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会津プロパガンダ4

1 :日本@名無史さん:2016/01/23(土) 16:00:27.91 .net
妄想、脳内解決、挑発、悪口しかできない
会津プロパガンダ異常者の様を見よ!!
会津プロパガンダ異常者が会津プロパガンダを
肯定できない様を見よ!!

前スレ会津プロパガンダ3
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1437028989/l50?v=pc

544 :日本@名無史さん:2016/04/16(土) 10:30:24.46 .net
>>533
反論になっていない。

・お前がソースにしてるのはwikipediaだが、
・その脚注を見ると、出典は星亮一「奥羽越列藩同盟」32ページとある。
・その32ページには、「佐藤宮内」なる仙台藩士が「会津攻撃の中止が決まるや、白石に戻り」とある。
日付は記されていない。
・ところで、「会津攻撃の中止が決まる」のは、閏4月19日に仙台・米沢両藩主が解兵を総督府に通達してから。
・よって、同書の記述をソースにする限り、但木土佐が「暗殺を承認した」のは、閏4月19日以降でなくてはならない。

以上。閏4月14日の暗殺許可のソースはどこ?


なお、お前がソースにする星亮一「奥羽越列藩同盟」(1995)では、
著者の星は但木が「卿らそれを図れ」と述べたとする記述を採用しているが、
その後、彼は改説して、但木がこの時点で殺害を指示したという説は取らなくなる。

たとえば同じ著者の「仙台戊辰戦史」(2008)の「世良誅戮の議」では
「白石城に嘆願拒否の知らせが入った」あとで、佐藤宮内が但木土佐に「詰め寄った」が、
但木は「最後の断はわしが下す。早まるでない」と自重を求め、
佐藤宮内が望んだ「君公への拝謁」は許されていない、と言う事実を追加している。

※この時の佐藤宮内は「責任は全て自分にあり、藩に累を及ぼすことはない」と述べており、
要するに脱走(脱藩)して、仙台藩と無関係の立場で暗殺を謀る計画だったのは明白。
だから、仙台藩がそんな人間を藩主に拝謁させないのは当たり前。
そして「脱走」については17日に奥羽総督府に但木が自己申告し、警戒を求めているのは前述の通り。

545 :日本@名無史さん:2016/04/16(土) 10:35:52.79 .net
また、17日には前述の通り坂本大炊・遠藤久三郎の両名が、世良説得を願い出て許されているが、
著者はこれを重視したのか、「もう一度だけ世良に機会を与えてやれ」と但木が言ったとしている。
坂本大炊はこの後、白河で佐藤宮内の暗殺の動きを制止しているので、
やはり坂本らと世良の会談が行われた18日までに、但木土佐が暗殺を許可したと考えるのは無理がある。


なぜこんなに変わってるかと言えば、
・ネタ元の仙台戊辰戦史もしくは会津戊辰戦争史に書かれているどの部分を重視するか、
他の研究者の論考などを参考に変えてるため。
・但木はこの時期、主戦派の突き上げを受けつつ、穏健派にも配慮して避戦工作も行っており、、
両者が「但木の許可を得た」と主張するような事態が起きているため。
要するに藩内の主戦派の台頭が強く、但木1人の手に負えなくなっている。


と言うか、wikipediaの当該記述のソースが星亮一だったってほんと笑うんだが。
お前にとっては屈辱の引用じゃないの?
だって星は会津仙台側の郷土史家だよ。さんざんウソだとか叩いてたじゃん。

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