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会津プロパガンダ4

1 :日本@名無史さん:2016/01/23(土) 16:00:27.91 .net
妄想、脳内解決、挑発、悪口しかできない
会津プロパガンダ異常者の様を見よ!!
会津プロパガンダ異常者が会津プロパガンダを
肯定できない様を見よ!!

前スレ会津プロパガンダ3
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1437028989/l50?v=pc

718 :日本@名無史さん:2016/04/18(月) 15:46:47.37 .net
>>690
会津処分について西郷は嘆願の取次などで特段タッチしてないから庄内と違う
旧会津藩士が西南戦争に従軍したのは
警視庁に出仕した佐川官兵衛などを通じて警察官を募集したから
大減封のすえの廃藩で旧藩士は窮状がひどかったため応募に応じた
謹慎時4000人いた会津降伏人のごく一部

軍の山川浩中佐の場合も似たようなものだが、誘ってくれたのが熊鎮の谷干城司令長官だし
明治4年の米国留学団に朝敵諸藩の子弟が加わったのは北海道開拓使の黒田清隆の主張
便宜を図ってくれた谷も黒田も政府側なのだから反乱側につく理由がない

軍人や警察官が鎮圧に行くのは当たり前で、
西郷が配慮して警察官に取り立てた薩摩藩の郷士出身者ですら鎮圧に赴いてる

719 :日本@名無史さん:2016/04/18(月) 16:07:41.65 .net
>>660
閏4月12日〜14日に提出したのなら、
・なぜその後の九条総督や醍醐参謀、世良の書簡に「容保自身の書状」への言及が存在しないのか
・なぜ世良の大山宛書簡で、列藩の嘆願を受けて「大いに困り申し候」と弱気な姿勢を見せ、
 さらに京にお伺いを立てるとか世良自身が西郷に面会するなどの柔軟姿勢に転じてるのか説明がつかない
・閏4月13日、14日付の提出の書状の場合、12日提出分の三通と
・書簡に登場する「会津容保降伏恭順嘆願書」について世良は他の二通と同じように扱い、取り立てて問題にしていない
・12日付の三通では会津藩家老名の嘆願が提出されており、藩主の書状は当然それに優位するから、
 会津藩の恭順仲介の運動はその時点で立ち消えるはずだが、18日になっても坂本大炊らの世良への恭順受け入れ要請が行われており、
 世良もとくに反発はした様子はないどころか、翌日醍醐参謀との会合のために福島に向かっている
・13日以降に提出の場合、12日の三通からさらに遅れて提出されるはずだが、世良は15日以降の書状披見に言及していない

だから「日付前倒し説」には無理があるというのが自分の反論。もう何回も説明した。

なお「書状は届かなくても情報は世良に伝わってたのではないか」と言う推測については、
大山宛書状では列藩の12日の強請や18日の坂本との面談につき、情勢を詳しく説明している世良書簡にも、
「容保書状」は一切登場しない。


やはり15日付と書いてあるなら15日付と考えるしかなく、総督府がこれによって態度を変えた形跡がないから、
・閏4月のいつの時点で出されたのか、あるいは正式に総督府への回答と見なされたのかは分からない
・15日付で出された書状が実在した場合でも、12日の三通しか問題になっておらず、戦争までに総督府が入手していない
と考えるほかない。

で時系列を考えると、12日に九条総督が「問題は下参謀じゃ」と述べたため、障害は世良だけであると認識した列藩は
14日頃から嘆願却下の場合に備えた検討を始めており、かなり先行きを悲観的に見ていたことが分かる
会津藩は仙台藩の、特に主戦派を経由して情報を入手しているため、
白石、あるいは白河からの新情報を得て、12日提出の嘆願書を上書きした可能性はある

720 :日本@名無史さん:2016/04/18(月) 16:19:52.12 .net
>会津プロガンダ

>会津プロガダンタ

本当腐ったチョンだ!wwwwwwwwwwwwwwwwww

721 :日本@名無史さん:2016/04/18(月) 16:20:07.24 .net
×「容保書状」は一切登場しない。
○容保がこのような申立を行っていると言った記述は一切登場しない。

九条総督は12日の嘆願を受理してしまったし、その際に世良に責任を転嫁している手前、
白石に兵力が結集している状況で容保書状をかりに見ていたとしたら、
世良に相談せず却下命令を下すことは絶対にあり得ない(背信行為となり自分の身にも危険が及ぶため)

また「世良の激怒」を示す史料はない。
世良の仙台藩士に対する16日の指示では17日18日には薩長土の援兵が白河に入城すると思い込んでいたが、
実際にはこの増派軍は宇都宮で旧幕軍の抵抗にあい、身動きが取れない有様だった
宇都宮に集結している3800の兵が到着すれば仙台に頼らなくても会津討伐の見通しは立つ、
と考えた世良がいったん機械的に却下命令を与えたものの、その後、官軍の進撃の動きはないから、
判断を変えたと考えるほうがまだ素直。

事実、19日の大山宛書簡では「宇都宮も追々賊徒が蜂起して」と言う情報があり、
16日から18日までの時点で彼は増援軍が間に合わないことを察知したのは確実。

722 :日本@名無史さん:2016/04/18(月) 16:29:47.25 .net
なお書状を入手した仙台藩士が問題視したのは
「奥羽皆敵と見て逆劇の大策」と言う対奥羽戦争を示唆する文言があったためで、
事実、手紙の終盤には「数が足りない軍艦でも酒田沖に2〜3隻回し挟撃する」など
具体的な戦略が出てくる。

しかし、奥羽総督府下参謀程度で、外交に従事した経験もなく、長州藩内部の序列も高くない人間の具申で
江戸の鎮圧にも手を焼いている大総督府なり太政官が作戦を決めるとは考えづらく、
おそらくは強がり。もしくはかつて同じく強硬論者だった大山に対して上洛のエクスキューズを行っているもの。

723 :日本@名無史さん:2016/04/18(月) 16:48:39.32 .net
ちなみに大山は15日付で、仙台米沢両中将の拘束も含む強硬な主張を行っており、
世良の大山宛書簡はその返事だから「もうちょっと様子を見ようよ」と宥めてる文脈になる。
と言っても世良の上洛は事実上、庄内征討で苦戦する大山を見捨てる危険が大きいため
「酒田沖に二隻…」と言うフォローを行って、自分は決して逃げるわけじゃないよと弁解してるのだろう。

「弱国二藩は恐れるに足りず」にも続きがあり、「恐れるに足りない」けれども
会津と合流すると優勢になるから始末が難しく、なるたけ二藩は穏便にして謀略にかけよう」と続く。
その謀略の内容は「仙台米沢の嘆願書については…公然と人に見せ当分人気を静め」とあるが、
総督が受理した嘆願書を公然と掲示するというのは「総督府が認めた」と解釈されてしまうことになり後で問題になる。
何でこんな余計なこと書くのか分からない。

いくら内輪の手紙と言っても、書かなくてもいいことを書いて見栄を張ったから、
これは謀反じゃないかと言われて斬首されたわけで、さすがにこれは自業自得としか言いようがない。

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