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九州の古代史【邪馬台国畿内説前提】

1 :日本@名無史さん:2015/09/18(金) 21:00:14.38 .net
古代九州の話となると邪馬台国論争に終始してしまうので、個別に語れる場所はないかと。
畿内説への反論は畿内説スレにて、九州説を前提とした古代九州の話は九州説スレにてどうぞ。

681 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 06:58:46.26 .net
>>680
利用してたの小さな舟でしょう
外洋船の港として使うなら航路の浚渫、桟橋や岸壁の整備が必要
その潟湖もだんだん堆積物で埋まってしまったんでしょ
名護屋浦は今も存在してますから。

682 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 06:59:19.84 .net
便 所 の 落 書 き ・ 痰 壷 の 更 に 劣 化 コ ピ ー の 3 流 掲 示 板 = 開 2 ち ゃ ん ね る
運 営 の 性 格 悪 い 引 き こ も り I T 土 方 メ ガ ネ ザ ル 早 く 死 な な い か な

683 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 07:38:35.04 .net
いくら、「呼子」だ「唐津」だと言い合っても、どちらも根拠の無い間違い説。
魏使 の上陸地は「福津市周辺」ですよ。
下記の点において、「呼子」「唐津」は適合しない。  @阿波
@壱岐からの「距離千里」
A上陸地としての環境(遠浅の砂浜)
B対馬海流の影響
C大陸との交流痕跡
D上陸地としての集落痕跡

684 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 08:27:57.91 .net
当時は外洋船といってもそこまで大きくないだろう。

685 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 08:28:31.65 .net
糸島に向かうのに糸島の海岸や唐津に入港しなかったのは
港が土砂で埋もれ始めていて大型船が着けなかったから
現在は糸島水道は現在陸地になってるし唐津の潟湖も埋まってしまっている
対して名護屋浦は現在も港として使われている。

686 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 08:57:08.72 .net
調べたら名護屋浦の海岸には赤松海岸遺跡ってのがあるみたいだよ。

687 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 09:07:53.60 .net
赤松海岸遺跡は縄文時代となってるけどこの辺に縄文時代から人が住んでたってことは
弥生時代も人が住んでただろうな、未発見の遺跡があるだろうな。

688 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 09:20:37.46 .net
呼子町大友遺跡は弥生時代の遺跡だな。

689 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 09:25:12.13 .net
>>687
>赤松海岸遺跡は縄文時代となってるけど

弥生時代まで存続していたら、複合遺跡って記録されるよ
まあ、具体的に見てないから確定的なことは言えないけれど、地図でざっと見て、
水田稲作に適した土地は、名護屋浦湾周辺には開けていないのは確実

690 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 09:33:13.56 .net
名護屋浦の海底を浚ったら魏使の落し物が見つかるかも。

691 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 09:35:32.63 .net
>>683
>@壱岐からの「距離千里」

もともと実測値ではない

A上陸地としての環境(遠浅の砂浜)

潟湖が広がっていれば、今より平野部は狭くなるから、大陸の人間の感覚なら
海から上がってすぐに山がそこに見えてるって感じだろう
有四千餘戸、濱山海居に合わないとは思わないがな

B対馬海流の影響

壱岐から南のつもりで東に流されると唐津湾くらいだろ

C大陸との交流痕跡

宇木訓電遺跡、中原遺跡、千々賀遺跡、桜馬場遺跡とあれば十分だろ

D上陸地としての集落痕跡

上陸地そのものは、海辺だろうが
中原遺跡は、潟湖からすぐだぞ

特に問題はないな

692 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 10:01:22.39 .net
>>691
なんでそんなに頑張ってるの?
少なくとも、 魏使の上陸地として「呼子」や「唐津」のほうが 「福津市周辺」よりも優れて妥当だとは言えないんじゃないのかな?
「福津市周辺」を排除する理由・根拠を示せないのでは?  @阿波

693 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 10:03:58.97 .net
>>687
赤松海岸遺跡辺りは相当難破したみたいだね。  @阿波

694 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 12:20:10.05 .net
>>692
>「福津市周辺」を排除する理由・根拠を示せないのでは?

逆だ、逆
「福津市周辺」を末慮国だと主張したいのなら、
末慮国⇒「松浦」
伊都国⇒「糸」島
奴国 ⇒「那」珂(福岡)
という、定説の比定地を「排除」してまで、「福津市周辺」が妥当とするだけの
理由・根拠を示さなければならないのは、阿波の方

でも、誰も相手にしてないから、書かなくていいよ
万津浦と書いた、出所不明の古文書なんて、何のあてにもならないし

695 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 12:32:46.62 .net
>>694
あのねぇ、もういい加減に地名云々は止めたら?
「万津浦」が気にいらないようだけど、「万津浦」なんてどうでもいいことなんだよ。
ようは、魏使の上陸地点が「福津市辺り」の砂浜だってことだけ。
そんな地名云々よりもっと明確な「福津市周辺」を排除する理由・根拠を示してほしい。  @阿波

696 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 12:48:10.35 .net
泡君は冗談を言ってるだけですから気にしないでください。

697 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 12:50:24.61 .net
きつい冗談でごめんね。  @阿波

698 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 17:57:48.15 .net
魏使が呼子付近に上陸した証拠。

@呼子付近じゃないと方角が合わないから呼子付近が魏使の上陸点である
それ以外の場所だと方角が合わない。

A倭人伝の書き方が
帯方郡の南の海岸〜狗邪韓国の南の海岸(7000里)
狗邪韓国の南の海岸〜對馬国の北の海岸(1000里)
對馬国の北の海岸〜對馬国の南の海岸(800里)
對馬国の南の海岸〜一大国の北の海岸(1000里)
一大国の北の海岸〜一大国の南の海岸(600里)
であるから次は
一大国の南の海岸〜末廬国の北の海岸(1000里)である。

B唐津に在ったとされる潟湖は現在存在しておらず松浦川の土砂の堆積により消失している、3世紀には土砂の堆積が始まっていて湖は浅く魏使の乗ってきた魏の外洋船は入港するのが困難であった。
(糸島水道も現在存在しておらず3世紀には浅くて魏の外洋船は入港するのが困難であった)

699 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 19:00:04.05 .net
>>684
日本の遣唐使船(邪馬台国より何百年後か分からんレベル)ならともかく、三国時代と言っても中国船はそれなりに大きいよ

700 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 19:02:27.72 .net
>>687
縄文時代は今より海岸線が内陸寄りだった時代
弥生時代や古墳時代は逆に、今より海岸線が沖合? 水深が浅かった時代

縄文時代に良港だった場所どころか、いま港に使える地形でさえも、弥生時代には港にならなかった可能性が高い

701 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 20:16:45.84 .net
邪馬台国の時代に対馬海峡を航行していたのは、倭人の船だと思うよ。

702 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 20:31:59.42 .net
倭人は倭人の舟で対馬海峡だろうが帯方郡までだろうが航海してたでしょうが
魏使は魏の船で日本まで来てたんですよ。

703 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 22:21:04.12 .net
末盧国の官名の記述がない=役人と会っていない=上陸していない

704 :日本@名無史さん:2018/04/27(金) 22:36:55.82 .net
>>703
>末盧国の官名の記述がない=役人と会っていない=上陸していない

それは、役人(一大率=筑紫忌部)は伊都国(出入国管理局)に居たから。
だから、末盧国に役人は居ない、居る必要が無い。  @阿波

705 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 09:19:09.73 .net
>>703
役人と会っていない≠上陸していない・・・ここがおかしい。
末盧国の役人の居る所を通らなかった
末盧国の中心ちは唐津ではなく伊万里だった!

伊万里の弥生時代のおもな遺跡
馬立場遺跡(東山代町東大久保)
大国遺跡(二里町大里)
橋本遺跡・西尾(にしお)遺跡(二里町大里)
土井頭遺跡(黒川町奥野)
小物成遺跡(大坪町白野)
午戻遺跡(大坪町六仙寺)

706 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 09:41:42.66 .net
>>705
>末盧国の中心ちは唐津ではなく伊万里だった!

で、魏使の上陸地はどこ? その四千戸の集落遺跡はどこ?  @阿波

707 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 11:25:13.79 .net
>>706
魏使の上陸地点は呼子付近で
四千戸は唐津や伊万里等を合計したもの
一大率は狗邪韓国、對馬国、一大国、末盧国にいたんだよ。

708 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 11:31:52.10 .net
「草木茂盛行不見前人」とわざわざ書かれるような所に上陸して
歩く、歩かせるなんてことは常識的に考えてないだろ

東松浦半島に寄った後、沿岸を行けるところまで行った所で上陸した
と考えるべき

さらに壱岐〜唐津では対馬〜壱岐の半分くらいしか距離がないのに
ともに千余里と書かれていることも注意すべき点だ

唐津からさらに沿岸を進んだ分がその距離の中に含まれていると考えるべき

709 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 11:37:29.07 .net
>>708
>歩く、歩かせるなんてことは常識的に考えてないだろ

常識ではないことがあったからわざわざ書いてあるわけで。
遠回りしてでも見せたくないものがあったのかもしれない。

710 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 12:01:27.42 .net
>>708
>「草木茂盛行不見前人」とわざわざ書かれるような所に上陸して
歩く、歩かせるなんてことは常識的に考えてないだろ


それは「八木山峠越え」のこと。

末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)

↓【東南】陸行500里  福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)

伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)   @阿波

711 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 15:00:48.63 .net
古代、、、縄文あたりまでは九州(主に南部)に倭国があったと考えるのが自然やわな。そして瀬戸内海ルートで愛媛へ、太平洋ルートで高知へ。
高知県の田村遺跡が興味深いな。
コピペ
縄文時代から近世にかけての遺跡です。縄文時代後期では九州との関連が深い鐘崎式土器が多く出土し、注目されています。
弥生時代では本格的に稲作を始めた初期のムラの様子が明らかとなりました。
中期には西日本でも屈指の大集落となり、大きな影響力を持っていました。
古代では官衙的な建物跡が検出され、荘園を管理する施設の可能性があります。
中世では守護代の居館である田村城館とその周辺には環濠を伴った屋敷地が検出され、土佐国を支配する拠点でした。

とか。阿波へはその後やろな。

712 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 15:15:29.39 .net
>>702
いや、阿波もすでに西日本最大級の縄文時代集落が存在している。
それは鮎喰川下流域集落群。  @阿波
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%CC%F0%CC%EE%B0%E4%C0%D7

713 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 18:21:41.65 .net
こういう縄文時代から続く複合大型集落遺跡が九州には無いんだよね。
唯一の吉野ケ里遺跡も、弥生時代で消滅しているし。  @阿波

714 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 18:48:15.13 .net
>>712
>こういう縄文時代から続く複合大型集落遺跡が九州には無いんだよね。

阿波はえらそうにする割りに勉強不足だから知らないだろうが、九州の
縄文時代の遺跡は平野部ではなく山中にあるものが多いんだ

そして、弥生時代になると低平地に集落を作るようになる

この辺が、案外、高天原から降りてきたという神話の元になっているのかもしれない

715 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 18:53:07.12 .net
>>714
>九州の縄文時代の遺跡は平野部ではなく山中にあるものが多いんだ
そして、弥生時代になると低平地に集落を作るようになる

縄文時代から続く複合大型集落遺跡が九州には無いんだよね。   @阿波

716 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 18:59:07.52 .net
吉野ヶ里遺跡とか縄文時代から弥生時代、律令時代まで続いてるし
博多とかは縄文時代から現代まで人が住んでいますよ。

717 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 19:05:40.63 .net
>>715
阿波は無知すぎる。

718 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 19:25:58.23 .net
>>716
>吉野ヶ里遺跡とか縄文時代から弥生時代、律令時代まで続いてるし

吉野ヶ里遺跡は縄文時代から弥生時代まで。 弥生時代で消滅している。  @阿波 

719 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 19:27:53.02 .net
>>716
>博多とかは縄文時代から現代まで人が住んでいますよ。

その博多の「縄文時代から続く複合大型集落遺跡」ってどこ?  @阿波

720 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 19:37:17.93 .net
>>719
>その博多の「縄文時代から続く複合大型集落遺跡」ってどこ?

最低、そういうものがないと、北部九州説なんて恥ずかしくて言えないだろうに。  @阿波

721 :日本@名無史さん:2018/04/28(土) 19:43:16.82 .net
博多の地下。

722 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:07:43.81 .net
>>721
>博多の地下

阿波が間違っているのは認めるけど
博多の地下は縄文海進で海に浸かってるからそれは無理

723 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:15:16.76 .net
>>722
>阿波が間違っているのは認めるけど

阿波のどこが間違ってるのか、指摘してみて。 そして、叩きのめしてみて。  @阿波 

724 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:46:34.17 .net
>>722
叩き殺してみて

725 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:49:44.91 .net
縄文弥生には大地震と巨大津波が何回か発生したらしいが。南海トラフなんかの被害で高知県から移動したのが阿波と違うの、時代的に。

九州南部から北部へ、高知県へ→阿波→瀬戸内海側の愛媛香川→畿内へ。
九州北部から出雲→山陰、山陽→畿内へ。
波紋が広がる様に、岸うつ波の様に人は次々と移動したんやろな。

其れも先行グループと後発グループ、が分裂と再開、再再々開を繰り返したんやろ。
ロマンやなあ。

726 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:53:23.77 .net
>>724
>叩き殺してみて

殺すことはご勘弁を。
あなたが何説か知らないが、阿波説以外は「其山有丹」で即刻排除される。  @阿波

727 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 06:53:51.95 .net
世界最古の前方後円墳は阿波にある

728 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 07:27:33.58 .net
朱を自給自足出来る阿波にあって萩原2号古墳だけ中国産の朱を使ってるんだな
魏志倭人伝の記録にあるような量じゃ古墳一つ分あるかないかだから
もらったヤツはここに使ったのかもしれない

729 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 09:51:14.95 .net
音の響きが全然違うじゃん。

ヤマタイとアワ。

クナコクとアワ、イヤ、トサ。

何か似てるか??

730 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 10:10:34.65 .net
>>729
阿波の事、何も知らないんだね。 
やまたい=やまと(倭)
旧阿波国は、北部の“粟国”と南部の“長国”に分かれていたが、大化改新(646)以降粟国として統一され、
和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命により“阿波国”と改称したという。
全国、広しと言えども
「倭」と明記された「物証」があるのは、唯一「阿波」だけなんですね。
当然、倭国でない、九州にも畿内にも有りません。  @阿波

731 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 10:56:53.61 .net
阿波にあるのは倭大国魂神社
奈良にあるのは大倭坐大国魂神社

732 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 11:19:20.49 .net
はぁ?

ヤマタイとアワ。

クナとナガ。

何か似てるか????


そろそろ頭の病院、刑務所に行く頃だろ。

733 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 11:23:42.14 .net
>>725
正解

734 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 11:32:39.78 .net
阿波が倭=元ヤマト
大和が神武東征後の新ヤマト

735 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 11:56:31.20 .net
>>734
>阿波が倭=元ヤマト

正解

>大和が神武東征後の新ヤマト

大和が白村江の戦・遷都以後の新ヤマト  @阿波

736 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 12:24:48.13 .net
阿波説の日本史年表ってどうなってるの?

737 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 13:27:54.52 .net
そこが阿波説の不備。

738 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 14:00:46.82 .net
>>736
>阿波説の日本史年表ってどうなってるの?

それは具体的にどういうもの?
他説の日本史年表ってものを見てみたい。  @阿波

739 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 14:06:23.41 .net
古代イスラエル人が渡阿波
伝説のアークを剣山に埋める

ここから

740 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 20:33:28.09 .net
>>727
阿波は間違い無く倭国の中心やった時代があったんやろね。
古墳や複合集合遺跡、丹生と麻が決め手やと思う。
魏志倭人伝に記載された時点に中心が何処とか余り興味無いし、其れより人の流れと其の目的が何やったかに興味あるねん。

伊邪那岐の国産みの「こをろこをろ」と矛立てて、とか渦潮とSEXを国産みの係言葉としか思えんしな。
そんな古くから栄えた九州に何時までも留まって無いと考える方が自然やろ。

741 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 07:45:28.62 .net
>>730
>「倭」と明記された「物証」があるのは、唯一「阿波」だけなんですね。

これが神社の鳥居の額とかだったら笑える

742 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 12:36:21.31 .net
神社の鳥居で古墳時代とか弥生時代ごろの遺物なんて実在するのかよ?

743 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 13:45:09.93 .net
鳥居の原型は、平原遺跡にそれらしき柱の跡がある。

744 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 13:50:39.84 .net
柱の穴みただけでファンシーな爺さんだな

745 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 13:59:43.51 .net
纏向みたいなもんだ

746 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 14:04:17.81 .net
なぜ?

九州説はいつも理由が言えない

747 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 15:08:22.01 .net
平原古墳郡は別格だね
発掘品からして格上感がある
 
どこかで読んだが遺体の足の方に柱跡があり
これが太陽信仰で柱の影が遺体の膣にはいり
太陽と合体した〜みたいな見解だった
その柱を遠くから見たら箸に見えていたのかも
箸墓かと思えたな

748 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 15:18:56.05 .net
後漢代、倭国乱以前に栄えてたとこの遺跡だね、ひらばるって。

749 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 15:27:58.28 .net
>>748
明らかに倭国乱中か、乱後だよ?
乱前はありえないな

750 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 16:13:38.91 .net
>>747
>平原古墳郡は別格だね

この一言で、平原遺跡の全景が分かっていないのが丸分かり
平原遺跡は、5つの周溝墓が確認されている弥生墳墓群で、古墳群ではない

そして、最大の1号墓で12メートル×8メートルという墳丘サイズ
残り4つはさらに小さい

1号墓以外めぼしい副葬品のあるものはない
伊都国王墓の地からも離れたところにある

おそらくは、伊都国王家に妃を出した伊都国有力家系の家族墓地
1号墓の被葬者は伊都国王妃くらいだろう

751 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 18:29:55.30 .net
>>740
正解

752 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 20:43:19.80 .net
>>750それでも女性が埋葬された中では別格な埋葬品でしょ?
全部割られた鏡から想像すると「甦り防止」もあったと思う 
甦り防止ってことは、祭司者か占い師だったかも知れない
鏡の大きさ日本最大級46センチも卑弥呼級の
人物しか持てない大きさだと思っている
じゃあ聞きたいけど自分の娘や親族をなぜ別の場所に埋葬するんだい?
しかも違う埋葬方法で?
 

753 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 21:37:16.44 .net
>>752
>女性が埋葬された中では別格な埋葬品でしょ?

丹波の大風呂南墳丘墓とか調べてごらん
鏡以外は平原より上だよ

結局、平原1号墓は立派な仿世鏡がたくさん出た、以上ではないんだよな

伊都国、奴国に青銅器の工房があったのは認めてよいだろう
伊都国の青銅器生産を担う一族から、伊都国王妃が出て、それをその一族の
家族墓地に葬った、というのが一番妥当だと思う

>じゃあ聞きたいけど自分の娘や親族をなぜ別の場所に埋葬するんだい?
>しかも違う埋葬方法で?

これは何との比較を意図してるんだい?
伊都国の鏡作りの一族が、その娘を葬ったと思っているんだが
本来の伊都国王家の一員じゃないと思ってるよ

754 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 22:08:14.63 .net
日本の国宝一覧

考古資料の部

弥生時代

* ▪ 金印(漢倭奴国王印) (福岡市博物館)
* 袈裟襷文銅鐸(両面在画像)2口、袈裟襷文銅鐸8口、銅鐸1口、流水文銅鐸3口、銅戈7口(神戸市灘区桜ヶ丘町出土)(神戸市立博物館)
* 福岡県平原方形周溝墓出土品 一括 (国(文化庁)所有、伊都国歴史博物館保管 弥生時代〜古墳時代)
* 袈裟襷文銅鐸〈伝讃岐国出土〉(東京国立博物館)
* 島根県荒神谷遺跡出土品 (国(文化庁)所有、島根県立古代出雲歴史博物館保管)
* 島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸 39口 (国(文化庁)所有、島根県立古代出雲歴史博物館保管)

755 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 08:20:31.63 .net
>>753
>伊都国の鏡作りの一族が、その娘を葬ったと思っているんだが
>本来の伊都国王家の一員じゃないと思ってるよ

アホだろ。
じゃあ、その鏡作りの一族の本家の墓は?
伊都国王家の他の墓は?
副葬品の格は王家の一員というよりも王そのものだろう。
卑弥呼であることを認めたくないから、根拠のない作り話ばかり。
これが畿内説の限界。

756 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 08:21:13.07 .net
>>754
出雲と筑紫の二強。
記紀の記載の通り。

757 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 09:14:57.82 .net
クモが出立する/した出雲、たくさん/いっぱい隔てる八重垣。
地名と言うより行動、行程の事じゃないの?

758 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 09:47:33.82 .net
>>755
>じゃあ、その鏡作りの一族の本家の墓は?

それが、平原遺跡の2号墓から5号墓だろ
伊都国内では有力家系で、家族墓地を持っていてもその程度なんだよ
その中で、1号墓の被葬者は伊都国王家に嫁いで、彦姫のヒメ王まで担当したから
がんばって、いっぱい副葬したんだよ

>伊都国王家の他の墓は?

基本的に、伊都国王家は三雲遺跡群の範囲内に墓を作っている
三雲南小路遺跡も井原鑓溝遺跡も、古墳時代に入ってからの
端山古墳、築山古墳も三雲遺跡群の中だ

三雲南小路から端山古墳の間の王墓は、検出されていないが
あるならば三雲遺跡群の範囲内である可能性が高い
実際に王墓と言えるものがなかった可能性もある

>副葬品の格は王家の一員というよりも王そのものだろう。

王といっても、「地域首長レベル」なんだよ
出雲や吉備、丹波の首長墓と比べて、突出した豪華さはないし
何よりも小さい
径百歩の墓というのから逃げ続けないといけない倭女王の墓と
いうのはむなしくならないか?

759 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 11:32:04.10 .net
倭国が筑紫プラスアルファくらいの範囲なら、ぴったりなわけで。
卑弥呼だけ伊都筑紫王家ではなく肥国王家から共立されたという立場なので、配置も問題ないな。
平原遺跡が卑弥呼の墓でなんの矛盾もない。

760 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 11:55:19.87 .net
>>759
>平原遺跡が卑弥呼の墓でなんの矛盾もない。

お粗末。 恥ずかしくないのかね?  @阿波

761 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 15:28:15.84 .net
>>759
>倭国が筑紫プラスアルファくらいの範囲なら、ぴったりなわけで。

九州説(伊都国説)の人って、倭国を小さく小さくしたがるよね

でもその前に、
・伊都国かどこかに着いた時点で邪馬台国到着みたいなこと言ってないとおかしくね?
 なんで奴国や投馬国から移動してからやっと邪馬台国に着いたみたいな書き方してんだ
・たとえば倭なら韓半島の南岸の時点でもう名前が出てくるぞ
・邪馬台国のことを女王の都だとはっきり書いてる魏志倭人伝を無視するの?

762 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 15:30:18.67 .net
伊都国は倭国の京

763 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 16:41:47.45 .net
>>762
>伊都国は倭国の京

言いたいのは 委国の都で伊都国ってことかな?

でも、それなら、伊都国に着いたところで邪馬台国到着ってことになってないとおかしくないか?
どうして奴国や投馬国から移動してからやっと邪馬台国に着いたみたいな書き方になっているのかな?
たとえば倭なら韓半島の南岸の時点でもう名前が出てきてる
邪馬台国のことを女王の都だとはっきり書いてる魏志倭人伝を無視するの?

764 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 16:46:08.83 .net
邪馬台国なんてないんだよ

765 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 17:58:52.69 .net
>>763
>でも、それなら、伊都国に着いたところで邪馬台国到着ってことになってないとおかしくないか?

やれやれ、やっと伊都に到着した。
ここが使いがいつも逗留するところだ。

そんな意識が伝わってくるだろう?

766 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 18:11:48.11 .net
>>765
>そんな意識が伝わってくるだろう?

来ねーよ!
どこの電波受信してるんだよ!

「どうして奴国や投馬国から移動してからやっと邪馬台国に着いたみたいな
 書き方になっているのかな?」

767 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 19:45:40.00 .net
>>763
これがその邪馬台国到着って文だよ
「世有王 皆統屬女王國」
意味は「魏の世に倭王がいた、倭の国々の王は皆、女王国(邪馬台国)に統属されていた。」だよ。
女王国(邪馬台国)の都が伊都国なんだよ。

768 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 20:04:23.45 .net
邪馬台国=連合国の考えは初めは受け入れ難いよね
しかし、日程記述の部分は別情報の可能性が指摘されており、それなら可能性はあり、と今は思う

可能性の一つとしてね

どちらにせよ、使者は伊都国から進んでる様子がないので、卑弥呼は伊都国の近くにいたと思うけど

769 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 20:07:08.70 .net
千戸しかいない伊都国に王がいて
二万戸もある奴国に王がいないってのはどうなのかな?
後漢時代に金印もらった時は確かに奴国に王がいたはず
「世有王 皆統屬女王國」
これはもともと奴国の説明だったのが錯簡で伊都国の後にきちゃっただけじゃないの?

770 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 20:11:55.22 .net
>>769
ニューヨークとワシントンD.C.を見れば、別に奴国と伊都国の人口比率など気にはならないよ。

771 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 20:15:35.79 .net
>>769
むしろ、伊都国側が、倭奴国を昔の奴国と錯覚させたのかもしれない。
前漢の頃は考古学的にも奴国に王墓があるのだが、後漢の頃はすでに王墓は伊都国側にあるんだよ。
金印も、伊都国の細石神社が江戸時代まで保管していたという噂だよ。
細石神社は金印をもらった頃に作られた三雲南小路遺跡の拝殿を兼ねていたと思われる。
漢委奴国王は伊都国にいたんだよ(多分)。

772 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 20:26:09.67 .net
>>769
後漢書に出てくるのは倭奴国であって奴国じゃない
魏志倭人伝の奴国ではない。

773 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 20:36:12.28 .net
>>769
>千戸しかいない伊都国に王がいて

伊都国は、魏略逸文では一万戸の大国となっている
「東南五百里 到伊都國 戸万余」

平野の規模的にいって、一万戸はきつそうとは思うけれど、
魏志倭人伝での重要視からいくと、一万戸でもありかなとも思う

774 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 20:38:12.03 .net
伊都国にいた一大率が北九州における権力の中心だから
奴国王も普段は伊都国に出張してたんだろ
だから伊都国王じゃなくて正確には「伊都国にいた奴国王」

>>772
そういう小学生レベルの言葉遊びはろくに漢文よんだことないからできるんだよ
漢文に親しんだことのないやつは表面の字づらだけで辻褄あわせようとする
漢文の語感も慣用もなにもしらないからな

775 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 20:38:38.03 .net
>>767
>これがその邪馬台国到着って文だよ
>「世有王 皆統屬女王國」

普通に読んで、そうは読めないだろ
自然な読み方ではない
何しろ、伊都国と邪馬台国が別の国名で別のところに書いてあるんだから
それを同一視するのは、まともな読み方ではないよ

どうして、そんなに伊都国を邪馬台国にしたがるのかが不思議
伊都国が邪馬台国だったら、邪馬台国の官がいるのに
なぜ一大率がいるのかとか、自然には説明がつかないことが多すぎ

伊都国説は邪説だと思う

776 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 20:52:23.71 .net
>>775
>伊都国が邪馬台国だったら、邪馬台国の官がいるのに
>なぜ一大率がいるのかとか、自然には説明がつかないことが多すぎ

都だからだよ。
東京だって、都知事もいれば総理大臣も官房長官もいる。
纒向なんて、魏志倭人伝に名前すら出てこないだろ。

777 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 20:54:19.73 .net
>>772
>>769
>後漢書に出てくるのは倭奴国であって奴国じゃない
>魏志倭人伝の奴国ではない。

そうそう。
倭奴国は伊都国だと思うね。
ただ、あえて誤解を誘導したか、誤解を放置したか。
よく言えば、掛詞や所縁のような感覚だったのかもしれない。

778 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 20:54:55.58 .net
「刺史の如し」っていってんだから地方官じゃないの?

779 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 20:57:19.93 .net
むりやりだなぁ
奴国と伊都国が別々にあるのに奴国が倭奴国じゃなくて伊都国が倭奴国だなんて
不自然すぎんだろw 誰がついてくんだよ

780 :日本@名無史さん:2018/05/01(火) 21:05:14.59 .net
>>779
日本人はそういう言い換えが文化だよ。
古典文学とか和歌とか、そんなのばかり。
そして考古学的に、奴国から伊都国に王権が移動しているのに、後漢書の記載はどつちともつかない倭奴国。
少なくとも倭奴国が奴国だという根拠がない。

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