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九州の古代史【邪馬台国畿内説前提】

1 :日本@名無史さん:2015/09/18(金) 21:00:14.38 .net
古代九州の話となると邪馬台国論争に終始してしまうので、個別に語れる場所はないかと。
畿内説への反論は畿内説スレにて、九州説を前提とした古代九州の話は九州説スレにてどうぞ。

653 :日本@名無史さん:2018/04/25(水) 19:18:06.01 .net
>>648
>九州上陸から二千里なら、九州北部を出ないですよ。

短里ならね
短里なんてないんだよ

九州説は、短里に頼りすぎ

654 :日本@名無史さん:2018/04/25(水) 19:44:46.34 .net
>>652
倭人伝では壱岐対馬では方可○○里と書いて距離に足さないようにしてるんだよ
末廬國では北の端に着いて徐陸地点から伊都国の入り口までが500里ってことだな
1里80mくらいとすると名護屋浦の奥に上陸して糸島市の入り口くらいが丁度500里だ。

655 :日本@名無史さん:2018/04/25(水) 20:48:50.72 .net
>>653
対馬海峡が三千里です。
短里しかあり得ない。

656 :日本@名無史さん:2018/04/25(水) 23:56:47.30 .net
アンケートです。

魏志東夷伝のうち韓伝 および倭人の条に
他の里程記述と異なる尺度の里
いわば東夷伝里 あるいは いわゆる短里と
呼ばざるを得ない基準里の存在を、

認めても良いと思う方挙手してもらえますでしょうか?

まずは


657 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 08:23:54.55 .net
ノシ

658 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 08:36:06.83 .net


659 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 08:49:10.48 .net


660 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 08:51:28.07 .net
ランダムサンプリングにならないアンケートなんかで
決めようとするから
九州説は堕落したと言われる

661 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 10:52:07.99 .net
まあ、列島は山の尾根から流れるミネラル豊富な川と四方を流れる潮流があるから。敷島と言う言葉は本当に言い得て妙ですわ。

662 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 11:48:18.51 .net
>>654
>名護屋浦の奥に上陸して糸島市の入り口くらいが丁度500里だ。

名護屋浦の奥には、平坦地がほとんどなくて、四千戸の末慮国の位置として不適当
そこから唐津経由で糸島に向かうと、南、東、北、北東と向きを変えながら
陸行することになり、始点と終点間の方角でも北寄りの東になる

どうやっても東南陸行に合わないし、そもそも名護屋浦湾から唐津に出るには、
結局東松浦半島の海岸を回りこむことになるから、それなら名護屋浦湾に入り込まずに
唐津の方へ船を回すほうがいいだろう

魏志倭人伝原理主義で、無理に魏志倭人伝の記述に合わせようとして、
道理に合わない無理な想定をするから、九州説には論理がないって言われるんだよ

663 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 11:50:47.33 .net
>>655
>対馬海峡が三千里です。

その間が、半島〜対馬、対馬〜壱岐、壱岐〜九州に分割されていて、
それぞれの長さが、2倍程度異なるのに、一律千里となっているので、
決まった単位で計っていないことが分かる

つまり、実測値ではないことが分かる訳だ
それが魏晋里に「合わない」ことが分かるだけ
短里なんてないんだよ

664 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 13:26:06.11 .net
>>662
上陸地点の名護屋浦から伊都国の入り口まで全てが末慮国だよ
末慮国はこれらの地域だけでなく旧松浦郡全体が末慮国で佐賀、長崎の北岸全体。

>そもそも名護屋浦湾から唐津に出るには、結局東松浦半島の海岸を回りこむことになるから、

そのまま南に進むこともできますよ?松浦半島の海岸を回るって何で???
名護屋浦湾のほうが内海で波が静かで乗って来た船を停泊させておくには安全ですし、糸島に向かうなら唐津で下船するって中途半端、唐津で降りるならそのまま糸島に向かうよ。

665 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 13:42:16.53 .net
名護屋で上陸なんてせんだろ
港がない

666 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 15:53:56.60 .net
>>664
>そのまま南に進むこともできますよ?松浦半島の海岸を回るって何で???

平地もないし、川もないし、どこをどう通るつもりなんだい?
藪こぎで、山を越えることになるよ?
陸地だから物理的には不可能ではない、と、まともな経路として通用するかは別問題

九州説はこういう強弁が、多すぎる

それに、南にいって東に行って北に行って、起点よりも北が目標点っていうときに
東南陸行とは書かないだろう
この点も、末慮国の場所を名護屋浦湾に求める場合の無理になる

667 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 15:58:04.53 .net
>>664
>糸島に向かうなら唐津で下船するって中途半端、唐津で降りるならそのまま糸島に向かうよ。

これは、私も正しいと思うし、博多湾岸の西新町遺跡、博多遺跡の港湾機能を考えると、
奴国の港まで船で行ったとした方が自然な旅程だと思う

伊都国に一大率がいて、臨津搜露したというのを信じるなら、伊都国に上陸が自然

松慮国に上陸する旅程は、例えば倭国王帥升等の朝貢時の資料に残されたものが
混入しと考えた方が理解しやすい
ただ、論証のしようがないから、そういうこともありうる以上のことは言えないけれど

668 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 15:59:15.06 .net
>>667の蛇足

こうした、「そういうこともありうるけれど、論証の仕様がない」ことを
事実だと勝手に決めてそれを根拠にして論立てするのが、九州説のやり方

669 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 17:07:31.39 .net
>>665
名護屋浦の奥にも赤松とかに港がある。
>>666
険しい山もなく丘陵地帯の段々畑中を南に道が唐津方面に繋がってるよ。

グーグルマップで確認してよ。

670 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 17:16:25.65 .net
>>669
現地に行った?

671 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 17:57:16.88 .net
>険しい山もなく丘陵地帯の段々畑中

そんなところに四千余戸はないだろ?

そんなところを通らなくても、松浦川河口付近の奥に末慮国の中心があるんだから
そっちに船をつければいいじゃないか?

荷物もって海を船で渡ってきて、段々畑になるような傾斜地を登っていくのは
バカらしいだろうが

672 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 18:42:18.57 .net
魏使の上陸地「呼子」対「唐津」論争してるんだね。 両方とも間違いなんだけど頑張れ!  @阿波

673 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 18:48:22.75 .net
>>670
2回くらい行ったことがるよ。

>>671
四千余戸は松浦郡全体の戸数だよ
船を付けるのに名護屋浦が一番良かったからだろうな
名護屋浦は奥が埋め立てられて農地になってるが
昔はもっと奥まで入れたようだ
船も陸に直接接岸できる。

674 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 18:50:23.40 .net
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg

675 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 19:36:46.99 .net
>>673
>名護屋浦が一番良かった

がんばってるけどさ、「東南」陸行にならないのは「克服できてない」し、
南東北と「陸行方向がグネグネになる欠点」があって、
末慮国の「中心部(四千戸)と関係ないところを示すという新たな欠点」が生じて、
壱岐ー末慮間が、対馬ー壱岐間よりも著しく短くなる(ほぼ半分)という点で
松浦川河口に上陸よりも「東夷伝里という決まった距離があるという主張と齟齬」が
出るんだが?

何をそんなにがんばっているんだ?

松浦川河口付近には、潟湖があって天然の港になっていたと想定されているんだが?
人がいないところに上陸するのは不自然だろ?

676 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 20:38:53.05 .net
>>675
>がんばってるけどさ、「東南」陸行にならないのは「克服できてない」し、
>南東北と「陸行方向がグネグネになる欠点」があって、

玄界灘沿岸で生活してると海が北で陸が南、東西に海岸線って感覚になる
地図で確認すると斜めに傾いてるんだでどね
福岡市とかで暮らしたことがあれば分かる
だから名護屋浦から唐津方面に向かうと南に向かう感じがするし、唐津から糸島方向だと東に向かう感覚なんだ
だから「東南」陸行ってなったんだよ。

>末慮国の「中心部(四千戸)と関係ないところを示すという新たな欠点」が生じて、

一大国は三千家と書かれてるけど壱岐には多くの集落遺跡が確認されてて、一か所で三千家在ったんじゃなくて合計で三千家だよ
末慮国も中心部に四千戸が固まって在ったんじゃなくて各地に散らばった集落を集めて四千戸だよ。

>壱岐ー末慮間が、対馬ー壱岐間よりも著しく短くなる(ほぼ半分)という点で
>松浦川河口に上陸よりも「東夷伝里という決まった距離があるという主張と齟齬」が
>出るんだが?

海上だと歩測や縄で直に測れない誤差が大きいのは仕方のないこと。

>松浦川河口付近には、潟湖があって天然の港になっていたと想定されているんだが?
>人がいないところに上陸するのは不自然だろ?

潟湖なんて浚渫しないと座礁の危険があって港にはならないよ
天然の港なんて有り得ないな。

>人がいないところに上陸するのは不自然だろ?

上陸し易くて船の安全が図れればその場所に人がいるとかいないとか関係ないですよ。

677 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 23:43:03.89 .net
>>676
>上陸し易くて船の安全が図れればその場所に人がいるとかいないとか関係ないですよ。

何のために海を渡るかと考えたらこんな発想は出て来ないな
人がいないところを目指す理由がない

>玄界灘沿岸で生活してると海が北で陸が南、東西に海岸線って感覚になる

魏使は玄界灘沿岸で生活していない
海が北という感覚は、652が主張するように名護屋浦湾に深く入り込むなら、
どっちが海かってのも狂うだろう
かなり適当な思いつきレベルの強弁だと思うぞ

>壱岐には多くの集落遺跡が確認されてて

でも、壱岐の比定地は最大の遺跡である原の辻遺跡で紛れもないぞ
小さな集落が壱岐国の中にあっても、そこを指して壱岐国だとは言わない

678 :日本@名無史さん:2018/04/26(木) 23:44:47.58 .net
潟湖っていうのは、水が流れ出す出口があるんだから、天然の良港になるんだよ
潟湖の内部が浅くなっているわけではない

679 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 00:08:44.77 .net
>>678
潟湖に大きい船を着けるには桟橋とか造る必要があるから天然の良港じゃないよ
自然のままだと小さな舟しか利用できない。

680 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 02:11:30.13 .net
実際に港として利用されているのに?

681 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 06:58:46.26 .net
>>680
利用してたの小さな舟でしょう
外洋船の港として使うなら航路の浚渫、桟橋や岸壁の整備が必要
その潟湖もだんだん堆積物で埋まってしまったんでしょ
名護屋浦は今も存在してますから。

682 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 06:59:19.84 .net
便 所 の 落 書 き ・ 痰 壷 の 更 に 劣 化 コ ピ ー の 3 流 掲 示 板 = 開 2 ち ゃ ん ね る
運 営 の 性 格 悪 い 引 き こ も り I T 土 方 メ ガ ネ ザ ル 早 く 死 な な い か な

683 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 07:38:35.04 .net
いくら、「呼子」だ「唐津」だと言い合っても、どちらも根拠の無い間違い説。
魏使 の上陸地は「福津市周辺」ですよ。
下記の点において、「呼子」「唐津」は適合しない。  @阿波
@壱岐からの「距離千里」
A上陸地としての環境(遠浅の砂浜)
B対馬海流の影響
C大陸との交流痕跡
D上陸地としての集落痕跡

684 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 08:27:57.91 .net
当時は外洋船といってもそこまで大きくないだろう。

685 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 08:28:31.65 .net
糸島に向かうのに糸島の海岸や唐津に入港しなかったのは
港が土砂で埋もれ始めていて大型船が着けなかったから
現在は糸島水道は現在陸地になってるし唐津の潟湖も埋まってしまっている
対して名護屋浦は現在も港として使われている。

686 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 08:57:08.72 .net
調べたら名護屋浦の海岸には赤松海岸遺跡ってのがあるみたいだよ。

687 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 09:07:53.60 .net
赤松海岸遺跡は縄文時代となってるけどこの辺に縄文時代から人が住んでたってことは
弥生時代も人が住んでただろうな、未発見の遺跡があるだろうな。

688 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 09:20:37.46 .net
呼子町大友遺跡は弥生時代の遺跡だな。

689 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 09:25:12.13 .net
>>687
>赤松海岸遺跡は縄文時代となってるけど

弥生時代まで存続していたら、複合遺跡って記録されるよ
まあ、具体的に見てないから確定的なことは言えないけれど、地図でざっと見て、
水田稲作に適した土地は、名護屋浦湾周辺には開けていないのは確実

690 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 09:33:13.56 .net
名護屋浦の海底を浚ったら魏使の落し物が見つかるかも。

691 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 09:35:32.63 .net
>>683
>@壱岐からの「距離千里」

もともと実測値ではない

A上陸地としての環境(遠浅の砂浜)

潟湖が広がっていれば、今より平野部は狭くなるから、大陸の人間の感覚なら
海から上がってすぐに山がそこに見えてるって感じだろう
有四千餘戸、濱山海居に合わないとは思わないがな

B対馬海流の影響

壱岐から南のつもりで東に流されると唐津湾くらいだろ

C大陸との交流痕跡

宇木訓電遺跡、中原遺跡、千々賀遺跡、桜馬場遺跡とあれば十分だろ

D上陸地としての集落痕跡

上陸地そのものは、海辺だろうが
中原遺跡は、潟湖からすぐだぞ

特に問題はないな

692 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 10:01:22.39 .net
>>691
なんでそんなに頑張ってるの?
少なくとも、 魏使の上陸地として「呼子」や「唐津」のほうが 「福津市周辺」よりも優れて妥当だとは言えないんじゃないのかな?
「福津市周辺」を排除する理由・根拠を示せないのでは?  @阿波

693 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 10:03:58.97 .net
>>687
赤松海岸遺跡辺りは相当難破したみたいだね。  @阿波

694 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 12:20:10.05 .net
>>692
>「福津市周辺」を排除する理由・根拠を示せないのでは?

逆だ、逆
「福津市周辺」を末慮国だと主張したいのなら、
末慮国⇒「松浦」
伊都国⇒「糸」島
奴国 ⇒「那」珂(福岡)
という、定説の比定地を「排除」してまで、「福津市周辺」が妥当とするだけの
理由・根拠を示さなければならないのは、阿波の方

でも、誰も相手にしてないから、書かなくていいよ
万津浦と書いた、出所不明の古文書なんて、何のあてにもならないし

695 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 12:32:46.62 .net
>>694
あのねぇ、もういい加減に地名云々は止めたら?
「万津浦」が気にいらないようだけど、「万津浦」なんてどうでもいいことなんだよ。
ようは、魏使の上陸地点が「福津市辺り」の砂浜だってことだけ。
そんな地名云々よりもっと明確な「福津市周辺」を排除する理由・根拠を示してほしい。  @阿波

696 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 12:48:10.35 .net
泡君は冗談を言ってるだけですから気にしないでください。

697 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 12:50:24.61 .net
きつい冗談でごめんね。  @阿波

698 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 17:57:48.15 .net
魏使が呼子付近に上陸した証拠。

@呼子付近じゃないと方角が合わないから呼子付近が魏使の上陸点である
それ以外の場所だと方角が合わない。

A倭人伝の書き方が
帯方郡の南の海岸〜狗邪韓国の南の海岸(7000里)
狗邪韓国の南の海岸〜對馬国の北の海岸(1000里)
對馬国の北の海岸〜對馬国の南の海岸(800里)
對馬国の南の海岸〜一大国の北の海岸(1000里)
一大国の北の海岸〜一大国の南の海岸(600里)
であるから次は
一大国の南の海岸〜末廬国の北の海岸(1000里)である。

B唐津に在ったとされる潟湖は現在存在しておらず松浦川の土砂の堆積により消失している、3世紀には土砂の堆積が始まっていて湖は浅く魏使の乗ってきた魏の外洋船は入港するのが困難であった。
(糸島水道も現在存在しておらず3世紀には浅くて魏の外洋船は入港するのが困難であった)

699 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 19:00:04.05 .net
>>684
日本の遣唐使船(邪馬台国より何百年後か分からんレベル)ならともかく、三国時代と言っても中国船はそれなりに大きいよ

700 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 19:02:27.72 .net
>>687
縄文時代は今より海岸線が内陸寄りだった時代
弥生時代や古墳時代は逆に、今より海岸線が沖合? 水深が浅かった時代

縄文時代に良港だった場所どころか、いま港に使える地形でさえも、弥生時代には港にならなかった可能性が高い

701 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 20:16:45.84 .net
邪馬台国の時代に対馬海峡を航行していたのは、倭人の船だと思うよ。

702 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 20:31:59.42 .net
倭人は倭人の舟で対馬海峡だろうが帯方郡までだろうが航海してたでしょうが
魏使は魏の船で日本まで来てたんですよ。

703 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 22:21:04.12 .net
末盧国の官名の記述がない=役人と会っていない=上陸していない

704 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 22:36:55.82 .net
>>703
>末盧国の官名の記述がない=役人と会っていない=上陸していない

それは、役人(一大率=筑紫忌部)は伊都国(出入国管理局)に居たから。
だから、末盧国に役人は居ない、居る必要が無い。  @阿波

705 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 09:19:09.73 .net
>>703
役人と会っていない≠上陸していない・・・ここがおかしい。
末盧国の役人の居る所を通らなかった
末盧国の中心ちは唐津ではなく伊万里だった!

伊万里の弥生時代のおもな遺跡
馬立場遺跡(東山代町東大久保)
大国遺跡(二里町大里)
橋本遺跡・西尾(にしお)遺跡(二里町大里)
土井頭遺跡(黒川町奥野)
小物成遺跡(大坪町白野)
午戻遺跡(大坪町六仙寺)

706 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 09:41:42.66 .net
>>705
>末盧国の中心ちは唐津ではなく伊万里だった!

で、魏使の上陸地はどこ? その四千戸の集落遺跡はどこ?  @阿波

707 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 11:25:13.79 .net
>>706
魏使の上陸地点は呼子付近で
四千戸は唐津や伊万里等を合計したもの
一大率は狗邪韓国、對馬国、一大国、末盧国にいたんだよ。

708 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 11:31:52.10 .net
「草木茂盛行不見前人」とわざわざ書かれるような所に上陸して
歩く、歩かせるなんてことは常識的に考えてないだろ

東松浦半島に寄った後、沿岸を行けるところまで行った所で上陸した
と考えるべき

さらに壱岐〜唐津では対馬〜壱岐の半分くらいしか距離がないのに
ともに千余里と書かれていることも注意すべき点だ

唐津からさらに沿岸を進んだ分がその距離の中に含まれていると考えるべき

709 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 11:37:29.07 .net
>>708
>歩く、歩かせるなんてことは常識的に考えてないだろ

常識ではないことがあったからわざわざ書いてあるわけで。
遠回りしてでも見せたくないものがあったのかもしれない。

710 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 12:01:27.42 .net
>>708
>「草木茂盛行不見前人」とわざわざ書かれるような所に上陸して
歩く、歩かせるなんてことは常識的に考えてないだろ


それは「八木山峠越え」のこと。

末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)

↓【東南】陸行500里  福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)

伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)   @阿波

711 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 15:00:48.63 .net
古代、、、縄文あたりまでは九州(主に南部)に倭国があったと考えるのが自然やわな。そして瀬戸内海ルートで愛媛へ、太平洋ルートで高知へ。
高知県の田村遺跡が興味深いな。
コピペ
縄文時代から近世にかけての遺跡です。縄文時代後期では九州との関連が深い鐘崎式土器が多く出土し、注目されています。
弥生時代では本格的に稲作を始めた初期のムラの様子が明らかとなりました。
中期には西日本でも屈指の大集落となり、大きな影響力を持っていました。
古代では官衙的な建物跡が検出され、荘園を管理する施設の可能性があります。
中世では守護代の居館である田村城館とその周辺には環濠を伴った屋敷地が検出され、土佐国を支配する拠点でした。

とか。阿波へはその後やろな。

712 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 15:15:29.39 .net
>>702
いや、阿波もすでに西日本最大級の縄文時代集落が存在している。
それは鮎喰川下流域集落群。  @阿波
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%CC%F0%CC%EE%B0%E4%C0%D7

713 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 18:21:41.65 .net
こういう縄文時代から続く複合大型集落遺跡が九州には無いんだよね。
唯一の吉野ケ里遺跡も、弥生時代で消滅しているし。  @阿波

714 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 18:48:15.13 .net
>>712
>こういう縄文時代から続く複合大型集落遺跡が九州には無いんだよね。

阿波はえらそうにする割りに勉強不足だから知らないだろうが、九州の
縄文時代の遺跡は平野部ではなく山中にあるものが多いんだ

そして、弥生時代になると低平地に集落を作るようになる

この辺が、案外、高天原から降りてきたという神話の元になっているのかもしれない

715 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 18:53:07.12 .net
>>714
>九州の縄文時代の遺跡は平野部ではなく山中にあるものが多いんだ
そして、弥生時代になると低平地に集落を作るようになる

縄文時代から続く複合大型集落遺跡が九州には無いんだよね。   @阿波

716 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 18:59:07.52 .net
吉野ヶ里遺跡とか縄文時代から弥生時代、律令時代まで続いてるし
博多とかは縄文時代から現代まで人が住んでいますよ。

717 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 19:05:40.63 .net
>>715
阿波は無知すぎる。

718 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 19:25:58.23 .net
>>716
>吉野ヶ里遺跡とか縄文時代から弥生時代、律令時代まで続いてるし

吉野ヶ里遺跡は縄文時代から弥生時代まで。 弥生時代で消滅している。  @阿波 

719 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 19:27:53.02 .net
>>716
>博多とかは縄文時代から現代まで人が住んでいますよ。

その博多の「縄文時代から続く複合大型集落遺跡」ってどこ?  @阿波

720 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 19:37:17.93 .net
>>719
>その博多の「縄文時代から続く複合大型集落遺跡」ってどこ?

最低、そういうものがないと、北部九州説なんて恥ずかしくて言えないだろうに。  @阿波

721 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 19:43:16.82 .net
博多の地下。

722 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:07:43.81 .net
>>721
>博多の地下

阿波が間違っているのは認めるけど
博多の地下は縄文海進で海に浸かってるからそれは無理

723 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:15:16.76 .net
>>722
>阿波が間違っているのは認めるけど

阿波のどこが間違ってるのか、指摘してみて。 そして、叩きのめしてみて。  @阿波 

724 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:46:34.17 .net
>>722
叩き殺してみて

725 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:49:44.91 .net
縄文弥生には大地震と巨大津波が何回か発生したらしいが。南海トラフなんかの被害で高知県から移動したのが阿波と違うの、時代的に。

九州南部から北部へ、高知県へ→阿波→瀬戸内海側の愛媛香川→畿内へ。
九州北部から出雲→山陰、山陽→畿内へ。
波紋が広がる様に、岸うつ波の様に人は次々と移動したんやろな。

其れも先行グループと後発グループ、が分裂と再開、再再々開を繰り返したんやろ。
ロマンやなあ。

726 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:53:23.77 .net
>>724
>叩き殺してみて

殺すことはご勘弁を。
あなたが何説か知らないが、阿波説以外は「其山有丹」で即刻排除される。  @阿波

727 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:53:51.95 .net
世界最古の前方後円墳は阿波にある

728 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 07:27:33.58 .net
朱を自給自足出来る阿波にあって萩原2号古墳だけ中国産の朱を使ってるんだな
魏志倭人伝の記録にあるような量じゃ古墳一つ分あるかないかだから
もらったヤツはここに使ったのかもしれない

729 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 09:51:14.95 .net
音の響きが全然違うじゃん。

ヤマタイとアワ。

クナコクとアワ、イヤ、トサ。

何か似てるか??

730 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 10:10:34.65 .net
>>729
阿波の事、何も知らないんだね。 
やまたい=やまと(倭)
旧阿波国は、北部の“粟国”と南部の“長国”に分かれていたが、大化改新(646)以降粟国として統一され、
和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命により“阿波国”と改称したという。
全国、広しと言えども
「倭」と明記された「物証」があるのは、唯一「阿波」だけなんですね。
当然、倭国でない、九州にも畿内にも有りません。  @阿波

731 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 10:56:53.61 .net
阿波にあるのは倭大国魂神社
奈良にあるのは大倭坐大国魂神社

732 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 11:19:20.49 .net
はぁ?

ヤマタイとアワ。

クナとナガ。

何か似てるか????


そろそろ頭の病院、刑務所に行く頃だろ。

733 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 11:23:42.14 .net
>>725
正解

734 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 11:32:39.78 .net
阿波が倭=元ヤマト
大和が神武東征後の新ヤマト

735 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 11:56:31.20 .net
>>734
>阿波が倭=元ヤマト

正解

>大和が神武東征後の新ヤマト

大和が白村江の戦・遷都以後の新ヤマト  @阿波

736 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 12:24:48.13 .net
阿波説の日本史年表ってどうなってるの?

737 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 13:27:54.52 .net
そこが阿波説の不備。

738 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 14:00:46.82 .net
>>736
>阿波説の日本史年表ってどうなってるの?

それは具体的にどういうもの?
他説の日本史年表ってものを見てみたい。  @阿波

739 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 14:06:23.41 .net
古代イスラエル人が渡阿波
伝説のアークを剣山に埋める

ここから

740 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 20:33:28.09 .net
>>727
阿波は間違い無く倭国の中心やった時代があったんやろね。
古墳や複合集合遺跡、丹生と麻が決め手やと思う。
魏志倭人伝に記載された時点に中心が何処とか余り興味無いし、其れより人の流れと其の目的が何やったかに興味あるねん。

伊邪那岐の国産みの「こをろこをろ」と矛立てて、とか渦潮とSEXを国産みの係言葉としか思えんしな。
そんな古くから栄えた九州に何時までも留まって無いと考える方が自然やろ。

741 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 07:45:28.62 .net
>>730
>「倭」と明記された「物証」があるのは、唯一「阿波」だけなんですね。

これが神社の鳥居の額とかだったら笑える

742 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 12:36:21.31 .net
神社の鳥居で古墳時代とか弥生時代ごろの遺物なんて実在するのかよ?

743 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 13:45:09.93 .net
鳥居の原型は、平原遺跡にそれらしき柱の跡がある。

744 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 13:50:39.84 .net
柱の穴みただけでファンシーな爺さんだな

745 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 13:59:43.51 .net
纏向みたいなもんだ

746 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 14:04:17.81 .net
なぜ?

九州説はいつも理由が言えない

747 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 15:08:22.01 .net
平原古墳郡は別格だね
発掘品からして格上感がある
 
どこかで読んだが遺体の足の方に柱跡があり
これが太陽信仰で柱の影が遺体の膣にはいり
太陽と合体した〜みたいな見解だった
その柱を遠くから見たら箸に見えていたのかも
箸墓かと思えたな

748 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 15:18:56.05 .net
後漢代、倭国乱以前に栄えてたとこの遺跡だね、ひらばるって。

749 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 15:27:58.28 .net
>>748
明らかに倭国乱中か、乱後だよ?
乱前はありえないな

750 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 16:13:38.91 .net
>>747
>平原古墳郡は別格だね

この一言で、平原遺跡の全景が分かっていないのが丸分かり
平原遺跡は、5つの周溝墓が確認されている弥生墳墓群で、古墳群ではない

そして、最大の1号墓で12メートル×8メートルという墳丘サイズ
残り4つはさらに小さい

1号墓以外めぼしい副葬品のあるものはない
伊都国王墓の地からも離れたところにある

おそらくは、伊都国王家に妃を出した伊都国有力家系の家族墓地
1号墓の被葬者は伊都国王妃くらいだろう

751 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 18:29:55.30 .net
>>740
正解

752 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 20:43:19.80 .net
>>750それでも女性が埋葬された中では別格な埋葬品でしょ?
全部割られた鏡から想像すると「甦り防止」もあったと思う 
甦り防止ってことは、祭司者か占い師だったかも知れない
鏡の大きさ日本最大級46センチも卑弥呼級の
人物しか持てない大きさだと思っている
じゃあ聞きたいけど自分の娘や親族をなぜ別の場所に埋葬するんだい?
しかも違う埋葬方法で?
 

753 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 21:37:16.44 .net
>>752
>女性が埋葬された中では別格な埋葬品でしょ?

丹波の大風呂南墳丘墓とか調べてごらん
鏡以外は平原より上だよ

結局、平原1号墓は立派な仿世鏡がたくさん出た、以上ではないんだよな

伊都国、奴国に青銅器の工房があったのは認めてよいだろう
伊都国の青銅器生産を担う一族から、伊都国王妃が出て、それをその一族の
家族墓地に葬った、というのが一番妥当だと思う

>じゃあ聞きたいけど自分の娘や親族をなぜ別の場所に埋葬するんだい?
>しかも違う埋葬方法で?

これは何との比較を意図してるんだい?
伊都国の鏡作りの一族が、その娘を葬ったと思っているんだが
本来の伊都国王家の一員じゃないと思ってるよ

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