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会津プロパガンダ4

549 :日本@名無史さん:2016/04/16(土) 11:27:13.74 .net
>>533
その余の主張についていちいち検討をくわえる。

>当たり前だそういう問題じゃないだろ、表向きはそういうやり取りになってんだからボールを投げられた責任は会津にあるだろ

だから>>527でも述べた通り、ボールはこの時期、大総督府側にある。
閏4月12日の時点で、九条道孝総督は嘆願書三通を持参した仙台・米沢両藩主に
「会津は削封と首謀者の処分を承知した」と説明されて、会津側の嘆願書にその旨の記載がないことを問いただしている。
つまりこの時点で総督は嘆願書を披見している。
これに対して仙台・米沢は、会津藩内で主戦派が強く、
不測の事態(強硬派が官軍を相手に戦闘を始めるなど)が起きないよう、
現在とりまとめ中であるなどと説明し、強く受理を求めている。
九条総督は当初難色を示していたが、結局受理に及び、
「問題は下参謀の世良である」と述べているから、結果に対する責任を転嫁したと考えてよい。

つまり閏17日までの時点で、もし却下がなされるとしたら世良の態度いかんであることは、
総督の九条道孝自身が認めている。
そして閏19日になると奥羽鎮撫総督府は、改めて嘆願の許可を要求し、同時に解兵を求めた仙米両藩に対して、
「嘆願の儀は京に聞いてみるので、兵はとりあえず引いてよい」と返答している。
これは閏17日の「天地入れざる罪人だから速やかに討ち入るように」と言う回答を完全に覆している。

要するに、閏17日の時点では、白河にいる世良が、白石会議の進展をよく知らなかったため、
「天地入れざる罪人だから速やかに討ち取れ」と言う機械的な返答の指示を与えて17日に発令されたものの、
肝心の奥羽総督府側はそれどころじゃないのがだんだんわかってきて
19日になると討ち入り命令を撤回し、京への取次を表明したものとみられる。
九条総督自身が、12日の嘆願に対して、翌日、副総督の沢為量に相談を持ち掛けてる。

19日の世良の大山宛書簡も、よく読むと「西郷の指示を仰ぐ」と言う一条が入っており、
彼もこの段階になると自分の一存では判断できないと考え始めたと思われる。

つまり会津側が書面で留保した条件に付いては、
列藩の強い要請があり、奥羽総督府自身も照会姿勢を示したため、決定的な要因になっていない。

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