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会津プロパガンダ4

1 :日本@名無史さん:2016/01/23(土) 16:00:27.91 .net
妄想、脳内解決、挑発、悪口しかできない
会津プロパガンダ異常者の様を見よ!!
会津プロパガンダ異常者が会津プロパガンダを
肯定できない様を見よ!!

前スレ会津プロパガンダ3
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1437028989/l50?v=pc

548 :日本@名無史さん:2016/04/16(土) 11:26:09.77 .net
>>546
お前が答えるべきことは簡単だよ。
閏4月14日のソースを出し、閏4月17日〜18日の但木ら仙台藩首脳の行動について弁解し、
なおかつソースとした同じ著者がその後、但木関与説を否定してることをどう説明するか。
お前は恭順の条件を満たしてないじゃん。

549 :日本@名無史さん:2016/04/16(土) 11:27:13.74 .net
>>533
その余の主張についていちいち検討をくわえる。

>当たり前だそういう問題じゃないだろ、表向きはそういうやり取りになってんだからボールを投げられた責任は会津にあるだろ

だから>>527でも述べた通り、ボールはこの時期、大総督府側にある。
閏4月12日の時点で、九条道孝総督は嘆願書三通を持参した仙台・米沢両藩主に
「会津は削封と首謀者の処分を承知した」と説明されて、会津側の嘆願書にその旨の記載がないことを問いただしている。
つまりこの時点で総督は嘆願書を披見している。
これに対して仙台・米沢は、会津藩内で主戦派が強く、
不測の事態(強硬派が官軍を相手に戦闘を始めるなど)が起きないよう、
現在とりまとめ中であるなどと説明し、強く受理を求めている。
九条総督は当初難色を示していたが、結局受理に及び、
「問題は下参謀の世良である」と述べているから、結果に対する責任を転嫁したと考えてよい。

つまり閏17日までの時点で、もし却下がなされるとしたら世良の態度いかんであることは、
総督の九条道孝自身が認めている。
そして閏19日になると奥羽鎮撫総督府は、改めて嘆願の許可を要求し、同時に解兵を求めた仙米両藩に対して、
「嘆願の儀は京に聞いてみるので、兵はとりあえず引いてよい」と返答している。
これは閏17日の「天地入れざる罪人だから速やかに討ち入るように」と言う回答を完全に覆している。

要するに、閏17日の時点では、白河にいる世良が、白石会議の進展をよく知らなかったため、
「天地入れざる罪人だから速やかに討ち取れ」と言う機械的な返答の指示を与えて17日に発令されたものの、
肝心の奥羽総督府側はそれどころじゃないのがだんだんわかってきて
19日になると討ち入り命令を撤回し、京への取次を表明したものとみられる。
九条総督自身が、12日の嘆願に対して、翌日、副総督の沢為量に相談を持ち掛けてる。

19日の世良の大山宛書簡も、よく読むと「西郷の指示を仰ぐ」と言う一条が入っており、
彼もこの段階になると自分の一存では判断できないと考え始めたと思われる。

つまり会津側が書面で留保した条件に付いては、
列藩の強い要請があり、奥羽総督府自身も照会姿勢を示したため、決定的な要因になっていない。

550 :日本@名無史さん:2016/04/16(土) 12:01:43.10 .net
>>549

>閏4月12日の段階で会津が翻しかつそれを仙台が受理させたことを根拠に
>仙台がその辺から仲裁と同時進行的にすでに反官軍に動いているのでは?と言ってる
>この時点で仙台は会津説得を半ば諦めたと

閏4月12日に九条総督に提出されたのは、会津藩重臣の嘆願だけでなく、
仙台米沢両藩主の嘆願のほか、奥羽列藩重臣が加判した「副嘆願書」の二通が添えられている。
白石会議で列藩重臣がサインした嘆願では
「王政一新がなされたものであるから、干戈を動かさず人心の向背を汲むべきである。
会津一国のことと思わず、奥羽全体の問題と考えて寛典を願う。これは列藩の衆議である」
と注意書きされていて、要するに奥羽列藩も当事者だよと言う警告的な内容も含まれている。

そもそもお前は認識に誤りがあるようだが、交渉は15日頃から断続的に続いており、
仙台・米沢両藩(とくに仙台藩)は、なぜ戦闘に及んだのかと会津藩側から抗議を受けてる。
また梶原が返答した経緯も、たとえば佐々木「戊辰戦争」では
米沢藩に21日に回答がなされていると理解している。
この段階では米沢は開城についても妥協して回答を受け入れた形になってるから、
仙台米沢にとって会津藩の嘆願の内容は「予想外」ではない。
いずれにせよ「すぐ主戦派を取り鎮められない」と梶原は連日の協議で表明してるから、
両藩も内情を理解して仲介を引き受けたのは明確なのだが。


>宣戦布告は会津仙台側が先ということ(会津=閏4月12日(※1、※2)、仙台=閏4月14日)

誰がそんなこと言ってるんだ?白石会議が開催され、重臣が署名して嘆願が提出されるのは閏4月12日で、
それに対する却下回答が17日、それに対して「ぜひ受理してもらいたい。我々は解兵したい」と言う最後通告がなされ、
奥羽府は19日に「京に照会する。解兵を認める」と返答している。
もし「宣戦布告」があったとすれば、却下決定を受けての19日の仙米両藩の解兵申請の段階だろうね。
しかし、総督府はこれに対して許可を与えているため、宣戦と見なせるかは微妙なのだが。

551 :日本@名無史さん:2016/04/16(土) 12:08:21.77 .net
>>549
>仙台藩奉行・坂時秀は、宇都宮方面からの政府軍が、重要拠点と考えていた白河小峰城に入城する前にこれを奪うべきではないかと考え、会津藩家老・梶原平馬に書を送った。
>これを受けた会津藩は、世良が暗殺されたのと同日の閏4月20日、白河城を攻撃し奪取する(白河口の戦い)。

>>520のソースを見ると、その件は佐々木克「戊辰戦争」135〜136ページがソースであることが分かる。
そこで同書135〜136ページを見ると、
世良修蔵が閏4月16日に仙台藩士・高城左衛門を呼び、18日・19日に薩長土の兵が入城するため、
兵力配置の変更を指示したが、これが仙台藩から会津藩に漏れたとされている。
坂英力が梶原に白河城を奪取すべきではないかと書き送ったくだりは、この後。
仙台藩兵が白河城を出るのは閏19日になってから。
つまり坂が即日情報を入手したとしても、閏17日以降の出来事になる。

付け加えておくと、世良が閏4月9日に白河に転陣してから、
仙台藩内には世良が既に仙台藩に対しても戦争を決意し、援軍を要請しているという疑惑が根強くあり、
坂は官軍引き入れを警戒したものと思われる。
なぜ白河に在城している仙台藩兵がやらなかったかと言えば、まだ藩が却下決定を受けてどうするか考えてる段階で、
自分ではできないから。
解兵申請が出された19日には仙台藩兵は退城するから、
奥羽側にとって白河と言う重要な拠点に守備兵力がいなくなる。
それを見越して勧めたのだろ。
つまり仙台藩はこの段階では会津藩に忠告する立場にはあっても、戦闘を行う立場にはない。
これは二本松藩など、20日の会津藩の攻撃の段階で在城していた奥羽列藩も同様で、
公式に白河城攻撃に参加したことはない。
たとえば、二本松藩は会津藩の攻撃に対して戦意はなかったものの防戦し、
2人の戦死者を出していることも同書には記されている。

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