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会津プロパガンダ4
- 502 :日本@名無史さん:2016/04/15(金) 16:21:21.22 .net
- >>496
八幡和郎とか信じてる奴に何言っても無駄かなと思うけど、
奥羽総督府は現地入りしてから4月25日まで公式に恭順を受け入れる姿勢を示してない
4月25日は既に仲介に当たってた仙台も4月はじめに督促されて藩候が出馬し会津との戦闘に入ってるから、
会津から見たら仲介者がいなくなったことになる。
つまりここで手切れ。
よって督戦令が出た段階で会津は対話による安全保障に見切りをつけ、庄内との提携に動く
戦闘は閏4月つまり嘆願が出る直前まで続いてる、
つまり会津と仙台の協議が持たれてる間も戦闘状態は継続してる
これで仲介が纏まるほうが奇跡だよ。
それでも会津−仙台間は曖昧さを残しつつ具体的合意までこぎつけたが、
総督府は奥羽列藩が白石会議を開く段階になって、総督が嘆願書の受け取りに応じた段階になっても抵抗してる
となると世良しか異論を持つものがいないのだから殺されても当たり前。
徳川慶喜が退隠恭順を決めた時も、最初から寛永寺での謹慎方針が決まってたわけじゃない
江戸に帰ってから退隠恭順まで1か月ほどかかってるし、最初は武備待敵に近い状態だった
その間、太政官内部の穏健派(例えば福井藩)などと内々に交渉を持ってたから
また、退隠恭順に少し遅れて、西郷隆盛ら最強硬派が次第に融和姿勢を見せ始めてたため
(西郷は2月から3月にかけて大きく態度を変化させていることが分かる)
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