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会津プロパガンダ4
- 375 :日本@名無史さん:2016/04/13(水) 14:20:58.05 .net
- >>369
柴五郎が北京公使館の駐在武官として着任したのは義和団が北京に入る直前の明治33年3月
清朝の宣戦は6月21日で、それまでは義和団は清朝にとっても鎮圧の対象
義和団入城後は清朝が公使館の保護ができない状態に陥ったため救援到着までの間自衛に当たったに過ぎない
(別に彼が正式に列強公使館防衛の主将となったわけでもない)
また清の宣戦の経緯に絡んだのはイギリスで、当然ながら日本ではない
問題なのは派兵や講和の後の経緯だが当時は第2次山県有朋内閣、陸軍大臣桂太郎、参謀総長大山巌、派遣軍司令官は山口素臣
山県とか桂ってどこの人でしたっけ
なお第2次山県内閣って総理、外相、陸相の関連ポストを長州閥で占め
悪名高い現役武官制を導入した内閣で、山県も持論通り事変に際しては朝鮮半島利益確保を考えてたことが分かる
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