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会津プロパガンダ4

488 :日本@名無史さん:2016/04/15(金) 09:51:21.00 .net
閏4月11日 白石列藩会議
閏4月12日 九条総督、初めて嘆願書を受領、譲歩の姿勢を見せる
※会津藩と総督府の双方に対して、「奥羽列藩」が力を行使してでも恭順実現を図る
 つまり嘆願が受理されても会津藩が恭順を拒否する場合は強く受け入れを迫る
 この日は総督の柔軟姿勢が示されるが、反対する世良の存在が明確に意識される

閏4月17日 嘆願書却下 ← 仙台藩、軍事行動を事実上決定

〜 世 良 終 了 〜

なお世良もその後、譲歩を検討し始める ← 自分でもミスに気付く

また、
閏4月4日 米沢藩の外交官宮島誠一郎、政府参与(長州のトップ)の広沢真臣と接触、
     広沢、協議の難航を聞き米沢に恭順工作を任せるとともに、穏健な対処の意思を示す
閏4月10日 宮島、京を出発
閏4月19日 白石に向かうが、閏17日の世良の却下で会議は戦争を内決 
閏4月20日 宮島、白石会議に出席、「乳臭公卿」など相手にせず京の太政官と直接交渉しろと訴え激論

つまり
・会津藩の強硬姿勢
・奥羽総督府の強硬姿勢 1か月以上も恭順嘉納の意思表示をしなかった
・世良個人の強硬姿勢 これは閏4月12日以降にとくに顕著になった問題
・仙台米沢両藩が奥羽総督府以外の外交ルートを重視してなかったこと

このうち、どれを重視するかは人によりけり。まあ全部だろう。会津側にも当然問題はあった
ただ正直なところ、大総督府は奥羽鎮撫使を派遣した時点で戦争方針確定だったのでは?と思われる
だから現地はその方針に忠実に行動していたが、やがて現地情勢が予想と異なることに気づいたのか、
大総督府の方針に修正を加え始めたか、あるいは修正してもいいかどうか指示を仰ごうとしたのだろう
だけどそれが遅すぎる。3月23日に現地入りしてから閏4月12日の嘆願書受取まで2か月も経ってる

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