル
方角も、距離もメタメタじゃないか?
現実に合っていないよ?
東夷伝里なんてないんだよ
- 554 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 00:14:22.21 .net
- >>537
>>553
魏志倭人伝
(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実
中原遺跡 東南39キロ 惣座遺跡
1里=78メートル
魏志倭人伝
(伊都国から) 東南百里 至奴國 ちょっと語順入れ替え
現実
惣座遺跡 東南東7.5キロ 佐賀城内
1里=75メートル
現実にピッタリ一致しているよ。
- 555 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 00:16:49.61 .net
- >>537 >>553 を再現
魏志倭人伝
(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実
中原遺跡 東南39キロ 惣座遺跡
1里=78メートル
魏志倭人伝
(伊都国から) 東南百里 至奴國 ちょっと語順入れ替え
現実
惣座遺跡 南南東7.5キロ 佐賀城内
1里=75メートル
現実にピッタリ一致しているよ。
- 556 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 00:18:17.89 .net
- やっぱり東夷伝里はあったんだ!
- 557 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 03:42:49.17 .net
- その頭の悪さは父似? 母似?
- 558 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 07:46:21.50 .net
- >>555
>現実
>中原遺跡 東南39キロ 惣座遺跡
> 1里=78メートル
今、Yahoo!地図で測ってきたら
方角は南東の東南東寄り、距離は28キロで、1里=56メートル
>現実
>惣座遺跡 南南東7.5キロ 佐賀城内
> 1里=75メートル
こっちは、方角が南南東で、距離は9キロ、1里=90メートル
かなりいい加減に書いてるよな? 調べられなければごまかせると思ったのか?
そして、惣座遺跡をどうやったら伊都国にできるんだ?
周辺に「イト」って地名はないぞ?
それに、こんなに内陸で、一大率はどこで臨津搜露すればいいんだ?
佐賀城内に至っては、弥生時代の遺跡ですらないじゃないか
筑紫平野側には奴国を思わせる地名もないし
現実を無視して、魏志倭人伝に無理やり合わせても意味はないよ
ザラコクもよくこれをやるけどね
現在定説となっている比定地、伊都国ー糸島、奴国ー福岡(「那」の津、「那」珂川等)を
否定するなら、もっと厳密な論証がなければ、ただのトンデモの言いっぱなしにしかならない
そして、東夷伝里とかいう数値には、このいい加減なつじつま合わせ比定地でも合っていない
東夷伝里なんてないんだよ
- 559 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 07:53:44.43 .net
- いま九州説同士で喧嘩はじまりました
- 560 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 07:55:14.06 .net
- 徹底的にもっとやれ
- 561 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 08:03:57.41 .net
- >現在定説となっている比定地、伊都国ー糸島、奴国ー福岡(「那」の津、「那」珂川等)を
ただのトンデモの言いっぱなし
- 562 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 08:09:08.76 .net
- >>561
悪口言っても反論にならないよ
- 563 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 08:11:50.60 .net
- 方向、距離 ただのトンデモの言いっぱなし
- 564 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 08:57:53.75 .net
- >>367
兄媛、弟媛、呉織、漢織は応神天皇の依頼で帯方系百済人の阿知使主が
朝貢の見返りに南朝の皇帝に懇願して下賜してもらったドレスメーカーだぞ。
それまでの倭人の服飾は布を体に巻き付けて結ぶだけか、布の真ん中に頭と手を
出す穴を開けて着るだけの服飾しかなかった。
応神期末頃だから、5C以降の話だぞ。
これが日本で一番最初の中国人の中国人の帰化であり、渡来定着だぞ。
このときには秦氏がすでに加羅新羅から渡来して、須恵器や土壁の住居などが
もたらされている。
弥生終焉までに中国大陸からの渡来定着した痕跡遺構など日本には一つもない。
- 565 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 09:37:42.70 .net
- >>561
佐賀城内を奴国っていうのはないわ
よく、恥ずかしげもなく書けるよな
面の皮の厚さがハンパない
- 566 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 10:27:49.53 .net
- >>558
>方角は南東の東南東寄り、距離は28キロで、1里=56メートル
方向は東南ですよ。地図の再確認を。
ルートは、唐津街道R203 中原遺跡−笹原峠−多久−肥前国庁跡(惣座遺跡) で39q。
>こっちは、方角が南南東で、距離は9キロ、1里=90メートル
肥前国庁跡、佐賀城、地図で再確認を。
方角が南南東で、距離は7.5キロ、1里=90メートル
惣座遺跡には、城柵の壕(吉野ヶ里と同型式)や女王墓があり、弥生遺物の密集出土地と隣接しています。
佐賀城は弥生遺跡の上に築城したため、城跡の建築基礎工事時に弥生遺物が出土しています。
厳密な論証は省略しますが、非合理な定説も古田説も否定します。
- 567 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 10:34:56.03 .net
- >>565
>佐賀城内を奴国っていうのはないわ
佐賀城内は奴国の城柵跡です。
奴国環濠跡を佐賀城の堀として拡張したものと思われます。
- 568 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 10:43:56.57 .net
- >>567
ところで、末羅国はどこ? @阿波
- 569 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 10:58:24.92 .net
- 末櫨國の上陸地点は中原遺跡です。
- 570 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 11:02:52.97 .net
- 又、間違えた。
○末盧國 ×末櫨國
- 571 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 11:12:13.69 .net
- >末櫨國の上陸地点は中原遺跡です。
どういう理由で? なんで墓地遺跡が? @阿波
- 572 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 11:18:50.40 .net
- 元寇の頃まで港湾遺跡として存続しています。墓地遺跡はありません。
- 573 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 11:23:45.68 .net
- >>572
えっ、これじゃなかったの? @阿波
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/18482
- 574 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 12:38:34.56 .net
- >>569
倭人伝の記述どうりに進むと末廬国の上陸地点は呼子付近となります。
@帯方郡の南の端の海岸から船に乗って出発し狗邪韓国の南の海岸(「其北岸」倭国の北岸ってことは狗邪韓国の南の海岸)に到着・・・7000里
A狗邪韓国の南の海岸から對馬国の北の海岸へ・・・始度一海1000里
B對馬国の北の海岸から南の海岸へ・・・800里(方可四百餘里)
C對馬国の南の海岸から一大国の北の海岸へ・・・又南渡一海1000里
D一大国の北の海岸から一大国の南の海岸へ・・・600里(方可三百里)
E一大国の南の海岸から末廬国の北の海岸へ(呼子付近)・・・又渡一海1000里
F末廬国の北の海岸へ(呼子付近)から末廬国と伊都国との国境へ・・・東南陸行500里
G末廬国と伊都国との国境から伊都国と奴国の国境へ・・・東南至100里
H伊都国と奴国の国境から奴国と不彌国との国境へ・・・東行至100里
- 575 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 12:43:51.88 .net
- >>574
>倭人伝の記述どうりに進むと末廬国の上陸地点は呼子付近となります。
呼子上陸地点の遺跡は? @阿波
- 576 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 12:50:41.32 .net
- >>575
上陸地点に移籍?
何で上陸してん地点に遺跡が残るの???
- 577 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 12:51:21.43 .net
- >>575
上陸地点に遺跡?
何で上陸してん地点に遺跡が残るの???
- 578 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 12:52:16.36 .net
- >>575
上陸地点に遺跡?
何で上陸地点に遺跡が残るの???
- 579 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 13:03:52.89 .net
- >>578
他の末廬国上陸地点候補地では、遺跡があるよ? 呼子だけなんでないの? @阿波
- 580 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 14:19:43.00 .net
- >>579
遺跡を上陸地点候補地にしたからだろ
別に遺跡を上陸地点候補地にする必要はないんだけどね
帯方郡の出発地点の港の遺跡もないだろ。
- 581 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 15:24:54.98 .net
- >>580
調べてないけど、そりゃ在るだろ。 名もないような港から魏使 一行が出航するとは思えんが。
呼子にそれらしき遺跡がないのは、末廬国上陸地点じゃなかったってこと。 @阿波
- 582 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 15:38:17.51 .net
- >>578
大陸からの表玄関「末廬国上陸地点」に「何で上陸地点に遺跡が残るの???」と開き直られるとは・・・ @阿波
- 583 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 16:48:23.41 .net
- >>566
>方向は東南ですよ。地図の再確認を。
>ルートは、唐津街道R203 中原遺跡−笹原峠−多久−肥前国庁跡(惣座遺跡) で39q。
でも、大陸史書の、地理・旅程記事は、直線方向、直線距離が基本
なので、方向は南東よりはかなり東寄り、東南東に近い
そして、「どのルートだから距離がー」というのは意味がない
>惣座遺跡には、城柵の壕(吉野ヶ里と同型式)や女王墓があり、弥生遺物の密集出土地と隣接しています。
ちゃんと発掘報告書を読んでみたけど、女王墓があるような遺跡には見えないぞ
『佐賀県文化財調査報告書』96(1990)
惣座遺跡 : 惣座遺跡 久池井B遺跡 春日遺跡
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/18554
惣座遺跡の墓って、土坑墓や甕棺墓なんだが?
「埋葬遺構は斐棺墓 3基・石蓋土境墓 I基の計 4基がある。
ただし明確な墓地を形成するといったほどのものではない。」
玉類の出方は
「その他、玉類はガラス小玉、ガラス管玉、めのう丸玉が
環濠および竪穴住居跡の埋土中から出土した。
ただし点数はあまり多くなく、一つの遺構から
まとまった状態での出土ではない。」
鏡類は
「379は内行花文小型仿製鏡で径7.5cm。
380も内行花文小型仿製鏡で、径9.1cm、縁厚O.4cm、残存重要40g
381は縁から櫛歯文帯にかけての一部のみ破片のまま出土した。 379に類する小型内行花文鏡
であろう。」
環濠は、全体が発掘されているわけではないが
「こうして推定した惣座遺跡の面積は外掘り
で測って最大約2.9ha、内濠で固まれた内郭は仮に方形とすると約0.7haとなる。」
- 584 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 16:48:57.42 .net
- と思ったら、現在の区分では惣座B遺跡って呼ばれる方なんだな?
惣座遺跡 立石泰久
[佐賀県大和町教育委員会編]
(大和町文化財調査報告書, 第3集)
佐賀県大和町教育委員会, 1986.3
こっちは、ちょっとネット上では読めなさそうだな
ただ、銀の指輪が出た「土壙墓」があるだけのようなんだが、
銀の指輪3本で、女王墓と言い張るのかな?
- 585 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 16:58:11.42 .net
- >>581
遺跡は無いが港は今もあるよ
今も使われているから遺跡は無い。
- 586 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 17:09:57.70 .net
- >>585
>遺跡は無いが港は今もあるよ
そんな所、至る所に在るんだけどw
大陸からの表玄関「末廬国上陸地点」が「呼子」だってどう仕舞つけるの? まだやるの? @阿波
- 587 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 17:29:59.40 .net
- 呼子付近に上陸したから伊都国が南東なんだよ、他の場所だと方向が合わない
また倭人伝の行程文も国邑の端に着くことを至と表現している
「始度一海千餘里 至對馬國」
「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國」
「又渡一海千餘里 至末廬國」
全て国邑の北の端に到着したことを指している。
- 588 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 17:42:38.61 .net
- >>587
>呼子付近に上陸したから伊都国が南東なんだよ、他の場所だと方向が合わない
方角も距離も合うよ。
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り) @阿波
- 589 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 17:47:42.11 .net
- >>588
何を言わんとしているのか意味が全く分からんな?
- 590 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 17:49:02.20 .net
- マジで「呼子」に船、安全に着けられるの? 荒波やばくないの? @阿波
- 591 :日本@名無史さん:2018/04/23(月) 17:53:22.56 .net
- >>573
提示の中原遺跡は、2003年頃発掘の古墳時代のもの。
1965年頃発掘の中原遺跡は、弥生中期から元寇の頃まで続くもの。
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