2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

九州の古代史【邪馬台国畿内説前提】

1 :日本@名無史さん:2015/09/18(金) 21:00:14.38 .net
古代九州の話となると邪馬台国論争に終始してしまうので、個別に語れる場所はないかと。
畿内説への反論は畿内説スレにて、九州説を前提とした古代九州の話は九州説スレにてどうぞ。

76 :日本@名無史さん:2016/03/30(水) 07:28:58.36 .net
これだけ古地名が多くて畿内に後発の類似地名ばかりなのに、畿内ありきの
古代九州なんてあり得ないよ。
そもそも最初から日本の中心が畿内なら、なんでこんな辺縁を「九州」って
呼ぶのさ?

77 :日本@名無史さん:2016/03/30(水) 07:33:51.25 .net
おいいい加減にしろよ縄文時代は無人だった西日本のエベンキ渡来人

やっぱり縄文時代は無人だっただけあって朝鮮人そっくりだな

78 :日本@名無史さん:2016/03/30(水) 14:15:23.72 .net
>>73
縄文時代後期には東日本で重度の大飢饉があって多くの人が逃げて離散、
一部が西日本まで到達して住み着いてることが確認されてるわけで、
西日本で人が増えた原因を全部半島に求めるのは間違い

何百年もかけての人口大幅増加は技術面や環境面の改善による自然増の影響も大きいし。

79 :日本@名無史さん:2016/03/30(水) 14:45:12.89 .net
さすが縄文人のいない無人西日本人だねえ…

まさか西日本人なのにウリは縄文人ニダヨなんて思ってないよね??どもり真性底辺素人童貞さん

ほらYESかNOで早く答えろよ縄文人のいない西日本人さん

もちろんNOなんだけどわかってるよね??まさか縄文人のいない西日本でなりすましてないよね??

80 :日本@名無史さん:2016/04/08(金) 23:11:58.33 .net
▼武田鉄矢(福岡市博多区出身の俳優)
『大阪は他人に頼ってきたから主体性が無い』
▼ローラ(JR九州公式フォトグラファー)
『アニョハセヨは関西弁』
▼くまモン(熊本県営業部長)
『粉モンって、こんなモンかー』
▼埴原和郎(福岡県北九州市出身の人類学者)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人の平均から外れている』
▼中橋孝博(九州大学大学院教授)
『関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多い』

81 :日本@名無史さん:2016/04/08(金) 23:46:49.49 .net
縄文時代の西日本はほぼ無人ですから笑

火病状態で捏造しないでね弥生系西日本人さん

ほら

>全体の傾向として,縄文時代を通じて,人口は東日本に多く西日本に少ない.基本
>的に西日本での人口密度は東日本の1/10にも満たず,人口密度が東北地方と逆転す
>るのは弥生時代に入ってからである.
http://ofgs.aori.u-tokyo.ac.jp/kawahata/chishitsu_news_n669_p11-20.pdf

縄文時代の西日本はほとんど無人地帯だった
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%AF%86%E5%BA%A6.gif

82 :日本@名無史さん:2016/09/17(土) 03:20:40.27 .net
>>78
想定されているより稲作は早く始まっていて
稲作による人口増加が想定より早いってとこだろうな

古墳時代の始まりには九州にも近畿にも100万人近く住んでたんではないかな

83 :日本@名無史さん:2016/09/17(土) 09:59:44.73 ID:QHh0uwfEK
 紀元前の日本には、イスラエルから古代アメリカに移住しマヤ文明などを築いていた民がアメリカから渡来して移住しました。
 http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1054370710.html

 http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1059796599.html

 その後、紀元前に秦からユダヤ教徒の徐福たちが集団で西日本に渡来してました。
 http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1059998993.html

 邪馬台国の文字は、当時の中国人が付けた文字で発音でいえば「ヤマト国」です。
 「ヤ」はヘブル語の「ヤハウェ(エホバ)」の短縮形で、「マト」は「分家」の意味があります。
 したがって「ヤマト」とは「ヤハウェの民の分家」です。
 http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1060019603.html

 その後、紀元後の3世紀末、朝鮮半島を経由して、原始キリスト教徒集団が渡来しました。
 初代天皇陛下は、原始キリスト教徒集団の長です。
 http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1058536292.html

 日本人のルーツと神道、仏教の真実
 http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1025769358.html

 天照大神の正体
 http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1058533143.html

84 :日本@名無史さん:2016/09/17(土) 20:35:05.56 .net
人口が伸びやすい時期には五十年ほどの期間で倍増する

秀吉が全国統一してから江戸時代初期の半世紀ぐらいは人口激増期で、倍増以上。

この増加度が五百年続いたら人口は千倍に増える
まあ続くはずないけど

85 :日本@名無史さん:2016/09/18(日) 00:36:14.94 .net
弥生時代が先行すれば先行するほど弥生時代の人口が増え
人口論では何処でも比定できるようになるんだな

86 :日本@名無史さん:2016/09/18(日) 01:13:51.71 .net
そもそも邪馬台国畿内説を元にすると、九州の歴史が破綻する。
前提が間違っている。

87 :日本@名無史さん:2016/09/24(土) 01:44:54.09 .net
阿蘇の菊池氏なんて、常に歴史のわき役だが、
阿蘇山の火の神を守り続けた縄文人ではないだろうか?1万年ほど。

88 :日本@名無史さん:2016/09/27(火) 00:40:21.57 .net
紀元前500年頃、越に滅ぼされた呉が稲作を持って博多に来て、
その後稲作が九州全域に広がったと考えるのも有りではないだろうか?
上海から潮流に乗れば放っておいても九州に着く。

89 :日本@名無史さん:2016/09/27(火) 04:13:03.34 .net
呉の移民説は少し古い編年なら通用したけど、今はな

水田稲作の黎明期たる草創期弥生時代って紀元前千年ぐらいまでさかのぼるから、
呉の滅亡より古いんだよな

90 :日本@名無史さん:2016/09/28(水) 02:10:08.97 .net
>>89
ということは殷王朝が滅亡したころかなぁ?

91 :日本@名無史さん:2016/09/28(水) 02:23:22.95 .net
時代的には周初だろうけど、殷も周も稲作民の国じゃなかったしなあ

周が初期の勢力拡大時に近隣の稲作民の国を滅ぼしてたとかなら、
話はわからんではない
その辺は記録も曖昧だし、わからんよなあ

92 :日本@名無史さん:2016/09/28(水) 03:27:23.02 .net
山東から江南まで連なる九夷のうち周に従った国と逆らった国がある
九夷は稲作海洋民で長弓を使うから
周に逆らって滅ぼされた九夷のどれかと考えるのが自然だと思う

93 :日本@名無史さん:2016/09/28(水) 09:35:14.67 .net
九州の稲作開始時の道具が
縄文期のものを使ってるところと
新しい形式のものを使ってるものがあって面白い

94 :zarakoku:2017/01/26(木) 10:52:26.35 ID:/5ZFCH2dn
 九州の古代史【邪馬台国畿内説前提】
 という表題がそもそも異常。
 それは、始めから「南→東」の嘘つき騙しの大和説、という思想宗教的な「結論先にありき」の非学問的な表題なのであり、
 犯罪者的。

95 :zarakoku:2017/02/02(木) 09:57:38.30 ID:0cV4BC1/r
邪馬台国畿内説者への反論

>箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、<

 久住編年に拠って、箸墓は、那珂八幡の模倣追従であり、、
 田舎のご大尽に特有の「何でも大きく多ければ満足じゃ」的な墓であるに過ぎない。

>初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、<

 神武は、二中歴での「517−39−569×2=−660」の証言に拠って、
 神武即位は紀元前91年頃になるから、初代王墓ではあり得ない。

>被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある<

 記紀には、大和王の中の女性王としては、神功しか書かれていない。

>すなはち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる その死亡時期は3世紀中葉である<

 ならんよ。
 纏向遺跡は、庄内であるから285年以後であり、
 箸墓は、布留であるから、4世紀初頭以降である。

96 :日本@名無史さん:2017/02/04(土) 18:53:31.58 ID:EYgmXiE2V
>Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか <

 前方後円墳の始まりは、モンゴル〜高句麗方面であり、
 列島では、筑紫の(庄内期の)那珂八幡付近や、瀬戸内の「前・前方後円墳」が早く、
 それが大和のホケノなどの初期前方後円墳に伝わり、
 (布留の)箸墓は、久住編年に拠って、那珂八幡の後で那珂八幡を模したものであ、
 という事になっている。

97 :日本@名無史さん:2017/02/04(土) 19:12:28.79 ID:ckd7oK9vl
箸墓古墳の年代は布留式だから4世紀初頭以降?
そんなもので箸墓古墳の年代を決められるのかい?お前はどうやらド素人のようだな。
その布留式都やらは壕から出土した壷型土器のこじゃないのか?その遺物が箸墓古墳の築造年代を示すと思っているらしい(大笑)
お前は考古学の基本を勉強してからものを言え。お話しにならん。

98 :日本@名無史さん:2017/02/04(土) 19:25:16.56 ID:ckd7oK9vl
おまけに纏向遺跡が庄内式期だぁ?
お前、どこで拾い読みしてんだい?自分の頭と脚を使ってものを言え。
纏向遺跡に行ってみろ。あの広大な遺跡範囲とされてるうち、一体どれだけ発掘調査されてると思ってんだよ。
纏向遺跡の成立から終焉の変遷過程はどうなんだい?まさか、微々たる発掘調査資料のみで、単純時期だなんて言ってんじゃねえのかい?

お笑い草だ(大笑)

99 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 12:05:09.90 ID:94ae1UPbA
>>97
箸墓古墳の年代は布留式だから4世紀初頭以降?
そんなもので箸墓古墳の年代を決められるのかい?<

 久住編年に文句を言いな。

>お前はどうやらド素人のようだな。<

 そうだよ。素人オジンだよ。

>その布留式都やらは壕から出土した壷型土器のこじゃないのか?その遺物が箸墓古墳の築造年代を示すと思っているらしい(大笑)
お前は考古学の基本を勉強してからものを言え。お話しにならん。<

 久住編年では、箸墓は、
 那珂八幡の後であり、模倣であった筈だよ。

100 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 12:08:15.70 ID:94ae1UPbA
>>98
おまけに纏向遺跡が庄内式期だぁ?
お前、どこで拾い読みしてんだい?自分の頭と脚を使ってものを言え。
纏向遺跡に行ってみろ。あの広大な遺跡範囲とされてるうち、一体どれだけ発掘調査されてると思ってんだよ。
纏向遺跡の成立から終焉の変遷過程はどうなんだい?まさか、微々たる発掘調査資料のみで、単純時期だなんて言ってんじゃねえのかい?
お笑い草だ(大笑)<

 大型建築にあった抗から出土したのは庄内であった筈だよ。

101 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 21:59:45.09 ID:os6egpuc2
だろ?だから、君はアウト。残念だったな。

102 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 23:37:51.58 ID:OQDM9okTk
そうだよ。素人オジンだよ。→開き直ってる糞オヤジ。消えろ。

103 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 11:42:54.55 ID:qpKE4YY1v
>>>おまけに纏向遺跡が庄内式期だぁ?・・・<

>>大型建築にあった抗から出土したのは庄内であった筈だよ。<

>だろ?だから、君はアウト。残念だったな。<

 何だ?、「おまけに纏向遺跡が庄内式期だぁ?」とか言って私を誹謗したのは、お前ではないか?。
 纏向遺跡問題の焦点は大型建築物なんであり、
 それが庄内であれば、伽耶の(285年頃以後の)陶質土器と共存しているんだから、
 大型建築も285年頃以後になってしまうんだよ。

104 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 11:45:26.91 ID:qpKE4YY1v
>>そうだよ。(私は)素人オジンだよ。<

>→開き直ってる糞オヤジ。消えろ。<

 嫌だ。
 「南→東」の嘘つき騙しの大和説者が横行する事は、黙過し難い。

105 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 20:08:29.56 ID:qODbbvdfY
共存?共存関係のことか?一括遺物かよ(大爆笑)
オマエはそんなものをどうやって検証したんだぁ(大爆笑)
アタマ、大丈夫か?

106 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 20:18:14.46 ID:qODbbvdfY
一括性・共伴関係の問題、製作時と遺棄・廃棄時の問題、原史時代の歴年代比定・決定の問題などなど、メチャクチャだ(泣爆)

こんなアホが畿内・大和説をドヤ顔晒して一人前ぶっていやがる。
困ったもんだな(鼻笑)

素人さんよ(失笑)

107 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 20:19:29.21 ID:qODbbvdfY
×歴年代
○暦年代

108 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 20:43:19.36 ID:qODbbvdfY
面白そうな話しをしてるな。

109 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 20:49:21.20 ID:qODbbvdfY
こんな玄人ぶった素人畿内・大和説の馬鹿よりも、よっぽど北部九州での農耕受容期の道具の話しの方がおもしろい。
俺は愛媛大の下條先生の太型蛤刃石斧の縄文から弥生への変化に関する論考に興味がある。

110 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 21:10:12.79 ID:qODbbvdfY
北部九州に農耕文化が上陸し、弥生文化が成立。この新しい文化が日本列島を北上したことは間違いところだ。
ここに北部九州の先進性が始まった。
弥生時代も終末期ともなれば、大和盆地に初期畿内政権が誕生するが、北部九州の先進性、重要性は変わらない。
それどころか、古墳時代以降、律令制の時代に至ればなおさらに博多湾域の重要性は増す訳だ。
この先進性は姿形を変えて薩長土肥にまで続くことになる。言ってみれば、現在の自民党政権まで続いている。

この先進性ゆえに、邪馬台国九州説なるものが生まれた。そんなことはないのだが、あたかも邪馬台国時代の中枢が博多湾域にあったとの説が生じるほど、北部九州の先進性がある訳だ。
邪馬台国九州説は、言ってみれば幕末当時、我が国の政治の中枢が江戸にあったにもかかわらず、薩長土肥域に政治の中枢があったと主張しているようなものだ。
幕末の史料は多く残り、江戸幕府が江戸にあったことを我々は知っているから薩長土肥域に幕府があったなどと言うアホはいないだけだ。
文字による記録が皆無に近い原史時代にある邪馬台国だからこそ、解釈が別れ、九州所在論が提起されたまでのこと。
そのところを理解しなければ始まらない。

111 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 21:12:41.13 ID:qODbbvdfY
×間違いところだ。
○間違いないところだ。

112 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 21:25:02.64 ID:qODbbvdfY
それにしても、戦後に考古学が台頭し、歴史学の補助学と考えられてきた考古学が市民権を得たは良かったが、
高松塚以来のいわゆる考古学ブームは啓蒙を越えてインチキ・なりすまし・ナンチャッテ考古学者気取りが多くなり、基礎的方法論も知らないアホがドヤ顔晒して他人の編年研究をパクって偉そうにしている状況は、
いかがかと思う。これでは、考古学の弊害だ。まだインディー・ジョーンズの方がマシだ。

113 :日本@名無史さん:2017/02/08(水) 12:00:43.00 ID:s/TlUmaUE
>共存?共存関係のことか?一括遺物かよ(大爆笑)
オマエはそんなものをどうやって検証したんだぁ(大爆笑)
アタマ、大丈夫か?<

 久宝寺や那珂八幡付近での陶質土器と庄内の共存は、
 東北大の佐々木氏が紀要に書いているし、
 内倉氏が、筑紫での「陶器的土器と土師器の共存出土」が、
 実際に沢山あった、という事を紹介していた。

114 :日本@名無史さん:2017/02/08(水) 12:06:05.85 ID:s/TlUmaUE
>一括性・共伴関係の問題、製作時と遺棄・廃棄時の問題、原史時代の歴年代比定・決定の問題などなど、メチャクチャだ(泣爆)
こんなアホが畿内・大和説をドヤ顔晒して一人前ぶっていやがる。
困ったもんだな(鼻笑)素人さんよ(失笑)<

 久宝寺や那珂八幡付近での陶質土器と庄内の共存は、
 東北大の佐々木氏が紀要に書いているし、

 内倉氏が、筑紫での「陶器的土器と土師器の共存出土」が、
 実際に沢山あったが、
 通説大和説の考古学者が、それらは全て、洪水などで流されて来て溜まったから共存になった、
 という子供にもバレるようなウソ騙しの言い訳をしていた、
 という事を紹介していた。

115 :濱田清涼:2017/02/08(水) 19:51:54.95 ID:vjCU/avnt
ちょっと熱くなり過ぎてしまった。反省。

ともに歴史探求の同好の者同士であることに免じ、お許しください。
誹謗中傷をしたかったのではありません。いろいろな考えがあっていいし、それは善悪の問題でもない。これまで、あまりにもトンデモ系のご仁に呆れ果てたのでした。
同好の士同士が異なる意見を持つことは良いことだ。
誠に失礼してしまった。

116 :日本@名無史さん:2017/02/13(月) 22:11:45.69 ID:W7lQh2h2g
ばかに馬鹿と言ってもいいんでないの?

117 :日本@名無史さん:2017/03/30(木) 19:48:16.34 .net
「小学生より学力が足りないで賞」受賞

「テンプレの誤字も直した方が良いで賞」受賞
↓              
「まだわからないで賞」受賞

俺は悔しくて泣いた。

だが、ボキャ貧キウスの知らない単語な線もある。

「無教養露見で賞」受賞

❓❓❓
.      /テンプレ\ 誤字ったってキウスやサイキバみたいは
     /        \   単なるタッチミスもある
.   /      (゚) (゚)  \   ❓❓❓
   |        )●(    | キウスが笑い者なだけ❓
.   \       廿   / 誤字って何❓
.   ノ            \    ❓❓❓
👆「自分で発見しないと笑いもので賞」

118 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 10:43:56.80 .net
瀬戸内海が大河とかアホすぎ
水舐めればわかるわw
海洋民族の倭人が間違えるかよ馬鹿
これだから畿内説は

119 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 12:13:45.85 .net
九州島の古代史、邪馬台国の怪、
天照大神の高天原と卑弥呼の所都は、歴史の表裏一体だった!!

先代・岩戸隠れ天照大神、阿蘇・高千穂神社本殿裏手の「冢」に葬るも、後に隠蔽さる (魏志曰・卑弥呼) 

↓→ 月読命 (魏志曰・男弟)

↓← 思金神 (魏志曰・張 政) ← 高御産巣日神 (魏誌曰・帯方太守王頎)

↓→ 天児屋根命 (魏誌曰・難升米、神功紀曰・難斗米、ナートメイ) →中臣の祖 →藤原氏 →現代まで続く

後代・岩戸開け天照大神、阿蘇・天岩戸神社東本宮の山稜に葬る(魏誌曰・卑弥呼宗女の台与) 
(別名)=思金神の子、萬幡豊秋津師比命大神、伊勢神宮の内宮相殿に祀る (魏誌曰・卑弥呼宗女の台与) 
(其婿)=天照大神の養子、天之忍穂耳命 (魏誌曰・日向投馬国の官・彌彌) 

(其子一男) 天火明命(別名饒速日尊)、天孫邇邇芸命に先立って天降る →物部らの祖
(其子二男) 天孫邇邇芸命(日向・西都原に祀る)

120 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 14:03:07.20 .net
>>93
以前から粟作などをやってた集団なら農具を変える必要はないからな
農業やってなかった集団なら一から農具をそろえる必要がある

121 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 15:18:32.39 .net
>>118
川ではない琵琶湖・浜名湖などを「江」(もとは長江という川の名前から来た名詞)と呼んだ実例ならある

122 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 15:26:33.87 .net
で、アマテラスは九州のどこにいたん?
さっぱりわからん。
この時点で九州説自体が意味をなさない。

123 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 15:51:20.91 .net
>>122
それだと東遷説だろ

124 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 17:04:11.06 .net
倭人伝によれば倭国に馬はいなかった。
でも高天原に馬はいた。
つまりそういうことだ。

125 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 06:30:25.98 .net
崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。

つまり彼らは大王ではなかったのだ。

では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。

それがいるのだ。

@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト  生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト   生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト    生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ        生きてたアマ「トヨ」ツが女王

見事にヒメとトヨの時代。

そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。

邪馬台国とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。

これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home

126 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 18:42:52.26 .net
魏志倭人伝では、卑弥呼の朝貢使は「難升米(ナーショウメイ)」となっている。
これは「一升の米」を連想させる。
おそらく著者の陳寿は、倭国貴族の日常をいかにも貧しげに描写するため、面白半分におちょくったのではないか?

そこでチキショーメイと思ったのか、
日本書紀・神功紀39年の魏志引用では、ここは「難斗米」に書き換えられている。
本来の倭的発音では「難斗米」(ナートメイ、ナートミイ)が相応しかったからであろう。
従前のレスで、この難斗米は高天原神話の天児屋根命とカキコしたわけだが、
彼こそ「ナートミイ」、すなわち中臣(ナーカトミイ)の祖と睨んだからである。

8世紀の記紀の編者・著者たちも、魏誌に登場する国々や人物の正体を、しかと読みこなしていたに違いない。

127 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 20:05:49.64 .net
魏志倭人「伝」と東方見聞「録」、この「伝」と「録」の違いが妙に引っかかる。

128 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 20:18:46.03 .net
東方見聞録の原題は「La Description du Monde」
直訳すると「世界の記述」

129 :日本@名無史さん:2017/04/04(火) 00:36:09.20 .net
紀伝体の伝であり、列伝の伝な

130 :日本@名無史さん:2017/04/04(火) 06:38:49.28 .net
マルコポーロは、自ら見聞きしたものの記録
陳寿は、記録等からの伝聞

131 :日本@名無史さん:2017/04/07(金) 01:23:47.62 .net
>>125
崇神はその前とつながっていないから無駄な考察だよ。
天皇の諡号は、各王朝の始祖に神の文字が含まれている。
神武、崇神、応神は、新たな王統の始祖なんだよ。
だから、崇神から前に数えても無駄。

132 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 08:55:42.71 .net
継体は?
記紀編集当時最も近い始祖なのに、酷い名前w
実際には優秀な軍事力で長門までを領地にしたのにね。
墓も北摂だし、なんでこんなに冷遇されるのか。

もしかして、その後も始祖がいたのか?天武とか。

133 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 12:38:37.46 .net
継体という名前がつけられたのが記紀編纂よりあとのことだろ
当初はともかく奈良時代になると評価が下がってたのかもね

134 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 13:56:34.80 .net
>>132
天武が作った八色の姓の最高位の真人の多くが継体系だから
天武が継体を敬ったのは確実だよ

冷遇されたのは天武の血筋が絶えてからじゃない?

135 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 15:03:00.59 .net
改喪もできたのにね、奈良に。

136 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 09:35:41.72 .net
死ぬまで奈良入りしなかった説まであるし、完全に別王朝

跡継ぎがいないから依頼がきたと言っても、それも記紀の捏造かもしれない

記紀は信用しないと考古学者は言うが、ならばここまで疑うべきであろう
所詮は都合の良いところだけは常識に乗っかるいい加減な学問だわ

137 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 09:51:17.62 .net
考古学は学問じゃないよ
しょせん土方に毛が生えた程度

138 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 13:54:39.56 .net
記紀の編纂も天皇の諡号も、天武天皇の時代からだよ。
天武は天智とおそらく血縁がないのだが、そもそも天武の時代の資料で天武が始祖と書かれることはない。
継体は、先帝と10親等以上離れているが、一応血縁はあることになっている。
あと、継体は周りから担ぎ上げられて天皇になった点で、神と名付けるほどの威厳がなかった。

139 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 19:28:28.92 .net
政略結婚として地方の豪族に婿入りとかは、別におかしくはないんだよな
かなりの有力豪族だったと考えれば、大王血縁者の嫁入り婿入りは想定内

しかしそれは、血縁はあっても他家。大王家とは言えないよな。

140 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 19:34:12.23 .net
頭の良い人は気づいているよ

大王というのは大袈裟なんだよ、
大王と言うほどでもない

141 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 19:37:12.48 .net
神武というのが大王家なのか、
それとも嫁の家ほうが大王家なのか

嫁の家だと思う

142 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 22:39:43.04 .net
神武なんて余所から来ていきがってる町のヤンキーレベル

143 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 23:10:10.12 .net
>>138
知らないの?(藁

6代の後裔ってのは、中国では大昔から「限りなく嘘に近い系図」なんだよ。
劉備が子だくさんの景帝も玄孫と自称したのもそう。
記紀はやたら中国をお手本にしてるからこんなバレバレな事も一杯あるわけW
おほどの御子は長きにわたって摂津河内などを転戦したが、一貫してよく
わからないのが敵の実像。一体誰と戦っていたのか?隠蔽されているが、
それが故にかえってすけてしまっている。つまりは畿内大王勢力。
武烈天皇だって記紀以外ではどんな人物か知りようがない。勝てば官軍。
一族や主要豪族は存続したが、一つの王朝としては終焉したと俺あ思うね。
実は大王勢力は弱っていて、地方支配もままならなかった。筑紫の君が皇帝
かどうかなんて知らないけど、戦って長門までを手に入れたっていうのは、
畿内大王家の版図は縮小していた証拠。
古墳馬鹿には悪いが、無駄な古墳作りで住民の消耗や反乱を招いたんじゃ
ないか?継体以後墓も縮小していった。

144 :日本@名無史さん:2017/04/16(日) 10:23:47.87 .net
というか神武が本当に大王ならば、天皇という称号を創る必要もなかった。
大王ではなかったから天皇という称号を7世紀に創り、遡って神武を組み入れた。
だからハツクニシラスが2人いるわけだ。

なぜか分かるか?

記紀編纂者は卑弥呼が誰か分かってたから。
そしてこの時代を無理やりにでも男王にしないといけなかった。

卑弥呼がヒメタタラだと分かると遡って帥升がスサノオだと分ってしまう。
日本の歴史を後漢・安帝への土下座朝貢から始めるわけにはいかない。
だから卑弥呼の時代を男王にして、そして時代を思いっきり古くした。
その結果100歳を超える天皇がでてもかまわない、あくまでプライドを優先した。

145 :日本@名無史さん:2017/04/16(日) 18:25:10.96 .net
>日本の歴史を後漢・安帝への土下座朝貢から始めるわけにはいかない。

残念だな。この部分で台無し。
しかもアホ確定w

146 :日本@名無史さん:2017/04/24(月) 12:53:25.34 .net
乱立晒しあげ

147 :日本@名無史さん:2017/04/25(火) 20:33:24.24 .net
90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>89
狗邪韓國は何人の領土?

95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>91
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です



この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ

148 :日本@名無史さん:2017/04/27(木) 10:10:48.46 .net
1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い??

149 :日本@名無史さん:2017/05/09(火) 04:12:59.86 .net
国際博物館の日

ICOM(国際博物館会議)では、5月18日を「国際博物館の日」とし、博物館が社会に果たす役割について
広く市民にアピールしています。当協会では、賛助会員の方々から寄付を募り、より多くの皆さまに
博物館に親しんでもらうための活動に取り組んでいます。

なぜ5月18日なのか?

1977年にモスクワで開催されたICOMの第11回大会で、「国際博物館の日」を設ける決議が採択されました。
第11回大会は5月18日から29日まで開催されたことから、5月18日を「国際博物館の日」としたようです。


2017年の「国際博物館の日」について

ICOM(国際博物館会議)による2017年のテーマは
“Museums and Contested Histories : Saying the Unspeakable in Museums"
 「 歴史と向き合う博物館 ―博物館が語るものは 」です。

https://www.j-muse.or.jp/02program/projects.php?cat=8

★記念事業一覧★
https://www.j-muse.or.jp/02program/pdf/IMD2017list.4.27

150 :日本@名無史さん:2017/05/09(火) 13:05:39.62 .net
崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。

つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。

それがいるのだ。

@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト  生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト   生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト    生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ        生きてたアマ「トヨ」ツが女王

見事にヒメとトヨの時代。

そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。

これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home

151 :日本@名無史さん:2017/05/15(月) 13:47:37.25 .net
畿内説というワードをスレッドタイトルNGにしてほしい。

152 :日本@名無史さん:2017/05/15(月) 15:07:44.27 .net
>>147
どうみても、ただの通説だろ
どこが失言なの?

153 :日本@名無史さん:2017/05/15(月) 15:14:51.07 .net
右翼はそれが許せない

154 :日本@名無史さん:2017/05/15(月) 19:11:35.27 .net
当時の韓人と今の韓国人が別だという事がわかっていないんだよ

155 :日本@名無史さん:2017/05/28(日) 16:16:02.03 .net
近畿地方の集団は日本人としては非常に変わっており、
日本人全体の平均からは外れている
(埴原和郎=福岡県出身)

156 :日本@名無史さん:2017/07/26(水) 19:38:50.83.net
倭人が支配した新羅『新羅本紀』
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵
紀元前20年
瓠公という倭人、瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
諸王に仕えた重臣で。金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。
新羅の3王統の始祖の全てに関わり新羅を建国した倭人である。
初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠で同一人物。 
後に倭人の四代目新羅王、脱解尼師今が新羅に着いた時に瓠公の家を継いだ。
この瓠公の屋敷が歴代新羅王の王城である月城。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。
朴氏初代の朴赫居世朴氏=瓠公は倭人であり。
金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)説話では、
鶏の鳴き声を聞いたので瓠公が調べると、金色の小箱なかから小さな男の子が現れた。
金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)の起源は倭人であり倭人が支配した。

157 :日本@名無史さん:2017/07/26(水) 20:25:46.16.net
マルチするな。

158 :日本@名無史さん:2017/09/23(土) 12:17:39.04 .net
邪馬台国はヤマトですね
ご先祖様が土蜘蛛や蝦夷のひとはヤマトが嫌いなので反発しているのですよ

九州説の聖人である古田氏は親鸞聖人の研究者でもある
反権力的思考と九州説の相性が良いのでしょう

九州説は反権力ですから民進党支持者も多そうですね
代々木系もいらっしゃるでしょう
どちらにしても日本の主流派から外れた人達です

159 :日本@名無史さん:2017/09/23(土) 17:04:14.80 .net
皇国史観全盛時代だった戦前には、皇国史観の総本山たる東大の肝いりで邪馬台国九州説の推進をしてたんだけどな

当時は邪馬台国畿内説は権力との戦いの日々だったらしい

160 :日本@名無史さん:2018/01/30(火) 16:03:49.86 .net
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

2J8VS

161 :日本@名無史さん:2018/01/30(火) 22:47:32.60 .net
邪馬台国

162 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 22:06:05.36 .net
>>65でぐだぐだ言ってる人がいるけど、大陸に史書で「水行」という言葉が
川の移動に「水行」が使われているのはガンジス川とソンホン川の、今も河川交通に
使われている国際河川の大河二つだけだよ

あとはすべて海

川を移動するときには通常は「泝流」または「順流」の語を使う
九州島内のしょぼい小さな川を水行することはない

163 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 22:28:36.12 .net
>>162
例文をどうぞ

164 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 22:38:42.01 .net
>>163
新唐書のこんなのでいいかな?

又「泝流」五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北「泝流」二百里,至神州。又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都
丸都縣城:吉林省通化市集安市丸都山にあった高麗王都の故地
神州:吉林省臨江市西南葫芦套村の対岸(北朝鮮側)
どちらも、中国、北朝鮮国境の鴨緑江沿い
顯州:吉林省延辺朝鮮族自治州和龍
天寶中王所都は、天宝年間仁王が都を置いたの意味

旅程記事の「水行」は「陸行」とセットの概念で、ほぼ海に使われる
ガンジス川とソンホン川では例外的に川にも使われている
「陸行」とセットの川の移動は「泝流」

大陸史書の地理・旅程記事で「陸行」の語を使うことを「発案」したのは実は三國志が最初

「水行」の解釈は「陸行」とセットで考えると理解しやすい

165 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 22:54:09.93 .net
>>163
ついでにガンジス川の水行は梁書で
循海大灣中正西北入,歴灣邊數國,可一年餘到天竺江口,「逆水行」七千里乃至焉
天竺江がガンジス川

ソンホン川は新唐書
安南經交趾太平,百餘里至峯州。又經南田,百三十里至恩樓縣,乃「水行」四十里至忠城州
安南   ハノイ       Hà Nội
交趾太平 ハノイの北西部   Giao Chỉ Sơn Tây
峯州   越池        Việt Trì
南田   越池の西面
恩樓縣  富壽        Phú Thọ
忠城州  錦溪        Cẩm Khê

166 :日本@名無史さん:2018/03/07(水) 01:26:50.43 .net
水行で検索すると河っぽいのが一杯ひっかかるけどな

167 :日本@名無史さん:2018/03/07(水) 01:42:19.66 .net
>>166
以前よそで川の水行の有無で戦ったことがあって、史記から新唐書までの範囲の正史(二十四史)には川で「水行」とされているのはガンジス川とソンホン川しかないのは確認済みだよ

川の水が行く、という意味のものはあるけれど、正史の地理、旅程記事で、「川の水行」はガンジス川とソンホン川のみだよ

あと多分「罔水行舟」がたくさんヒットすると思うけれど
「如罔水行舟」は、「水なき(罔)を舟で行くが如し」で、「水」は「ない(罔)」の目的語、
舟で行くの「行」とは直接繋がってなくて、水行で検索かければ引っかかるけど、
水を行くって意味じゃない

168 :日本@名無史さん:2018/03/07(水) 08:23:48.86 .net
漢書地理志/金城郡
「河關,積石山在西南羌中。河水行塞外,東北入塞内,至章武入海,過郡十六,行九千四百里」

169 :日本@名無史さん:2018/03/07(水) 23:02:01.77 .net
それ、「水行」じゃなくて「河水」が行くって書いてるんじゃ……

あ、「河水」ってのは黄河のことな、今で言う○○川の意味で○○水って呼んでた時代の記述だから。

170 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 01:39:37.71 .net
>>140
>大王と言うほどでもない

臣の偉いのが大臣
連の偉いのが大連
そして
王の偉いのが大王

これだけのこと

171 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 01:50:33.40 .net
河關,積石山在西南羌中。河水行塞外,東北入塞内,至章武入海,過郡十六,行九千四百里

河關(黄河の始まり)は,積石山で(積石山は)羌中の西南に在り。河水(黄河)は塞外を行き(流れ),東北(に流れて)塞内に入り,章武に至り海に入る,郡を過ぎること十六,九千四百里を行く(の長さだ)

塞外は万里の長城の外、塞内は万里の長城の内側

172 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 06:37:08.07 .net
黄河が長城の外を流れてるんだ

173 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 06:50:40.41 .net
流れてますな

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Map_of_the_Great_Wall_of_China.jpg

174 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 07:15:37.32 .net
金城郡河關県の話だよね
黄河の始まりはもっと奥地じゃないかい

175 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 12:17:47.62 .net
>>174
>金城郡河關県の話だよね
>黄河の始まりはもっと奥地じゃないかい

事実としてはそうなんだけれど、当時の大陸の人の認識は、
伏流水が積石山のところで地上に流れ出して黄河が始まると思っていたという話だそうだ
積石山のところで黄河の源流がぐるりと向きを変えるので、その辺から
そういう認識(積石山が黄河の源流)になったともされる
河關県の河關も河(黄河)の始まりにちなんで付けられた地名

176 :日本@名無史さん:2018/03/10(土) 12:27:55.04 .net
そこにいくらツッコミ入れても、この文が「水行」の用例になることは無いんじゃ無いの?

総レス数 1025
323 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200