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♪邪馬台国ドンと来い!♪131
- 1 :日本@名無史さん:2016/03/23(水) 19:51:48.47 .net
- ,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′
ノr┴-<」: :j| <ソースを書きなさい!
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) コツン
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_ '⌒ ☆
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ < ヤダヤダー!!
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
└-' ̄. | |_二二._」」__ノ
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪130 [転載禁止]©2ch.net・
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1437519074/
- 2 :日本@名無史さん:2016/03/25(金) 23:58:37.61 .net
- 後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身
耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に
4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる
自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか
- 3 :日本@名無史さん:2016/03/26(土) 02:17:37.06 .net
- いつ頃から大仙陵古墳なんて言い始めたんだ?
- 4 :日本@名無史さん:2016/03/27(日) 14:42:50.06 .net
- 畿内説には説明できない弱点が多いのですが、
その中でも以下の3点は決定的です。
・邪馬台国のライバル国である南の狗奴国の説明
・東の海を渡った所にさらに倭種の国
・邪馬台国に属する国は30ヶ国
畿内説邪馬台国は畿内から九州までを含む全域を支配しているのに、
そのような大国に対抗できるライバル国が存在するのでしょうか。
また、東の海を渡るとはどこの海を指しているのでしょうか。
さらに、伊都国、奴国、不弥国と現代の市町村レベルサイズで
既に5-6ヶ国の記載があるのに、西日本全体で30ヶ国を想定するのは無理です。
それが九州説であれば、狗奴国は熊本の事、
東の海を渡るとは当然、豊後水道でさらに倭種の国は四国、中国。
邪馬台国が福岡県サイズとすれば、30ヶ国の数は適正。(現代の自治体数)
全てが違和感なくすっきり説明できます。
何より、当時の中国人・日本人が東も南も分からない愚か者の集まり
とするならば、そのような質の低い当時の日本人が、すでに3世紀に
西日本全域を支配している国家を形成していたと信じる方が支離滅裂なことだと思います。
- 5 :日本海ルート論者:2016/03/28(月) 01:08:10.88 .net
- >>4
伊都常駐というだけのことです(笑)
- 6 :日本海ルート論者:2016/03/28(月) 01:47:23.97 .net
- まさか512kb超えするとわ(笑)。サッサと前スレ986の続き。
Googleマップなどで地形表示すると北京の北は山が壁のように連なってる。その山あいにいたのが山戎。
あくまで私論だが、彼らは山の北からも南からも圧迫されている。元々彼らが何処にいたかだが〜。
斉の辺りにいた連中が北京にいた連中を追い出していったのが燕だろうと思う。そして、反撃に慌てて斉に援軍を求めた。
それぐらいの規模と考えなければ、地形を無視して大遠征をさせ、琵琶型銅剣の連中を半島にまで追い出す無茶苦茶を想定することになる。
これはもう絶対にない。山あいを抜けた北を制するには遼東半島側から回り込まねばならんから(笑)
つまり。この前7世紀の伝説は案外正確で、華夏の婿を得た連中が加勢を頼み、北京(燕の都の薊)とそれを保持し得る安全領域までを得る。
要は。北は敵を山あいに押し込み更に築いた砦の外に追いやる。東は遼西回廊の入口にあたる左右が狭く砦を築きやすい孤竹國(秦皇島市)を手中にし城門とする。
すると商人たちはこの門の外で商売をするようになる。琵琶型銅剣の連中との合流点は地形的に遼東半島の付け根、遼西回廊の先の大凌河河口あたり。
伸びた国境の分、経済圏も広がる。そして経済が文化を仲介する。琵琶型が華夏に従うのは前300年頃ではないかと思う。
- 7 :日本海ルート論者:2016/03/28(月) 02:25:47.00 .net
- 山海經、海內北經23・24
蓋國在鉅燕南,倭北。倭屬燕。
朝鮮在列陽東,海北山南。列陽屬燕。
燕の極東は列陽。
その東に海と山に挟まれて朝鮮がある。
私論だと列陽は秦皇島市から東の何れかの川の北側の地。朝鮮は水の北側で山の南に当たる正しく陽の地。葫芦島市から大凌河あたり。
蓋國は実際に行ったことのない土地だが、斉国のある山東半島に船で流れ着くことができる土地。朝鮮半島では行き過ぎなので遼東半島だと思う。
燕の極東すら曖昧なのに燕の外縁國を含めた鉅燕が詳細な訳がない。当然この「倭」はこれまで通り倭國でなく倭人である。
倭人の居場所は曖昧だが鉅燕の南の蓋國より南に住んでいる。それでいて彼らは燕の土地まで移動して来て交易をすることがある。故に燕に属しているとなる。
- 8 :日本@名無史さん:2016/03/29(火) 11:18:33.00 .net
- それからそれから
- 9 :日本@名無史さん:2016/03/29(火) 18:10:48.45 .net
- >>http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1437519074/986
ここののリンク先のみてね
https://plus.google.com/105700467872108159773/posts/74kzxmdBjhp
- 10 :日本@名無史さん:2016/03/31(木) 00:26:28.68 .net
- >>4
妄想してないで倭人伝と基本文献読んでから書き込んだほうがいい
- 11 :日本@名無史さん:2016/03/31(木) 00:44:31.77 .net
- 477 名前:日本@名無史さん [sage] :2016/03/28(月) 23:34:32.77
卑弥呼の墓が前方後円墳ということはない。絶対にない。
まず、その墓は径100余歩とされており、円墳と考えられること、
次に、倭国の墓は棺はあっても、槨はないとされていること。
郭のない前方後円墳はあるだろうか。卑弥呼の墓は粗末なものなのである。
張政は卑弥呼の死後までおり、その後に書かれた魏志倭人伝には卑弥呼の墓の記述もあるが、
倭の墓には槨がないと述べており、卑弥呼の墓だけ特別とは考えられない。
>朱丹塗其身體如中國用粉也
顔に赤い粉を塗っていること。文脈から、これは男女を問わない。
顔が赤い者は畿内では猿扱い、すなわち非人とされているが(埴輪)、宮崎県、鹿児島県では違った。
徳島県の犬山天神古墳からは、顔の赤い女酋長が見つかっている。
魏志倭人伝によれば、邪馬台国の東の海の向こう、すなわち四国には倭種がいた。
同じような種族であり、それはやはり顔が赤く、墓には槨がなかった。
なお、犬山天神山古墳も、油津、串間市西方同様、海に突き出る土地だったことも見逃せない。
(埋め立て前の地図による)
隼人の墓は、目ぼしい円墳、特に台与がいた油津周辺の円墳が暴かれたため、邪馬台国の有力者たち
が止むを得ず掘ったものなのである。
その時代においても、顔に朱を塗る習慣は残っていた。
地下式横穴墓が多く出る地域に★を振った。
(西都原は無視して結構。油津と串間市は台与、卑弥呼の居処として★を振った。)
http://i.imgur.com/XXMRo4Q.jpg
また、東西南北は夏至の日の出を基準としているという有力な説があるとのことで、
この地図は、それに合わせてやや傾けてある。
地下式横穴墓が、邪馬台国の軍団のいた地域であり、明らかに都城付近を中心に、熊本を攻め、
油津から串間の海岸を守る配置になっている。
- 12 :日本海ルート論者:2016/04/03(日) 02:10:08.21 .net
- >>11
>顔に赤い粉を塗っていること。文脈から、これは男女を問わない。
>徳島県の犬山天神古墳からは、顔の赤い女酋長が見つかっている。
倭人伝2
倭地溫暖,冬夏食生菜,皆徒跣。有屋室,父母兄弟卧息異處,以朱丹塗其身體,如中國用粉也。
倭地は溫暖で、冬夏も生菜を食し,皆はだしで歩く。屋室が有り,父母兄弟は異なる所で卧息し,朱丹を以ってその身体を塗ること中國でおしろい(白粉)を用いるが如し。
【コレは良い論だと思うですよ】
原文には顔ではなく身体とありますが、一般的なおしろいの塗り方から言えば顔と採っても構わない。
また、これの前の文脈には男子、婦人など男女の別を分けた箇所がある。だから男女の別がない朱丹のくだりは「皆」が略されているように見える。
しかし、実際にはこれらは各々違う報告書からの引用であり、編纂者自身はこの朱丹の主が女性か皆か、その違いがわからないままに原文のまま残した筈である。
なぜなら上の文の要旨を略して書くと↓
「(中国と違って)倭地は温暖、(中国と違って)皆はだし。」
「(中国同様に)屋室が有り、(中国同様に)おしろいのように朱丹を塗る。」
つまり、文を見ると朱丹はむしろ「(中国同様に)女性だけが塗っている」と採る方が良い。しかし、もし編纂者がそう確信しているならば、
「(中国同様に)屋室が有り、【婦人は】(中国同様に)おしろいのように朱丹を塗る。」と婦人を加えて文を整え文意を補う筈である。
だが結果としてどちらにも取れるようになっているのは編纂者が筆者の違う複数の報告書の文意を読み切れず改ざんを恐れて原文のまま残した跡に相違ないとなるからだ。
これらから男女を問わないとしながら最終的に顔の赤い女酋長を主題にして、どちらにも対応させるこの論の流れは実に素晴らしいとか思う。
次なる論議は多分、死に際して顔を赤く塗る意味の有無となる。
それはつまり、神と一体となる役目を終えた後、かつての姫御子はどのような姿で埋められるのか?という問題である。
- 13 :日本海ルート論者:2016/04/03(日) 02:34:16.79 .net
- >>9
んと。>>7のこれ↓は悩みつつ書いてますが〜↓
>私論だと列陽は秦皇島市から東の何れかの川の北側の地。朝鮮は水の北側で山の南に当たる正しく陽の地。葫芦島市から大凌河あたり。
↑前300年前後あたりはこうではないかと(笑)
んで。前7世紀だと自分も朝陽あたりが朝鮮だったと思います。
地名がちと出来過ぎで罠かとビビる所ありますが(笑)
洛陽の由来同様に陽が川の北岸を指すなら朝水という川を想定することができる訳ですしね。
因みに2点。
@リンク先の数字は時系列とか何か規則性がありますか?
A分布は各々川沿いに住む居住者グループor文化圏が想定されますけど、伝播ルートは⑴川下→海岸沿いの水伝え、
あくまで先に居住者がいて次に伝播という感じの⑵近い所からの陸伝え、どちらだと思いますか?
個人的には⑵だと弁辰韓の雑居と似てて面白いんですが。
- 14 :日本海ルート論者:2016/04/03(日) 02:44:09.01 .net
- さて。
7のは相当面白いこと書いてるつもりなんだがスルーされてて結構寂しい(笑)))))
要は燕に属する倭人って、遼東から帯方界あたりに住んでたこと確実な海洋民てことですね。
だがまあ。ひとまず。
遼東支配の鉄則から、
秦人(しんひと)が何処へ行ったのか。
ボチボチと倭人伝に繋げていく。
- 15 :日本@名無史さん:2016/04/03(日) 07:15:11.60 .net
- 大和王朝
- 16 :日本@名無史さん:2016/04/03(日) 10:37:11.10 .net
- 天武天皇は、唐軍の干渉や筑紫大地震を避けて、大和朝廷を九州から畿内に遷都しました。
- 17 :日本海ルート論者:2016/07/25(月) 19:17:07.03 .net
- あっという間に夏(笑)
来週くらい続きを書けると良いんだが。
話まったく関係ないとこで。
高天原。
説話の形で元の場所も変わると思うけど。
伊邪那美のはありゃ三次(みよし)市あたりが元だね
- 18 :日本@名無史さん:2016/07/25(月) 19:53:47.94 .net
- W期の四隅突出の発生から三次をご指定ですか
- 19 :日本@名無史さん:2016/07/25(月) 20:47:05.30 .net
- >>17
「伊射奈美神社」も、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社です。
イザナミを神社名とする式内社は阿波国美馬郡の1社のみです。イザナギ神社にはイザナミも併せて祀られることも多かったと考えられますが、
あえて女神のイザナミを神社名とする伊射奈美神社は、特殊な意味をもつものかもしれません。
- 20 :日本@名無史さん:2016/07/25(月) 21:15:57.93 .net
- 四隅突出のルーツのとこね
http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/pic1207.htm
- 21 :日本@名無史さん:2016/07/26(火) 02:18:38.25 .net
- ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。
- 22 :日本@名無史さん:2016/07/26(火) 23:31:09.63 .net
- まとめると、倭人の起源は遼東の北で、みんな顔に朱を塗っていた。
扶余に近いイメージですねー(棒読み)。
- 23 :日本@名無史さん:2016/07/27(水) 01:10:43.59 .net
- 沿海州南部。
- 24 :日本@名無史さん:2016/07/27(水) 02:53:01.56 .net
- それは蝦夷の起源だよ
- 25 :日本海ルート論者:2016/08/01(月) 23:59:41.71 .net
- >>18 単純ですよん。ソースはひとまず省略〜
高天原をどう読むかは諸説ありますが、天を「あま」と読むことは古事記に記されてる。
また、倭人伝のみならず、隋書に記された倭人の風習にも海洋民としての性格が色濃く感じられる。
つまり、「天」は「あま」であり「海人」なのです。
そして、「高天原」は「貴き海人の住まう原」と同時に「海人の住まう高き原」です。
なぜなら、河川の下流に辿り着いた海洋民たちは本能的に防備の面から流域支配を欲して遡上し上流域に住処を求める。
特に初期の段階に於いては河川の流れを利用して一気に川下に攻め寄せることが可能な上流域を自分たちの手で確保することが必須であるから。
このことから河川の上流域は「海人の住まう高き原」と同時に「貴き海人の住まう原」となり、遂には「高天原」の元となる訳です。
つづく〜
- 26 :日本海ルート論者:2016/08/02(火) 00:19:44.05 .net
- つづき〜
さて。この論法。つまり「特に初期の段階に於いては遡上地ほど安全で、つまるところ海人の内、高貴な者が住まう地」という論法を例えば奈良盆地に当てはめてみると…
大和川の中流域にある生駒山地や葛城山地よりもより上流にある三輪山や佐保川の上流の春日山の方が「貴き海人の住処」に相応しい、ということになる。
しかし、これらの「山」は防備的後背地であったり信仰対象として山頂には人が入らない。すると「海人の高き住処」には相応しくなく、ましてや。
【そもそもこれら全ては山であって「原」ではない】
つまり、ものすごく簡単に言うと。
【「高天原」は「高地」なのです】
更に言えば、
【複数の川を遡上した先にある交通の要所で、結果として複数の有力者(後の神々)たちが交流を深めた高地】
これら諸条件を満たすのが三次市と、市内を流れる江ノ川(ごうのがわ)の存在。【ここ(三次市)が高天原の元】
江ノ川は@江津市で日本海に達しますが、それに加え、A出雲の斐伊川、B広島の太田川、C福山の芦田川と繋がっている。
http://www.cgr.mlit.go.jp/miyoshi/river/pdf/nandemojiten.pdf
そして、三次市で流域支配が確定したあと、更なる通商と支配の利便性を求めて権力の中心地は川下に降りてくる。その地が大出雲であり、ひいては妻木晩田へと繋がっていく訳です。
- 27 :日本@名無史さん:2016/08/04(木) 10:57:17.44 .net
- 昔は邪馬台国=日本だと思ってたけど、よく考えると市町村レベルの小国の一つに過ぎんな。
たまたま中国の史書に書かれてるから日本代表みたいになってるだけで。
- 28 :日本@名無史さん:2016/08/04(木) 20:56:26.14 .net
- 結局高天原は三次市でOK?
- 29 :日本@名無史さん:2016/08/04(木) 21:10:21.48 .net
- 高天原は海人[ama]の出発地だろうからして彌馬那=狗邪韓國のがいちおし。
- 30 :日本@名無史さん:2016/08/04(木) 23:42:04.11 .net
- >>27
金印もらってるんだから日本代表だぞ
- 31 :日本@名無史さん:2016/08/04(木) 23:55:32.35 .net
- 金印は邪馬台国の前の時代に別にあった、漢委奴国王のだろ
- 32 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 00:29:58.11 .net
- 親魏倭王印も金印だぞ
- 33 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 01:00:36.46 .net
- >>25
興味深い解説をありがとう。
あえて言わせて貰えば、畿内の勢力が川の上流にこだわった痕跡はあまりない。
しかし九州では、景行天皇の討伐した土蜘蛛がいちように川上にいたし、熊襲梟師の本拠地も肥前河上。
旧勢力はほとんどが九州のどこかの川の上流に陣取っていたことになる。
そもそも記紀の上代の記事はほとんどが九州が舞台だよ。
畿内に無理に当てはめてはいけない。
記紀の舞台が畿内に移るのは神武以降。
あと、原は国邑という意味。
ただし高天原は九州へも本州へも船で行き来していたから、海外のどこか。
対馬か狗邪韓国か。
- 34 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 02:36:54.96 .net
- >>31のは倭の国の中の奴国の王で、>>32倭の国の王だから、やはり邪馬台国の時から日本代表に昇格したのかね?
- 35 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 05:36:49.55 .net
- 九州=倭
筑紫王=漢委奴国王
肥国王=親魏倭王
肥前肥後=女王国連合
肥後=邪馬台国
肥前代官=一大率
- 36 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 07:20:32.43 .net
- 肥くせーんだよ
- 37 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 07:23:25.59 .net
- 卑弥呼=肥の巫女
- 38 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 07:25:15.73 .net
- 後世に肥の漢字が与えられたが
実態は日や火の国では?
- 39 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 08:42:20.39 .net
- ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。
- 40 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 12:45:11.47 .net
- >>33
>そもそも記紀の上代の記事はほとんどが九州が舞台だよ。
>畿内に無理に当てはめてはいけない。
そもそも記紀の上代の記事は、すべて四国の阿波が舞台だよ。
畿内や九州に無理に当てはめてはいけない。
- 41 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 18:30:52.84 .net
- 狗奴国が熊本なら、邪馬台国連合は肥後を含まない。
邪馬台国は筑後にある。
ただし壹與が肥前なので、倭国は筑前から筑後、肥前までは領土としており、ほどなく肥後も征服した。
豊国は戦うことなく併合した。
- 42 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 19:19:30.75 .net
- クナ国が熊曾なら、クナ国は人吉以南だな。
- 43 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 19:22:23.66 .net
- BC3C末、徐福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。
- 44 :日本海ルート論者:2016/08/05(金) 23:11:38.87 .net
- >>33
畿内勢力も初期には上流にこだわってる筈ですよ。
ただ彼らはその時代全く目立つことができなかった。
故にまず盆地の安定を図り、そのかなり後になってやっと成り上がった。
つまり、彼らがこだわったのはまず「上流」。
次に三輪・春日・葛城・生駒の山々、つまり盆地の「4つの入口」。
果てに成り上がる孝霊頃の宮は黒田庵戸宮(くろだいおとのみや)。唐子鍵のあるあたり。大和川のほとりの平たい地。ただ盆地の「中心」近く。
他の海人同様に、初期には防備面から上流にこだわり、後に通商と支配の利便性を求めて中心地が移動する筈です。
兎も角も。畿内に無理に当てはめた訳ではなく、【三次市ほど当てはまる場所が中々ない】ということです。
九州であれば巨大2川の遡上地として太宰府があるけども、そこは高地とは言えない訳で(まあ太宰府のこの立地に面白味があるのは無論ですが)。
- 45 :日本海ルート論者:2016/08/06(土) 01:08:13.43 .net
- 「国生み神話の高天原」を海外に求めるのは論理的だと思う。
なにせ国生みは大八洲の成り立ちしか説明しない。
話は天地開闢であるのに日本列島の成り立ちだけを描くのであるから、
国生みの前からある高天原は日本列島以外の海外と考えるのが自然である。
んだが〜。半島ばかりでなく沖縄などはどうか、と思ったりもする。
更に自分が思うのは、より根本的なところ。
つまり、天地開闢なのになぜ日本列島の成り立ちだけなのか?となる。
そこを展開すると、こりゃもう正に記紀はその成り立ちから既に極めて政治的だとしか言えない。
大八洲のみの天地開闢神話のメリットとは正に国土死守とおべっかと知識の間借り。
自分たちの天は世界の中心ではなく、自分たちは東夷と認めた証で、それにより華夏の人文地理科学を間借りできるメリットも得た。
- 46 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 01:26:24.00 .net
- 卑弥呼=神武天皇って有り得る?
- 47 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 19:07:07.98 .net
- >>46
貴方の説明次第で
- 48 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 22:31:57.22 .net
- >>38
そのとおり
「日」ではなくて「火」じゃないでしょうか?
火闌降命 天火明命 彦火火出見尊 など、
この頃の名前には火を吹く火山から付けられた名前が多いような気がします。
つまり、ヒミコは「火見女」または「火見子」でしょう。
- 49 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 23:15:18.77 .net
- 火明命や火火出見のほは稲穂の穂。
穂がたくさん出てめでたいな、という名前。
漢字だとわかりにくいが、音はほとひで全然違うから。
肥国は火山が多いので火。
卑弥呼は多分、日嗣の神子などと同じく日の意味かと。
- 50 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 23:18:50.96 .net
- 彦火火出見の彦は日嗣の御子。
番能邇邇芸は稲穂がたくさん出て賑やかだなあ。ただし、ニギまたはネギで王位を表す意味もあるらしいです。
魏志にあるネギ、ニニギの兄のニギハヤヒなど。
- 51 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 07:12:37.17 .net
- ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。
- 52 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 19:05:48.49 .net
- >>49
なるほど
でもそれなら、彦穂穂出見にすればよかったのに
なぜ音の違う火の字をあてたんでしょう?
- 53 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 19:40:51.06 .net
- 当て字としてなんとなくカッコよかった、厨二病。
- 54 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 22:43:17.11 .net
- BC3C末、徐福の一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。
- 55 :日本海ルート論者:2016/08/08(月) 00:27:57.26 .net
- 横だけど、
元々は日と火は同じ(燃え盛るもの)。漢字を使うようになった上代に使い分けるようになったと思う。
卑彌呼・卑狗と狗古智卑狗・卑彌弓呼の「卑」は同じ日&火。
- 56 :日本@名無史さん:2016/08/08(月) 23:27:52.45 .net
- 日は「ひ」だけど火は「ほ」だよ
本来は違う音だ
- 57 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 11:54:03.59 .net
- 「手」は「た」だべ。古代は
- 58 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 15:58:35.90 .net
- 火は穂だった。
- 59 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 21:34:55.55 .net
- >>56
肥前肥後は「ひぜんひご」だが、火の国「ひのくに」から来てると言われてる。
火が「ほ」なら、なぜ「ほぜんほご」にならなかったの?
- 60 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 21:39:46.53 .net
- >>58
火は火だった!
火は阿蘇山が吹きあげる炎
神武やその先祖は今の福岡南部〜熊本北部に住んでいた為、
火が入っている名前が多いのでは?
- 61 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 22:14:27.84 .net
- >>59
火の国(ほのくに)→火の国(ひのくに)→肥の国(ひのくに)
- 62 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 22:16:03.46 .net
- >>61
>火の国(ほのくに)→火の国(ひのくに)
これ、必然性が無いじゃんw
- 63 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 22:17:35.15 .net
- 必然性とかじゃなくて、時代とともに発音が変わったんだよ
- 64 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 22:25:22.36 .net
- >>63
ソースは?
- 65 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 23:32:42.19 .net
- 歯は、「pa→fa→ha]。 出歯は「デッパ」
>時代とともに発音が変わったんだよ
- 66 :日本@名無史さん:2016/08/10(水) 00:00:12.93 .net
- 火に関することで「ほ」と発音するものといえば
・ほのお(炎)
・ほてる(火照る)
なんかがあるな
- 67 :日本@名無史さん:2016/08/10(水) 00:16:54.06 .net
- ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。
- 68 :日本@名無史さん:2016/08/10(水) 13:23:06.79 .net
- ひとほが同じなどと言い始めたら、なんでもありになってしまう。
番能邇邇芸という名が五穀豊穣の名前として簡単に読めるのだから、無理に音を捻じ曲げて火と解釈する必要はない。
そもそも神武がいた筑紫高千穂は現在の福岡県高祖山であり、筑前国だ。肥国は関係ない。
- 69 :日本@名無史さん:2016/08/10(水) 15:43:33.90 .net
- ひとほが同じとか言ってるバカはひとりもいないがな
- 70 :日本@名無史さん:2016/08/10(水) 16:11:57.83 .net
- BC3C末、徐福一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。
- 71 :日本海ルート論者:2016/08/12(金) 00:50:05.80 .net
- 肥(ひ)の國は火(ひ)の國。
元々は肥の國と筑紫の國を合わせて火(ひ)の國。
そしてこの火(ひ)は卑狗(ひく)、狗古智卑狗(くこちひく)と同じヒ。
上代仮名遣いで、
火は(ひ乙類)と(ほ)の2種類の読み方がある。肥(ひ乙類)や穂(ほ)と同じ音。
日は(ひ甲類)の音。卑や比と同じ読み方。これらはヒコのヒでヒコが日子であることを示唆するかのようである。
因みに氷は(ひ甲類)である。
ひ甲乙の違いは似ているが違う音ということになる訳だが〜
氷(ひ甲類)ー異音ー火(ひ乙類)←氷と火が違う読みなのは納得できる。実際に同じ音だったら使いにくいことこの上ない。だからこそ。
氷(ひ甲類)ー同音ー日(ひ甲類)←氷と日が同じ音となる???
そもそも天(あめ)と海人(あめ)が同音なのには作為がある訳だが、
氷(ひ甲類)と日(ひ乙類)が同音なのにも作為があるんだろう。
これらは全て水で繋がってる作為という訳なんである。
- 72 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 12:04:20.38 .net
- 第二の青春を始めましょう!!
http://blogs.yahoo.co.jp/logdcabin
- 73 :日本@名無史さん:2016/08/31(水) 23:27:45.77 .net
- >>41
すべて完全に間違えている。基地外なのか?
- 74 :日本@名無史さん:2016/09/04(日) 14:33:56.28 .net
- >>73
どこがどう間違えている?
- 75 :日本@名無史さん:2016/09/04(日) 19:33:19.03 .net
- ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
- 76 :日本@名無史さん:2016/09/10(土) 06:35:40.43 .net
- >>65
>出歯は「デッパ」
いやいや、デッパという音に出歯という漢字を当てただけ。
音が先で文字は後、だから歯はパじゃないんだぜ
- 77 :日本@名無史さん:2016/09/10(土) 07:23:01.18 .net
- >>71
それって焼酎の話か?芋か?麦か?
- 78 :日本@名無史さん:2016/09/10(土) 08:28:00.21 .net
- 「デッパ」は「でふま」の転訛で、「デ」「ツ(ふ)」「ま」という音を
続けて発声するときに身体の構造上で止む無く発せられてしまう(pa)音
「デッパ」を(出歯)と漢字表記するのは「デッパ」と発する音の意味を漢字で表現した
結果で、後に出歯をデッパと表現するようになっただけの話
(出歯)はこの二文字がそろうことで初めて(歯)が「パ」と表記でき、単独では間違っても「pa」
という音にはならない
それが証拠に「デッパ」漢字を使って日本語表記すると(出っ歯)と三文字を一語句と使用し当てている。
歯の古代音が(pa)だなんてトンデモにも程がある
- 79 :日本@名無史さん:2016/09/10(土) 08:43:17.07 .net
- 先ほど>>78で「デッパ」は(でふま)の転訛と述べたが
(でふま)
「で」 =出
「ふ(つ)」=付く
「ま」 =間
高さの揃ったもの(歯)の間に出たもの(歯)が付いた状態。それを現代はデッパと称している
- 80 :日本@名無史さん:2016/09/10(土) 08:59:09.87 .net
- >>46
>卑弥呼=神武天皇って有り得る?
99%有り得ない
卑弥呼も神武天皇も共に漢語で、卑弥呼という言葉が用いられた時には既に「神武」も「天皇」も漢語として
存在していた。
それを同一人物として後世また別けて表現することなんてあり得ないし、それをする
理由もない
- 81 :日本@名無史さん:2016/09/10(土) 14:46:58.22 .net
- 神武=崇神説と崇神=卑弥呼説があるから
一応はあり得るのかもな
- 82 :日本@名無史さん:2016/09/10(土) 17:13:28.70 .net
- 注意 以下のスレ主は自分以外のスレ荒らすから
すでにこのスレもターゲットにされている
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1473345401/
- 83 :日本@名無史さん:2016/09/10(土) 22:34:34.26 .net
- 注意 以下のスレ主は自分以外のスレ荒らすから
すでにこのスレもターゲットにされている
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1473345401/
- 84 :日本@名無史さん:2016/09/11(日) 21:35:19.42 .net
- 日本海よ
そろそろまじめに日本海ルート論やれよ
- 85 :日本@名無史さん:2016/09/12(月) 08:26:05.39 .net
- >>84
日本海ルートなんて邪馬台国スレとは関係ないからスレ違いだろ
- 86 :日本海ルート論者:2016/09/17(土) 22:59:14.98 .net
- 持論展開も久々すぎだが(笑)
まあでも全く知らない人もいるだろうからね。
日本海ルート論の基本は、「交易ルートは1つじゃない」ってこと。
伊都國に常駐を止む無くされ、沿岸沿いに北東へ消えて行く邪馬壹國行きの船を博多湾から見守る魏使たちは、
船旅に絶対方位を使わぬ倭人たちから邪馬壹國までの旅程を聞き出す。
この時点で判明しているのは太陽と入り組んだ海岸線や山道を基準にした方位のみ。このような曖昧なものは無論なんの役にも立たない。
しかし、邪馬壹からの返使はなぜか博多湾の南から陸路で伊都國に戻って来た。聞けば伊都津から遠く眺めることのできる奴國を経由して来たと言う。
だから、「邪馬壹國は南にある。投馬國もまた南にある」という魏使の錯誤が生まれた。
畿内を船で目指すとき、日本海の潮流を利用して丹波まで進んだ方が早い。
投馬まで水行20日、邪馬壹まで水行10日と陸行1月とこれだけで2月。すると往復に最低4月。これでは日本海の荒れる冬場にかかる。
荒れる日本海を避ければ瀬戸内海ルートを使うのが一番早く、更に博多湾のある玄界灘をも避けて豊前から陸路で博多湾を目指すというルートが見えてくる。
- 87 :日本@名無史さん:2016/09/18(日) 11:38:29.54 .net
- それからそれから
- 88 :日本@名無史さん:2016/09/18(日) 12:04:24.17 .net
- 南は東の間違い
畿内説の定番
- 89 :日本海ルート論者:2016/09/19(月) 01:59:17.32 .net
- この時代はまだ沿岸航行のみで、渡海航行は確立していない。つまり水行日程が問題になってくる。
@魏使は伊都に留まっている。
A邪馬壹へ向かう使者は、博多湾から船で出発した(魏使はそれを見送っている)。
B邪馬壹からの使者は、博多湾の南から奴國を経由して陸路で戻って来た。
C投馬國経由邪馬壹行きの日程情報を倭人から得た。
D更に(奴國を除く)旁國20の情報も倭人から得た。
Eこれら女王連合の南に狗奴國があるという情報も得た。
→→→→→→→→→→→→
〜↑〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓
伊都〜(博多湾)〜〜 〜↓
〜〜〜〜〜〜〜〜 〜↓
奴國 不彌 〜↓
↑ 〜↓
旁國 投馬←↓
↑ 〜↓
←←←邪馬壹←←
狗奴國
「邪馬壹からの使者が南から来た」を論拠にして出した理論上の解なので、当然ながら邪馬壹だけでなく投馬國の方位まで南となる。
理論上の解である故にどれだけ東寄りかは問題にならず、ただ南とだけ記すことになる。
- 90 :日本@名無史さん:2016/09/21(水) 00:15:52.26 .net
- >>89
伊都国は小城市、奴国は佐賀市、不弥国は久留米市辺りではないの?
また投馬国5万戸、邪馬台国8万戸の人口を養うには、米作のための
広い平野がいる。有明海を南に水行して広い平野は熊本市の投馬国。
陸行に一月掛かるといえば、九州を横断した西都辺りが邪馬台国になる
のではないか?魏志倭人伝には、大雑把にそう書いているように思える。
- 91 :日本@名無史さん:2016/09/21(水) 00:22:08.21 .net
- ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
- 92 :日本海ルート論者:2016/09/22(木) 00:42:16.79 .net
- >>90
伊都有明海説は自分も好きな論です。
正直、書かれた内容に沿えば非常に論理的で強力な説だと思う。
更に、論理的に否定できないものを否定するのは非論理的だから、当然否定できない。
ただ、漢倭奴國(57年)から親魏倭國(邪馬壹國を含む女王連合)(238年)までに発展する通商連合体としての倭國を説明し切れるか。
更に、銅矛銅剣銅鐸などの分布や、高地性集落の傾向、そしてその衰退と巨大墓の進展などのダイナミックな時代のうねりの中にある。
こうした中で九州というコップの中に留まっていられるか。
勿論留まれる理由が提示できればソレで問題無し。しかしそれでも自分は日本海ルート論を採る。
なぜなら、日本海ルート論はこれらを説明できるからです。
- 93 :日本海ルート論者:2016/09/22(木) 16:38:12.66 .net
- 概論の続き。大雑把な比定地から。
對海國(千 戸)→対馬
一大國(三千家)→壱岐及び博多湾の領海権
末盧國(四千戸)→東松浦半島を含む肥前全域
伊都國(千 戸)→福岡県糸島市と志賀島
奴 國(二萬戸)→春日市と福岡市、大野城市
不彌國(千 家)→宇美町を含む福岡県糟屋郡全域
狗奴國(不 明)→筑後全域及び熊本県菊池市周辺
投馬國(五萬戸)→豊前宗像から山陰と兵庫県美方郡までの日本海沿岸
邪馬壹(七萬戸)→奈良&隣接4県(但し兵庫県美方郡を除く)及び淡路
旁 國(不 明)→瀬戸内海及び豊前、更に邪馬壹國に隣接、内包される諸國
- 94 :日本@名無史さん:2016/09/23(金) 00:56:30.06 .net
- 93は後漢の光武帝から漢倭奴国王印を貰った時代の伊都国で
魏志倭人伝の卑弥呼の時代まで200年経っている。
倭奴国(イト国)か奴国連合の中の伊都国かは分からないが、
漢も滅んで魏の時代になっている。
魏志倭人伝に書いているので、伊都国が小城市に在って何もおかしくない。
- 95 :日本海ルート論者:2016/09/24(土) 02:10:50.38 .net
- 自分が奴國を福岡平野に比定するのは金印の存在だけではありません。
まず日本海ルート論の考え方としては、
【倭國の最小単位は、対馬壱岐の渡海可能な海人國と、彼らに食糧を供給できる穀倉國の3國である】というのがあります。
更に自分の考えで言えば、この【最小構成の倭國】は、
秦が滅び更に漢が遼東の秦の旧領を破棄した際に行き場を失ったこの地にいた秦の地方官僚との混血を一部に持つ秦韓(辰韓)と、
前3世紀の昔から貿易をしています。
コレを仮に倭國にとってのファーストインパクトとするなら、次のセカンドインパクトはコレとは比較にならない。
秦韓との接触はなぜか漢人には見つからなかった。
しかし、王莽の頃になって見つかりそうになり、光武のときには完全に接触を果たす。
(ここ面白いので後で補足しますが)(ひとまず端的にまとめます)
大内乱を終えて数十年、名君光武の晩年という超本気右肩上がりの華夏帝国との初接触。
秦韓とは経済規模も文明も珍物や技術の質量もまるで比較にならない。その上で蛮夷扱いがあったにせよ、吉祥としての国賓待遇は間違いない。
だから、倭國が大きく変わっていくのはココから。
逆に言えばココまでは、最小構成に近い博多湾沿岸国家が倭國であっただろうと思う訳です。
無論、この漢倭奴國は漢との貿易で更に栄えますから、3世紀中頃の卑彌呼の時代で分裂してもなお現役として活躍する力を残している。
- 96 :日本@名無史さん:2016/09/24(土) 02:27:55.98 .net
- 福岡県(筑紫)というのは奇妙なことに玄界灘・博多湾から有明海まで
ヒョウタンのように続いている。
魏志倭人伝の有明海の奴国は、博多湾(漢倭奴国王)の分家ではないか?
博多の奴国は出雲国と一時的に連合して,宮崎の邪馬台国と対立していた。
- 97 :日本@名無史さん:2016/09/24(土) 10:32:33.33 .net
- 參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、
或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに五千里ばかりである。」
これが四国でなくてなんなんだよ
- 98 :日本@名無史さん:2016/09/24(土) 15:07:59.98 .net
- >>96
福岡の奴国と佐賀の奴国か。
折衷案だな。
でも、卑弥呼の時代の倭国の範囲としては適当だな。
- 99 :日本@名無史さん:2016/09/24(土) 16:43:48.78 .net
- 後漢鏡どころか前漢鏡ですら洛陽晋墓に副葬されている
つまり漢鏡の供給元の年代は
晋が成立する265年より以降まで下ることになる
そこから伝来する漢鏡の出土をもって年代を決めるのは慎重さが求められる
- 100 :日本@名無史さん:2016/09/24(土) 18:32:19.18 .net
- >>97
丹も橘もね。
- 101 :日本海ルート論者:2016/09/25(日) 11:05:22.83 .net
- 95の補足。
>秦韓との接触はなぜか漢人には見つからなかった。
>しかし、王莽の頃になって見つかりそうになり、光武のときには完全に接触を果たす。
「いまだ旧六國の復讐に怯え、故に漢人から身を隠した」そういう秦韓人側の理由があるとロマンがあってイイ。
無論そもそも「この頃には秦語を使っていなかった。秦語を用いる韓人は、古い漢籍を利用して秦人の後継を装った詐欺」かも知れない。
次、王莽。おばさんが皇太后にまでなったお陰で出世した王莽。東西南北からの吉祥を報告して、簒奪の下準備。
南→越裳氏が白雉を献じ、黃支國が三萬里の彼方から生きたサイを貢いで来た。
東→東夷王が大海を渡り國珍を奉じて来た。
北→匈奴の単于が二字名を捨てた(中国風の1字の名前にした)。
西→そして今、西域の良願たち等、羌族が内属を申し出て来た(今、漢には西海郡だけがないので新設しよう)。
見るからに東だけ雑。大海が何処だか、珍物が何だか、東夷王が誰だか。他のは別所に詳細が記されているのに東だけ詳細情報がない。
【故にこの東夷王の記事のみ、王莽のでっち上げと言われることが多い】
<<でもコレは事実だろう>>。むしろこの記事を載せた漢書が詳細情報を削除した可能性すらある。
そもそも漢書は初めて断代史を採用した史書。班固没(西暦92年)以降の成立だが、光武の漢倭奴國(西暦52年)のことなどは前漢の功績ではないのでワザと省いてある。
その上で同じ漢書の地理志にかの有名な文「樂浪海中に倭人あり,分かれて百余國を為し,歲時を以って(=定期的に)来たりて献見すと云う」がある訳だ。
前漢中頃に編纂された史記には倭人の記事はない。ならば前漢中頃〜末に倭人の献見があった。なのに「云う」と伝聞形式なのは何故か?
長くなったので続く。
- 102 :日本海ルート論者:2016/09/25(日) 12:22:58.90 .net
- 上の訂正。倭奴國は52年でなく57年で、師升の丁度50年前。
- 103 :日本@名無史さん:2016/09/25(日) 14:18:32.90 ID:J0gC0qMfd
- ☆★ 邪馬台国と神道解明!! ★☆
紀元前に秦からユダヤ教徒の徐福たちが集団で西日本に渡来してました。
http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1060051594.html
http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1059998993.html
最新科学による邪馬台国解明!!
http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1060019603.html
- 104 :日本海ルート論者:2016/09/25(日) 14:52:16.17 .net
- 101の続き
楽浪海中に倭人あり,分かれて百余國を為し,歳時を以って(=定期的に)来たりて献見す、と云う。(漢書地理志)
自分が重視するのは「献見」。見は「まみえる=会う」だが、この対象は楽浪郡官僚程度の低いものではなく最高位の皇帝となる筈だ。
そうなると「歳時」は「王朝が変わる毎に」程度の「定期的に」の意味となる。更に
@王莽が簒奪をする直前(西暦5年頃)、渡大海の東夷王が國珍を奉じて来た。(漢書王莽伝)
A建武中元二年(西暦57年)、倭奴國貢物を奉じて朝賀す。使人自称するに大夫、倭國の極南界なり(と言う)。(後漢書東夷伝)
つまり、古くは周の頃に越裳と倭人が来朝したが、@では越裳と渡大海の東夷王が来た。「今後も歳時に来朝して来る筈だと云う」程度の意味でAを予告するものだとわかる。
また、この場合、毎年来る忙しさはなく距離的にも近い必要が無く、百余國は文字通り楽浪海中にあり、全ての倭人は渡大海の先に住む人々となる。
こうして見るとAは@をはるかに凌駕する功績とわかる。つまり、「渡大海」→「(渡大海の先の)倭國の(更に)極南界」であり、「東夷王」→「倭人」と格上げされている。
但し「倭人」に関してはこうも考えられる。周の頃、倭人とセットにされた越裳は101で述べたように王莽の時にも来朝しており、更になぜか東の東夷王の記事だけ詳細を欠いている。
つまり、@の時点で渡大海の東夷王は倭人と名付けられていたが、Aの功績をより高める為に漢書編纂者が王莽伝でその詳細を省いた。
無論考え過ぎかも知れないが、脱線ついでに蛇足。
- 105 :日本@名無史さん:2016/09/25(日) 21:07:22.67 .net
- ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
- 106 :日本@名無史さん:2016/09/25(日) 21:24:20.94 .net
- 考えすぎに一票
- 107 :日本@名無史さん:2016/09/26(月) 02:42:45.55 .net
- 參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、
或いは絶え、或いは連なり、端から端までめぐるのに五千里ばかりである。」
「周旋」に、一周の意味はない。
「旋」のスタート地点と到着地点は別の場所
「周旋可五千餘里」は、対馬の北端から狗奴國の南限までが五千餘里であることを表している。
- 108 :日本@名無史さん:2016/09/26(月) 03:03:40.40 .net
- >>107の修正
「參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里」
「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、
或いは絶え、或いは連なり、端から端までめぐるのに五千里ばかりである。」
「周旋」に、一周の意味はない。
「旋」のスタート地点と到着地点は別の場所
「周旋可五千餘里」は、対馬の北端から奴國と不彌國の南限までが五千餘里であることを表している。
奴國と不彌國の南は有明海。
- 109 :日本@名無史さん:2016/09/28(水) 09:11:08.05 .net
- 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、
次有奴國、此女王境界所盡。
次に斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、
姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、
邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、
これが女王の領域内の全部である。
領域ですから、これらに囲まれた地を女王国と言っているのですよ。
- 110 :日本@名無史さん:2016/09/28(水) 09:28:00.12 .net
- >>108
狗耶韓国から邪馬台国まで巡り巡って5000余里って意味だと思うよ
倭地で通った距離を現してる
- 111 :日本@名無史さん:2016/09/30(金) 09:41:15.20 .net
- >>108
>>110
>「周旋可五千餘里」は、対馬の北端から奴國と不彌國の南限までが五千餘里であることを表している。
奴國と不彌國の南は有明海。
対馬の北端から不彌國までの道程:
=800餘里+1000餘里+600里+1000餘里+500里+100里=4000餘里
不彌國から狗奴國の南限までの倭地の道程:
=5000餘里−4000餘里=1000餘里
1000餘里は約80km(1000里=76.5km)であるから、
不彌國は吉野ヶ里遺跡であるとするならば、
その南80kmは熊本平野南端(緑川北岸)となる。
倭地の周旋5000餘里にある南限は、熊本平野南端(緑川北岸)になる。
- 112 :日本@名無史さん:2016/09/30(金) 13:50:53.30 .net
- 「周旋可五千餘里」は可が付いているので実際には行かないで倭人からの情報による推測である
従って「対馬の北端から奴國と不彌國の南限までが」や「倭地で通った距離」 などではあり得ない
奴国から不彌国へ、斯馬国、已百支国・・・烏奴国、奴国と巡るのが5000里くらいだと推測しているのである。
- 113 :日本@名無史さん:2016/09/30(金) 18:23:42.63 .net
- パラグラフ読みができていないところが痛い
「周旋可五千餘里」の可は脳内での演算結果であることを示す可だろ
「女王國東渡海千餘里」+「去女王(境界)四千餘里」=「五千餘里」たるべし
- 114 :日本@名無史さん:2016/09/30(金) 18:47:06.03 .net
- 本当のことがが知りたいね
ただそれだけ。
日本の原点に関わることだから。
卑弥呼が日本史上(神話を含む)の誰なのか
そして次の女王壹與とは誰に相当するのか
もし、それらが日本の歴史上の人物に該当しないなら
一気に興味は失せるけどね。
- 115 :日本海ルート論者:2016/09/30(金) 20:29:12.06 .net
- >>107
參問倭地は「倭地を訪ねるに、訪問するに」ぐらいの意味。
周旋は「ありこちを巡ってみると」ぐらいの意味。
ただし、
対馬から邪馬壹国を経て、【邪馬壹國から先の距離が唯一記録されている】東渡海1000余里先にある皆倭種の國までだよ。
ここは>>113のべしさんに同意見。
萬二千余里から狗邪韓國を経て対馬までの8000里を引くと邪馬壹國までが4000里となり、
邪馬壹國から東渡海1000余里の名称不明の皆倭種の國までを足せば丁度5000余國になる。
つまり、ここで言う倭地とは皆倭種の國を含めた倭人の住む地ということで、
本来は狗奴國を加えたいんだろうけど狗奴國までの距離が不明なのでこうしてあり、当然「可五千餘里」と「可」のついた理論値となっている。
ここらは「今使譯所通三十國。」と約30國などと曖昧にせず「情報があるのは30國(皆倭種を含むと丁度30國になる)」と言い切っている点と対照的。
- 116 :日本海ルート論者:2016/09/30(金) 20:49:04.78 .net
- >>109
対馬から邪馬壹國の行程8國を経て、その後の旁國20(奴國を除く)までが女王境界の尽くる所と書かれている。
さらに、その南に狗奴國がある。
日本海ルート論で示すと、
対馬
↓
壱岐
↙︎
末盧↘︎
(まつらう國) 糸島
↘︎
奴國→宇美→→妻木晩田→→豊岡
↑ ↓
↑ ↓
←←←旁國20←←←←←←邪馬壹
- 117 :日本@名無史さん:2016/09/30(金) 22:16:43.11 .net
- 對海國:方可四百餘里
一大國:方可三百 里
自女王國以北 其戸數道里可得略載
略載の用に供するためにわざわざ里を単位とした数値表記がとられている
「方可**里」の数値表記をあえて付録のように看做して加算してあげないのはいけないよ
素直に加算してあげるとなんかまずいんだろ
- 118 :日本@名無史さん:2016/09/30(金) 22:31:06.47 .net
- ----------------------------
從郡至倭
循海岸水行 歴韓國 乍南乍東
到其(倭の)北岸狗邪韓國 七千餘里 ←たるべしではない断定ね
| (狗邪韓國→女王國:可五千餘里:演算結果)
自郡至女王國萬二千餘里
----------------------------
この間長文を挟む
----------------------------
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國復在其東南 船行一年可至
參問倭地 絶在海中洲島之上或絶或連 周旋可五千餘里
----------------------------
2つの「可五千餘里」をごったにするのはいかがなものかとわ
- 119 :日本@名無史さん:2016/09/30(金) 22:43:18.49 .net
- 邪馬台国の周辺の国はみな九州北部。
1番目の斯馬国は嶋(志摩)、福岡県糸島市
5番目の彌奴国は嶺(三根)、佐賀県神埼郡三根村にある吉野ヶ里遺跡
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖の安永田遺跡(佐賀県鳥栖市柚比町)
16番目の邪馬国は八女の室岡・亀ノ甲遺跡(福岡県八女市)
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
- 120 :日本@名無史さん:2016/09/30(金) 22:44:56.15 .net
- >>114
多分、卑弥呼も壹與も記紀には出てこない。
似ているから、などという希薄な理由で違う人物をこじ付けて同一視するのは危険。
- 121 :日本海ルート論者:2016/09/30(金) 22:53:07.38 .net
- 帯方郡
↓
↓
↓
↓→→→狗邪韓國
↓
対馬(倭地のスタート地点)
↓
壱岐
↙︎
末盧國↘︎
(まつらう國) 糸島→→→→→→出雲(妻木晩田)→豊岡
(肥前) ↘︎ ↑ ↓
奴國→宇美 ↓
↑ ↓
↑ ↓
←←←←←←旁國20←←←邪馬壹→伊勢湾→皆倭種
狗奴國(筑後)
(まつろわぬ國)
狗古智國(肥後) △(火を噴く山)(阿蘇山)
- 122 :日本@名無史さん:2016/09/30(金) 22:54:46.49 .net
- 卑弥呼こと親魏倭王俾彌呼の別称
●大毘古命之女 御眞津比賣命(古事記)
●御間城姫(日本書紀)
●臣智人命(伊東氏大系図)
- 123 :日本海ルート論者:2016/10/01(土) 00:07:04.48 .net
- 日本海ルート論による【倭奴國】
@第1段階(漢が高句麗より強盛)(倭漢ルート成立)
倭奴國5万→→日本海ルート→→倭投馬5万
(あづま=東)
A第2段階(高句麗が漢より強盛)(倭漢ルート断絶)
倭奴國5万→→→(相攻伐)←←←倭投馬5万
B第3段階
倭奴國3万→→→(休 戦)←←←倭投馬
↓ ↖︎↗︎ ↖︎
(分 裂) 瀬戸内の自立
↑
狗奴國2万
- 124 :日本海ルート論者:2016/10/01(土) 00:42:48.35 .net
- C現段階
(北九州の制海権は一大卒が握る)
一大國 (投馬国は一大卒の運航を保証する代わりに越までの運航保証を得る)
↓ ↓←←←←←←←←←↑
伊都國→→→→→投馬國→→→豊岡 投馬國(越の國)
奴國(筑紫) (タヂマモリが常駐)
(貿易権無し)
↓
国境地帯(太宰府近辺)
↑
狗奴國(筑後)
- 125 :日本海ルート論者:2016/10/01(土) 21:46:31.65 .net
- ここらで一つ言っておこう。
【卑彌呼という存在が九州島のみに留められる筈がない。】
同様に、
【瀬戸内周辺にのみ封じ込められる筈もない。】
ただし、古い見識に基けばそれは止むを得ないことでもあったことは理解している。
記紀に描かれた出雲や越の輝きを肯定するものが見つからない時代が長くあった。
越の地がヒスイの産地であることが再発見されたのは昭和に入ってからであるし、
荒神谷遺跡も昭和、加茂岩倉は平成、
同じ平成の妻木晩田に至っては未だ発掘が続いている。つまり、
【昭和以前の見識に縛られている人たちには、日本海ルート論は全く理解できない。】
新しい事実に柔軟に対処できる人たちに期待する。
- 126 :日本@名無史さん:2016/10/01(土) 22:22:43.61 .net
- それからそれから
- 127 :日本@名無史さん:2016/10/01(土) 22:24:45.35 .net
- 流れが早くなったな
- 128 :日本@名無史さん:2016/10/01(土) 22:32:06.91 .net
- 半島の東岸もいちおう日本海だから
巨大な矛をしでかすYとかも仲間はずれにしないでね
- 129 :日本海ルート論者:2016/10/02(日) 17:35:40.47 .net
- 127 べしさん
濊伝1
作矛長三丈,或數人共持之,能步戰。
長さ3丈(1丈=242cm、3丈=7.26m)の矛を作り、或いは数人でこれを持ち、歩兵戦を得意とする。
この巨大な濊の矛が巨大な銅矛の原型でしょうねえ。
まあ倭人は更に「より金ピカに、より巨大に」進化させちゃうんですけど(笑)
- 130 :日本@名無史さん:2016/10/02(日) 20:09:26.21 .net
- ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
- 131 :日本海ルート論者:2016/10/02(日) 21:54:18.19 .net
- 【日本海ルート論による
倭國とは、華夏の歴史書に記された、華夏に認識された國のことである。
逆に言えば、華夏の歴史書に記される「以前」或いは「以外」の倭人の國が仮にあったとしてもそれは「倭國」とは呼ばれない。
こう考えていくと幾つかの論理的な解に行き着く。
@倭國を形成し得る最小構成は、渡海可能な海人を有す対馬・壱岐の2國と、この2國に直近で食料を供給し得る博多湾沿岸國の計3國である。
A半島には倭地にはない華夏文明由来の加工品があり、倭地には半島に存在しない珍物が多くある。これらを踏まえれば、倭國貿易は大きな利益を生み出す。
B利益を生み出す為に、倭國がすべきことは「縄文時代からある国内交易網を活用しつつ、博多湾経由の倭國貿易網を構築すること」となる。
Cまた、この過程で生じるものは、莫大な富を得る倭國と、海人移民地の増加である。
Dこれらは江東経由の文明輸入を否定しない。むしろ稲作を江東経由と見れば、文明活用の主体が在住縄文人にあったとすることができ、倭國貿易の主体も同様と言える。
E更に生じてくるものとして倭國そのものの拡大と分裂が課題となってくる。
- 132 :日本海ルート論者:2016/10/04(火) 20:20:33.23 .net
- 上のBCDEあたり、海人移民地やらの説明の前にザッとやっておく。
【日本海ルート論による銅鐸】
簡単に言うと「共同体で所有する依り代祭事に用いた祭器」であり、元は危急を共同体に知らせる鐘。
当然巨大化し見る銅鐸となっても元の鐘の機能が残されているのは、鐘を依り代にするという点に意味があるからである。
銅鐸が土中から発見される理由は共有物なので共同監視の元で土中に埋めたり掘り出したりした方が保管権で争うより公益となるから。
更に言えば、墓ではない土中に埋める点で自然崇拝とわかる。錆を剥がせば金色に輝く姿は復活と普遍性の象徴ともなっただろう。
(因みに北九州の銅矛を初めとする武器系銅器は墓に埋納されたりするので祖霊(英雄)信仰である)
さて。銅鐸埋納の中で異色なものとして、多量の銅鐸や武器系の銅器と一緒に埋納する「一括埋納」が挙げられる。
一括埋納の意味は「宗教と共同体の統合と憑依祭事への転換、祖霊信仰の開始」であり、その後は憑依祭事を司る強力な巫女の保護が首長層に求められて来る。
- 133 :日本@名無史さん:2016/10/04(火) 20:40:14.15 .net
- 銅鐸は祭祀文明の殷王朝由来のものだろう。出雲の素戔嗚神や諏訪の
建御名方神の諏訪大社には、鹿の首を祭壇に供える儀式がある。
殷王朝の軍隊が戦争の時銅鐸を叩きながら進軍すると、敵は怯えて
降参したという。殷王朝では敵国の捕虜の首を供えたものだが、日本
では人の代わりに鹿の首を供えている。
- 134 :日本@名無史さん:2016/10/05(水) 02:36:12.07 .net
- 銅鐸は要石の変わりとしてのレガリア
- 135 :日本@名無史さん:2016/10/05(水) 18:13:34.61 .net
- 殷王朝は10王族が淘汰されて最終的に1王家の独占になったから
政権争いに負けた残りの9氏族はどこか新天地で国を作ったのではないだろうかね
- 136 :日本@名無史さん:2016/10/07(金) 17:25:52.81 .net
- 西周と殷は、商時代の最後の2王権。
共通の文化を持った11王権の時代を商時代と言う。
支那では、黄河本流から離れた黄河支流にある西周を切り離して、
殷商時代と言う。
- 137 :日本@名無史さん:2016/10/07(金) 18:17:33.99 .net
- >>118
>到其(倭の)北岸狗邪韓國 七千餘里 ←たるべしではない断定ね
到其(乍東後航行している海)北岸狗邪韓國 七千餘里
乍東後、東へ航行している海の北岸が狗邪韓國
魏使は東向きに航行している船中におり、狗邪韓國には寄港していない。
- 138 :日本海ルート論者:2016/10/08(土) 01:08:06.69 .net
- 130のをザッと。
さて。倭地には珍物があり、渡海は対馬と壱岐の海人が独占している。当然倭國は大儲けする。
儲けがあれば生活は安定し、人口は増える。農地は広がり耕作人とその住居が増えていく。
しかし、増えた海人はどうするか。元々冒険心旺盛な海人は移民を開始するのである。
【まずこの時期の移民者の殆どが最小限の倭國の出身者である】
彼らは交易網を広げ、珍物の供給の安定という倭國の発展を口実にする一攫千金を狙う冒険家であり、倭地の各地に稲を拡散させた先駆者でもある。
母家社会である倭地では通い婚が普通だから、隣接する交易村とも婚姻関係を結び易く、移民が根付き易い社会構造でもあった。
だから、冒険者たちが空き地を望んで移民し、更に平和的に開拓しようと思えば、望むだけの早さと穏健さで現地の倭人たちとの合同が図れた。
事実弥生の初めはそのようにして進んでいく。
しかし、弥生中期、瀬戸内などに見られる高地性集落は、人が行き渡った次の時代となる、平和とは真逆の、奪い合いの象徴である。
古代最速の移動手段であり、夜襲も可能な船団を有す海人同士が海岸線を巡って争うとなった時に、防御側が高地性集落網を築いて面的防備力を飛躍的に高め死守した。
つまり北九州からの海人移民が西日本全体に行き渡り、その後も移民が繰り返される流れに限界が来て「もう敵わんわ」と中部瀬戸内民などが自立を図ったんである。
- 139 :日本海ルート論者:2016/10/10(月) 03:34:29.74 .net
- @出雲神庭荒神谷(銅剣358、銅鐸6、銅矛16)
A出雲加茂岩倉(銅鐸39)
B神戸市桜ヶ丘神岡(銅鐸14、銅戈7)
前述した通り、銅鐸は共同体の共有物であるため、一括埋納の意味は「もう銅鐸祭祀はしませんだ。今後の祭祀はお上(統合先のオサ)に委ねますだ」てことである。
Bの銅戈は大阪湾型と分類され、九州型とは別の分類となる。
その中間の瀬戸内に銅戈が出ていればイイんだが出ていない。今後見つかるかも知れないし、そうでなくても瀬戸内にも銅戈は有った筈である。
そうでなきゃ大阪湾の銅戈は空を飛んで来たことになる。時間で潮目が逆にもなる、潮待ち必須の瀬戸内でそりゃ無理な話だ(笑)
つまり。九州から瀬戸内に来た銅戈を見て、大阪湾の銅戈が作られ、その後で瀬戸内が自立して域内の銅戈を銅剣に作り変えた。という話が自然だろう。
時系列では、銅鐸の形式から見て@の後にA、Aの後にB、その後Cとして瀬戸内の自立があり、中部瀬戸内からBのインスパイア元の銅戈が一掃された。となる。
Cは瀬戸内の高地性集落の第1期であり、更にその後第2期の波が来る訳で、倭人伝にある倭國乱はこの第2期に当たる。するとCは、57年前後〜107年頃かも。
- 140 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 07:35:58.22 .net
- 長野市柳沢遺跡(銅鐸5、九州型銅戈、大阪湾銅戈7)
九州型と大阪湾型の銅戈が同時出土しているから
同じ人が使っていたことが確定
つまり
銅戈が出現する前に瀬戸内は統一されて
瀬戸内を通る海路が完成していた
- 141 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 07:40:03.55 .net
- 時系列としては
@瀬戸内侵入開始:銅鉾が瀬戸内海西部〜四国へ分布
A瀬戸内本格攻略:瀬戸内に高地性集落が並ぶ
B瀬戸内統一終了:瀬戸内海を横断する航路完成
- 142 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 07:41:50.78 .net
- 高地性集落の時代を経て瀬戸内海が統一されたと考えれば
九州と大阪湾という離れた場所に銅戈が分布することも
柳沢遺跡で九州型と大阪湾型が同時出土することも
説明できる
他の説明をしようとしても苦しいだけ
- 143 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 07:46:05.21 .net
- 九州型と大阪湾型を同じ勢力が使っていたと判明したことで
祭祀用青銅武器をどのように使っていたのかもわかった
九州勢力が大阪湾へ遠征する際の出陣式
九州型と大阪湾型の二本の銅戈を祭壇に並べて勝利祈念
↓
九州型銅戈を祖国九州の大地に埋納
↓
大阪湾型銅戈を軍船に安置して出陣、畿内攻略
↓
畿内領土を奪ったら、大阪湾型銅戈を新領土に埋納
- 144 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 07:50:10.60 .net
- 銅鉾を使っていたのも同じ九州勢力であるから
二本セットで勝利祈念していたことがわかる
北部九州にある祭祀用銅鉾や祭祀用銅戈の集積地は
それぞれの時代における遠征軍事基地があった場所なのだろう
九州外での銅鉾や銅戈の出土地点は
それぞれの時代における被征服地
九州外で銅鉾や銅戈が多く出土する場所は
土着の大勢力に対して
複数の九州部隊が共同上陸戦を行った激戦地跡
- 145 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 07:55:47.84 .net
- 同じ祭祀用青銅器だが
忘れ去られた銅鐸と異なり
銅鉾や銅戈は神社に大切に保管されているものが多い
銅鉾あるいは銅戈を二本セットで祭壇に並べた形が
鳥居の原型であろう
- 146 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 08:07:21.60 .net
- 北部九州の伊都大王を中心として集まる倭国部族のそれぞれが
銅鐸民を生口奴婢にするために競って遠征に出かけ
征服したら
銅鉾や銅戈を埋納して神社を立てて
ここは俺様の領土だぞ宣言
その帰結が
年貢徴発に伴う各地土器の北部九州への流入
北部九州からの土器持ち出し無し
- 147 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 08:28:33.98 .net
- 出雲国譲りで大国主は降伏したが
その息子の建御名方は降伏を良しとせず
天照大御神の派遣した建御雷神と力競べをしたが敗北し
諏訪湖まで敗走している
日本海沿岸に繁栄していた古代出雲王族の敗走経路
@出雲征服(神庭荒神谷、加茂岩倉)が銅鉾時代
A日本海経由で長野北部まで逃れたものの
そこにも追手(柳沢遺跡)銅戈時代
B長野南部の諏訪まで逃れた(諏訪大社)
建御雷神は伊都の名を持つ
文献でも考古学でも
北部九州勢力による征服過程が裏付けされたことになる
- 148 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 09:12:15.84 .net
- 銅鉾に比べると銅戈が用いられたのは短期間であったがために
銅戈の分布は非常に大きな情報を提供している
北部九州・大阪湾・長野にまたがる勢力が存在していた
北部九州倭国が瀬戸内海経由で大阪湾を攻略している時期に
長野にも攻め込むには日本海経由しかない
北部九州倭国は
能登半島を回り込んで富山新潟の日本海沿岸に到達していたことが確定した
- 149 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 09:45:01.65 .net
- 銅鉾が瀬戸内〜四国に広がっていく時代
↓
銅戈が大阪湾に上陸する時代(短期間)
↓
後世の国産み神話は鉾
神社も鉾祭りが多い
銅戈は北部九州倭国が大阪湾に上陸する時期に
軍事力を持っていた部族だったが増長し
伊都銅鉾族と対立して滅ぼされた(倭国大乱)
- 150 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 09:51:18.83 .net
- ここにも祭祀厨がいるのか、具体的に祭祀の内容を述べよ、わかったか
- 151 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 09:55:44.69 .net
- 北部九州の銅矛は何度も掘り出しては埋納されたものがある
強い部隊が何度も遠征成功させては帰還して
同じ銅矛で何度も出陣式をしたんだろうな
- 152 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 10:16:58.84 .net
- 銅戈が攻め込んだのが大阪湾沿岸と長野ということは
その前の時代の
銅鉾が征服したのは
瀬戸内海側は大阪湾の手前まで
日本海側は富山新潟沿岸部まで
ということになり
国産み神話の領域と合致する
- 153 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 11:36:33.41 .net
- 越の国の東端は新潟の弥彦までと昔から言われている。
ここまでが倭国の勢力範囲で、出羽からは律令時代も蝦夷との前線。
しかし、諏訪へのルートが富山からとは気がつかなかった。
- 154 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 11:47:55.70 .net
- 柳沢遺跡は野尻湖の近くだから新潟に入って
現在の上越市から関川沿いでしょうな
- 155 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 12:07:58.18 .net
- 糸魚川が上越市より富山側(倭国から見たら手前)だから
上越市から柳沢遺跡へ攻め込んだとなると
高志を追い払ってから柳沢遺跡に侵入したのか
あるいは
大国である出雲を高志と同盟して挟撃したのか
高志の高地性環濠集落が滅ぼされるのが3世紀前半から半ば
四隅突出墳丘墓の分布が富山まで
であることからは
後者の可能性が高そう
出雲を挟撃して滅ぼして
その次に高志をも滅ぼしたのかな
- 156 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 13:04:48.60 .net
- 建御名方は諏訪までフリーパスだったので、高志は出雲側または中立だったでは?
そもそも高志の中心地はどこなのでしょうか?
- 157 :日本海ルート論者:2016/10/10(月) 13:06:35.92 .net
- >>140
繰り返しますが、138の論旨は
「大阪湾まで通行できていたから大阪湾型銅戈が作られた。なのに、途中の瀬戸内ではなぜ銅戈が出ないのか?その後の瀬戸内の自立により銅戈が一掃されたからだろう」ですよ。
大阪湾型を作成するには九州型銅戈の存在を知らなければならない。似て「あえて」非なる物を作る、その独自性が重要です。銅鐸しかり、銅矛に似る銅剣しかり。
勿論、大阪湾型銅戈が作られたときに、瀬戸内の通行は可能だった。(勿論統一されている必要はありません。)
柳沢への海路も同様に通行可能だった。経路としては九州発山陰経由より大阪湾発若狭経由が面白そうだと思いますね。
- 158 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 15:51:16.35 .net
- >>157
畿内説を成り立たせるためだけの屁理屈だな
銅戈は埋納された状態で見つかることが多い
瀬戸内が自立して銅戈が一掃されたからといって
埋納された銅戈まで掘り出して全て処分することは不可能
よって
銅戈は最初から瀬戸内には存在しなかった
- 159 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 15:53:02.16 .net
- >>157
思考が穴だらけ
柳沢遺跡で同時出土したことを無視しているね
- 160 :日本海ルート論者:2016/10/10(月) 16:13:11.53 .net
- >>146
>銅鐸民を生口奴婢にするために競って遠征に出かけ
>征服したら
>銅鉾や銅戈を埋納して神社を立てて
>ここは俺様の領土だぞ宣言
出雲神庭荒神谷では、銅剣358が埋納されていた場所のすぐ近くに、銅鐸6、銅矛16が一緒に埋められていました。
要は埋めた側にとって、銅鐸と銅矛は一緒くた、同じ括り、同類、似たような価値ってことです。
銅剣は出雲式銅剣で出雲産。
銅鐸は出雲より東国、銅矛は出雲より西の九州でよく見つかる。
145の論法を参考にすると、
むしろ出雲に隣接する東の6村と西の16村を含めての統合。
荒神谷の一括埋納で大出雲の領域が確定したというように見えて来るような?
- 161 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 16:31:24.30 .net
- 銅鐸と銅矛の用途が全く異なると考えられます
銅鐸は普段は埋納しておいて
収穫期などに掘り起こして収穫祭に使い
また埋納
つまり
出雲が敗北したときに
出雲がもともと普段から銅鐸を埋納していた場所(神聖な場所)を暴かれて
征服された証として銅矛を埋め込まれた
現時点ではこう考えています
- 162 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 16:41:29.63 .net
- <銅鐸>
・平和用途
・保存のため普段は埋納しておいて、収穫祭の時だけ掘り出す
<祭祀用銅武器>
・侵略用途
・出陣時の倭国九州大地への勝利祈念埋納
・遠征時の新規獲得領土への勝利確定埋納
出雲系の銅鐸地域を
北部九州倭国系の銅矛銅戈が侵略していったと考えた場合
銅鐸と銅矛銅戈が同時出土する例は他にもちらほらありますが
これまでのところは
>>161と考えて矛盾しないかと
- 163 :日本海ルート論者:2016/10/10(月) 20:57:44.07 .net
- >>161
敗北した国の銅鐸を埋納地を探り当て暴いた挙句に、
征服した証として銅矛を一緒に埋める。
恨み骨髄と言うべきか、見せしめにも程があるというか。
銅鐸民族の強さと強烈な個性が浮き彫りにされているということでしょうか。
まあやられた側からすると、たまったもんじゃないですね。
ただ繰り返して言いますが。
荒神谷遺跡の銅鐸と銅矛は一緒に整然と並べられて埋納されています。
上に書いたようなドロドロとした想像とは真逆です。
この埋納状態一つで161のも全くリアリティがないとなってしまう訳ですね。
- 164 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 21:00:57.81 .net
- >>163
倭国が占領した時の銅鐸の埋納地については
基本はスルーでしょうね
ほとんどの出土銅鐸は放棄されています
出雲などは銅鐸の本拠地ですから
埋納場所に下手に施設などを建設して目をつけられたのでしょう
- 165 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 21:05:15.29 .net
- 銅鐸と銅剣が消滅しているので
出雲国は倭国に征服されたことは確実でしょう
その征服が
激しい戦いを経た普通の征服なら>>161が妥当でしょう
武装解除(銅剣×)と主権放棄(銅鐸×)
同じ倭人倭種同士の和睦であれば
両国代表の立ち合いのもとにお互いのシンボルを並べたということも
ありえなくはないですが
- 166 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 21:06:07.91 .net
- 日本海沿岸の弥生環濠集落の悲惨な戦乱跡を見ると
相当血生臭い時代であった可能性が高いかと思われます
- 167 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 21:09:32.36 .net
- 国譲り神話がある程度の事実を反映しているのであれば
敗北を予見した出雲国王が
大規模な首都決戦を回避して自ら降伏し
それによって銅鐸と銅矛が整然と並べられているのかもしれません
- 168 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 21:14:26.64 .net
- 【日韓】 韓国人観光客に対する差別は「対韓コンプレックス+成金のうぬぼれ」〜古人が倭と呼んで蔑視したのもむりはない[10/10]
(前略)
最近、韓国人客に提供するすしにワサビを過度に入れた大阪のすしチェーン店「市場ずし」の'ワサビテロ'が広く知られた。
続いて韓国人乗客に発給したバス切符に‘キム・チョン’と表記した大阪阪急バスも物議を醸した。
韓国人に対してこの様な差別行動をした人々は平凡な日本人たちだ。彼らがこの様な差別的行動をした動機は大きく二種類ある。
一つは日本人の間に広範囲に広まっている歴史的コンプレックスが誤った形で表現されている点だ。
二つめは彼らがちょっと良い暮らしをすることになるとすぐに隣国を見下す成金根性が底辺に敷かれているためといえる。
従って最近の事件は社会心理学的に対韓コンプレックス+成金の自惚れ、ということが一つに重なって現れた集団コンプレックス現象と見なければならない。
歴史的に隣国は日本を倭(ウェ)と呼んだ。ちびで浅はかな者たちが暮らす国と蔑視して呼んだ名前だ。ワサビテロと同じ正常ではない行為に接したら、
なぜ古人たちが彼らを倭と呼んだのか分かってあまりある。恐らく倭という名前はこれから千年過ぎてもなくならないようだ。
チェ・ジェワン主筆
http://www.etimes.net/Picture/2016/10/10/20161010_10823435.jpg
ソース:イータイムス(韓国語) 集団コンプレックス
http://www.etimes.net/service/etimes_2011/ShellView.asp?ArticleID=2016101010285800749
- 169 :日本海ルート論者:2016/10/10(月) 21:35:56.78 .net
- 162、163
荒神谷遺跡の銅鐸と銅矛の埋納状態については誤魔化していく方向ですかね?
あと、銅鐸の一括埋納で有名なものを挙げておきますが、
・淡路島南あわじ市(銅鐸7)
・出雲神庭荒神谷(銅剣358、銅鐸6、銅矛16)
・出雲加茂岩倉(銅鐸39)
・神戸市桜ヶ丘(銅鐸14、銅戈7)
・長野県中野市柳沢(銅鐸5、銅戈8)
・滋賀県野洲市大岩山(3地点で銅鐸24)
>出雲などは銅鐸の本拠地ですから
>埋納場所に下手に施設などを建設して目をつけられたのでしょう
出雲のは荒神谷と加茂岩倉の2つがあり、加茂岩倉のは銅鐸だけです。加茂岩倉の銅鐸39はスルーとなる訳で、矛盾だらけ穴だらけのようですね。
因みに記紀を使うなら九州の宗像までは親出雲圏と言えてしまいますよ。その点は大丈夫ですか?
- 170 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 22:00:30.08 .net
- >>169
銅鐸の一括埋納は外部勢力の影響を受けない普通の埋納だから
そのリストの中で考えるべきは
・出雲神庭荒神谷(銅剣358、銅鐸6、銅矛16)
・出雲加茂岩倉(銅鐸39)
・神戸市桜ヶ丘(銅鐸14、銅戈7)
・長野県中野市柳沢(銅鐸5、銅戈8)
かな
- 171 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 22:03:27.58 .net
- ・出雲神庭荒神谷(銅剣358、銅鐸6、銅矛16)
・出雲加茂岩倉(銅鐸39)
については先に述べた通り
普通の銅鐸ムラであれば郊外に1つあるいは複数の銅鐸が埋納されていて
祭りの時に取り出すだけ
総本拠地出雲は埋納されているものに加えて
作製中の銅鐸
他地域へ分配する予定の新品銅鐸
などが置かれていただろう
- 172 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 22:05:58.34 .net
- 出雲で使われていて、普通に埋納されていたのが神庭荒神谷の銅鐸
普段から整然と埋納されていて敗戦時にも当然そのまんま土の中
本拠地だから埋納場所も立派な施設があって
倭国占領軍に見つかって
倭国恒例の勝利の銅矛埋納をそのすぐそばで行われた
加茂岩倉のは
作製中や輸出待ちの銅鐸に×をつけて廃棄させられた
- 173 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 22:10:06.43 .net
- ・長野県中野市柳沢(銅鐸5、銅戈8)
出雲王族が敗走して辿り着いた場所だから
よせばいいのに長野でも埋納場所を飾り立てて
本拠地出雲と同じことが起きた可能性がある
建御名方は諏訪で名を残しているが
銅鐸文化は残っていないから
やはり厳しい運命を辿った可能性の方が高いのではないだろうか
- 174 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 22:11:42.31 .net
- ・神戸市桜ヶ丘(銅鐸14、銅戈7)
これはまた考えておきます
ただ
銅鐸の発見は圧倒的に銅鐸のみで見つかることが多いので
銅鐸+銅矛銅戈は非常事態であると想定したほうが
真実には近づけるでしょうね
- 175 :日本@名無史さん:2016/10/10(月) 23:15:06.29 .net
- ちょっと掻いとくけど
「大阪湾型銅戈」という分類はえろナンセンスらしいね
銅戈が遼西・遼東・樂浪・東沃沮・半島南部と辿って
列島に到着したという視点が欠落しているから
みせかけの出土地を冠して
「ただの樋分離式」を「大阪湾型銅戈」と云い為すまぬけなことが発生するみたいだね
- 176 :日本海ルート論者:2016/10/10(月) 23:42:50.68 .net
- なんというか論理的に多分無理目なんだと思う。
正直国譲りを当て込むなら書紀の垂仁あたりのにはめ込んだ方がイイんではないかなあ。
173
>銅鐸+銅矛銅戈は非常事態であると想定したほうが
非常事態ではなくて、ただ銅鐸と武器系の両者が手を取り合っただけですよ。
出雲が大きな領域を確定し、次いで播磨も自立、そこに山陽も加わった。
というだけかと。
- 177 :日本海ルート論者:2016/10/10(月) 23:48:53.93 .net
- 174
半島から大阪湾に直接到着ってことですか?
そこらが良くわかんないんだよなあ。
大阪湾のと同型だったりするのかな。
- 178 :日本@名無史さん:2016/10/11(火) 20:58:41.45 .net
- >>176
>非常事態ではなくて、ただ銅鐸と武器系の両者が手を取り合っただけですよ。
手を取り合ったのであれば、銅鐸が消滅することは無かったはず
出雲は確実に滅ぼされている
そうだと困る説が捻じ曲げてるだけ
- 179 :日本@名無史さん:2016/10/11(火) 21:08:23.86 .net
- 銅鐸も銅剣も消えちゃったね
- 180 :日本@名無史さん:2016/10/11(火) 21:10:11.39 .net
- 銅矛も消えた
- 181 :日本@名無史さん:2016/10/11(火) 21:12:55.26 .net
- 銅鐸は文化が丸ごと消えたが
銅矛は神社に大切に保管されている
記紀の冒頭も矛
矛祭りも多数残存
- 182 :日本@名無史さん:2016/10/11(火) 22:23:57.73 .net
- 出雲が自立(日本海ルート)
播磨山陽が自立(瀬戸内海ルート)
九州が自立(海外への玄関口)
海外交流の痕跡が何もない畿内から朝貢できた可能性が完全に消滅しました
- 183 :日本@名無史さん:2016/10/11(火) 23:24:39.21 .net
- 神社の銅矛が伝世品とは限らない
- 184 :日本@名無史さん:2016/10/11(火) 23:57:24.82 .net
- 銅鐸祭祀ゼロ
銅矛祭祀いっぱい
- 185 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 00:00:01.20 .net
- 伝世品か
逆に面白いな
神社から出土した銅鉾や銅戈は異様に多いし
祀られてるのに
銅鐸は人里離れた荒れ地からしか出ない
なるほどなるほど
これが征服者と被征服者の文化継承の差なのか
納得
- 186 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 00:04:46.93 .net
- 畿内説大炎上
@卑弥呼が朝貢した時期に西日本一帯に広域国家が存在した
ふむふむ
北部九州倭国が制圧したんだね
となって畿内説終了
じゃあ
A西日本には各地に国家が成立していて畿内が一番大きかったんだ
ふむふむ
出雲や吉備や筑紫が
畿内の王が「倭国王」金印をもらうための使節を通すはずないよね
むっきー
B西日本各地に国家が成立していて畿内の女王に心酔して平和的にひれ伏したんだ
もう付き合ってられないよw
- 187 :日本海ルート論者:2016/10/12(水) 01:00:19.13 .net
- もう少し細かく説明しよう。
華夏や半島との貿易口は対馬・壱岐なんですね。
これは地勢的特権というだけでなく、対馬・壱岐の海人が渡海技術を有していたからです。
ですが、彼らの土地は田地が不足していますから、食料を供給し得る陸國と合わせて最小限の倭國を構成する。
基本的にこの最小限の倭國の要は壱岐島直近の博多湾沿岸國であり、つまり最初期においては倭奴國が倭國の中心となる訳です。
貿易を始めた倭國は縄文からある国内交易網を博多湾初のネットワークへと変えていく努力をする。勿論、半島へ売り込む貿易品の品揃えを良くする為です。
周辺国だって儲けたいから自然とネットワークは作られていく。こうして倭國は拡大します。
ですが、冒頭に示したように地勢的特権などから倭奴國が一番儲かるようになっていくのは当然のこととなる訳です。
問題は生産性の無さです。神話のように九州勢が出雲を滅ぼすなんてことができるなら話は簡単ですが、ここは諦めた方がイイです。
またそもそも。
華夏の史家が倭國というから国家があるように見えるだけで、まだ倭地には国家がない。経済的な損得で離散集合する寄せ集めに過ぎません。ここ極めて重要です。
という訳で、大きな流れとして構造的な問題に立ち戻っていくことになります。
つまり、最小限の倭國の要は倭奴國に見えますが、実は構造的な要は壱岐だということですね。
貿易をするにあたって対馬・壱岐が外せないのは当然で、あとはこの2國に食料を供給できる陸國が必要ですが、それが博多湾岸國である必要はアリマセン。
そして、陸國が対馬・壱岐に接触しようとすればまず近い側の壱岐と接触せざるを得ません。そして、壱岐が対馬から離れれば対馬は飢えてしまうでしょう。
ですから構造的な要は壱岐となる。卑彌呼の時代でも一大國の一大卒が北九州の制海権と渡海業務の殆どを管理してるのは奴国との折り合いが付かず決裂した歴史があるからです。
- 188 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:06:11.46 .net
- >問題は生産性の無さです
これについての説明がありませんね
壱岐対馬を経て朝鮮半島や中国大陸と交易できる博多湾は
下流となってしまった出雲よりも
より先進的な生産技術を獲得できる環境にあったはずです
例えば養蚕紡績
鉄器など
これに対する反論になっていません
- 189 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:09:48.66 .net
- 世界の軍事歴史の基本として
湾などの「静かな水域」が重要と思われています
つまり
海軍が育つには静かな内海がなければならない
壱岐対馬
博多湾
出雲
この中で
水軍の軍船を保持できる良好な湾を持っているのは
博多湾だけです
この条件一つだけでも
博多湾勢力が水軍をもって周囲を圧倒できたことの
充分な説明になります
否定したければ
論理的な反論が必要ですが
「世界史」の観点から厳しいと思います
- 190 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:11:28.98 .net
- 日本列島において街道が整備されるのは
邪馬台国の時代から下ってはるか数百年後です
よって
全ての権力闘争は水軍を基本に考えるべきであって
これは
邪馬台国論争だけの基本ではなくて
世界史の基本です
- 191 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:15:47.88 .net
- <紀元前>
弥生時代が開始して、各地にムラやクニが出現
稲作による余剰生産で軍人や知識人を養い始める
出雲が日本史上初めての地域国家を樹立
支配域:銅剣
文化影響域:銅鐸
<西暦0年前後>
博多湾伊都国が壱岐対馬を征服して朝鮮半島経由の海外交易ルートを確立
<1世紀>
博多湾初期倭国が出雲国と開戦
水軍で圧倒して出雲国を制圧
倭人社会のリーダーとして漢に朝貢して金印授与される
- 192 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:18:34.02 .net
- 鉄器を得た博多湾は生産性が飛躍的に向上したと思われます
それに対する反証はありますか?
良港である博多湾を擁する倭国に対して、湾を持たない出雲が
軍事的にどうやって対抗できたのか?
どうやって兵を輸送できたのか?
これに対する反証はありますか?
- 193 :日本海ルート論者:2016/10/12(水) 01:23:35.28 .net
- 壱岐と奴国の決裂の要因は多分単純です。
この時点で、倭國は「貿易共同体」「貿易協商連合」に過ぎません。
このとき倭國の純粋な要求は「儲ける為の、珍品を揃えること」です。
確かに壱岐や倭奴国と仲良くしないと誰も貿易できませんので、最初は倭奴国が偉くなります。
ですが、倭奴国がもし出雲・山陽と仲違いしたらそこより東の国内交易網と接触することができなくなります。
そうなると「儲ける為の、珍品を揃えること」が難しくなる。
全てが繋がってる訳です(笑)
- 194 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:29:48.01 .net
- 儲けるための珍品とは?
壱岐対馬を制圧した博多湾にとって
朝鮮半島からの鉄
中国対立からの様々な先進文化は
それは大事なものだったでしょうが
では
当時の東の交易網から何が得られていたのでしょうか?
ちなみに九州では
絹が生産されていました
- 195 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:30:13.51 .net
- 東から・・・生口???
- 196 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:33:57.58 .net
- 交易じゃなくて
租庸調でしょ
入れ墨で出身地まで区別されてたんだし
もう明らか
- 197 :日本海ルート論者:2016/10/12(水) 01:42:50.54 .net
- >>188、188
そちらの言う「先進的な生産技術」と言うなら、列島は絶えず半島に支配されてしまうことになりますが、実際は「全く」そんなことはアリマセン。
倭地には山川森と地形的な障壁が多く、会戦を行いにくい。山に潜んでヒットアンドウェー戦法を採りローマ軍に最大級の屈辱を与えた民族もいましたが〜
鉄砲とか大砲とかそれぐらいの差があれば可能だと思いますけどね。鉄の鏃と石の鏃で撃ち合ったとしても、布陣の違い、高低の差で石の鏃が勝っちゃうぐらいですよ。
ましてや養蚕紡績なんて碧玉や翡翠と比べれば大した価値にはならない。
あと。バイキングは荒波を超える当時最強の海軍でしたが、静かな海が必要とかは聞いたことがないです。
また出雲に良港や内海がないというのはネタとしても、、、
まあ。きっちり反証しますよ。ひとまず寝ますが(笑)
- 198 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:48:20.57 .net
- 先進的な生産技術を漢から直接仕入れていたのだろうな
西方世界が知りたがったけれども
秘密にしていたはずの絹技術を入手していることからして
明らか
- 199 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:50:30.76 .net
- >そちらの言う「先進的な生産技術」と言うなら、列島は絶えず半島に支配されてしまうことになりますが
弥生のごく初期ならともかく
倭国が漢と直接交渉していたことが史実に残っているのだから
半島>列島という図式そのものが既に破綻しています
倭国は先進的な技術を手に入れていたからこそ
半島に領地を獲得していたわけですから
そんなことがありまくり
- 200 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:52:33.54 .net
- >倭地には山川森と地形的な障壁が多く、会戦を行いにくい
日本は島国です
出雲も含めて発展したのは海沿いの土地ばかり
海岸線あるいは船上で戦闘した場合
矛>>>剣
鉄>>>石
当たり前のことです
- 201 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:54:19.36 .net
- >ましてや養蚕紡績なんて碧玉や翡翠と比べれば大した価値にはならない。
桑栽培
養蚕
紡績
世界史に名を残した近代日本の「主力技術」ですよ
貴方は何も理解していない
何もわかっていない
- 202 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:56:10.23 .net
- >あと。バイキングは荒波を超える当時最強の海軍でしたが、静かな海が必要とかは聞いたことがないです。
>また出雲に良港や内海がないというのはネタとしても、、、
根本から勉強し直してください
湾がないと航海術が萌芽しません
湾がないと船を係留できません
初心者向けとしては
海上自衛隊の基地でも調べてみてください
- 203 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:57:06.17 .net
- 越の件が腑に落ちなかったので考えてみました
確定しているのは
・四隅突出型墳丘墓の分布は富山まで
・銅戈が長野県北部の柳沢遺跡で出土
・越の本拠地の高地性環濠集落は3世紀前半〜中旬に滅亡
・平原遺跡1号墳から翡翠が出土しない
・平原遺跡1号墳の以前や以後の墓からは翡翠が沢山出土する
- 204 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:57:30.16 .net
- ここに以下の条件を加えます
倭国の勢力拡大は最初は銅矛を旗印として進められた
倭国は出雲を滅ぼした
四隅突出は倭国に征服された旧出雲国領域の倭国系支配者の墓
何らかの改革が起きて、銅戈を旗印とする勢力が倭国で頭角をあらわした
銅戈部族が倭国王の座を狙ってクーデターを起こした
クーデターは防いだが、博多湾邪馬台国と銅戈狗奴国の大乱となった
- 205 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 01:59:12.68 .net
- 不思議なのは
翡翠の生産地である「糸魚川を越えて」
東にある上越市から関川に入らないと柳沢遺跡には行けない
ということ
銅戈部隊が柳沢遺跡を攻めるには
・越と同盟して通してもらう
・越を交戦して強引に通る
このどちらかが必要だが
越が滅亡するのは
倭国大乱が終結する3世紀中頃
- 206 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 02:01:28.25 .net
- 全ての条件を考慮してみると
1世紀に倭国銅矛軍が出雲を滅ぼした
旧出雲領を倭種属国として、その北限が富山であり、越との境界線
出雲王族は越領域を経て柳沢遺跡に逃げ込んで暮らしていた
- 207 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 02:02:37.34 .net
- 銅戈部族が越と同盟して、越領域を進軍して柳沢遺跡を制圧
さらに越と同盟したまま銅戈部族がクーデターを起こした
- 208 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 02:04:22.91 .net
- クーデター直後の様相
<邪馬台国(筑前)>
支配域:宗像→日本海沿岸
壱岐対馬→朝鮮半島南岸
同盟国:伊勢丹朱儒国
<狗奴国(筑後肥後豊前豊後)>
支配域:宇佐→瀬戸内海
同盟国:唐古鍵、越
- 209 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 02:05:29.51 .net
- 畿内説は翡翠で日本海海戦を戦ってこい
- 210 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 02:05:51.91 .net
- 陸生の楚系 甕棺墓土人 委㚢(邪馬)(狗)系
水生の越系 石棺墓土人 多婆那(阿那)(投馬)系
水生の越系のうちで浦島太郎やらかしたグループ(後着)
日本海ルートは
穴門(阿那門)を根城に石棺墓土人が仕切っておったところ
浦島太郎組が海下ってやってきて壱岐を根城に
糸島沿岸部に居付き
伊都として㚢國(奴國)以下への制圧拠点を設定
これのは天日鉾の渡来に象徴される
所謂「天孫族」のコアなやつらで
天日鉾の出処は「阿羅」で
「阿那」(多婆那)の兄弟國といったところで
記紀では「爾支」をヒントに「ニニギ」が創出された。
ちなみに
【㚢】《玉篇》古文【奴】字
- 211 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 02:09:05.14 .net
- つまり
倭国大乱が起きた2世紀後半に
越は狗奴国と同盟して、邪馬台国に対して宣戦布告した
だから
邪馬台国にはヒスイが入ってこなくなった
そのために平原遺跡1号墳には
九州王墓にしては「珍しく」ヒスイが副葬されていない
- 212 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 02:16:34.28 .net
- 2世紀前半
銅戈部隊が越と同盟
越領域を通過して柳沢遺跡の出雲国末裔を征伐して武功を上げる
2世紀中頃
銅戈部隊がクーデター
倭国大乱が勃発
銅戈部隊は狗奴国を宣言
邪馬台国は狗奴国+唐古鍵+越と開戦
邪馬台国へのヒスイ供給が途絶える
- 213 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 02:18:08.34 .net
- 3世紀中頃
魏使張政の仲裁によって邪馬台国と狗奴国が停戦
ぶち切れた邪馬台国水軍が越に猛攻
越滅亡
以後は巨大古墳を作りつづける
- 214 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 02:38:44.32 .net
- 中海・宍道湖・神西湖
- 215 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 22:44:41.63 .net
- >>214
大国の主要港として使うには出入り口が狭すぎる
狭い部分で船舶が大渋滞する
軍港としても全く使えない
出入り口を押さえられたら艦隊が無力化するので
海軍基地には決して使ってはならない地形
- 216 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 22:49:32.57 .net
- 軍港の出入り口を閉塞すれば
直接戦わずして敵艦隊を無力化できるので
成功不成功を含め
世界中の海戦史上、数々の閉塞戦が行われてきた
出雲は水軍を維持できない
越の富山湾のほうがまだ使える
本州日本海側だと若狭湾がベストチョイス
- 217 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 22:57:09.17 .net
- その若狭湾に四隅突出がない
出雲から若狭湾を越えて富山まで分布しているのにも関わらず
決定的に重要な軍港である若狭湾に四隅突出がない
そしてその若狭湾への出入りを管理する部位にあたる丹後半島に
銅鏡鉄器など北部九州と同じ最先端文化が早期から直接伝播している
そして出雲から北部九州への土器流入
日本海沿岸に分布していた旧倭種出雲国を
倭人博多湾国家が征服して属国化したことが明らか
- 218 :日本@名無史さん:2016/10/12(水) 23:47:09.08 .net
- 古代における良港は潟湖
事実は妄想に勝る
- 219 :日本海ルート論者:2016/10/13(木) 00:35:58.43 .net
- 九州説も地盤沈下が激しいのか。
出雲の美保湾の直近に高地性集落の妻木晩田遺跡があります。
当時の船団による奇襲戦法には高地性集落の備えが一番効きます。
因みに内海は軍港というより内需拡大向けの水路と思った方がイイ。
特に当時の海岸線と川の流れを見てみるとその規模がわかります。
まあ。大砲を持つ巨大船のイメージなのかわかりませんが、仮にそうだとしても博多湾とまず比較してみるのが一番重要でしょうね。
どうやら痛い所を突いたようですが。
湾の作りがどうこうという恣意的で身勝手な見解とは無関係。
【ただただ倭人伝に書かれている内容です】
一大國の一大卒が伊都國に常駐している。周辺国はこれを畏憚する。なぜか?
渡海を可能とする高い操船技術を持った一大國の海人が、一大卒に率いられ博多湾を中心とした海域を押さえている。
一大卒は伊都國と同様、女王國に統属し、食料の心配がなくなった。
逆に博多湾沿岸國はもはや手も足も出ない。
狗奴の卑彌弓呼と組んで陸戦を挑み続けるか、
或いは制海権を失い一大卒の監視に耐えながらこれを畏憚し続けるか。
- 220 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 07:52:58.11 .net
- 潟は日本の船には良いが支那の船にはきつい
- 221 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 20:29:52.08 .net
- >>219
>当時の船団による奇襲戦法には高地性集落の備えが一番効きます
船団による奇襲戦法に対して、見張ることができるという意味ですか?
大砲も無い時代に
高所から見張るだけでは矢も届かないし何もできませんよね?
- 222 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 20:31:52.53 .net
- 船で攻め込まれた場合、
海の上を移動する船団は地形の制約をうけませんから
守りの弱い場所を選んで急襲できます
一方の陸側は、丘や崖に阻まれるので、守りにくい
まさか出雲国の海岸線全てを常時監視するわけにもいかないでしょう
倭国水軍の来襲に悩まされた記録が朝鮮半島に残っていますが
あなたはこれも無視するのでしょうね
- 223 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 20:37:14.69 .net
- 出雲国が水軍を持っていたとして
中海・宍道湖・神西湖に出雲国水軍を配置したとします
(日本海に面した平坦な海岸線では、嵐のたびに壊滅しますので)
倭国水軍が攻めてきたのを察知したとして
中海・宍道湖・神西湖から出ていくためには
狭い水道を押し合いへし合い出撃しなくてはならないので
出口で待ち構える敵軍船団に各個撃破されていくだけです
- 224 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 20:38:54.81 .net
- 女王國=伊都國で、一大卒がその水軍司令部なわけですね
- 225 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 20:40:36.45 .net
- >>219
私は経過を示しています
あなたは経過を示していません
博多湾の一大卒が、博多湾以外の勢力によるものであるなら
そのような状態に至る過程を説明してもらえますか?
- 226 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 20:44:19.93 .net
- 海岸海岸海岸
湖 水路
陸陸陸陸陸陸出雲出雲出雲出雲出雲
陸陸陸陸陸 妻木晩田遺跡 出雲
このような地形ですね
倭国水軍は西から攻めてきます
妻木晩田遺跡で見張っていては
湖の北側を、西へと攻めてくる倭国水軍を見つけた時には
水路の出口を押さえられてしまいます
出雲水軍は湖から出られないまま、倭国水軍は出雲沿岸を蹂躙できますね
- 227 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 20:49:35.89 .net
- 倭国水軍に対する見張りであれば
宍道湖の西に高地性集落を作るはずです
海海海海海海海海海海海海海海海海海
こ海岸海岸海岸
の 湖 水路
辺陸陸陸陸陸陸出雲出雲出雲出雲出雲
り陸陸陸陸陸 妻木晩田遺跡 出雲
- 228 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 20:53:25.51 .net
- 妻木晩田遺跡の背後である「南は大山」
東に開けた眺望
西に美保湾、そして中海・宍道湖・神西湖
西から水軍でやって来た倭国王族の拠点と考えると
内陸に対する防備に優れていることがわかりますね
- 229 :日本海ルート論者:2016/10/13(木) 21:09:36.24 .net
- 224
>>219は
「経過を示していない」のではなくて
「倭人伝に書かれた結果」を書いているんです。
経過は今も説明中ですよ。
- 230 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 21:24:57.27 .net
- >>229
それは「あなたの解釈した結果」ですね
その「あなたの解釈した結果」に至る経過を示せますか?
あるいは
あなたの言う「倭人伝に書かれた結果」を示しせますか?
- 231 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 21:25:25.18 .net
- あるいは
あなたの言う「倭人伝に書かれた結果」に至る経過を示しせますか?
- 232 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 21:33:19.61 .net
- 一大國の一大卒が伊都國に常駐していて周辺国はこれを畏憚す
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之
常治伊都國 於國中有如(州)刺史」
「女王界」のなかに「壹界・一界・伊界」と表記されるべき特別区が設定されていた
「伊都國」は「伊界」という特別区を背景にして占領区をも統べるGHQの如きもの
「伊都國」の王の難升米はインベーダー系だけども母親は卑彌呼と共通の伊賀迦色許賣命
- 233 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 21:39:13.59 .net
- >>232
だから
それも「あなたの解釈した結果」であって
そこに至る経過が全く示されていませんが?
- 234 :日本海ルート論者:2016/10/13(木) 21:40:42.65 .net
- >>221
船団の長所は広大な海岸線に対し奇襲戦法をとって撹乱したり、都市や港を急襲したり、更にヒットアンドアウェー戦法をとって即座に逃亡できる点です。
海人にとって海岸線を奪われたり急襲を受けたりして制海権を失うことは何とか避けなければならない。
ではどうするか?
まず高い場所に海を見下ろすことのできる見張り台を作ることで船団の接近を監視し、事前に察知する。
次に、船から上陸した敵を迎え撃つ為に味方をすぐに集合させる。
更に、その味方を敵より有利な場所で迎え撃てるようにする。可能であれば高所に布陣し、罠や伏兵で分断しながら弓で圧倒する。
これらの諸条件を満たす為に、海岸付近の高地で海岸を監視しながらその地に集落を立てて住むのです。
対して、博多湾はどうでしょうか?
- 235 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 21:49:09.84 .net
- >対して、博多湾はどうでしょうか?
常に攻め込む側だったので環濠集落も高地性集落もなにもない
- 236 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 21:49:40.49 .net
- 博多湾は高祖山の望楼ですかね。
元寇のときにも使われた実績があります。
- 237 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:03:36.20 .net
- 妻木晩田遺跡についても考察してみる
四隅突出についての考え方は上記の通り
出雲国の
文化的影響範囲は銅鐸
軍事的影響範囲は銅剣
博多湾倭国は壱岐対馬を支配下におくことで
海外ルートを自国のものとして
銅剣範囲から独立し、そして逆に銅剣の本拠地出雲へ攻め込んだ
1世紀に博多湾倭国が水軍で出雲を滅ぼした後について
- 238 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:03:57.30 .net
- 博多湾倭国は水軍主体なので
出雲を滅ぼした勢いのまま日本海沿岸に沿って攻め進むのは
極めて容易
若狭湾の土着民
富山湾の土着民(おそらく越の支配下だった)
ぐらいが抵抗したかもしれないが
博多湾倭国には
漢まで朝貢できる造船・操船技術
鉄器などの先進武器
の圧倒的なアドバンテージがあるので、
日本海沿岸はあっという間に攻め進み、富山まで制圧した
- 239 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:04:59.40 .net
- 一方で
倭国が占領した出雲の、内陸側にはまだ出雲系の住民が残っていた
そのヒントが瀬戸内海の高地性集落
高地性集落は
水軍で瀬戸内海を東へと占領していった倭国水軍が
内陸へ逃げ込んだ原住民の反抗ゲリラに対して築いた
防御陣地
これがなぜか広島県沿岸のみ作られず
一番最後の時期にだけ
急に広島沿岸に高地性集落が密集する
- 240 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:05:29.08 .net
- 広島県の沿岸に今のような平野ができたのは江戸時代くらいのことで
弥生時代は干潟だった
干潟の中に、今の広島平野の山や丘が孤島としてポツンポツンとある光景
つまり
倭国水軍は広島沿岸には上陸できず
かといって
広島沿岸から敵対勢力の軍船が出撃してくることもなく
だから倭国水軍は、広島沿岸をスルーして
淡路島や吉備や阿波に前線基地を築いた
- 241 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:06:00.25 .net
- 圧倒的な博多湾水軍が
日本海沿岸、そして瀬戸内海沿岸を制圧していく中で、
出雲の内陸側〜干潟で守られた広島沿岸の空間は
旧出雲民にとって残されたわずかな最後の土地だった
そこから攻められるのを防御するために最適なのが
大山を背にした高地性集落
「妻木晩田遺跡」
- 242 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:10:31.00 .net
- 鳥取の青谷上寺地遺跡も説明できる
出雲を滅ぼした倭国水軍に占領され、博多湾倭人が住んでいた
なぜ断言するかと言えば、絹織物が出土しているから
>入れ墨で出身地と身分がわかる(魏志倭人伝)
おそらく旧出雲人を奴婢としていただろう
そこを内陸で反抗していた旧出雲残党ゲリラが急襲した
国を滅ぼされて
土地を奪われた旧出雲の襲撃だからこそ
あの凄惨な遺骸が残されたのだろう
- 243 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:12:51.96 .net
- 倭国水軍がいずれかの段階で東への進軍を一息つく時期があって
その時期に
広島沿岸への上陸作戦を決行したのだろう
そして最終期の高地性集落が広島沿岸に密集し
内陸に残っていた出雲族は滅亡した
- 244 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:16:38.65 .net
- 銅矛が出雲を滅ぼし、四国などへ進出
↓
高地性集落が瀬戸内海を東へ進む
↓
銅戈が大阪湾上陸
銅戈が長野の柳沢遺跡で出雲王族を追撃
こう考えると銅戈の時代である確率が高い
大阪湾に上陸して唐古鍵と同盟して一息ついた倭国軍が
出雲残党の殲滅作戦を決行した
北は長野の柳沢遺跡へ遠征
西は広島沿岸へ上陸して高地性集落を築き、内陸の旧出雲国民を掃討
- 245 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:17:40.26 .net
- この銅戈部隊による旧出雲国残党制圧作戦のきっかけが
当時の倭国トップニュースとなった
青谷上寺地遺跡全滅事件だったのかもしれないな
- 246 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:25:53.54 .net
- >>237
>四隅突出についての考え方は上記の通り
って何処に書いてあるの?
- 247 :日本海ルート論者:2016/10/13(木) 22:29:06.16 .net
- >>236
高祖山は博多湾外ではなく博多湾内にありますね。
湾内の一角にある山城を守っても意味がないでしょう。敵がわざわざ攻め込んでくれるなら別ですが。
基本的に北九州に高地性集落はありません。
北九州勢を拒否する為に各地で高地性集落が作られたからです。
- 248 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:34:10.77 .net
- >>247
根本的な問題ですが
水軍を相手にして高地性集落ができることは
監視だけでは?
- 249 :日本海ルート論者:2016/10/13(木) 22:36:36.98 .net
- >>237
>博多湾倭国は壱岐対馬を支配下におくことで
>海外ルートを自国のものとして
>銅剣範囲から独立し、そして逆に銅剣の本拠地出雲へ攻め込んだ
銅剣は銅矛から発展したものでしょう。
逆ですね。
- 250 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:38:31.45 .net
- >>247
ここは博多湾の中も外もよく見える場所にありまして、
壱岐までよく見えますよ。
google earthで頂上付近に視点を動かすと、
直感でわかりやすいと思います。
自分は高祖山に3度ほど登りました。
- 251 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:38:33.91 .net
- >>249
だとすれば
博多湾倭国が先に伸長して
出雲国はそれに対抗して追随成長したが及ばなかった
ということになりますね
- 252 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:39:53.00 .net
- 望楼で敵を見つけて、のろしを上げるのが基本でしょうね。
- 253 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:40:20.28 .net
- >>250さんは
高地性集落はあくまで見張り
水軍相手に戦うには水軍で対抗するしかない
(弥生時代は)
と考えているのだが
>>247さんは
高地性集落から水軍を攻撃できる何らかの秘密兵器を持っているようだ
- 254 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:41:03.85 .net
- 水生の越系 石棺墓土人 多婆那(阿那)(投馬)系
彼らの拡張域に高地性集落ができる
時期的にはかなり長期に分布
用語の魅力にひかれてなんでも高地性集落と云ってしまいがちの傾向もある
広島の巴形銅器の出土地が山頂部だったというのが印象的でした
- 255 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:45:39.83 .net
- 上陸作戦というのは、上陸時に非常に無防備になります。
上陸5倍の法則といって、敵の5倍の戦力がないと勝てません。
しかし、神出鬼没にゲリラ的に上陸されたら、
上陸作戦は非常に有効です。
つまり、見つけて準備万端待ち構えることができたら陸の勝ち
見つからずに侵入して橋頭堡を築けたら海の勝ち
となるわけです。
従って監視が非常に重要になります。
- 256 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:51:09.64 .net
- >>255
日本列島統一を考えると、一つしか道がないんですよね
最初は街道が無い
街道ができるには広域国家が必要
この2つの条件は絶対です
日本は島国で、しかも沼地泥地、森林山岳ばかりですから
最初は水軍で統一するしかない
順序としては
水軍で統一してから、街道を整備する
というのが確定します
となると
そんな水軍を持っているのは
漢とやり取りしていた博多湾しかない
- 257 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:52:37.16 .net
- >>254
>広島の巴形銅器の出土地が山頂部だった
狗奴国の色の強い地域から出土する土器が
広島に入って
守りやすい山頂部に陣取っていた
- 258 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:55:31.17 .net
- >>246
出雲を滅ぼした倭人支配者の墓
入れ墨表示するほど身分制の厳しかった倭国なので
墓制も出雲派遣の倭国王族用に決められていた
- 259 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:59:15.98 .net
- 入れ墨は水死して発見され、
遺体の損傷が激しいときの身元確認という意味があるそうです。
- 260 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 22:59:42.30 .net
- 四隅突出のルーツについて >>20 に貼ってあげたけど読んでないの
- 261 :日本海ルート論者:2016/10/13(木) 23:00:41.53 .net
- こういう説明が経過の説明に繋がっていく訳だが〜。
古代、大陸では城塞都市が基本。
集落自体を城塞で囲んでしまう。
倭地では海岸近くに高地性集落を作った。
見張るだけでなく海岸線を守りながら住むため。
一旦撃退してしまえば追撃する。
戦果のない帰路を急襲しても良い。
まず守ることが重要だが、博多湾にはその海岸線を高地性集落自体がない。
- 262 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:05:51.94 .net
- >>261
追撃するには船が必要です
倭国水軍が攻めてきたとします
@高地性集落+水軍で倭国水軍を撃退するのだとすれば
それはあくまで水軍で撃退するわけで
高地性集落は見張りだけ
水軍を持てない出雲は勝てません
A高地性集落単独で倭国水軍を撃退するとなれば
上陸してきた倭国海兵隊をなんとか撃退したとします
上陸してきた時点で、出雲の船は全滅している
出雲の船が全滅しているからこそ上陸してくる
つまりあなたの話は論理的に破綻しています
- 263 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:12:30.09 .net
- 監視施設は上陸をさせない、ということに対しては有効ですが、
攻めることに関してはあまり意味は無いでしょう。
各地で監視して上陸させず、ヘロヘロになったところを叩く。
なんてのはどうでしょうかねえ・
- 264 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:13:48.84 .net
- 出雲に限るなら
あの平坦な長い海岸線の全てを監視するなら
出雲のほうがヘロヘロになるでしょう
- 265 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:17:31.68 .net
- 博多湾倭国が1世紀に出雲を征服して属国にしていた場合
出雲からの租庸調によって相当潤ったことでしょう
それが原動力になって北や東へ勢力拡大していくのは
ごく自然な無理のない話になります
- 266 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:19:46.82 .net
- 糸島の高祖山のような監視拠点があれば、
数十キロ単位で監視できますが、
そういう拠点は限られますね。
場所が限られ、時代が変わっても使われ続けたのが
高地性集落ではないでしょうかね?
- 267 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:23:53.75 .net
- 倭国水軍とか妄想がひどい
- 268 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:25:32.54 .net
- 高地性集落は海岸に設置された小屋とかとセットで運用されるんでしょ
- 269 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:38:00.24 .net
- 107年に漢に160人の生口を輸送
当然漕ぎ手や外交官を含めると数百人規模
海外文献に倭国の半島攻撃記載が膨大に残る
現実
- 270 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:39:26.09 .net
- 高地性集落は平地のバックアップがないと維持できない
海岸側と内陸側が争っているとして
街道の無い時代に高地性集落を維持できるのは
海岸側=海運で物資輸送できる側
しかありえない
- 271 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:43:46.32 .net
- 海人が殖民していくコロニーというものは絶え絶えの点の如き配置でありがち
- 272 :日本海ルート論者:2016/10/13(木) 23:45:10.92 .net
- 北九州からの移民を防ぐのが高地性集落の第一目的。
だから北九州には高地性集落がないんです。
ありもしない水軍との決戦云々を糸口にするから辻褄が合わなくなるんですよ。
移民ははじめ、現地の人々と共存生活を送っていた。
しかし、それが可能な土地も少なくなってきた。
そうこうする内に海岸線に住む者たちを排除して代わりにそこに住もうとする者たちが出てくる。
そうしたら集落を高地に移動させ、更に周辺の高地性集落と共同監視を行って防備性を更に高めるようになる。
水軍ではなく移民です。
北九州には沢山の金持ちがいて、彼らはそこから離れようとか思わないし、命もかけない。
金持ちからあぶれた人たちが移民になろうとし、命をかける。柳沢遺跡の人々もそういう連中が半分でしょう。
但し、彼らは高地性集落の時代より少し早い時代ということになりますが〜
- 273 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:49:51.17 .net
- >>272
すみませんが、違います
倭国は対外戦争続きで、むしろ人手を必要としていました
だから対外侵略は、移民目的ではなく、占領しての奴婢生口獲得が目的でした
高地性集落も
現地人の防御用であれば、あれだけ長い間維持されたのが説明できません
防御側が長期間維持できるのであれば、
当然防御側が反撃できる時期もあるはずで
そうなると九州側にも高地性集落が作られたはずです
倭国関係の高地性集落は
やはり
海岸に近い土地を占領した倭国が
内陸に逃げ込んだ現地人からの反撃に備えるために作られたと考えた方が
納得できます
なにしろ
広範囲に長期間ですからね
- 274 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:53:56.09 .net
- 記紀に釣られてしまうと得てして出雲を過大評価しがち
鉄の多出する京丹後とか
半島の文献に王がいたと証言されている赤馬関あたりのがもっと重要
赤馬関あたりの多婆那王は新羅王の系譜にぱくられている
- 275 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:55:47.60 .net
- 妄想vs妄想は果てしなく続く
- 276 :日本@名無史さん:2016/10/13(木) 23:58:53.79 .net
- >>274
しかし銅剣の分布域や銅鐸の分布域から見ると
かなりの勢力を持っていたのは確かなので
どうしても注目せざるを得ません
- 277 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 00:00:30.35 .net
- 注目してもよいけど外部からの受け入れ先として重要
- 278 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 00:07:21.78 .net
- 積石塚の四隅突出のルーツは所謂高句麗系だろ
- 279 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 00:09:29.81 .net
- >>278
高句麗と交流できるのは??
壱岐対馬ルートを押さえてる博多湾倭国だけですね!!!
- 280 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 00:11:14.82 .net
- おいおい
ご自慢の最強水軍で
せっかく獲得した日本海領土を
海外の高句麗系のアートに染め上げるとは
なんて国際的国家だったんだよ
博多湾倭国は
- 281 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 00:16:44.38 .net
- 先方での黒曜石の出土から
隠岐から南北に伸びる東海ルートが縄文期からあったみたいだけど
鉄の輸送とか巨大矛の製作とか得意なY系の民も海の民系くさいし
- 282 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 00:18:21.40 .net
- それは細々とした民間交易時代だな
紀元0年前後からは博多湾が独占
四隅突出の頃には一大卒が全て臨検
- 283 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 00:38:16.38 .net
- 四隅突出が完全な日本オリジナルならまだしも
高句麗に源流があるとなれば
これはもう
壱岐対馬ルートを押さえてる博多湾倭国の手によるものである
決定的証拠ですな
否定するほうが詳細な説明をしなければなりませぬ
ならぬものはならぬ
- 284 :日本海ルート論者:2016/10/14(金) 00:44:39.79 .net
- >>273
奴婢生口目的ですか…いやあ参った参った(笑)
現地人の防御用故に高地性集落が長い間維持されたのですよ。
そして九州に高地性集落が作られなかったのはその必要がなかったからです。
九州の水軍が攻めてきた訳ではなく移民が攻めてきた。
ですから移民だけを撃退すれば良く、九州を攻める必要もなかった。
撃退された移民は遠い空き地に移動していくだけです。
但し、第2次の高地性集落の時代になると瀬戸内や畿内の範囲と密着が強まります。
こちらが倭國乱に近い時代です。
- 285 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 00:54:35.26 .net
- 高地性集落は、単なる環濠集落と異なり、
平地集落からの補給を必要とします
これだけの数の高地性集落を、それぞれが別の地域集落が維持していたとは考えにくく
やはり水軍で瀬戸内海を統一していった倭国が
海運輸送を発揮して豊富な補給をもって維持していたと考えるのがしっくりきます
また日本史においても
この時期に倭国水軍が瀬戸内海を統一してしまうのが
後の前方後方墳のいきなりの全国展開
三角縁神獣鏡の全国分布などを説明できるわけで
高地性集落が現地人のものであれば
瀬戸内海が統一された時期というものがよくわからなくなります
- 286 :日本海ルート論者:2016/10/14(金) 01:14:38.85 .net
- >>285
論理が飛躍しまくるんだよなあ(笑)
平地集落の補給は海岸線を維持してれば簡単に出来ますよ。
更に防御性を高める為に周辺の高地性集落同士で共同監視を行っており、ネットワークを結んでいます。
この互恵関係を象徴するのが銅剣であり、次の特殊基台など。共通の文化を築いていく訳です。
そのキッカケは「水軍」だとか「奴婢生口目的」だとかではありません(笑)
キッカケは九州からの移民です。その移民たちから自分たちの土地を守る、という死に物狂いの防衛の中で共同意識が芽生えたのです。
髭剃りを使えばこうなります。
なぜ北九州に高地性集落がないかと言うと、
そもそも高地性集落自体が九州からの移民を拒むために在住の豪族たちが共同して作ったものだから。
- 287 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 01:26:14.66 .net
- >>286
あなたの論理が破たんしています
高地性集落の話をしているのに
>平地集落の補給は海岸線を維持してれば簡単に出来ますよ
当たり前です
>更に防御性を高める為に・・・
前文とこの文章が論理的につながっていません
高地性集落を維持するのが困難ということを全く説明せずに
・平地集落の維持は簡単
・高地性集落はネットワークを結んでいる
という
全く無関係の根拠のない話を並べているだけです
あなたは何歳ですか?
まともな議論をする素養があると思えません
- 288 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 01:34:05.63 .net
- 倭国水軍が東へ攻めてくる
愛媛の平地人が倭国水軍に対処して高地性集落を作ったとする
そこでブロックされるのであれば
そこより東には高地性集落は不要のはずである
だが瀬戸内海沿岸の一円に
長期にわたって高地性集落が維持されている
まさかまさか
愛媛にも香川にも岡山にもちょっかい出しながら
倭国水軍は撃退され続けていたのか?
ありえない
現地人が高地性集落を維持していたのなら
西に面した愛媛にだけ作られて、
そこより東の人々はのんびりと暮らしていたはず
- 289 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 08:39:00.09 .net
- >>288
>そこより東の人々はのんびりと暮らしていたはず
その通り。 間違った空想だね。 九州から東遷なんて。
- 290 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 09:37:28.12 .net
- 東遷と東征はちゃんと分けようね
- 291 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 18:56:51.33 .net
- 列島から半島南部へ対馬海流に流されずに無動力で流れ着くというエピソードが数件あるけど
無動力で流れ着き得る出発点というのは限定される
- 292 :日本海ルート論者:2016/10/15(土) 00:46:28.10 .net
- 「子曰、觚不觚、觚哉、觚哉」
孔子曰く、觚、觚ならず。觚ならんや、觚ならんや。
酒器の觚はかどがあるべきなのに、現在では正式の形を失ってかどがない、と孔子がなげいたことば。
転じて、名ばかりで実のないことをいう。
「兕馬觚」(奴國の官。副官は卑奴母離)
「泄謨觚」(伊都の副官。同じ副官に柄渠觚、官は爾支)
兕馬觚(じまこ)は島子(しまこ)であり、漢倭奴國の時代から博多湾に浮かぶ志賀島の祭祀を司ったのだろう。
泄謨觚(せもこ)もまた島子(しまこ)の音に近似する。倭國乱の前後、奴國の島子とその正統性を争ったのだろうか。
何れにしても柄渠觚を加えたこの3つの「觚」が、
【今や名ばかりで実がない】ことを明確に示していることだけは間違いない。
盛者必衰の理の如く。
今や一大卒を畏憚し、卑彌呼に与えられた「ぬし」の下位に位置するばかり。
- 293 :日本@名無史さん:2016/10/15(土) 14:58:09.30 .net
- 内容に差があり過ぎない?
- 294 :日本海ルート論者:2016/10/15(土) 19:16:11.38 .net
- 山陰山陽の自立に至る経緯をやる前に。
後漢書の三韓に関わる文の内、三国志をパクっていない部分を抜き出すと…
後漢書東夷列伝25
建武二十年,韓人廉斯人蘇馬兼剏w樂浪貢獻。光武封蘇馬決ラ漢廉斯邑君,使屬樂浪郡,四時朝謁。
建武20年(西暦44年),韓の廉斯(地名)の人、蘇馬撃迸ル浪郡を詣で貢獻す。
光武帝は蘇馬撃封じて漢の廉斯邑君と為し,樂浪郡に属せしめ,四時朝謁す。
光武帝紀下164
(建武二十年)秋,東夷韓國人率眾詣樂浪內附。
(西暦44年)秋、東夷の韓國人が衆を率いて樂浪郡を詣で內附す。
安帝紀252
(建光元年:121年)冬十二月,高句驪、馬韓、穢貊圍玄菟城,夫餘王遣子與州郡并力討破之。
(121年)冬十二月,高句驪、馬韓、穢貊が(玄菟郡の)玄菟城を囲み,夫餘王は息子を遣わして州郡と力を合わせこれを討ち破る。
同253
延光元年春二月,夫餘王遣子將兵救玄菟,擊高句驪、馬韓、穢貊,破之,遂遣使貢獻。
延光元年(122年)春二月,夫餘王は息子と將兵を遣わして玄菟を救い,高句驪、馬韓、穢貊を撃ちてこれを破り,遂に遣使貢獻す。
つづく
- 295 :日本海ルート論者:2016/10/15(土) 19:20:59.85 .net
- とまあ大体コレだけです。
漢書に三韓の記述がほぼ無いことと合わせて考えると少なすぎる。
後漢は倭人と接触してはいるものの、より近くにいる三韓とすらこの程度しか調査が進んでおらず、接触もできていないということです。
後漢の勢いが強まったことから後漢と高句麗との関係が良くなり、西暦44年に韓人廉斯人の蘇馬撃轤ェ楽浪郡に内属。
これをキッカケに倭人と漢のルートが開く。このルートはどうも沿岸ルート。(内陸ルートであれば地名という重要情報が多少なりとも拾える筈ですが、それが全くありません)
その後121年と122年には、漢と夫餘の連合軍が攻めてきた高句麗勢を撃退する様子が描かれています。
高句麗勢は高句驪と馬韓と穢貊で、簡単に言うと楽浪郡の周りにいる全ての東夷が漢に反抗しているということになる。
つまり、後漢の半島での実力はこの程度なのです。金はあるけど、半島での武力は大したことはない。
ここが重要です。
- 296 :日本海ルート論者:2016/10/16(日) 00:05:59.11 .net
- 落ち着いたようなので続きを。
帝紀は皇帝の詳細について記述する他に「帝の〜年に〜〜があった」という説明を時系列で行う。
そして、列伝にはその詳細が書かれるようになっている。
@ 建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。(後漢書東夷列伝29)
❶ 東夷倭奴國王遣使奉獻。(光武帝紀下243)
A 安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。(後漢書東夷列伝29)
❷ 冬十月,倭國遣使奉獻。(安帝紀36)
B (建武)二十三年冬,句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪內屬。(後漢書東夷列伝12)
❸ (建武23年10or11月)高句麗率種人詣樂浪內屬。(光武帝紀下186)
これらの検討と、>>138などから下のことが言える。
1. 師升は倭國王である。
2. 師升は倭奴國王ではない。
3. 師升は出雲の首長である。
- 297 :日本@名無史さん:2016/10/16(日) 01:35:37.56 .net
- それからそれから
- 298 :日本@名無史さん:2016/10/16(日) 08:33:57.98 .net
- >>296
逆になるのでは?
金印が出土したので、倭奴國王が博多湾にいたのは確定ですよね
一方で、銅剣と銅鐸の消滅からは、
出雲が倭国に滅ぼされた、あるいは少なくとも北部九州から追い出されたのも確定ですよね
倭奴國王→出雲王で、もともと博多湾の王だったのに、
倭国王に北部九州から追い出された
ならわかります
- 299 :日本海ルート論者:2016/10/16(日) 17:20:04.19 .net
- 295の続き。日本海ルート論による師升(1)
【1. 師升は倭國王である。】
B (建武)二十三年冬,句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪內屬。(後漢書東夷列伝12)
建武23年(西暦47年)冬,「高句驪の蠶支落」という部落の「大加」という官位の「戴升」という名前の人「等(ら)」1萬余りの人々が楽浪郡を詣で内属した。
*「大加」は同じ後漢書東夷列伝の中で高句麗の官位の一つと説明されている。
@ 建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。(後漢書東夷列伝29)
建武中元二年(57年),倭奴國が貢物を奉りて朝賀す,使者自称するに大夫,「倭國の極南界」なり。光武帝が賜うに印綬を以ってす。
*「倭國」の中で一番南に位置する國が倭奴國であると分かる。
A 安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。(後漢書東夷列伝29)
安帝永初元年(107年),「倭國」の「王」の「帥升」という名前の人「等(ら)」が生口百六十人を献じ請見を願う。
【国名・地名】【官位】【人名】【ら=など=たち】
「句驪蠶支落」「大加」「戴升」「等」
「倭國」「王」 「帥升」「等」
同じ後漢書の東夷列伝内で用法が一致する。
また、人名も1字+1字と2字名を嫌う儒教的観念論から見ても良好な関係が窺え、文の内容(後漢と良好な関係)とも一致。勿論「王帥(官名)」「升(人名)」は論外とわかる。
更に、倭奴國と比べると「倭國王」の意味の大きさがよくわかる。
このことから、「國王帥」「王帥」という官位も「升」「帥升等」との人名もなく、
「倭國王師升等」は「倭國」「王」「帥升」「等」として意味を成すと証明される。
故に「師升は倭國王である。」
- 300 :日本@名無史さん:2016/10/16(日) 18:57:55.73 .net
- 後漢書は原本が不明に等しいんだよな
倭面土國ってなんや
- 301 :日本@名無史さん:2016/10/16(日) 19:59:04.76 .net
- 「倭奴國」王57→「倭國」王107帥升→
- 302 :日本@名無史さん:2016/10/16(日) 23:04:30.87 .net
- あげ
- 303 :日本@名無史さん:2016/10/16(日) 23:06:56.01 .net
- 粥占の分布とかも興味あるな
すっごく古そう
- 304 :日本@名無史さん:2016/10/16(日) 23:09:38.92 .net
- 倭面土はヤマトだろ
倭面上にしろ程度が低いものばかり残されてる
- 305 :日本@名無史さん:2016/10/16(日) 23:28:14.98 .net
- >>299
倭国の中で一番南に位置する国に過ぎない倭奴國の王には
金印を印綬したのに
なんで
もっと大きな領域である「倭國王」帥升には印綬されなかったの?
同じ疑問は卑弥呼への金印と
倭の五王への将軍位にも繋げるけど
- 306 :日本@名無史さん:2016/10/16(日) 23:32:14.31 .net
- 倭國の王帥「升」だったから?
- 307 :日本@名無史さん:2016/10/16(日) 23:45:22.02 .net
- >>305
倭の五王のは簡単
内地戦でないから金印より役職がほしい
- 308 :日本@名無史さん:2016/10/16(日) 23:55:50.83 .net
- 帥は王より一つ下の階級だからだろ。
筑紫の帥は卒とも書くが、王から任命される役職。
- 309 :日本@名無史さん:2016/10/17(月) 01:20:21.67 .net
- >>307
何言ってんだ。倭の五王が結んだのは金印外交をしてない南朝だぞ
- 310 :日本@名無史さん:2016/10/17(月) 01:42:36.24 .net
- >>300
>倭面土國ってなんや
倭面土國=倭米多國(6C 筑志米多國)吉野ヶ里遺跡付近
イメト國=イメタ國
「倭國王帥升」は何処にいたと思う?
有明海北岸地域だと推論する。
帥升の城柵は吉野ヶ里遺跡だと推論する。
文献事項
倭國王帥升(後漢書)
倭面上國王帥升(翰苑所引後漢書)
倭面土地王帥升(唐類函辺塞部倭國条所引通典)
倭面土國王帥升(通典:北宋本、明抄本、明刻本)
倭面土地王帥升(通典:杜佑)
倭面上國(日本書紀纂所引後漢書)
倭面国(釈日本紀開題所引後漢書)
委面(漢書地理志倭人条注:如淳)
倭面土国王師升(通典:宮内省図書寮尊蔵北宋版)
筑志米多國(先代旧事本紀)
米多(地名:三養基郡上峰町)
米田郷(肥前國風土記 三根郡)
目達原(地名:三養基郡吉野ヶ里町)
三田川(川名:三養基郡吉野ヶ里町)
- 311 :日本海ルート論者:2016/10/17(月) 02:37:37.47 .net
- >>305
その問いは
「なぜ難升米への黃幢は直ぐに届けられなかったの?」
と同じくらい難しい。
魏と韓などが激しく戦っていた時期だったにしても、卑彌呼側が魏と接触していたのか、接触できなかったのか、接触しようとしなかったのか。
ここらは憶測するしかない。
最も遠い東夷である倭國が謁見を請えば、華夏の外交政策の原則である遠交近攻と朝貢政策の目的である費用対効果から言って、謁見実現と印綬かし可能性は100%です。
- 312 :日本@名無史さん:2016/10/17(月) 07:35:45.84 .net
- >>310
国内の資料である先代旧事本紀が含まれている点が興味ありますね。
個人的には帥は筑紫の行政担当者だと思うのですが、これはこれで一理あるかと。
- 313 :日本@名無史さん:2016/10/17(月) 18:56:49.49 .net
- 【倭】というバウンダリーは
あくまでも魏帝サイドから設定されたものであって
魏帝の【詔】は【倭バウンダリー】に関しては
【倭バウンダリー】のトップをターゲットとして出されるという
原則を忘却することなかれ
- 314 :日本@名無史さん:2016/10/17(月) 21:35:40.92 .net
- 卑弥呼が共立されて10数年後の193年に
倭国が大飢饉に見舞われて難民1000人余りが新羅に押し寄せたとあるよね。
もちろんこの場合の新羅は、
後の新羅の位置にあった、2世紀後半の韓人の国って意味だろうけど、
飢饉で飢えた難民が、新羅領に押し寄せるということは
倭国はそれだけ新羅に近い位置にあったということだから
半島南部に倭人領土があったことを示唆するものであるし、
現在の日本列島から押し寄せるのであれば
倭国はやっぱり九州でしかありえないことになる。
- 315 :日本@名無史さん:2016/10/17(月) 21:39:06.20 .net
- 避難民はあっちこっち流れただろうけど
193年に倭国が大飢饉に見舞われて、国策として食料対策を求められたなら
韓人のいる北でなく
より未開な銅鐸民のいる東へと活路を見出したはず
2世紀後半に倭国で起きた大飢饉が
畿内を植民地とする契機になって
3世紀前半に近江に鉄器工房を作って
畿内侵略を本格化したのかもしれない
- 316 :日本@名無史さん:2016/10/17(月) 22:12:48.19 .net
- >>314
新羅の史書は記紀と同じで年代がずれてる
- 317 :日本海ルート論者:2016/10/18(火) 20:18:12.80 .net
- 295、298の続き。日本海ルート論による師升(2-1)
【2. 師升は倭奴國王ではない。】(その1)
帝紀(❷)と列伝(A)は同じ史実を述べている。各記述を比較しながら、文意を検討する。
❷ 冬十月,倭國遣使奉獻。(安帝紀36)
(107年)冬10月、「倭國が使者を遣わして」「奉献す。」
A 安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。(後漢書東夷列伝29)
安帝永初元年(107年),「倭國王帥升等が」「生口百六十人を献じ,謁見を請い願う。」
【前半部の文意検討】
❷「倭國 が使者を遣わして、」(前半部)
A「倭國王帥升等が 、」(前半部)
〈検討の流れ〉
1) 倭國は使者を遣わしている。倭國王自身が半島に出向いた訳ではない。
2) ❷の「倭國」とAの「倭國王帥升等」は等価である。つまり、使者を遣わしたのは「倭國」であり、同時に「倭國王帥升等」である。
3) >>299で証明したとおり「帥升は倭國王である」。つまり、「倭國王」に「等」を加えたものが倭國である。
4) 「倭奴國の使者は大夫を自称した」と同じ後漢書に記述されている。つまり、倭國は「周時代の身分制度」を踏襲している、と考えられていたとわかる。
5) 周時代の身分制度とは「王の下に諸侯がおり、その下に大夫と呼ばれる一種の貴族層がある」である。
つまり、「倭國王帥升等」の文意は「倭國王帥升と倭國の諸侯たち」とわかる。
<前半部の文意〉
安帝の永初元年、言い換えれば西暦107年の、冬10月のこと、
倭國、つまり倭國王である帥升及び倭國の諸侯たちが、それぞれの使者を遣わして、
- 318 :日本@名無史さん:2016/10/18(火) 22:11:12.60 .net
- 確定事項:
倭奴國≒倭國
師升は倭奴國ではなく倭國王
倭奴國=博多湾にあった(金印)
ただし
倭奴國≒倭國ではあるが
倭奴國≦倭國である可能性はある
(倭奴國が周辺国を統合して、より大きな倭國となった)
いずれにせよ
倭奴國王が金印を貰ったのに
倭國王が貰えなかったのは謎
- 319 :日本@名無史さん:2016/10/18(火) 22:12:06.49 .net
- すまん
×倭奴國≒倭國
○倭奴國≠倭國
- 320 :日本@名無史さん:2016/10/18(火) 22:12:57.78 .net
- 何も新しいことがないぞ。
- 321 :日本@名無史さん:2016/10/18(火) 22:38:35.83 .net
- 倭奴国>倭国の可能性だってあるだろ
今でも京畿道の人は全羅南道の人達を倭奴(ウェノム)と呼ぶぞ
- 322 :日本@名無史さん:2016/10/18(火) 23:24:14.10 .net
- >>320
よほど悔しいようだな
- 323 :日本@名無史さん:2016/10/18(火) 23:26:56.39 .net
- 倭国の中の倭奴国
倭国より小さい倭奴国
倭国と違う倭奴国
お疲れ様
- 324 :日本@名無史さん:2016/10/19(水) 12:32:55.87 .net
- >>317
誰が謁見を願って、誰が謁見すんの?
- 325 :日本海ルート論者:2016/10/20(木) 01:11:38.16 .net
- 「謁見を願ったのは」帥升と倭の諸侯たちですね。
勿論、実際に謁見を願ったのは帥升と倭の諸侯たちが遣わした使者たちになります。
「謁見したのは」皇帝です。
謁見ですから。
- 326 :日本海ルート論者:2016/10/20(木) 01:50:23.50 .net
- 面白味として、だけど。
>倭國、つまり倭國王である帥升及び倭國の諸侯たちが、それぞれの使者を遣わして、
魏志倭人伝にもこれと同じではないか?と思われる記述がある。
⑴其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、、短弓矢。
其四年,倭王はまた大夫の伊聲耆掖邪狗ら八人の使者を遣わして生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、、短弓矢を上献す。
⑵壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。
壹與は倭の大夫であり魏の率善中郎將でもある掖邪狗ら二十人を遣わして張政らを送り還し,
因って臺を詣で,男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹を献上す。
諸侯の使者が紛れているようには一見思えないが〜
日本海ルート論では、伊聲耆掖邪狗を伊邪國の卒(=そち=帥)(伊聲耆=いさち=いざそち)でもある卿(女王の大臣でありながら領國も持つ)と見る。
⑴は掖邪狗を含めて8名で、行程8國と同数であり、邪馬壹の使者を担う掖邪狗と他の行程7國の使者たち(子弟など)と考えられる。
⑵は掖邪狗を含めて20名で、旁國20(奴國を含まない)と同数である。諸侯の子弟たち19名による自国紹介の中で掖邪狗が伊邪國を加え、旁國20の情報が得られた、と考えられる。
- 327 :日本@名無史さん:2016/10/20(木) 01:58:02.21 .net
- >ただし、これはあくまで福島県・三貫地貝塚のわずか2人のDNA解析の結果です。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/254405.html
たった2人のサンプルで決めつけて発表する斉藤成也とその部下って一体
↓
>斎藤成也 @Saitou_Sayer
>閑話休題。日本列島人の歴誌を語る本を、今年には刊行するつもりです。
>その最後には、「DNAから見た日本人」(2005, ちくま新書)の末尾でも議論したように、
>日本列島の未来について、ちょっと言及するつもりです。沖縄県は琉球共和国に、北海道もエゾ共和国に。中央部が日本国のママ。
https://twitter.com/Saitou_Sayer/status/285746285238157312
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_14/4/notes/ja/04saito.pdf
著書
>人種よさらば,民族よさらば(斎藤, 1997;民族学研究)
>「日本人」が消える時(斎藤, 2005;DNAから見た日本人)
- 328 :日本@名無史さん:2016/10/20(木) 06:32:50.64 .net
- >>314
>193年に倭国が大飢饉に見舞われて難民1000人余りが新羅に押し寄せたとあるよね。
そんな作文はどこに書いてある?
- 329 :日本@名無史さん:2016/10/20(木) 08:33:36.87 .net
- >>328
新羅本記第二 第九代 伐休尼師今 十年六月
倭国じゃなくて倭人だけどね
半島南部の倭人部落のことだろう
- 330 :日本@名無史さん:2016/10/20(木) 11:07:49.89 .net
- >>329
その記は日本と一緒で年代詐欺
- 331 :日本@名無史さん:2016/10/20(木) 14:51:24.55 .net
- ※伐休自身が倭人
「姓昔 脱解王子仇鄒角干之子也 母姓金氏 只珍内禮夫人」
※伐休尼師今十年六月はほんとはAD253
※この時期新羅なんて王統は未成立
脱解は
父が多婆那王で母が女國王女
女國王女は委奴國の王がゲスト婚でしでかした娘だとすると
奴國の産であるとは限定されない
- 332 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 02:23:36.42 .net
- >>109
これの好古都国について推測してみた
妄想だけど誰も唱えたことのない説ね
「好古都国」は濃尾平野の西側が海から平野に移り変わる過程で、岐阜市が海沿いだった3世紀頃に存在した国
読みは「かこつ」で、かこの津(水夫の港)の意味
岐阜市内にある水主町(かこまち)がその名残
各務原は「かこつ→かくつ→各務→かかむ→かかみ」の可能性あるかも
西から、已百支国(伊吹)-蘇奴国(曽根)-対蘇国(本巣)-好古都国(岐阜〜各務原)-弥奴国(美濃)-都支国(土岐)
木曽川の南側が狗奴国
- 333 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 08:28:28.70 .net
- >>327
>沖縄県は琉球共和国
翁長は言う。
沖縄県は中華人民共和国琉球族自治区だ。
- 334 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 10:38:51.24 .net
- >>332
三世紀にはもう海沿いではないでしょ
- 335 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 13:00:46.25 .net
- >>332
面白いけど、筑紫から後世に移転したと思われる地名が散見される。
筑紫からの地名のコピーだな。
福岡県内で同じ地名を探してみるといい。
- 336 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 13:01:59.86 .net
- 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は嶋(志摩)、福岡県糸島市
5番目の彌奴国は嶺(三根)、佐賀県神埼郡三根村にある吉野ヶ里遺跡
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖の安永田遺跡(佐賀県鳥栖市柚比町)
16番目の邪馬国は八女の室岡・亀ノ甲遺跡(福岡県八女市)
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫国(後の筑前と筑後)に一致する。
筑紫国は、東に同盟国である豊国、南に時に敵対することがある肥国、北は対馬海峡を挟んで韓国、西は海である。
- 337 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 14:04:47.47 .net
- >>330
60年多分ずれてるから193年は253年かな?
卑弥呼が亡くなったのが247年-248年頃だから
倭国では男王が立って国が乱れた時期だな
飢饉とかあって国が乱れ男王は責任を取って退位したんだろう。
- 338 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 18:16:09.62 .net
- 年代はともかく
倭人というものは九州あるいは朝鮮半島南部に住んでいるものと
認識されていたわけだね
- 339 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 20:26:01.61 .net
- 持衰って万単位で行われてたりしたんかね?
- 340 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 21:30:30.04 .net
- >>337
新発見だな。
面白い。
その前後に他の目ぼしいきじはあるのかな?
- 341 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 21:49:02.59 .net
- >173年 倭の女王卑弥呼が使者をよこした
これが233年になるのか
狗奴国との争いが一息ついて
外交に力を入れ始めたのかな
- 342 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 22:23:56.99 .net
- >340
新羅本紀 訖解尼師今37年(346年) 倭軍が新羅の首都を包囲
新羅の首都を包囲したんだから、その辺の海賊じゃなく、倭国の正規軍だろう。
これが神功皇后の三韓征伐とするとおもしろいんだけどね。
- 343 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 22:58:45.01 .net
- >>342
>新羅の首都を包囲したんだから、その辺の海賊じゃなく、倭国の正規軍だろう。
倭国の正規軍ではなく、半島南岸倭人国の正規軍だろう。
九州倭國が半島南部を支配したのはもっと後4世紀末であろう。
425年
「自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王」
宋書夷蛮倭國傳
- 344 :日本@名無史さん:2016/10/21(金) 23:21:39.61 .net
- >倭国の正規軍ではなく、半島南岸倭人国の正規軍だろう。
半島南岸倭人国が勝手に新羅を攻めるというのも考えづらいな
- 345 :日本@名無史さん:2016/10/22(土) 00:43:52.62 .net
- 半島南岸倭人国は倭の植民地ではなく
倭国連合の一つでそれなりの独立性があったのかもしれない
- 346 :日本@名無史さん:2016/10/22(土) 00:59:53.57 .net
- 鉄の権益確保等の必要もあり、倭国の常駐軍がいたのかもしれない
- 347 :日本@名無史さん:2016/10/22(土) 01:21:56.74 .net
- >>341
あれ?
そうすると卑弥呼が共立された時期についての根拠がなくなってしまう?
- 348 :日本@名無史さん:2016/10/22(土) 01:23:49.85 .net
- >>345
もともと倭国は海峡国家で、朝鮮半島側と九州側が対等だった可能性もある。
本拠地が対馬だったかも。
- 349 :日本@名無史さん:2016/10/22(土) 02:01:30.56 .net
- 北部九州における銅矛の出土が
宗像宇佐対馬に集中していることから
宗像基地→日本海
宇佐基地→瀬戸内
対馬基地→朝鮮半島
だったことは容易に見て取れる
- 350 :日本@名無史さん:2016/10/22(土) 02:09:40.74 .net
- >>334
古墳時代の引き篭もり具合が凄いので可能性としてはゼロではないかなと
http://www.gifu-gif.ed.jp/org/maibun/SiteMap/site_map.htm
>>335
どっちが先かは知らないけど地名が似てるのは事実だね
- 351 :日本@名無史さん:2016/10/22(土) 06:43:13.94 .net
- >>347
その通り
>>343
425年には落として支配してたってことだよね
いつ落としたかは不明だけど
>>342のやつが候補ってことだ
- 352 :日本@名無史さん:2016/10/22(土) 07:30:50.68 .net
- >>351
346年のやつは倭國は敗走したことになってる。
その後も何回か戦乱があって、
402年には国交を結んで、新羅の王子を人質にしている。
この辺りでは倭国優位と言えるんだろうな。
その後は小競り合いが続き、497年が最後で倭国との紛争もなくなる。
- 353 :日本@名無史さん:2016/10/22(土) 07:51:05.85 .net
- 百済との間では戦乱の記事はなくて、
397年に国交を結んで、太子を人質にしたとなっている。
- 354 :日本@名無史さん:2016/10/22(土) 08:43:51.25 .net
- >>353
百済は元々は高句麗と同様中国領内発祥なんだよね
倭に降って大きくなったみたいだからかな
- 355 :日本@名無史さん:2016/10/22(土) 10:27:20.46 .net
-
百済は高句麗の分派が馬韓地域に侵入して支配層になった国。
言語は、数詞が高句麗語、百済語、倭語(古代日本語)と似ているが、
現代朝鮮語、新羅語とは全く異なる。
- 356 :日本@名無史さん:2016/10/22(土) 11:30:24.00 .net
- >>332
>已百支国=伊吹
この比定は悪くないね。 【百】は呉音ビャクで濁音bで始まる。
九州の地名にこじつける場合にもバビブベボで始まる地名を探すべきだ。
- 357 :日本@名無史さん:2016/10/23(日) 10:41:41.65 .net
- 火消しに必死すぎ
- 358 :日本@名無史さん:2016/10/24(月) 13:49:07.04 .net
- 製鉄所といえば、半島南部の製鉄所遺跡の中に、和系の土器しか出てこない
のがあるらしいな。
- 359 :日本@名無史さん:2016/11/11(金) 01:42:58.73 .net
- 銅鐸は殷王朝の祭祀・戦争の道具だと思う。
殷では銅鐸を鳴らしながら、鹿や他民族を狩り、
鹿や人の首を切って先祖の生贄にしていたという。
銅鐸が大量に出土した出雲は、殷王朝の流れをくむ国ではないのか?
鹿の首を神社に備えるのは出雲しかないだろう。
- 360 :日本@名無史さん:2016/11/11(金) 02:42:49.39 .net
- >>359
商な部分はあるかも
- 361 :日本@名無史さん:2016/11/11(金) 03:22:27.51 .net
- 鹿の首を捧げるのは諏訪大社上社の御頭祭じゃね?
昔は七十五頭だったみたいだな
- 362 :日本@名無史さん:2016/11/11(金) 09:27:08.61 .net
- 出雲の神であるタケミナカタが諏訪に逃げ込んだんだから
諏訪は出雲系という事じゃない?
- 363 :日本@名無史さん:2016/11/11(金) 12:59:38.88 .net
- 出雲から諏訪に抜けるルートはもともと出雲が抑えていたっぽいな。
関東にも鷲宮神社とかあるしね。
- 364 :日本@名無史さん:2016/11/15(火) 01:23:32.29 .net
- 出雲は中国、近畿、東海、北陸、信越の広いエリアに拠点を持っていた。
出雲の大国主命も個人の名ではなく、
多くの国を治めていた主という世襲名ではなかろうか?
- 365 :日本@名無史さん:2016/11/15(火) 04:13:45.54 .net
- >>364
倭に大国の主が大国を敷いた地=「倭大国敷神社」「倭大国魂神社」
- 366 :日本@名無史さん:2016/11/15(火) 04:43:35.51 .net
- 出雲の中心地が島根出雲じゃなくて阿波の可能性はあるな
- 367 :日本@名無史さん:2016/11/15(火) 04:45:17.81 .net
- >>364
オオナムチや大物主など各地の神を統合したのが
大国主なのではないだろうか
- 368 :日本@名無史さん:2016/11/16(水) 00:32:01.85 .net
- 大国というのは、複数の国を束ねて支配するという意味だろう。
複数の国邑の代表の上に立っていたから。
秋になり米の収穫が終わると、それぞれの国邑の首長が集まり、祭りを行った。
それが神無月や新嘗祭のはじまりだね。
ところで、出雲って、本当は近江にあったんじゃない?
- 369 :日本@名無史さん:2016/11/16(水) 01:10:47.65 .net
- ヤマタノオロチが越なら戦ったのは近江あたりの可能性は高いね
- 370 :日本@名無史さん:2016/11/16(水) 03:19:28.69 .net
- 出雲勢力は日本海沿岸に沿って広がりつつ
南北を隔てる山脈の隙間を縫って所々南下してるような印象だ
- 371 :日本@名無史さん:2016/11/16(水) 11:08:56.99 .net
- 渤海国あった辺りに、オロチ族っていう少数民族現在もいるんだけどヤマタノオロチって..
- 372 :日本@名無史さん:2016/11/16(水) 23:21:59.88 .net
- 出雲の勢力は九州北部、遠賀郡や嘉麻郡、宗像郡あたりにまで及んでいたような感じはする。
倭人条に出て来る不弥国=糟屋郡は邪馬台連合とこの出雲連合の境目にあったということで
東行百里至不弥国、と記載されたように思える。
同様に投馬国=天草郡も南の狗奴国との接点にあたったため、方角旅程が記載されたものだろう。
投馬国の官の名は弥弥(ミミ)=海王(ミミ)。
この国から呉に至る航海路もあったと思われる。
と言うよりも日の国(肥の国)はこのルートで江南から侵入してきた民族の国だろう。
- 373 :日本@名無史さん:2016/11/18(金) 20:49:17.06 .net
- 邪馬台国は本当は朝鮮半島にあったらしい。
- 374 :日本海ルート論者:2016/11/19(土) 03:03:49.20 .net
- さて。
世界のリーダーが誰になるか?
そういう面白味があった米国大統領選も一つの岐路を迎えた。
なんと米国は世界のリーダーを自ら降りたのであった。
ここから取り戻そうとすればブッシュの焼き回しになりそうだが、
仮に大戦争を仕掛けた所で歯止めはもう効かないんではないだろか。
とまあ多忙も抜け近々続きも書けそうなんだが。
ひとまずスレチ回避に一つ。
大いなる東アジアの内海たる日本海だけでは起点を発し一周回って起点に戻ってくる輪(わ)の求心力を得ることはできなかった。
紆余曲折を経て海人の交易力を力に広がっていく倭國は、大いなる倭(わ)國の内海たる瀬戸内を有し「輪(わ)状の交易網」を得て遂に、安定した倭を得る。
それは、輪の外側にある東国との接点に位置する地勢的優位と経済力、それまで大して強国でなかったことが幸いして盟主となった運と高い政治力による。
縄文との決定的な違いはそれがシステムとして確立したことである。
混迷を深める世界で倭が求めたのは、孤立でも自立でもなく、ただただ分裂する倭諸國が一つの倭として自律し得る共存システムの構築であった。
大きな戦争がなく、流通が安定し、無論飢えることがなく、勿論自らの生活を守ることができ、それでいて世界を広げることができる。
それは今も、世界が求めているものと変わらない。
- 375 :日本@名無史さん:2016/11/19(土) 07:34:52.26 .net
- ふむ、共立か。
- 376 :日本@名無史さん:2016/11/20(日) 17:36:11.49 .net
- >>372
>出雲の勢力は
出雲の勢力範囲の根拠としているのは
銅鐸でしょうか?
それとも大国主など出雲系の神社でしょうか?
銅鐸祭祀は首長墓を持たない平和的祭祀なので
たとえ出雲を元に伝播したとしても
大国主が同時に広まっていくとは考えにくいんですよね
その土地その土地の有力者が
銅鐸祭祀と共に先進農業技術や青銅器文化を導入した先駆者として
別個に祭られる可能性が高い
けれども
じゃあ一つの勢力が古代にそれだけの広範囲に拡散したというのも
考えにくい話ですよね
- 377 :日本@名無史さん:2016/11/21(月) 19:25:44.63 .net
- 出雲の中央集権なら、各地には首長墓がないのは当然。
大国主の名は、複数の国邑をまとめているという意味があり、出雲が拠点ではあるけれども、支配権はより広域だったことが伺える。
関東にも出雲の足跡が多い。
埼玉の鷲宮神社は天照から出雲に恭順した天穂日命が出雲の従人27名を連れて来て創建したとのこと。
大宮神社もスサノオなどが祭神だね。
関東南部までは出雲が到達していたんだね。
- 378 :日本@名無史さん:2016/11/21(月) 19:34:06.18 .net
- (スサノヲ)出見而告「此者謂之葦原色許男」
スサノヲに「葦原色許男」と呼ばれた
「大穴牟遲~」=「大穴持命」は
出雲にも訪問先があったレベルのものだろ
- 379 :日本@名無史さん:2016/11/23(水) 18:36:17.05 .net
- 出雲が到達かなあ?
ここで出雲って言っているのは
宗像辺りを出自として出雲にも拠点を持つ倭人部族と表現するのが正確じゃないかな
出雲系の神々が伝えられる広範囲を国家として支配したというよりは
四隅突出墓が分布した辺りまでが安定支配領域で
その先の領域は
その時々に進出して文化をもたらしたけれども
領地といえるほどの長期間安定して支配したことはないんじゃないかな
- 380 :日本@名無史さん:2016/11/24(木) 00:28:50.19 .net
- ああ、鷲宮も天穂日命が到達したけれど、定住はしていないね。
関東には安定政権がまだなかったのだろうね。
たどり着いたのが宗像か出雲かは、伝承そのものがグレーかな。
天穂日命は高天原から大国主に寝返った人物だし。
- 381 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 14:30:11.59 .net
- 関東に出雲の足跡が多いのは
出雲が栄えた頃に関東まで広がっていたのではなくて
滅ぼされた出雲が逃げて逃げて最後は関東辺りまで逃げのびたわけで
東で落ち着いては倭国に追撃され、東で落ち着いては倭国に追撃され、
で関東にまで出雲の痕跡が残っているだけ
銅鐸の変遷とか見ても時期がずれながら東へ移動している
- 382 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 15:05:31.27 .net
- 同じく追撃した側の倭国の極めて古い神々が関東に祭られているのも同じ
ただこちらはその後も鉄器供給が続いたことから政治的関係も続いたことがわかる
- 383 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 16:30:27.01 .net
- 邪馬壹=邪馬+壹
倭國=邪馬+壹+投馬
邪馬壹と投馬の統合原理は血縁たるべし
- 384 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 16:47:46.48 .net
- 関東に足跡が多いのは、阿波忌部(天日鷲命)
- 385 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 16:55:45.81 .net
- 邪馬壹=邪馬 + 壹
倭國=邪馬 + 壹 + 投馬
倭國=9萬戸+1萬戸+5萬戸
- 386 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 17:28:49.98 .net
- [壹]=[壱]=[一]=[伊]
[壹][1萬戸]の構成國は[對海][一大][末盧][伊都][不彌]
「自女王國以北」が〆て一萬戸
[壹]の支配拠点は[伊都][いつ][ゆつ][いず][ゆず]
[伊都]で[於國中有如(州)刺史]していたのが[一大率]で
[率善中郎將]の銀印ゲットした[大夫難升米]で[伊都國王]のひとり
- 387 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 17:30:06.22 .net
- その後[率善中郎將]は[大夫伊聲耆掖邪狗]に交替して
[大夫難升米]は[倭國]の[代表者]に昇格した
でなければ[詔書・黄幢]が[難升米]宛で発送されること無し
- 388 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 17:49:55.54 .net
- 正始八年(247)の[遣塞曹掾史張政][詣拜假]では
[齎詔書・黄幢 拜假難升米爲檄告喩之]
かつ[以檄告喩壹與]で
[以檄告喩]なす対象は[難升米]+[壹與]だったけれども
[詔書・黄幢]を齎す対象は[難升米]だけで
[壹與]は貰い損ねた。
- 389 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 17:51:35.07 .net
- この[詔書・黄幢]の発送は正始六年(245)で
この時点で[難升米]はすでに[倭國王]だったことがばれてる
卑彌呼没年は[率善中郎將]交替認証直前の正始四年(243)たるべし
- 390 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 18:48:37.79 .net
- [率善中郎將]といえば
[支謙]為大月氏人的後裔,其祖先於[漢靈帝時(168-189)]來到中國。
(zh.wikipedia.org)
[支謙]字[恭明] 一名[越] 大月支人也。
祖父[法度] 以[漢靈帝世] [率國人]數百歸化 拜[率善中郎將]。
『出三藏記集』「支謙傳第六」
同時代の華の読者には常識だったのでしょう
ここでの[率善]の[善]のいみは善良なる[國人]なのですねえ
- 391 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 18:58:32.54 .net
- 邪馬壹=邪馬 + 壹
倭國=邪馬 + 壹 + 投馬
倭國=9萬戸+1萬戸+5萬戸
から漏れうかがう事のできるパワーバランスからすると
貰ったはんこの分け前のは
金印 + 銀印 + 銀印 とかなんでしょ
- 392 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 19:06:32.94 .net
- 【韍】の異体字 【市】【帗】【韨】【𩎛】【𩎡】【巿】【䘠】
《前漢·諸侯王表》奉上璽韍。《註》師古曰:璽之組也。
都韍牛利 【韍】http://www.zdic.net/z/27/js/97CD.htm
都巿牛利 【巿】http://www.zdic.net/z/19/js/5DFF.htm
都市牛利 【市】http://www.zdic.net/z/19/js/5E02.htm
「名太子爲利」『隋書』 副官「利」と称す
【牟】を【牟】の省略形と看做し[も]とおく
牛利[もり] = 彌彌那利 = [彌彌那]の[利]
牟利[もり] [彌彌那]=[彌彌]が統べる[投馬國]の中心國
母離[もり]
都巿牛利[つふもり] あたりなんだろうけど
[ふ]を統べる[もり]
[組]を統べる[もり]
五萬戸の投馬國は拡張された多婆那だろう
多婆那からはタイミングさえ選べば無動力で金海まで漂着する
- 393 :日本@名無史さん:2016/11/25(金) 23:56:42.84 .net
- 多婆那=肥後玉名
多婆那が倭国(邪馬台国)の北東千里にあったということは
邪馬台国は肥後玉名郡から南西の方角にあったということだ
- 394 :日本@名無史さん:2016/11/27(日) 14:54:35.33 .net
- 多婆那とは丹波国ではないの?
- 395 :日本@名無史さん:2016/11/27(日) 16:47:50.87 .net
- じゃあ倭国は阿波か。
- 396 :日本@名無史さん:2016/11/27(日) 18:08:29.57 .net
- 多婆那國王子の脱解が渡海した時期(AD102)の多婆那國は
表面流に乗って金海に無動力で流れ着けるような場所にあった
洗練された蓋弓帽が出たり三雲井原の清白鏡のそっくりさんが出ている
響灘に面したガラスの先進地域こそこの時期の多婆那國でしょ
- 397 :日本@名無史さん:2016/11/27(日) 21:18:58.57 .net
- たじま
たんば
ここら辺はセットだしなぁ
- 398 :日本@名無史さん:2016/11/30(水) 00:10:28.60 .net
- 出雲大社の歴代の権宮司の遺体は、
神域の森の中の池に沈められていたという。
やっぱり渡来人ではないか?
- 399 :日本@名無史さん:2016/11/30(水) 08:49:20.32 .net
- 論理に飛躍がありすぎ
- 400 :日本@名無史さん:2016/12/02(金) 18:19:03.21 .net
- 田島はもともとは佐賀から長崎、福岡にかけていた氏族で、田島神社が元宮だな。
そこから但馬に進出した。
- 401 :日本@名無史さん:2016/12/02(金) 18:47:40.03 .net
- [田島]は[多遲麻]の[たぢま]のなまりで
[橘小門]あたりともかぶる
[多婆那]と[多遲麻]は似ておって非なるもの
王名が[含達婆][がんたま]だから
[多婆那]が[たまな]なのは確からしい
[含達婆]の[含]は王者が口中に含む[唅]のことだろう
口中に含むのは[珠][達婆]
[龍城國]表記の[龍]
[龍]には[玉]はつきもの
工業製品の[珠]即ち[玻璃]を含めて
[珠]のトレーダーが[含達婆人]であって
長期的に日本海ルートを仕切っていたものは
[阿那門]を本拠として
各地にコロニーを生み出す[含達婆人]であってからに
[出雲]はいわば大切なお客さんの立場
- 402 :日本@名無史さん:2016/12/02(金) 19:09:58.76 .net
- 読みにくいから、漢字にはカッコいらないよ。
- 403 :日本海ルート論者:2016/12/12(月) 16:34:36.87 .net
- >>296、>>299、>>317の続き。【2. 師升は倭奴國王ではない。】(その2)
【後半部の文意検討】
❷「奉献す。」((後漢書安帝紀36後半部「(冬十月,倭國遣使)奉獻」)
A「生口百六十人を献じ,謁見を請い願う。」(後漢書東夷列伝29後半部「(安帝永初元年,倭國王帥升等)獻生口百六十人,願請見。」)
<検討の流れ>
1) まずA原文の「願請見」をどう訳すか。「請見(謁見を請うこと)を願う」の場合は「(京都にいる皇帝への)請見を(樂浪郡で)願った」との訳し方も可能?
2) もう1つは「謁見を請い願う(請願する)」。(請い+願う)と同義語が重複するよくある熟語の形で座りが良い。故にこちらを採るのが無難。
3) ❷原文は他の地名を記していない「奉獻」であり、奉献場所は皇帝のいる京都に特定できる。つまり、使者は「京都に到着し、そこで奉献した」ことが確定。
4) 次に「生口百六十人」。高句麗はこの2年前(105年)に遼東6県を寇略し、同年9月に遼東太守から反撃を受けた。この後111年に貢献するまで漢とは敵対関係にある。
7) 生口は捕虜を意味する。漢人生口と書かれていない為、漢から見た普通の捕虜となる。この為普通に考えればこの時点での東夷反漢勢力である親高句麗派の半島人となる。
8) 遼東太守高句麗討伐が105年9月。生後100日在位半年幼帝の死&安帝13歳即位が106年8月。111年の高句麗和睦を待たず、帥升使者らの京都奉献は107年10月と早い行動。
9) また戦争捕虜ならば160人は少ない。だが政治犯160國分ならどうか。後漢の早い反撃を見て107年春頃迄に回復した樂浪倭國ルート沿い倭韓濊諸國の親漢クーデタの証と見る。
10) 後漢内でも107年9月に司空となった周章が皇帝廃立の密謀により同年11月に死ぬ政変。倭國奉献はその最中の10月。(因みに周章のあざなは次淑だが書によって淑が或いは升との注有り)
11) 更に西域反乱による西域都護廃止も前月の107年9月。西域維持軍の撤退(西域支配の放棄)の翌月に倭國使者奉献とタイミング的には計画された都護廃止発表だったかも。
<全体の文意〉
安帝の永初元年(107年)冬10月、倭國、つまり倭國王の帥升と倭國の諸侯たちがそれぞれの使者を遣わし、
安帝の住む京都に到着し、楽浪郡までに至る半島沿岸諸國の政治的捕虜反漢の親高句麗派160名を献じて皇帝の謁見を請い願った。
- 404 :日本@名無史さん:2016/12/13(火) 23:17:48.24 .net
- >>403
生口は捕虜ではありません。留学生です。
捕虜だと警護の人達を付けないといけないので総勢2000人以上の大使節団になります。
- 405 :日本@名無史さん:2016/12/14(水) 03:01:32.48 .net
- 労働や兵役用の捕虜だと健康体でないといけないから
160人運ぶのは確かに大変そう
- 406 :日本@名無史さん:2016/12/14(水) 03:13:59.64 .net
- >>398
それこそ縄文信仰だと思うが
- 407 :日本海ルート論者:2016/12/14(水) 23:27:32.57 .net
- >>404
>捕虜だと警護の人達を付けないといけないので総勢2000人以上の大使節団になります。
403さんは列島で捕虜を調達して船で運ぶ発想に近いと思います。確かに160人の捕虜を船で運ぶのは大変でしょう。
「還漢生口」というように漢人捕虜を後漢に返却するなら楽なんですが。
しかしですね。
生口
http://www.zdic.net/c/f/e2/227122.htm
>1.俘虜。
>2.牲畜。
生口は捕虜あるいは生贄の動物です。
留学生というニュアンスは少し平和すぎるし、日本人に都合の良い発想でしょう。
少なくとも帥升らの使者たちが連れて行った生口は皇帝に「献じられた人々」であり、所有物としての人間であることが明白な訳ですから。
持論を展開すれば。
沿岸都市を親倭勢力に塗り替えながら、半島で捕虜を調達し、そのまま楽浪郡まで連れて行く。
丸腰の捕縛者160人程度なら2000人など必要なく、10人乗り船舶で50艘分の警護500人で十分でしょう。
更に言えばこの政治ショーの裏側に楽浪郡の軍事的援助が無い筈がない訳です。
無論、半島内に倭人の國があれば捕虜160人の護送など楽勝ですしね。
- 408 :日本海ルート論者:2016/12/15(木) 00:33:02.94 .net
- 「生口」は「捕虜」か「生贄の動物」のことです。
ですから。帥升らの使者が献じた160人の「生口」は「捕虜」です。
同様に。倭人伝に出てくる、船旅を成功させたときの報酬として「持衰に与えられる生口」は「生贄の動物」のことです。
では、倭人伝に出てくる「男生口」「女生口」「男女生口」とは何か?
男、女、男女、と性別を強調するのはなぜか?
これまで色々と悩んで来ましたが。
多分にこれ【生贄の人間】です。
男女はつまり陰陽。用途も当然異なってくる訳です。
- 409 :日本@名無史さん:2016/12/16(金) 08:46:01.27 .net
- 中国で生贄文化はすでに終わってないか?
生口は奴隷だろ
- 410 :日本海ルート論者:2016/12/16(金) 23:36:04.35 .net
- >>409
>中国で生贄文化はすでに終わってないか?
勿論終わってます。
生贄や徇葬の風習は夏殷周の頃の中国では行われていましたが、
当時の中国では行われていない。
しかし、夏の頃からいたとされる倭人の末裔である卑弥呼は今も徇葬をしている。
また曹操は建安10年(205年)に、厚葬の風潮を正し、豪奢な葬礼を行ない墓碑を立てることを禁止する薄葬令を発してます。
ですが、夫餘や高句麗は厚葬であると東夷伝に書かれています。
中国に近い程、中国の風習に近く、中国から離れる程、中国の風習から程遠くなる。
しかし、一番遠い筈の倭人は未だに周人のように大夫を名乗り、東夷の中で一番規律正しくかつ幸せな生活を送っている。
ここらに魏人の古代人への憧れと共に文明人たる自負を感じる所な訳です。
因みに魏では奴隷の扱いを良くする令が何度も出ており、奴隷を献じられ喜ぶのを恥と感じるのではないかと思います。
故に男女生口(男女の捕虜)という語を用いて示したのです。
倭人伝によると、倭人にとっての生贄の人間というのはつまり「持衰」のように、
何らかの特殊技能を持って仕え、失敗すれば身を捧げるという職能をもつ人のことのようです。
大きな意味では卑彌呼もまた同じ持衰的職能であり、生贄の人間ということができると思います。
- 411 :日本海ルート論者:2016/12/17(土) 14:18:57.96 .net
- >>296、>>299、>>317、>>403の続き。【2. 師升は倭奴國王ではない。】(その3)
@ 建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。(後漢書東夷列伝29)
❶ 東夷倭奴國王遣使奉獻。(後漢書光武帝紀下243)
A 安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。(後漢書東夷列伝29)
❷ 冬十月,倭國遣使奉獻。(後漢書安帝紀36)
まず。帥升wikiに詳しいが翰苑や通典に倭面上國or倭面土國の記述があるのを良いことに「金印を賜らなかった倭國王」という難題を安易に放棄した説があるが。
後漢書では@❶共に倭奴國とあり、A❷共に倭國とある。1書で2箇所の確認ができ、誤記が生じれば2書を持ち寄れば、誤記1箇所に対し正記3箇所と訂正が容易である。
「更に言えば」「大体からして」「そもそも」翰苑と通典には加筆誤記共に多く「後漢書の方が誤りである」という論法には信憑性が全くない。
また他にも「57年に印綬を賜った倭奴國王が倭國王となった」という説がある。こちらには説としての論拠と価値があるが。
まず@の通り、「倭國内の一小國である倭奴國」は「倭國」ではない。(勿論、倭國の蔑称が倭奴國だとか倭奴國の略称が倭國だということでもない)
しかし、107年時点の倭奴國王が、倭奴國王でありながら、かつ倭國全体の盟主である倭國王と成長した可能性はある。印綬を得たことでむしろその可能性は高いとも思える。
だが論理を展開していくとほころびが生じる。
後漢は帥升を倭國王と記させており、仮に帥升が漢倭奴國王印を持つ倭國王ならば、帥升が単なる漢倭奴國王であることに満足していないということになる。
つまり、【帥升が倭奴國王である場合、更新を望むと望まざるとに関わらず、印綬を賜わる側の後漢から印綬の更新を強いられる立場にすらある。
しかし、志賀島から出土した金印には「漢倭奴國王印」と刻まれており、「漢倭國王印」へと更新されていない】
このことから、帥升は倭奴國王印を持たぬ倭國王であること確実である。
漢倭奴國王印を持たないならば帥升は倭奴國王でもない。
故に「師升は倭奴國王ではない。」
- 412 :日本@名無史さん:2016/12/17(土) 23:28:16.85 .net
- そういうことね
- 413 :日本@名無史さん:2016/12/18(日) 21:57:33.79 .net
- 金印はすでに最高位の印綬なわけで、その時代には倭国王の位はなかったと考えていいのかな?
- 414 :日本@名無史さん:2016/12/18(日) 22:27:41.54 .net
- 女國の婿殿だから委㚢國王称しても良いのね(㚢 古文奴字)
- 415 :日本@名無史さん:2016/12/19(月) 17:29:38.10 .net
- 金印によると
「漢は奴國王に(倭国を)委ねた」印」(しるし)
とあるから
当時の倭国に首都や強力な支配機構はなかっただろう
- 416 :日本@名無史さん:2016/12/19(月) 19:45:54.72 .net
- 倭国が印面に入ってないじゃないかw
やり直し!
- 417 :日本@名無史さん:2016/12/19(月) 19:53:31.78 .net
- そもそも「委ねる」を「倭」と読むのが無理
- 418 :日本@名無史さん:2016/12/19(月) 20:05:41.25 .net
- 「漢は奴國王に委ねた」
で委ねた対象が倭国であることは
大国を表す金製の印であることで明らか
- 419 :日本@名無史さん:2016/12/19(月) 21:13:13.02 .net
- 奴は「倭の国」の「の」だよ
- 420 :日本@名無史さん:2016/12/19(月) 22:07:36.09 .net
- 㚢 古文奴字
- 421 :日本@名無史さん:2016/12/19(月) 22:28:18.19 .net
- >>419
訓読みするなよ
- 422 :日本@名無史さん:2016/12/20(火) 00:10:41.85 .net
- >>418
国の名前が入らない国璽があるか!
バカモン!
やり直し!
- 423 :日本@名無史さん:2016/12/20(火) 00:11:37.93 .net
- >>419
この時代なら、助詞には、の、ではなく、つ、を使うのだ!
やり直し!
- 424 :日本@名無史さん:2016/12/20(火) 00:26:44.47 .net
- 名[國]爲[邦] といって大切なインフォメーションを残してくれてるわりには
本文中に[邦]字は皆無
たぶん [邦][那][㚢][奴]を通用していたのであろう
[㚢][奴]は女の親方がおる組
高句麗のところでも[奴]字が組を表現する用法で出てくるが
高句麗のところも同様に女の親方がおる組のけがあるし
三国史の王位継承のエピソードでも親父の嫁を嫁にしてどうちゃらとか
そそ [召西奴]さんというのも女王だし
- 425 :日本@名無史さん:2016/12/20(火) 03:23:03.83 .net
- 日本語で頼む
- 426 :日本@名無史さん:2016/12/20(火) 09:44:15.35 .net
- >>422
主語は「漢」だよ
いい加減、揚げ足とるなよ
- 427 :日本@名無史さん:2016/12/20(火) 11:41:27.75 .net
- アホの主張
- 428 :日本@名無史さん:2016/12/20(火) 13:14:51.95 .net
- 否定する根拠がないだけだろ
- 429 :日本@名無史さん:2016/12/20(火) 23:16:37.21 .net
- 二重冊封はありえないし実例もないので、「漢の伊都国王」と読むしかないよ
- 430 :日本@名無史さん:2016/12/20(火) 23:44:41.90 .net
- >>423
それは奈良時代の話だろ
- 431 :日本@名無史さん:2016/12/21(水) 13:02:24.99 .net
- もともと漢文だからどう助詞つけるか
なんて無意味。
- 432 :日本海ルート論者:2016/12/23(金) 01:31:30.98 .net
- 志賀島から見つかった金印「漢委奴國王印」の価値は、
「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。」(後漢書東夷列伝29)
↑この「倭奴國」の印綬と同一視できるか否かであって、
「委」が「倭」を意味しない場合、その価値は無い。
なぜ倭が委とし刻まれているかと言えば、光武帝が史上マトモな皇帝として知られているが故である。
つまり、漢人は一方的に「倭人」と呼んではみたものの、
周の故事に現れる倭人と同一視できるか否かは、当然怪しい
- 433 :日本海ルート論者:2016/12/23(金) 02:10:30.73 .net
- 上の続き。
故に、古代倭人の名前の由来と考えられ、また志賀島周辺に住んでいたであろう漢の頃の倭人の由来である
「委(刺青の)人」を示すことで自らが盲目的に故事礼賛する愚者ではなく、
科学的見地に立って文明を築く良識ある現代人であることを示すために、「漢委奴國王印」と刻んだのだろう。
つまりそこには、国家安寧のためには一般大衆は古代の倭人と今の倭人を混同しても良い。それが政治である。
しかし、印綬を直接見られる知識人は科学的見地をもって混同してはならない。それが政治を執り行う者の見方である。いう意味が込められている。
この証明は不可能だが、倭人伝が夏王朝まで遡って断髪文身の古代人と今の倭人の黥面文身とを重ね合わせている文を読むと、
その文脈はこの「漢委奴國王印」にも必ずや繋がっていると確信できる(各国の印綬は照合の為に記録されている筈なので編纂者が目にしている可能性がある)。
この光武帝の態度は盲目的な故事礼賛の風潮を利用して国家を簒奪し果てに国を滅ぼした王莽と対照的である。
その光武帝にして自らの死の直前、「委人」を「倭人」として扱い、更に印綬を下賜して国家千年の計を図った訳だから、
当時の故事礼賛の風潮が余程強かったことは間違いなく、王莽の喧伝した渡大海東夷王を凌駕する意味での「『倭』人貢献」であったと解釈することができる。
- 434 :日本@名無史さん:2016/12/23(金) 14:22:19.66 .net
- 倭人か贋作か
- 435 :日本@名無史さん:2016/12/23(金) 17:20:35.18 .net
- ティアマトーは日本列島というより大陸で活躍してたってだけの話で
活動範囲を広く見積もらないとって話しだな
- 436 :日本海ルート論者:2016/12/24(土) 01:27:18.85 .net
- >>424
辰韓人の使う語は秦人に似るもの有りというから、秦語を集めたまとまった資料があると楽しそうです。
丸々1年前のことだけど、NHKスペシャルでアジア巨大遺跡というのがやっていて、
湖南省の里耶で秦時代の竹簡が見つかった(里耶秦簡)。その中には例えば、、、
豬(ちょ)を使ってはならない、彘(てい)を使え。(ブタを表す漢字について)
自
王(自の下に王) を使ってはならない、皇(白の下に王)を使え。(皇帝の皇の字について)
要するに、度量衡だけでなく言葉や文字の統一も図ろうとしていたという話でした。
んでまあ。要は秦語のまとまった資料、少なくとも中国にはありそうですね。実に欲しい訳ですが(笑)
- 437 :日本@名無史さん:2016/12/24(土) 10:46:29.53 .net
- 正直、最近、狗奴国ってのは
存在しないんじゃないかって思えてきた。
なにかの勘違いじゃないかって。
単純な話「クニ」って言葉が化けてそう。「国内」ってニュアンスで。
とくに違和感を感じるのは、「男子為王」で
「他国の王で、そんな男を強調する意味があるのか?」って点。
王が男なんて、当時は当たり前の事なのに。
魏志倭人伝で「男子為王」の記述が出てくるのは、
「ヒミコ以前の邪馬台国王」と「狗奴国の王」だけなんだよね。
(伊都国にも王はいるけど、男王とはことわらない)
- 438 :日本@名無史さん:2016/12/24(土) 10:47:49.33 .net
- http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm
>其國本亦以男子為王(邪馬台国は元は男の王)
>此女王境界所盡。(境界の尽きるところ)
其南有狗奴國、男子為王(その南に狗奴国があり。男の王)
文脈全体で判断するに、 この「男子為王」は
同じ王の事と解釈すべきじゃないかと?
邪馬台国の男子為王=ヒミココで。
>倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
(女王のヒミコと、狗奴国のヒミココは元から不和)
「邪馬台国の過去の王がヒミココ(男の王)で、
新女王のヒミコと以前から対立していた」って
流れのが、ここの文脈にも合う。
ようは「退位した男王ヒミココと女王ヒミコが
以前から国内で不和だった」と。
- 439 :日本@名無史さん:2016/12/24(土) 10:50:35.40 .net
- 狗奴国が邪馬台国の南にあるって記述自体も一か所だけだし。
「国内問題のつもり」というニュアンスで「クニ」と使者に語ったのが、
使者に意図が伝わらず、邪馬台国と別にある国と解釈した。
で、そう勘違いした使者がその位置を想定する際、
旅程上、北から邪馬台国に入ったんで
消去法的に「南にある国」と解釈しただけなんじゃないかと。
つまり、ヒミココは引退させられた邪馬台国の前王でしかなく、
それが王位を取り返そうとし、争いになってた。
それが「もとからの不和」と言う記述。
>更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
>復立卑彌呼宗女壹與
そして結果的に、前の男王ヒミココが女王ヒミコを殺害し
王位に戻った(「更 立 男王」がまさにその当人)。
が、結局それで、国内がまた乱れたので、
トヨが立った流れじゃないかと?
- 440 :日本@名無史さん:2016/12/24(土) 13:33:40.09 .net
- クニという読みはともかく、狗奴国が国内問題であり、卑弥呼と卑弥弓呼は同族だと思う。
- 441 :日本@名無史さん:2016/12/24(土) 16:29:16.81 .net
- その場合
狗奴国+邪馬台国=倭国 と考えるか
狗奴国+女王国=邪馬台国 と考えるかだね
- 442 :日本@名無史さん:2016/12/24(土) 16:42:12.84 .net
- 名 國爲邦 (な)→[那][奴][㚢]
弓爲弧 (こ)→[孤]
卑彌弓呼
卑彌弧呼
卑彌弧乎 (こを) ←乎獲居臣(をわきし)
卑彌呼
卑彌乎 (を)
- 443 :日本海ルート論者:2016/12/25(日) 00:54:36.80 .net
- そこらへん日本海ルート論で言うと。
<方角に関して>
倭奴國と帥升を知る華夏は、(少なくとも倭奴國が強大であった頃は特に)、倭地が南に伸び、更に大国が一列を為して並んでいるという論理的解を持っています。詳細は帥升の証明で。
昔の男王と女王(卑彌呼)、今の男王(卑彌弓呼)は次に書きます。
- 444 :日本海ルート論者:2016/12/25(日) 03:04:07.91 .net
- <昔の男王と倭國>
其國本亦以男子為王
その(=倭人の)國もまた(=我々魏人と同じで)元々は男子(=男の子。魏人と同じであれば男性の先王の子)を以って王(=倭國王)と為す(男系相続を指す)。
*この文の前には倭人の風俗が長々と書かれており、ここの其(その)が示すのは「倭人」です。「倭人の國」は一般化されているのでこの男王は昔の倭國王を指します。
*この王たちはこれ以前に後漢が唯一倭國王と認めた帥升の男系子孫たちです。(帥升の前から男王がいたかもですが、華夏の認識する歴史が書かれています)
◎昔の男王は、倭國王であり、【倭全体の男王】である。その倭國が乱れると(「周の後の戦国時代のように各國の王が自立して」という含み)相攻伐した。
<女王と今の男王>
行程8國と旁國20を足した28國が共に一女子を立てて作ったのが女王國。倭國の全領域に迫る、ほぼ「倭國」と言って良い國。
狗古智國の卑狗を従えた狗奴國は、卑彌呼を共立せず不和のまま。但し、狗奴との戦争は多分に言い訳です。そういう落とし所が無ければ魏倭戦争勃発という。
<卑彌呼と卑彌弓呼の意味>
卑彌呼はヒメミコ、卑彌弓呼はヒコミコ。ヒメ(日女)は女子、ヒコ(日子)は男子、ミコ(神子)は継承者。但し、継承権は女子にある。ここらが魏と倭の齟齬。
だから卑彌弓呼の手元には卑彌呼ではないヒメミコがいるし、女王國には最大で28の卑彌弓呼ではないヒコミコがいる。
- 445 :日本@名無史さん:2016/12/25(日) 03:11:14.34 .net
- わかりやすく言うと当て字でしょ
それは人名、人の名前なの?
- 446 :日本海ルート論者:2016/12/25(日) 12:59:15.82 .net
- 倭人伝には実名敬避俗により人名はないと思います。
言霊崇拝でシャーマニズムである倭人が呪詛のリスクも気にせず外国から来た魏人に実名を教えるなんて考えられないことですからね。
神子(ミコ)は分かり易く言えば巫女(ミコ)でもあります。
この時代の倭人は自然信仰と祖霊信仰を同時に行なっている。
その為には一族の中に巫女が必要となり、その巫女を庇護する者が家長となる。
(王統譜を見ると一番若い男子が家を継ぐように見える。兄は家の外に出て共同体の役職に就くように見える)
故に神子(ミコ)は継承者であり、継承権は女子にある訳です。
- 447 :日本@名無史さん:2016/12/25(日) 16:19:10.96 .net
- 糞ジャップ共は全員津波に飲み込まれて死ね!!!!!!!!!!!!!!
ジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwwwwwwwwwwwwwwwwww
劣等人種ジャップについて語りたい場合は
↓
http://hanabi.2ch.net/ogame/
- 448 :日本海ルート論者:2016/12/28(水) 01:31:42.57 .net
- 卑狗(ヒク)は日子(ヒコ)であり、卑彌弓呼(ヒミクコ)は日子御子(ヒコミコ)である。
ヒクミコのミとクが入れ替えて聞こえてしまったが故にヒミクコという記述となった。
それは、日女御子(ヒメミコ)のメとミがくっ付いて聞こえ卑彌呼(ヒミコ)となったことと同じで、倭人ではない華夏人にどう聞こえたか?という問題でしかない。
その華夏人が聞いた倭語を自然に蘇らせられるのは、我々日本人を置いて他に居ない、と思う訳だが〜。いやだってそうだろう。外国語より全然日本語に近いんだから。
んでまあ。案外このヒメミコとヒコミコは、単なるもじりに留まらず当時の倭人社会と倭國の成り立ちに関する根幹に繋がってくるのである。
その意味で次の一文は新世界を切り開くに足る国家システムの大きな転換なのであった。
復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。
また卑彌呼の宗女(同じ男系一族の娘)である壹與を立て、年13にして王と為す、國中遂に定まる(乱が収まる)。
ひとまず次は帥升の証明を終わらせて。
その次は3本柱の1つヒメヒコ仮説に触れていきたい。
- 449 :日本@名無史さん:2016/12/28(水) 02:23:16.90 .net
- 卑狗の狗は句践/勾践の句の如く読み做すべし
句は犬の吠える音だともゆう
[卑狗]は[ひごぅ]乃至は[ひこぅ]たるべし
[卑狗]を目立たなくするために[日子]表記が発明されたのであり
けっしてその逆ではない
聞做しでっ任意の文字列を選択して漢字に落としてくれたとか
いまどきはもう駄目だろ
通常使用しないような古なへんな文字列をわざわざ選ぶこと自体に
不自然で無理があるでしょ
- 450 :日本@名無史さん:2016/12/28(水) 02:28:39.87 .net
- べしは日本語学び直すべし
- 451 :日本@名無史さん:2016/12/28(水) 21:07:25.88 .net
- >>450 が見えない
- 452 :日本@名無史さん:2016/12/29(木) 02:11:09.19 .net
- 邪馬台国と狗奴国は山彦と海彦なんだよ。
元々兄弟国が争っていただけだから、
別の敵が現れればすぐに収まる。
- 453 :日本@名無史さん:2016/12/29(木) 07:43:55.45 .net
- 邪馬台国内部の王統の争いだったとすれば、それも道理かもしれませんね。
- 454 :日本@名無史さん:2016/12/29(木) 20:41:09.77 .net
- せっかく白文読んでも読み下して日本語で発音してしまうとすべてがぶちこわしで無駄
現地音を学習する必要があると指摘した徂徠はどんだけえろいのかもお眩暈がしてしまう
- 455 :日本@名無史さん:2016/12/29(木) 20:54:56.00 .net
- まああれだ
自身のご先祖の物氏が半島列島間を盛んに徂徠していた
という点についてはちゃんと気付いていたのだろう
- 456 :日本@名無史さん:2016/12/29(木) 21:14:30.59 .net
- 日本語において常識とされる漢字の音については
これは、漢字文化圏内の鬼子・異端児といわざるを得ない
それをなんぞ
古の発音が列島において奇跡的に温存されたと妄想した
えろげなおばかさんさえここそこに涌いちゃったりしている
[魏]のキャラクターを[ぎ]と読ませるような行政的指導をしたたわけはいったい誰ぞ
[魏]の音はワ行なのが漢字文化圏のスタンダード
[委]が音符で[ぅあ][ぅい][ぅえ][ぅお]系で読ませるブツがたくさんあったりもする
日本語発音を横目においといて多様な漢字方言圏を鳥瞰してあげると
[委][倭][魏]それと[衛]は同音でしたとうのが当然の帰結
- 457 :日本@名無史さん:2016/12/29(木) 22:22:01.81 .net
- 倭と魏は発音が同じということ?
- 458 :日本@名無史さん:2016/12/29(木) 22:24:34.64 .net
- べしは日本語学び直すべし
- 459 :日本@名無史さん:2016/12/29(木) 23:54:42.20 .net
- [魏]字は[委]が音符で現代音は[wei]だし
隣国でも[倭奴]は[うぇのむ]
当然の如く無意識下に[倭]を[わ]と読んぢゃうけど
3世紀に列島で[倭]字が[わ]音で発声されていた保障は何もない
[魏人]にしてみたら遠方から[倭人]がやってきたら
音がおなじもんだからうれしいやらびっくりやら
[魏]字のをがむしゃらに[鬼]が音符であることにして
作為的に[ぎ]にしちゃったひとはちょっとクレバー
- 460 :日本@名無史さん:2016/12/29(木) 23:59:29.03 .net
- 倭 人に委ねるべきか、
それとも
魏、鬼に委ねるべきか
人の世界には干渉してはならないという神と
人は悪魔との契約を望んでいるという悪魔との間で
古代、大戦があったということ
- 461 :日本@名無史さん:2017/01/01(日) 05:19:40.62 .net
- >>459
この人は日本人をバカにしすぎているというか
素人考えで考えを先行させすぎ
平安時代には大学寮に音博士がいたわけで
そんな百姓読みの誤りを上流階級が見過ごしたはずがない
- 462 :日本@名無史さん:2017/01/01(日) 10:27:55.60 .net
- アタマ÷ソーダ
- 463 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 05:50:35.59 .net
- >>459の頭はそりゃ悪いだろう
ここまで知ったかしたアホはなかなかいない
- 464 :日本海ルート論者:2017/01/02(月) 10:59:25.69 .net
- あけおめ。
帥升の証明なんだがなにせリンク付けが面倒なんである。故に一旦短くまとめる。
>>296、>>299、>>317、>>403、>>411の剃刀化となる(笑)
さて。べしさんの委、倭、魏の音価が等しいとする説に色々と反論になりきらんイチャモン?が出てるけども〜
個人的にはあり得るし面白いんだが余り気にならない、という色々入り混じった感想(笑)。ただ攻め口はアリとか思う。
てのも。晋自体が周公旦が征服してきた元は唐と呼ばれる地であり、魏は多分に地名であり元々「巍」と山冠が付く周から見て「東」の山沿い。
周公旦が征服したのが元々東夷の類であったとしても不思議ではなく、その字が委を持っていてもあり得る話である。東征で有名な周公旦まで遡るというのも面白い。
だが。そもそも自分は委と倭と魏の音が「ヰ」でも一向に構わない(笑)。倭は漢人が勝手に付けた他称に過ぎずむしろ自称が「ア(阿)」か「ワ」かに興味がある。
ただ倭と同音なのを魏が喜ぶなら、壹が臺であっても不思議ではない、となりそうでもあるのがややこしい。(因みに自分は壹(音は豆)派。悪しからず笑)
- 465 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 11:57:37.93 .net
- 魏・・・反切 魚貴(上古音、中古音共通)
・上古音
高本漢 ぎゎ
王力 ぎぅゎ
子音が多すぎてどう表記すればいいか分らんが
singのngの記号が接頭の子音にあるのガ行の発音だったことは間違いない。
中古音では接頭のガ行音が消えてナ行に変わっているから
「ぎ」とは発音されなくなる。
表記が簡単な魚で言った方が早いかもしれん
魚・・・反切 語居
・上古音
高本漢 ぎょ
王力 ぎゃ
・中古音
高本漢 んを
王力 んお
日本語で魚はギョとも読み、ウオとも読むが
呉音か漢音かのちがいでしかない
ギョでも正確には「ん」は発音されているがうまく書けないので省いた
- 466 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 16:34:13.08 .net
- >壹(音は豆)派
それはそれでおもしろい作業仮説ではあろうけれども
現代音から羅列してみると
や行の[い]
[壹] http://www.zdic.net/z/17/yy/58F9.htm
[rit7][jit7][jit7][jit7][jit7][yid5][jit7][jat1][jik1]
[yī] http://www.zdic.net/z/pyjs/?py=yi1#y
[一][壱][壹][伊][依][衣][噫]
猗瑿稦禕一揖撎嫛檹椅毉辷祎嬄鹥悘弌咿壹夁
壱噫伊医依吚黳黟鷖洢渏畩漪衤繄乊蛜衣譩铱醫郼銥
[一][壱][壹][伊]が意味上からも等価であるとすると
[伊都]は[壹臺]と等価になり[伊帝][壹帝]が住まう居所とはなる
ちなみに
[伊聲耆]がステータス昇進して[佐治]しなくてもよくなると
[伊聲耆]は[伊耆]に化けることにはなる
- 467 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 16:48:43.32 .net
- 日本語で頼むわ
- 468 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 16:53:05.71 .net
- http://www.zdic.net/z/15/js/4F0A.htm
http://www.zdic.net/z/21/js/8072.htm
http://www.zdic.net/z/21/js/8006.htm
[伊聲耆]の現代音は[yī-shēng-qí]
聴做してあげると[い-しゃん-ち]
とりあえず便宜上[いさち]と読んでおくと便利ではあろう
この名前って
古事記では意地悪な兄ちゃんを叩き出した泣き虫の王子様だよね
- 469 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 17:28:04.75 .net
- [帝] http://www.zdic.net/z/19/yy/5E1D.htm
◎ 粤语:[dai3]
[煬帝][ようだい]の[だい]読みは変則読みの扱い
-----------------------------------------------------
[大] http://www.zdic.net/z/17/yy/5927.htm
◎ 粤语:[daai6]
◎ 潮州话:[dai6][dua7]
-----------------------------------------------------
[大]は[帝]と等価なのかもしれない
そしたら
[一大]は[伊帝][壹帝]と等価たるべし
しかしてそのなかみは[大夫難升米]と[大夫伊聲耆掖邪狗]
[都市牛利]は[一大]と同グレードの強力なボスで銀印持ち
- 470 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 18:21:02.63 .net
- http://www.zdic.net/z/19/sw/5DCD.htm
説文解字
[巍][委]聲 [牛威切]
[魏] [語韋切]
今人省山从爲[魏國]之[魏]←この主張はへん
[魏國]之[魏]の正規表記のは[巍]
----- [巍][委]聲 ----- だってばさ
- 471 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 19:19:24.93 .net
- http://www.zdic.net/z/15/sw/502D.htm
説文解字
[倭] [倭]與[委]義略同 [委] 隨也 隨 從也
[委]聲 [於爲切](wi) 音轉則[烏何切](wa)
----- [倭][委]聲 ----- だってばさ
- 472 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 20:03:19.59 .net
- 各地の[魏]の発声例ので
https://ja.forvo.com/word/%E9%AD%8F/
- 473 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 20:36:39.88 .net
- http://www.zdic.net/z/19/yy/5DCD.htm
音韻方言[巍]
◎ 客家话:[陆丰腔] ngui3 [客英字典] ngui2 [台湾四县腔] ngui2 [梅县腔] ngui2 [海陆丰腔] ngui2 [客语拼音字汇] ngui2 [宝安腔] ngui2
◎ 粤语:ngai4
南方方言に[ng]がもれなく分布しているけど
これらは聴做してあげると[に]音に近似で[ぎ]音からは程遠いだろ
音轉で弾き出されて南方に残っていると考えると
[ng]のの前の時期に[wi]がはやったとか
方言で[ng]のと[wi]のが並行してはやったとか
ごつい音轉が発生した時期は4世紀の五胡十六国時代
- 474 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 21:12:33.47 .net
- 各地の[委]の発声例ので
https://ja.forvo.com/word/%E5%A7%94/
北京方言で
広東方言粤語で (わい)
このさい
[委奴國]は(わいなこく)でもよかか
そしたら
[倭國]のは(わいこく)でしょ
[阿]ののしでかしたシマとしては
[阿残]のしでかしてたシマの[樂浪]との対比上でぴったし
記の「伊那志許米志許米岐穢國」が早良で
そこののぬしは移動してきた穢を極端に嫌う[薉人]
金属加工に秀でた[薉人]は[淮河]流域から移動してきた東夷だともいう
- 475 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 21:12:34.07 .net
- 各地の[委]の発声例ので
https://ja.forvo.com/word/%E5%A7%94/
北京方言で
広東方言粤語で (わい)
このさい
[委奴國]は(わいなこく)でもよかか
そしたら
[倭國]のは(わいこく)でしょ
[阿]ののしでかしたシマとしては
[阿残]のしでかしてたシマの[樂浪]との対比上でぴったし
記の「伊那志許米志許米岐穢國」が早良で
そこののぬしは移動してきた穢を極端に嫌う[薉人]
金属加工に秀でた[薉人]は[淮河]流域から移動してきた東夷だともいう
- 476 :日本海ルート論者:2017/01/03(火) 02:24:59.06 .net
- 気合い入ってるな(笑)
壹の豆(ト)読みは有りだと思うんですけどねえ。
でもまあ邪馬壹がヤマイでも構わないデス。基本、ヤマだけでも音合わせできるようにしてるんで(笑)。
倭もね。倭がウィなら倭投馬でウィヅマ(出雲)、ワならワヅマ(倭奴國から見た東=アズマ)のどちらでも面白いかなあと。
ふと思ったのは、
倭=委=ウィまではイイと思うんですけど、一や壱(壹)まで委とイコールにするのはやり過ぎのような(笑)
ちとまとめ過ぎるとどっかに支障出そうな。
負けずに次にこちらも1つネタを。
こういうことやってるから先に進まないんだが(笑)))
- 477 :日本海ルート論者:2017/01/03(火) 03:44:21.51 .net
- http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=79536&page=165
如淳曰如墨委面在帯方東南萬里(漢書地理志下103 注釈)
【かなり難解でしたがコレで解けたと思います】
訳してみます。句読点は下のように打ちます。如淳は魏時代の人なので後半部は3渡海後の里数である萬里が判明しており、それで注釈をしている訳です。
問題は「如墨委面」の訳でしたが、「委面」では意味を成しません。下のように訳すのが正解です。如淳は倭人伝に描かれた倭人を読み或いは難升米を実際に見て注釈しています。
如淳曰:如墨委面。在帯方東南萬里。
如淳曰く:墨を顔に落としたが如し。帯方東南萬里に在り。
【「如墨委面」は有名な「庖丁解牛」(庄子)の文中にある「如土委地」が原型デス】↓こんな話です。
ある料理の達人が包丁さばきについて話す。筋に逆らわず動かせば19年使っても新品のようだと。
つまり、天の理に従い、牛本来の身体の筋道に沿って切れば、「土くれが地面に落ちたが如く(見分けがつかない)(如土委地)」。
話を聞き終えた君主は「養生を得たり(良い生き方、生かし方の極意(理に逆らわず従うこと)を知ることができた)」と言った。
委の読みは「落ちる」が気に入らないなら「委ねる」でも構いません。要は自然に落ちたり、自然の摂理に委ねることで「見分けが付かない」自然な状態になれば良い。
土を地に委ねれば見分けがつきませんし、木の枝を森に委ねても見分けがつかなくなります。ですが墨を顔に落としたら、見分けがつかなくなるでしょうか?
つまり、普通の人ならば異常事態。でも「倭人の顔は刺青がしてあり墨を落としても見分けがつかない」(だがそれで自然なのだ)という洒落た肯定表現となっています。
- 478 :日本海ルート論者:2017/01/03(火) 03:58:37.78 .net
- 上の補足訂正
>問題は「如墨委面」の訳でしたが、「委面」では意味を成しません。下のように訳すのが正解です。如淳は倭人伝に描かれた倭人を読み或いは難升米を実際に見て注釈しています。
三国志の倭人伝に描かれた倭人を読んでいては多分間に合わないですねコレ。なので訂正。
倭人伝の大元となっている魏國遣倭団の報告書(或いは公孫氏文書)を読んだ。
難升米や掖邪狗らを見た人々から聞いた。
そして、実際に難升米や掖邪狗らを如淳自身が見た。
この3通りの何れかでしょう。
- 479 :日本@名無史さん:2017/01/03(火) 08:03:10.69 .net
- 漢書の如淳、王贊、顔師古の注釈は通してみれば、「倭」と「委」の解釈ですね。
- 480 :日本@名無史さん:2017/01/03(火) 08:04:52.73 .net
- >>470
形声で、鬼が意符で、委が音符なのは否定しないが
反切が示しているのは、魏がギと発音されていたという事実だな
形声文字とはいっても、同じ音符がつけばすべて同じ発音をするわけではないのは
当たり前の話。音符はあくまで指標を示している程度の意味でしかない。
だから四声の違いに足らず、実際に発音が違うなんてこともざら。
たとえば、識と織。どちらも説文解字では形声文字とされ音符は旁(つくり)の部分とされているが
語頭子音が異なる。
このように、音符に惑わされて百姓読みが起こらないように知識人は反切を使った。
日本人と言えど単純な失敗は起こさなかっただろう。
- 481 :日本@名無史さん:2017/01/03(火) 17:32:20.54 .net
- >>472
福建省の閩南語のlimkianhuiさんは鬼(ぐぃ)の音で発声していますね
- 482 :日本@名無史さん:2017/01/03(火) 17:53:36.67 .net
- [鬼] gui,kwui,gwai,kiuəi,kuj,kyoix,kui(ぐぃ,くゐ,かゐ,ぐわぃ,…,くぃ)
-- www.zdic.net の音韻方言からの拾いもの --
https://ja.forvo.com/word/%E9%AC%BC/
福建省の閩南語の二人の[鬼]の発声例 (ぐぃ)
これから(ぎ)に跳躍するにはかなり高めのハードルがありそう
- 483 :日本@名無史さん:2017/01/03(火) 17:54:45.51 .net
- もうさ、反切まで列島方言の漢字読みでやらかしちゃだめよね
- 484 :日本@名無史さん:2017/01/03(火) 18:07:09.62 .net
- >日本人と言えど単純な失敗は起こさなかっただろう。
この卑屈さは何なんだろう
ありもしない正しい発音を想定して百姓読みとかぬかしてさ
漢字の音は多様
漢字は時と所によって様々な発音が割りあてられていたからこそ
日常会話の不能な様々な言語使用領域間で「使譯」の用に有効だったのだろ
- 485 :日本@名無史さん:2017/01/03(火) 18:08:43.46 .net
- 康熙字典[魏]
【廣韻】魚貴切
【集韻】【韻會】虞貴切 𠀤音[僞]
【集韻】語韋切 音[巍]
【正韻】吾回切 音[嵬]
[魚] ng,ngiu,jyu,ŋa,ŋiɔ,ngio,yu,iu
[虞] ng,ngi,ngu,ngiu,ŋio,ngyo,yu,iu
[語] ngi,gni,ni,ŋiɔ,ngiox,yu,iu
[吾] ng,nga,ŋuo,ngo,wu,ŋu
[僞] ngui,ngai(にぅ,なぃ),wui(ゐ),ŋjue,ngyeh,wei
[巍] ngui,ngai(にぅ,なぃ),ui(ゐ),ŋul,ngyoi,wei
[嵬] ngui,ngai(にぅ,なぃ),ui(ゐ),ŋuoi,nguai,wei
[鬼] gui,kwui,gwai,kiuəi,kuj,kyoix,kui(ぐぃ,くゐ,かゐ,ぐわぃ,…,くぃ)
-- www.zdic.net の音韻方言からの拾いもの --
- 486 :日本@名無史さん:2017/01/03(火) 18:36:17.06 .net
- >ふと思ったのは、
>倭=委=ウィまではイイと思うんですけど、一や壱(壹)まで委とイコールにするのはやり過ぎのような(笑)
倭=委=ウィ わ行の[ゐ]
一や壱(壹)=伊 や行の[ゅい](以の草書体)
- 487 :日本@名無史さん:2017/01/03(火) 22:23:28.24 .net
- おーーーーーーーーい
NHKにやらせ、苦情電話しようぜ
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磯田道史 が 初めて 纏向に いった
うそーーーーーー
受信料 払わねーーーーぞ
- 488 :日本海ルート論者:2017/01/04(水) 01:41:35.35 .net
- >>479
>漢書の如淳、王贊、顔師古の注釈は通してみれば、「倭」と「委」の解釈ですね。
というか、臣瓚と顔師古によって倭と委の解釈話になってしまっているんだと思いますよ(笑)))))。
如淳は魏時代の人、臣瓚はほんの少しあとの西晋時代の人、顔師古は唐時代の人です。大体3世紀中頃、3世紀後半、7世紀前半と活躍した時代に差があります。
ですからまあ単純に言えば、古い注釈者ほど当時の感覚に近い注釈をつける筈なのに、このやり取りの場合は注釈者に偉そうな注釈を2人がつけて滅茶苦茶になっている(笑)
大体からして如淳も悪いんですね。詩とか自分で注釈するなら兎も角アレでは美文どころか難解なだけですしね。
普通に読めば「墨の如き委面」と読む。でも委に刺青という意味は無い。
それで「墨の如き倭面」と読む者も出てくる。でもそれなら最初から「倭面」と書く筈なんです。注釈元の文には「倭」と書いてあり、その注釈をしている訳だから。
まあ。次にひとまず三者の注釈文を参考に出しときますが色々とご意見どーぞ。
- 489 :日本海ルート論者:2017/01/04(水) 02:38:45.62 .net
- (0)樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。(漢書地理志下103)
↑上の文に対する3つの注釈↓
⑴如淳曰如墨委面在帯方東南萬里
⑵臣瓚曰倭是國名不謂用墨故謂之委也
⑶師古曰如淳云如墨委面蓋音委字耳此音非也倭音一戈反今猶有倭國
魏略云倭在帯方東南大海中依山島為國度海千里復有國皆倭種
ps.
因みに【如墨委面】の日本海ルート論的解釈は、荘子(庄子)の「庖丁解牛」にある「如土委地」と同じ(委は動詞)(詳細>>477)。つまり。
⑴如淳曰く:墨を顔に落とすが如し。帯方郡の東南1萬里に在り。
- 490 :日本@名無史さん:2017/01/04(水) 08:22:04.18 .net
- >>483
だから、上古音についての専門家の見解はみな「ぎ」なんだって。
現在の方言分布に留まる話ではない。
それに客家が原漢人の子孫だと言われていることを知らないのか
- 491 :日本@名無史さん:2017/01/04(水) 13:02:42.77 .net
- >>488
委は金印との関係を述べているという説もありますね
- 492 :日本海ルート論者:2017/01/04(水) 16:34:56.04 .net
- >>491
ほお。
つまりどういう?
- 493 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 01:12:08.69 .net
- 委蛇逶迤
匍匐逶迤
匍匐委蛇
匍匐御枕方匍匐御足方而哭
委が当時龍蛇の用墨(入れ墨)をも意味したので
- 494 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 01:31:31.04 .net
- 唐の顔師古の生きた時代には
[倭]の発音は[一戈切]の[yua](のもあった)のですと
もっともほどなく消えてしまうけど
って
[倭][倭人]について 張莉 のにかいてあった
如墨委面については >>493の委の用墨説のと
しゃれてかぶらせてあるのが
如墨氏委面 なのかもしれんよ
- 495 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 01:43:43.19 .net
- 日本語でお願い
- 496 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 06:46:07.60 .net
- 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/vX3ERl
https://youtu.be/Kgp4ZCK6sW4
https://youtu.be/1yjRBMVEKFs
https://youtu.be/XPywXIvckI8
https://www.youtube.com/watch?v=dCEJ7TUY06w
- 497 :日本海ルート論者:2017/01/05(木) 11:51:00.51 .net
- 493の
>[倭][倭人]について 張莉 のにかいてあった
はこれですね
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/sio/file/kiyou7/no07_03.pdf
492
>委が当時龍蛇の用墨(入れ墨)をも意味したので
委はクネクネしてる様だけで蛇の刺青は意味してないんじゃないですかね?
自分もついこの前まで委に刺青の意味があると思ってたけど、それ自体が思い込みだったと思います。
なにせそういう用法が検索しても見当たらないような。
- 498 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 17:39:09.16 .net
- おせっかいでちょっと添削してあげたら
「委が当時龍蛇の用墨(入れ墨)をも意味したので」
↓
当時の[委]文字には[龍蛇][用墨]のイメージも織り込まれていたので
- 499 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 18:27:08.72 .net
- [委面]の用例
https://zh.wikisource.org/w/index.php?search=%E5%A7%94%E9%9D%A2
[委面]の意味候補
(13) 随顺 顺从 [yield and comply]
如
委贽(指人臣拜见君主时 屈膝委体于地)
委化(随任自然的变化)
委分(任凭天命)
委质(下拜;屈膝委身于地下 后引申为托身;归顺。质:形体)
委制(归顺并接受约束)
委和(随顺自然)
委面(归顺称臣)
委从(随顺 顺从)
http://www.zdic.net/z/17/xs/59D4.htm
- 500 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 18:32:35.72 .net
- [委]の説文解字
http://www.zdic.net/z/17/sw/59D4.htm
孕み女の頭に禾
稲(ゐね)が頭をたれるの図
- 501 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 18:49:00.93 .net
- 説文解字は同時代資料としては価値があるのかもしれないが
絶対的に正しいというものではないと知っておくべき
例えば、楽という字。
説文解字では、大鼓、小鼓が台木の上に設置されている象形文字のように
書かれているが
実際は、蚕が繭をつける木であるクヌギの木を表す象形文字であることが
近年の金文研究によって明らかとなっている。
- 502 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 18:52:06.35 .net
- 「如墨委面在帯方東南萬里」と言って
[委面]の文字列を持ち出してからに
サブの効果として
読み手に[鯨面]を連想させようとする構図
委面 ぅいみゃん ぅいめん
↓
連想
↓
異面 ゅいみゃん ゅいめん = 鯨面,墨面
[委面]の表面的な意味は[率俾]とかと等価なんだろ
「海隅出日罔不率俾」
- 503 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 18:55:46.40 .net
- http://www.zdic.net/z/17/sw/59D4.htm
下側の絵文字ながめてもろ納得
- 504 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 19:06:01.99 .net
- アニメの神様 というのは?
- 505 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 19:21:14.59 .net
- ふつうの読者向けの解として
「如墨委面在帯方東南萬里」
墨胎氏の如く委面す、帯方東南萬里に在り。
「如土委地」まで連想できるのはかなりな上級者
- 506 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 19:59:32.65 .net
- 委面(帰順称臣)
[委面]は[面を出して頭を垂れる] ごきげんようのごあいさつ
- 507 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 20:23:48.15 .net
- [墨胎氏]
https://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A2%A8%E8%83%8E%E6%B0%8F&redirect=no
墨胎氏の[胎]は[臺]と同音で[怡]とのは別音
[胎]は方言曰で
[胎]養也 此假借[胎]爲[頤養]也
又曰[胎][逃]也 則方俗語言也
遼西の鼎残した土人も墨からみなのかあ
- 508 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 21:12:41.98 .net
- >>489
(1)如淳曰く:墨を顔に落とすが如し。帯方郡の東南1萬里に在り。
如淳は何を言いたかったんんでしょうか
- 509 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 21:57:28.61 .net
- [臣智]は[𦣞智]で[辰智]と等価なのではないのか
>>507 [胎]養也 此假借[胎]爲[頤養]也
の [頤養]の[頤]の異体字が[𦣞]で
[一][壱][壹][伊][夷][異]と同音の[ゅい][yi]
[𦣞]=[頤]--[頷]→[韓]=[瀚]
[yí]=[yí]--[hàn]→[hán]=[hàn]
↑
[含達婆]
- 510 :日本海ルート論者:2017/01/06(金) 01:00:41.93 .net
- >>508
>如淳は何を言いたかったんでしょうか
単純に言えば「黥面。帯方郡の東南1萬里に在り。」ということだけです(笑)
【ただ「黥面」と表現したくない。それで「如墨委面」と表現した】訳ですね。曹魏らしいというか詩的というか。論理的というか理屈っぽい(笑)
魏人は刑罰で黥面を施すが、倭人は黥面文身で尊卑の差を示す。高貴な倭人ほどひどい黥面で魏人には大罪人に見える。でもこの誤解は互いの風俗の違いでしかない。
倭人伝でも黥面文身の後で延々と説明が続き、黥面文身=未開な野蛮人というイメージを持たせないように相当配慮しています。
結局魏人にとっては「伝説の倭人が、魏帝に謁見を請う(後漢の光武、安帝以来約130年ぶりに)」という功績が大事ですから、黥面のポジティブ化が重要となってくる訳です。
「墨を顔に落としたが如く(見分けがつかない)(つまり倭人の顔には刺青がある)(だがそれも彼らにとっては自然なことなのだ)」←僅か4字でお上手(笑) 【如墨委面=黥面】
ただ他の人にとっては難解でわからなかった。その結果、【委面=黥面】という間違った解釈が出てきた(笑)
そこで結局わかっていない臣瓚が、委面は刺青を言わず古くは倭を委と言った(【委面=倭面】)という注釈をつけた(笑)
そこにわかっていない顔師古が割り込んで委(ウィ)と倭(ワ)では発音が違うと注釈をつけた(笑)(【委≠倭】)
- 511 :日本@名無史さん:2017/01/06(金) 10:31:57.11 .net
- ・如淳曰:「如墨委面 ,在帶方東南萬里。」
委の面、墨すが如し。帯方東南万里に在り。
委の顔は墨のように黒い。
・臣瓚曰:「倭是國名,不謂用墨,故謂之委也。」
倭、これ国名、墨を用いるを謂わず。故に、これを委と謂うなり。
倭は国名である。墨を用いることを言っているのではない。(委は、墨を面に委ねるという意味ではなく、国名を謂っているのだ)
よって、これ(倭)を、委と謂ったのだ。
・師古曰:「如淳云『如墨 委面』,蓋音委字耳,此音非也。倭音一戈反,今猶有倭國」
如墨委面、けだし音は委の字のみ。この音、非なり。倭の音、一戈反。
如墨委面とあるが、おそらく音を意味する字は委だけだ。
この(委の)音は非と同じ音である。一方、倭は一戈反である。
(委と倭は音がちがう。)
・まとめ
如淳の分かりづらい注釈のせいで誤解を生み、再注釈が行われたのだと思われる。
謎解きをすると
倭と委は元々同じ読みであり、当初如淳は簡略のために委と書いたが
これを委ねると読んだ者が多かったため、委は倭のことですよと注釈をしたのが、臣瓚なのだろう。
ところが、時代が下るにつれ、倭と委の音が変わってしまった。
そのために、倭面土のように、ちがう国があるのでは?といった疑問や委面と倭面土は関係があるのでは?
といった疑問をも呼び込むこととなってしまった。
そこで、師古が音は委だけですよと再再注釈をつけ
さらに、もはや委と倭がちがう音であることを書き加えた。
こういうことであろう。
- 512 :日本@名無史さん:2017/01/06(金) 10:45:21.19 .net
- あと、非と委は音がちがうではないかという意見があろうと思うが
非の母音部分と同じという意味ではないか。
つまり、
後漢代は、上古音であり、倭と委は同音であり問題ない。
顔師古のいた7世紀は、中古音であり、倭と委は音が異なった。
よって、倭は一戈切、委は一非切。
顔師古はこう記述したということである。
- 513 :日本@名無史さん:2017/01/06(金) 11:06:27.90 .net
- 漢委奴国王印が表しているように、もともと倭は委と同様に用いられていたと思われる。
つまり、倭人が自分の国のことを「ウィ」と言っていたので、漢人がその音をそのまま当てて「委」と記述した。
しかし、常用する漢字であるので、正史においては人偏をつけて「倭」という漢字を作り、区別した。
正史においては倭という漢字が用いられたが、実生活では「委」という漢字を簡単のために用いていたと思われる。
このような事例は、然と燃にも見られる。
然という字はもともと燃えるという意味であったが、仮借(かしゃ)から、然り(しかり)という意味で用いられることになった。
そして、然りの意味で使われることが多くなってしまったために、もともとの燃えるという意味で用いる場合の方を区別して
火編をつけるに至った。我も同様だ。戈(ほこ)という意味での我は死滅してしまっている。
委の字であるが、倭人という意味で委を使うのは、使用頻度が低すぎるために委ねるの意味に取って代わることはなく
倭人の委は人偏をとつけて、委と区別して倭という字が使われることとなった。
- 514 :日本@名無史さん:2017/01/06(金) 11:08:30.21 .net
- つまり、如淳の注釈はその名残であろう。
- 515 :日本@名無史さん:2017/01/06(金) 15:18:44.65 .net
- 鯨面って黒かったのか?
青とか赤とかじゃないの?
- 516 :日本海ルート論者:2017/01/06(金) 18:41:48.23 .net
- >>512
>非の母音部分と同じという意味ではないか。
なるほど。そういうことですか。文脈的にも座りが良いですね!
>>511
>委の顔は墨のように黒い。
顔が黒いことを示すなら「黒面」の2字で足りると思いますね。それなら「委の顔は墨刑の如し(刺青がある)」で良いでしょう。
但し、この場合に「委の顔」は「倭人の顔」となると思いますが、
@注釈元に倭人とあるのに「委人」と書く意味がなく、少なくともそう書く意味の説明が欠けている。
Aそもそも注釈元に倭人とあるので「倭人」や「委人」と書く必要がない。
ですから「委の顔」と訳しちゃダメなんだと思いますね。「墨を顔に落としたが如し(荘子の如土委地と同じ)
勿論、度と渡が同じ「渡る」を示せるように、委と倭が同じ「倭」を示せる可能性は大いにあります。大いにあるというか「ある」と断言して良いとは思いますが…
それでも尚@の通り、倭人と注釈元にあるものを委人と書いてはダメな筈です。
それは漢委奴國王印が倭奴國とは別の委奴國の印だと判明したら、価値が一気に無くなるのと全く同じな訳です。
そう考えれば「倭と委は同じ意味だから、倭面の意味で委面と書いた」という説は成り立たない。読み手の解釈としてはあり得ても書き手としてそう書くことはあり得ないということですね。
- 517 :日本海ルート論者:2017/01/06(金) 22:37:11.65 .net
- 倭人伝には「度」が1回、「渡」が4回使われている。
意味は全て同じ「(海を)渡る」であり、使い分ける理由は一見ないように見える。
「度」が1回
@始「度」一海,千餘里至對海國(始めに一海を「渡る」こと1000余里、對海國に至る)
「渡」が4回
❶又南「渡」一海千餘里,名曰瀚海,至一大國(また南に一海を「渡る」こと1000余里、名を曰く瀚海、一大國に至る)
❷又「渡」一海,千餘里至末盧國(また一海を「渡る」こと1000余里、末盧國に至る)
❸其行來「渡」海詣中國(海を「渡り」中国を詣でるその行き来には)
❹女王國東「渡」海千餘里,復有國,皆倭種(女王國の東、海を「渡る」こと1000余里、また國あり皆倭種)
だが。これはどう見てもこの王莽伝の一文と関係がある。この文と一致させ、かつこの王莽の功績を超えたと知らしめる為に、度と渡の使い分けがある。
(瀚海という新たな海の発見はより具体的な曹魏の手柄となる(本当は公孫氏の手柄だったのかも知れないが))
東夷王「度」大海奉國珍(東夷王が大海を「渡り」、國珍を奉ず)(漢書王莽伝上52)
だから、
樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。(樂浪海中に倭人有り,100余國を為し,歲時を以って来たりて献見すと云う)(漢書地理志下103)
という文に対する注釈で、しかも久々に倭人の献見に遭遇した曹魏の文官である如淳が「倭」をあえて「委」と書くことはなく。委は倭を意味しないのである。
如淳曰如墨委面(如淳曰く、墨を顔に落としたが如し)
- 518 :日本@名無史さん:2017/01/06(金) 22:48:07.17 .net
- いまいち説得力が
- 519 :日本@名無史さん:2017/01/06(金) 22:54:40.02 .net
- 倭音一戈反だと音はどうなるの?
- 520 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 05:46:35.72 .net
- >>516
>顔が黒いことを示すなら「黒面」の2字で足りると思いますね。それなら「委の顔は墨刑の如し(刺青がある)」で良いでしょう。
たしかに一理あるんですよねえ。
如しというなら、主語をつけて然るべきですし。
委如墨委面だから、主語を省いたのかもしれませんが委面という言い方も言葉足らずですよね。
使者のメモ書きだったものをそのまま写したから、不細工な漢文になってしまったか
当時の流行りの言い方だったのか、語順がいいので書いたのか。
注釈の文脈を見てみると、前の文章は倭人が主語になってますよね。
だから、倭人如墨委面。 倭人在帶方東南萬里を表しているということになると、意味が通じます。
委は属する、ゆだねるのほか、かがむ、重々しく垂れる、といった意味があるから
矮と同じ意味で、委面をゆがんだ顔、不細工な顔という意味で使ったか、身体の曲面に入れ墨するという意味
で使ったか。
しかし、注釈が示しているように、国名になぞった、墨を用いるの意味ではないとあるのでそれもどうかと思うんですよ。
墨すというのは、入れ墨をする、墨を塗る、墨をぬっているかのように黒くそれだけ生活が貧しい、といった
意味があり、文脈に応じて意味を読み取る必要がありますが、後の人が鯨面文身と書いていることから
入れ墨のことと判断してよいと思います。ですが上の訳文ではあえて意味を限定しませんでした。
- 521 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 05:54:39.19 .net
- 如土委地の例文、よく見つけてきましたね
ですが、土(つち)を地面に従わせるように、包丁を肉に従わせる、は理解できますが
墨を面に従わせるは、少し意味が解しにくいです。
墨汁を垂らして、入れ墨の模様を決めるということなのでしょうか?
しかし、入れ墨はそのようには作らないはずです。
用墨を謂わずとありますので、委は音と考えた方がよいかと思います。
- 522 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 06:23:15.38 .net
- @如淳曰 如墨委面 在帯方東南萬里
A臣瓚曰 倭是國名 不謂用墨 故謂之委也
B師古曰 如淳云如墨委面 盖音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭國
----------------------------------------------------
----------------------------------------------------
@如淳曰 [如墨][委面] 在帯方東南萬里
@如淳曰
如[墨胎氏][委面] 在帯方東南萬里
----------------------------------------------------
A臣瓚曰 [倭]是[國名] 不謂[用墨] 故謂[之][委]也
A臣瓚曰
[倭]是[國名]
[委面]不謂[用墨] ---([委面]を[用墨]と解する読者がいる)---
故謂[委面]セシ[倭]ヲ[委]ト也
----------------------------------------------------
B師古曰 如淳云如墨委面 盖[音][委字]耳 此[音]非也 倭[音]一戈反 今猶有倭國
---(師古の関心は音に限定される)---
B師古曰
「如淳云[如墨][委面]」
盖[委音][委字]耳 ---([wi][we][wee][wei][ui])---
([倭字]相似[委字])
[委音]非[倭音]也
[倭音][一戈反] ---([yua][ya])([倭音一戈反]は他見できない)---
今猶有倭國
----------------------------------------------------
- 523 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 06:52:52.06 .net
- [倭]を[yi]と訛る拓跋系土人の子孫の教養を持つ顔師古さんはお困りの様子
[倭音][一戈反]が[yua]のところは当然として
[yua]が[わ]音に近いと中国人の張莉さんまでいっているしまつ
たけぢいちゃんにして
「[倭]の発音は[一戈反]つまり[わ]である」『「邪馬台国」はなかった』
ぢいちゃん気付かずに逝ってしまったのならきのどく
拓跋系土人は[倭]を[や]と読むも強制しきれずに
程なく[わ][ゑぃ][を]に復元するのは道理だわね
- 524 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 07:01:09.13 .net
- × [倭]を[yi]と訛る
○ [倭]を[ya]と訛る
- 525 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 07:35:10.29 .net
- 日本語文に不自由ですか?
- 526 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 07:56:11.47 .net
- 如墨其面でもいいはずなのに委と書いたのが分からんね
如淳はなぜ倭を倭と名付けたのかの理由に言及したかったのかもわからんね
倭人が自分たちの国のことをウィと言ったからが第一の理由であることは自然だし
あえて否定する理由はないはずだが、
異民族で国名が一字というのは珍しい。使者が略字を行った可能性が疑われる。
(たとえば、高本漢はベルンハルド・カールグレンという名のスウェーデン人の漢名。
カールグレンの苗字が高という一字に略されている。)
それに同音異語は他にも多数あるはずであえて倭という文字を選んだ理由があっていいはずだ。
ひょっとすると、如淳は倭と名付けられた理由を使者に聞いたか、風の便りで聞いたのかもしれない。
それが如墨委面。きっと本人も意味を測りかねた。
ただ四字熟語にきっちりまとめられた言い回しと謎解きのような魅力があり、そのまま書いてしまったと。
魏志倭人伝でも「斷髮文身以避蛟龍之害」とあり、入れ墨の習慣があったことは確実。
後代の人も如墨委面が入れ墨と関係があると直観しただろう。
ただ委が分からない。
臣瓚は、墨を用いるを謂わずとしたから、委が用いるの意味ではないのは確か。
では面の形状を表したものか。それは否定できないがはっきりとは分からない。
師古に至っては音であり意味はないのではなかろうかとかなり確信をもっている。
でも真実は分からない。
こんな感じではなかろうか。
- 527 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 08:09:12.05 .net
- 如淳は魏の時代の人なのか。
陳郡丞という役職をもっていたようだ。出身は長安付近だが、仕事先は陳郡(河南省)。
河南省となると、かなり初期から曹操配下だったともいえるし
そうでないともいえる、分からない人だ。
卑弥呼の朝貢前に書いたのか、後に書いたか。
- 528 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 08:19:42.71 .net
- http://f-kowbow.com/ron/lekishi01/lekishi01.htm
これ面白いね
- 529 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 08:29:53.45 .net
- >>523
此の音(倭に)非ざるなり。かもしれんね
蓋音委字耳を、耳にしてはありえないと思うが。
- 530 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 08:32:34.71 .net
- >>528
委面がお辞儀をするという使い方が同時代史料に一つもないというのが解釈として絶望的。
ただ墨の如く、委面す。の解釈は独創的かつ秀逸。
- 531 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 09:37:42.29 .net
- 委面詞語解釋 指歸順稱臣
http://www.chinesewords.org/dict/84817-101.html
《文選·袁宏<三國名臣序贊>》
故[委面]霸朝 豫議世事
[委質北面] 以事魏朝
[委質北面]曰[委面]
- 532 :日本海ルート論者:2017/01/07(土) 11:42:56.98 .net
- >いまいち説得力が
元々の文が難解なのよ。委面で納得できるなら問題無しというだけ(笑)。ひとまず一々あげてみますかね。反論できるか否かで説得力になるかもね。
@委が倭の意味を持つ「委面」という読み方が有り得ない理由。
⑴「樂浪海中有倭人」と原文に「倭」とあるのに、注釈であえて「委」の字を使う意味がない。委と倭が同じ意味ならば尚更「倭」と書くべきである。
仮に委を使うなら「漢倭奴國王の印には委と書く」等の説明が必須となる。そうした説明により原文を補足するのが、そもそも注釈という仕事である。
⑵「樂浪海中有倭人」への注釈であり「倭人の」と重ねて言う意味がない。倭人への注釈なのはわかっているのだから、いきなり「黥面」「墨面」「黒面」等で良い。
⑶「委面」が「倭面」を意味するなら、せめて「委面如墨(倭面は墨の如く)」と主語にする筈。後ろの文に繋ぐにも如墨委面は「墨の如き倭面は〜に在り」と変。
*これらがありながら、なぜ臣瓚がこの説を採ったかを端的に言えば、勝ち組(西晋)の臣瓚が負け組(曹魏)の如淳の才能を軽んじたから。
A「委面」で「顔に刺青をしている」と読む読み方が有り得ない理由。
*この場合は、倭と関係ないので@の⑴⑵共に問題がない。@の⑶も「墨の如き刺青をした顔」と読め、語順に問題がない。
⑴用例がない。委はクネクネした様を示す。だが刺青の意味はない。本件に関しても「墨」と「面」から刺青を連想しているに過ぎない。
⑵墨は墨刑の意も持ち、刺青と意味が被り無駄。ただ刺青は入れてから次第に青味を増すらしく(?)、純粋な墨色に近い刺青or入れたばかりの色の刺青という意味ならば通るかも?
- 533 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 12:55:21.81 .net
- >>532
つまり、委は用いるの意味がある可能性は捨てきれないということですね。
倭人の入れている刺青の文様が委と表現できるものだとしたらどうでしょう。
土偶をみると、入れ墨が体全体を覆うような文様であったことは間違いありません。
その文様を魏人は、ははーん、これを委と言ったのだな!と注釈を入れたと。
どうして漢人がそういう意図をもって倭と命名したのだろうと確信をもったのかは不明ですが。
- 534 :日本海ルート論者:2017/01/07(土) 13:00:25.32 .net
- >>527
>卑弥呼の朝貢前に書いたのか、後に書いたか。
如淳曰如墨委面「在帯方東南萬里」。後半部の萬里の引用元が書かれていないことから、まだ魏書などの編纂が始まっていない頃に、報告書の情報を直接書いた可能性があります。
>>521
>墨を面に従わせるは、少し意味が解しにくいです。
そう、そこが問題なんです(笑))))))。
「(入れ墨の)顔に墨を落とす(つまり倭人の顔は入れ墨をしている)」という読み手を選ぶ比喩ですが、有名な荘子の包丁解牛「如土委地」を掛けてある。
つまり、鍵は【老荘思想】。
まず老荘思想wikiには老荘思想を元にした玄学は「魏の王弼・何晏、西晋の郭象らが創始した」とあります。
更に「正始の音」wikiには「正始の風(せいしのふう)とも。何晏や王弼に代表され、儒教の経典解釈学と老荘思想を交えて解釈した。」とある。
何晏や王弼の名が出て来た。これ【ビンゴでしょう】(笑))))
曹爽と組んで司馬家を追い出し、高平陵の変で殺された何晏。王弼も同年死去。父の王業は魏書を書いた王沈と共に後の曹髦クーデターを密告した負け組(汗)。
そういうことで如淳のこの注釈は正始年間(240〜249)の間に「正始の風」の影響を強く受けて書かれたと推測します。
- 535 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 13:14:54.07 .net
- >そういうことで如淳のこの注釈は正始年間(240〜249)の間に「正始の風」の影響を強く受けて書かれたと推測します。
ありげです。ありげな解説ですね。
しかし、何晏は華麗な文体を好んだのではなかったかな
竹林の七賢は権力に乗っかるのは危うしと見て中央から退いた人たちだったかと
当時、文士を目指した人たちが多かったでしょうから
如淳も影響を受けていたことは確実でしょうけど。
- 536 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 14:36:42.11 .net
- 面白くなってきたね
- 537 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 15:23:56.58 .net
- 任也,屬也。
生非汝有,是天地之委和也。性命非汝有,是天地之委順也。子孫非汝有,是天地之委蛻也。(莊子・知北遊)
棄置也。《孟子》委而去之。
《?文》委,隨也。从女从禾。
《徐鉉曰》曲也。从禾垂穗,委曲之貌。
荘子では所有欲を捨てて天地のなるがままに任せよという意味で
委が使われています。
孟子は捨て置く
説文は従う
徐鉉はたわんでいる様子
- 538 :日本海ルート論者:2017/01/07(土) 18:14:06.99 .net
- >>533
>つまり、委は用いるの意味がある可能性は捨てきれないということですね。
いや。違います(汗)
先ずですね。
委に倭の意味がある可能性は大いにあります。特に過去に戻れば、度と渡のように同義を示せるでしょう。
但し、倭と委が同義か否か以前に、原文に倭とあるのに注釈で委とするなんてことは「マトモな注釈者だったら有り得ない」ってことなんですね。
ですから次の段階で、
「委面=入れ墨をした顔」という意味があるのだろうと意訳する人たちが少なからず現れた訳です。
ですが、臣瓚はそれを明確に否定しました。委は用墨を謂わずと言い切ってる位ですから、そういう用例がやはり無いんでしょうね。
ここで委に用いるの意味がある可能性は無いと判断できると思います。
話を戻すと、問題は振り出しに戻ってます。
なにせ原文に倭とあるのに注釈で委とするなんてことは「マトモな注釈者だったら有り得ない」訳ですからね。
それでも臣瓚はあえてこの説を採ることで「如淳はマトモな注釈者ではない」と断じ、問題を簡単に解決させた訳です。
如淳は曹魏の人で負け組です。臣瓚は司馬家の西晋の人で勝ち組ですから如淳を平気で罵倒できるし、周囲もそれを咎めない。そういう空気の中で書かれたんでしょう。
- 539 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 19:49:22.98 .net
- 臣瓚が如淳に喧嘩を売って否定していると読む前提のがへん
@如淳曰 如墨委面
の[委面]についての読者向けの注意書きが
A臣瓚曰 不謂用墨
如淳のいふ「[委面]は[用墨]のことを云っているんじゃないよ」のは
よむひとはここは[用墨]のことぢゃないからきいつけてね
[委面]不謂[用墨]を
臣瓚が注釈で一般論を述べててしったかしたと受取るのはへん
- 540 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 20:17:05.71 .net
- 如淳の「如墨委面」のは
班固が知りながらも周知の事実だったから書かなかった情報の暗示で
[如墨委面」で漢書該当部のまとめをしといて
直近に入手した[在帯方東南萬里]の新情報の付加
暗示している「委奴國王」のはんこゲットは
班固にとっては同時代のイベントで
あまりにも周知の事実だったから書くに値しなかった
漢書該当部のつくりは
玄菟樂浪武帝時置 皆朝鮮濊貉句驪蠻夷
┏殷道衰箕子去之朝鮮
┃ --(中略)--
┃可貴哉 仁賢之化也
┃然東夷天性柔順 異於三方之外
┗故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫
樂浪海中有倭人 分為百餘國 以歳時來獻見云
長々と記された箕子と箕子の末の墨氏のところ
[如墨]の一発でまとめあげ
- 541 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 22:32:47.90 .net
- 孔子と墨子はちがうと思うが
- 542 :日本@名無史さん:2017/01/07(土) 22:57:37.93 .net
- https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90#cite_ref-5
「墨氏 孤竹君之後 本墨台[4]氏 後改為墨氏」
[4]「胎」「台」讀若「怡」[yi]
https://zh.wikisource.org/w/index.php?search=%E5%A2%A8%E8%83%8E%E6%B0%8F 墨胎氏
https://zh.wikisource.org/w/index.php?search=%E5%A2%A8%E5%8F%B0%E6%B0%8F 墨台氏
- 543 :日本海ルート論者:2017/01/08(日) 02:02:18.01 .net
- >>535
>しかし、何晏は華麗な文体を好んだのではなかったかな
ふむ(笑)。
実は、249年の高平陵の変前の正始年間10年に当てるか、変後〜265年の晋簒奪までの16年間に当てるか、悩んだんですよね。
変後は司馬家が更なる簒奪の為にもはや堂々と朝廷を牛耳っていく16年間。その間に皇帝だった斉王をクビにしたり、皇帝だった高貴郷公を殺したりしている(笑)。
あの難解な文は、正にこの16年間に書かれ、司馬家からの面倒を恐れてあえて分かりにくくしてあるのかも知れない。まあとにかく変の前か後か、悩ましい所です。
ただ。史記集解にある注釈を見ても、如淳のそれは普通の簡潔な文です。必要があれば長文ですしね。要はあの文が妙に分かりにくい感じ。
結果、変前の正始年間としました。この期間は王肅(司馬昭の義理の父、娘の子が司馬炎)が正始の風に立ち向かい、味方が殆ど無かったらしい頃です。
その反動が出る変後は、面倒を恐れて分かりにくくする所か、正始の風の影響を受けた文など書かないだろうと。とまあそんな訳で正始年間に書いたとしました(笑)
- 544 :日本海ルート論者:2017/01/08(日) 02:24:32.13 .net
- >>537
>荘子では所有欲を捨てて天地のなるがままに任せよという意味で委が使われています。
それです。所有欲はどうか分かりませんが「天地のなるがまま」正にそういう意味。荘子の如土委地と同じです。
「墨を顔に委ねるが如し。」(まあ状況的には委ねるが落とすとか垂らすとかこぼすとか放るとかになるんで「墨を顔に落としたが如し」が無難な表現ですが笑)
倭人は水辺に住み、蛟龍の害を避ける為に入れ墨をし、今の倭人も大魚水禽を避け徐々に飾りとなった。
彼らは未開であるかも知れないが、魏人よりもある種平和で幸せに暮らしている。あの孔子ですら求めた世界が実際にあるのだ。
とまあ、正しくこれは老荘の理想とする世界と言える気がします(同時に儒教の理想とする周時代を思わせる理想郷にも被る)。
- 545 :日本@名無史さん:2017/01/08(日) 02:29:54.44 .net
- これもおもしろい
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106b.htm
- 546 :日本@名無史さん:2017/01/08(日) 07:11:26.49 .net
- >>542
なるほど、墨子は墨台氏の子孫という説があるのか。
唐の時代、初出の説みたいだけど、魏の時代になかったとは言えないからな。
つまり、墨台氏の子孫が墨氏を名乗った。
あるいは、墨台氏のことを墨と一字で表現することは可能と言いたいということか。
可能性としては否定できないね
しかし、確実性を期すために
墨台氏を墨と表現した資料が同時代に結構あるか調べてもらっていい?
- 547 :日本@名無史さん:2017/01/08(日) 07:25:30.14 .net
- 墨胎氏は儒教道徳的にすばらしい人物なのか。
それとも道教道徳的にすばらしい人物なのか。
それともどちらの教えともとくに関わっていない中性的な人物なのか。
- 548 :日本@名無史さん:2017/01/08(日) 07:46:24.09 .net
- >>544
と、なるとやはり用墨を意味があるのでしょうか?
墨を面に委ねるが如し
一つには倭に鯨面の風習があることを示し
二つには倭の国名をつけた漢人側の動機を示している、
つまり、倭人の天衣無縫な性格を表すために委と書いたと。
- 549 :日本海ルート論者:2017/01/08(日) 16:49:28.56 .net
- >>539
>臣瓚が如淳に喧嘩を売って否定していると読む前提のがへん
いや。
臣瓚は一般論を述べながら如墨委面の読み方を委=倭と特定してしまっています。
それはつまり、臣瓚が「如淳は原文に倭とあるのにあえて委と書いた」と考えているということです。
更には委=倭であるならば如墨委面(墨の如き倭面)ではなく委面如墨(倭面墨の如し)の書き出しの方が座りが良い。これもまた「書いた如淳の勝手」と判断してる筈です。
このように状況的におかしい部分は全て「注釈者としての如淳の勝手」としている。そこが喧嘩を売っているという訳です。
一方で、如墨委面の元となる荘子の「如土委地」は【現在の中国人にも難解】なようで掲示板で意味を尋ねるやり取りが幾つか見つかる程です。
しかし、正始年間には老荘思想が流行った訳ですから当然当時の人たちには読めた筈です。
臣瓚はその次の司馬炎が曹家を簒奪して始めた西晋の時代の人。ましてや、その時代には郭象が何晏や王弼の論調を塗り替えながら玄学を引き継いでいる。
数百年前の漢書の注釈をする臣瓚が僅か数十年前に流行った老荘、しかも有名な包丁解牛の「如土委地」を読めない筈がない。
「原文に倭とあるのに委と書いた」とするよりも「如土委地」と同じ読みと解釈する方が楽な筈なのです。
- 550 :日本海ルート論者:2017/01/09(月) 01:32:00.28 .net
- >>548
>と、なるとやはり用墨を意味があるのでしょうか?
そうです。委の1字にはありませんが、如墨委面と4文字が揃うと用墨(入れ墨)の意味があります。
臣瓚曰:倭是國名、不謂用墨、故謂之委也
臣瓚曰く:「倭」はこれ國の名、「墨を用いる(=入れ墨)」を謂わず、古くはこれ「委」と謂うなり
臣瓚は委を動詞として扱わず「墨の如し委面」と読みます。ただ「委」の意味は「入れ墨」ではなく「倭」だと言ってます。
◆臣瓚が否定した「如墨委面」→「墨の如し委面」(委に入れ墨の意味がある)
◇臣瓚が肯定した「如墨委面」→「墨の如し委面」(委に倭の意味がある)
*彼が問題にしているのは「委」1字の意味だけです。どのパターンでも「墨の如し委面」としか読みません。
しかし、元々の如淳はこう読んだと考えます。
如淳曰:如墨委面(墨を顔に委ねる(=落とした)が如く)
如淳曰く:(倭人の)顔には入れ墨がある
如墨委面の意味は「(倭人の)顔には入れ墨がある」です。
荘子の包丁解牛にある「如土委地(土を地に落としたが如く(見分けがつかない))」にかけてあります。
そのことで「彼らにとってそれは天理に沿った自然なことだ」「罪人に罰として行う墨刑=黥刑とは違う」というニュアンスがあります。
魏人は倭人伝の中で倭人を褒めまくってます。ですから同じ魏人の如淳もネガティブな「黥面」という表現を避けて老荘思想と掛けることでポジティブに伝えているのです。
>二つには倭の国名をつけた漢人側の動機を示している、つまり、倭人の天衣無縫な性格を表すために委と書いたと。
違います。荘子の「如土委地」とかけてあるからです。
「如土委地」から、元の「土地」を取り、「墨面」に替えたのが「如墨委面」です。
- 551 :日本海ルート論者:2017/01/09(月) 02:45:25.62 .net
- 繰り返すけど。「委の1字」にことさら深い意味があるような話になっているけども、
それは臣瓚さんと顔師古さんのお二人が「委の1字」について勝手に論議しているからです。
【多分にこういう流れ】
@「正始の風」(240〜249)の影響を受けた如淳が、荘子の如土委地という成句を知っていれば誰でも簡単に気付く言い回しを使った。
Aしかし、高平陵の変(249)が起き、「正始の風」が途絶え、更には否定され、塗り替えられていく、如淳からは想定外の事態となった。
B西晋時代(265〜316)の臣瓚は如土委地とかけてあると読み解けた可能性があるが、結果として「墨の如き委面」と読み「委の1字」の意味について注釈した。
C唐の顔師古(581〜645)はこれを受けて「委の1字」の発音について注釈した。
ただまあ多分に。
皆さんが「委の1字」に興味を示すのは「漢委奴國王印」があるからですよね(笑)
でも確実に「如墨委面の委」は「金印の委」と無関係ですよね。
如淳が「金印の委」を知っていればそういう注釈をするだけの話だし。
倭面上國や倭面土國、倭面土地國を「如墨委面」からの「如土委地」が生み出した可能性はあると思うけど(笑)))))
- 552 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 09:42:11.84 .net
- ◇のせいで見えなかった
- 553 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 09:44:07.40 .net
- ◆のせいか
- 554 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 09:46:32.66 .net
- A臣瓚曰 [倭]是[國名] 不謂[用墨] 故謂[之][委]也
A臣瓚曰
[倭]是[國名] ---(こういう無駄な情報はふつうは書かない)---
[委面]不謂[用墨] ---([委面]は北面して帝に挨拶すること)---
故謂[委面]セシ[倭]ヲ[委]ト也 ---(光武帝が[委]國号を贈った)---
だから[委面]した[倭]を[委]という ---(クリーンな三段論法だね)---
----------------------------------------------------
- 555 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 09:48:01.27 .net
- @如淳曰 [如墨][委面] 在帯方東南萬里
@如淳曰
如[薑墨如][委面] 在帯方東南萬里
禹の治水に尽した姜の[墨如]のように[委面]した…云々
----------------------------------------------------
- 556 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 09:49:56.48 .net
- [如墨][委面]
---(殷の末裔と倭國王との関連性を暗示でしょうか)---
----------------------------------------------------
- 557 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 09:56:58.88 .net
- http://www.zwbk.org/zh-tw/Lemma_Show/78631.aspx
- 558 :日本海ルート論者:2017/01/09(月) 12:38:10.19 .net
- >>532の通り、「委」を「倭」や「入れ墨」の意味でとる「墨の如き委面」の読み方は無いと言ってるんですが(笑)
まずは531に反論して頂きたい(笑)。
あと。
>>554
> だから[委面]した[倭]を[委]という ---(クリーンな三段論法だね)---
元の「如墨委面」はどう読み下すんですか?
墨子の如く帰順称臣?
- 559 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 12:49:17.82 .net
- もう推論が出尽くした感があるので次の話題に行きたい
- 560 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 12:54:04.34 .net
- だな
- 561 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 13:04:40.35 .net
- 孤竹の分れなら竹斯が筑紫の原形かもね
- 562 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 13:08:13.19 .net
- 如[墨如][委面]
- 563 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 13:15:48.45 .net
- そういえば俀國伝にはちゃんと[竹斯國]とあるよね
- 564 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 14:18:14.64 .net
- つくーしのこが はずかーしげに
- 565 :日本@名無史さん:2017/01/09(月) 18:58:10.43 .net
- あげてしんぜよう(u_u)
- 566 :日本海ルート論者:2017/01/10(火) 01:49:23.58 .net
- >>552、552
>◇のせいで見えなかった
>◆のせいか
今気付いたけど文字化けですね。
◇は白い菱形で、◆は黒い菱形です。
「・」で示せば良かったですね。
- 567 :日本@名無史さん:2017/01/10(火) 02:01:38.31 .net
- >>559
>もう推論が出尽くした感があるので次の話題に行きたい
ふむ。まあ良い頃合かもですな。
ただまだ1つ確証を揃え中のがあるんでそれだけ言っておく〜。
まあ550の最後にも少し書いてるんだけど。
「『如墨委面』の元は荘子の『如土委地』」。
これはこう言い換えることができる。
「『如墨委面』の元は『土地』。『墨面』。
- 568 :日本海ルート論者:2017/01/10(火) 03:00:55.62 .net
- 勝手に途中送信されたのでもう一度(汗)
まだ1つ確証を揃え中のがあるんで言っておきますが。
「『如墨委面』の元は荘子の『如土委地』」。
↑これはこう言い換えることができる。↓
「『如墨委面』、元は『土地』を『墨面』に取り替えた」
「見大人所敬,但搏手以當跪拜。」(大人を敬っている様子を見ると、ただ手を打って、跪拜の代わりとしている。)
↑更に、この倭人伝の文のように真似して書き換えるとこうなる。↓
「『如墨委面』、但『墨面』以當『土地』」(「如墨委面」は、ただ「墨面」を「土地」の代わりとしている)
↑上の文の意味は元の「如土委地」を知らない者が見たら意味が全く読み取れない。その上で臣瓚の注を読んだらどうなるか?↓
臣瓚曰く:「倭」はこれ國の名、「墨を用いる(=入れ墨)」を謂わず、古くはこれ「委」と謂うなり
混乱した挙句、「とてつもない結論」を導き出した可能性がある。
「墨を用いるを謂わず」→墨面とは謂わず。
「倭はこれ國の名、古くはこれ委と謂うなり」→つまり、元は倭面と謂う。
「ただ墨面を土地の代わりとしている」→元は土地だった。更に、墨面とは謂わず、元は倭面と謂う。つまり!
「『如墨委面』の元は、『倭面土地』である。
この國は漢書地理志が書かれた時代、後の帯方郡の東南萬里の位置にあった(そう如淳が書いている)」
(↑とてつもない結論)(笑))))
- 569 :日本@名無史さん:2017/01/11(水) 20:57:31.18 .net
- >>531
今見直したけど、
委質北面はありうるかもな。
委面は南北朝時代の文選の使用語句だが
委質北面という言葉は古く戦国時代には使用が認められる。
北面は南面に対する言葉で、臣下として立場を表す。
委質は委摯や委贄と同義で、
主君に対して身命を賭した忠誠を誓い、その証明となる物品を渡すことだそうだ。
委は平伏する。質は代わりのもの、礼物。
ネットの説明にはこうある。
・古時始仕,必先書其名於策,委死之質於君,表示必死之節,忠於國君,稱為「委質」。
古代、主君に仕えるとき、先ず必ず策という木片に自分の名を書き
主君に命を賭けていることを表したその代替品を委ねて、必死の忠節を表し、国に尽くした。
これを委質と言う。
つまり、委質北面は二心のない忠実な臣下を意味する。
これは倭人伝前の東夷に礼の文化が残っているうんぬんの記述とも合致するものだ。
では墨は何かと言えば、愛を説いた墨家は考えられないことから
墨台氏の線もありうると言えよう。
しかし委質北面を略して委面は少し厳しいかなあ、南北朝的な感じがする
- 570 :日本@名無史さん:2017/01/11(水) 21:12:35.64 .net
- 策名委質
臣籍簿に名を記し、死を以て忠節を尽くすという覚悟を示した慣例。
名を記し質に置くの意。
古にあっては、初めて君に仕える時 自分の名を、
臣下の名を書き連ねる名簿に記し(策し)、君のためには節に死す、
という飾り気の無い覚悟(本来の姿、乃ち生地)を示す意味から、
死んだ雉(雉)を礼物として献じた。
策は名簿、質は礼物、委は置くこと、のようだ
臣下としての忠誠を誓い、礼物を献上したことを委面としたのかもね
- 571 :日本@名無史さん:2017/01/13(金) 14:04:34.44 .net
- 音や時代背景や多岐に渡っての考察、皆さんすごいですね、
素人の質問なんですが、「漢委奴国王」は決着しているのでしょうか、
倭の奴国、倭奴国、委奴国、奴国王に委ねる、奴国に委ねる王、色んな解釈されていてよくわかりません。
- 572 :日本海ルート論者:2017/01/14(土) 11:16:14.22 .net
- >>571
>倭の奴国、倭奴国、委奴国、奴国王に委ねる、奴国に委ねる王、色んな解釈されていてよくわかりません。
少し前まで自分は如墨委面の委を「委(刺青の)人」と読むことで>>433のような解釈をしていたんだけど、
>>477以降は委にそうした用例無しとして考えを改めてます。
今の所、論理的に2通りあると思ってます。
- 573 :日本@名無史さん:2017/01/14(土) 13:36:46.52 .net
- >>572
ありがとう。義務教育でも確定事項のように「漢の倭の奴の国王」とやったものですが、やはり今も決着していないのですね。
委≠倭であるなら、委ねる奴国か委奴国になるのかな。
すると、後漢書で倭奴国(倭国の南境)にあげたというものは別にある?
- 574 :日本@名無史さん:2017/01/14(土) 14:22:27.50 .net
- 卑弥呼の死後に男王で荒れ、血縁の台与を立てて治まった教訓から、連合盟主は血縁に権威を持たせる形で後継を選ぶようになったが、盟主の居所は筑紫、吉備、阿波、などと変えることで独占を避けた。
しかし盟主の座をめぐる権力争いは常にあり、その中で主要な国が強大化するにつれ連合のバランスは崩れる。
最終的に畿内が他を飲み込むようになるが、盟主を出した勢力が権力を持つ形は後の大王、天皇に続いていく。
邪馬台国連合から大和王権へって、ざっとこんな流れだと思ってるけど合ってる?
- 575 :日本@名無史さん:2017/01/14(土) 15:10:58.40 .net
- 時代も地理も無茶苦茶。
卑弥呼を共立したのは九州北部の倭国内の勢力。
瀬戸内海にはまだ広域の組織化された政治活動は明確ではありません。
少なくとも記録にはない。
継体天皇の頃でもまだ畿内と九州の実力は伯仲していて、畿内が九州を飲み込むのはもっとずっと後。
- 576 :日本海ルート論者:2017/01/14(土) 15:39:45.17 .net
- 《日本海ルート論による漢委奴國王印の解釈の1》
【⒈ 大夫の自称した国名の音価から漢委奴國王印はが作られた。その後、王莽の上奏文に対抗する為に装飾され、伝説の倭と同じになった】
@漢書の王莽伝(上52)には「東夷王度大海奉國珍(東夷王大海を渡りて國珍を報ず)」という西暦5年の上奏書が載せられており、初めて大海を渡る東夷王の記述が載る。
A漢書の地理志には「樂浪海中有倭人分為百餘國以歳時來獻見云」とあり、倭人が半島海中にいるとする初めての記述が現れる。
*漢書は父の班彪(3〜54)を継いで班固(32〜92)が編纂し、更に妹の班昭(45〜117?)と馬続が八表と天文志を補完して完成させた。
B後漢書の光武帝紀と東夷列伝の双方に、「倭奴國」が「建武中元2年(57年)」に奉献して来たという記述がある。これから金印の製作は57年と考えられる。
C後漢書は南宋の范曄が『東観漢記』などを元に432年頃に書いた。但し、漢書に倭人の記述が予告されている為、後漢書の原史料にも「倭奴國」の記載があったことは間違いない。
時系列で並べると、
@王莽の上奏文「東夷王度大海」(西暦5年)
B建武中元2年の奉献(57年)
A漢書地理志の「樂浪海中有倭人」執筆(57〜班固没の92年迄?)
C後漢書の原史料(東観漢記など)の成立と、その後の范曄後漢書の成立。
こう見ると、金印製作時には委奴國や委國之極南界であったものが、漢書成立時の倭人の記述と共に倭奴國や倭國之極南界と改められたとする考えは理論的にあり得る。
まず1つの考えとして、倭奴國の情報は大夫である使者の自称によるところが多いと考えられる為、その国名の音から委奴となったという説をあげたい。
尚、委奴國の場合は同様に委國の極南界となるから、「委奴」という國があったと言うよりは、「奴」という1字國名による支障を避けて「委奴國」としたものと思われる。
これらから、大夫は「委國の極南界にある奴國より来た」と説明したものと考えられる。
- 577 :日本海ルート論者:2017/01/14(土) 15:45:29.10 .net
- >>573
>委≠倭であるなら、委ねる奴国か委奴国になるのかな。
>すると、後漢書で倭奴国(倭国の南境)にあげたというものは別にある?
いえ。
後漢書に倭奴國と記載されている國と漢委奴國王印の委奴國とは同じ國です。
また、渡海を度海と書けるように、倭を委と書くことは可能です。
- 578 :日本@名無史さん:2017/01/14(土) 20:18:14.11 .net
- >>575
いや初代盟主卑弥呼の共立が瀬戸内海と言ってるのではないし、磐井しかり九州が後々まで大和に対抗しうる勢力だったのはわかってるけど、台与以降の連合がどうなっていったかという話
- 579 :日本@名無史さん:2017/01/14(土) 22:34:06.69 .net
- >>578
壹與の時代も、せいぜい筑紫、豊国、肥国が統一されたくらいだろう。
後の景行天皇の時、筑紫の神夏磯姫は宇佐など豊前あたりの敵を倒すが、その中に耳垂などの名が見える。
これは邪馬台国の中の勢力争いというか、粛清だろう。
つまり、九州北部では卑弥呼の後もずっと内乱が続いていたわけだ。
瀬戸内海進出なんて筑紫倭国の中枢には興味がなく、筑紫の王位を守ることが全てだったのだろう。
- 580 :日本@名無史さん:2017/01/15(日) 12:00:57.08 .net
- 如墨委面 njo-mok-we-myon
- 581 :日本@名無史さん:2017/01/15(日) 12:31:44.07 .net
- 奴國 nu-kuok 廣韻で
奴國 no-kuok 廣韻で
奴國 na-kuok 以下倭國風に(上古音系で)読むと
㚢國 na-kuok
那國 na-kuok
論語曰 箕子爲之奴
㚢 古文奴
- 582 :日本@名無史さん:2017/01/15(日) 12:35:52.20 .net
- 委奴國 we-nu-kuok 廣韻で
委奴國 we-no-kuok 廣韻で
委奴國 we-na-kuok 古風に読んで胞衣
倭人 wo-njin
東夷 tung-yi
伊都國 yi-tu-kuok
伊都國 yi-du-kuok
一支國 yi-zhi-kuok
一支率 yi-zhi-sut
伊聲耆 yi-sjeng-qi
- 583 :日本@名無史さん:2017/01/15(日) 20:11:49.84 .net
- >>577
漢や國を彫れる技術者が「倭」を彫れない理由はない
意図的に「委」と彫ったのだよ
- 584 :日本@名無史さん:2017/01/15(日) 22:57:10.03 .net
- 時系列で並べると、
@王莽の上奏文「東夷王度大海」(西暦5年)
A班固生まれる(西暦32年)
B班固の父の班彪没(西暦54年)
父の『史記後伝』65編を引き継ぐ形で『漢書』の編集が始まっている
C建武中元2年の倭國奉献(57年)
D班固没(西暦92年)
D妹の班昭が未完の部分を埋めて完成させた
漢書地理志の「樂浪海中有倭人」は
振り向いて前漢に関する過去に限定して書かれているので
伝聞形の「云」で締めくくられている
自身の生きた時代の常識については知っていても書いていない
- 585 :日本@名無史さん:2017/01/15(日) 23:13:02.12 .net
- @樂浪海中有倭人
A分為百餘國
B以歳時來獻見云
@樂浪海中有倭人
のところは伝聞のわけはなかろ
B以歳時來獻見云
のところはがちがちの伝聞
A分為百餘國
のところは無意識下に
前漢代のこととして理解してきたけど
もしかしたら1世紀のことかもしれんよね
Aのところはどちらとも読み得る
- 586 :日本海ルート論者:2017/01/16(月) 02:02:12.47 .net
- >>574
>邪馬台国連合から大和王権へって、ざっとこんな流れだと思ってるけど合ってる?
そこは面白いネタなんだが、また後で(笑)
- 587 :日本海ルート論者:2017/01/16(月) 02:47:15.68 .net
- >>583
勿論、スペースが狭いから「倭」ではなく「委」と刻んだ訳ではないでしょう。
もっともまあ減筆はそういう意図で行うとは限らないものですが〜
ともかく意図的に彫っているとする考えには同意です。
自分が思うに、後漢書にある「倭國の極南界の倭」と、「倭奴國の倭」は文脈的に見ても同一の文字です。
だから、倭國の極南界である委奴國は無いし、委國の極南界である倭奴國も有り得ない。
委という字は倭という字の音とかぶる可能性のある混乱の元で、本来音を示す為の文字であるならば混同を避けて違う字を用いらなければならない筈ですから。
故に理論的には2通りある。
先ず1つ目。元は大夫の説明から、委國の極南界であり、委奴國、更には委人であったものが、漢書編纂の際に漢人に都合の良い倭と変えられた。
これに伴って後漢書でも、倭國の極南界、倭奴國と書き改められた。要は「途中から倭になった」ってこと。
2つ目は単純。元から倭。金印のみ委。
- 588 :日本海ルート論者:2017/01/23(月) 02:38:22.85 .net
- 《日本海ルート論による漢委奴國王印の解釈の2》
【2. 尚古主義(古いものをありがたがる考え
)。故に、倭より偏を取り払った「古字っぽい」委を付けた漢委奴國王印が作られた】
(そもそも倭人来訪を王朝の箔付けと考えるのも尚古主義の為である)
漢書には人偏の付いた「倭」とある。
故に、漢書編纂時点で後漢の史官が記録していた書(後々後漢書の原本になるもの)にも「倭」と記されていた。
これらは尚古主義のもと、渡大海の東夷王が倭人であったことを人々に伝えるために「倭」と書かれた。
だから、「漢委奴國王印」を授かった王もまた実際には「漢倭奴國王」であり、人々に伝えられたのである。
【その来訪が王朝の箔付けとなる為には「倭」でなくてはならない。そうで無かったら意味がないのだ】
王莽と同じく光武も又、望むだけの吉兆をデッチ上げることができるのである。だからまず「倭」がある。そして、そうした文脈の末端に漢「委」奴國王印がある。
「倭」奴國王印を下賜するに当たって、倭人の歴史の古さに鑑み、古き時代の「委」と刻む。しかし、その印綬を下賜するのは現在の新王たる「漢」の皇帝である。
それが「漢委奴國王印」である。この下賜の翌月に光武は死ぬ。つまり、「彼の建てた帝國の、その礎の締めくくりが、この下賜であった」と考えても良い。
因みに、この時代には「わなorいな」、後の時代には「わど」に近い発音となると個人的には思うんだが、
東方人名我為阿(東方人は我(=自分)を阿と言う)(魏志辰韓伝1)
ここからして倭人の自称は当時から「わ」であったろうと思う。これが倭の國名の音に影響を与えた部分はかなりあると思う。
- 589 :日本@名無史さん:2017/01/23(月) 03:34:29.63 .net
- これはひどいw
- 590 :zarakoku:2017/01/26(木) 10:11:42.17 ID:/5ZFCH2dn
- 幾ら「委と倭」の違いを議論しても、
中国側は、北部九州の主要部族名を、
「委」と「倭」の二通りの「イ」の音韻文字使用を使い分けた、
という事実しか出て来ない。
そして、北部九州には、伊、怡、一、壹、委、倭、井、五などの「イ」の音韻の文字地名や固有名詞が氾濫している。
また「邪馬台国」なんて、古代の史料には存在しない文言であり、
「南→東」の嘘つき騙しの近世現代学者が、
思想宗教的な皇国史観の「大和説という結論先にありき」での、
改竄造語した犯罪者的非学問的文言であり、
それに便乗しているマスコミなども犯罪者的である事になる。
- 591 :zarakoku:2017/01/26(木) 11:45:44.93 ID:/5ZFCH2dn
- 「♪邪馬台国ドンと来い!♪131」という表題の、
「邪馬台国」という文言を使用した事が、
そもそも史料文献には存在しない非学問的なウソ騙しの捏造造作文言であり、
始めから「思想宗教的な皇国史観大和説に組する事を誘導」しようとしており、
犯罪者的である訳で。
- 592 :日本海ルート論者:2017/01/26(木) 22:58:07.32 .net
- 何を指してヒドイと言ってるかわからないけども(笑)
>因みに、この時代には「わなorいな」、後の時代には「わど」に近い発音となると個人的には思うんだが、
↑ここらへんのことを指していると考えて説明をしよう(笑)
@本場中国のサイトでは大体「わな→わど」の発音。
話を進める上でここらは無視できないし、否定できる論理があるなら主張すべきだろう。
自分にはこれを否定し切れるだけの論理はない。故に「わなorわど」が論理のベースとなる。
下のサイトで倭や奴の字を入力して検索↓
上古音→ http://www.eastling.org/oc/oldage.aspx
中古音→ http://www.eastling.org/tdfweb/midage.aspx
Aただ自分としては華夏人の「倭」の読みは委と同じ可能性があると思って「わなorいな」に「いな」を加えた。(厳密にはウィに近い)
Bしかし、その後、列島人の自称である「わ」に影響を受けて華夏人も倭を「わ」と読むようになった。と考えてる。
C用例が殆どない倭と比べ、奴の用例は非常に多く、その発音の研究は信用できる。故に「な→ど」の推移で間違いない。
以上〜
- 593 :日本海ルート論者:2017/01/26(木) 23:02:18.81 .net
- 訂正
Aただ自分としては華夏人の「倭」の読みは委と同じ可能性があると思って
×「わなorいな」に「いな」を加えた。(厳密にはウィに近い)
○「わなorいな」と論理のベースとなる「わな」のみの読み方に「いな」の可能性もあることを加えた。(厳密にはウィに近い)
- 594 :zarakoku:2017/01/26(木) 23:08:00.41 .net
- 邪馬台国なんて、ありませんでした。
倭國女王卑弥呼の都があったのは、邪馬壹國であり、
福岡平野の中程〜筑紫平野及びその周辺丘陵地の国でした。
- 595 :日本@名無史さん:2017/01/26(木) 23:34:58.90 .net
- 南至[邪馬壹國女王]之所都
12000里の不彌國に接した場所のことで
着いたところは
[邪馬壹國女王]のニックネームを持つ
壹與の女王國のことだ
- 596 :日本@名無史さん:2017/01/27(金) 00:08:44.08 .net
- 魏志は卑弥呼の時代を書くのが役目なので、壹與はおまけ。
- 597 :日本@名無史さん:2017/01/27(金) 01:27:09.82 .net
- 目的は倭国の歴史と現状だろうな
歴史は卑弥呼、台与と2人の女王を書き、
現状は同時代の台与目線で最新のものを書いたんだろう
- 598 :日本@名無史さん:2017/01/27(金) 14:45:18.40 .net
- 魏にとってライバル呉にプレッシャーとなる巨大邪馬台国が背後を突く形で九州南海上に存在してることにすれば
実際になくても小国連合でも良かったわけだ
- 599 :日本@名無史さん:2017/01/27(金) 14:52:00.84 .net
- 三国志は呉滅亡後に完成
- 600 :日本@名無史さん:2017/01/27(金) 15:10:36.97 .net
- 呉の滅亡が280年だからおかしくないと思うが
- 601 :日本@名無史さん:2017/01/27(金) 17:10:57.02 .net
- 呉滅亡後なら三国志は何のプレッシャーにもならないでしょ
- 602 :日本@名無史さん:2017/01/27(金) 17:29:23.85 .net
- 国史がどうやって出来るかだけど書き溜めた記録を当時のことを何も知らない編纂者が
書き写すだけだから内容は当時書かれたものだとバカでも分かるだろ
編纂時にすべての事件が起きたわけじゃないぞ
- 603 :日本海ルート論者:2017/01/28(土) 02:42:57.13 .net
- 「倭奴國王に印綬を下賜した数十年後、
漢書に『歳時を以って来たりて献見すと云う』と書いておき、
下賜したことを来たるべき後漢書の為に残しておく」
倭人伝はコレと全く同じ。
張政を送り返しがてら洛陽に行き、生口30人と貢ぎ物を献ずる第3回遣魏団(掖邪狗の2回目)で倭人伝は終わるけど、
来たるべき晋書には「晋が建国する直前、倭人たちがスゴイ贈り物を持ってきた!」と書かれる筈だった訳で、
でも西晋は編纂者の死後、十数年で自滅。残されていた予定原稿は無くなったという訳です
(ここらは噂レベルのものまで書き残して評判の悪い晋書の中身がスカスカなことから、西晋崩壊時に河南に渡っていなかった書がほとんど失われていたとわかる)
ps.
因みに、倭人伝に記載されている遣魏団は第1回〜第3回までですが、
第1回は景初2年12月と倭人伝に記載あり、帝紀に記載無し。難升米の訪問。
第2回は正始4年12月で倭人伝、帝紀ともに記載あり。掖邪狗の1回目の訪問。
第3回は倭人伝、帝紀ともに記載無しですが、正始10年(嘉平元年)1月で間違いないです。
第1回は2代皇帝の明帝が突如体調を崩した月(笑)
(むしろ死んだ月という疑惑がある)(無くなったのは翌1月の1日)(翌年、命日が元旦になるという理由で曹氏帝国の象徴となる筈だった景初暦が僅か3年で廃止される)
第2回は倭人伝、帝紀ともに記載があり、何の問題もないということがわかる。
第3回は高平陵の変で曹爽一派が司馬家のクーデターで一掃された月。何年のことか帝紀、倭人伝ともに記載がないのは司馬家から削除を命ぜられたからでしょう。
- 604 :日本@名無史さん:2017/01/28(土) 11:45:37.58 .net
- それからそれから
- 605 :zarakoku:2017/02/02(木) 09:47:38.51 ID:0cV4BC1/r
- 邪馬台国畿内説者への反論
>現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)が、3世紀前半のものと公式発表されている<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らに拠る公式発表など、始めから嘘つき学者の発表である事がバレているんだから、
何の価値もない。
大型建物群が「庄内」期であると判った時点で、285年頃以後のものだ、
という事になる。
>居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されている <
「以婢千人自侍」するには全く足りないし、
「居處宮室樓觀、城柵嚴設」にもなっていない。
>これに比肩するものは弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
古くは、三内丸山にもあり、吉武高木の宮殿建築や吉野ケ里などにもあり、
安徳台にも見つかる可能性がある。
>大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された<
卑弥呼や弟のような「政務」施設ではなく、「市」で行われる「氏神様」への供養程度のもの。
>この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される<
そんな近辺の祭祀では、「田舎のご大尽」性がはっきりするだけだし、天孫族系の阿毎氏系の祭祀なら、筑紫には沖ノ島がある。
>建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ30参照)を勘案すると、
三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である<
倭国の「地方の市を監督する大倭職」の田舎のご大尽レベルの話でしかない。
- 606 :日本@名無史さん:2017/02/03(金) 00:14:14.12 .net
- シナの歴代の王朝に朝貢した国で、
他に金印は残っていないのかな?
比べりゃすぐ分かるのではないか。
- 607 :日本@名無史さん:2017/02/04(土) 00:13:56.68 .net
- 九州北部の山門・山戸・山都という地名は、
景行天皇の御在所が大和町になったように、
ずっと後の時代の名前かもしれない。
- 608 :日本@名無史さん:2017/02/04(土) 05:11:19.35 .net
- 書紀は半分偽書であるから、そのままでは証拠にならない。
- 609 :日本@名無史さん:2017/02/04(土) 05:33:01.48 .net
- 当然九州の方が後から付けられた名前だろう。
成敗の対象なんだしな。
- 610 :日本@名無史さん:2017/02/04(土) 14:27:01.14 .net
- 九州の方が紀元前から開けた古い土地だよ。
- 611 :日本@名無史さん:2017/02/04(土) 15:47:02.85 .net
- 漢委奴国王の金印は、細石神社に伝承があり、志賀島に移されて発見されたんだよ。
- 612 :日本@名無史さん:2017/02/04(土) 17:21:33.13 .net
- >>606
幾つかあったはず。
その比較で本物と認定された。
- 613 :日本@名無史さん:2017/02/04(土) 23:40:39.37 .net
- 細石神社の伝承なんて戦後のものだろ
- 614 :日本@名無史さん:2017/02/05(日) 19:52:27.22 .net
- みなさんは銅鐸や、巴形銅器、筒形銅器についてどうお考えでしょうか。
倭国大乱から邪馬台国、そして前方後円墳の時代へとの動きに彼らはどう関係していたのか、
- 615 :日本@名無史さん:2017/02/05(日) 23:41:03.52 .net
- >>613
神主さんの口伝。
- 616 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 01:38:08.09 .net
- ドゴン族神話の教訓って知ってるか?
時間軸に位置付けることのできない口伝なんて
歴史学の根拠にはなりえないんだがな
- 617 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 04:23:17.89 .net
- 「ルーツ」という本を知っている?。
口伝や伝承も、事実を伝えている場合があるんだよ。
だから記紀と同じく、「半分×」であり、「半分〇」なんだよ。
- 618 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 05:30:51.58 .net
- 畿内説のおっさんがこないだ古墳に忍び込んでいたから
畿内説はみんな泥棒だな
- 619 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 09:05:33.31 .net
- >>617
不確定なんだから根拠にはならないな
- 620 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 12:47:55.61 .net
- 正か誤か確率50%の事象がいくつかあるとして
うち二つがいずれも正の確率は25%
三つだと12.5%
四つだと6.25%
あやふやなものを持ち出せば持ち出すほど
その全体が正である確率はどんどん減っていく
- 621 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 13:19:54.88 .net
- >>620
統計学を学び直せ。
ああそうだ、ベイズ法がいいよ。
邪馬台国に関するいい本も出ていたぞ。
- 622 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 16:17:06.17 .net
- >>621
参考になるいい安い本はありますか?
- 623 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 16:27:53.87 .net
- 安い本の出版本は高いのでやめた方がいい
- 624 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 18:20:18.14 ID:94ae1UPbA
- >不確定なんだから根拠にはならないな
>正か誤か確率50%の事象がいくつかあるとして うち二つがいずれも正の確率は25%
三つだと12.5% 四つだと6.25% あやふやなものを持ち出せば持ち出すほど
その全体が正である確率はどんどん減っていく<
違うよ。
それは、半分×書の記紀に関する話であり、
三国志は、全体で80万字位であり、
その内、写本版本間で差異があったのは 4000字余り(0.5%位)であり、
写本版本は何度も行われていたんだから、
一回の写本で一つの文字に差異が発生する確率は、0.5%の「写本回数分の1」になるんであり、
だから、文字の錯誤を起こす確率は殆ど0%であり、
「東→南」の間違いが起こる確率も殆ど0%である事になる。
また、魏使らは、周髀算経の一寸千里や日の出日の入りで東西南北の決め方を知っている筈だから、
「東」という方向を「南」に間違える可能性も殆ど0%であり、
更に、清代までの中国の校勘学者らも、誰一人「南」や「壹」や「臺」や「治」の校勘をしておらず、
という事は、「南」も「南」ままであった、という事であり、
このような、史料批判に拠れば、倭人伝の記載の信頼性は(半分の50%ではなく)99.5%以上であり、
幾ら他の情報で覆そうとしても、覆るものではない、
という事になる。
- 625 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 20:03:39.19 .net
- 伊都クズ=安い本著者説
- 626 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 20:25:15.09 .net
- ゲスは他人も同じことをしてると思い込む
- 627 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 21:37:20.34 .net
- 安い本の著者は甘木朝倉説だな。
- 628 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 21:40:08.79 .net
- 平原卑弥呼墓説の本を書いたみたいだよ
新聞の広告欄で見た
- 629 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 21:58:27.17 .net
- >>628
内容はスカスカなので買わない方がいいよ
- 630 :日本@名無史さん:2017/02/06(月) 22:23:56.25 .net
- 転向したのかw
こりゃあますます伊都で決まりかな。
- 631 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 05:28:17.37 .net
- >>616 に対する説明を書いた筈だが、
それも削除されて、消えているね。
怖い怖い。
世間の人々を大和説に世論誘導しようとしている2チャンネルは、
怖い怖い。
(zara注、この投稿も一瞬で消えてしまう可能性があるね)
- 632 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 11:12:10.58 .net
- 日本語アクセントの視点から邪馬台国を推測
日本語アクセント地図はウィキ見てね
邪馬台国と21ヵ国は、同じ系統の京阪式アクセントを持つ四国・近畿・北陸
近畿なのに一箇所だけ違うのが熊野で、狗奴国はここの可能性も
そうすると女王国は奈良
投馬国は出雲を中心とした中国地方の広い範囲を支配
九州には元々アクセントの異なる3つの集団が分かれて住んでたのが、後に邪馬台国が福岡周辺だけ統治したと
まあ何の根拠も無いけど
- 633 :恋気塾:2017/02/07(火) 11:59:20.55 .net
- @西暦2017年頃、倭国の大都 盗凶国に女王有。
A女王、弓哩呼 口舌巧みに民を収める。大黒鼠退治せり。
B同時代、大海の遥か東方巨大国有。亜馬狸禍国大王、盗乱腐 口舌荒く世界を惑わす。
C以上を参考に、倭人伝風に表現して下さい。優秀者を恋気塾長と致します。
- 634 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 15:26:40.19 .net
- @卑弥呼(蔑称);当時可能な当て字例;妃美杞、秘魅娘、 等
(音訓読み出来ない国か)
A邪馬台国(蔑称);当時可能な当て字例;谷真大国 、矢摩大国、弥磨大国 等
B狗奴国;玖那国、宮奈国 等
C蔑称以外の当て字があったはず。昔、蔑称(今も)、現代;少女像の国か。
- 635 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 15:51:21.45 .net
- @市民栄誉賞、県民栄誉賞、国民栄誉賞。
Aカリスマ女王なら、出身地、ゆかりの地、首都近郊等 複数墳墓存在ありえますか。
B邪馬台国;九州〜畿内以北30余国の総称ですか。
(約60年統治しましたか。長いですか。)
C卑弥呼;筑紫出身、霊能力で 10代で九州を平定しましたか。皇霊天皇の養女でしたか。
D後年昇格して、邪馬台国の首都 畿内に栄転しましたか。
E没後、出身地筑紫内の平原古墳(遺物等)、首都畿内の箸墓古墳(宮内庁管理)に埋葬されましたか。
Fとんでもない仮説ですか。
- 636 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 19:59:11.82 .net
- @日本書紀(720年頃編纂か);卑弥呼(蔑称)から約500年経過ですか。
A日本書紀;倭人伝の記述ありますが、卑弥呼、邪馬台国(蔑称)等、余りにもバカにされ
ているので、それ大和国皇族の先祖よ、と書けずスルーしていますか。
B皇族欠史八代は皇后等不詳多、七代皇霊天皇皇女;やまとととひももそ ひめのみこと、養女卑弥呼ですか。
C同姫、昼の姿見られず、夜型でしたか。子女記載ないようですか。
- 637 :日本@名無史さん:2017/02/07(火) 20:15:56.72 .net
- 日本語でオケ
- 638 :日本@名無史さん:2017/02/09(木) 20:04:37.36 ID:RT6Q/cG4P
- >>632 日本語アクセントの視点から邪馬台国を推測
日本語アクセント地図はウィキ見てね<
無駄だ。
「邪馬台国」なんて、史料には全くなく、
始めから、日本の皇国史観大和説学者らの造作捏造文言だよ。
>邪馬台国と21ヵ国は、同じ系統の京阪式アクセントを持つ四国・近畿・北陸
近畿なのに一箇所だけ違うのが熊野で、狗奴国はここの可能性も そうすると女王国は奈良
投馬国は出雲を中心とした中国地方の広い範囲を支配 <
卑弥呼らは、上表文も書いているんだから、漢字がかなり使えるのであり、
固有名詞も、ある程度漢字で表記出来ていた可能性があるんだから、
3世紀当時の(中国での)漢字の音韻で読まなくてはならないんだよ。
つまり、後代や現代の大和付近での音韻は、状況証拠にしかならない。
>九州には元々アクセントの異なる3つの集団が分かれて住んでたのが、
後に邪馬台国が福岡周辺だけ統治したと <
邪馬壹國は、古田説に拠れば、福岡平野中央部〜筑紫平野と、その周辺の丘陵地域、という範囲だよ。
>まあ何の根拠も無いけど <
根拠がないんなら、デマを飛ばすのは止めましょう。
- 639 :日本@名無史さん:2017/02/16(木) 10:12:47.93 .net
- 皇室系図と尾張氏の系図を見比べたら、よく分かる。
とくに古事記にある系図を。
- 640 :日本@名無史さん:2017/02/16(木) 11:15:35.36 .net
- 全部、忌部氏繋がりとよく分かる。
- 641 :日本@名無史さん:2017/02/17(金) 22:15:08.33 .net
- 皇室の最初の先祖は天忍穂耳命。そこから男系血統で始まる。
それより前は女神アマテラスで、父親がいないことになっているので
実質的に天忍穂耳命が最初の先祖。
その天忍穂耳命の子供の代で
皇室と尾張氏が分かれている。
- 642 :日本@名無史さん:2017/02/18(土) 23:07:52.91 .net
- 実は平安の頃までアマテラスは男だと思われていた。
つまりはただの王。
そもそもイザナギなど、その前の世代もちゃんと記録されているし。
- 643 :日本@名無史さん:2017/02/18(土) 23:15:28.24 .net
- 記紀も無視か
- 644 :日本@名無史さん:2017/02/18(土) 23:54:47.25 .net
- >>643
イザナギとオシホミミの間に断絶があるという方がおかしい。
天津神は基本的に男尊女卑だよ。
イザナギとイザナミの契りとか、アマテラスとスサノオの誓の話を読むと分かる。
じゃあ卑弥呼はなんだったんだという話になるよね。
筑後や肥前など、有明海沿岸のいわゆる肥国は女性首長の伝承が多く、天津神とは対照的な文化だった。
倭国すなわち邪馬台国は連合王国で大王は持ち回りだったが、それは必ずしも平和的な関係ではなかっただろう。
連合王国の主役は筑紫、肥国、豊国。
倭国大乱を経て、倭国の盟主は筑紫の男系社会の天孫族から、肥国の女王に移ったのではないか?
ただし倭国全体の都はあくまでも伊都なので、卑弥呼は伊都に君臨して平原に葬られた。
天孫族は政権を取り戻すと肥国の女王を歴史から抹消した。
どうだろう。
- 645 :日本@名無史さん:2017/02/19(日) 00:02:21.53 .net
- 違うな
- 646 :日本@名無史さん:2017/02/19(日) 17:18:13.54 .net
- アマテラスとスサノオの誓約で
球が飛び出て、天忍穂耳命らが生まれたことになっているので
実質的には、そこからが実在の人物。
ちなみに、女神アマテラスの長男の天忍穂耳命と次男の天穂日命の
それぞれの男系子孫と思われる皇室と出雲国造家の
Y染色体がどうも違うみたいだから
天忍穂耳命と天穂日命の兄弟は父親は違ったんだな。
これらのことから、彼らがスサノオの子孫だという線もほぼ消えた。
つまり、天忍穂耳命と天穂日命は母親はアマテラスだが父親は違うし、
彼らの誕生が誓約という宗教的な意味からなので、
母親が女神のアマテラスというのも後付けかもしれない。
- 647 :日本@名無史さん:2017/02/19(日) 17:20:47.68 .net
- 倭国大乱は欠史八代と同時期であり
魏志倭人伝に書いてある欠史八代は
記紀には削除されている部分だと思われる。
出雲国譲りも神武東征も
魏志倭人伝の倭国大乱とは別の乱だと思われる。
- 648 :日本@名無史さん:2017/02/19(日) 17:31:42.48 .net
- >魏志倭人伝に書いてある欠史八代は
どこに書いてある
- 649 :日本@名無史さん:2017/02/19(日) 18:25:08.12 .net
- 書き間違い
- 650 :日本@名無史さん:2017/02/19(日) 18:30:53.28 .net
- 魏志倭人伝に書いてある倭国大乱は
記紀には書かれていない。
なぜなら、そこは皇室にとってのタブーだから。
厳密には、欠史八代と同時期になり、そこは詳しくは書けなかった。
- 651 :日本@名無史さん:2017/02/19(日) 18:33:05.16 .net
- 平安時代に、京都朝廷が
丹波籠神社の海部氏に
欠史八代と同時期になる尾張氏・海部氏の歴代当主の事柄を
詳しくは書くなと圧力をかけていたことが分かっている。
皇室にとって、欠史八代の時期にタブーであり
魏志倭人伝に書かれている倭国大乱と欠史八代は同時期になる。
- 652 :日本@名無史さん:2017/02/19(日) 22:06:12.78 .net
- >>646
天皇家が何回か断絶しているだろう。
応神天皇とか。
なので論拠が崩れた。
- 653 :日本@名無史さん:2017/02/19(日) 23:27:15.62 .net
- >>652
応神の前も後も同じY染色体が継承されているんだから
一応、つながっているでしょうに。
- 654 :日本@名無史さん:2017/02/19(日) 23:29:17.98 .net
- 平安時代に臣籍降下した源氏や平氏の男系子孫も
欠史八代の開花天皇の男系子孫である日下部氏も
同じY染色体を保持している。
- 655 :日本@名無史さん:2017/02/20(月) 02:27:59.05 .net
- >>652
応神は断絶してねえだろ
- 656 :日本@名無史さん:2017/02/20(月) 13:37:04.97 .net
- 応神の実父は武内宿禰と古来から噂されています。
ただし日本書紀は武内宿禰を孝元天皇の三世孫としているので、Y染色体では区別できないでしょう。
- 657 :日本@名無史さん:2017/02/20(月) 13:41:36.80 .net
- それで、まだ半島=当時の日本の属国だったとでも思っているの?
- 658 :日本@名無史さん:2017/02/21(火) 00:54:31.16 .net
- >>656
ああ、噂ね
- 659 :日本@名無史さん:2017/02/21(火) 00:57:18.17 .net
- >>657
属国というか、倭人の領域だったということでは?
考古学的にも半島南部の遺物は古い時代ほど倭人のものになる
- 660 :日本@名無史さん:2017/02/21(火) 00:59:35.50 .net
- 記紀が揃って火消しに回っているのがかえって怪しい。
神功皇后は仲哀の皇子2人も殺している。
- 661 :日本@名無史さん:2017/02/21(火) 01:05:33.79 .net
- 以前「倭猿、倭猿」言っていた人がいたけど
系統の違う人々がいるのかな
- 662 :日本@名無史さん:2017/02/25(土) 15:21:26.51 .net
- https://youtu.be/85-XncAUZXc
- 663 :日本@名無史さん:2017/03/19(日) 04:11:51.16 .net
- http://video.fc2.com/mycontents.php
- 664 :日本@名無史さん:2017/03/19(日) 06:51:41.83 .net
- 古代半島人に二系統あって、南方系=倭、百済、新羅の一部
北方系=新羅、高句麗
南方系は今でも全羅北道・南道の一部と済州島に残存。歴史的に
被差別の対象で、特に済州島は酷い。男は奴隷、貴族の慰安婦に
されていたんだと。その口実が、「李氏の国を無視して倭と交流
しているから」。それは実際そうだったらしい。海女の文化も
共通していて、日本で海女さんが不足しがちな今は済州島からの
出稼ぎで持ってるとのこと。
つまり、倭国の海外領土というより、倭地そのものだったという。
百済の滅亡により、百済と共通する血統の九州も滅亡、利権も全て
喪失した。
記紀によるねつ造は、恐らくは対中国が目的だろう。だから中国側も
旧唐書と新で記述が変わる。九州をなかったことにすることで、かろ
うじて国交を持ちえたということだよ。実際唐からの無理難題は大和
朝廷には来ていない。戦争当事国なのにね。普通なら代表が連行されて
処刑されるか、謝らされて朝貢を誓わされる。しかしそんな事実はない。
これは大和が当事国として微妙だからに他ならない。むしろ後ろから
アシストしたという事ではないか。
- 665 :日本@名無史さん:2017/03/19(日) 09:24:06.36 .net
- >>664
>古代半島人に二系統あって、南方系=倭、百済、新羅の一部
> 北方系=新羅、高句麗
これは邪馬台国を理解するうえで、最も大事なところだね
ここを知悉してこそ、ドンと来い!・・・だ。
- 666 :日本@名無史さん:2017/03/20(月) 13:40:55.02 .net
- 高句麗も百済も北方の扶余系だろ?
- 667 :日本@名無史さん:2017/03/20(月) 13:42:21.90 .net
- 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国の1000隻余りの水軍のうち400隻余りが炎上し、陸上戦でも敗北した。
記紀を編纂した近畿大和朝廷から見れば、これこそが政権奪取の好機だった。
中大兄皇子らが実権を握る近畿政権はもともと新羅と親交があり、積極的には朝鮮半島に援軍を送らず、百済と親しかった筑紫倭国を意図的に敗北に追い込んだ可能性がある。
中大兄皇子が唐や新羅ともとより通じていたのであれば、敗戦処理においてむしろ唐の信任を得て勢力を拡大したことも合理的に説明できる。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻(当時の大君と考えられる)が捕虜となり8年にわたり唐に抑留される。
筑紫には唐から郭務悰ら唐人六百人を含む2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の駐留軍は撤退し敗戦処理が終わり、中大兄皇子は天智天皇として西は九州、東は東北南部までの統一政権を樹立した。
この敗戦処理が中大兄皇子がなかなか天皇に即位せず大兄(おおえ、皇太子)でありつづけた理由だろう。
その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に、唐の皇帝が任命する官の行政府として機能したと考えられる。
都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に設置した統治制度であり、倭国は独立国としての権限を喪失した。
こうして栄華を極めていた倭国王朝は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
実質的な権力移行により官僚は畿内に移動し、地震により倒壊した建物や仏教芸術を含む白鳳時代の文化財も畿内に移築され、主権を失っていた筑紫は震災からの復興もままならなず政治的には没落したと考えられる。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内には国号の変更については記録がない。
- 668 :日本@名無史さん:2017/03/20(月) 13:43:47.14 .net
- 違うよ
- 669 :日本@名無史さん:2017/03/20(月) 17:41:19.84 .net
- そんな初代大王が、なんで最後
拉致されて殺されたんだろうね。
- 670 :日本@名無史さん:2017/03/20(月) 17:51:37.36 .net
- 稚奴は4歳年上の武姉さんのことが大好きだった
- 671 :日本@名無史さん:2017/03/20(月) 17:57:50.08 .net
- アタマのビョーインに行ったほうが良い
- 672 :日本@名無史さん:2017/03/20(月) 18:12:40.32 .net
- 稚奴は皇帝ではなく天皇の称号を使用したことでもゆうめい
日本国大酋長が天皇号を国際的に公的に称するのは
稚奴が死亡する683年以前にはむりだろう
- 673 :日本@名無史さん:2017/03/20(月) 18:19:09.08 .net
- >>666
伝説では扶余は南方由来なんだけどな
- 674 :日本@名無史さん:2017/03/20(月) 18:20:42.76 .net
- 囚われのゲストの倭王薩夜麻も参加させてからに
666年泰山にて封禅を行ったのが稚奴そのひと
- 675 :日本@名無史さん:2017/03/20(月) 18:44:29.35 .net
- >>673
ツングースカ
- 676 :日本@名無史さん:2017/03/21(火) 08:13:51.59 .net
- >>667
>こうして栄華を極めていた倭国王朝は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
誰かが言い出した「九州王朝」という呼び方は歴史の前後のつながりを欠く。
それに比べ、「倭国王朝」は、卑弥呼から大和朝廷までを理解しやすい。 極めて優れた呼び名である。
- 677 :日本@名無史さん:2017/03/21(火) 16:24:52.47 .net
- 稚奴のかあちゃんの兄貴が長孫無忌で
稚奴即位直後の執政者
隋書のまとめのは
636年 本紀5巻+列伝50巻 魏徴
656年 東夷伝含む志30巻 長孫無忌
ちなみに
稚奴の即位のは 649年
武氏の立后のが 655年
長孫無忌没のが 659年
ほどなく半島列島大騒ぎのがおこり
稚奴の泰山封禅 666年
- 678 :日本@名無史さん:2017/03/21(火) 16:35:31.23 .net
- 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
彼らが大王ならその血を残すために複数の后がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国とは「ヒメ」タタラが住まわれた奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite
- 679 :日本@名無史さん:2017/03/21(火) 18:05:47.07 .net
- 神武天皇が王弟とか変わってるな。確かに斬新
- 680 :日本@名無史さん:2017/03/21(火) 18:36:10.32 .net
- べしは完全に狂ったな
- 681 :日本@名無史さん:2017/03/21(火) 20:19:50.31 .net
- >>678
えっ? でも卑弥呼は独身って倭人伝には書いてなかった?
- 682 :日本@名無史さん:2017/03/21(火) 20:26:42.72 .net
- >>681
他の人の話だと思う
- 683 :日本@名無史さん:2017/03/21(火) 20:57:55.18 .net
- ペレはサッカーの神様
- 684 :日本@名無史さん:2017/03/21(火) 21:52:46.38 .net
- ジーコは八百万の神様の仲間入り。おめ
- 685 :日本@名無史さん:2017/03/22(水) 00:08:03.20 .net
- >>681
夫が先に死ねば独身だろ
- 686 :日本@名無史さん:2017/03/22(水) 00:54:02.27 .net
- >>685
未亡人
- 687 :日本海ルート論者:2017/03/22(水) 01:09:35.19 .net
- 今週あたり書けるかも知れん
が
いやはや(笑)
- 688 :邪馬台国くまモン論者:2017/03/22(水) 08:35:17.22 .net
- そりゃ楽しみ(ワクワク
- 689 :日本@名無史さん:2017/03/22(水) 09:25:43.93 .net
- >>681
>えっ? でも卑弥呼は独身って倭人伝には書いてなかった?
生涯独身の女王なんて世界の歴史上どこにいるのだ馬鹿。
周りが率先して婿を決めてあげるのが女王。
以下コピペ
歳がすでに長大である。夫がいない。
たったこれだけなのに、まるで生涯独身であったかのような解釈がまかり通ってます。
なかには
「歳がすでに長大なるも夫がいない」
と解釈してる人がいます。
この余計な「なるも」がつけば、まるで「行かずナントカ」みたいになります。
古今東西、世界のどこに、女王の「恋愛、結婚、出産」という女性としての普通の欲求をを妨げる国があったでしょう?
むしろ周りが率先して婿をみつけるのが常識。
「歳がすでに長大なるも夫がいない」と解釈してる人は、後の時代の斎王かなにかとイメージがごっちゃになってるのでしょう。
もうそんな馬鹿な解釈はいい加減にしてほしいと思います。
- 690 :日本@名無史さん:2017/03/22(水) 09:29:26.29 .net
- >>679
男弟はクシヒガタ
食国政申大夫(けくにのまつりごともうすなきみ)という今で言えば総理大臣
- 691 :日本@名無史さん:2017/03/22(水) 09:57:51.43 .net
- × 九州王朝
○ 卑弥呼・台与共立体制 →倭国王朝・倭の五王 →親百済政策 →白村江
- 692 :日本@名無史さん:2017/03/22(水) 10:00:30.92 .net
- >>689
おまい、卑弥呼のところへ婿入りでもしたいのか、
ま、止めはせんけどな、、、、
- 693 :日本@名無史さん:2017/03/22(水) 11:06:00.05 .net
- 「長大」というのは成人してるという意味な
- 694 :くまモン論者:2017/03/22(水) 11:57:53.68 .net
- >>690
なるほどクシヒガタか。おもしろい。倭国大乱が神武東征になるのかな?先代旧事本記も東征してるし
- 695 :日本@名無史さん:2017/03/22(水) 12:52:20.69 .net
- >>694
>倭国大乱が神武東征になるのかな?
時期的にそれもあるかもしれないが、
瀬戸内勢力=鏡・前方後円=物部
VS
葛城の銅鐸勢力=鴨
だと思う。
2大勢力が争ってたから食国政申大夫が、
鴨のクシヒガタ
物部のウマシマジ
の二人であったのだろう。
- 696 :日本@名無史さん:2017/03/22(水) 12:52:43.60 .net
- >>689
卑弥呼の婿って誰?
- 697 :日本@名無史さん:2017/03/22(水) 12:58:48.14 .net
- >>696の家の近所にいる、普通の男性だよ
つーちゃんねるで言うところの名無しと同じ
- 698 :日本@名無史さん:2017/03/22(水) 13:02:30.04 .net
- >>696
イワレヒコ
- 699 :くまモン論者:2017/03/22(水) 13:33:56.16 .net
- >>695
ふーん。だから大国主と大物主がごっちゃになってんのかね。なおおもしろい。しかし狗奴国の話だな。すべての神話は狗奴国のお話だよ
- 700 :日本@名無史さん:2017/03/22(水) 21:21:19.99 .net
- 卑弥呼の次に他人が男王として立ったけれどもうまくいかず、縁者の壹與が女王になり国が治った。
つまり、卑弥呼には夫も娘も息子もいなかった。
日の巫女は生涯独身だった。
- 701 :日本@名無史さん:2017/03/23(木) 18:02:01.76 .net
- >>700
生涯独身の女王なんて世界のどこにいる。
寡婦もあり生涯独身もありと幅を持たせて考えればいいのに、
生涯独身と決めてかかって分らなくしてきたんだ。
後の時代の4世紀の斎王かなにかとごっちゃになってるだろ。
- 702 :日本@名無史さん:2017/03/23(木) 18:07:17.61 .net
- ●どうして歴代天皇家は伊勢神宮に参詣しないのか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
天照大御神から、授けられたお鏡(八咫鏡)は、天皇と同じ御殿で祀るように命じられていました.
そのため、皇居内で祀られていましたが、「第10代の崇神(すじん)天皇」の時代に疫病がはやり、大勢の死者が出てしまいました。
そのため、崇神天皇は「神の祟り」だと、周囲にわめき散らして、ノイローゼに陥ったと言われています。
こんな騒動もあり、当時では、八咫鏡のせいなのではないか?・・という噂が流れました。
そして、ついに気が動転した崇神天皇は、ある手段に出ます。
なんと!
崇神天皇は天照大御神の魂ともいうべき「お鏡(八咫鏡)」を、皇居の外に出してしまったのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「神の祟り」って何だ。
簡単。
カミ=カムイ=カモ
つまり太古から続くカモ王朝の祟り。
崇神はカモ王朝に対してクーデターを起こした。
最後の大物主を殺し、ハツクニシラスとなった。
そして疫病が流行った。怖い。
崇神は大物主を祀る神社も建てたにも関わらず、まだその前王朝カモ=カミの霊におびえた。
そして蕃神である母方の祭器「鏡」を放逐。
以降、今でも20年に一度伊勢神宮を彷徨う。
だからこのことを知ってた皇室は伊勢神宮を参拝しなかった。
しかし我々一般人は伊勢神宮を訪れて、たとえ内宮のご神体である鏡にお祈りを捧げても、
それは天照大「神」(カミ・カモ 葛城の神タカテル媛)にお祈りをささげることになり、
何も問題はない。
そういう事だ。
- 703 :日本@名無史さん:2017/03/23(木) 18:20:03.60 .net
- というわけで崇神以前はカモ王朝だったことが分かる。
卑弥呼も台与もカモ王朝の人物。
カモとはカミ。
高天原(御所市高天)にすむカミガミであった。
そこに神武が婿入りした。
それが大和朝廷の始まりであった。
10代崇神はカモ王朝に対してクーデターを起こした男。
最終的に母方・物部の祭器「鏡」を放逐。
- 704 :くまモン論者:2017/03/23(木) 21:24:50.82 .net
- 婿入り?雇われ店長さんかな?確か邪馬台国御井説だったような、違ったらごめん
- 705 :くまモン論者:2017/03/24(金) 00:12:04.41 .net
- 御所市は土蜘蛛が居たんだったな。土蜘蛛といえば日本書記には土蜘蛛のことを 「そのひととなり、身短くして手足長し。しゅじゅと相類す」とある。侏儒国かな?
- 706 :日本@名無史さん:2017/03/24(金) 10:14:16.31 .net
- >>704
崇神は4世紀初頭。
ということはそれ以前は魏志によれば女王国。
記紀編纂者たちはそのことを十分知ってた。
ゆえに猛々しい男大王の神武東征の記述で潤色した。
神武の「婿入り」に違和感があるだろうが、
高天原(金剛山、御所市高天)のふもとに住むカミ=カモ王朝に婿入りしたのは事実。
つまり神武の婿入り先が卑弥呼=ヒメタタライスズ。
なぜ記紀編纂者たちがそんなことをしたのか。
神武と卑弥呼(ヒメタタラ)の5世代前が帥升。
これがスサノオとばれるのが怖かった。
日本の歴史を中華皇帝・安帝への土下座から始めるのが嫌だった。
これを避けるために時代を思い切り古く設定、
スサノオを神話化したのだ。
そして卑弥呼時代の神武も古くした。
- 707 :日本@名無史さん:2017/03/24(金) 10:26:09.02 .net
- 詳しくはワシのHPへどうぞ。
妃のいない大王
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home
- 708 :日本@名無史さん:2017/03/24(金) 10:34:58.69 .net
- つまらん
- 709 :くまモン論者:2017/03/24(金) 12:27:38.73 .net
- >>707
お邪魔します
- 710 :くまモン論者:2017/03/24(金) 23:15:57.67 .net
- 御所市あたりは三輪王朝でいいんでない。応神天皇から河内王朝期になるんだろう。三輪王朝で活躍した葛城襲津彦が難升米だったリして
- 711 :日本@名無史さん:2017/03/26(日) 01:35:47.62 .net
- >>710
御所は葛城王朝。
三輪王朝は崇神以降、おおよそ4世紀から。
葛城の神々に比べたら伊勢神宮など新興宗教みたいだ。
- 712 :日本@名無史さん:2017/03/26(日) 11:11:31.81 .net
- じゃあ何で筑紫神話が採用されたの?
その説明畿内説は誰もしてくれないんだが。
畿内説って安倍の答弁みたいだね。
詭弁臭い、話を反らす、すり替える、口汚く罵倒する、
そして肝心な事は言わない。
病んでるわ。
- 713 :日本@名無史さん:2017/03/26(日) 11:13:23.40 .net
- 採用なんてされていないよ
頭の病院に行ってきたほうが良いぞ、それか刑務所
- 714 :日本@名無史さん:2017/03/26(日) 11:21:23.88 .net
- その採用というのは教科書か何かなの?
このような事を言ってる人がいたでしょ
「ふざけたことしてんじゃねーぞ!」
「勝手なことをしてんじゃねーぞ!」
- 715 :日本@名無史さん:2017/03/26(日) 13:39:43.14 .net
- >>713
誰がおまえのようなキチガイにレスくれって
言った?ああ?
馬鹿は死ね
塵ひとつこの世界に残すなクズ
- 716 :日本海ルート論者:2017/03/27(月) 01:39:52.99 .net
- >>604のために、600の補足をザッと書く。
斉王紀2
(景初三年)二月,西域重譯獻火浣布,詔大將軍、太尉臨試以示百寮。
(景初3年=239年)2月、西域が譯を重ねて火浣布を献じ,詔して大將軍(=曹爽)、太尉(=司馬懿))に臨試し百寮に示す。
明帝は景初3年1月1日に死ぬ。
斉王紀には、その翌月、景初3年2月に西域から火浣布が献じられたと書いてある。
【コレ完全に編纂者のファインプレー】
つまり「明帝の喪中でも貢献記事は書かれる」。
ここを糸口に、全ての謎が解けて行く。
@まず帝紀に記さない理由がなくなることで「景初3年説は成り立たなくなる」。
A景初2年春には帯方郡は魏に落とされており、6月難升米が帯方郡訪問、8月遼東で公孫淵斬首、12月難升米訪京と景初2年説は余裕で成り立つ。
Bなぜ第2回の倭使訪魏が帝紀に記され、第1回と第3回は記されないか?600にある通り、明帝と曹爽の死に際し、司馬懿と倭使が共にいるから。
来たるべき晋書で晋の建国を記す時、倭使来訪により「禅譲」の準備が整ったと書かれることになっているのに、倭使が司馬家の「簒奪」の道具と明かしてしまう。
Cだが編纂者は倭人伝には景初2年と記しており、火浣布のファインプレーでヒントを残しており、書かずとも読めるようにしてある。
Dなぜ難升米の帰國が正始元年となったか?景初暦の痕跡を消したい為。景初暦こそ明帝の皇帝としての闘いの証拠であり武器であり死期を早めた原因でもある。
死亡日が1月1日で民が元旦になる度に悲しむという理由で殷正の景初暦を改め、夏正に戻した正始が始まる(死亡日が12月になる)訳で当然明帝は殺されている。
- 717 :日本@名無史さん:2017/03/27(月) 01:43:56.31 .net
- 『伊達の桃太郎』
何者かが日本に来ていたのかな。
この時点で確実に日本人となっているでしょ。
- 718 :日本@名無史さん:2017/03/27(月) 01:58:43.27 .net
- 詳しいことはわからないけど
「人の家の話じゃないのか?」と言っている人がいたよ
人の家、他人の家の話
- 719 :日本@名無史さん:2017/03/27(月) 02:05:40.03 .net
- いざなぎ、いざなみ、だったかな〜同じような話だよ
と言っていたでしょ
- 720 :日本@名無史さん:2017/03/27(月) 02:08:26.55 .net
- 日本昔話『三枚のお札』
- 721 :日本海ルート論者:2017/03/27(月) 02:14:54.01 .net
- なんというか。
このマニアックさにどんだけの人がついて来れるのかという感じなんだが(笑)
ともかくまあ。明帝(曹叡)は面白いよ。
「景」というのは景色のように「見た目」の意味がある。
明帝は抜きん出た容姿を持っていたと言われるから、その意味でも景初としたんだろうけど、
「皇帝の威徳、見た目にも明らかとなる初め」それが景初。
その年に皇帝のみが許される改号のみならず殷正への移行をする。
三正の変更は夏殷周以降、秦の始皇帝と漢の武帝しか行っていない。
忠義を文官を操るのに巧みだった曹操とは違い、皇帝として突っ走りすぎた感はあるけども。
にしても突如過ぎ。急ぎ過ぎ。慌て過ぎ。頭悪い感じでも無さそうなんだが。
40で死んだ父の曹丕がいるだけに、まさか殺されるとは思いもせず殺されていったとは思えない訳よね。
時間を見つけて本にでもまとめたいが鬼が笑う(笑)
- 722 :くまモン論者:2017/03/27(月) 13:03:21.10 .net
- 難升米は司馬懿と会ったのか。胸熱だな。遼東で司馬懿にあったのなら難升米は公孫淵に会いに行ってたのかな?
- 723 :日本@名無史さん:2017/03/28(火) 12:43:47.82 .net
- まあ遠交近攻策で高句麗の向こうと
結ぶのはふつーだろうね。
使いを出した時点では滅んだとは
わからなかった可能性が高い。
- 724 :日本@名無史さん:2017/03/29(水) 12:08:52.93 .net
- >>712
筑紫神話って何だ?
- 725 :日本@名無史さん:2017/03/30(木) 08:41:33.54 .net
- 記紀の神代の舞台は筑紫だろ?
- 726 :日本@名無史さん:2017/03/30(木) 08:52:37.89 .net
- >>725
多くの舞台はそうだが、
ついでに、肥前肥後も入れてくれ
- 727 :くまモン論者:2017/03/30(木) 14:45:05.70 .net
- 日向三代だな。しかしそれ以前は畿内や瀬戸内海あたりの物語やね。とってつけたような日向三代は持統天皇や藤原不比等あたりの創作だと思うんだがどうだろう?
- 728 :日本@名無史さん:2017/03/30(木) 18:23:03.20 .net
- 魏志倭人伝の主たる舞台の「邪馬台国女王之所都」は阿蘇・高知尾。
また記・紀・旧事本紀の主要舞台の「高天原」も阿蘇・高千穂で、どちらも、くまモンの国の経済圏・勢力範囲にあった。
さらに、やや脚色されてはいるが、倭人伝と、記・紀・旧事本紀とを対比すれば、その登場人物と役どころにも酷似している点が少なくない。
それらを一覧対比すれば以下の如し。
卑弥呼(=岩戸隠れ天照大神) 阿蘇・高千穂神社本殿裏手の「冢」に葬るも、後に隠蔽さる
↓
↓→ 男 弟(=月読命)
↓
↓← 張 政(=思金神) ←帯方太守(=高御産巣日神)
↓
↓→ 難升米(=天児屋根命)→中臣の祖 →藤原氏 →現代まで続く
↓
台 与(=岩戸開け天照大神)
別名1=卑弥呼の宗女(大倭豊秋津師比売大神、宇佐神宮に祀る) …(婚姻)… 日向・投馬国の官彌彌(天照の子の天之忍穂耳命)
別名2=天照の子の天之忍穂耳の嫁(萬幡豊秋津師比命大神、伊勢神宮内宮の相殿に祀る)
- 729 :日本@名無史さん:2017/03/30(木) 19:18:38.67 .net
- 「小学生より学力が足りないで賞」受賞
↓
「テンプレの誤字も直した方が良いで賞」受賞
↓
「まだわからないで賞」受賞
↓
俺は悔しくて泣いた。
↓
だが、ボキャ貧キウスの知らない単語な線もある。
↓
「無教養露見で賞」受賞
↓
❓❓❓
. /テンプレ\ 誤字ったってキウスやサイキバみたいは
/ \ 単なるタッチミスもある
. / (゚) (゚) \ ❓❓❓
| )●( | キウスが笑い者なだけ❓
. \ 廿 / 誤字って何❓
. ノ \ ❓❓❓
👆「自分で発見しないと笑いもので賞」
- 730 :日本@名無史さん:2017/03/30(木) 19:32:43.05 .net
- 阿蘇は景行紀でも土蜘蛛扱いされず「神」と呼ばれてるし、古く、歴史ある国家だったんだろうね。
倭人条の蘇奴国、対蘇国がこのあたりだったんじゃないか?
- 731 :日本@名無史さん:2017/03/30(木) 21:18:01.86 .net
- 阿蘇熊本は狗奴国すなわち肥国王家の本拠地であり、本来は倭国連合王国すなわち邪馬台国連合の主要メンバー。
ただし卑弥呼の時代は卑弥呼の共立に反対して袂を分かっていた。
熊は隈、神に通じる尊称で、王家の称号。
- 732 :日本@名無史さん:2017/03/30(木) 21:31:54.20 .net
- 熊は隈
- 733 :日本@名無史さん:2017/03/30(木) 21:39:32.82 .net
- [熊本]
肥後国の城下町。
隈本(くまもと〉の地名の初見は1377年(天授3‖永和3)で,茶臼山の一隅に隈本城が構築されたが,
南北朝期の政治の中心は守護菊池氏の本拠の隈府(わいふ、菊池郡)にあった。
- 734 :日本@名無史さん:2017/03/30(木) 22:42:46.28 .net
- 肥後国菊池郡=華奴蘇奴国
- 735 :日本@名無史さん:2017/03/30(木) 23:06:14.10 .net
- どう見ても菊池郡は狗奴国だろう。
官の名が菊池彦だからな。
隈本は肥国王家の熊襲王家の本拠地。
肥国は伊都の天孫族すなわち天氏と並び倭国連合の重要な一員。
- 736 :日本@名無史さん:2017/03/30(木) 23:16:56.30 .net
- 狗古智卑狗は河野氏の祖、河野越智彦だという説もあるみたいね。
- 737 :日本@名無史さん:2017/03/31(金) 00:10:21.00 .net
- それだと邪馬台国の南に狗奴国があるという位置関係と合わなくなる。
今度は南を西と読み替えるのかい?
畿内説だとインチキがなんでもありになってしまう。
- 738 :日本@名無史さん:2017/03/31(金) 01:14:04.85 .net
- 熊本が狗奴国なら、狗馬国と表記されるハズである。
狗奴国は登呂遺跡の事である。
登呂遺跡を挟んで、静岡の袋井あたりから神奈川の小田原あたりまで、
久能とか久野とか久努という地名だらけ。
静岡から神奈川にかけて広がっていた大国だったのである。
- 739 :日本@名無史さん:2017/03/31(金) 05:25:10.35 .net
- 狗奴国は熊襲の国だろ。
その集団の一部が薩摩大隅から伊予に遷ってったんじゃないか?
- 740 :くまモン論者:2017/03/31(金) 07:55:24.29 .net
- 後漢書倭国伝に自女王國東度海千餘里至拘奴國とある。狗奴国は九州から東の海を渡る所にある。
- 741 :日本@名無史さん:2017/03/31(金) 10:13:30.72 .net
- 拘奴國(コウナコク・しつこい奴国)と、
狗奴国(クナコク・吠える奴国)は、別の国。
- 742 :日本@名無史さん:2017/03/31(金) 10:22:38.75 .net
- 狗奴国
>「熊襲」とは九州南部に拠地を構えて王権に抵抗した族。
>筑前国風土記では球磨囎唹と表記され、肥後の球磨郡から大隅の曽於郡に居住した族とされる。
>記紀には景行天皇の熊襲征討が記され、古事記には日本武尊による熊襲建(川上梟帥)の征伐譚が記され、
>5世紀ごろまでに王権に臣従したというのが通説。
>神話においては筑紫島の四面のひとつとして、熊曾国を「建日別」とする。
>魏志倭人伝中の狗奴国を熊襲の国であるとする説が唱えられている。
- 743 :くまモン論者:2017/03/31(金) 11:44:22.19 .net
- のちに熊襲呼ばわりされる人々が邪馬台国だったんだろう。記紀は狗奴国の物語だ。
- 744 :日本@名無史さん:2017/03/31(金) 12:01:01.69 .net
- 神道くまモン、
えらくガンバっとっとじゃなかねー、、、
- 745 :くまモン論者:2017/03/31(金) 12:13:21.60 .net
- じゃなければ、卑弥呼は神功皇后一択
- 746 :日本@名無史さん:2017/03/31(金) 12:41:25.74 .net
- 女王卑弥呼だったのだから、
女傑の神功皇后一択は納得しやすいな
- 747 :くまモン論者:2017/03/31(金) 13:19:49.15 .net
- 紀の神功皇后39年に倭女王、遣大夫難斗米等とあるからね。それか全く知らなかったかどちらかだろうね。
- 748 :日本@名無史さん:2017/03/31(金) 16:25:55.28 .net
- 神功皇后紀
>即位39年。この年は太歲己未でした。
>魏志によると、明帝(メイテイ)の景初三年六月に倭の女王が大夫(タイフ)の難斗米(魏志原文では難升米)などを派遣して、
>郡(コオリ=帯方郡)に行き、天子に会おうと朝献(チョウケン=中国の朝廷に詣でること)しました。
>太守のケ夏(トカ=人名)は、道案内の吏(リ=役人)を遣して京都(ケイト=洛陽)に詣でました。
ここで注目されるのは、原文の難升米が、「難斗米」に書き換えられている点である。
推測だが、本来の倭名の発音は「難斗米(ナートメイ)」に相当するものであったのを、
魏志倭人伝を書いた陳寿が、面白半分に「難升米(ナーショウメイ)」とパロッたのではないか??、
神功紀の斗米は、裕福な貴族たちが売り買いする「一斗の米」を意味するが、
倭人伝の升米は、庶民が貸し借りする「一升の米」という、いかにも貧しげな単位を意味するからである。
- 749 :くまモン論者:2017/03/31(金) 17:15:46.60 .net
- ふーん、だから難升米が難斗米になってんのか。ありえそうでこわい
- 750 :日本@名無史さん:2017/03/31(金) 19:28:40.94 .net
- もっと怖い話がないわけではない
だが、それは来週にしよう
- 751 :日本@名無史さん:2017/03/31(金) 19:57:49.61 .net
- 考古学的に10代崇神天皇が4世紀初頭になりつつある。
魏志によればそれ以前の3世紀は女王の時代である。
それと呼応するかのように、崇神以前に妃のいない天皇たちがいる。
初代神武から6代孝安である。もちろん彼らには正后はいる。
しかし妃はいない。
大王(おおきみ)なら自分の子孫を残すため複数の妃がいるのが普通。
ところがいない。なぜ彼らには妃がいないのか。
魏志の記述通り、この時代が女王の時代だからである。
つまり彼らは大王ではなかったのである。
では話は簡単。
彼らの正后をみればいいのだ。
その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
●推定3世紀大王譜
@神武・「ヒメ」タタライスズ
A綏靖 ・イスズヨリヒメ 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧・ヌナソコナカツヒメ 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳・アマ「トヨ」ツ
D孝昭・ヨソタラシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安・オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。そして7代孝霊には複数の妃。
実質の男王は孝霊の時代からだろう。
それは箸墓古墳の時代だ。 邪馬台国とは簡単。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた奈良県御所市。
纏向(遺跡)に卑弥呼はいない。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite
- 752 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 10:23:01.05 .net
- 「天神様の細道じゃ、怖いながらも通りゃんせ」
他の神社は起源や系統がわかってるってるのに、天神様はわからない。
全国第四位なのに。
菅公のは菅原天神。最強クラスの祟り神となった菅公を引き受けるのは
没地でもある太宰府天神しかないと。
そう言えば天つ神の頂点に君臨する伊勢神宮も最強の祟り神で、天皇家の
禁足地である。
- 753 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 20:17:26.01 .net
- 出雲や吉備や畿内のように、伊勢を中心に栄えた連合国家もあったんだろうね。
濃尾平野の小国家群や三河、遠江の小国家群を支配下に置いていたんだろうか。
- 754 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 20:30:06.21 .net
- 伊勢に大国はない。
伊勢神宮の歴史くらいは勉強されたし。
- 755 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 20:53:23.16 .net
- 天神様の祖は徐福である(いいな
- 756 :日本@名無史さん:2017/04/02(日) 20:57:18.00 .net
- 畿内はない
- 757 :日本海ルート論者:2017/04/02(日) 23:04:47.32 .net
- >>722
難升米は公孫氏との「定例貿易官」で帯方郡を詣でていた訳です。
帯方郡の設置は204年と言われますが208年から、倭との貿易もこの年から始まっていると考えますが、それでも30年間の長い付き合いとなります。
因みに司馬懿の遼東征伐は完璧すぎるものです。この軍事行動は208年1月に開始され、まず水軍が樂浪・帯方郡を落とし、司馬懿本軍が遼東に現れるのは6月。
周辺全民族を味方につけ四方をまず塞ぐ。更に7月の長雨で撤退した前年の毌丘倹とダブらせることで甘い期待を持たせ、公孫淵を遼東に釘付けにした。
その上で逃げ場の無い公孫淵を滅ぼしたのが8月。難升米の帯方郡到着が6月なので、難升米の遼東到着はコレにギリギリ間に合ったかも知れない。
その後、難升米の京都到着が12月。司馬懿の到着は翌年1月1日。この日に明帝が今後を曹爽と司馬懿に託し病死する。
「京観など苛烈な戦後処理をし、大軍指揮権を持ったまま京都に帰らず、難升米を京都に送って忠誠心を示し、明帝の死の当日に帰還する」司馬懿の行動は完璧です。
ですから、難升米来訪も実は司馬懿が仕組んだ、なんて考えが頭をよぎってしまう程です。
まあ一点、気にかかる可能性は、難升米が「定例貿易官」ではなく、公孫氏の使者の帰国を護衛する「燕王自立を祝う返答使」なら面白いんだけど…
公孫淵の燕王自立は前年7月なんで、渡海可能月に間に合わないんだよなあ(汗)
- 758 :日本海ルート論者:2017/04/02(日) 23:18:57.05 .net
- >>737
それは余裕で可能ですよ(笑)
そもそも魏使は伊都國常駐で投馬國や邪馬壹國には行っていない。
彼らは伊都國にある津で邪馬壹國へ向かう船を見送った。
しかし、その後邪馬壹國から戻ってきた使者は南から陸路で奴國を経て旁國経由で伊都國へ戻って来た。
だから、投馬國と邪馬壹國は南にあると推測されたのです。
勿論、倭奴國と帥升の記事により、南にあるという思い込みが先ずあったことが1番の問題ではありますが〜
- 759 :日本海ルート論者:2017/04/02(日) 23:33:20.95 .net
- 要は
伊都國→→→→投馬國→→→→上陸地(但馬)
↖︎ ↓
奴 ↓
國←←←旁國経由(瀬戸内)←←←邪馬壹國
狗奴國
末盧國は「まつらう者たちの國」
狗奴國は以後も熊襲に繋がる「まつろわぬ者たちの國」
但し、卑彌弓呼(ヒコミコの聞き違え)の國だから世が世なら… ということ。
ps.
九州で塞曹掾史の張政に見合う山と砦となれば、地形マニア的に言えば太宰府か高良山だと思う。脱線(笑)
- 760 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 02:07:10.26 .net
- 狗邪韓國+對海國+壹大國
+末盧國北部+壹都國+不彌國----「壹界」=自女王國以北
奴國(⊃ 女王國 )+遠絶20旁國----〆て九萬戸=「邪馬界」
邪馬界+壹界=邪馬壹界←〆て統べるのが「邪馬壹國女王」の壹與
〆て十萬戸に届きそうな「邪馬壹界」と相互補完関係にあるのが
〆て五萬戸の「投馬界」で
コアなところは
「邪馬界」の外にあるから「邪馬外」とか
「邪馬界」の口にあるから「邪馬門」とか「邪馬戸」とかの別名もある
拡張域のが但馬とか丹羽とか敦賀とか越とか吉備とか播磨とか
意富夜麻登玖邇阿禮比賣命
夜麻登登母母曾毘賣命 は「邪馬口」のの「邪馬外」の女大酋長
- 761 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 02:16:41.85 .net
- 「邪馬口」のの「邪馬外」の女大酋長のは「彌彌」で
「彌彌那利」は♂の王様で半島系史書では「多婆那王」とよばれる
「多婆那王」は三雲の女王のところに招婿されることがたびたび
「多婆那」の別称が「阿那」なので
いわゆるスサノヲやオオクニヌシの活動中心拠点は山口であることがわかる
- 762 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 03:36:04.03 .net
- 「正始四年冬十二月 倭國女王俾彌呼遣使奉獻」
卑 ↔ 俾 ↔ 裨
通用 異体字
「裨」とは「本義:古代祭祀大夫所穿的一種次等礼服」
「天子六服 大裘爲上 其余爲裨 以事尊卑服之 而諸侯亦服焉」
[大夫クラスの倭人]即ち[王]が[卑・俾・裨]を称すのではあった
- 763 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 03:40:49.01 .net
- 北面して率俾する相手のは当然のこと漢帝とか魏帝のこと
「倭國女王俾彌呼」は死亡届の署名のでもお死んでる出し主
- 764 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 06:33:04.72 .net
- 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home
- 765 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 07:48:53.40 .net
- 魏志では、卑弥呼の朝貢使は「難升米(ナーショウメイ)」となっている。
これは著者の陳寿が、「一升の米」という、いかにも貧しげな単位を連想させるため、
面白半分におちょくったからではないか?
そこでチキショウメイと思ったか、日本書紀・神功紀39年の魏志引用では、ここは「難斗米」に書き換えられている。
本来の倭的発音は「難斗米」(ナートメイ、ナートミイ)が相応しかったからであろう。
前レスでこの難斗米は、高天原神話の天児屋根命と比定したわけだが、彼こそ「ナートミイ」、
すなわち、中臣の祖であったと睨んだからである。
思うに、8世紀の記紀の編著者たちには、魏誌に登場する国々や人物の正体が読めていたに相違ないのである。
- 766 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 08:09:34.21 .net
- >>765
なるほどナカトミか。
これは面白い、ありがとう。
- 767 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 08:22:48.00 .net
- 中臣系図から判断して、卑弥呼時代から順に、
(天)種子 宇佐津臣 御食津臣 伊賀津臣 梨津臣
になるかもしれません。
- 768 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 09:08:52.48 .net
- >>757
景初二年の難升米の献上品は男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈と少なすぎる。最初から洛陽を目指したとは思えないよなぁ。
- 769 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 12:13:18.91 .net
- 帯方太守としては、
ぜひとも倭国を郡治下に組込み、手柄にしたかったことであろう
反逆の公孫淵を成敗したことでもあり、
倭国の親魏政権にテコ入れすべく、卑弥呼重臣の難升米と示し合わせて、ひと芝居打ったのではないか、、、
- 770 :日本@名無史さん:2017/04/03(月) 18:15:40.32 .net
- 難 《説文》鳥也。本作[漢-氵+鳥]。
又珠名。《曹植·美人行》珊瑚阮リ難。
《註》《南越志》曰:木難,金翅鳥沫所成碧色珠也。
難 ⇔ 金翅鳥,烏
升 ⇔ 昇 ⇔ ☀
米 ⇔ ☀
難升米 ⇔ 烏郎,延烏郎 ⇔ 天日鉾 ⇔ 阿達羅王
御眞木入日子印惠命 = 梨津臣命 = 難升米 = 伊都王爾支 = 廃王
御眞津比賣命 = 臣智人命 = 俾彌呼
伊久米伊理毘古伊佐知命 = 伊世理彦命 = 伊聲耆掖邪狗
[伊理],[入]は[yiri]にて[yori]のも同義で[dominate],[rule]の意
- 771 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:04:22.45 .net
- 他スレで見たけど
卑弥呼は女か男かわからなくなってしまいました。
卑弥呼を女と使者が断定した根拠は??以降女王でで記述されてます。
倭人伝のみ知るでしょうか?
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
使者は卑弥呼を女と断定したのは、聞いた?直に女性器を見た?と交わった?
卑弥呼は女だったのだろうか?
- 772 :卑弥呼は男?女?:2017/04/05(水) 22:10:54.22 .net
- 邪馬台国論争で各説とも卑弥呼は女性と決めつけていいのだろうか???
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛 」
????????????????????
邪馬台国の重鎮は卑弥呼は使者には女と伝えた????
使者は卑弥呼と謁見した。女だと思った????
- 773 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:19:26.16 .net
- 以下も推測の域をでないと思う。まず使者が卑弥呼は女と言う概念を持った??
☟
卑弥呼について書かれている文献は、三国志の通称、魏志倭人伝だけです。
この魏志倭人伝によると、卑弥呼は間違いなく女性です。
根拠としては、
一、女王という文字が、13回も登場すること。
二、一人の女子を立て王と為す、名を卑弥呼という、と書かれていること。
三、夫婿なし、つまり夫がいないと書かれていること。
四、倭女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼は、もとから仲が悪かったと書かれていること。
などが挙げられます。
- 774 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:31:50.31 .net
- >>773
良い疑問ですが。誰も解けません。
倭人伝は中國の正史としか答えられません。
使者が女性と思ったら、王は女性でいいとしか言えません。
倭人伝無ければ、邪馬台国も卑弥呼も日本史上では存在しないのですから。
- 775 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:35:17.33 .net
- >>774です
追記します。
南を東にするのいいですが、正史です。
- 776 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:36:31.97 .net
- バレバレの自演w
頭おかしいんじゃないの?
- 777 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:39:49.02 .net
- >>776
釣られちゃいましたね。(爆笑)
- 778 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:41:15.83 .net
- どうした?顔が真っ赤だぞw
- 779 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:42:25.97 .net
- バレてるから釣られてないだろwww
- 780 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:43:26.57 .net
- ばれたら釣り上げることはできませんよ
- 781 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:44:28.36 .net
- 自分が笑われていることに気が付かないんだろうな(爆笑)
- 782 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:46:30.11 .net
- こいつ畿内説スレを荒らしてる基地害キウスだろ
- 783 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:47:52.65 .net
- ゴミは巣から出くるなよ
- 784 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:50:40.57 .net
- どアホ
楽しかったらいいんだよ。
2ちゃんは
- 785 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:53:12.49 .net
- 自演を認めて、なおかつ居直るキチガイ
- 786 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:54:19.69 .net
- 漢文かが読めないのか女・女
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛 」
- 787 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 22:54:57.90 .net
- >>779 >>780
おまえら、上手いこと言ってるつもりが、モロかぶりじゃないかw
- 788 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 23:00:28.23 .net
- >>787
かぶってるよ、アンチは。
- 789 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 23:05:24.28 .net
- 日本語が不自由だなぁ
- 790 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 23:08:18.02 .net
- キウス
邪馬台国関連スレで一、二を争う狂人
「希薄」を読めず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
四棟粘着爺、指さし厨とも
日本語力能力にかなりの難があり、基本的な日本史知識もほとんど持ち合わせていない
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、偽スレを立てたこともある
自分に否定的な相手はすべて>>1だと思い込む「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
ヤマト王権を半島からの渡来人政権だと主張する渡来人至上主義者であるが、その根拠を述べたことはない
日本語能力の欠如、貧困な日本史知識、渡来人至上主義などの点から、日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている
書き込みに環境依存文字を多用し、「自論」や「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」など特徴的な言い回しが多いことや
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の多用、名前欄へ文章を書き込む、HNとトリップの区別がつかない、たまに旧字体を使用する、ageなどの特徴ですぐに判別できる
最近使用が確認されたコテ&トリは下の通り
「キウス◆TJ9qoWuqvA」「ビギナー◆TJ9qoWuqvA」「あの ◆zDcsAEpKdA」「◆TbjlUtTwCg」
最近は「キウス連呼爺」なる空想の人物や「ヒロユキ一派」という架空の集団とバトルを繰り広げている気になっているらしい
- 791 :秘密のキウスと呼ばれた男:2017/04/05(水) 23:28:28.14 .net
- >>1
♪邪馬台国ドンと来い!♪
スレ主交替したの
歯ごたえが無い
スレ主が誰が、誰にかが、わからん。スレ主の主張がわからん
こいつのスレ好き
スレタイとスレ主の努力がたまらなく好きなんだ。
☟
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレ☟です
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう」
☟
このスレ主は営業でも通用する。
泣き言、言わない。俺はやるの姿勢が良い、
まず「勝利宣言」をする。・・これは自分にプレシャーを与える姿勢、これが好き
☟
でも甘えるなよ、キウスは アンタの成長無ければ切り捨てる。
______________________________
結論
このスレは面白くない
- 792 :日本@名無史さん:2017/04/05(水) 23:36:50.89 .net
- 】邪馬台国畿内説 Part216
madda^^^^^^
wwwww
- 793 :日本@名無史さん:2017/04/06(木) 00:03:22.76 .net
- 邪馬台国の不都合な真実(Ver2)、
天照大神の高天原と女王卑弥呼の所都は、歴史の表裏だった!!
岩戸隠れ天照大神、(魏志曰・卑弥呼) 阿蘇・高千穂神社本殿裏手の「冢」に葬るも、後に隠蔽さる
↓
↓→ 其弟、月読命 (魏志曰・男弟)
↓
↓← 思金神 (魏志曰・張政) ← 高御産巣日神 (魏誌曰・帯方太守王頎)
↓
↓→ 天児屋根命 (魏誌曰・難升米、神功紀曰・難斗米、ナートメイ) →中臣の祖 →藤原氏 →現代まで続く
↓
岩戸開け天照皇大神 阿蘇・天岩戸神社東本宮の山稜に葬る (魏誌曰・宗女台与)
(別名1) 萬幡豊秋津師比売大神(高木神=高御産巣日神の娘)、
其夫は、岩戸隠れ天照大神の養子の天之忍穂耳命、(魏誌曰・日向投馬国の官・彌彌)
(別名2) 萬幡豊秋津姫命(高御産巣日神の娘、又は孫)、伊勢神宮内宮相殿に天手力男命と共に祀る
↓
(其子一男) 天火明命(別名饒速日尊)、天孫邇邇芸命に先立って降る →物部らの祖
(其子二男) 天孫邇邇芸命(日向・西都原に祀る)
↓
- 794 :日本@名無史さん:2017/04/07(金) 01:18:33.64 .net
- >>751
崇神はその前とつながっていないから無駄な考察だよ。
天皇の諡号は、各王朝の始祖に神の文字が含まれている。
神武、崇神、応神は、新たな王統の始祖なんだよ。
だから、崇神から前に数えても無駄。
- 795 :日本@名無史さん:2017/04/07(金) 01:52:22.48 .net
- 御眞木入日子印惠命 (258)戊寅年十二月崩
[彌馬支][yiri=yori][卑狗][印惠命]
- 796 :日本@名無史さん:2017/04/07(金) 02:07:04.18 .net
- [卑狗]は[狗]の裨官
[入]は[yiri=yori]で[dominate],[rule]の意
支配した対象地域が[彌馬支]
[彌馬支]は[mimaki],[mimachi]で[彌馬]からの分れの地
[彌馬]+[國]=[彌馬那]で[狗邪韓國]と等価
[印惠]として印鑑を恵まれたのが生涯の思い出なのを表現
[崇神]とは8世紀に追贈されたニックネーム
- 797 :日本@名無史さん:2017/04/07(金) 02:44:06.94 .net
- 邪の異体字 斜 耶 衺 鋣 釾
邪 yú 古同“餘”
又《集韻》羊諸切,音余。與餘同。
《史記·歴史》歸邪於終。《註》邪,餘分也。終,閏月也。
狗邪:狗の餘分の
韓國:韓氏の國
韓王:「侯準既僭號稱王 爲燕亡人衞滿所攻奪 將其左右宮人走入海居韓地 自號韓王」
「(魚豢)魏略曰 其子及親留在國者 因冒姓韓氏 準王海中 不與朝鮮相往來」
「其子及親留在國者 因冒姓韓氏」
[其子及親]のうちで[韓地]に留まり在らざるグループがおってからに
そのグループのは[韓氏]を称さなかった。
- 798 :日本@名無史さん:2017/04/07(金) 13:40:19.47 .net
- >>794
繋がってないという根拠が何か知らないが、
仮に繋がってなくても、
崇神(4世紀初頭)から数世代前の女性の最高位に、
ヒメ、ヒミ、ヒムという名前の人がいれば、
それが卑弥呼の最有力候補だろ。
何で逃げてるんだ?
- 799 :日本@名無史さん:2017/04/07(金) 15:41:16.24 .net
- >>597
三世紀に女王が連続して就くなんて、畿内の朝廷じゃあないねえ
- 800 :日本@名無史さん:2017/04/07(金) 16:24:27.42 .net
- 家系図が嘘なのかもしれないだろ
- 801 :日本@名無史さん:2017/04/07(金) 19:44:36.82 .net
- >>799
日本書紀にヒメ・ヒコ政治の形態が描かれているだろ
例えば崇神天皇の時には大叔母の百襲媛が神がかりになって治世に訓示を与えた
日本武尊にも叔母の斎宮・倭媛が訓示を与えている
祭祀をつかさどるヒメと、軍事をつかさどるヒコがセットになったのが古代治世
卑弥呼や台与は祭祀をつかさどり政の決定を行うヒメ
他に軍事をつかさどるヒコがいた
- 802 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 02:32:28.49 .net
- >>798
ヒメの名は、もともとホト(陰部)という名前だった。
それを本人が年頃になり嫌がったので変えた。
姫初めと同じような言葉だ。
トヨは知らん。
しかし、古代史にはトヨとつく姫はたくさんいる。
各世紀から一人ずつくらいは探し出せるだろう。
根拠にならない。
あと、神武は何人か奥さんいただろう。
腹違いの王子同士で殺し合いもしている。
- 803 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 06:08:42.01 .net
- >>802
>ヒメの名は、もともとホト(陰部)という名前だった。
それを本人が年頃になり嫌がったので変えた。
だから何なんだろ。
ヒメに変えたのだからそれでいいではないか。
それを中国側が卑弥呼と表記した。
何も問題ない。
>あと、神武は何人か奥さんいただろう。
腹違いの王子同士で殺し合いもしている。
何の話だ?
タギシミミか?
あれは大和入りする前の九州時代の子。
大和入りしてからは神武に妃がいないという話だ。
そんな男が大王っておかしいだろ。
神武が大王ではなかったから「天皇」という新称号をプレゼントしてあげたのだ。
- 804 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 07:56:43.90 .net
- 殺し合いするくらいだから、交流はあったんだよ。
そもそも、神武の死後に手研耳命がその媛蹈鞴媛を寝取っているじゃないか。
それが卑弥呼だと?
全然人物像が違う。
- 805 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 08:57:53.29 .net
- >>804
神武が大和入りしてから妃がいないという、
わしの意見に対して全然反論できていないのだが?
>全然人物像が違う。
君の思う人物像なんぞ関係ない。
【年已長大 無夫壻】
「歳はすでに長大である。夫はいない」
たったこれだけで生涯独身とでも思ってたのか?
そういう偏狭な頭だから歴史が見えなかったのだ。
- 806 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 09:02:08.76 .net
- もう一度わしのHPを宣伝しよう。
「妃のいない大王」
https://o-yan216.wixsite.com/mysite
- 807 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 13:49:28.37 .net
- 倭人伝には卑弥呼が死ぬまで結婚した形跡はないな
- 808 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 19:13:44.34 .net
- >>805
神武は妻問婚の相手が二人いたということ。
別に後世のように入内したわけじゃない。
くだんの媛蹈鞴媛だって、ナンパのようのして誘って野合した。
後に再開した時に神武が歌ったには、
あの日、川べりの粗末な小屋に藁を敷いてあなたと一夜を共にしましたね、
とある。
君の言うような、妃がどうとかいう時代じゃないんだよ。
しかもちゃんと奥さんが二人いて、それぞれの息子が耳という王族の称号で呼ばれている。
二人の奥さんの間に当時は身分の差はなかった。
- 809 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 19:17:44.63 .net
- >>807-808
なんじゃそれ。
その程度では卑弥呼がヒメタタライスズであるという意見を変えようとは思えん。
- 810 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 19:19:04.37 .net
- 小っちぇ、反論ワロタwwww
- 811 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 19:20:37.52 .net
- ていうか、ヒメとついただけで卑弥呼だと思う方がおかしい。
そもそも卑弥呼は日御子か日巫女だろうから、ヒメとは関係ない。
- 812 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 19:28:45.59 .net
- >>809
系図だけ見て納得して、まともに媛蹈鞴媛の記事を読んでないだろう。
妄想乙。
- 813 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 19:56:57.06 .net
- >>811
別名でなくヒメ、ヒミとついてるのが大前提だろ。
ゴールポストを動かすな。
- 814 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 19:58:44.16 .net
- >>808
家制度なんてないのに奥さんてwww
なんかアホばっかりだなwww
- 815 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 20:44:04.27 .net
- >>813
手前勝手なゴールポストを立てるな。
- 816 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 22:26:59.99 .net
- 力量のある男が能う限り女を貪り食い尽くす・・・・
西洋ではジュリアス・シーザー、中華では秦の始皇帝がまさにそんな風に振舞っていた時代、
神武(=崇神?)や応神なんかも毎日がハーレムだったはず
- 817 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 22:44:50.23 .net
- 神武はそこまで肉食だったようではないな。
奥さんの数も控えめだし、子供の数も少ない。
兄が死んで期せずしてトップの座についてしまった訳だし。
酒池肉林といえば、景行の子供は80人いたそうだ。
遠征で征服した土地の姫巫女を次々にモノにしたのであろう。
雄略天皇は童女君と7回やって一晩で身篭らせたとか。
- 818 :日本@名無史さん:2017/04/08(土) 23:28:33.42 .net
- 通い婚でいろんな家に受け入れてもらっただけじゃね。
ま、創作家系で強引に血を繋げただけなんだろうけど。
- 819 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 04:25:43.52 .net
- 倭人伝には記紀における同時代の皇室王室のメンバーがそろっている。西暦200年前後
トップは伊支馬(いきま) → 第11代垂仁天皇 「伊久米入日子伊佐知命」
次席は弥馬升(みます) → 垂仁天皇后 「氷羽州比賣命」
三席は弥馬獲支(みまかし) → 皇太子 大帶日子命、後の第12代景行天皇妃 「美波迦斯毘賣命」
四席は奴佳醍(ぬはだい) → 垂仁天皇妃 「沼羽田入毘賣命」
ヤマト (邪馬台国)は
代々男王 → 共立卑弥呼 →男王 →復立卑弥呼宗女
男王女王共立の国(ヒメヒコ制)。 共立を繰り返す(復立)
伊勢神宮の斎王 ←「王」 鏡 太陽 アマテラス 巫女 宗女
崇神 ももそ姫 初代 夜麻登登母母曽毘売 (やまととももそひめ)ヒミコ 崇神
2代目 豊鋤入姫 (とよすきいりひめ)トヨ 崇神・垂仁
3代目 倭姫 垂仁・景行
現今上陛下の姉 天皇
107年 倭国王帥升等 倭のクニオシヒト
第六代 考安天皇 国押人
升は飛の略字。欠史八代は実在。
- 820 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 09:23:02.86 .net
- 神武はいきがってるわりにだまし討ちで町ひとつゲットしたレベル
天孫族だから物部に嫁下された程度
王ですらない
- 821 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 10:05:17.86 .net
- 神武ら畿内勢力は5世紀くらいまでは豪族による地方勢力に過ぎないです。
もちろん、3世紀の卑弥呼の時代は倭国を代表するどころか、倭国の中でも圧倒的な辺境の地です。
筑紫や出雲が鉄器や銅器の時代にあっても、奈良は木製品と土器しかありません。
もちろん人口も九州などよりはるかに少なく、魏志の記述ともあいません。
- 822 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 10:11:49.51 .net
- 3世紀には神獣鏡が畿内中心で出土してる時点で
邪馬台国は畿内で確定したんだよな
- 823 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 10:39:21.42 .net
- 九州説の連中なんて既に荒らししか出来ない程落ちぶれたんだよな。
- 824 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 11:31:49.12 .net
- 3世紀には八咫の鏡が九州北部で出土してる時点で
邪馬台国は九州で確定したんだよな
- 825 :くまモン論者:2017/04/09(日) 12:29:40.06 .net
- 三角縁神獣鏡はのちの東晋時代に日本に渡来した呉の鏡職人の作品でしょ。
- 826 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 19:28:55.59 .net
- >>821
>>824
wikiぐらい読んでから書き込んだほうがいい
- 827 :日本@名無史さん:2017/04/09(日) 19:33:41.67 .net
- >>819
前もって魏志倭人伝を読んでいた舎人親王らが、その内容に合致するように垂仁天皇達を創作したという可能性は?
- 828 :日本海ルート論者:2017/04/10(月) 02:03:29.62 .net
- >>768
難升米は洛陽に行くことになるなんて夢にも思っていなかった筈ですよ。
滅茶苦茶簡単に言うと、倭女王の正使は明らかに伊聲耆掖邪狗です。
だから、掖邪狗ではなく難升米である時点で、この外交は単なる通常貿易なんですね。
因みに、韓伝に出てくる明帝から密かに命ぜられて海から公孫氏支配の郡を落とした帯方郡太守「劉ウ」と、
倭人伝に出てくる景初2年に郡に着いた難升米らを洛陽に送るよう命じた帯方郡太守「劉夏」は同一人物です。(劉が名字で、ウと夏は名前orあざ名のどれか)
コレは今回初めて書きますが〜
「ウ」は「日が昇る直前」の意味があり、「夏」は夏王朝を指しています。
これを重ねると「夏王朝の日が昇る直前」となり、
分かり易く言えば「夏王朝で使われていた暦(夏正)に戻る直前」というメッセージとなります。
景初3年12月こそ夏正に戻る直前ですが、「倭人を送ること」が「明帝の死」に繋がることで初めて夏正に戻す力となったというメッセージなのです。
要するに司馬懿が明帝を殺したというメッセージに他なりません。更には掖邪狗の2回目の京都訪問は明帝の十周忌の喪が明けた正始10年1月、高平陵の変てことです。
それでまあ。このメッセージを埋め込んだのは多分編纂者でしょう(魏書を書いた王沈にはその度胸が無いから)。
ps.
冬至のある月を建子の月とし、正月を建寅の月(子丑寅と数えて3番目の月)としたのが夏正で、前漢の武帝以降現在に至るまで中国の暦(旧暦)はコレです。
但し、この間に、正月を建丑の月(2番目の月)とする殷正がたった3年間だけあった訳です。
それが景初元年から景初3年です。
景初元年に明帝が開始し、明帝が元旦に死んだ景初3年の12月になって「明帝の命日が元旦では民が悲しむ」という理由で、翌月を閏12月、翌々月を正始元年正月とした。
このことによって正月が建寅の月となり夏正が復活。建丑の殷正がわずか3年で廃止された。
その主因は未来人の我々には一目瞭然。殷正が確立したら明帝の求心力は強まり、曹魏を乗っ取る邪魔になる。
- 829 :日本海ルート論者:2017/04/10(月) 02:42:01.05 .net
- 補足訂正。
>景初3年12月こそ夏正に戻る直前ですが、「倭人を送ること」が「明帝の死」に繋がることで初めて夏正に戻す力となったというメッセージなのです。
「暦の上では」景初3年12月こそ夏正に戻る直前です。
なにせこの月に「翌月を閏12月にし、翌々月を正月にする」夏正に戻す詔が出るからです。
ですが、「メッセージの意味合い的には」
景初2年12月こそが真の意味合いでの「夏王朝の日が昇る直前」なのは言うまでもありません。
なにせこの月に明帝は突如病気になり、月末日までに死ねば良いものをよりにもよってその翌日の景初3年元旦に司馬懿に後を託した後で死んだからです。
要するに、明帝が死ねば「夏王朝の日を登らす」ことはいつだってできるんです。だから、明帝を殺せば良い訳ですね。
でもそれが正常な歴史を作り得るのか?
作れる筈がない。だからこそ、その歴史を、編纂者は書き記した。
倭人伝には劉夏が難升米を京都に送った年を景初2年と明記している。しかし、韓伝には太守名が劉ウとなっている。
余程細かく見ないと気付けないけど、意図的に矛盾点を作ることでメッセージを残している訳です。
- 830 :日本@名無史さん:2017/04/10(月) 08:00:24.36 .net
- じれはひどいw
- 831 :日本@名無史さん:2017/04/10(月) 20:53:10.51 .net
- 3世紀には鉄も銅も鏡も絹も金印も璧も朱も九州の方が多いでしょ。
九州は稲作先進地で、豊富な生産力を背景に奴国(博多)2万戸をはじめとして人口が集中していた。
一方の畿内は、京都も大阪も奈良も未開発の沼地で、人口も九州に比べて限られていた。
帯方郡から九州上陸まで10000里余り、帯方郡から倭国女王のところまでは12000里と記載されているのだから、卑弥呼がいたところは九州北部しかあり得ない。
- 832 :日本@名無史さん:2017/04/10(月) 21:04:40.12 .net
- 3世紀の金印とかw
九州脳のレベルが知れるw
- 833 :日本@名無史さん:2017/04/10(月) 21:20:52.33 .net
- >>831
九州説の短所
・丹が採れなかったので、邪馬台国論争に参加する資格が無い。
・対馬海流に流されて、末盧国(呼子・唐津)は有り得ない。
・想像力は豊かだが、ストーリーは北部九州どまり。8世紀奈良大和政権へ繋がらない。
・見たこともないくせに、わけの分からんものを三種の神器などと偽って、まことに無礼である
・紀元前の遺跡ばかりで、卑弥呼時代の興味を引く遺跡が無い
・ 九州は天皇家・宮内庁と今も昔も縁が無く、今以って天皇家祭祀において蚊帳の外。
推して知るべし。
- 834 :日本@名無史さん:2017/04/10(月) 21:20:54.76 .net
- >>828
おお、すげえ
景初2年派としては喜ばしいね
- 835 :日本@名無史さん:2017/04/10(月) 22:37:59.37 .net
- 道鏡事件があったんだから昔は縁があったよ
- 836 :日本@名無史さん:2017/04/10(月) 22:46:40.02 .net
- 昔は天皇が即位すると、皇祖の霊廟である宇佐神宮の八幡大菩薩こと応神天皇に報告したんだよ。
縁がないなんて、畿内説は無知だなあ。
- 837 :日本@名無史さん:2017/04/10(月) 22:52:10.14 .net
- 日本は千数百年にわたって、九州を王朝の発祥の地としてきたけれど、戦後のこの数十年だけ例外的にそれをただの伝承として排除してしまっているんだよ。
戦前の歪んだ皇国史観が大きな厄災をもたらした後だからしょうがないけれど、それはそれで逆に歴史の真実を覆い隠してしまうことにもなりかねない。
大事なのは、考古学的な証拠だよ。
畿内説には何も証拠がない。
- 838 :日本@名無史さん:2017/04/10(月) 23:03:09.70 .net
- >>828
伊聲耆掖邪狗等八人を魏に遣わした二年後、詔賜倭難升米黄幢とあるね。難升米は魏にとって倭人の中では一番重要だろう
- 839 :日本@名無史さん:2017/04/10(月) 23:03:25.54 .net
- >>837
現実逃避してもしょうがない
- 840 :くまモン論者:2017/04/10(月) 23:12:37.56 .net
- >>838
追加
魏志韓伝では景初中明帝密遣帯方太守劉マ楽浪太守鮮于嗣越海定二郡とあるね。ここは劉夏もしくは劉マで倭人伝と韓伝は同じじゃないとおかしいのは確かだよね。
- 841 :日本@名無史さん:2017/04/11(火) 03:09:06.38 .net
- 邪馬台国の初代は神武で
神武は香春の鶴岡八幡宮で即位したって誰か言ってたよ〜
ホントかなあ^^
- 842 :日本@名無史さん:2017/04/11(火) 07:38:03.02 .net
- >>833
反論としては貧相だなあ。
てかさ、全部カビ生えてるやんw
丹は短所とまでは言い切れない。鬼の首でも取ったように騒ぎすぎ。むしろ
畿内説の馬脚を現す面白ポイント。そんな浅くしか物事を見れないの?
ストーリーって何?景行天皇?継体天皇?郡評論争?法隆寺論争?年号問題?
天神の由来?道後温泉?
筑紫神話は、いちいち地名や神社が現存してるけど?
三種の神器なんて誰でも持ってたし、神武より十種の神器の物部の方が格上。
紀元前の遺跡とか、考古学者のくせに本気で言ってるの?
宇佐八幡や熊野磨崖仏、観世音寺、彩色古墳、筑紫や川辺高森の前方後円墳とか、
ちゃんと年代比定してくれ。
祭祀についても、天皇家自身はよくわかってるから、伊勢に行っても庶民と同じ
塀の外から。歴史的に禁足地である事も知らないだろ?
最も参ってきたのは男山八幡と泉涌寺。
「流される」って、海の民の航海技術なめすぎ。
お前レベルが標準的な畿内説役人なのが、一番阿呆すぎな現実www
- 843 :日本@名無史さん:2017/04/11(火) 10:59:01.83 .net
- 畿内説はもう無理だからか、口泡飛ばして何か言ってる姿には
何とも言えぬ哀れさというか、悲壮感があるな。
邪馬台国とヤマト朝廷には直接的なつながりは無いよ。
- 844 :日本@名無史さん:2017/04/11(火) 15:21:34.42 .net
- >>842
反論になってない
- 845 :日本@名無史さん:2017/04/11(火) 15:22:18.77 .net
- >>843
根拠は?
まさかないんじゃないだろうね
畿内説じゃないんだから根拠ないわなw
- 846 :日本@名無史さん:2017/04/11(火) 16:27:54.74 .net
- また低脳ぶり晒しちゃってw
お前が反論するターンだろ小役人ジジイ
勤務時間にいいのかw
- 847 :日本@名無史さん:2017/04/13(木) 21:30:09.79 .net
- 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home
- 848 :日本@名無史さん:2017/04/15(土) 10:51:47.78 .net
- >>815
>手前勝手なゴールポストを立てるな。
3世紀初頭のヒミ・ヒメ・ヒミに近い名前の女王を探すことが、
何で「手前勝手なゴールポスト」になるんだ。
ふざけるな。
おまえが見つけられないからって八つ当たりするな、カス。
- 849 :日本@名無史さん:2017/04/15(土) 18:31:47.03 .net
- 日御子だったらどうするんだ。
姫を探す意味はなくなる。
- 850 :日本@名無史さん:2017/04/16(日) 06:49:10.31 .net
- いやふうーに女って書いてあるし
- 851 :日本@名無史さん:2017/04/16(日) 16:36:29.37 .net
- >>1
いい、テンプレートですね。
皆、ここで語りませんか?
ルールを守って。
- 852 :日本海ルート論者:2017/04/17(月) 00:29:51.53 .net
- >>838
この黃幢は、同年(正始6年)の毌丘倹による大規模な東夷討伐戦に親魏勢力の一員としての参戦を促すもの。
難升米には詔書と黃幢だけがもたらされ新たな官名が与えられていないことから、
彼が倭の大夫でありながら、魏の率善中郎將でもあるから黃幢が渡されているとわかる。
【では、倭女王の正使である伊聲耆掖邪狗を始めとする他の率善中郎將たち4名ではなく、なぜ難升米1人が選ばれたのか?】
答えは簡単。難升米が戦場の近くに住んでいる通常貿易官だから。
魏の都(洛陽)→帯方郡(朝鮮半島)→東夷討伐戦の戦場(朝鮮半島)←對海國←一大國←末盧國←伊都國←奴國←不彌國←投馬國←倭の都(邪馬壹國)
彼は、貿易に必要な人脈と言語力と交渉術を持ち、更に彼個人の力ではなく組織の力として、渡海可能な航行技術を持ち、有事に対応し得る軍事力を持っている。
- 853 :日本@名無史さん:2017/04/17(月) 00:33:35.75 .net
- >>850
男だよ
- 854 :日本海ルート論者:2017/04/17(月) 00:47:56.57 .net
- >>840
自分が思うに、景初3年説で有利だったのは、この帯方郡太守劉夏と劉ウの箇所だけです。
有利と言っても、景初3年説でも1年で交代したということにしなければならない脆弱さがあるけど、それでも景初2年の僅か数か月で交代よりは良い。
元々、同一人物説は景初2年説でもあったけど、その理由付けが書き間違えではいかにも弱い。
でも、同一人物の記述をあえて変えてそこに意味を隠しているということであれば、いかにも編纂者らしい。
少なくとも西晋以降の、混乱した史書の編纂者たちよりかは信頼できる(笑)
- 855 :日本海ルート論者:2017/04/17(月) 01:10:12.95 .net
- >>852大事な所、間違えた(笑)
>【では、倭女王の正使である伊聲耆掖邪狗を始めとする他の率善中郎將たち4名ではなく、なぜ難升米1人が選ばれたのか?】
x他の率善中郎將たち4名
o他の率善中郎將たち8名
ps.
因みに倭大夫の率善中郎將の人数。
@景初2年 1人(難升米)
A正始4年 8人(伊聲耆掖邪狗とその他の7人)
計 9人 に思えるけど、
B正始8年 19人(壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還←ここから既に拝命済の掖邪狗を除く残りの19人)
@ABを足すと28人となり、
行程8國+旁國21-重複の奴國=28國と数が一致。
ここからの解釈なんだけど、
古事記を使って伊聲耆掖邪狗を邪馬壹國と伊邪國の二重官と見て、
Aを行程8国の8人、Bを旁國20の20人とし、
かつ難升米を一大卒の下の国家官僚と見ている所。
- 856 :日本海ルート論者:2017/04/17(月) 01:42:10.99 .net
- 自説を誤解されないように繰り返し書きますが
>>855
>B正始8年 19人(壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還←ここから既に拝命済の掖邪狗を除く残りの19人)
正始8年は玄菟郡太守だった王頎が新しい帯方郡太守になり、張政を送って来た年。
勿論、掖邪狗たちが張政を送って京都に着いた年は正始8年じゃありません。
自説では、倭國内移動は基本往路は日本海を利用して水行30日陸行1月。
しかし、冬場は日本海航行が使えず、北瀬戸内航路を復路で使用し、全連合加盟国が貿易路となるものの、復路は往路より時間がかかると見ています。
更に半島往来は渡海可能月を待たねばならず、また邪馬壹での協議や荷の積み込み等々と、とにかく正始8年中には倭國出発も無理と考えています。
具体的には、上の掖邪狗たち20人が京都に到着し、謁見を受けるのは、
【正始10年1月です】
でも。唐突に正始10年と書いても全く意味が通じないので、上では正始8年と書きました。
ああ。複雑で面倒(汗)。
- 857 :日本@名無史さん:2017/04/17(月) 11:22:21.63 .net
- 素人が口を出すなといわれそうだけど:
日本海ルートは大いに興味があります。一方、瀬戸内ルートがなぜ今まで主流と考えられてきたのかも
考えないといけないと思います。卑弥呼から300年後のヤマト王権の海上ルートは瀬戸内ですからね。(記紀)
考古学で出土物の時代比較、土器種類の違い、吉備の存在、出雲の意義等々検討できるでしょう。
山陰の考古学がここ30年で飛躍的に進み、知見が蓄積してきました。
謎の古墳:四隅突出型墳丘墓=前方後円墳直前の謎の支配秩序?、ムキパンダ遺跡=山陰の吉野ヶ里?、
青谷上寺地遺跡=弥生時代の木製品生産センター+交易基地?、100体もの虐殺地。
去年発掘の滋賀彦根の渡部遺跡=弥生末の大規模鍛冶工房跡→日本海・若狭の鉄交易ルート?
検討できる材料はそろいつつあります。
さらに、これがどうヤマト王権と係わるのか?あるいは潰されたのか?謎が謎を呼びます。
(ボクにとって)謎は深まるばかりです。=日本海ルートは魏志倭人伝に記されないルートとボクは考えています。
- 858 :くまモン論者:2017/04/17(月) 21:28:49.02 .net
- >>852
難升米は一大率にふさわしいね。毌丘倹の高句麗征伐と黃幢は関係あるだろうな。素晴らしい推察だよな。
- 859 :くまモン論者:2017/04/17(月) 22:06:43.30 .net
- >>856
伊都国から水行十日or 陸行一月の放射説だから正始八年でオッケーだよ。
- 860 :日本@名無史さん:2017/04/18(火) 20:29:27.32 .net
- 畿内説権威【春成秀爾】曰く「南は東の間違い。書き間違える事はよくある」といった内容を言い切っております。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
https://youtu.be/eEAkOh3lsY0
【畿内説者】は「春成秀爾はそんな事は言ってない!嘘つくな!」と声を荒げますが、「動画上の言葉と完全に一致していない」という事を言い掛かりとして「そんな事は言ってない!嘘つくな!」と主張しております。
「そういう内容で言っている」というのは大人なら常識的に判断しますが、一字一句同じじゃないと「嘘つき認定」してきます。
かなり追い詰めらてるようです。
- 861 :日本海ルート論者:2017/04/23(日) 00:14:28.10 .net
- >>857
>日本海ルートは大いに興味があります。一方、瀬戸内ルートがなぜ今まで主流と考えられてきたのかも
>考えないといけないと思います。卑弥呼から300年後のヤマト王権の海上ルートは瀬戸内ですからね。(記紀)
貿易ルートが日本海から瀬戸内へと南遷したのです。
それは107年の帥升から7、80年を経た後に倭國が乱れ、
その後の208年前後に貿易ルート上の倭諸國が卑彌呼を共立する経緯の中で徐々に変遷し、
壹與の王権成立とその安定と共に空白の4世紀を通して更に進行していったのです。
(南遷を早めるには壹與以降の時期に出雲勢が連合から抜け、日本海の交通が遮断されると楽ですが、妻木晩田の解体や古墳の広がりからは難しそう)
そもそも。倭人伝に記される倭人の物語は249年の正始10年1月までで、「倭人伝は帥升の107年から数えて《142年》間の倭國の変遷を伝えている」となる訳です。
そこから考えると貴方の言う「卑弥呼から《300年》後のヤマト王権の海上ルートは瀬戸内ですから」という根拠の弱さが分かるかと思います。
因みに、ヤマト王権の時代も大陸→日本ルートでは日本海ルートの使用があった筈ですよ。なのに何故、海廊が南遷したのか?ここが解ければ大きな鍵となると見ています。
日本海ルートに興味があるようなら、なにか突っ込んでもらった方が答え易いです。反論して行く方が具体化しやすいので(笑)
- 862 :日本@名無史さん:2017/04/23(日) 00:30:54.25 .net
- 答えは簡単。
記紀には年代の齟齬があり、神功皇后と仲哀天皇は実際には卑弥呼から120年後の人物なわけですが、関門海峡を掘削して通れるようにしたのが仲哀天皇だとされています。
つまり、4世紀までは半島や大陸からの船は日本海ルートしか通れなかった。
瀬戸内海へのルートが確保されたのは、4世紀なんです。
仲哀天皇の穴門豊浦宮は関門海峡にありましたが、穴門と言うのは、関門海峡がトンネル状であったことからつけられた名前です。
壇ノ浦という地名は、神功皇后の祭壇に由来します。
- 863 :日本海ルート論者:2017/04/23(日) 01:09:24.62 .net
- >>859
それでも正始8年中に到着するのは難しい気がします。
@帯方郡太守の王頎が到官。(王頎は玄菟郡太守で、魏高句麗戦争に副将として参加し、高句麗王を追って日本海まで東進し、帰還するその足で帯方郡太守に転進)
A卑彌呼が載斯烏越等を帯方郡に遣わして狗奴國との戦闘の様子を伝える。
B張政が帯方郡を出発。
C狗邪韓國に到着。
D渡海して倭地に到着。
E難升米に黃幢を渡す。
F壹與に檄を告喻。
G掖邪狗と共に渡海して半島へ。
H帯方郡に到着。
I洛陽に到着。(陸路なら幽州治所の薊(北京)経由)(渡海なら遼東半島から山東半島の東萊郡を経由)
*自分が思うにAは省くこともできる。
多分に載斯烏越等の派遣は「狗奴國戦の応援要請」ではなく「魏高句麗戦争不参加の釈明」。
魏高句麗戦争では魏の勝利が早々に確定しているので、釈明を急いだ載斯烏越等が@の前から帯方郡に到着していて半島を一周してきた王頎の到官を郡で待っていた可能性もある。
まあとにかく立て込んでいる上に結構距離のある旅な訳です
- 864 :日本@名無史さん:2017/04/23(日) 01:15:47.02 .net
- 纏向って、王都?
王都にしては、無防備すぎないか。
- 865 :日本@名無史さん:2017/04/23(日) 01:24:21.36 .net
- 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
天孫降臨の地であるクシフル山の日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは博多湾が一望できた。
防衛には非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
これが卑弥呼の王都だよ。
卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬された。
- 866 :日本@名無史さん:2017/04/23(日) 02:30:08.58 .net
- >>864
近隣を平定したなら無防備でも良いだろ
- 867 :日本@名無史さん:2017/04/23(日) 03:11:13.65 .net
- 平定してないよ。
政治的バランスを取るために妥協の産物として女王が共立された。
だから卑弥呼がなくなるとまた世が乱れた。
卑弥呼の時代でさえも南に狗奴国という強敵がいた。
纒向はあり得ない。
- 868 :日本@名無史さん:2017/04/23(日) 04:14:32.00 .net
- 本来の就任すべき♂王を立ててしまうと
倭州刺史の如く振舞うもうひとりの♂王との間の収拾がつかなくなるから
伊都國王の異父妹のを♀王に仕立て上げたんだよ
倭州刺史の如く振舞う♂王は後着した越系の海賊ネットワークに属し
魏代に伊都國王を称すようになった爾支さん
- 869 :日本@名無史さん:2017/04/23(日) 08:04:45.22 .net
- 日本語で頼む。
- 870 :日本@名無史さん:2017/04/23(日) 08:06:58.52 .net
- 卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の国々は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は筑紫が盟主となった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
- 871 :日本@名無史さん:2017/04/23(日) 08:19:35.82 .net
- 郡から11900里の糸島伊都は女王国ではありえない
どうやら頭のよすがおかしいな。
糸島の 119番に通報して救急車に来てもらおう
- 872 :日本@名無史さん:2017/04/23(日) 08:31:43.89 .net
- 要約すると、倭国の都は伊都だが、卑弥呼は筑紫ではなく肥国の出身であり、狗奴国の王とは同胞である。
当時の肥国の中心の一つ、後の筑後に卑弥呼がいたなら12000里でぴったりだ。
- 873 :日本@名無史さん:2017/04/23(日) 09:57:49.66 .net
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
媛蹈鞴五十鈴媛説[編集]
初代皇后であるヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)を卑弥呼とする説である。[36]
記紀に初代神武天皇から6代孝安天皇まで妃の記述がない事から、
彼らは大王ではなく、魏志の記述通り、この時代を女王国とする説である。
この説では考古学的諸要素から10代崇神天皇を4世紀初頭とし、
そこから記紀による父子継承9世代ではなく、
先代旧事本紀の系図などから6世代を遡り、
1世代間を約20年として神武天皇を2世紀末、卑弥呼と同時期の人物とし、
卑弥呼を媛蹈鞴五十鈴媛命とする。
また15代応神天皇元年を390年とし、
下ること30代前後の天皇平均在位が11年弱であることから、
神功皇后を含めて15代遡り、神武天皇を卑弥呼と同時期とし、
卑弥呼を媛蹈鞴五十鈴媛命とする。
魏志の「年已長大、無夫壻」の記述は神武の死後、
媛蹈鞴五十鈴媛命が寡婦であった状況描写とする。
この説では臺與(台与)を第4代懿徳天皇(いとくてんのう)の后である天豊津媛命とする。
また倭国王帥升を、ヒメタタライスズヒメから約5世代前のスサノオとし、
記紀編纂の際、始祖王自らの朝貢という不名誉な記述を避けたいがために時代を大きくずらし、
その結果100歳を超える天皇の記述になったとする。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あぁ断トツだw
天才だw
- 874 :くまモン論者:2017/04/23(日) 16:25:49.93 .net
- >>863
載斯烏越等の派遣は狗奴国から攻撃されたからだろう。張政が伊都国に着いた時には卑弥呼は卑弥弓呼に殺された後だ。張政があったのはトヨだね。
- 875 :日本@名無史さん:2017/04/24(月) 12:54:45.20 .net
- 乱立晒しあげ
- 876 :日本@名無史さん:2017/04/25(火) 07:35:40.11 .net
- 【故】
副???
(1)故意,存心 【deliberately;on purpose】
广故数言欲亡。――《史?・??世家》
主者故不受,?固?。――明・宗臣《??一丈?》
(2)又如:故故(故意;屡屡;常常);故?(有意?抗);故推(故意推托);故?(故意吝惜。?:吝惜);故?干咎(有意?容罪犯而触犯法令)
(3)同“固”,原来,本来 【first;originally】
程不?故与李广?以?太守将?屯。――《史?・李将?列?》
?,故隶周者也。??宋・曾?《道山亭?》
此物故非西?。――《聊?志?・促?》
(4)仍,?是 【still】
三日断五匹,大人故嫌?。――《玉台新咏・古??焦仲卿妻作》
犹不失下曹从事,乘??从吏卒,交游士林,累官故不失州郡也。――《?治通?》
(5)通“胡”(hu)。何,何故 【why】
公将有行,故不送公?――《管子・侈靡》
(6)又如:故?(何故如此)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
倭是國名,不謂用墨,故謂之委也。
倭は国名である。(倭は)用墨を謂わず。故(ふるくは)これ(倭)を委と謂うなり。
- 877 :くまモン論者:2017/04/25(火) 09:11:53.36 .net
- 如淳注の漢書地理志か。如淳は魏の役人だけど、漢書に注をつけただけだから3世期の倭の状況をどれぐらい知っていたのかな
- 878 :日本@名無史さん:2017/04/25(火) 20:39:10.38 .net
- 90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です
↑
この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ
- 879 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 07:58:00.34 .net
- 伽耶、伽羅、からという呼称からすると
韓は略字を行っていると思う。
燕や秦の亡命民が作った国が韓はおかしいし。
- 880 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 10:20:50.58 .net
- 狗邪韓国=伽耶
- 881 :くまモン論者:2017/04/26(水) 11:35:23.79 .net
- >>880
だよなぁ。狗邪=伽耶だから狗奴国は伽奴国だと思うんだけどね。クナ国じゃなくてカナ国。熊襲と狗奴国は関係ないような
- 882 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 11:53:59.96 .net
- 熊襲なら狗馬国と表記するハズだろ。
狗奴国は登呂遺跡の事ですよ。
登呂遺跡を挟んで、静岡の袋井から神奈川の小田原まで、久能とか久野とか久努という
地名だらけなんです。
狗奴国はクノ国だと思います。
- 883 :くまモン論者:2017/04/26(水) 13:04:14.49 .net
- >>882
クノ国って可能性もあるのか。奴国はどう読むのけ?それと〜次有奴國 此女王境界の奴国はなんやろね。
- 884 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 13:12:43.58 .net
- 一理あるけど、カヤ国だとどこにあるんだ?
菊池彦が治める熊本菊池は分かりやすくてよかったんだが。
- 885 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 13:49:14.53 .net
- 熊本なら狗馬国と表記されているハズです。
狗奴国はクノ国。
静岡から神奈川に広がっていた国です。
- 886 :くまモン論者:2017/04/26(水) 15:17:32.83 .net
- >>884
河内彦ってのはどう?すまん、全くわからない。ただの語呂合わせ
- 887 :くまモン論者:2017/04/26(水) 15:22:08.65 .net
- >>885
熊本は邪馬国あたりじゃねーの。鬼奴国の次(適当
- 888 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 17:37:41.96 .net
- それは八女
- 889 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 17:56:34.84 .net
- >>879
燕が韓(中国)を滅ぼした時に多くの韓人が燕の支配下に入ったぞ
衛氏朝鮮を作った衛満が韓人だという説もあるくらいだ
燕からの亡命民が韓という国を建てても不思議はない
- 890 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 18:05:15.31 .net
- 韓が漢民族ならロマンがあるね。どちらかというと鮮卑の可汗から韓になりそう。扶余系だしね
- 891 :くまモン論者:2017/04/26(水) 18:08:41.73 .net
- >>888
だよなあ。日本書紀を読めば八女津媛が一番卑弥呼(もしくはトヨ)っぽいんだよね。
- 892 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 18:13:36.59 .net
- >>891
日本書紀ってのは、意図的にそれっぽく思わせるように書かれてるから・・・・・
- 893 :くまモン論者:2017/04/26(水) 18:18:44.60 .net
- >>892
なんと意味深な…。どゆこと?kwsk
- 894 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 18:23:52.15 .net
- 旧唐書に明確に示されているように
そもそも
倭国≠日本であり
倭国=九州王朝
日本国=大和朝廷
つまり、二つあったわけよ
そして倭国が古の委の奴の国であると言ってるのだから
卑弥呼=100% 九州
おまえらもうとっくにけりがついてる話だぞ
- 895 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 18:28:31.34 .net
- 旧唐書はちょっとなー。隋書がギリ
- 896 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 18:31:51.67 .net
- >>893
卑弥呼や壹與の存在を隠すため、似た人物をたくさん配置している。
多分、卑弥呼や壹與が、天孫族つまり筑紫王家とはライバルであった肥国王家の女王であったからだろう。
たまたま3世紀には筑紫も支配していた。
肥国王家は、トロシカヤこと熊襲梟師の時にヤマト男具那に倒されて、羽白熊鷲の時に神功皇后に倒された。
- 897 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 18:31:57.75 .net
- 魏志倭人伝も旧唐書も隋書も
似たようなもんだろ。
新唐書からがらっと変わるけど。
- 898 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 18:33:17.26 .net
- 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣秀吉の淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比v命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の辺縁であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われてた肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入してトロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
- 899 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 18:35:55.38 .net
- 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国の1000隻余りの水軍のうち400隻余りが炎上し、陸上戦でも敗北した。
後に記紀を編纂する近畿大和朝廷から見れば、これこそが政権奪取の好機だった。
中大兄皇子らが実権を握る近畿政権はもともと新羅と親交があり、積極的には朝鮮半島に援軍を送らず、百済と親しかった筑紫倭国を意図的に敗北に追い込んだ可能性がある。
中大兄皇子が唐や新羅ともとより通じていたのであれば、敗戦処理においてむしろ唐の信任を得て勢力を拡大したことも合理的に説明できる。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻(当時の大君と考えられる)が捕虜となり8年にわたり唐に抑留される。
筑紫には唐から郭務悰ら唐人六百人を含む2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の駐留軍は撤退し敗戦処理が終わり、中大兄皇子は天智天皇として西は九州、東は東北南部までの統一政権を樹立した。
この敗戦処理が中大兄皇子がなかなか天皇に即位せず大兄(おおえ、皇太子)でありつづけた理由だろう。
その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に、唐の皇帝が任命する官の行政府として機能したと考えられる。
都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に設置した統治制度であり、倭国は独立国としての権限を喪失した。
こうして栄華を極めていた倭国王朝は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
実質的な権力移行により官僚は畿内に移動し、地震により倒壊した建物や仏教芸術を含む白鳳時代の文化財も畿内に移築され、主権を失っていた筑紫は震災からの復興もままならなず政治的には没落したと考えられる。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内には国号の変更については記録がない。
- 900 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 18:36:02.44 .net
- ちょっとなーじゃないよw
旧唐書は明確に倭国の地を九州島だと示している
そして日本国それとは別のもっと大きな島
こんなもん変わりようがない
そして倭国は古の倭奴国だから
九州以外にあり得ないんだよ
- 901 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 18:48:08.87 .net
- つまり、卑弥呼が女王であった倭国も、九州以外あり得ない。
本州は倭地。
- 902 :くまモン論者:2017/04/26(水) 18:50:33.27 .net
- >>896
マジか。卑弥呼がくまモンなんて胸熱。
- 903 :くまモン論者:2017/04/26(水) 18:54:01.04 .net
- >>898
なるほど!肥前の川上に熊襲が居たんだね。2、3世紀のお話ですよね。ヤマトタケルって
- 904 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 18:59:23.89 .net
- 倭国=九州
もうね、いい加減これを絶対的前提にしないと話が進まないよ
そして、倭国が現在の日本列島全体を指すことは一度も無かったということを
教科書に載せないとね
じゃないと機内から日本が倭国の地を併せた歴史が全く見えなくなる
だから、邪馬台国は九州で女王国だった筑紫だろ
そして、だから壹與も機内とは何の関係もない九州の女王だし
さらに、倭の五王というのも九州の王朝のことだから機内の歴史形成である
記紀に相当する人物は居ないのだよ
つまりそんなものは日本の記録にはない
現代の国境の概念を当時に当てはめるのは間違い
- 905 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 19:05:06.90 .net
- >>903
記紀の年代は誤りがあります。
仲哀天皇と神功皇后が卑弥呼の120年後と考えられています。
ヤマトタケルは4世紀前半くらいかと。
熊襲梟師は卑弥呼の後継あたりですね。
卑弥呼の後継というと、筑紫の梟師である神夏磯姫、田油津姫などもそうです。
- 906 :くまモン論者:2017/04/26(水) 19:07:13.95 .net
- >>904
倭人伝の倭種ってのが気になるが後漢書の奴国が倭なのは間違いない事実
- 907 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 19:09:28.04 .net
- >>906
その後すぐ倭国大乱、卑弥呼共立と進み、畿内が出る幕はないのです。
- 908 :くまモン論者:2017/04/26(水) 19:22:35.43 .net
- >>905
日本書紀を軸にしてるのに日本書紀を全面的に信用してないんだね。日本書紀の取り扱いが気になる。日本書紀が卑弥呼を神功皇后に比定してるのはどうすんの?
- 909 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 19:28:53.79 .net
- >>907
倭国大乱とは
おそらく縄文文明の断末魔を意味すると思う
平和な狩猟定住生活から農耕による領地を確保する争いが
高まっていった結果だろうと思う
豊かで平和だった縄文文明から貧しく
労働が過酷になり奪い合いへと変わっていった結果だろうね
- 910 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 19:42:47.66 .net
- >>908
神功皇后の朝鮮の記事と、向こうの史書の年代をすり合わせると、記紀の年代だけおかしいことになる。
遡るほど誤差が大きくなる。
- 911 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 19:43:43.54 .net
- >>909
時代が違う。
とっくに弥生時代だよ。
出雲の国譲りくらいじゃないかな。
- 912 :くまモン論者:2017/04/26(水) 19:52:16.61 .net
- >>910
三国史記も怪しげだけどね。日本書紀に使われてた百済記云々だろうけど。七支刀ぐらいしか証拠はないな。その七支刀の読み次第では時代の誤差は余りないかも。
- 913 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 20:28:52.58 .net
- >>911
平成と昭和は明確に線引きできるけどね
縄文文明と弥生時代の線引きは明確には出来ないよ
はい、今日から農耕始めまーすって一斉に始めたわけじゃないわけでね
おそらく北海道や沖縄はより縄文文明の期間が長いはずだよ
縄文文明が農耕に取って代わりはじめ、徐々に人々は貧しくなり
着ているものや身につけているものもみすぼらしくなっていき
土器も華麗な装飾が姿を消していき、ぎすぎすした社会になり
争いが頻発し、殺し合いが始まるのが縄文文明のまさに終焉なのだよ
- 914 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 20:45:35.49 .net
- >>913
北海道と沖縄には弥生時代がなかったはず。
稲作の時代が到来しなかったから。
あと、弥生時代の基準となる水田栽培には暦と灌漑の技術が必要で、どちらも王の重要な役割だった。
弥生時代の生活スタイルは縄文的な生活スタイルの放棄を伴い、緩やかな移行ではない。
各地には稲作伝来の伝承がある。
- 915 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 20:56:45.54 .net
- >>914
縄文時代の生活のスタイルは定住生活
居住地の周辺にたくさんの栗の木を植えていた
川や海で魚を獲り、山で山菜やきのこ類をとり、時には動物を獲って
それを縄文土器に入れてスープにして煮込んだりして食べていた
また、日本の各地とは船で交易をしてめずらしいもの、不足しているものなどを
補っていた
そういった生活を一万数千年以上続けていたのに
急に農耕社会に一変することは無いよ
農耕は弥生時代から始まったのではない、縄文時代からやっていたのだよ
それが縄文文明を駆逐してしまうようになって大乱につながっていくのだよ
- 916 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 21:02:59.41 .net
- 倭国大乱の年代は弥生時代になってかなり経ってからなんだよ。
あと、大乱という用語は、王権を揺るがす、王権をめぐる争いのこと。
- 917 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 21:16:10.53 .net
- >>914
倭国に暦はなかったらしいが
- 918 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 21:16:25.31 .net
- 植えた栗の木から落ちる栗や海や川の魚や山菜やキノコ、小動物といった
ものは誰のものとは言えない
逆に言えばみんなのものだ
だが、米作りは田植えをして刈り取って脱穀するまで
特定の人がやっているに決まっている
それは誰かのものだ
その土地が広がれば、誰のものでもない土地はどんどん誰かのものになっていく
その過程で、その臨界点で何が起こるかわかりそうなものだろう
争いは継続的に起こるようになるのだよ
その制御が効くようになるのはずっと後のことだ
- 919 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 21:20:47.60 .net
- その過程はかなり急速に進行したことがわかっている。
のんびりした移行ではない。
- 920 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 21:26:56.38 .net
- 菜畑遺跡にある水田が紀元前10世紀ぐらいだね
- 921 :日本@名無史さん:2017/04/26(水) 23:33:20.05 .net
- 狗邪韓国=巨済(コジェ)島。
秀吉の軍勢も、遣新羅使も、対馬からもっとも近いこの島を最初の上陸地点に選んだ。
潮の流れも良い。
- 922 :日本@名無史さん:2017/04/27(木) 10:14:15.83 .net
- 1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い??
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