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邪馬壹國は北部九州に在ったpart3

1 :九州王:2016/06/12(日) 19:51:47.33 .net
帯方郡〜倭の世界

帶方郡         郡 治
 ↓
-↓--水行7,000里----↓---------------------水行20日---
 萬                                    投
          到 狗邪韓國                    馬
 二                               水     國
-  ----------------↓----------------------  --------
 千  度海1,000里                     行
             對馬國  方可400里(800里)
 餘  渡海1,000里  ↓                  10
             一大國  方可300里(600里)          女
 里  海渡1,000里  ↓                   日   邪
 ↓           末盧國
 ↓  陸行  500里  ↓              陸行1日(1月) 王
 ↓        到 伊都國(女王の都)             馬
 ↓      100里  ↓ 100里
自女王國       奴  國→不彌國→斯馬國           國
               ↑            ↓          壹
             烏奴國   周   已百支國
               ↑     旋     ↓
             支惟國   可   伊邪國         國
               ↑     五     ↓
             巴利國   千   都支國
               ↑     里     ↓
               ・・・・・・・・・・・・・・・・・
-------------------------------------------------------
              狗 奴 國

2 :九州王:2016/06/12(日) 19:52:09.90 .net
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。

邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

3 :九州王:2016/06/12(日) 19:54:03.96 .net
前スレhttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1461226698/

4 :九州王:2016/06/12(日) 19:54:41.00 .net
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。

5 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:12:16.22 .net
国≠クニ クニ=市町村
例:日本国の中に、山城のクニや、筑前のクニ、吉備のクニ

<地理編>
帯方郡
↓海岸水行七千里
狗邪韓クニ(倭人投馬国へ入国)
↓海渡千里
津島クニ(島の大きさ分の四百余里×2を迂回)
↓海渡千里
一支クニ(島の大きさ分の三百里×2を迂回)
↓海渡千里
末盧クニ(邪馬台国本土へ入国)
↓陸行五百里
伊都クニ(女王所在地・首都ワシントン)
↓(東南)百里
奴クニ(邪馬台国中心・ニューヨーク)
↓(東)百里
不弥クニ(外国使節逗留所)

<日程編>
帯方郡
↓(南)水行20日
投馬国(朝鮮半島南部に到着)
↓(南)水行10日・陸行1「日」
邪馬台国(中心都市の奴クニへ到着)

イギリスへ行く旅程=ロンドンへ行く旅程、フランスへ行く旅程=パリへ行く旅程
邪馬台国へ行く旅程=奴クニへ行く旅程

<総距離>
奴クニまで、〆て一万二千里でした

6 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:12:50.10 .net
<邪馬台国の中央集権体制>

地方行政
対海郡 主:卑狗  副:卑奴母離   千戸
一大郡 主:卑狗  副:卑奴母離   三千戸
奴郡  主:兕馬觚 副:卑奴母離 (ニューヨーク) 二万戸
不弥郡 主:多模  副:卑奴母離 千戸
他20郡 合計七万戸


伊都(ワシントン)
 <政府>
  女王:卑弥呼
  政府役職:伊支馬(壱岐関係)彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮(奴関係)

 <首都高官>(伊都知事・副知事)
  主:爾支 副:泄謨觚 副々:柄渠觚
  
 <一大率>軍事・外交・貿易担当省
  ↓監視
 投馬国(半島南部・任那)  主:弥弥 副:弥弥那利
 狗邪韓郡(加羅=伽耶) 投馬国内の宿場港

7 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:13:16.91 .net
手漕ぎの古代船の場合、平均1.7ノット、最大速で3ノット
天候にも影響されるので、2ノット=時速3.7kmとします

魏の使節が6月頃に来たとして、
朝8時に出航して、交代制かつ途中休憩計1時間で夕方5時まで漕いだとして
8時間×3.7=29.6km

地図で帯方郡から半島南岸まで(ソウルから釜山)が、だいたい500km
500÷30=16.7


速度と漕ぎ手労働を多めに考えて約17日ですから、
天候その他のアクシデントも考えると
帆を張って進んだ分を入れて
水行20日は妥当ですね

8 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:19:44.05 .net
副葬品まとめ

参照サイト
ttp://www.netpia.jp/history/kofun.htm

金銅製品、金銀製品、銅鏡(に含まれる△)
鉄製武器(鉄刀鉄剣鉄矛など手持ち武器をカウント、鉄鏃は含まず)、馬具
以上のどれかが出土した古墳を対象とした。
(盗掘遺跡や小規模遺跡をなるべく除外するため)
用語はめんどいから古墳で統一

各出土品の総数を、古墳総数で割ったレシオを()にて記載した。
例:3つの古墳から合計2枚の銅鏡=銅鏡2(0.66)

以下は含めなかった
宗像大社:金銅製品6、金銀製品1、銅鏡3、鉄製武器多
鞍手郡時代未分類:金銅製品2、金銀製品19
船原古墳:金銅製品13
(同じくガラス装飾金銅製品が出土した藤ノ木を6世紀に入れるなら入れる)

対照群は岡山県・徳島県の古墳一覧をwikiで、
丹後半島の古墳一覧をttp://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/tango1.htmで
それぞれ九州と同じ条件で算出した。

ざっとカウントしただけだから当然これよりも多くの副葬品が存在するわけだが
大まかな傾向は掴めるはず

9 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:20:59.95 .net
福岡県
3世紀(7古墳)三種の神器86%(6/7古墳)・馬具出土率0%(0/7古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡52(7.4)、鉄製武器11(1.6)

4世紀(9古墳)三種の神器78%(7/9古墳)・馬具出土率11%(1/9古墳)
金銅製品0、金銀製品1(0.11)、銅鏡29(3.2)・△20(2.2)、鉄製武器20(2.2)

5世紀(17古墳)三種の神器59%(10/17古墳)・馬具出土率53%(9/17古墳)
金銅製品65(3.8)、金銀製品17(1.0)、銅鏡32(1.9)・△1、鉄製武器89(5.2)

6世紀(24古墳)三種の神器17%(4/24古墳)・馬具出土率92%(22/24古墳)
金銅製品54(2.3)、金銀製品124(5.2)、銅鏡5(0.2)、鉄製武器36(1.5)

熊本県
3世紀(0古墳)

4世紀(3古墳)三種の神器%100(3/3古墳)・馬具出土率0%(0/3古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡7(2.3)、鉄製武器3(1.0)

5世紀(4古墳)三種の神器50%(2/4古墳)・馬具出土率25%(1/4古墳)
金銅製品10(2.5)、金銀製品10(2.5)、銅鏡5(1.3)、鉄製武器10(2.5)

6世紀(22古墳)三種の神器23%(5/22古墳)・馬具出土率73%(16/22古墳)
金銅製品5(0.23)、金銀製品41(1.9)、銅鏡7(0.32)、鉄製武器21(0.95)

10 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:21:32.56 .net
大分県
3世紀(2古墳)三種の神器0%・馬具出土率0%
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡11(5.5)・△5(2.5)、鉄製武器0

4世紀(2古墳)三種の神器50%(1/2古墳)・馬具出土率0%(0/2古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡3(1.5)・△1(0.5)、鉄製武器3(1.5)

5世紀(6古墳)三種の神器86%(6/7古墳)・馬具出土率29%(2/7古墳)
金銅製品0、金銀製品1(0.17)、銅鏡6(1.0)、鉄製武器26(4.3)

6世紀(6古墳)三種の神器50%(3/6古墳)・馬具出土率83%(5/6古墳)
金銅製品8(1.3)、金銀製品7(0.9)、銅鏡3(0.5)、鉄製武器6(1.0)

佐賀県
3世紀(5古墳)三種の神器20%(1/5古墳)・馬具出土率0%(0/5古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡17(3.4)、鉄製武器3(0.6)

4世紀(2古墳)三種の神器0%(0/2古墳)・馬具出土率0%(0/2古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡10(5.0)、鉄製武器1(0.5)

5世紀(3古墳)三種の神器33%(1/3古墳)・馬具出土率33%(1/3古墳)
金銅製品0、金銀製品1(0.33)、銅鏡3(1.0)、鉄製武器4(1.3)

6世紀(5古墳)三種の神器0%(0/5古墳)・馬具出土率40%(2/5古墳)
金銅製品8(1.6)、金銀製品9(1.8)、銅鏡7(1.4)、鉄製武器4(0.8)

11 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:21:50.85 .net
壱岐対馬
3世紀(1古墳)三種の神器100%(1/1古墳)・馬具出土率0%(0/1古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡1(1.0)、鉄製武器1(1.0)

4世紀(0古墳)
5世紀(0古墳)

6世紀(4古墳)三種の神器0%(0/4古墳)・馬具出土率50%(2/4古墳)
金銅製品7(1.8)、金銀製品7(1.8)、銅鏡1(0.25)、鉄製武器14(3.5)

宮崎県
3世紀(0古墳)
4世紀(0古墳)

5世紀(4古墳)三種の神器50%(2/4古墳)・馬具出土率50%(2/4古墳)
金銅製品1(0.25)、金銀製品1(0.25)、銅鏡6(1.5)、鉄製武器84(21)

6世紀(6古墳)三種の神器%(2/6古墳)・馬具出土率%(5/6古墳)
金銅製品10(1.7)、金銀製品2(0.33)、銅鏡3(0.5)、鉄製武器5(0.83)

鹿児島県
3世紀(0古墳)
4世紀(0古墳)

5世紀(2古墳)三種の神器0%(0/2古墳)・馬具出土率0%(0/2古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡0、鉄製武器3(1.5)

6世紀(4古墳)三種の神器0%(0/4古墳)・馬具出土率0%(0/4古墳)
金銅製品2(0.5)、金銀製品5(1.25)、銅鏡0、鉄製武器1(0.25)

12 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:22:26.93 .net
岡山県
3世紀(1古墳)三種の神器0%(0/1古墳)・馬具出土率0%(0/1古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡1(1.0)、鉄製武器3(3.0)

4世紀(2古墳)三種の神器0%(0/2古墳)・馬具出土率0%(0/2古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡13(6.5)△11(5.5)、鉄製武器4(2.0)

5世紀(1古墳)三種の神器100%(1/1古墳)・馬具出土率0%(0/1古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡3(1.5)、鉄製武器9(4.5)

6世紀(2古墳)三種の神器0%(0/2古墳)・馬具出土率100%(2/2古墳)
金銅製品1(0.5)、金銀製品0、銅鏡0、鉄製武器3(1.5)

徳島県
3世紀(0古墳)
4世紀(1古墳)三種の神器100%(1/1古墳)・馬具出土率0%(0/1古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡2(2)、鉄製武器21(21)
5世紀(0古墳)
6世紀(0古墳)

丹後半島
3世紀(1古墳)三種の神器%(0/1古墳)・馬具出土率%(0/1古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡0、鉄製武器11(11)

4世紀(4古墳)三種の神器%(2/4古墳)・馬具出土率%(0/4古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡4(1.0)、鉄製武器22(5.5)

5世紀(1古墳)三種の神器100%(1/1古墳)・馬具出土率0%(0/1古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡1(1.0)、鉄製武器1(1.0)

6世紀(0古墳)

13 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:23:57.73 .net
福岡県内での比較:博多湾を中心とする邪馬台国と、久留米を中心とする狗奴国を仮想して比較してみた

邪馬台国(福岡糸島前原春日古賀福津宗像宮若田川嘉直方飯塚市、鞍手嘉穂郡)
狗奴国(久留米朝倉行橋豊前八女うきは市、朝倉築上八女京都郡)
境界になるであろう筑紫野市,筑紫郡は省いた

邪馬台国
3世紀(6古墳)三種の神器83%(5/6古墳)・馬具出土率0%(0/6古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡51(8.5)、鉄製武器9(1.3)

4世紀(5古墳)
金銅製品0、金銀製品1(0.2)、銅鏡18(3.6)・△11(2.2)、鉄製武器15(3.0)
三種の神器80%(4/5古墳)・馬具出土率0%(0/5古墳)

5世紀(9古墳)
金銅製品6(0.67)、金銀製品10(1.1)、銅鏡21(2.3)・△1、鉄製武器67(7.4)
三種の神器56%(5/9古墳)・馬具出土率56%(5/9古墳)

6世紀(15古墳)三種の神器20%(3/15古墳)・馬具出土率87%(13/15古墳)
金銅製品47(3.1)、金銀製品120(8.0)、銅鏡3(0.2)、鉄製武器27(1.8)

狗奴国
3世紀(0古墳)

4世紀(3古墳)三種の神器67%(2/3古墳)・馬具出土率33%(1/3古墳)
金銅製品0、金銀製品0、銅鏡8(2.7)・△6(2.0)、鉄製武器3(1.0)

5世紀(8古墳)三種の神器63%(5/8古墳)・馬具出土率50%(4/8古墳)
金銅製品59(7.4)、金銀製品7(0.9)、銅鏡11(1.4)、鉄製武器22(2.8)

6世紀(9古墳)三種の神器11%(1/9古墳)・馬具出土率100%(9/9古墳)
金銅製品7(0.8)、金銀製品4(0.4)、銅鏡2(0.2)、鉄製武器9(1.0)

14 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:25:14.15 .net
概観

・九州全域で時代につれて金銀金銅製品が増加していく
・福岡は3世紀から6世紀までずっと圧倒的

・銅鏡で評価できるのは4世紀まで、5世紀以降の銅鏡は空気
・5世紀以降は金銀金銅製品や鉄製器具の優劣で評価するべき

・改めて福岡が圧倒的で、九州他県や吉備阿波説はありえないことがわかる
・福岡県の中で分析すると、3世紀から博多湾が主体であって、久留米説等もありえない

・壱岐対馬や福岡南部の3世紀出土状況を見ると、博多湾と格差が大きすぎる
・よって3世紀に各国に王国があるのは不自然
・よって3世紀には福岡北部に首都を置く広域国家があると考えるのが妥当

・5世紀以降は、福岡の次に熊本や大分もなかなかの発展を見せている
・他県も小規模ながら安定して発展している
・よって台与以降、九州内は統一された安定状態が続いていたことがわかった

15 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:32:11.26 .net
>>1乙。

16 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:34:32.21 .net
>>14
畿内はないの?

17 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:36:51.40 .net
イザナギが禊いだところは西区の小戸かもしれんね。

18 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:42:13.75 .net
>>16
こわい

19 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:52:34.71 .net
3世紀
邪馬台国(6古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡51(8.5)、鉄製武器9(1.3)

佐賀県(5古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡17(3.4)、鉄製武器3(0.6)
大分県(2古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡11(5.5)・△5(2.5)、鉄製武器0

丹後半島(1古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡0、鉄製武器11(11)
壱岐対馬(1古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡1(1.0)、鉄製武器1(1.0)
岡山県(1古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡1(1.0)、鉄製武器3(3.0)
狗奴国熊本県宮崎県鹿児島県徳島県(0古墳)


4世紀
邪馬台国(5古墳)金銅製品0、金銀製品1(0.2)、銅鏡18(3.6)・△11、鉄製武器15(3.0)

丹後半島(4古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡4(1.0)、鉄製武器22(5.5)

岡山県(2古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡13(6.5)△11(5.5)、鉄製武器4(2.0)
狗奴国(3古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡8(2.7)・△6、鉄製武器3(1.0)
熊本県(3古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡7(2.3)、鉄製武器3(1.0)
佐賀県(2古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡10(5.0)、鉄製武器1(0.5)
大分県(2古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡3(1.5)・△1、鉄製武器3(1.5)
徳島県(1古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡2(2)、鉄製武器21(21)
壱岐対馬宮崎県鹿児島県(0古墳)

20 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:53:00.69 .net
5世紀
福岡県(17古墳)金銅製品65(3.8)、金銀製品17(1.0)、銅鏡32(1.9)・△1、鉄製武器89(5.2)

熊本県(4古墳)金銅製品10(2.5)、金銀製品10(2.5)、銅鏡5(1.3)、鉄製武器10(2.5)宮崎県(4古墳)金銅製品1(0.25)、金銀製品1(0.25)、銅鏡6(1.5)、鉄製武器84(21)

大分県(6古墳)金銅製品0、金銀製品1(0.17)、銅鏡6(1.0)、鉄製武器26(4.3)
佐賀県(3古墳)金銅製品0、金銀製品1(0.33)、銅鏡3(1.0)、鉄製武器4(1.3)

岡山県(1古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡3(1.5)、鉄製武器9(4.5)
丹後半島(1古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡1(1.0)、鉄製武器1(1.0)
鹿児島県(2古墳)金銅製品0、金銀製品0、銅鏡0、鉄製武器3(1.5)
壱岐対馬徳島県(0古墳)

6世紀
福岡県(24古墳)金銅製品54(2.3)、金銀製品124(5.2)、銅鏡5(0.2)、鉄製武器36(1.5)
熊本県(22古墳)金銅製品5(0.23)、金銀製品41(1.9)、銅鏡7(0.32)、鉄製武器21(0.95)

大分県(6古墳)金銅製品8(1.3)、金銀製品7(0.9)、銅鏡3(0.5)、鉄製武器6(1.0)
佐賀県(5古墳)金銅製品8(1.6)、金銀製品9(1.8)、銅鏡7(1.4)、鉄製武器4(0.8)
宮崎県(6古墳)金銅製品10(1.7)、金銀製品2(0.33)、銅鏡3(0.5)、鉄製武器5(0.83)

壱岐対馬(4古墳)金銅製品7(1.8)、金銀製品7(1.8)、銅鏡1(0.25)、鉄製武器14(3.5)
鹿児島県(4古墳)金銅製品2(0.5)、金銀製品5(1.25)、銅鏡0、鉄製武器1(0.25)

岡山県(2古墳)金銅製品1(0.5)、金銀製品0、銅鏡0、鉄製武器3(1.5)
徳島県丹後半島(0古墳)

21 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 20:55:27.71 .net
博多湾が圧倒的

丹後半島の日本海ルートは3世紀までは重用されていたのが
岡山の瀬戸内ルートの開発によって廃れていったのがわかる

22 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 21:00:53.26 .net
金銅製品
5世紀
福岡65 熊本10 宮崎1 他0
6世紀
福岡54 宮崎10 大分佐賀8 壱岐対馬7 熊本5 鹿児島2 岡山1 他0


金銀製品
5世紀
福岡17 熊本10 宮崎大分佐賀1 他0
6世紀
福岡124 熊本41 佐賀9 大分壱岐対馬7 鹿児島5 宮崎2 他0

23 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 21:03:18.57 .net
引き続き福岡がダントツ

盗掘なども考えると
あとは熊本がちょっと多いくらいで
大分佐賀壱岐対馬が同じくらいのレベル

畿内により近い岡山に圧勝している
京都府の丹後半島は歴史の表舞台から去った(ゴメンなさい

24 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 21:12:25.85 .net
各地域で世紀ごとに三種の神器が減って、馬具が増えてる傾向も面白いな
道の悪い日本で騎馬なんてほとんど使えなかっただろうに

25 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 21:28:51.64 .net
2世紀後半の倭国大乱
3世紀にようやく和解するも卑弥呼の次の男王で3世紀後半に内乱
そして纏向に新拠点建設

内患外憂を抱えた3世紀のツケで4世紀は若干落ち込んでいる

だが領土整備が終わった5世紀以降に驚異的に盛り返している

26 :日本@名無史さん:2016/06/12(日) 23:21:28.44 .net
>三種の神器が減って、馬具が増えてる傾向
卑弥呼の記憶が薄れて(鏡=鬼道オカルトの価値が低下)
半島出兵での武功が重視されてるんだろうな(現実主義)

27 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 06:38:14.15 .net
なかなか素晴らしい出土品の分類だ。

北部九州福岡地方において、きわめて多量の富が生まれ、蓄えられ、
そして無数の土侯たちの中小古墳として散財消費された事実を良く物語るデータである・・・。
しかしこれでは、卑弥呼の墓のような巨大な中央集権王墓が建設されることは、決してなかったであろうな。

28 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 09:18:15.33 .net
1世紀中頃は金印がある奴国が中国朝鮮との島伝いの交易ルートを独占してた。関門海峡は九州の勢力下。2世末に伊都国を畿内の勢力が支配下に置くことは不可能だろうな。。

29 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 09:58:58.46 .net
卑弥呼は日向高千穂の神で、伊勢神宮内宮にも祀られている天照大神のことである。

台与は、天照大神の養子のアメノオシホミミ命の妻で、同じく伊勢神宮内宮に祀ら
れている万幡豊秋津姫命(万幡豊秋津師比売大神)である。
なおこの比売大神は、宇佐神宮二之御殿の主祭神としても祀られている。

30 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 10:19:16.76 .net
伊勢神宮内宮にアマテラスの相殿神の天手力男神は誰なんだろうな。万幡豊秋津姫が剣で天手力男は弓だったな。壱岐に天手長男神社があるが同一人物なのかな。。

31 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 12:29:09.34 .net
倭人伝にある、「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年( 倭国には元々は男王がいたが、70-80年くらい男王の時代が続いた間は戦乱があり毎年のようにお互いに攻撃していた)とあるが元々の男王とは奴国の王で、お互いとは奴国と狗奴国と言う解釈はどうかな。。

32 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 19:21:33.25 .net
>>27-31
デタラメ

>>27
>無数の土侯たちの中小古墳として散財消費
畿内その他、古墳がたくさんある場所=散財消費で中央集権できない
という暴論
同じ時代に乱立していたならともかく
副葬品が多い=富の蓄積=巨大な権力があったと考えるのが正常

>卑弥呼の墓のような巨大な中央集権王墓
巨大な王墓と中央集権は同義ではない
中央集権=巨大な王墓なら、奈良時代以降の王墓は現代にいたるまで
どんどん巨大化することになる

33 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 19:58:23.37 .net
福岡には、径百余歩クラスの王墓がいくつかあったっけ??

34 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 20:27:45.29 .net
3世紀の王墓の中で、平原だけが突出している
九州の中で卑弥呼の墓を考えるなら平原以外にありえない

他の墓が卑弥呼だと
じゃあそれを遥かに上回る平原は誰なの?という矛盾が生じる

35 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 20:50:08.61 .net
狗奴国についての考察

北部九州スレなので、邪馬台国首都は伊都国であるという前提で考察する。

邪馬台国(福岡糸島前原春日古賀福津宗像宮若田川嘉直方飯塚市、鞍手嘉穂郡)
3世紀(6古墳)銅鏡51(8.5)、鉄製武器9(1.3)
4世紀(5古墳)銅鏡18(3.6)・△11(2.2)、鉄製武器15(3.0)

熊本県
3世紀(0古墳)
4世紀(3古墳)銅鏡7(2.3)、鉄製武器3(1.0)

もちろん熊本に銅鏡や鉄製武器が皆無ではないのであろうが、あまりに大きい差である。
2世紀まで福岡に少し遅れながらも鉄器など流入していた熊本であるから、
これは明らかに熊本と北部九州邪馬台国が敵対し、半島ルートからの物品が途絶えたことを意味している。

36 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 20:51:10.60 .net
狗奴国が熊本県のみである場合、邪馬台国との国境線は福岡県と熊本県の県境になる。
その場合、邪馬台国陸軍が本陣を置くのは久留米市辺りになる。
狗奴国と戦う大軍を指揮する将軍は当然王族レベルの高身分。
最長だと倭国大乱から魏志倭人伝の記載まで90年。
最短でも卑弥呼在位の50年。

これだけの長期間、王族レベルの将軍が滞在して、
しかも最終的に狗奴国に勝利するのだから、それなりの副葬品を持つ墓が複数残されてしかるべき。

狗奴国(久留米朝倉行橋豊前八女うきは市、朝倉築上八女京都郡)
3世紀(0古墳)
4世紀(3古墳)銅鏡8(2.7)・△6(2.0)、鉄製武器3(1.0)

だが、久留米市を中心とする福岡県南部は熊本県と同じく、邪馬台国領域と隔絶している。

よって、狗奴国領域は少なくとも、熊本県+福岡県南半分(上記の狗奴国仮想領域)であったことがわかる。

37 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 21:03:05.69 .net
邪馬台国と狗奴国との関係

<卑弥呼以前>
2世紀までの熊本県には、博多湾からいち早く鉄器が流入していた。

<卑弥呼以後>
卑弥呼終末期〜卑弥呼後の庄内式土器が、畿内から北部九州を経て熊本県まで流入している。

狗奴国(福岡南部と熊本)は、
邪馬台国と狗奴国が対立していた時期である3世紀に大きく落ち込んでいる。
そして5世紀以降は福岡南部>>13も熊本>>9も発展している。

勝者である邪馬台国(福岡北部)も、3世紀は平原遺跡のみ豪華だが
4世紀には一時落ち込み、5世紀以降にまた栄えている。

これはつまり、2世紀後半から3世紀半ばまで続いた倭国大乱が、
邪馬台国(福岡北部)と狗奴国(福岡南部と熊本)との争いであった物証に他ならない。

邪馬台国に半島交易を押さえられ、狗奴国は3世紀には干上がって敗北した。

邪馬台国も狗奴国との争いに国力を消耗し、3世紀半ばに勝利したものの、
狗奴国残党の処理や、争いで遅れた自国内整備などが4世紀までかかり、
引き続き国力を消耗したのであろう。

38 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 21:24:29.44 .net
>>34
平原遺跡は殉死溝(16人を埋めたとされる)もあるしな。
径百余歩も殉葬奴卑百余人も誇張表現だと思うね。

39 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 21:33:34.30 .net
邪馬台国と狗奴国の争いが終わって倭国が新時代に入り
新時代の象徴として、△や庄内式が本格化してくるのだから
そのギリギリ手前の豪華女性王墓である平原遺跡1号墓は
卑弥呼ジャストミート

40 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 21:51:00.35 .net
>>38
くまなく探してじゃなくて、一部だけで16だからもっと多い可能性もあるよね

41 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 21:59:05.64 .net
>>34
九州の中で卑弥呼の墓を考えるなら平原以外にありえないというが、
平原最大の古墳の径はいくら??

>>38
径百余歩も殉葬奴卑百余人も誇張表現だとするなら、魏志倭人伝は存在しなかったのと同じ。
また、陳寿という稀代の文筆家と、その書を採用した魏王朝の人々をないがしろにするのは、
同業たる学者・知識人の態度ではない。

42 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 22:02:33.68 .net
卑弥呼が入ってる王墓=平原1号墓
これはその通りなのだが、
卑弥呼の墓=平原1号墓+平原2号墓だぞ?

この2つは周濠がつながって共有していて
殉死溝が見つかったのは2号墓周囲の濠の一部

張政が女王卑弥呼の墓を眺めた場合、
主墓の1号墓と、陪墓の2号墓が連なって、一続きの周濠で囲まれた
「複合施設」を見ることになる
わざわざ殉葬者のことを記載したのだから、
殉死溝に囲まれた2号墓も当然卑弥呼墓の一部として認識されていることになる

平原1号墓+平原2号墓の、周濠で囲まれた範囲が
張政が目にした「卑弥呼の墓」で、径百余歩

43 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 22:07:03.29 .net
曹操の墓もそうだが、魏代は薄墓で塚なしだからね

魏から来た張政にとっては
周濠で囲まれた中の主墓と陪墓を合わせた全体が
「卑弥呼の墓」として認識されるのが普通

44 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 22:07:28.96 .net
同時代史の記述からすると卑弥呼の墓は径百余歩の冢とある
これを東夷伝で共用される身体尺にて換算すると底面で径30m程度のサイズ
このサイズの墳墓は樂浪漢墓の傍例からすると封土が6m程度盛られたハイト
三雲地区でこの手のサイズのものを捜すと回答はおのずから出てくるだらう

45 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 22:07:33.52 .net
平原遺跡以外に殉葬墓ってまだみつかってないんだよな。
殉葬者のいる200〜250年頃の女王っていえば、ジャストミートでしょ。

46 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 22:09:08.50 .net
>>45
イチローが場外ホームラン打つレベルの大当たりだな

47 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 22:12:49.43 .net
伊都国は、「郡使往来して常所駐」である。
まして帯方郡から派遣されたのは「張政等」と複数になっている。
張政が目にした「卑弥呼の墓」で、径百余歩などと、見誤ったかのような言い逃れは不適当。

なお、径百余歩も殉葬奴卑百余人も誇張表現だったとするのなら、
卑弥呼も、邪馬台国も、同様に誇張表現であろう。
無意味な弁である。

48 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 22:15:26.09 .net
>>45
まだ見つかっていないだけだ。
見つかっていないから、他にはないと断言するのか。

49 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 22:19:30.52 .net
>>48
他にまだ見つかっていないのだから
現時点では断定してもいい
それが考古学のはず

○○を発掘したら都が出てくるはず
まだ見つかってないだけだ
これではダメでしょ

50 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 22:19:37.29 .net
魏志倭人伝上の数字表記はほぼ誇張表現で無意味だと思うね
女王国まで12000里なんていう距離はその最たるもの。誰か信じてるの?
戸数もそう当時の倭国で5万だ7万だなんてあり得るわけがない。
すべて倭国を大国扱いするためのもの。
こんなの真面目に考えるから邪馬台国がどこかなんて決着がつかないんだよ。

51 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 22:29:01.43 .net
地理読みと日程読みを分けることで邪馬台国の場所についての疑問が解消したし

大量の鏡、女性王墓、殉葬、周濠で囲まれた全体構造で認識
これで卑弥呼の墓も決まった


このスレは以上の確定事項を元に議論を重ねるスレなので
文句があるなら九州説スレへどうぞ
纏向で主張したいなら畿内説スレでどうぞ

52 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 00:40:14.91 .net
卑弥呼の墓の説明で、径はあるが高さが無いんだよね。やはり墓域を表してる可能性が強い。平原が第一候補でしょう。
女性で、太陽信仰と思われる埋葬の仕方、意味深な大量の破鏡。

53 :漢文天文数学に長けた爺:2016/06/14(火) 02:02:58.51 .net
>>50
女王国まで12000里は、帯方郡(徳積群島)から筑紫平野(不彌國 吉野ヶ里)までの920kmである。

5万戸は、3.5人/戸で18万人
7万戸は、3.5人/戸で25万人

>>51
卑弥呼の墓径100歩は、25.5cm/歩で25.5m

54 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 06:42:01.02 .net
1歩=25.5cmてw
子人ですか?

55 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 07:03:17.07 .net
副葬品のデータを説明できるのか?
倭人伝の記載を捻じ曲げてパズルゲームしてるだけじゃん

56 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 07:07:41.15 .net
吉野ヶ里は倭国大乱勃発直後に滅亡している

邪馬台国連合が博多湾邪馬台国+日本海勢力とすると
倭国大乱以前の銅鐸や、倭国大乱後の前方後方墳など、
出雲と関係の深かった佐賀平野は
邪馬台国連合側だった可能性が高い

よって、吉野ヶ里が邪馬台国(連合)と言っても、ある意味間違ってはいない

さて
狗奴国が筑後平野を含んで挙兵した場合
博多湾邪馬台国と分断されて孤立した吉野ヶ里はどうなるでしょうか?

57 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 07:10:24.64 .net
真っ先に狙われるだろうな

58 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 08:03:26.19 .net
平原の方墳も、出雲系列だったあかしだな

59 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 08:07:34.22 .net
水に乏しい吉野ヶ里は、
大乱に備えたいっときの戦闘村、大乱が終われば放棄される
本来の居住地は平地の神埼市だったんだろな

60 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 08:10:14.57 .net
>>56
>出雲と関係の深かった佐賀平野は
>邪馬台国連合側だった可能性が高い

なんだい、佐賀平野も取り込む作戦かwww

61 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 08:12:11.56 .net
>>56
背振挟んで南と北は繋がりが深いから、

62 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 08:17:01.53 .net
>>60
背振挟んで南と北(糸島)は繋がりが深いから(文化共通性)、吉野ヶ里は邪馬台国連合だった可能性は強いよ。

63 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 08:46:26.19 .net
そうだな
伊都国は平原、卑弥呼の墓も平原1号でよかろう

64 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 08:59:55.74 .net
卑弥呼の墓の候補地としては細石神社もあるな
航空写真で見ると道路を挟んで前方後円墳ぽいな
細石神社には「漢奴委國王」が元々はここに在ったと云う伝承があるらしい
卑弥呼の墓の跡に神社が造られた可能性がある
周辺を掘ったら100人の殉死者がでるかも。

65 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 10:49:07.91 .net
7万戸は、3.5人/戸で25万人
7万戸は、5人/戸で35万人

馬韓が10万戸、弁韓、辰韓、4〜5万戸

九州の北半分以上ないと収容できない
筑前から筑紫平野、熊本平野などを含む北部九州だな。

66 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 10:51:26.64 .net
>>65
あっても無理

67 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 10:58:08.23 .net
>>66
朝鮮半島南部と九州の人口密度から考えると九州の北半分ぐらいで丁度いいけど。

68 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:38:23.28 .net
http://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/bcygobf9qoc0aha4ac9a5a4ada4jbfmbd8a4dea4la1aa/1/198879
wajin128 2014年12月19日 16:15
投馬國は【妻(上妻・下妻)】です

韓國では【投馬】を【투마(ツーマ)】と発音します。
おそらく【投馬國】は、久留米から八女付近を旧来【妻】と読んでいますが【投馬】に由来するものと思われます。

【南至投馬國水行二十日】
【南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月】

69 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:50:21.38 .net
福岡県だけで、
2万戸+7万戸+5万戸というわけだな。

ま、がんばってくれい、、、、

70 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 15:26:07.40 .net
私は卑弥呼は平原だが、邪馬台国がどこかは謎の立場。

基本的に女王国の首都は伊都又は奴国だと思っているよ。
当時、ここ以上に大陸と交流があり、物資も豊富で栄えた所は無いからな。

71 :九州王:2016/06/14(火) 15:46:35.58 .net
>>70
>>1の女王国の首都は伊都国であり
邪馬壹國は北部九州広域で問題ないでしょ。

72 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 16:16:06.80 .net
>陸行1月についてまとめ

>畿内説
>@河内湾→奈良 35km 1.5km/日
>A舞鶴→奈良 120km 4km/日

>九州説
>@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日
>A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日
>B有明海→熊本 60km 2km/日

73 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 16:43:14.05 .net
>>71
支離滅裂
誰も納得させることはできませんw

74 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 17:24:01.53 .net
>>73
全て矛盾無く説明してますがw

75 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 17:25:49.03 .net
>>74
あなたのオツムの中だけですよw

76 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 17:43:18.24 .net
帯方郡
↓海岸水行七千里
狗邪韓国
↓海渡千里
津島国
↓海渡千里
一支国
↓海渡千里
末盧国
↓陸行五百里
伊都国
↓(東南)百里
奴国
↓(東)百里
不弥国
↓(南)水行20日
投馬国
↓(南)水行10日・陸行1月
邪馬台国

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり


畿内説は、邪馬台国から東に海を渡った倭人の住む国を明らかにせよ!

77 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 18:54:04.24 .net
>>1で考えると邪馬台国7万戸の中に、奴国2万戸などが含まれてる

奴国だけで2万戸なら
福岡県だけで十分7万戸入る

という話を認めたくなくて
何度も通説を繰り返しているだけ

78 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 20:05:11.90 .net
邪馬台国連合ってなんだよ?

79 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 20:06:45.72 .net
韓神ってのは猿神のことだって言ったろ

韓神を崇めていたのは東南アジア人

80 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 20:08:12.70 .net
韓人とやらの起源もそ〜考えりゃ日本の話なんかとも結びつくだろ

81 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 21:24:52.37 .net
>>77
そりゃ理由もなく言い張られてたら
受益者以外誰も認めないだろ

82 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 21:49:25.65 .net
>>77
70000戸は
一大國、對馬國に4000戸
末廬國に4000戸
筑前に伊都國と奴國と不彌國で22000戸

旁國
筑後に10000戸
肥前(末廬國を除く)に10000戸
肥後に10000戸
豊前に 5000戸
豊後に 5000戸

こんなもんだろう。

83 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 00:17:21.53 .net
>>47
径百余歩も殉葬奴卑百余人も露布の原理で十分の一なんですよ

84 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 01:38:02.26 .net
>>81が古代史解明のためでなく「利益」のために必死なのがわかった

85 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 02:00:27.75 .net
>>82
邪馬台国は沿岸と壱岐対馬だけだよ

壱岐・対馬・唐津市 8千戸
福岡 2万戸
糸島・前原・春日・古賀・福津・宗像・宮若・田川・直方・飯塚市
鞍手・嘉穂・遠賀郡・北九州市(旧5市合併)
3千×18=5万4千 2千×18=3万6千

福岡県だけでも全部入れると溢れてしまう計算になる

86 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 02:27:33.48 .net
戸数を数えるのに
10戸の集落 立って数えりゃすぐ
100戸の集落 1時間かからん
1000戸 半日作業?

北部九州に文字があったことは確定してるのだから
各地の担当者が1日で仕上げる戸数報告を木簡に書いて集めるだけの簡単な作業

87 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 06:19:27.15 .net
魏略では倭国で戸数の記事があるのは伊都国の戸万余のみ。
この事から伊都国が一番重要な國であるということが分かるが、魏志にある
その他の国の戸数情報は、はたして出張報告にあったのだろうか。
倭国を大国に見せるため、陳寿が創作したという可能性は十分あると思う。

88 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 07:10:54.86 .net
私見では陳寿は正確に記述していると考えてる
合計12000里など細部にこだわりが見られるからね

吉野ヶ里領域(環濠集落内+周囲)で5000人=千〜二千戸と見積もられてるよね

東アジアの大国として攻める立場であって、環濠などもなく、
遺跡で見ても住居が密集している博多湾周辺地域なら十分ありうる戸数

89 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 22:09:03.44 .net
>>85
馬韓が10万戸、弁韓、辰韓が4〜5万戸なのに
福岡県に入るはずなかろ
計算の根拠が妄想だな。

90 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 22:20:03.24 .net
北方の朝鮮半島と温暖な九州とで収穫量が同じだという根拠は?

91 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 22:32:08.81 .net
 1-1で、邪馬台国の所在地は、九州島内しか考えられないことが分かった。
 では、邪馬台国は九州のどこにあったのだろうか。

 まず検討すべきは、1-1に書いた倭人伝の12である。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」
 とある。つまり、
「女王国の東側は海に面しており、東に千余里(約七五〜九〇キロ)ほど海を渡ると、また国があって、倭人と同種の人が住んでいる」
 と言うのである。
 ここで女王国というのは、倭国全体であろうか。または倭国の中の女王のいる邪馬台国のことであろうか。それを決めるのは、10と11である。まず、10には、
「女王国より以北は、その戸数・道里、得て略載すべきも、其の余の旁国は遠絶にして、得て詳かにすべからず」
 とあり、つまり、
「女王国の以北にも、その他の地にも国がある」
 ことを、示している。また11も、
「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ」
 となっており、女王国が決して倭国全体を示す言葉でないことを、証明している。
 つまり「女王国は、倭国の中の一国であり、女王の都する所、つまり邪馬壱国」なのである。したがって、
「邪馬台国の東側は海に面している」
 ことになる。
http://www.b-net.kcv.jp/~ryhei/1-2yamakokuiti.htm

92 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 23:18:40.61 .net
>>90
同じではない、しかし君の計算は
李朝時代と江戸時代の人口比で考えても無理過ぎ
何を根拠に計算したんだい?

93 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 06:36:39.19 .net
戸数問題は年貢を考慮に入れて考えるのが誠実

最終的には日本統一されるのだから、歴史上いずれかの時点で西日本が統一される必要がある
それが2世紀までの倭国によって果たされていただけ

銅矛が広がると同時に、出雲など日本海沿岸や、瀬戸内四国から、
一方的に北部九州へと土器が流れ込んでいく

伊都と出雲から最古の硯が発見されたのだから、
文字を使った高度な政治的支配が可能だったこともわかっている

これは明らかに、
倭国の侵略によって、年貢の徴収範囲が拡大したことを意味している

後の纏向、平城京、平安京だって、自らの土地での収穫だけなら
戸数を説明できないのと同じで、
当時の倭国の勢力範囲は銅矛が分布した地域に拡大しており、
そこから首都である奴国へと年貢が運び込まれて
北部九州一帯へと拡散していたから
大量の戸数を維持できた

西日本の統一はどこかの時点でなされるべきだし
広域国家の首都なら大量の年貢が集められるわけだし
真面目に議論されるべき

94 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 06:40:56.41 .net
高地性集落の分布も倭国の西日本統一がないと説明できない

西日本統一した倭国が、倭国大乱で一旦分裂するが、
邪馬台国を経て再統一してから建設されるのが纏向

畿内説が、何が何でも「纏向が初めて西日本統一した」ことにしたいから
わけがわからんことになってるだけ

95 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 10:12:22.50 .net
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)

巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。

それまで、日本の有名大学の古代史専門家による縄文→弥生→古墳時代への“平和的、友好的、自然的”
発展変化という‘上品で理想的’な皇室尊重的な伝統史学を徹ッ底的に破壊、否定、駁論する内容である。
まぁハッキリ言ってよく言ったと思う。自分も伝応神・仁徳天皇陵を何度か訪れたが、アレをブルドーザーや
トラックもない古代に、粗末な鍬や鋤だけで作れと言うのだから、命令する人はどれ程の「仁」と「徳」が
備わっているか推して知るべしである。しかも、前方後円墳だけで大中小合わせれば日本全国に5000基
(円墳含めると20万)あるといわれるので、古代の大和朝廷なるものがどれ程「博愛的」であったかは、
著者ならずとも推して知るべきである。エジプトのピラミッドもそうだが、あんなものを単なる失業対策で
‘嬉々として’積み上げるバカが何処にいると言うのか?最近流行の人道主義的歴史学者は、一度、自分で
その石を背中に積んで頂上まで登ってみろと言いたい。

96 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 13:41:24.92 .net
巨大古墳なんて征服者じゃないと造れないよな
権力者と支配される側が完全に分かれてないと
民に奴隷として強制労働なんかさせられない。

97 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 14:27:56.45 .net
>>1で矛盾が無いから
これが正解だな。

98 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 16:05:25.43 .net
16万基だが800年作られたらし〜からの

99 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 17:41:23.11 .net
>>82
邪馬台国がその範囲であれば、狗奴国はどこに比定しているのですか?

100 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 18:27:18.64 .net
狗奴国は女王国(北部九州)の南(南部九州)

101 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 19:09:43.79 .net
>>100
その境界は?

筑紫と筑後の間
福岡県と熊本県の間
熊本北部と南部の間

どれでしょう?

102 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 19:26:10.66 .net
 1-1で、邪馬台国の所在地は、九州島内しか考えられないことが分かった。
 では、邪馬台国は九州のどこにあったのだろうか。

 まず検討すべきは、1-1に書いた倭人伝の12である。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」
 とある。つまり、
「女王国の東側は海に面しており、東に千余里(約七五〜九〇キロ)ほど海を渡ると、また国があって、倭人と同種の人が住んでいる」
 と言うのである。
 ここで女王国というのは、倭国全体であろうか。または倭国の中の女王のいる邪馬台国のことであろうか。それを決めるのは、10と11である。まず、10には、
「女王国より以北は、その戸数・道里、得て略載すべきも、其の余の旁国は遠絶にして、得て詳かにすべからず」
 とあり、つまり、
「女王国の以北にも、その他の地にも国がある」
 ことを、示している。また11も、
「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ」
 となっており、女王国が決して倭国全体を示す言葉でないことを、証明している。
 つまり「女王国は、倭国の中の一国であり、女王の都する所、つまり邪馬壱国」なのである。したがって、
「邪馬台国の東側は海に面している」
 ことになる。
http://www.b-net.kcv.jp/~ryhei/1-2yamakokuiti.htm

103 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 19:52:06.59 .net
>>101
熊本北部と南部の間よりは南だな。

104 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 23:40:04.79 .net
2世紀中頃 倭国大乱発生時

邪馬台国 筑紫平野+吉野ヶ里+日本海沿岸 + 朱儒国(尾張伊勢丹前方後方墳)同盟

狗奴国 筑後平野+熊本+瀬戸内河内 + 唐古同盟



邪馬台国が独力で、宇佐占領→筑後平野占領→畿内河内降伏



熊本に籠って徹底抗戦しようとする狗奴国王族に対する
停戦交渉の仲裁を魏に依頼

張政来日して狗奴国を巻き込む密約

105 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 23:43:38.23 .net
密約の内容は後世の南北朝和睦と同じ

「今後は交互に北朝と南朝の王を立てる」

その後の経過も後世の南北朝和睦と同じ

卑弥呼の次の男王は蘇我氏外戚の王

狗奴国系がブチ切れて内乱 千人犠牲

魏としては
魏と親しくて倭王に決まった邪馬台国を立てたいので
密約の内容(今後は邪馬台国と狗奴国が交互に王を立てる)を記載できない

だからぼかされたまま

後半の記載は邪馬台国じゃなくて「倭王」卑弥呼

106 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 23:45:37.15 .net
よって
3世紀前半に張政来日時の邪馬台国領土は
>>103よりも拡大して

筑紫平野+筑後平野+佐賀平野熊本北部大分沿岸部
+日本海沿岸年貢+瀬戸内四国年貢
で余裕の7万戸

107 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 23:51:31.35 .net
倭国 九州を本拠として、日本海沿岸と瀬戸内四国畿内を続行にして年貢徴取

倭国大乱発生時
邪馬台国 筑紫平野+吉野ヶ里+日本海沿岸 + 朱儒国(尾張伊勢丹前方後方墳)同盟
狗奴国 筑後平野+熊本+瀬戸内河内 + 唐古同盟

張政来日時
邪馬台国 筑紫平野+筑後平野+日本海沿岸+(尾張伊勢丹前方後方墳)同盟
狗奴国 熊本  (唐古滅亡)

張政の仲買で狗奴国分裂王家を吸収

だがその後は北朝邪馬台国が倭国を握った

108 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 23:56:12.79 .net
続行 属国

109 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 23:57:09.93 .net
これで全ての考古学的遺物と文献が説明できる

110 :日本@名無史さん:2016/06/17(金) 00:06:57.95 .net
独力でも時間をかければ狗奴国を滅ぼせるが
なぜ魏に仲裁を依頼したかと言うと
魏が帯方郡を落とした千載一遇の半島進出チャンスに惹かれたから

熊本に籠る狗奴国を地道に落とすなら
邪馬台国お得意の海軍ではなくて
苦手な陸軍で、本来倭国陸軍主力の狗奴国(畿内上陸の銅戈部隊)を相手しなければならない

泥沼の陸上戦を回避したくて
魏を持ち出して停戦合意した

111 :日本@名無史さん:2016/06/17(金) 01:35:17.64 .net
畿内説には説明できない弱点が多いのですが、
その中でも以下の3点は決定的です。

・邪馬台国のライバル国である南の狗奴国の説明
・東の海を渡った所にさらに倭種の国
・邪馬台国に属する国は30ヶ国

畿内説邪馬台国は畿内から九州までを含む全域を支配しているのに、
そのような大国に対抗できるライバル国が存在するのでしょうか。
また、東の海を渡るとはどこの海を指しているのでしょうか。
さらに、伊都国、奴国、不弥国と現代の市町村レベルサイズで
既に5-6ヶ国の記載があるのに、西日本全体で30ヶ国を想定するのは無理です。

それが九州説であれば、狗奴国は熊本の事、
東の海を渡るとは当然、豊後水道でさらに倭種の国は四国、中国。
邪馬台国が福岡県サイズとすれば、30ヶ国の数は適正。(現代の自治体数)
全てが違和感なくすっきり説明できます。

何より、当時の中国人・日本人が東も南も分からない愚か者の集まり
とするならば、そのような質の低い当時の日本人が、すでに3世紀に
西日本全域を支配している国家を形成していたと信じる方が支離滅裂なことだと思います。

112 :日本@名無史さん:2016/06/17(金) 11:56:20.96 .net
>>104-110
根拠が無い想像だけの話はつまらん。

>>111
>邪馬台国が福岡県サイズとすれば、30ヶ国の数は適正。(現代の自治体数)
>全てが違和感なくすっきり説明できます。

この部分が問題だな
現代の自治の大きさが国邑と一致してる根拠は?
奴國の二萬戸、末廬國の四千戸などからすると現代の自治数個〜十個分の規模はあった様だが
非常に違和感がありもやっとしてるな。

113 :日本@名無史さん:2016/06/17(金) 12:58:59.41 .net
和名類聚抄 西海道

筑前 15郡
筑後 10郡
肥前 11郡
肥後 14郡
豊前 8郡
豊後 8郡
日向 5郡
大隅 8郡
薩摩 13郡
壱岐嶋 2郡
対馬嶋 2郡

合計 96郡

114 :日本@名無史さん:2016/06/17(金) 14:14:04.98 .net
合計 96郡 ≒ 旧百余国

115 :日本@名無史さん:2016/06/17(金) 17:31:08.19 .net
なんの話してんだ?

116 :日本@名無史さん:2016/06/17(金) 19:06:28.40 .net
奈良時代から平安時代くらいに記録された地域が旧郡名。

山や川で適当に区切られ、
統治がなんとか可能な単位であることを考えれば、
旧小国の国邑もこれに近いのではなかろうか?

もちろん、部分的にはくっついたり離れたりしたところはあるだろう。

117 :日本@名無史さん:2016/06/17(金) 20:29:11.92 .net
>馬韓が10万戸、弁韓、辰韓が4〜5万戸

この戸数を相手に半島領土を維持するのなら
邪馬台国7万戸でも少ないくらい

118 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 06:50:26.61 .net
>>117
半島南岸の投馬國五萬戸も女王國の勢力権下にあったと考えれば問題ない。

119 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 06:55:23.87 .net
どこの女王なんだという話

120 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 07:28:03.57 .net
「日本」は、もともと、百済地方の呼び名だった。

http://img.hani.co.kr/imgdb/resize/2012/0607/00432833701_20120607.JPG
▲昨年7月、中国西岸骨董市場で発見され現地学術誌に公開された百済人「祢軍」の墓誌銘拓本。

今日の日本の国号が本来、百済の土地を称する言葉であり、国号成立に百済人らが関与したと
いう学説が提起された。

7世紀の百済滅亡期、義慈王と唐に投降して官吏になった後、日本に使節として派遣された「祢軍
(禰軍)」(613〜678)という人物の墓誌銘の文章に彫られた「日本」の文字が現在の日本の国号で
はなく百済の他の表現という根拠が見つかったという。この様な主張をしたのは日本古代史学界
権威である東野治之(とうの はるゆき)大阪市立大教授だ。


墓誌銘の「日本」は祢軍が日本に使節に行った背景を書いた部分に登場する。「660年官軍(唐
軍)が私たちの蕃国(百済)を平定した日…日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ、風谷に
残った輩は盤桃を信じて堅く抵抗した…」という内容だ。

文中の「日本」を既存学界は公式国号と見たが、東野教授は「技巧を凝縮させた墓誌銘の文章と
見れば決して国号とは見られない」と否定した。墓誌銘に記録された当時、百済など中国の周辺
国は国号を使わず、扶桑・風谷・盤桃など自然環境的特徴に基づいた隠喩的名称を使ったが、唯
一、日本だけ公式国号を使ったはずがないという論旨だ。

墓誌銘の「日本」は中国から見る時「日が昇る所」という意味ですなわち百済を示すということだ。
彼は「墓誌銘で実際、倭国(日本)は‘ヘジュァ(海左:海東側)’、‘ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記さ
れたと推定される」として「当時、国号が存在したとすれば書いた人は日本という表記を使わなか
っただろう」と主張した。

ハンギョレ新聞(韓国語) 「日本は本来百済の土、称する言葉だった」
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/536435.html

121 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 09:07:39.25 .net
広開土王碑に倭が新羅や百済を臣民としたと記されている。。

122 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 09:17:11.55 .net
>>118
合計12万か
だったら対抗できそうだな

123 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 09:36:22.89 .net
>>119
伊都国(前原市)の女王(王)だ
ここなら朝鮮半島にも近く半島への出兵や経営も可能だ

124 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 10:19:02.00 .net
>>116
自然発生的な国邑はそうだろうが
邪馬壹國の時代には国邑の数は減り相当統一が進んでいたのだろう。

125 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 10:24:15.25 .net
相当というか少なくとも北部九州は邪馬台国のみに統一されてた

126 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 10:58:42.14 .net
帯方郡の張政が駐留してる時点で、倭国が半島進出なんてできる勢力じゃないのは明らかだよ。

むしろ、張政が帰国したときに、倭国の混乱ぶりを聞き、今なら征服できると判断した半島勢力が、
九州に孫を送り込んだんだろう。

127 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 11:01:29.02 .net
紀元前150年に銅剣か
出雲とはやっぱり同族なのかな

128 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 11:06:43.50 .net
桑を植えてカイコ育てて紡績機織りなんて複合技術を必要とする
絹がこんなに古くからあるってことは徐福がもたらしたの?
伝説は本当だった?

129 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 11:08:20.81 .net
史書によると魏の討伐などで混乱してたのは朝鮮半島の方で
魏の勢力が弱まると倭国は朝鮮半島に更に進出したようだが。

130 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 11:12:40.20 .net
クワ?徐福以前からあったと書いてあるよ
それとも東北地方にしかなかったのかな?

131 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 11:18:47.59 .net
誰が桑のみに注目しろと・・・

132 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 11:20:10.47 .net
>>129
倭国大乱〜4世紀くらいまで
国内的には副葬品が貧弱になって
国外的には出兵頻度が少なくなりますね

133 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 11:23:30.91 .net
中国本土も三国が戦ってたわけだし
漢〜三韓〜倭の旧秩序が揺らいで
東アジア全体が不安定になっていたのでしょう

134 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 11:26:01.15 .net
よくわからないけど、これも本当の話

あの謎の311大震災があったでしょ、
数週間くらいしてから、老婆がクワの実を貰って来た

「何々屋の某さんの田舎からから送られて来たんだって、
 それで、みんなで食べなと言って、くれたんだよ」

135 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 11:28:32.56 .net
商店街のナントカ屋の
某さんの田舎は山形か新潟だと言ってたような

136 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 11:53:09.71 .net
『桑 新潟』

いま調べてみたところ、
ここにも「善光」という文字が出て来た

『桑 山形』のほうは・・・

137 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 12:09:26.78 .net
>>132
その後は増えて、倭は百済と同盟した366年から「白村江の戦い(663年)」までの約300年間、ほぼ4年に1回の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵しているね。

138 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 12:56:20.19 .net
>>137
全て動かしようのない事実ですね
倭国は7世紀まで連続して存在していたことが明らかです

139 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:01:55.97 .net
公孫淵が独立したのは呉の孫権の後押しがあったから。公孫氏と邪馬台国は繋がりがったと思う。司馬氏は邪馬台国の監視で張政を送り込んだ可能性もある。張政は20年ぐらい伊都国にいて呉の滅亡の10年ぐらい前に晋に帰国したからね。。

140 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:14:04.98 .net
倭国は大陸の覇権国が代わるたびに節操なく朝貢してるから
権威のための朝貢というよりは
利益のための貿易が主目的だったのだろうな

141 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:22:01.50 .net
難升米は帯方郡司に会いに行ったのか。公孫淵に会いに行ったのか。曹叡にあってるみたいだか。。

142 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:25:50.24 .net
また蒸し返しかよ。
朝貢するには卑弥呼からの「国書」が必要だから、最初から魏の帯方郡司に会いに行ったでFA。
現地では書き変えできない。

前スレでさんざん議論しただろうが

143 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:30:28.35 .net
筑紫は抜け目なく大陸と交易、
朝貢を行っているが、

肥国は唐津以西しか交易路がなく
筑紫と比べて朝貢の経験が少なかった。

そのため肥国邪馬台国は、
奴国より少ない貢物しか贈れなかった。
のかもしれない。

144 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:35:44.89 .net
奴国が少なくとも紀元前2世紀には存在していたのなら
邪馬台国の時点で倭国の歴史は500年以上にもなっているわけだな。
文字があったのだから当時の時点での王家系統図なんてあったのかな。

145 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:39:42.72 .net
5世紀以前の文字は
金石文や墨書土器でしか
残ってないからなあ。

146 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:43:01.32 .net
木簡や竹簡はすぐに腐るだろうからねえ。
今回の絹も原型はとどめてないわけだし。
奇跡的にどこかに埋もれてないかなあ。

147 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:47:43.89 .net
古事記以前の書物なら国記と天皇記があったらし。蘇我蝦夷と共に燃えたらしいけどね。それ以外なら神代文字だな。。

148 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:48:19.01 .net
卑弥呼の使いは、郡に詣で、天子への朝献を求めた。
(最初から洛陽へ行くつもりだったことは明白)
だから、ときの帯方太守が、
遼東に居城をかまえていた公孫淵の手下の帯方太守であろうが、
魏からやってきた新米太守の劉夏であろうが、どちらでも良かったのだ。

・景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。

149 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:50:41.44 .net
>>148
手紙を書く時の「宛て名」って知ってるかい?

150 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:51:21.46 .net
難升米は皇帝に謁見して、男の生口4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。いつもと同じで悪いが、ちと貧弱だな。。

151 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:54:23.59 .net
魏皇帝○○様
ならびに 魏の帯方太守○○様

魏への祝賀の言葉

倭国(邪馬台国)のこれまでの中国王家との関係

朝貢品目録

同盟希望や印綬希望などの要求事項など

締めの挨拶

 邪馬台国女王 卑弥呼 ㊞

152 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 13:55:32.73 .net
>>150
それも前スレで出てた
魏からの連絡が入って急きょ派遣したから初回は貧弱
次回からはだいぶマシになっている

153 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 14:02:34.22 .net
制詔親魏倭王卑彌呼
帶方太守劉夏遣使
送汝大夫難升米次使都市牛利
奉汝所獻男生口四人女生口六人斑布二匹二以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順
汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞
今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還
今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢直
又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤皆裝封付難升米牛利
還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也

卑弥呼の国書は先方が受け取っているから残っていないが
例えば魏皇帝からの返事

卑弥呼への挨拶
卑弥呼から貰った貢物のリスト確認と謝辞

卑弥呼ならびに難升米達使いの者への報償
魏からの贈物のリスト
(途中で開けられないようしっかり「封」をしておきましたよ)
(受け取ったらちゃんと確認してくださいね)

結びの挨拶

154 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 14:04:40.46 .net
国と国が外交関係を結ぶのに
相手国王と自国王の名前が入っていないことなどありえない。

それが通るのなら、使いが気分次第で高句麗や新羅と同盟結んできて
無茶苦茶なことになる。

相手から見ても全く信用ならない連中と外交関係を結んだり
品物を預けたりできない。

当たり前の話だ。

155 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 14:05:22.52 .net
この常識の無さ加減は畿内厨の臭いがするな

156 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 14:07:26.31 .net
>>147
神代文字ってあるの?

157 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 14:12:58.78 .net
>>147
燃えたのかあ。もったいない。
磐井とかは写しを持っていたのかもしれないね。

158 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 14:14:37.74 .net
ほとんどの神代文字は捏造。
母音子音が整理されたのは50音が
できてからだが、

それよりはるか以前とされる神代文字なのに、
なぜか、50音の母音子音の規則で
作られているものが多い

159 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 14:30:40.61 .net
>>151

この時の肩書は
邪馬台国女王 卑弥呼 ㊞じゃなくて
まだ、漢倭奴國王 卑弥呼 ㊞ではないかな
㊞は「漢委奴國王」を使ったんだろう
「漢委奴國王」の印しかないし、印の無い国書はないからな
(縛りその結び目に付けた粘土に押して封をする必要があるからな。)

160 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 14:38:09.66 .net
>邪馬台国女王 卑弥呼 ㊞

この国名・御名なら、自分でハンコを作ればよい

161 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 14:49:30.65 .net
>>160
それだと受け取ってくれないな。

162 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 14:53:44.02 .net
邪馬台国女王 卑弥呼 ㊞

こんなハンコを、洛陽の王朝が卑弥呼のために作ってくれるのか??
魏王朝ははんこ屋じゃねえぞ

163 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 15:05:45.10 .net
公孫淵統幕作戦の一環として帯方郡に派遣された帯方太守の劉夏は、
着任するや、
職務として帯方郡下の国々へ速攻伝令を飛ばしたと考えれば、
卑弥呼のRe朝貢もなんら不思議ではない

164 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 15:07:01.97 .net
統幕作戦→討伐作戦

165 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 15:15:36.53 .net
>>159
鋭いご指摘

>>163
その通りですね

166 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 16:31:18.42 .net
魏としてはまだ西に呉蜀がいることですから
邪馬台国に東の朝鮮半島での援軍を期待していたのでしょう

卑弥呼がすぐに朝貢してくれて喜んだものの
狗奴国と対立中で半島に援軍を出せないと知って
争いを早期終結させようと張政を派遣したのでしょうな

167 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 17:08:30.93 .net
戸数も記されていないし、勝敗も書かれていないから
狗奴国なんて大した相手じゃなかったのかも
卑弥呼が死んだのも魏から貰った真朱を化粧に使ったことによる水銀中毒ぽい
邪馬壹國も7万戸で韓の国程度
呉に兵を出すには弱小勢力だな
魏の朝鮮経営が上手く行ってないようなので
こっちの遠交近攻じゃないのかな。

168 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 21:20:50.50 .net
漢委奴國王の印は漢が滅亡したら使えない
逆に張政とかに見られたら
漢を懐かしんで復興を企んでるとか勘ぐられかねない
だから志賀島に放棄(当時は埋納か)したのだろう

169 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 21:56:06.80 .net
魏は漢から禅譲されたんだから建前上継続してる
漢委奴國王の印が押してあれば倭国王からの書状として受け取るんじゃないかな
そして王朝が交代したので親魏倭王の印を新たに与える。

170 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 22:00:04.15 .net
私は、
漢委奴国王が筑紫王で、
親魏倭王が肥国王だと考えています。

4世紀ころに久留米での激戦の末筑紫が勝利し
肥国は筑紫国に従属しますが。

171 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 22:06:18.93 .net
>>169
あ、ほんとだすみませんでした
晋が魏から禅譲されて、漢から魏は無関係と勘違いしていました
だとすると逆に金印が志賀島から出土したのは謎ですね

172 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 22:09:03.52 .net
520 名前:日本@名無史さん [age] :2015/01/23(金) 16:58:43.06
>>518水系が違っていても、近くまで川が来ている場合、山越えの必要はない。
少なくとも宝満川と衣笠川は徒歩数分圏内

595 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:44:38.96
この川か。
筑紫野市紫2丁目付近だけど、思ったより水があるな。
http://i.imgur.com/zH9Ooir.jpg

一般に、川の水は昔の方が豊富だったそうだけど、これなら
今でも小舟が通れるぞ。

582 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:13:55.51
>>539
御笠川の源流か支流なんだね。

この辺りがあやしい。
http://i.imgur.com/MLlBZJK.jpg

664 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 22:52:40.12
>>661
ここか。
http://i.imgur.com/3tJHuyy.jpg

3から真南、モロに道になってる。これだなwww

173 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 06:53:10.84 .net
>>171
>だとすると逆に金印が志賀島から出土したのは謎ですね

だな、埋める理由などないはず。

あるいは、漢委奴國王の印が押して在ったのであれば、
親魏倭王の印を新たに貰った時に、魏へ返納したはず、、、、、

174 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 07:00:57.38 .net
九州説は老害

175 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 09:41:03.04 .net
>>173
倭国の国号は7世紀まで続いているわけですから
滅ぼされて破棄したわけではありませんよね。

親魏倭王を貰った時に返納する必要が必ずしもないのであれば
不要になった漢委奴國王を志賀島にある国家管理の宗教施設などに
埋納した。

あるいは倭国大乱は
倭国内部での邪馬台国と狗奴国の南北朝対決であって
内紛時に例えば狗奴国側の王族が金印を所有していて
邪馬台国に渡さないために漢委奴國王を埋めた。

176 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 10:21:40.57 .net
金印なら伊都の細石神社の言い伝えはどうなんだろうな。

177 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 11:33:47.33 .net
>>176
細石神社の場所に卑弥呼の墓が在った可能性があるな
漢委奴國王の印は綺麗で埋められていた様な痕跡が無い
江戸時代に細石神社の宝物を志賀島から出土したと偽って金に換えたんだろうな。
>>170
何の証拠もないのにどうしてそんな夢想が出来るんだろう?
>>172
聞き飽きたデマだな、いい加減にして欲しいな。
筑紫野市紫2丁目付近の写真なんて堰に溜まった水じゃないかw

178 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 12:33:05.86 .net
170 名前:日本@名無史さん :2016/06/18(土) 22:00:04.15
私は、
漢委奴国王が筑紫王で、
親魏倭王が肥国王だと考えています。

そう考えると、倭人伝の記述はすんなり納得できるな。

179 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 12:55:01.82 .net
>>175
朝鮮人が、倭国になりすますために倭国と名乗っただけだろ。
すぐに、朝鮮半島の地名だった「日本」に変えてるし。

180 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 12:56:01.78 .net
93 名前:日本@名無史さん [sage] :2016/03/19(土) 17:37:58.37
10 遥か南に広がる倭の世界

 筑紫平野から入ってくる情報は筑後川流域が含まれた可能性が極めて高い事がわかります。筑後川
を挟んだ南北には支流も多く、玄界灘と有明海の移動は竹で組んだ筏で川を移動した可能性を考慮す
ると、御笠川と宝満川(筑後川支流)によってほぼ陸を歩く必要はありません。
 また筑後川は東西にも長く伸びており、現在でも日田では三隈川、玖珠では玖珠川と名前を変え続
いています。三隈川と玖珠川は、やはり山国川・駅館川の上流と接近し周防灘(すおうなだ)と接近
しています。
 つまり玄界灘と有明海そして周防灘は、筏か船かを使い川を移動してよいという条件付であれば、
ほとんど川の移動だけでつながっているのです。もちろん、かなりの重量の荷物も簡単に運ぶ事がで
きました。
http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/a10_minami_hirogaru/photo/minami_sekai.jpg
http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/a10_minami_hirogaru/a10_minami_hirogaru.html

181 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 13:01:20.76 .net
>>177
あのー、、、
漢委奴國王の金印だったら奴国王の墓でしょ、、、

182 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 13:28:49.44 .net
金印は個人に対して贈られるものだから
貰った本人が亡くなると副葬されるか返却するかが基本みたいだね

57年に貰った漢委奴國王は
次の朝貢が107年だから日本で副葬された可能性が高い

卑弥呼の親魏倭王は
卑弥呼の墓造営まで見届けた張政さんが持ち帰った可能性が高いでしょう

183 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 14:03:23.26 .net
>>181
いいえ、
じつは、漢委奴國王の金印は筑紫城から盗まれて、
いつのまにか漢委伊都国の細石神社の宝物になっていたのです。、

184 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 14:11:54.42 .net
「漢委奴國王」
漢音で読みましょう「漢のゐど国王」

185 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 14:16:50.42 .net
伊都と奴は、というか博多湾並びに壱岐対馬は、
57年までには統一されています
壱岐対馬まで含めて統一されたからこそ漢に朝貢できるわけです

186 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 14:19:20.21 .net
統一されていたなら
「漢委国王」でよくね

187 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 14:21:29.20 .net
統一されていることが前提条件ですから
そこから考えると>>184が正解になりますね
漢文的にもそうです

188 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 14:56:59.02 .net
>>182
「漢委奴國王」の印の文面から分かる様に個人の印ではなく役職印
個人に対して贈られたものではない
漢と委奴國が続いている間は使われ続けられる
卑弥呼は最後の漢委奴國王である。
>>181
卑弥呼が親魏倭王となり新たな印を新たに貰ったことにより
漢委奴國王の印は役目を終えた
なので漢委奴國王の印は卑弥呼の墓に埋葬された可能性が高い。

189 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 15:17:30.15 .net
×「漢委奴國王」漢音で読みましょう「漢のゐど国王」

○「漢委奴國王」漢音で読みましょう「漢のゐのど国王」

190 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 15:31:24.23 .net
国外の勢力に金印を与えた例が少ないので(それだけ倭国は特例中の特例だった)
比較資料が少ないですが
BC109年に前漢から南中国の滇王に贈られた「滇王之印」は
王墓(雲南省晋寧県石塞山6号墓)から出土してますね

191 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 15:32:15.40 .net
>>189
のが2つもある様な読み方はないよ
「漢のゐど国王」が正解でしょうね。

192 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 15:39:07.59 .net
漢国内の漢王族向けですが、
漢委奴國王の1年後に作られた「広陵王璽」金印も王墓内から出土してます

193 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 15:48:46.36 .net
広陵王劉胥は謀反の罪を着せられて服毒自殺を命じられて一旦断絶
その後名誉が回復され劉胥の息子が広陵王を継承している
「広陵王璽」金印が劉胥の王墓内から出土したのは広陵王が一旦終わったからだろうな。

194 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 15:52:10.21 .net
そうすると、漢委奴國王の印は、
筑紫城もしくは国王の墓から盗まれたのかな??

195 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 15:53:25.61 .net
>>190
雲南省晋寧県石塞山6号墓の王は最後の滇王のようですね。

196 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 15:55:02.65 .net
◎ 「漢委奴國王」漢音で読みましょう「漢のゐのど国王」

197 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 15:55:22.78 .net
漢委奴國王の扱いとしては
・普通に副葬されて細石神社が管理
・倭国大乱を内乱と考えて奪われないよう志賀島に秘匿
・7世紀に倭国が滅ぼされて破棄

親魏倭王を受け取ったから志賀島に祭祀埋納したのだとすれば
神社などが残っている筈だと思われます

198 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 15:56:22.08 .net
漢音で読んだら「漢の ゐど 国王」じゃないかな

199 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 16:14:20.46 .net
そもそも漢字は表意文字である。
文字の意味が最優先される。

200 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 16:15:07.05 .net
>>198
委奴(倭奴)が一つの単語だよな
漢委奴國王の印の文面を見て
「委奴(倭奴)とは何だ!日本を侮辱している。鋳つぶしてしまえ!」との意見があったので
これは倭(日本)ではなく「倭の中の小国、奴國に贈られた」ものだと誤魔化して保存したんだよな。
委奴(倭奴)は匈奴と同じ様な異民族の呼び名だよな。

201 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 16:18:51.24 .net
涓奴部を消奴加・貫那部とも表記することから
奴と那に互換性があることが疑われる
この掟を援用すると
「漢委奴國王」は(漢のゐな國王)とはなる
どうも奴は那・奶・女との互換性がありそうである
奴のつく國名のところには女酋長がおったのかもしれない

202 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 16:22:21.38 .net
倭人は倭の人、、、委奴は委の奴、匈奴は匈の奴、

203 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 16:26:07.77 .net
>>197
やっぱり江戸時代に金に困った細石神社が志賀島から出土したとして換金した可能性が一番高いな。

204 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 16:38:25.35 .net
国歌に入ってるさざれいしの神社が困ったのかいな

205 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 16:42:02.82 .net
盗品故買を揉み消そうとした結果のが島からの出土でね

206 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 17:01:03.08 .net
漢委奴國王がそれでいいなら江戸時代まで続いたことになり
倭国はしごく平和裏に日本国へバトンタッチしたことになる

207 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 17:17:45.16 .net
>>137にあるように倭国は7世紀まで連続性がある
邪馬壹國が九州に在ったとすると7世紀まで九州に政権が在ったことになる
九州王朝説では700年までを九州王朝の時代、701年からを大和朝廷の時代としている
評から郡に代わる時期であり、大宝の年号が始めて建元されている。

208 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 17:20:38.36 .net
評ではなくて県ではないのですか?

209 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 17:21:25.90 .net
>>204
国家のさざれ石は岐阜県春日村らしい

210 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 18:01:55.90 .net
郡評制ですね。
太宰府から見つかった最古の戸籍の木簡は
評だったから、大和朝廷以前のものと
判断されました。

九州王朝年号と言われる私年号は、
大和朝廷以前の年号で
各種文献2000ヶ所あまりが
確認されています。

実は記紀にも数ヶ所紛れ込んでたりします。

聞いたことがあるかもしれない白鳳時代。
これも世紀の年号にはなく
九州年号にあるものです。

211 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 18:41:39.39 .net
卑弥呼の墓もいいが、
それより先に、「漢委奴國王」の墓はどこに比定してるのかねえ
平原か?
ま、どうせ盗掘されてしまってるんだろうけど

212 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 18:46:02.97 .net
九州年号と言われているものも実は全部大和朝廷のもので、
記紀に記載されていないのは年次操作しているのをバレないように
するため、という説もあるね。

213 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 19:22:31.95 .net
北西九州は方言が似ている、狗奴国の名残であろうか。

214 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 19:31:23.97 .net
>>210
九州主体か畿内主体かの判別はできるのでしょうか?

7世紀にもなると畿内大和朝廷の支配が九州にも及んでいて
大宰府の戸籍記録がたまたま出土しただけ
という可能性は否定できないかと

215 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 19:52:47.40 .net
年号も行政区分も大和朝廷と重なってくるので
九州と畿内に別々の国家があったと考えるよりは
どちらかが主体でどちらかが従属であったと考えるべきかと思われます

216 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 20:04:59.82 .net
郡評制を考えると先に九州が評制を取り、
それを引き継いた大和朝廷が、
郡に切り替えたと見てよいでしょう。

たしか、大和朝廷が郡に変えた
という通達も記録が残っていたはずです。

217 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 20:11:26.91 .net
このスレとして重要なのは、郡評制が「いつ導入されたのか」だと思われます
記録が出土しない以上決めがたいのですが、、、

硯の出土、金印のやり取りから
北部九州は紀元前から文字を扱っていたことは確実になっています

だとすれば
文字や銅鏡などの文化、矛などの武器、などと同時に、
先進国である漢の「行政制度」も導入した可能性は非常に高いでしょう
魏志の記載以外に行政制度の導入の証拠も欲しいところですね

218 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 20:12:38.23 .net
>>216
評を郡に切り替えた通達も記録も残っていないので郡評論争があったんでしょ
日本書紀によると大宝の年号が建元なのに、それ以前の年号は改元とされている
しかも、年号がとびとびになってる
大宝以前の年号は九州年号の一部が紛れ込んでしまったといわれてるね。

219 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 20:15:57.89 .net
邪馬壹國が何処に在ったかで日本の歴史観が大きく変わるんだよな
通説の人が畿内説に拘る理由はそこにある。

220 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 20:26:38.04 .net
>>219
何処にあったかでは変わらないよ
戦前は九州発が当たり前でみんな暗唱させられてたんでしょ
場所では何も変わらない

ただ○○家がどう関わったかでは大きく変わることもありうるから
一部はタブーに近い問題ではあるよね

221 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 20:29:30.70 .net
>>218

大化の改新で郡に切り替えたとされているけど
実際には残った記録には、大宝以前は
評ばかりで切り替えた形跡がないという
話ですね。

8世紀の大宝以降は大和朝廷が
主導していることがわかりますが、
それ以前は年号が途切れたり
矛盾があったりするので、
まだ不完全だったことがわかります。

ちなみに九州年号は大宝の直前で終わります。

222 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 20:46:45.93 .net
なるほど。評はこおりと読むのか。だから筑紫の小郡はおごおりと読むのか。。

223 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 20:52:57.23 .net
日本書紀の最後辺りでは評が郡に書き換えられてるのが確実になった
書き換えられてるのは評と郡だけではないことは確実で
ある程度信用出来ると考えられてた日本書紀の最後辺りが一番改竄が酷いことが明らかになりつつある。

224 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 20:56:01.96 .net
なんのための開祖?

225 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 20:58:28.66 .net
……………………
真田一門も上田で戦った天下分け目の関ヶ原
関ヶ原の戦いの古戦場(石田三成の布陣跡)から見た超高速で走行する東海道新幹線の上下線

https://www.youtube.com/watch?v=dh4RDk--K3Y

……………………

226 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 20:59:42.74 .net
大阪市中央区前期難波宮跡から「戊申年」(648年)の紀年銘木簡の他に「秦人国評」などの木簡が出土しているらしいが、隋書倭国伝の又東至秦王國。其人同於華夏〜(また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、〜。)と関係あるのかな。。

227 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 21:18:39.19 .net
大化の改新で評を郡にきりかえたが
実際には変わった形跡がないという。

実際に変わり始めた大宝に
大化の改新があったのか?

または、大宝以前は影響力がなかったか?

228 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 21:29:56.21 .net
関西は県によって特徴が異なるから
邪馬台国時代のクニ別に分かれていた雰囲気を残してるとのたまう輩がいるが
福岡県は福岡市を頂点にして市町村レベルで争ってるよね
その嫉妬心や競争心は異常で日本唯一
ある意味うざいけど

229 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 21:31:37.87 .net
日本書紀だと最初から郡で評なんて出てこない
九州年号だと大宝の直前が大化

230 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 21:33:47.55 .net
小さな郡(おごおり)があるなら近くに大きな郡とかないのかな。。

231 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 21:36:19.95 .net
小郡の女は誇り高く鼻を上げて歩くよ

232 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 21:40:55.75 .net
>>229

本当の歴史は大化でクーデターを起こして
大化の改新。

直後に大宝を建元して大和朝廷成立か?

233 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 21:43:03.66 .net
>>232
そうだろうな。

234 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 21:45:26.63 .net
大和の六県は?

235 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 22:22:54.82 .net
>>182
副葬なら、海辺の石の下に隠すわけないだろ。

236 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 22:55:13.81 .net
>>235
うん。だから>>197

237 :日本@名無史さん:2016/06/20(月) 08:08:33.65 .net
九州王朝説スレ?

238 :日本@名無史さん:2016/06/20(月) 08:42:25.89 .net
「倭国六県」がどうかした?

239 :日本@名無史さん:2016/06/20(月) 09:55:20.48 .net
<北部九州・筑紫王家 >

糸島伊都国説は、志賀島から出土した「漢委奴國王」の金印は、かって糸島伊都国内の
細石神社にあったと主張しているようだ。それはよいとして、では「漢委奴國王の墓」は
どこにあったのか。
これをさておいて、「独立国であった糸島伊都国」の存在を語っても説得性に欠ける。


< 筑紫王家の丘(墓地群)>

エジプトの王家の谷になぞらえて言えば、博多湾の西南丘陵地帯に集中する平原遺跡、
須玖岡本遺跡、三雲南小路遺跡などの遺跡群は、まさに北部九州奴国を治めた筑紫王
家の丘(墓地群)だったように思える。そして「糸島伊都国」も、じつは「独立国」で
はなく、その奴国王家の墓地が置かれた主邑の一つだったのではないか。

このように「博多湾岸を取り巻く漢の委の大奴國」の視点で眺めれば、その王墓は、上記の
遺跡群のどこかにあったと推定され、とりわけ細石神社が守護神となっている三雲南小路
遺跡こそ、「漢委奴國王の墓」が営まれた地ではないかったかと思われる。

240 :日本@名無史さん:2016/06/20(月) 10:19:38.44 .net
>>239
奴国や伊都国が当時の倭の中心だったと思うのは同意。しかし王家の谷ならかなり内陸部になる。卑弥呼の墓ももっと内陸部じゃないだろか。荒らされにくいとこがいいはず(妄想です)。。

241 :日本@名無史さん:2016/06/20(月) 10:44:26.76 .net
>>240
そのとおりだ
だからこそ、その内陸部にあるという王家の谷を探し出さなくてはならないのだ。

242 :日本@名無史さん:2016/06/20(月) 10:55:47.27 .net
弥生中期だと吉武高木遺跡は、
博多湾から見て内陸で山沿い。

太宰府そのものが博多湾と有明海の
中間部で内陸といえば内陸かね?

243 :日本@名無史さん:2016/06/20(月) 10:57:09.31 .net
伊都と那珂(奴)あたりばかり言われてるが間にある早良区の金武吉武あたりや西区の野方あたりはどうなんだろ。。

244 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 09:58:25.75 .net
大化のクーデターも12か所に門が設置されていた藤原宮で起きた事件だな。

245 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 10:13:31.23 .net
藤原宮は1q四方もあり12の門が在ったのも頷けるが
飛鳥宮は30m四方で宮殿だからな12の門なんて必要ないな。

246 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 15:39:45.19 .net
宮都と宮殿の違いがわからない馬鹿者発見

247 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 15:45:20.18 .net
>>246
藤原宮は1q四方もあり、中に宮殿や官庁が在り門も12在った
飛鳥宮は30m四方で宮殿だけ、官庁が無く門も12は無い。

248 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 18:53:43.50 .net
>>240

倭奴國=ヰド國=イト國=伊都國

249 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 19:14:13.97 .net
レベルの低い連想ゲームにすぎぬ

250 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 19:17:27.01 .net
  
1世紀の倭奴國と3世紀の伊都國は全くの別物

1世紀倭奴國は博多湾岸、その王は金印の王。

3世紀伊都國は佐賀平野、その王は帥升王統の王。
3世紀伊都國の別名は、倭面土國と米多國の二つ。

251 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 20:00:02.26 .net
面土國=ミト国=イト国=伊都国

252 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 21:03:52.07 .net
面土國=メタ国=米多国

253 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 21:14:02.22 .net
面土國=メタ国=米多国=メト国=ミト国=イト国=伊都国

254 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 21:44:02.37 .net
大宰府に在ったのは、「漢の委の奴国」の筑紫城だったのだろう

糸島地方もその勢力範囲内にあり、平原や三雲は、奴国の「王家の谷」だったのに、
それを倭人伝の「伊都国」と早とちりしたのが古い説

255 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 22:00:51.40 .net
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州


(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書)

256 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 23:27:40.22 .net
>>247
大宝から律令制が行われ
それ以前は官僚もいなかったんだ
突然に藤原宮に官僚群が出現する
大化改新は幻だな。

257 :日本@名無史さん:2016/06/22(水) 23:33:32.33 .net
臣、連は官僚じゃねーの

258 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 02:37:28.52 .net
貴族でしょう

259 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 12:25:05.04 .net
大化以後に官僚になったのも貴族でしょ

260 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 12:38:19.38 .net
大宝からわりときっちりと律令制と官僚制が行われたところを見ると、
九州王朝勢の官僚がそっちに移ったんだろうな。

ゼロから作っていきなり整備充実させるのは不可能だ。

261 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 14:18:51.02 .net
×九州王朝
○百済

滅亡した百済からの亡命者が大宰府に行って日本初の文字による行政記録を開始
それを大和でも取り入れて大宝律令

262 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 17:13:56.91 .net
百済には官僚がいたのに、同時期の日本にはいなかったのか?

263 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 17:30:27.71 .net
>>259
貴族というより豪族じゃない
豪族(貴族)が落ちぶれて官僚になった
当時の豪族(貴族)は官僚になれるほど教養が高かったのかな
教育は何処で受けたんだろうな?

264 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 18:08:46.79 .net
教育も含めて大和朝廷以前に
官僚を育成できる環境があったということだな。

265 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 19:37:34.89 .net
http://img.hani.co.kr/imgdb/resize/2012/0607/00432833701_20120607.JPG
▲昨年7月、中国西岸骨董市場で発見され現地学術誌に公開された百済人「祢軍」の墓誌銘拓本。

今日の日本の国号が本来、百済の土地を称する言葉であり、国号成立に百済人らが関与したと
いう学説が提起された。

7世紀の百済滅亡期、義慈王と唐に投降して官吏になった後、日本に使節として派遣された「祢軍
(禰軍)」(613〜678)という人物の墓誌銘の文章に彫られた「日本」の文字が現在の日本の国号で
はなく百済の他の表現という根拠が見つかったという。この様な主張をしたのは日本古代史学界
権威である東野治之(とうの はるゆき)大阪市立大教授だ。


墓誌銘の「日本」は祢軍が日本に使節に行った背景を書いた部分に登場する。「660年官軍(唐
軍)が私たちの蕃国(百済)を平定した日…日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ、風谷に
残った輩は盤桃を信じて堅く抵抗した…」という内容だ。

文中の「日本」を既存学界は公式国号と見たが、東野教授は「技巧を凝縮させた墓誌銘の文章と
見れば決して国号とは見られない」と否定した。墓誌銘に記録された当時、百済など中国の周辺
国は国号を使わず、扶桑・風谷・盤桃など自然環境的特徴に基づいた隠喩的名称を使ったが、唯
一、日本だけ公式国号を使ったはずがないという論旨だ。

墓誌銘の「日本」は中国から見る時「日が昇る所」という意味ですなわち百済を示すということだ。
彼は「墓誌銘で実際、倭国(日本)は‘ヘジュァ(海左:海東側)’、‘ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記さ
れたと推定される」として「当時、国号が存在したとすれば書いた人は日本という表記を使わなか
っただろう」と主張した。

ハンギョレ新聞(韓国語) 「日本は本来百済の土、称する言葉だった」
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/536435.html

266 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 20:26:01.75 .net
黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!


赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。


それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。

台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。

赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。

gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3)


267 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 22:07:57.72 .net
>>262
そうだよ(率直)

少なくとも文字で記録をつける習慣がなかったのは確か

あとカタカナのナは百済の木簡から見つかった那の略字体が起源

268 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 22:43:36.81 .net
>>267
倭人伝の中にも倭人が文字を使っている記述があるし、伊都国では硯も発見されている
3世紀には文字を使っていたのに7世紀末まで文字で記録をつける習慣がなかったの!

269 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 22:45:39.79 .net
文字の出土状況

3〜4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。

5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめ、はらえなどを
意識していない、でたらめな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。

6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。

7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。

8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。

270 :日本@名無史さん:2016/06/23(木) 23:59:33.66 .net
>>268
記紀に文字を読める人間が現れるのは応神期から(菟道稚郎子が高句麗の出した「高麗が日本に教える」と書かれた手紙を見てブチ切れて破ってた)
漢字はその数の多さと形の複雑さと表意文字であることによって、体系的な学習をしなければ文章が書けない
実際に漢語の文章を書いていたのは伊都国に駐在した帯方郡の役人だろう

271 :日本@名無史さん:2016/06/24(金) 05:30:53.44 .net
 中国の史書「魏志倭人伝」が記す伊都いと国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、
国内最古級の硯すずりの破片(弥生時代中期後半〜後期=紀元前1世紀〜紀元後2世紀)が出土
した。朝鮮半島にあった中国の出先機関・楽浪郡らくろうぐんから日本に渡来した使節が、筆で
文字を書くために使用したものとみられ、わが国の文字文化受け入れの起源を考えるうえで重要
な手がかりとなる。

 倭人伝は伊都国について、「往来する郡使が常に駐在する所」と記し、「(伊都国の)港で贈答
する文書や品物の検査を行う」と、文字の使用を示唆する記述もある。市教委は、今回の硯は倭人
伝の記述を裏付けるものと評価している。

読売新聞 2016年03月02日
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20160302-OYS1T50000.html
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160302/20160302-OYS1I50000-L.jpg
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160302/20160302-OYS1I50001-L.jpg

272 :日本@名無史さん:2016/06/24(金) 12:17:24.41 .net
硯に「伊都国府」の署名刻印でもあったのかな、
そりゃ、まことにめでたいこっちゃ

273 :日本@名無史さん:2016/06/24(金) 12:31:29.91 .net
>糸島市の三雲・井原遺跡で、弥生時代後期(1〜2世紀)のものとみられる"すずり"の破片が出土した。
>この現地説明会には、多くの古代史ファンが集まり、テレビ局も数社取材に来ていた。
>発見された番上地区の場所は、弥生時代中期からおよそ200年にわたり土器が捨てられた「土器溜り」
>である。
>破片は6cm×4.3cmほどだが、その形状から"すずり"と判断された。その根拠のひとつは、砥石であれば
>全面を研磨するが、これは表面だけが研磨され、裏面は粗いままである。厚さ6ミリのうすい板状で
>あることから、中国・漢代に使われたすずりの形状だという。
>弥生時代のすずりの発見は、松江市の田和山遺跡に次いで2例目のようだ、、、。

274 :日本@名無史さん:2016/06/24(金) 20:52:51.01 .net
田和山遺跡のは投馬国にいたのが使ってたのか

275 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/07/03(日) 23:22:46.67 .net
奴国を他所へ退かさにゃならんから所詮無理。これに尽きる。
まぁ、非畿内説は北部九州だろうが他の九州のどこぞだろうがエジプトだろうが、無理だがね。
さりとて、宝籤じゃないんだから当たってりゃエエってモnではない畿内説にも困ったもんだがね。

276 :腹本勲:2016/07/03(日) 23:48:27.92 .net
昨年末、安達弘志氏が「卑弥呼は満鮮にいた」という本を出版し、
卑弥呼の意味、漢籍に記された壱與の名とその業績などを解明した。
山形明郷の説を「卑弥呼満鮮説」の初歩編、或いは入門編として古代史の真実の海に漕ぎだし、
安達氏の「卑弥呼は満鮮にいた」を決定的解明編として真実の結論に至る。
そして邪馬台国問題は終了したのだ。

277 :日本@名無史さん:2016/07/04(月) 17:01:48.11 ID:KNp6LkqXw
551 名無しさん@1周年 2016/07/04(月) 15:53:27.54 ID:jIAU8FNV0
>>547
>韓国の教科書から。「大百済帝国」の領土について。

「百済、高句麗、新羅」の「三国時代」のことは学んだが、「大百済帝国」というものが存在し、
その当時、日本が「奈良百済」という名で百済の一部になっていたことは知らなかった。

九州、四国、関西地方はもちろん、関東も私の田舎の茨城のあたりまで完全に「大百済帝国」
の領土であり、「奈良百済」と呼ばれていたようだ。その殖民地「奈良百済」の首都が奈良だっ
たらしい。日本が統治していた朝鮮のそれが「京城」であったように。

とすると、独立した朝鮮が「京城」を屈辱の名として「ソウル」と改めたように、日本も朝鮮の領土
だった過去の屈辱を消すために、「奈良」は名を改めほうがいいんじゃないか。<

驚くべき、朝鮮の嘘の歴史教育!wwww

278 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:03:18.56 .net
銅製品というのは管理に非常な手間のかかるものである。

銅はすぐに錆びる(酸化)
銅は汚れると緑青(ろくしょう)を生じる

鉄と銅を比較した場合
鉄は錆びると腐食して、いずれボロボロに崩れ去るが
銅は錆びても緑青を生じても、それが被膜になって内部の地金は保存される

銅の錆びや緑青はなんとか落とせるのだが、当然そのぶんすり減ってしまうから
銅製品では十分に手入れして、あらかじめ錆びや緑青を生じさせないのが肝要

金と銅を比較した場合
金はゴールドとして永遠に輝き続けて、メンテナンスフリーであるが
銅の色彩は錆びによって継時的に変化していく
さらに銅は手入れしないといずれ緑青に覆われてしまう

279 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:03:47.38 .net
簡単に言うと
銅製美術品というものは
時間と共に色彩が変化していくのを楽しむのが醍醐味なのである。

そのスパンは「一生物」
つまりしっかり手入れすれば50年は楽しむことができ、超高級骨董品は100年を超えていく。

作りたての頃は、黄銅色や白銅色、そこからまろやかな飴色などを経て、含有する錫の比率にもよるが、様々な色彩を採りながら、最終的には黒銅色に落ち着くことが多い。

ただ問題は管理が大変。
水気や汚れは厳禁。

指紋をつけて2,3時間でアウト。
生じる錆びが、いずれ醜いシミとなる。

汚してしまうと緑青を生じる。
緑青を生じた10円玉の醜さに、思わず触れるのを躊躇した記憶は誰しも持っていることだろう。

280 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:04:25.60 .net
ちなみに、緑青(ろくしょう)が進行して完全に覆われてしまうと、ブロンズ色で統一されるため、
これを逆に利用するのがブロンズ像や、銅製の屋根などである。

緑青に覆われてしまうと、これで守られて腐食しないため、メンテナンスフリーで長期間形状が保たれる。

自由の女神、鎌倉の大仏、などを連想する方も多いだろう。

だがこれはあくまでブロンズ目的の場合であって、
銅本来の色彩変化を楽しむのとは全く異なる用途である。

尚、いかにも体に悪そうな緑青だが、実は人体に無害であることが判明している。

281 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:05:20.61 .net
銅鏡はどちらなのだろうか?

「銅鐸」というのは後世の我々が勝手に名付けた名前だが、
「銅鏡」というのは魏志倭人伝を初めとする当時の文献に記載された本名である。

銅「鏡」と書かれているからには、光を反射しなければならない。
緑青に覆われてゴテゴテしたブロンズの塊ではありえず、
丁寧に手入れされてきた銅製美術品でしかありえないだろう。

中国文明は殷の時代から高尚な青銅器美術品を多数輩出してきた。
当然のことながら現代に通じる銅製品の色彩変化美に精通していた筈であり、
銅鏡もその流れを組んでいるわけだ。

また、物証もある。

これは日本に存在する、おそらく地球上唯一の伝世銅鏡である、
元伊勢籠神社の息津鏡(後漢鏡)と辺津鏡(前漢鏡)。

古い方の辺津鏡には緑青がついていない。
そして辺津鏡は摩耗していない。(緑青を落としてきたわけではない)

これは驚くべきことである。
銅鏡は手入れをしない限り、緑青に覆われてしまう。
ということは、辺津鏡は前漢時代に作製されてから現代にいたるまで、途切れることなく手入れをされてきたことを意味しており、
すなわち古代においても銅鏡は
緑青が生じないように、しっかりと手入れして、
銅本来の色彩変化を数十年、下手をすると数百年にわたって楽しむという
奥深い美術品だったことを示している。

282 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:05:51.54 .net
本来の舶載銅鏡は、一つ一つ職人の手作りで製作され、
指紋一つ付けない厳正な手入れを続けて素晴らしい色彩変化を楽しむ。
そんな戦国の「茶道」にも通じる、「銅鏡道」とでもいうべき嗜みの必要とされる、
高級美術品だったのだろう。

結露で水滴が着いたらアウト。
しみだらけになってしまう。

高温多湿の日本。
当時から正倉院の校倉造りのような湿度調節設備があったのか。
それとも神棚のような高い場所に保管して、絹布でマメに手入れしていたのか。

ちなみに絹布で手入れするにしても
素手で絹布をもって銅鏡を拭いた場合、絹布についた汗を銅鏡に刷り込むことになり、
銅鏡の色彩変化速度を速める効果、あるいは緑青を生じる危険を高める。

手袋をして絹布をもって銅鏡を拭けば、銅鏡を綺麗に磨くことができ、
しみのないまろやかな色彩変化をゆっくりと楽しむことができる。

283 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:06:12.00 .net
卑弥呼様の銅鏡保管室。

どんな光景をイメージするだろうか?

一)出土銅鏡みたいなブロンズ銅鏡がずらっと並ぶ光景。

銅製品愛好家にとっては銅製品の墓場である。

手入れもされず放置された可哀想な銅鏡達が並ぶ悲惨な光景であり、
これはありえない。

二)新品の黄銅色に輝く銅鏡がずらっと並ぶ光景。

銅製品は刻々と色彩を変化させていく。

よって、この光景を維持するためには、常に新品の銅鏡を仕入れ、
色の変わった銅鏡は捨てることになる。
ありえない。

284 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:06:53.09 .net
三)色とりどりの銅鏡が並ぶ光景。

これしかないであろう。

副葬品に金銀が増えるのは4世紀から。
それまでは銅製品を極めるのが倭人社会の最高級の嗜みだった。

卑弥呼様に特別な許しを頂いて銅鏡保管室を覗いてみよう。

入口付近には邪馬台国で鋳造されたばかりの黄銅色の銅鏡が並んでいる。

卑弥呼が産まれた時に鋳造された銅鏡は今は深い紫色に染まっている。
赤紫と青紫が絡み合って得も言われぬ美しさだ。
こちらの銅鏡は巨大だ。50センチ近くはある。
鋳造してから3年くらいか。まろやかな飴色にわずかな色彩帯が走る。

色とりどりの銅鏡達の更に奥にあるのは、はるか紀元前の前漢鏡。
この頃はまだ銅鏡の扱いを知らなかったのだろう。
何度も緑青などを落としたと見えて、紋様がすり減って読み取れなくなっている。
しかし同じ前漢鏡でも、こちらの前漢鏡は違う。
倭奴国王が貰った由緒正しき前漢鏡で、伝来してこのかた
代々の王家付き銅鏡管理人によって手入れされ、
今では黒光りする最高級の一品に仕上がっている。

285 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:08:02.88 .net
このように多様な色彩変化を楽しむのが銅製美術品の醍醐味。

ここで当時の状況を考えてみる。

後漢は滅びた。
そして公孫氏が遼東半島に進出。

倭人文化人の憧れである漢鏡の入手ルートはここに完全に途絶えたわけである。

それに対応して発達したのが仿製鏡(国産鏡)

漢鏡を模して造られる国産鏡の数々。

元々銅製品の作製技術に優れた倭人は、高品質の銅鏡を作り始め、
舶載鏡と見分けのつかないくらいの銅鏡や
本場を凌駕する大型銅鏡を作り始める。

そしてそれらを絹布で毎日何度も拭き拭きする担当の巫女たち。


後世の我々は、魏が呉蜀を滅ぼして、比較的短い間であったが、
中国の覇者となったことを知っている。

だが、卑弥呼達にとっては、公孫氏を倒したものの、まだ三国で戦争中の大国の一つでしかない。

親魏倭王の金印はもちろん重要だが、
卑弥呼にとって何よりも欲しかったのは何か?

それは「漢鏡」だろう。

286 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:08:33.39 .net
魏は漢の宝物庫を受け継いでいる。
その宝物庫には漢鏡が大量に保管されている。

銅鏡愛好家の卑弥呼は名指しで漢鏡を要求したに違いない。

287 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:09:00.85 .net
一方の魏は銅鏡愛好の習慣が無かった可能性が高い。

祖である曹操の墓には銅鏡が無い。
その後の皇帝の墓にも銅鏡は無い。
魏そのものが銅鏡に熱心ではなく、魏鏡も日本から余り出土しない。
これは戦乱で銅を鏡などに使う余裕がなかったのかもしれないが。

魏の皇帝は、漢の宝物庫を引き継いだはいいものの、
毎日毎日銅鏡を拭き拭きしている管理人たちを鬱陶しい、あるいは管理費が無駄だと考えて、むしろこれ幸いと出血大放出で100枚もの大量の漢鏡を卑弥呼へ贈ったのではなかろうか。

大切に管理してきた銅鏡を、辺境の異民族に100枚贈らされた管理人達は呆然としたことだろう。

が、
結果的にはその銅鏡達は、銅鏡の扱いを極めつくした「銅鏡道」の達人たちに受け取られ、
その中の2枚は現代まで伝世されることになるのだが。

288 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:10:14.37 .net
海路運ばれる途上で、銅鏡が海風を吸い込まないように、
厚紙に挟まれて、吸湿剤入りの容器に密封されて運ばれてきた。

50年物や100年物の漢鏡が100枚。

ずっと漢皇帝そして魏皇帝の保管庫で専門の管理人に手入れされ続けてきた、
逸品中の逸品が100枚。

ずらっと並んだ最高級銅鏡。
様々な色を裏に内包しながらも、妖しく黒光りする銅鏡の数々を目にして、
卑弥呼はもう狂わんばかりに喜んだに違いない。

289 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:10:58.32 .net
卑弥呼に贈られた銅鏡100枚について

銅製美術品について造詣が深ければもう明らかだろう。

自らも高級銅鏡を作成できる3世紀の邪馬台国卑弥呼にとって
50年もの100年ものの漢鏡(漢倭奴国王の系譜を証明)
>>>>>新興の魏の新作銅鏡(逸品なら今から育てるのはありかな)
>>>>>>>>
>>>>>>>>
>>>>>>>>楽浪郡で急きょ作る出来の悪い同范鏡(侮辱レベル)

「親魏倭王」金印を与えるほどの別格待遇を与えた卑弥呼に対して
(韓の王達は銀印止まりで、卑弥呼は本当に特別待遇)
魏が贈るプレゼントで釣り合うのは50年物100年物の漢鏡

これしかない

(ちなみに魏鏡は出土しない=貰っていない)

290 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:11:36.30 .net
私見では
平原遺跡こそが卑弥呼の墓

出土する銅鏡に含まれる漢鏡が魏から貰った100枚の中の1,2枚だろう

そして元伊勢籠神社の息津鏡(後漢鏡)と辺津鏡(前漢鏡)の両方(あるいは息津鏡のみ)が
卑弥呼から贈られたものだろう


卑弥呼は邪馬台国の王であり政治家。

狗奴国と争っている最中だ。
いくら貴重であっても、贈られた漢鏡全てを手元に置いておくよりは
それを各地の首長に贈って味方につける。

長らく供給が途絶えていた大陸からの銅鏡。

それがいきなり50年物の後漢鏡や100年以上の前漢鏡。

受け取った側は目を見張り、配下の者は集まってため息をつき、
近隣の首長もこぞって見学に訪れただろう。

戦国の最高級茶器は、一国を引き換えにしてでも手に入れたいと言われた。

同じく、中国の保管庫で長年最高級の手入れを受けて、
黒光りする最高級銅鏡は、一国を引き換えにしてでも手に入れたい最高の逸品であり、
卑弥呼、そして邪馬台国の威光を知らしめるのに一役も二役もかったに違いない。

291 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:12:09.39 .net
平原遺跡の銅鏡は全て割られていた

出雲の事代主は呪詛として逆手をうった(この世の逆の拍手=あの世へ池)
イザナギが迎えに行ったあの世のイザナミは腐乱(当然だが死者は逆の姿)
卑弥呼は鬼道使い
卑弥呼は奴婢を殉葬させた(死んだ奴婢はあの世では生きて卑弥呼に仕える)

これらのことから、卑弥呼の宗教的概念として、
この世で壊れているものは、あの世では綺麗な姿と考えて、
自らが死んだら、大切にしてきた銅鏡を破壊して副葬せよと命じたと思いたい。

だがそれは推測に過ぎない。

ではどうすれば確かめられるか?

平原の出土銅鏡の緑青を調べればよい。

@銅鏡がまず割られて、そのあとに緑青が包んでいる
1卑弥呼が育ててきた銅鏡を、亡くなった時に倭ってから副葬した
2卑弥呼と共に普通に副葬された銅鏡を、緑青がつく前に墓を暴いて割った

A銅鏡に緑青がついて、そのあとに割られて、割られた部位にも緑青がついた
・卑弥呼の死後、相当年数がたってから緑青に包まれた銅鏡が割られた


卑弥呼の後も、倭国は倭の五王など続いている。
倭国内での内乱を考慮しても、台与までは少なくとも卑弥呼派だろうから、
卑弥呼の死後少なくとも50年は暴かれることは無い筈。

よって@-2は消えることになり、緑青の状況を調べれば、
@-1なのかAなのかが判明する

292 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:14:05.33 .net
緑青で包まれた銅鏡は、化学反応が停止する。

銅鏡を製作(手入れ開始)

↓日本へ伝来

銅鏡の手入れを続ける(緑青をつけずに色彩変化)

副葬(手入れの終了)

緑青付着

固定化

盗掘されていない墓=外的環境変化受けていない墓
から出土した銅鏡については
緑青が生じるまでの期間を算定することが可能なはず(緑青時間と仮定する)

すり減ってない銅鏡=きちんと手入れされていた銅鏡
については、
緑青の下の、地金との間の被膜の状態を調べることで、
製作されて、手入れされて、副葬されて、最終的に緑青がついて
化学的に固定されるまでにどれくらいの時間が経過していたのかを算定できるはず
(最終被膜時間)

最終被膜時間から緑青時間を引けば、
銅鏡が作られてから、墓に埋葬されるまでの時間が求められる

銅鏡が作られた年代は絞り込めるのだから
墓の埋葬時期を推測する手段になる

この手法を確立して第一人者になれば、一生食うのには困らない

293 :日本@名無史さん:2016/07/07(木) 23:52:17.51 .net
邪馬台国と狗奴国の関係を、倭国内の王統争いと考えて
「漢倭奴国王」を狗奴国関係者が所持していて
邪馬台国に奪われないよう志賀島の巨石の下に隠したと考える

卑弥呼が
ライバルの狗奴国に対抗して倭国主系統を主張したくても
肝心の「漢倭奴国王」金印が無い

その代わりとなるのは
邪馬台国時代には次世代の有力候補に過ぎない魏から貰う
親魏倭王の金印ではなく

漢の時代から50年100年手入れされてきた
「活きている」漢鏡

黒光りする漢鏡こそが卑弥呼の正統を証明する極上の逸品であった

294 :日本@名無史さん:2016/07/08(金) 00:25:13.62 .net
国≠クニ クニ=市町村
例:日本国の中に、山城のクニや、筑前のクニ、吉備のクニ

<地理編>
帯方郡
↓海岸水行七千里
狗邪韓クニ(倭人投馬国へ入国)
↓海渡千里
津島クニ(島の大きさ分の四百余里×2を迂回)
↓海渡千里
一支クニ(島の大きさ分の三百里×2を迂回)
↓海渡千里
末盧クニ(邪馬台国本土へ入国)
↓陸行五百里
伊都クニ(女王所在地)
↓(東南)百里
奴クニ(邪馬台国中枢)
↓(東)百里
不弥クニ(外国使節逗留所)

<日程編>
帯方郡
↓(南)水行20日
投馬国(朝鮮半島南部に到着)
↓(南)水行10日・陸行1「日」
邪馬台国(中心都市の奴クニへ到着)

イギリスへ行く旅程=ロンドンへ行く旅程、フランスへ行く旅程=パリへ行く旅程
邪馬台国へ行く旅程=奴クニへ行く旅程

<総距離>
奴クニまで、〆て一万二千里でした

295 :日本@名無史さん:2016/07/08(金) 00:25:57.78 .net
<邪馬台国の中央集権体制>

地方行政
対海郡 主:卑狗  副:卑奴母離
一大郡 主:卑狗  副:卑奴母離
奴郡  主:兕馬觚 副:卑奴母離 (ニューヨーク)
不弥郡 主:多模  副:卑奴母離
他20郡


伊都(ワシントン)
 <政府>
  女王:卑弥呼
  政府役職:伊支馬(壱岐関係)彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮(奴関係)

 <首都高官>(伊都知事・副知事)
  主:爾支 副:泄謨觚 副々:柄渠觚
  
 <一大卒>軍事・外交・貿易担当省
  ↓監視
 投馬国(半島南部・任那)  主:弥弥 副:弥弥那利
 狗邪韓郡(加羅=伽耶) 投馬国内の宿場港

296 :日本@名無史さん:2016/07/08(金) 00:34:31.12 .net
銅鐸について考える

>引用

•畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大となり、しかも、突然、その伝統を絶つ。

•銅鐸は、つねに、人目につかない谷問の斜面や、山腹などに、とくべつな施設も なく埋められた状態で、発見される。

•銅鐸は、弥生式時代の住居のあとから、出土した例がない。

• 古い型式の銅鐸は、磨滅した状態がみられ、長年伝世されたあとに埋められたようにみえる。

•新形式のものには、鋳造してから、すぐ埋められたようなものもある。

•新旧の銅鐸が、いっしょに埋められている例も多い。

•銅鐸は、祭器であったといわれている。しかし、他の祭器といっしょにみいだされる ことはほとんどない。

•徳島県麻植郡牛島村出土の銅鐸のように、ことさらにうちこわさ れたとみられるものもある。

•銅鐸の発見は、予測は困難である。これまで出土した銅鐸のほとんどは、農耕などのさいに、偶然みいだされている。

これらの前提条件を元にしながら考えてみよう

297 :日本@名無史さん:2016/07/08(金) 00:35:10.40 .net
まずは、銅鐸が銅製品として嗜まれたのか、ブロンズ製品として扱われたのかである

この答えは明らか

> 古い型式の銅鐸は、磨滅した状態がみられ、長年伝世されたあとに埋められたようにみえる。

ブロンズ製品として扱っていたのなら、
鋳造して放置して緑青で覆われ、
そのまま安定して摩滅することはない

よって
銅鐸のあるべき姿は、緑青の無い姿であり、
こびりついた緑青を削り落としてきた結果が、摩滅ということで確定。

銅鐸はブロンズ製品でなく、活きた銅製品として扱われた。

絹布の無い、除湿設備の無い、銅鐸民族は、
懸命に銅鐸を手入れしながらも生じる醜い緑青を
その都度丁寧に除去していたのだろう

298 :日本@名無史さん:2016/07/08(金) 00:35:54.57 .net
活きた銅製品としての銅鐸。

初期の銅鐸は鳴らす銅鐸であるが、
次第に巨大化して観る銅鐸になる。

巨大化するにつれて管理は難しくなるはずである。

その管理はどうするのか?


屋外は論外。

では巨大な銅鐸を屋内に安置した場合。

結露する。
→醜いシミがつきまくり。

祭りで使いたくても、悲惨な有様となった銅鐸であれば、
祭り気分吹き飛んでしまう。

299 :日本@名無史さん:2016/07/08(金) 00:36:18.97 .net
その解決策が埋納である。

乾いた土中に埋納して、酸素二酸化炭素水分と隔離してしまえば
化学変化を抑えることができる。

平地ではダメだ。
水分が多くてすぐに緑青がつく。

ではどこに埋納する?

山腹の、水脈から外れた場所。
これしかない。

山頂だと、雨がもろに貯まるし、落雷もある。

銅鐸民族の集落の目利きが、近隣の山腹を調べて、水脈から外れた乾燥地を選定して
銅鐸を埋納した。

もちろん盗掘されないように、集落の執行部のみがその場所を管理。

毎年の収穫祭の際に、銅鐸を掘り起こして、
多少の緑青を落として綺麗にしてから、
収穫祭の主役として集落のど真ん中に安置した。

300 :日本@名無史さん:2016/07/08(金) 00:37:04.31 .net
銅鐸の通常状態は緑青の無い状態

緑青を避けるために山腹の乾燥土地に埋納保管した

収穫祭で掘り出して安置した


銅鐸地域が九州倭国に征服される時、村にある銅鐸は取り上げられて溶かされ、
国産銅鏡などに再生された。

一方で、
埋納されている銅鐸は被害を免れた。


居住地から見つかる銅鐸はほとんど無く、
見つかる銅鐸は埋納されているものだけ。

銅鐸民族が侵略された様子を完膚無きまでに証明している。


既に鉄器時代に移行していた九州倭国は、
目の前にある銅鐸は取り上げて溶かし直したが
山腹に埋納された銅鐸をわざわざ掘り返させて再利用するほど
困ってはいなかった。

301 :日本@名無史さん:2016/07/08(金) 00:46:39.97 .net
居住地から出土しない銅鐸=途絶えた
と比較して
銅矛は銅か?

神社に伝わっている

北部九州文化圏の銅矛が神社に伝わっているということは
すなわち
銅矛を否定するイベントがおきなかったということを意味する

しかも記紀によるとヤマト政権の起源は矛による

すなわち
ヤマト政権は北部九州邪馬台国から連綿と続く政権だったことは明らかである

302 :日本@名無史さん:2016/07/08(金) 00:47:47.77 .net
筑紫倭皇帝に深謝

303 :日本@名無史さん:2016/07/08(金) 23:23:57.18 .net
>284
八咫の鏡は火災にあって原形をとどめていないないらしいぞ。

304 :日本@名無史さん:2016/07/11(月) 03:33:19.26 .net
最近の三角縁神獣鏡研究が明らかにした新事実
平成27年(2015)11月1日
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-16/2015_11_03.htm
三次元計測を応用した最近の三角縁神獣鏡研究
奈良県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)の公開講演会
「三角縁神獣鏡研究の最前線」と題する講演会で、「精密計測から浮かび上がる制作地」のサブタイトル

■ そこで、研究者の便をはかるために、橿考研は、平成9年(1997)から翌年にかけて黒塚古墳から三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面を発掘したのを契機に、レーザー走査式三次元計測による銅鏡の精密な計測システムを導入した。

■ これらの計測機によって、測定対象に触れることなくその表面寸法を測定し、400万点前後の点群を取得でき、対象物の形状の三次元データの作成が可能になった。

三次元計測を応用した最近の三角縁神獣鏡研究

■ 同一文様の鏡を量産する方法としては、「同笵技法」と「同型技法」がある。
同笵技法とは、一つの鋳型(笵)で鋳造を複数回行い、同一の鋳物を製作する技法をいう。
一つの鋳型から複数面鋳造する場合、鋳造ごとに鋳型に傷が増えて行く傾向にある(下図参照)。

■ 一方、同型技法では、青銅鏡で初めに制作した一面を原鏡とし、これを真土(まつち)とよぶ粘土で文様を写し取り鋳型を複数作り、この2次鋳型から同一文様の子鏡を制作する方法である。

■ 永野敏典研究員は、---.鏡に残る鋳型の傷などを分析された。

永野氏は、銅鏡に残された鋳型の傷から舶載鏡一面と彷製鏡3面が同じ鋳型で作られていることを突き止められた。類例は他にもあるという。

■ 永野氏の研究成果が意味するところは大きい。
従来は文様の出来・不出来で「舶載鏡」と「彷製鏡」を分類してきたが、そうした分類はもはや意味をなさないことになる。
そのため、制作地は「すべてが中国製か日本製となる可能性がある」ことを指摘された。

■ 清水康二・主任研究員も、---.同じ鋳型を再利用したと考えられる例があることを指摘された。
--.
「舶載鏡から彷製鏡まで同じような工人が作っていた可能性が高い」とされた。
最後に講演された菅谷文則所長も、中国では出土しておらず、日本で約560面見つかっている以上、三角縁神獣鏡は国産とみる考えを披露された。

305 :日本@名無史さん:2016/07/20(水) 10:37:26.70 .net
>>1,>>2,>>3,>>4,>>5,>>6,>>7,
の説明ですべて問題を解決している
これ以上邪馬台国を論争する必要ないな。

306 :日本@名無史さん:2016/07/20(水) 18:01:25.34 .net
卑弥呼がいたのは奴国
邪馬台国は三十ヵ国の総称
墓は平原
まとめるとこうですか

307 :日本@名無史さん:2016/07/20(水) 22:12:16.68 .net
卑弥呼がいたのは伊都国
邪馬台国は三十ヵ国の総称
邪馬台国最大の国邑が奴国
墓は平原

308 :日本@名無史さん:2016/07/20(水) 23:04:39.56 .net
伊都国は一万千九百里になるのでは

309 :日本@名無史さん:2016/07/20(水) 23:40:25.79 .net
総称は倭国。
倭国は九州の王朝であることを認めたくない人が多いけど。
邪馬台はその中の宮城の所在地。
伊都のすぐ近く。

310 :日本@名無史さん:2016/07/21(木) 00:14:36.97 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

311 :日本@名無史さん:2016/07/21(木) 08:53:00.13 .net
>>307
卑弥呼がいたのは邪馬台国

邪馬台国は三十ヵ国の中の一国であり、
四ヵ国で構成する女王国の中の一国

女王国最大の国が邪馬台国

女王国を構成する四ヵ国は、奴國、不彌國、投馬國と邪馬台国

墓は久留米

312 :日本@名無史さん:2016/07/21(木) 09:18:20.10 .net
>>311

水田から出土する米は、短粒米水稲種のみ。(水田管理が行き届いている)

中粒米陸稲種と短粒米水稲種が約半々の割合で混ざって出土する河姆渡遺跡は、
陸稲種と水稲種の混作地域。(水田管理が洪水旱魃により不十分)

石鋤は、畑作(陸稲・麦等)の農具、小規模水田(水稲)では不要の長物。

313 :日本@名無史さん:2016/07/21(木) 09:22:39.98 .net
>>310

水田から出土する米は、短粒米水稲種のみ。(水田管理が行き届いている)

中粒米陸稲種と短粒米水稲種が約半々の割合で混ざって出土する河姆渡遺跡は、
陸稲種と水稲種の混作地域。(水田管理が洪水旱魃により不十分)

石鋤は、畑作(陸稲・麦等)の農具、小規模水田(水稲)では不要の長物。

314 :日本@名無史さん:2016/07/21(木) 10:46:12.63 .net
倭は日本全体のことで当時は30か国の国邑が中国で知られていた
邪馬壹國はそのうちの北部九州26か国の国邑の連合体
投馬國は朝鮮半島南岸で狗邪韓國を中心とした地域
四国には侏儒國
裸國や黒齒國は関西方面。

315 :日本@名無史さん:2016/07/21(木) 15:29:16.72 .net
>>314
当時は日本なんてない。あったとすれば朝鮮半島の任那の一部だ。

316 :日本@名無史さん:2016/07/21(木) 16:32:16.35 .net
>>311
久留米のどこさ。具体的な候補があれば教えて。
まったく否定するわけではないけれど、同時代の平原との関係などを説明する必要がある。
個人的には筑紫平野か筑後平野のどこかに卑弥呼がいたと思うけれど、平原の存在は非常にインパクトが大きい。

317 :日本@名無史さん:2016/07/21(木) 18:28:17.25 .net
>陸行1月についてまとめ

>畿内説
>@河内湾→奈良 35km 1.5km/日
>A舞鶴→奈良 120km 4km/日

>九州説
>@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日
>A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日
>B有明海→熊本 60km 2km/日

318 :日本@名無史さん:2016/07/21(木) 21:10:39.78 .net
陸行1月は陸行1日の誤記で
末廬國から伊都國、奴國まで行程に掛かる時間。

319 :日本@名無史さん:2016/07/21(木) 21:46:58.04 .net
1日なら距離で書くよ。

320 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 06:19:26.09 .net
>>318
倭人伝の記述を、わざわざ捻じ曲げて解釈するでないぞ

321 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 06:22:06.47 .net
>>316
祇園山古墳がそうだと言われているらしい
九州道から看板が見えるとかなんとか

322 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 06:26:16.28 .net
祇園と呼ぶからには
仏教関係者の高貴な人の長年の共同墓地だな

323 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 08:25:11.11 .net
名称は後からどうにでもなる。
多数の殉葬を伴った古墳の例として貴重。
もともと九州道の建設予定地だったが、極めて貴重な遺跡ということて地元の反対運動があり、九州道のルートを曲げて全壊を免れたとのこと。
現在は3分の2ほどが残っており、60人以上の殉葬ご確認されているため、全体ではおよそ100名の殉葬がされていたらしい。
卑弥呼は100名の殉葬を伴っていたとあるため、候補地になりうる。
これほどの殉葬を伴った古墳が他にはあまり例がない。

324 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 08:39:15.99 .net
祇園山古墳は殉葬じゃあないな、代々の親族墓でしょう

325 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 11:42:14.57 .net
墓地ではなく、一度に100人な。
副葬品は弥生時代だから仏教も関係ないし。
一番らしい説明が殉葬。
記録に残る範囲でこれだけ大規模な殉葬がされていたのは卑弥呼くらいしか見当たらないということだろう。

326 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 11:59:39.15 .net
祇園山古墳の墳丘外周からは、発掘調査時に甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5・不明2を含む)、
箱式石棺7基、竪穴式石室13基、不明7基の埋葬施設が確認されている。

埋葬方法がバラバラ、殉葬したのは奴卑なのに立派な墓に葬られているのはなぜ

327 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 12:29:08.89 .net
副葬品が弥生時代なら、卑弥呼も関係なかろう

328 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 12:49:13.71 .net
卑弥呼は弥生時代(古墳時代とする人もいるらしい)だから、副葬品が弥生時代なのは普通なのでは

329 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 13:26:06.14 .net
卑弥呼のいた3世紀は一般に弥生時代とされている。
時代区分は畿内を中心としており、まだ畿内に大型古墳が登場していなかった。

330 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 13:52:19.38 .net
甕棺は1世紀中頃まで、石蓋土壙墓・箱式石棺は1世紀中頃〜3世紀中頃、
竪穴式石室は4世紀

331 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 14:06:46.05 .net
>祇園山古墳

KXf式甕棺を出土した福岡県久留米市の祇園山古墳から、画文帯神獣鏡が発見された。
画文帯神獣鏡は、三角縁神獣鏡の前の時代に使用された鏡で、次章で説明するように
およそ西暦280年以降に製作されたものと考えられる。
そしてこの時代は、庄内式土器の行われた時代でもある。

332 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 17:02:37.69 .net
>>330
かなり幼稚ではある
まるで流行で切り替わるみたいな稚拙な発展段階説みたいだ
多様な種の土人が棲み分けしていることを前提にして考えるべき
甕棺のような埋葬エキップメントは
一定の様式のものが成立した時期から始まり
かなり後の時代までひっぱって使用されるのがふつう
すなはち
弥生中期の様式の甕棺は弥生後期にも連続して使用されていたことが判明している
考古学は遺物の様式を扱う学であるということを肝に銘ずるべきではある

333 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 17:48:50.39 .net
>>332
で、多種多様な埋葬方式を、奴卑に対して同一時期に行われていてもおかしくないとの主張ですか

334 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 17:56:04.72 .net
祇園山古墳は、
古墳埋葬様式のモデルルームだったのかも

ぜひ一度寝心地を試していただいて、
どれにするかお決めくださ〜い。おやすくしておきますよ〜ww

335 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 17:57:14.37 .net
副葬品からすると必ずしも全員が奴婢であったとは考えにくい。
あと甕棺は戦前まで九州の一部では使っていたらしいよ。
鏡の年代の推定が確かなら壹與の時代になってしまう。

336 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 18:06:33.64 .net
祇園山古墳

>出土物については、この石棺はすでに盗掘を受けていて、
>人骨も副葬品も全く出ていません。
>しかし高良大社に行くと、神社所有の三角縁神獣鏡は
>ここから出土したと推定されていました。

337 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 18:09:25.00 .net
>この方墳の周りには合計62基の墓がありました。
>そこで、その62基の埋葬法を調べると、
>甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基、箱式石棺墓7基、竪穴式石室3基、不明墓7基
>となっていました。ずいぶん多彩です。
>殉葬なら同じ様式で埋葬するほうが合理的じゃないかな、

338 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 18:12:41.94 .net
さらに、方墳+葺き石だそうだから、出雲のにおいがする
ちと望み薄じゃないかな

339 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 19:10:28.31 .net
祇園山古墳も有望な候補であるけれど
平原の八咫鏡が金印にも匹敵する証拠じゃないかな

340 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 22:37:30.49 .net
名前:日本@名無史さん [sage] :2016/03/28(月) 23:34:32.77

卑弥呼の墓が前方後円墳ということはない。絶対にない。
まず、その墓は径100余歩とされており、円墳と考えられること、
次に、倭国の墓は棺はあっても、槨はないとされていること。
郭のない前方後円墳はあるだろうか。卑弥呼の墓は粗末なものなのである。
張政は卑弥呼の死後までおり、その後に書かれた魏志倭人伝には卑弥呼の墓の記述もあるが、
倭の墓には槨がないと述べており、卑弥呼の墓だけ特別とは考えられない。

>朱丹塗其身體如中國用粉也
顔に赤い粉を塗っていること。文脈から、これは男女を問わない。
顔が赤い者は畿内では猿扱い、すなわち非人とされているが(埴輪)、宮崎県、鹿児島県では違った。

徳島県の犬山天神古墳からは、顔の赤い女酋長が見つかっている。
魏志倭人伝によれば、邪馬台国の東の海の向こう、すなわち四国には倭種がいた。
同じような種族であり、それはやはり顔が赤く、墓には槨がなかった。

なお、犬山天神山古墳も、油津、串間市西方同様、海に突き出る土地だったことも見逃せない。
(埋め立て前の地図による)

隼人の墓は、目ぼしい円墳、特に台与がいた油津周辺の円墳が暴かれたため、邪馬台国の有力者たち
が止むを得ず掘ったものなのである。
その時代においても、顔に朱を塗る習慣は残っていた。

地下式横穴墓が多く出る地域に★を振った。
(西都原は無視して結構。油津と串間市は台与、卑弥呼の居処として★を振った。)
http://i.imgur.com/XXMRo4Q.jpg
また、東西南北は夏至の日の出を基準としているという有力な説があるとのことで、
この地図は、それに合わせてやや傾けてある。

地下式横穴墓が、邪馬台国の軍団のいた地域であり、明らかに都城付近を中心に、熊本を攻め、
油津から串間の海岸を守る配置になっている。

341 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 22:46:52.10 .net
>>319
末廬國から伊都國、奴國までの行程を距離と時間の両方で記述している
時間が陸行一日で、距離が500里と100里。

342 :日本@名無史さん:2016/07/22(金) 22:48:55.60 .net
 中国の史書「魏志倭人伝」が記す伊都いと国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、
国内最古級の硯すずりの破片(弥生時代中期後半〜後期=紀元前1世紀〜紀元後2世紀)が出土
した。朝鮮半島にあった中国の出先機関・楽浪郡らくろうぐんから日本に渡来した使節が、筆で
文字を書くために使用したものとみられ、わが国の文字文化受け入れの起源を考えるうえで重要
な手がかりとなる。

 倭人伝は伊都国について、「往来する郡使が常に駐在する所」と記し、「(伊都国の)港で贈答
する文書や品物の検査を行う」と、文字の使用を示唆する記述もある。市教委は、今回の硯は倭人
伝の記述を裏付けるものと評価している。

読売新聞 2016年03月02日
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20160302-OYS1T50000.html
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160302/20160302-OYS1I50000-L.jpg
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160302/20160302-OYS1I50001-L.jpg

343 :日本@名無史さん:2016/07/23(土) 00:32:44.63 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどbアろか、当時の鋳キ江江南には無b「エブリとクワbニいった農具が麹ナ初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

344 :日本@名無史さん:2016/07/25(月) 20:18:16.90 .net
平原も卑弥呼の墓として有力だが
細石神社が卑弥呼の墓の跡地に造られたものかもしれない。

345 :日本@名無史さん:2016/07/26(火) 02:56:11.41 .net
神社は祀るためのもの。
そもそももがりのための宮だったとも考えられている。
つまり死体の仮安置場。

346 :日本@名無史さん:2016/07/26(火) 11:30:48.99 .net
神社がもがりのための宮だったとは何処の情報?

347 :日本@名無史さん:2016/07/26(火) 11:36:52.48 .net
神社は穢を嫌う方向の思想だね

348 :日本@名無史さん:2016/07/26(火) 12:46:05.22 .net
河童がいてくれるとこのスレも昔の様に盛り上がるんだが今は何処に

349 :日本@名無史さん:2016/07/26(火) 14:43:14.72 .net
死後にもがっているとえろ臭いけれども
まもなく蛆が涌いてきてからに
死体は徐々に溶けてゆく

350 :日本@名無史さん:2016/07/26(火) 19:36:36.43 .net
まもなく始まります、2016年7月26日 (火) 夜8時00分〜夜8時55分
BSジャパン
「空から日本を見てみよう+ 宮崎県高千穂(推定・女王の所都)」

日本神話ゆかりの地として有名な高千穂町と日之影町を、のんびり空から眺めていきます。
天照大神が隠れたといわれる天岩戸神社を経て、夜神楽で有名な(推定・卑弥呼の山陵の)
高千穂神社へ・・・。

351 :日本@名無史さん:2016/07/26(火) 19:52:23.77 .net
太宰府天満宮は道真公の遺体を載せた牛車が動かなくなった所に廟を建てたのが始まりって話もあるし、
ひたすら穢れを払った清い場所って訳でもないっぽいけどね

352 :日本@名無史さん:2016/07/26(火) 20:27:54.06 .net
まあ、それなら香椎宮も別名香椎廟。
仲哀天皇の墓ですな。
古墳が少し離れたところにあるらしいのだが。

353 :日本@名無史さん:2016/07/26(火) 20:35:32.17 .net
>>352
ググってきたけど舞松原古墳のことかな?

354 :日本@名無史さん:2016/07/26(火) 22:39:29.88 .net
卑弥呼の墓の跡地に造られたものかもしれないとなると
宇佐神宮も可能性がある

355 :日本@名無史さん:2016/07/27(水) 01:15:39.79 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

356 :日本@名無史さん:2016/07/27(水) 01:24:23.51 .net
>>346
細石神社がもがり宮の名残りだったという話。
神社全般ではなくて。

357 :日本@名無史さん:2016/07/27(水) 10:04:03.73 .net
3世紀の絹、鉄、銭、朱などの出土から考えても邪馬壹國は北部九州で確定してるんだよな。

358 :日本@名無史さん:2016/07/27(水) 18:42:00.30 .net
邪馬壹國とか恥ずかしい・・・

359 :日本@名無史さん:2016/07/27(水) 22:00:00.93 .net
倭人伝、韓伝の部分は露布の慣例で距離が十倍になっているので
径百歩は十歩で14,4mになる。これだと候補は多数ある

360 :日本@名無史さん:2016/07/28(木) 14:57:52.29 .net
日数の行程を里数行程の後に続けて読むなんてムチャクチャ
日本の歴史学会のレベルは恥ずかしいくらい低かったんだよな
里数と日数の行程は同じ行程を距離と時間で再説明してるだけで
当然、邪馬壹國は北部九州。

361 :日本@名無史さん:2016/07/28(木) 17:32:41.64 .net
>>360
日数の記述の解釈には可能性的には3つある。

1,そのまま連続に読む。
2,同じ行程を距離と日数で説明。
3,同じ行程ではなく、目的地がそれぞれ違う場合。

最近個人的には一番妥当なのは3だと思っている。
投馬国と邪馬台国の日数は起点はそれぞれ帯方。
益々混沌としてしまうが、その場合卑弥呼は邪馬台国にいない。
なぜなら、邪馬台国に使者は行ってない事になるから。

後、もし3なら、邪馬台国の場所を確定させるのはほぼ不可能。

362 :日本@名無史さん:2016/07/28(木) 18:43:02.51 .net
南して、邪馬臺国にいたる。女王の都とするところである。と書いてあるのに
なぜ卑弥呼は邪馬台国にいないのか?

363 :日本@名無史さん:2016/07/28(木) 18:58:16.43 .net
邪馬台国は阿蘇山だろ
阿蘇山の火口に人を投げ入れて祭祀を行ったんだよ
「人を殺す権利を持つもの=権力者」って相場は決まってて
卑弥呼は祭祀の場で人を殺す権利を持っていた
卑弥呼の都は現代までの何度かの噴火で完全に失われてると思うよ

364 :日本@名無史さん:2016/07/28(木) 19:15:42.21 .net
>>362

説文解字には「都」は先君の旧宗廟の在る所の意味だからね。

やはり、当時の漢字の意味も大事なので。

365 :日本@名無史さん:2016/07/28(木) 19:52:15.64 .net
>>363
>卑弥呼の都は現代までの何度かの噴火で完全に失われてると思うよ

そんな物騒な処に卑弥呼の都を造ったと連想する単細胞であった。

366 :日本@名無史さん:2016/07/28(木) 20:49:50.09 .net
>>364
三国志にある都の文字がすべてそういう意味ではないと思う

367 :日本@名無史さん:2016/07/28(木) 21:24:40.39 .net
>>366
ちゃんと調べて言ってるのかな

368 :日本@名無史さん:2016/07/29(金) 01:49:53.51 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

369 :日本@名無史さん:2016/07/29(金) 10:00:46.45 .net
>>361
1,だとしたら書いた人は頭が狂ってる、目的地までの行程を途中まで距離で書いてと後は時間とか、結局は目的地までの距離も時間も分からい説明文。
3,目的地が複数あるなんて考えられないし、文の中にもそれらしい記述はない。
2,書いた人は行程を丁寧に説明しようと考えられる、最も自然な解釈。

370 :日本@名無史さん:2016/07/29(金) 10:49:02.49 .net
>>364
白川静著の字統では「都」は城壁をめぐらした都邑だとし
説文には「先君の旧宗廟の在る所を都という」
卜辞(甲骨文字)では国都、神都をみな邑と称しておりとある。

371 :日本@名無史さん:2016/07/29(金) 12:16:48.74 .net
邪馬壹國に卑弥呼は居た
伊都國で卑弥呼は魏使と謁見した
卑弥呼は王宮を出ることはない
つまり伊都國が邪馬壹國の王都。

372 :日本@名無史さん:2016/07/29(金) 12:41:15.54 .net
倭国の王都な

373 :日本@名無史さん:2016/07/29(金) 14:04:45.87 .net
伊都國=倭国の王都=卑弥呼の都=邪馬壹國の首都

374 :日本@名無史さん:2016/07/29(金) 16:35:27.92 .net
>>373
お薬の時間ですよ

375 :日本@名無史さん:2016/07/29(金) 17:23:46.77 .net
>>374
きょうから、
薬の量を2倍に増やしてやってくれ

376 :日本@名無史さん:2016/07/29(金) 18:25:27.32 .net
郡より女王國に至ること萬二千余里
一万二千里は奴国です
伊都国は一万千九百里なのでは?

377 :日本@名無史さん:2016/07/29(金) 20:24:34.71 .net
明日からは、
薬の量を4倍に増やしてやってくれ

378 :日本@名無史さん:2016/07/29(金) 21:48:53.01 .net
致死量で

379 :日本@名無史さん:2016/07/29(金) 22:07:11.20 .net
さらに倍ドン

380 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 00:29:47.15 .net
妻木晩田スレで九州説言ってるのは中国の工作員だったのバレてたな。

381 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 00:40:12.96 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

382 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 09:49:14.67 .net
>>376
「自女王國以北」とかの場合は一万二千里の場所に在る奴國以北の意味となる
奴國は2万戸の人口があり、邪馬壹國の中で最大の国邑で中心をなす国邑
なので女王國の基点として扱われている。
伊都國は倭国の王都であり、卑弥呼が居住する邪馬壹國の首都。

383 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 09:55:26.89 .net
微妙に日本語通じない奴がいると思ったらやっぱり中国人かよ。

384 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 11:00:44.03 .net
>>376
郡も女王國も点ではなく数千里くらいの広がりを持っている
したがって郡より女王國に至ること萬二千余里の場合も
お互いの基準となる点からの距離となる
郡の場合は郡の役所だが女王國の方は女王の王宮ではなく女王國の中心国邑の奴國が使われている。

385 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 14:40:14.79 .net
そこまでして倭人伝と自説を整合させなくてもよいのでは?

386 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 16:08:44.47 .net
邪馬台国はどこへ行ってしまったんだ?

387 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 17:01:46.43 .net
邪馬壹國+投馬國=女王國

倭=女王國+狗奴國+倭種+侏儒國+裸國+黒齒國

邪馬壹國=對馬國+一大國+末廬國+伊都國+奴國+不彌國+
斯馬國+已百支國+伊邪國+都支國+彌奴國次有好古都國+不呼國+姐奴國+對蘇國+蘇奴國+
呼邑國+華奴蘇奴國+鬼國+爲吾國+鬼奴國+邪馬國+躬臣國+巴利國+支惟國+烏奴國

388 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 17:09:15.10 .net
侏儒國はバヌアツだろ
バヌアツから縄文土器が出土してる

389 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 17:11:23.69 .net
侏儒国は奄美、琉球
裸国、歯黒国が東南アジア
バヌアツかどうかはしらん

390 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 17:12:47.28 .net
倭人伝の一部に裸国、歯黒国を記述してるってのは面白いよな

当時の倭人は東南アジア人と区別がつかないような見た目だったんだろう

391 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 17:29:27.75 .net
単に中国人が区別してなかった(そこまで興味なかった)可能性も

392 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 17:54:50.20 .net
歯黒国は関西だろうな
鉄漿してたんだw

393 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 18:24:31.86 .net
卑弥呼の宮殿が人口密度の高い中心点にある必要はない
奴国の範囲内にあればいいのでは?

394 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 19:08:33.84 .net
>>380
>>383
台湾人だよ。

馬鹿(考古学無知者)に向かって江南江南と鳴き浴びせ詐欺を働いてる奴だよ。

大ウソや単なる願望を本当になるまで馬鹿に一億回でも一兆回でも鳴き浴びせて本当にしてしまう
というやり方が中国人の世論改竄の手口。

「江南から稲作を持った弥生人が九州北部に定着して、そいつらが朝鮮に稲作を
伝えて中国日本朝鮮にまたがる倭人になった。」というのが奴らが改竄したいあらすじ。

もちろん日本の考古学者で弥生人が江南だとか稲作が江南だとか言ってる人間など一人もいない。

日本の考古学者で弥生人が江南だとか稲作が江南だとか言ってる人間など存在しない。

重要な事なので二回言いました。

395 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 19:26:44.84 .net
>>380 >>383
それ台湾人だよ。

馬鹿(考古学無知者)に向かって江南江南と鳴き浴びせ詐欺を働いてる奴だよ。

大ウソや単なる願望を本当になるまで馬鹿に一億回でも一兆回でも鳴き浴びせて本当にしてしまう
というやり方が中国人の世論改竄の手口。

「江南から稲作を持った弥生人が九州北部に定着して、そいつらが朝鮮に稲作を
伝えて中国日本朝鮮にまたがる倭人になった。」というのが奴らが改竄したいあらすじ。

もちろん日本の考古学者で弥生人が江南だとか稲作が江南だとか言ってる人間など一人もいない。

日本の考古学者で弥生人が江南だとか稲作が江南だとか言ってる人間など存在しない。

重要な事なので二回言いました。

396 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 19:31:05.67 .net
>>380 >>383
↓そのサギサギ湾ブタの書き込み例。もちろん日本から朝鮮に稲作が伝わったとか言ってる考古学者など一人もいない。



133 名前:世界@名無史さん :2016/07/30(土) 18:23:16.90 0
そもそも長江江南から直に直接稲作が伝わったという考えが間違い

南の植物であった米が緯度の高い朝鮮半島で栽培が広がったのなら同緯度の中国内の米の栽培普及を調べてみたらよい
そもそも朝鮮半島内にどのように中国から米の栽培が入ってきたのかという記録は皆無
朝鮮半島の米の栽培は日本から伝わったというのがごく自然な事

きちがいに言っても聞かないだろうけど


.

397 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 21:16:30.68 .net
邪馬壹國は壹與との絡みでの呼称だろう
邪馬壹國の女王國は不彌國と北で接している奴國内のいち領域
卑彌呼の時代の女王國は三雲地区でこれも奴國内のいち領域
これらはいずれも郡から〆て道里で12,000里にあたる

伊都國は[yitu][yutu]で[ito]ではなくして糸島島と糸島水道沿岸部で
海人が北側からのしてきてじゃいあんしているいわば占領区

398 :日本@名無史さん:2016/07/30(土) 22:10:11.85 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

399 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 00:29:23.39 .net
エセ左翼の目的は、わざと突っ込みどころが多い主張をすることで自分たちへ注意を向けさせ、
カルトへ向かう非難の矛先を逸らすこと。
国益に反することを言ったり、主張が食い違うもの同士の対立を煽ろうとするので放置し難いが、
主義思想についての洗脳を受けているわけではなく、フリをしているだけなので、
言い負かされてもダメージを負った様子もなく、論点をすり替えられるかスルーされる。
まともに相手をしてはならない。

サヨに対する危機意識が強すぎると、普段は常識的に振舞っている
(又は、サヨから不当に叩かれている)政治家などがズレたことをやろうとした時でも、
許容したり擁護してしまいがちになるので注意が必要。

400 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 00:35:36.36 .net
卑弥呼は日御子
邪馬台国はヤマト国

卑弥呼の話はアマテラスの天の岩戸神話と同じ話

適当に神話と実話を混ぜて書いたんだろう

401 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 00:44:47.64 .net
嘘にほんの少し本当を混ぜると全部本当っぽく見えるからな
その可能性はある

402 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 11:04:29.64 .net
魏志倭人伝の記述通りに図を描くと>>1のようになる
これで何の矛盾も無い
何で学者や多くの人が無理して訳のわからない解釈をしたがるのだろう?

403 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 11:10:02.80 .net
>>1 は論外

404 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 13:36:01.22 .net
>>403
現在のところ最も矛盾の少ない説ですけど
何で論外?自説と違うからw

405 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 13:50:42.00 .net
矛盾だらけですがw

406 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 20:24:55.72 .net
>>380 >>383
おえい、おまえら少しは反応しろよ馬鹿!

せっかく俺の貴重な時間を割いて、犯人の正体が中国人じゃなくて台湾人だとわざわざ
書いて教えてやってるんだぞ。

感謝の一言ぐらい言えよ馬鹿ども!

そんな馬鹿だから江南詐欺に反駁一つできねえんだ馬鹿!

そんな馬鹿だから考古学者が誰一人として提唱してない奴らの江南詐欺に
引っかかるんだ馬鹿!

407 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 21:00:59.32 .net
>>405
何処が矛盾してるんだ?

408 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 21:11:10.55 .net
最近、ネチケットの無い非常識な奴が多過ぎる。

昔はレスすれば、感謝なり反応なり必ずあったものです。

この5年ほどでそういったモラルが本当になくなった。

最近そういう無礼者ばかりだから、間違っていても、騙されている奴がいても
レスしてあげようという気さえ失せてきた。

せっかくレスしてあげても無反応だったら、気分を害するのは俺だからね。

間違っている奴は間違ったまま放置するしかない。

騙されてる奴は騙されたまま放置するしかない。

クレクレ君にレスをしてあげても、もらった途端に無反応で
感謝の言葉一つ無いとか。

もうネットは人の社会から完全に終わったわ。

409 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 21:13:36.52 .net
矛盾を指摘する前に、まず見にくい。まじで見る気がしない。

410 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 21:34:05.46 .net
これから俺はこういう反応をしていく。

おまえ、それ違ってるよ。

そして、その答えを俺は知ってるよ。

でも答えたところで感謝の言葉一つ無いやつばーっかりだから
せっかく答えて気分を害したんじゃたまったもんじゃないから答えません。

これから俺はこういう反応をしていく。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)


411 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 21:45:44.19 .net
>>407
いっぱいありすぎて、答えるのはメンドくさいわ

412 :日本@名無史さん:2016/07/31(日) 22:31:06.33 .net
クレクレ、クレクレ、クレクレ、クレクレ、言ってるんですわ。

クレクレ、クレクレ、クレクレ、クレクレ、言ってるんですわ。

仕方がないから答えを言ってやると、何の感謝の言葉一つなく、
無言で消えるだけ。

こんなモラルもマナーもない、民度の極めて低い奴らばっかりでもううんざんだよ。

もう絶対に答えません。

クレクレは永遠にクレクレしてろ!

間違ってる奴は間違ったまま墓に行け!

騙されてる奴は騙されたまま墓に行け! 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)


413 :日本@名無史さん:2016/08/01(月) 00:12:25.84 .net
「俺の説には矛盾がない」と主張する輩が無数に存在するんだからさぁ

414 :日本@名無史さん:2016/08/01(月) 05:31:07.83 .net
頭のおかしな人の判定基準

・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、
自分の意見なのに他人もそう思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。
自分の意見が通らないとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。

http://www.2ch.net/before.html

時々重症者がいるから貼っておく

415 :日本@名無史さん:2016/08/01(月) 07:35:02.22 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

416 :日本@名無史さん:2016/08/01(月) 19:13:02.58 .net
>>1の説明では1月を1日の誤りとするだけで
人口(戸数)、距離(里数)、時間(日数)に付いて全て矛盾なく説明されている
略完璧な解釈です。

417 :日本@名無史さん:2016/08/01(月) 19:15:59.37 .net
矛盾だらけですよ

418 :日本@名無史さん:2016/08/01(月) 19:45:59.20 .net
水行20日又は陸行1月と解釈すれば完璧

419 :日本@名無史さん:2016/08/01(月) 21:23:50.73 .net
>>417
何処が?
>>418
何言ってるの?

陸行一月を陸行一日の誤りとするのは初めに東大の白鳥庫吉が指摘している
3世紀当時の日本で国内を陸行一月もできる道路は存在していないし
もし陸行一月できる道路が在ったとしても、九州から陸行一月もしたら関東付近にまで達してしまう。

420 :日本@名無史さん:2016/08/01(月) 22:32:49.01 .net
訂正
水行10日又は陸行1月と解釈すれば完璧

421 :日本@名無史さん:2016/08/01(月) 22:42:46.97 .net
>>419
帯方郡から水行10日又は陸行1月と解釈
実際にかかった日数ではなく距離を日数で表したもの

422 :日本@名無史さん:2016/08/02(火) 20:43:42.68 .net
>>420>>421
意味不明???

423 :日本@名無史さん:2016/08/03(水) 09:57:22.69 .net
>>1の説明のように同じ行程を距離(里)と時間(日)で説明しているとみるのが
一番シンプルで矛盾も少ない、分岐とかも無くなる。

424 :日本@名無史さん:2016/08/03(水) 11:09:49.11 .net
そこが一番の誤り

425 :日本@名無史さん:2016/08/03(水) 16:25:00.03 .net
畿内説のような里と日を続けて読む例はないし
続けて読んだら目的地までの距離も時間も分からない。

426 :日本@名無史さん:2016/08/03(水) 18:04:19.43 .net
里数の説明のあとに水行20日、水行10日陸行1月を日数で書きまたそのあとで総里数12000里を書く
これは陳寿が理解力の足りない読者に邪馬台国の位置をずっと南方にあると思わせるためだよ

427 :日本@名無史さん:2016/08/03(水) 20:11:25.61 .net
>>426
書き手の陳寿はなるべく分かり安く書こうと努力してますよw
だから行程を説明するのに里で書いて、途中から日で書くなんてしない
里での説明が終わったところで距離の説明は終了
同じ行程を日で説明し掛かる時間を示している
そしてその行程の総里数12000里と明示
分かり安く明確に書いてあるのに
現代の日本人がおらが村に持っていきたいからムチャクチャな読みをする。

428 :日本@名無史さん:2016/08/03(水) 20:41:24.89 .net
陳寿ほどの文章家が分かりやすく書いたのなら
読者によって解釈の違う文章にはならないよ

429 :日本@名無史さん:2016/08/03(水) 20:43:38.93 .net
前にも後にも、
おらが村意識がなければな

430 :日本@名無史さん:2016/08/03(水) 21:44:54.77 .net
>>428
陳寿の書いた文章は解り安いんだよ
解らないのは自分の思い込みで無理に目的地を変えて
文章を曲解してるから。

431 :日本@名無史さん:2016/08/03(水) 22:56:19.24 .net
そのとおりだ
国ごとの記事をよく読み、書いてある通りにゆっくり進めばよい

なにしろ全文2000字ほどしかないんだからな

432 :日本@名無史さん:2016/08/04(木) 07:51:29.99 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

433 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 11:57:06.23 .net
>>432
>日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
>中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
>ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。

江南 
中粒種(陸稲種・乾田) 50%
短粒種(水稲種・水田) 50%

九州
短粒種(水稲種・水田) 100%

>当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。

農具
スキ(乾田・畑用農具)は、九州の小規模水田では不要。

>当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
>最古水田にはさっぱり伝わっていない。

鬲・鼎は、炊飯器きではなく、祭祀用器具
江南と九州では宗教が異なる。

434 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 12:09:49.03 .net
>>433
混ざって出土するんだぞ短粒種と中粒種が。

鬲・鼎は炊飯器であり、鼎だけは祭祀用と墓の副葬用にも使われたが正解。



>スキ(乾田・畑用農具)は、九州の小規模水田では不要


じゃあ、何で稲作開始から数百年以上も経った弥生前期から登場するの?w

しかも石刃じゃない木刃で。


.

435 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 16:27:38.79 .net
邪馬台国は宮崎平野
卑弥呼の墓は徳島

はい終了

436 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 16:30:22.71 .net
邪馬台国は人口と場所の記述から宮崎平野以外あり得ない

墓は徳島のヤクラヒメ神社だね
宮崎と畿内の間
ただし魏からもらった鏡はほぼ神武に持ってかれちゃったね

437 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 16:32:05.01 .net
銅鐸文化が一瞬にして銅鏡文化に塗り替えられたんだよ
しかも戦闘の跡もなくね

これは卑弥呼のカリスマと名前は諸国に轟いていたということだよね
だからみんな卑弥呼の銅鏡を欲しがった

438 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 19:14:35.76 .net
12000里だから北部九州なんだよ。

439 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 19:17:54.22 .net
12000里だから四国の阿波なんだよ。

440 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 19:20:32.43 .net
BC3C末、徐福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

441 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 20:38:12.99 .net
帯方郡(現在のソウル付近) から女王国まで 12000里
魏の時代の1里=434.16mなので12000里=5209.92kmになる
倭人伝、韓伝は露布の慣例により距離が10倍されているので
実際の距離は帯方郡から女王国まで 1200里=520.992kmになる
対馬と壱岐の半周分の里数を計算に入れた12000里は奴国なので
帯方郡から奴国まで約521kmということなら納得できる

442 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 20:48:41.29 .net
帶方郡から狗邪韓國までが7000里
狗邪韓國から對馬國までが1000里
對馬國が方可400里なので800里
對馬國から一大國までが1000里
一大國が方可300里なので600里
一大國から末盧國までが1000里
末盧國から伊都國までが500里
伊都國から奴國までが100里

帶方郡から奴國までが合計12000里
だから女王國は北部九州であり
女王國以北とは奴國以北と同じ意味。

443 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 21:02:45.58 .net
>>441
>帯方郡から奴国まで約521kmということなら納得できる

奴国は田川なので、帯方郡から奴国まで約521kmということなら納得できる

444 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 21:03:20.50 .net
合計なんて書いてないぞ

445 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 21:04:02.03 .net
帯方郡から12000里の奴国が阿波ということはありそうにない

446 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 21:09:53.36 .net
>>445
>帯方郡から12000里の奴国が阿波ということはありそうにない

帯方郡から12000里の女王国が阿波

447 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 21:19:35.44 .net
高等数学だな、秀才め!

448 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 21:26:42.71 .net
阿波も女王国だった、出雲だから

449 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 21:28:27.14 .net
狗とか奴とかつく国は出雲系だな

450 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 21:31:12.06 .net
邪馬台国や伊都国は徐福だからな

451 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 21:35:57.11 .net
古事記に書かれる出雲は,阿波の海岸部,つまり,イの国(阿波)の面(も)をイツモと呼んでいたようである。

これらのことから古事記の舞台である出雲と高天原は,阿波の海岸部分と山間部(神山町・木屋平村周辺)を指して書かれている

452 :日本@名無史さん:2016/08/05(金) 22:58:18.55 .net
BC3C末、徐福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

453 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 07:29:23.67 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

454 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 13:02:34.63 .net
>>442
ほぼ同意。

帶方郡から狗邪韓國までが7000里
狗邪韓國から對馬國までが1000里
對馬國が方可400里なので800里
對馬國から一大國までが1000里
一大國が方可300里なので600里
一大國から末盧國までが1000里
末盧國から伊都國までが500里
伊都國から奴國までが100里
伊都國から不彌國までが100里


帶方郡から奴國(不彌國)までが合計12000里
だから女王國は北部九州(筑紫平野)であり
女王國以北とは奴國(不彌國)以北と同じ意味。

455 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 14:13:33.68 .net
阿波にあるのは卑弥呼の墓

北九州にあるのは
一大率=ヤマト王権の本拠地

奴国=かつてのスサノオの本拠地=物部氏=ニギハヤヒの地元

だから北九州にそれらしい遺跡があるのは当たり前だよ

でも邪馬台国は熊本だよね

456 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 15:26:37.30 .net
最初の行と最後の行以外は合っている。

457 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 16:57:47.01 .net
>>454
>伊都國から不彌國までが100里
これは違うな、奴國から不彌國までが100里だな
伊都國から分岐なんてしない、真っすぐに読む
分岐説は旧説の名残で間違い
不彌國は帶方郡からだと12100里の所にある。
女王國とは正確には北部九州と朝鮮半島南岸も含んでおり
北部九州とは筑紫平野だけでなく大分、熊本付近まで含む。

458 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 17:05:21.45 .net
>>457
九州説は根拠薄弱だね。  訳の分からん里程が頼りとは。

459 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 17:15:18.05 .net
畿内説は魏志倭人伝を解読されると困るんだよなw
でも邪馬壹國は魏志倭人伝に記されている以上、里程の解読が最も重要なんだよな。

460 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 17:19:20.07 .net
里程をこねくり回す以外、術がないのが九州説なんだな。

461 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 17:50:59.34 .net
北九州と書かれるとどうしても北部九州ではなくて北九州市の方な気がしてしまう元北九州市民

462 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 18:16:42.73 .net
北九州市が北九州はんて名乗るから、いちいち九州北部なんて回りくどい表現を使わなくちゃいけないんだろ?

とは言え、わざわざ丁寧に里程を書いてあるのに、それを無視するなんてあり得ない。

463 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 18:27:25.06 .net
里数をこねくり回さないことには、福岡県に納まらんからな

おらが屯、いなか大福おか!!

464 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 18:55:51.73 .net
>>462
元々魏志倭人伝は分かり安く書いてあるんだよな
単純に里程を真っ直ぐに読んで
日程に変わったところで帯方郡に戻って再度初めから説明し直し
里程と日程は同じ行程を距離と時間で丁寧に説明してるだけ。

465 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 19:07:33.71 .net
>>464
おまえ、アホすぎてお話にならんわw

466 :日本@名無史さん:2016/08/06(土) 19:15:34.19 .net
>>465
倭人伝はアホ向けに書いてあるのに、それでも分からんとは、大アホじゃ、

467 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 07:10:15.28 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

468 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 07:48:07.50 .net
>>464

>元々魏志倭人伝は分かり安く書いてあるんだよな
単純に里程を真っ直ぐに読んで
日程に変わったところで帯方郡に戻って再度初めから説明し直し
里程と日程は同じ行程を距離と時間で丁寧に説明してるだけ。

そのとおり。

不彌國で倭の中心部である女王國に到着。里程12000餘里の説明で終了。

不彌國の南にある投馬國と邪馬壹國は、郡からの日程距離で説明しある。
ここで、
水行二十日は、水行一日(1000餘里)×20日で2万餘里に相当。
水行十日は、水行一日(1000餘里)×10日で1万餘里に相当。
陸行一月は、1000餘里の距離に相当。陸行一月=海行一月=1000餘里(約80km)。

469 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 09:04:19.95 .net
>>468
それでどの辺りにたどり着くんだっけ、宮崎?
なんか九州を飛び出して太平洋沖になると聞いた覚えがあるんだが、それって距離と日程をダブルカウントしたからなのかな
方角を間違えたという畿内説は間違いってこと?

470 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 09:59:55.32 .net
>>469

郡から末盧國(唐津)までは水行十日。

末盧國から不彌國は、東南に陸行500里と100里で、不彌國は吉野ヶ里。

不彌國(吉野ヶ里)の南に、投馬國と邪馬壹國がある。

末盧國から投馬國まで九州西岸経由で水行十日。
投馬國は有明海東岸筑後平野。

末盧國から邪馬壹國までは陸行一月(1000里)で、
邪馬壹國は不彌國の南400里にある八女室岡遺跡群。
八女室岡遺跡群は、邪馬壹國の城柵であって、卑弥呼の都する所ではない。
卑弥呼の都する所は、邪馬壹國の別の場所。
(卑弥呼の都する所は、別途複数文献資料から久留米と推定できる)

471 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 10:17:09.15 .net
>>470

対馬海流に流されて、末盧國(唐津)は有り得ない。

472 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 10:20:54.83 .net
>>470
>末盧國から不彌國は、東南に陸行500里と100里で

末盧国

↓【東南】陸行500里

伊都国

↓【東南】100里

奴国

↓【東】100里

不弥国

ウソはいかん。

473 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 10:23:29.43 .net
>対馬海流に流されて、末盧國(唐津)は有り得ない。

んならその前に、対馬も、壱岐も在りえないだろう
何かに脅えて、錯乱してるようだな、、、、

474 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 11:32:17.55 .net
>>473
北九州への渡海は、対馬海流の流れを考慮すると中国大陸や朝鮮半島南部から壱岐を経由、

または直接、北九州中央部の奴国あたりに到達する方が合理的である。

対馬と壱岐を経由する魏志倭人伝ルートは対馬海流の流れに逆行する場合があり、渡海が困難になる場合がある。

魏志倭人伝では対馬・壱岐を通過しているが、中国大陸から日本への来日ルートには対馬に立ち寄らない方が合理的である。

475 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 11:44:53.66 .net
おま、そりゃ来るときはいいとして、
帰りはどうするんじゃ

まさか五島列島まで西行きして渡ると云うんじゃないだろうな。
その五島列島へ着く行く前に、対馬海流で流され、流されて、、、、、、だな

476 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 11:50:59.60 .net
>>475
まさに、五島列島まで西行きして渡るのさ。

平戸半島南端→宇久島→対馬→釜山

477 :469:2016/08/07(日) 11:53:01.85 .net
>>472

末盧國

↓【東南】陸行500里

伊都國 ←[東南] 100里→ 奴國

↓【東行】100里

不彌國

478 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 11:55:28.73 .net
>>477
倭人伝を勝手に変えては遺憾。

479 :469:2016/08/07(日) 12:15:19.37 .net
>>471

>対馬海流に流されて、末盧國(唐津)は有り得ない。

狗邪韓國(巨済島南岸) →(東)度海千餘里→ 対馬北岸

対馬北岸 →対馬東岸循海岸水行800餘里(南行沿岸反流)→ 対馬南岸

対馬南岸 →南(南東)渡海千餘里→壱岐北部海岸

壱岐から唐津へは渡航障害になるような海流はありません。

480 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 12:15:19.60 .net
>>478
変えてなんかいないだろう

まさに、倭人伝通りの正しい読み方だ。

481 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 12:19:45.00 .net
五島列島を持ち出すとは、まさしく狂気の沙汰岬

482 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 12:20:02.21 .net
洛陽から襄平まで4000里、行くに100日、還りに100日とあるところから
1日=40里である。1月なら30日=1200里
陸行1月=1200里は約521kmということになる

483 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 12:26:07.71 .net
中国大陸を軍馬で進軍するのと、
牛馬なき倭国で、山越え、谷越え、川を渡り、
大荷物担いでえっちらおっちらをいっしょにされてもなあ、、、

484 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 12:56:59.55 .net
>>479
http://le-web.riam.kyushu-u.ac.jp/radar/daily/

>7月13・15日の図を見てから云え

7月14日の図しか、見えんのかね、チミは、、、

末羅國=呼子・唐津は有り得ない。

485 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 13:32:14.16 .net
必死で、頑張っちょよるのう
何が何でも、お客さんを福岡と糸島へ呼んできたいんじゃろのう、、、

486 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 13:39:33.27 .net
単に、真っ当なこと。

末羅國=呼子・唐津は有り得ない。

487 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 13:40:13.77 .net
夏休みというのに、
伊都国博物館も人まばら、閑散としててねえ

488 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 13:57:21.48 .net
だから、糸島の伊都国も有り得ない。

489 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 14:32:18.49 .net
いつも、糸島営業の人、おっかれさん

490 :478:2016/08/07(日) 16:15:09.58 .net
>>484

>末羅國=呼子・唐津は有り得ない。

そうです。呼子ではありません。

末盧國は、松浦川河口(中原遺跡)・唐津

491 :478:2016/08/07(日) 16:37:36.86 .net
>>484

1日単位ではなく、1時間単位で変化する潮流を見なさい。
http://le-web.riam.kyushu-u.ac.jp/radar/current-map/

今年七月の対馬東岸の沿岸反流は少ない。
通年で見なさい。
対馬東岸の南下循海岸水行に逆流する潮流は常に少ない。

492 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 19:06:34.73 .net
>>491
それがどーかしたの?

493 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 19:58:11.63 .net
>>490
末羅國は「有四千餘戸」だから松浦川河口(中原遺跡)・唐津みたいな狭い範囲じゃなくて
伊万里市、唐津市などを含む国邑だ、呼子も含まれる。
魏志倭人伝の上陸地点は呼子だな。

494 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 20:01:33.79 .net
>>477
分岐説とか難しい読み方はしないし
里程と日程を続けて読むような訳の分からない読み方もしない。

495 :489 476:2016/08/07(日) 20:14:25.40 .net
>>493

松浦川河口(中原遺跡)・唐津は上陸地点である。


>>494

行程距離と2地点間距離を分けて読む。

末盧國→伊都國→不彌國は行程距離を表す。

伊都國―奴國は2地点間距離を表す。

496 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 20:26:29.85 .net
>>495
どちらも間違いw
浅い松浦川河口には外洋公海船は入れない
>行程距離と2地点間距離を分けて読む。
何を根拠にこんなこと云ってるの?

497 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 20:40:24.90 .net
だからさ〜

魏の連中は九州に上陸なんてしてないのよ

彼らは陸上の事は倭人に聞いた通りを書きとめ

風景は自分たちが海から見たものを書いただけ

498 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 20:45:58.58 .net
>>497

だからさ〜

魏の連中は九州の福間辺りに上陸してるのよ

499 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 20:58:39.72 .net
だからさ〜

おまいらが魏の木端役人で、曹操から「東の果てにある倭人どもをみてこいや」

って言われたとして、わざわざジャングルのような九州に上陸して熱心に報告する?

500 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 21:05:29.20 .net
おまえはアホだから、ひっこんでろ

501 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 21:11:21.05 .net
来たのは軍人だから偵察も兼ねて視察するわな
呼子付近が一番近くて港としても良いから陸上地点としては最適。

502 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 21:16:02.43 .net
だからさ〜

呼子の上陸して、多久の方へ向ってるって言ってるのに

そこに書かれてる風景は九州北岸のそれだろ?  おかしいじゃん

503 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 21:16:28.00 .net
一番近くでも、到着できんのよ。呼子には ごめんね

504 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 21:27:22.56 .net
末 盧 國 (唐津市・中原)

↓【東南】陸行500里

伊 都 國 →【東行】100里・不彌國(吉野ヶ里)→ 投馬国、邪馬台国へ
(小城あたり)

[東南] 100里

奴 國・(佐賀市)行きどまり

>>494
地図に当てはめるには、こっちでも良いかな
クニグニは、都合よく串団子のようにならんでいるわけではないからな

>>496
【東南陸行】あるいは【東行】と動詞付きで書いてある場合は、実際にこの方角へ行く場合

単に[東南]とあるのは方角を示しただけで、実際には行かない場合

505 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 21:29:46.03 .net
だからさ〜
わかっててイチャモンなんだろ

506 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 21:55:14.82 .net
だからさ〜

末 盧 國 (唐津市・中原)

(ここから先の地名や距離はまつらの倭人に聞いたものをそのまま記載
 そしてその風景は海上から魏人が見た物)

↓【東南】陸行500里

伊 都 國 →【東行】100里・不彌國(吉野ヶ里)→ 投馬国、邪馬台国へ
(小城あたり)

[東南] 100里

奴 國・(佐賀市)行きどまり


なんだよな〜

507 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 22:42:27.06 .net
BC3C末、徐福の一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

508 :日本@名無史さん:2016/08/07(日) 22:58:38.85 .net
>>504
そんな読み方したら目的地までの距離も時間も分からないw
朝鮮海峡の潮流は日や時間によって変わるから呼子にも付けますよw
航海術を舐めたらいかんよw
無茶苦茶な読み方だなwww

509 :日本@名無史さん:2016/08/08(月) 07:39:28.90 .net
>>508
朝鮮海峡?  対馬海峡を舐めたらいかんぜよw

510 :日本@名無史さん:2016/08/08(月) 08:00:38.65 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

511 :日本@名無史さん:2016/08/08(月) 11:47:21.73 .net
>>510
バカ発見
三足もラッパも出とるがな

512 :日本@名無史さん:2016/08/08(月) 14:17:29.79 .net
>>477
始めてみるとおどろく人も多いかもだが、
ここのところの読みは、これで原文に良く一致しているのではないのかねえ

513 :日本@名無史さん:2016/08/08(月) 14:46:24.80 .net
ちゃんとした原文を、無理やり捻じ曲げるでない!

514 :日本@名無史さん:2016/08/08(月) 15:07:25.50 .net
ま、方角の次の「渡る」「行く」という動詞のあるなしが、
全てを解くカギだったなあ
発見した人、秀才◎

515 :日本@名無史さん:2016/08/08(月) 19:26:49.66 .net
>>512
おどろかないなw軽蔑が失笑だなw

516 :日本@名無史さん:2016/08/08(月) 22:16:53.38 .net
>>511
じゃあ、出してみろよ 台湾ブタ広鼻ボルネミー。台湾半ブタ半ニグロ。

中国から伝わったという三足とラッパ型を。


ちなみに三足のは沿海州あたりから搬入した中国鬲とは製法が異なる
青森の鬲型土器以外でな。

517 :日本@名無史さん:2016/08/08(月) 23:15:07.65 .net
>>511
荒らしにかまうな

518 :日本@名無史さん:2016/08/08(月) 23:17:03.49 .net
>>514

「方角の次の「渡る」「行く」という動詞のあるなしが、
全てを解くカギだったなあ
発見した人、秀才◎」

最初に気づいた秀才は、古田武彦氏だった。その著書「邪馬台国はなかった」
しかし、何を血迷ったのか、伊都國を糸島にもって行ってしまい、
卑弥呼の都する所を吉武高木遺跡に持って行ってしまった。

伊都國は佐賀平野にせざるを得ないのに。
その頃には、未だ吉野ヶ里遺跡も惣座遺跡も未発見だった。

519 :日本@名無史さん:2016/08/08(月) 23:18:03.73 .net
珍説品評会笑った

520 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 07:18:06.66 .net
古田武彦の指摘は鋭いところもあるが
強引な説明も多々ある
「方角の次の「渡る」「行く」という動詞のあるなしが
なんて根拠の無い強引な説明だな。

521 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 08:10:18.95 .net
>>518 >>520
我が国の英語教育を見ても、
日本人はやたら主語の名詞を重んじ、
つづく動詞は軽視する傾向がある。
しかし、動詞は命だ、これなくして文章は成り立たない。

ま、古田武彦の頭の半分は秀才だったが、
残りの半分は、バスに乗り遅れまいとする凡夫の競争心でうずめられていたのだろう、南無、、、、

522 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 08:31:55.94 .net
古田は、
伊都国を佐賀平野に仮置きして検証するほどの、心の余裕が無かったのか、

そうすると、伊都国を佐賀平野に置いて、
「東南100里」と「東行100里」の違いを指摘した人こそ、真の秀才と言うわけだ◎◎

523 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 08:51:47.60 .net
佐賀ルートは地図を見るだけだと、
えらく山奥を行く難所みたいに見えるからね。
実態は非常に楽な道なんだけど。

これが気づきを遅らせた原因かな。

とは言え秀吉の肥前名護屋城には
渡海衆は佐賀ルートで移動していて、
松浦どころか佐賀まで溢れかえり
佐賀城下にまで陣屋が立った
記録が残っている。

524 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 10:01:39.45 .net
そうだとおもうね

唐津〜佐賀平野間には鉄道が通じているから、
このルートがありえなくはない、とは思っていたが、
実際には、グーの航空写真でチェックしてやっと納得できたからねえ。
まあ、この楽な道を発見し、そのことを示した人は偉い!!

このことが、次文の読み方にも少なからぬ影響及ぼすのではないか、、、、
・南至投馬国。水行二十日。
・南至邪馬壹国女王之所都。水行十日、陸行一月。

525 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 10:35:46.57 .net
>>522

末羅國=呼子・唐津は有り得ない。

だから、糸島の伊都国も有り得ない。

526 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 12:56:53.04 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

527 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 17:00:34.05 .net
伊都国は糸島市付近で問題なかろう
佐賀とかは「其餘旁國」の一つだな。

528 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 17:41:20.27 .net
>>527
>伊都国は糸島市付近で問題なかろう

問題なかろうって・・・・  

529 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 17:48:24.51 .net
伊都国は糸島市付近で何の問題があるw
末羅國は呼子、唐津、伊万里付近であり
魏使の上陸地点は呼子だ
そこから南に向かい松浦市付近で東に向きをかえる。

530 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/09(火) 17:50:27.88 .net
>>527 > 佐賀とかは「其餘旁國」の一つだな//
  吉野ヶ里については以下なぞも参照。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1470350516/831
> 楼閣があるってのがウリみたいだが・・・末廬国の衛星国といった立場だったのかもね//

531 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 17:52:07.40 .net
>>529
末羅國=呼子・唐津は有り得ない。

だから、糸島の伊都国も有り得ない。

532 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 17:57:59.39 .net
魏使の上陸地点は呼子以外にあり得ない
当時は港が整備されておらず
外洋公海用の大型の船の入港出来る港は呼子ぐらいしかない。

533 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 18:07:21.82 .net
魏使の上陸地点は呼子以外にあり得ない
当時は港が整備されておらず
外洋航海用の大型の船の入港出来る港は呼子ぐらいしかない。

534 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 18:08:01.85 .net
つ福間

535 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/09(火) 18:25:43.82 .net
>>531 > 末羅國=呼子・唐津は有り得ない。だから、糸島の伊都国も有り得ない//
  元ネタは邪馬台国の秘密かな。まぁ確かにこんな話ではあったね。

http://dialectic.seesaa.net/article/421272722.html
> 古い地名を持ち出して,勝手気ままに,原文の地名や国名をあてはめない・・・
神湊がある宗像一帯を末盧国と比定すると,伊都国は豊前市を含む一帯,奴国は中津市近く,
次の不弥国は宇佐の手前の豊前長洲あたり・・・//

まぁ、暴論だとは思うけどね。

536 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 18:36:49.68 .net
>>535
伊都国は直方市

537 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 18:54:10.21 .net
>>534
津屋崎?

538 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/09(火) 19:24:21.05 .net
>>536 > 伊都国は直方市//
  ああ、筑豊線に乗ったのかい。当時は石炭もあって、赤字廃線って事もなかったんだしね。

539 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 19:30:58.82 .net
>>537
>津屋崎?

その近辺 弥生時代の海岸線後退如何  

540 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 22:08:01.36 .net
>>533
呼子だって無理でしょ?

だから魏の連中は彼らが乗ってきた大型船からは降りてない。

その辺で漁をしている倭人に話を聞いてまとめたのが魏志倭人伝

ただし、大型船で遠賀川河口域くらいまでは航行してるから、

その間、彼らが自分でみた光景と、距離はほぼ正確に書かれている。

倭人の話をまとめたものはいいかげん

541 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 22:15:34.79 .net
>>540
>呼子だって無理でしょ?

つ津屋崎

542 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 22:22:14.43 .net
>>541
津屋崎だって無理でしょ?

魏の連中は津屋崎から遠賀川河口付近に至った地点で、ガイドの倭人から
「ここから南に川を20日南にさかのぼって上陸、その後20日歩いたら邪馬台国ですよ。」
って言われたんだよ。

ちなみに呼子辺りでは「ここで上陸して南東に向かって歩くと邪馬台国ですよ。」って言われたんだよ。


方角で言えば、「呼子の南東」かつ「遠賀川河口の南」に邪馬台国はあるんだよ

543 :日本@名無史さん:2016/08/09(火) 23:11:15.68 .net
>>542
>津屋崎だって無理でしょ?

津屋崎沖で艀に乗って上陸。

遠賀川河口付近くんだりまで行く必要もない。

544 :日本@名無史さん:2016/08/10(水) 00:16:17.35 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

545 :日本@名無史さん:2016/08/10(水) 05:48:25.76 .net
>>539
ああ、だから福間なのか

546 :日本@名無史さん:2016/08/10(水) 15:00:37.75 .net
おまいら幸福なんだなあ
中国の爆買いクルーズ船並みの扱いしてどうするよ

547 :日本@名無史さん:2016/08/10(水) 20:32:10.33 .net
>>543
遠賀川河口で

「この川を20日さかのぼって上陸、その後20日歩いたら邪馬台国ですよ」

って倭人のガイドが魏の木端役人にホラを吹いたんだよ

548 :日本@名無史さん:2016/08/10(水) 21:08:37.83 .net
あのさあ、魏の使節は卑弥呼に会いに行っているし、その駐在していたのぎ伊都国なんだから、伊都かその近くに邪馬台国があったんだ。
日数は帯方郡からの日数。

549 :日本@名無史さん:2016/08/10(水) 22:37:29.60 .net
>>548
>魏の使節の駐在していたのぎ伊都国なんだから、伊都かその近くに邪馬台国があったんだ。

伊都国は邪馬台国以前の倭國の都(倭都國)であって、
即ち、帥升王統倭國(倭面土國)の都であるので、
伊都国の近くに邪馬台国があるとはかぎらない。

しかし、不彌國は女王國の一部であるから、女王の都は不彌國から近いと推定される。

>日数は帯方郡からの日数。

その通り。

550 :日本@名無史さん:2016/08/10(水) 23:03:21.49 .net
女王国=倭国でしょうか、
女王国=邪馬台国でしょうか、
それとも女王国という別の国があったのでしょうか

551 :日本@名無史さん:2016/08/11(木) 05:23:10.25 .net
女王國は、卑弥呼を女王として擁立する国々の連合体

@女王國を形成する国々は、帯方郡から12000餘里以遠にある。

A帯方郡から12000餘里に存在する国は2つある。奴國と不彌國。

B帯方郡から12000餘里より遠い国も2つある。投馬國と邪馬台国。

C @の条件に合致するAB以外の国々は記載されていない。

D女王國以北の国々は、ABの4ヵ国を除くと女王國に含まれない。

E伊都國とその王は「統屬女王國」であるから、伊都国は女王國に含まれない。

F伊都國以北の3ヵ国は、Dの条件から女王國を構成する国々ではない。

G其(女王國or女王國以北)餘旁國(21ヵ国)は詳しいことが不明である。


上記@〜Gのフィルターを透すと、
女王國を構成する国々は、奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國の4ヵ国であると言える。
4ヵ国以外の女王國を構成する国々の有無は不明。

卑弥呼は、倭の女王國内にある邪馬台国内の何処かを都する所としている。

卑弥呼の都は、別途複数資料から久留米市南部と推定される。

552 :日本@名無史さん:2016/08/11(木) 08:36:44.35 .net
>>551
女王國は、卑弥呼を女王として擁立する国々の連合体で、 朝鮮半島南岸の投馬國と北部九州の邪馬壹國によって構成されていた。

@女王國の中心地は帯方郡から12000餘里の距離にある。

A帯方郡から12000餘里に存在する国は奴國であり、奴國が女王國の中心地である。

B帯方郡から12000餘里より遠い国は不彌國及び斯馬國、已百支國・・・支惟國、烏奴國などの「其餘旁國遠絶」と記された国々である。

C女王國に敵対する狗奴國が女王國の南に存在していた。

D女王國以北とは奴國以北と同じ意味で、女王國の北部地域のことあり大陸との交易路に辺り重要地域。

E伊都國は「丗有王 皆統屬女王國」とあるら、伊都國は女王國の首都である。
(「丗有王 皆統屬女王國」の意味は「魏の治世に伊都國には王が居た、倭の国々はみな女王國に統属していた」である)

女王國を構成する、投馬國と邪馬壹國のうち
投馬國は狗邪韓國を中心とした朝鮮半島南岸地域で、帯方郡から距離で7000餘里、時間にして20日掛かる所にある。
邪馬壹國は奴國を中心とした九州北部地域で、帯方郡から距離で12000餘里、時間にして31日掛かる所にある。
女王國の都は伊都國であり、卑弥呼の暮らす場所である。

553 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/11(木) 08:43:22.44 .net
コピペ練習所かよ藁

554 :日本@名無史さん:2016/08/11(木) 08:45:47.19 .net
>>551
女王國は、卑弥呼を女王として擁立する国々の連合体で、 朝鮮半島南岸の投馬國と北部九州の邪馬壹國によって構成されていた。

@女王國の中心地は帯方郡から12000餘里の距離にある。
A帯方郡から12000餘里に存在する国は奴國であり、奴國が女王國の中心地である。
B帯方郡から12000餘里より遠い国は不彌國及び斯馬國、已百支國・・・支惟國、烏奴國などの「其餘旁國遠絶」と記された国々である。
C女王國に敵対する狗奴國が女王國の南に存在していた。
D女王國以北とは奴國以北と同じ意味で、女王國の北部地域のことあり大陸との交易路に辺り重要地域。
E伊都國は「丗有王 皆統屬女王國」とあるら、伊都國は女王國の首都である。
(「丗有王 皆統屬女王國」の意味は「魏の治世に伊都國には王が居た、倭の国々はみな女王國に統属していた」である)

女王國を構成する、投馬國と邪馬壹國のうち
投馬國は狗邪韓國を中心とした朝鮮半島南岸地域で、帯方郡から距離で7000餘里、時間にして20日掛かる所にある。
邪馬壹國は奴國を中心とした九州北部地域で、帯方郡から距離で12000餘里、時間にして31日掛かる所にある、女王國の中心地でもある。
邪馬壹國の都は伊都國であり、卑弥呼の暮らす場所である。

555 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/11(木) 09:15:54.07 .net
> とあるら、伊都國//
  ここはコピペ練習場ではないんだが、練習するなら成果を出せ。

556 :日本@名無史さん:2016/08/11(木) 09:22:56.33 .net
BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

557 :日本@名無史さん:2016/08/11(木) 10:48:39.93 .net
>>551-552
倭国と女王国の関係が不明ですが、倭国=女王国というお考えでしょうか?

558 :日本@名無史さん:2016/08/11(木) 11:15:24.16 .net
女王卑弥呼が魏から任じられて倭王になったんだから
女王国が倭国だろ。

559 :日本@名無史さん:2016/08/11(木) 11:27:13.50 .net
親魏倭王なら倭国なんだろうと思ってたけど

560 :日本@名無史さん:2016/08/11(木) 11:37:12.81 .net
景初二年に親魏倭王に任じられるまでは女王国、任命後は倭国

561 :日本@名無史さん:2016/08/11(木) 12:11:15.67 .net
倭国(もとは百余国)>邪馬台国(卑弥呼支配下の三十ヵ国の総称)
女王国(郡より女王国まで一万二千里)=奴国(対馬、壱岐の半周分を加えた一万二千里は奴国)
卑弥呼の宮殿は奴国にあった
墓は平原

562 :日本@名無史さん:2016/08/11(木) 16:10:34.71 .net
>>560
>景初二年に親魏倭王に任じられるまでは女王国、任命後は倭国

これはないな。
卑弥呼以前から、倭国は倭国。

563 :日本@名無史さん:2016/08/11(木) 16:15:44.25 .net
○自郡至女王國萬二千餘里
○自女王國以北 其戸數道里可得略載
略載することのできる前提として
○遂周觀諸國 采其法俗 小大區別 各有名號 可得詳紀
諸國を周觀できる環境が整ったのが
○其(正始)八年(247)太守王頎到官 で完了する半島戦

○遂周觀諸國 采其法俗 小大區別 各有名號 可得詳紀
周觀を遂げたから詳しく書けると書いてある
周觀を遂げたひとは陳壽本人で晋成立の頭初にあたるとしか考え様が無い

○遂周觀諸國 采其法俗 小大區別 各有名號 可得詳紀
○自女王國以北 其戸數道里可得略載
こおゆう文責の存在するひとの言をまともに読めていないところが学問以下

564 :日本@名無史さん:2016/08/11(木) 21:50:47.12 .net
倭国は卑弥呼以前からあって
卑弥呼が邪馬台国女王で
倭人伝の後半では卑弥呼は親魏の倭王となっている

つまり
卑弥呼以前に西日本一帯に影響力を持つ倭国が存在し
倭国内部で邪馬台国と狗奴国などが内輪揉めしたのが倭国大乱で
それに勝利した卑弥呼が最終的に大倭国の王となった

565 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 10:47:00.76 .net
>>3はだいぶ間違ってるので訂正すると

卑弥呼以前からあったのは倭奴国
卑弥呼は女王国の王で
魏代に卑弥呼は親魏倭王となっている

つまり
卑弥呼以前に北部九州に倭奴国が存在し
九州内部で女王国と狗奴国などが内輪揉めしたのが倭国大乱で
それに勝利した卑弥呼が最終的に大倭国の王となった。

566 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 10:47:55.41 .net
>>564はだいぶ間違ってるので訂正すると

卑弥呼以前からあったのは倭奴国
卑弥呼は女王国の王で
魏代に卑弥呼は親魏倭王となっている

つまり
卑弥呼以前に北部九州に倭奴国が存在し
九州内部で女王国と狗奴国などが内輪揉めしたのが倭国大乱で
それに勝利した卑弥呼が最終的に大倭国の王となった。

567 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 10:51:28.11 .net
>>562
卑弥呼が親魏倭王に任じられて倭国になった、それ以前は倭奴国だ。

568 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 10:54:55.64 .net
>>565
勝利ではない
「共立」

勝利してたら「共立した」ではなく「勝利により王位についた」と書くだろ

569 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 10:56:31.10 .net
単なる表記の問題

倭奴国は倭の国(わのくに)を倭(わ)奴(の)国(くに)って書いただけ

570 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 10:56:38.25 .net
そう言えば漢委那国王って金印に書いてあったなあ

571 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 10:58:20.98 .net
漢字間違えちった
漢委奴国王だ
この委奴国と親魏倭王の倭は同じ国?

572 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 11:01:09.42 .net
>>568だな

卑弥呼以前からあったのは倭奴国
卑弥呼は女王国の王で
魏代に卑弥呼は親魏倭王となっている

つまり
卑弥呼以前に北部九州に倭奴国が存在し
九州内部の国邑同士が内輪揉めしたのが倭国大乱で
それにより共立されたのが卑弥呼で最終的に大倭国の王となったが
狗奴国だけが従わなかった。

573 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 11:03:52.72 .net
漢委奴國王の印が北部九州で発見されてるから
当然、倭奴国と親魏倭王の倭は同じ国です。

574 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 11:07:11.26 .net
>>573
奴国は福岡の北東側に比定されてる
倭奴国の金印は伊都国の領地から出土した

倭奴国=奴国だとすると金印は伊都国の一大率に没収されて埋められたんじゃないか?

倭人伝には伊都国の一大率が諸国を監視したと書かれている

575 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 11:37:57.93 .net
573
史書に奴国が登場するのは3世紀
1世紀の倭奴国と3世紀の奴国は別の国
金印は漢から保証された倭奴国の証だから漢滅亡まで有効なもの
卑弥呼が女王国の王となったのは漢代末のことだから
王に共立された時に金印を引き継いだはずだ
金印の発見場所の近くに卑弥呼の住居が在ったはず。

576 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/12(金) 12:01:19.75 .net
>>566 > 卑弥呼以前からあったのは倭奴国//
  倭奴国を、倭の領域にあった奴国と理解できない限り、史料は一切適正に解釈出来ないよ。

> >>564はだいぶ間違ってるので訂正すると//
  まぁ、狗奴国に勝利という563には首肯出来んが、御前様の訂正も筋違いだよ。

577 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 12:13:48.03 .net
>>576
>倭奴国を、倭の領域にあった奴国と理解できない限り

奴国が歴史書に登場するのは3世紀
1世紀に奴国など無い
倭奴国を、倭の領域にあった奴国なんて根拠のない妄想だな。

578 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/12(金) 12:25:40.24 .net
>>575 > 1世紀の倭奴国と3世紀の奴国は別の国//
  同じ奴国だよ。但し陳寿は、奴国への金印授与は知らなかったんだろうけどね。
魏志倭人伝には奴国も金印も出てくるんだから、知ってりゃ書かなかったとも思えない。

范曄も、史局の記録から知り得た訳じゃないと思うね。三世紀時点での散逸情報を後世の彼が知っていたとも思えない。
だが、彼が「倭奴國」と表記し、実際に後世出土した印刻は「委奴國」であり、ほぼ一致してる。
彼は印刻を意識して「倭奴國」と表記したと考えざるを得ない。
彼の時点では既に埋没試料となっていたであろう金印印刻をなぜ知り得たのか、
この点に解釈の余地が発生するね。

>>577 > 奴国が歴史書に登場するのは3世紀
  違うね。奴国が歴史書に「再」登場するのは3世紀だよ。
まぁ、史料の前後関係から云えば、奴国は三世紀の史料に初登場し、五世紀の史料に再登場、なんだがね。
范曄が倭奴国と表記したのは奴国への金印の印刻を知ってたからだよ、上記の通りでさ。

> 倭奴国を、倭の領域にあった奴国なんて根拠のない妄想だな//
  表音文字だったとすればさ、汎用は倭なんて紛らわしい文字は選択しないよ。
君はチト単純すぎだ。

579 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 12:56:56.11 .net
577
後漢書の「倭奴國」を三国志魏書の「奴國」としたのは
「漢委奴國王」の金印が見っかった時に「倭奴國」では日本に対する侮辱であるとして
鋳潰されてしまいそうになったので「倭奴國」を倭と奴國に分けて
「倭奴國」とは三国志魏書の「奴國」のことであるとしただけのこと
「漢の委の奴の國王」なんて3段読みなんてない。

580 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 13:06:08.48 .net
「漢の委の奴の國王」なんて3段読みなんてない

国名+部落名の前例はあるんだよね

581 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/12(金) 13:50:18.25 .net
>>579-580
  アナクロだねハナシにならんよ。

582 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 15:19:40.93 .net
BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

583 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 17:14:42.80 .net
>>579
激しく同意。もし三段読みしている例があるのなら是非教えて欲しいものだ。ちなみに
匈奴は絶頂期は玉印綟綬で「匈奴單于璽」、「璽」だ。新の時は格が下がって金印紫綬で
「新匈奴単于章」、「章」だ。テン王は金印紫綬で「テン王之印」、「印」だ。

wikiは内臣は「金璽綟綬」、外臣は「金印紫綬」と書いてある。wikiの言う内臣と外臣の
意味合いは解からないが、正式な官位という意味で内臣と区別するのなら印綬に書かれている
文字で区別できる

末字が「璽」「章」「印」と書かれていれば正式な官位、つまり「テン王」も官位という事
が言える。

一方、「漢委奴國王」や「親魏大月氏王」・「親魏倭王」等はこの文字が無いため、完全なる
贈答品であると言えよう。

584 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 17:42:11.51 .net
内臣の場合は時の王朝の名を冠しないのに対し、外臣の場合は必ず冠せられる。(>>583 の匈奴は例外)

金印・・・「新保塞烏垣(きへん)煙犁邑率衆候印」
      新・・・王朝名、烏垣・・・民族名、煙犁邑・・・地名・部族名、率衆候・・・称号

銅印・・・「漢匈奴悪敵戸(上の点なし)逐王」
      漢・・・王朝名、匈奴・・・民族名、悪敵・戸逐・・・地名・部族名、王・・・称号

585 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 17:51:19.12 .net
>>552
・自女王国以北、其戸数道里可得略載

自女王国(女王国を含む)以北の国々は、其の戸数、道(道の方角)、里(里数)の略載可得

このように書かれているという主張なので、
里数が書かれていない投馬国と邪馬台国もまた女王国に含まれない事となるのではないか???

586 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 17:52:25.61 .net
>>584
銅印の方は悪敵戸逐王という匈奴の部族の王号との説あり

587 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/12(金) 18:08:40.73 .net
>>583 > 激しく同意。もし三段読みしている例があるのなら是非教えて欲しいものだ//
  はぁ、普通に奴国への印綬がそうでしょ。>>578で記載の通りで、范曄は倭なんて字を表音文字に選択なぞしないよ。
それではとてもじゃないが史料を解するなんて無理だよ。

> ちなみに 匈奴は絶頂期は・・・//
>>584 > 匈奴は例外//
  要するに、その時々によってイロイロってだけでしょ。

588 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 18:23:27.36 .net
>>586
「悪敵」は部族名だそうな

ttps://books.google.co.jp/books?isbn=9004244190

589 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 18:28:04.68 .net
>>588
リンクがおかしかった

タイトルをクリックしてp317へ

590 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 19:54:20.49 .net
  
金印
「委奴國(ヰト国)」・・倭人自称の委都國を蔑んだ表現にしたもの

後漢書
「倭奴國(ヰト国)」・・委(ヰ)が倭(ワ)に変化

倭人の自称
「委都國(ヰト国)」・・委(倭)100余国の都である国(倭の中心国)

591 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 20:19:41.33 .net
「倭」も漢音で「ヰ」でしょ

592 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/12(金) 20:29:57.43 .net
>>590-591
  明ける事のない無明長夜を狭迷うしかないよ、それではね。

593 :589:2016/08/12(金) 20:53:37.58 .net
>>592

明ける事のない無明長夜を彷徨っているのは、漢字もまともに書けない君だ。

「倭奴國」は「倭都國」のことである。結論

594 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 20:53:41.28 .net
倭人がヤマト言葉じゃなくて音読みの都(ト)なんて自称で使うかね?

595 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/12(金) 20:59:57.23 .net
>>593
  鸚鵡返しだけだねオメは。

>「倭奴國」は「倭都國」のことである。結論//
  駄洒落にもなってないんだよ、ツマランだけだし。

596 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 21:06:01.73 .net
>>594

「倭都國」は、中元二年(57年)奉貢朝賀時の漢に対しての自称である。

ヤマト言葉では、別名の自称地域名を使っていたと推定できる。

597 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/12(金) 21:37:46.10 .net
>>596 >「倭都國」は、中元二年(57年)奉貢朝賀時の漢に対しての自称である//
  妄想に年号付したって所詮妄想だ。

598 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 21:41:05.72 .net
中国では卑字を用いて倭奴国と書いたが、倭国側では好字を用いて伊都国と書いたかもしれない。
中国と国交があった以上、誰かは中国語が使えたし、漢字の意味も理解していたはず。

599 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/12(金) 21:45:46.96 .net
>>598
> 中国では卑字を用いて倭奴国と書いたが、倭国側では好字を用いて伊都国と書いたかもしれない。
中国と国交があった以上、誰かは中国語が使えたし、漢字の意味も理解していたはず//

桜田、桜井、桜内といったヂィサンが I'm cherry なんてやらかすと大恥をかく。

600 :550:2016/08/12(金) 23:25:05.04 .net
>>557
>>551-552
> 倭国と女王国の関係が不明ですが、倭国=女王国というお考えでしょうか?

お返事遅れました。

帥升王統の倭は「倭國」。初元年(107年)から卑弥呼共立前まで。
帥升王統倭國後期の倭の都の場所は、倭都國(伊都国)。

卑弥呼共立から景初二年に親魏倭王に任じられるまでは女王国。
倭の一部分(奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國、他?)。
他の国々は女王の被支配国。

景初二年の任命後は倭国。狗邪韓國と狗奴國を除く倭の28ヶ国。

女王が都を置いた場所は、邪馬壹國の一地域。
邪馬壹國の長官1人と次官3人が居るのは別の場所。
邪馬壹國は広い地域なので、官4人で四分割統治したものと思われる。
又、末盧國には官がいないので、女王の直轄国で
「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、
傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」をした国であると推定される。

601 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 23:31:54.03 .net
>はぁ、普通に奴国への印綬がそうでしょ。

議論されている当事者の説をそのまま提示されても困るが? 検証するのに他に事例があるかどうか
を議論するのは当たり前の話だと思いますが?

>范曄は倭なんて字を表音文字に選択なぞしないよ。

えっと私がいつ表音文字について解説したのでしょうか? それに私の認識としては、「漢倭奴國王」
ではなく「漢委奴國王」と印綬には書かれていると思ったのですが違ってましたかね?

602 :日本@名無史さん:2016/08/12(金) 23:40:26.72 .net
追記

『後漢書』の記述で「倭」になってるのがおかしいって事なら、ある意味それは確かにおかしい。
出土した印綬は「漢委奴國王」になっている。

漢民族にとって字は神聖なもの。そこで考えられる事は南朝宋の時代は既に倭国はある程度有名で
あったので「漢倭奴國王」と思ったのか? もしくは出土した金印は偽造なのか? 両方可能性はあり
ますね。

ただ、だからと言って三段表記があったという証拠にはならない。

603 :550:2016/08/12(金) 23:42:52.50 .net
>>552
あなたに対しての異論です。

@女王國の端の国は帯方郡から12000餘里の距離にある。

A帯方郡から12000餘里に存在する国は奴國と不彌國である。

B帯方郡から12000餘里より遠い女王國は投馬國と邪馬壹國である。

C女王國に敵対する狗奴國が女王國の南に存在していた。 同意

D女王國以北とは、女王國以北の地域のことで、大陸との交易路に当り重要地域と非女王勢力のいる国々。

E伊都國は「丗有王 皆統屬女王國」とあるから、伊都國には旧倭國王が女王國の監視下にいた。
(「丗有王 皆統屬女王國」の意味は「魏の治世に伊都國には王が居た、その王達はみな女王國に統属していた」である)

604 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 00:53:20.44 .net
BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

605 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 01:10:35.92 .net
>>562
陳寿が任命前の卑弥呼倭国を、魏志倭人伝上では女王国と呼んでいるだけ

606 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 02:11:43.02 .net
だんだん だんだん ホモサピエンス

607 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/13(土) 05:19:00.98 .net
>>601
  あのね、チャンとアンカーは付そうね、>>587とさ。ゴチャゴチャ書きゃエエという訳でない。

> 議論されている当事者の説をそのまま提示されても困るが?//
  はァ?

> 検証するのに他に事例があるかどうかを議論するのは当たり前の話だと思いますが?//
  他に事例があってもなくても構わないんだよ。きみらは議論には無冠ね。

> えっと私がいつ表音文字について解説したのでしょうか?//
  キミらはね、自分の云ってる事が自分で把握できてないだけだよ。

>>602
>『後漢書』の記述で「倭」になってるのがおかしいって事なら、ある意味それは確かにおかしい。
出土した印綬は「漢委奴國王」になっている//

委というのが元々の日本列島の地域名で、ニンベンが付されて倭となったのが、
奴国への金印紫綬の57年から、はっきり「楽浪海中有倭人」と記載のある漢書成立時である一世紀末までの間だった、
と考えればさ、何の矛盾も不思議もないんだよ。

「倭是國名、不謂用墨、故謂之委也。」ふるくは之を委と謂う。

608 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/13(土) 05:31:25.31 .net
>>600 > 帥升王統倭國後期の倭の都の場所は、倭都國(伊都国)//
  倭都國なんてアンタの偽作物にしか過ぎないよ。
倭(委)の奴国だよ、>>578>>607記載の通りでさ。
これについては一般説通りで何の問題もなく、奇を衒う必要は無し。

609 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 06:41:05.62 .net
>>603
>D女王國以北とは、女王國以北の地域のことで、大陸との交易路に当り重要地域と非女王勢力のいる国々。

「自女王國以北」とかかれているのだから
この解釈はないな。

610 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 11:03:31.79 .net
>>603
>@女王國の端の国は帯方郡から12000餘里の距離にある。
帯方郡の端から女王國端までが12000里じゃないですよねw
帯方郡の中心地ら女王國の中心地までが1200里ですよ。

>A帯方郡から12000餘里に存在する国は奴國と不彌國である。
伊都国で分岐する説のようですが、そんな難解な記述はしてありません
倭人伝はもっと単純書かれています。

>B帯方郡から12000餘里より遠い女王國は投馬國と邪馬壹國である。
救いがたいなw

>D女王國以北とは、女王國以北の地域のことで、大陸との交易路に当り重要地域と非女王勢力のいる国々。
女王國までが12000里、奴国までも12000里、従って女王國以北とは奴国以北と同じ意味。

>E伊都國は「丗有王 皆統屬女王國」とあるから、伊都國には旧倭國王が女王國の監視下にいた。
(「丗有王 皆統屬女王國」の意味は「魏の治世に伊都國には王が居た、その王達はみな女王國に統属していた」である)
「丗有王」これは「魏の治世に伊都國には王が居た」との意味ですよね
魏の治世は短く数代の王が居たとしても1〜3人ですよね
1〜3人に対して皆を使うでしょうか?皆は倭の国々のことと理解した方が合致しますよ。

611 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 19:09:32.69 .net
>>603
>魏の治世に伊都國には王が居た

王の名前は何んて〜の?

612 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 19:17:32.58 .net
>>611
卑彌呼、壹與ですよ。

613 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 19:24:09.23 .net
>>611
>「丗有王 皆統屬女王國」

卑彌呼、壹與は、女王国の統べるに属してたの?

614 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 19:32:57.26 .net
「魏の治世に伊都國には王(卑彌呼、壹與)が居た、倭の国々の王達はみな女王國(伊都國を都とする国)に統属していた」

615 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 19:38:57.41 .net
>>614
「丗有王 皆統屬女王國」

伊都国の王が、女王国の統べるに属してただよ。

616 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/13(土) 20:03:32.39 .net
凡そ史料を解する事が出来ない者が、その単語について拘ってアレコレ云い立ててもみても無意味だよ。

617 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 20:07:26.21 .net
>>615
それが間違いなんだよw
丗・・・三国志魏書の中に書かれてる世だから魏の治世を指す
丗丗ではなく丗、代々と訳した場合でも魏の治世下の代々
魏の治世は短く1〜3代程度

皆とは「今使譯所通三十國」のことで
倭の国々はみな女王國(伊都國を都とする国)に統属していた
の意味

つまり伊都国が女王国の都だと書かれてる。

618 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 20:18:39.66 .net
「東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐」

伊都国に限定だべ。

619 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 20:25:28.93 .net
>皆とは「今使譯所通三十國」のことで
>皆統屬女王國郡使往來常所駐

「常所駐」も三十國なの?

620 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 20:52:38.74 .net
>>619
「常所駐」は伊都國だよ
女王國に統屬してる皆が「今使譯所通三十國」のことだよ。

621 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 20:57:05.75 .net
「東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐」
この文章は伊都國についての説明文だから
「世有王」のは伊都國だし、女王國も伊都國を都とする国のことだよ
伊都國が女王國(今使譯所通三十國)の都だよ。

622 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 21:09:05.44 .net
>>621
「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸」

女王の都は邪馬壹國だべ。

623 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 21:16:16.52 .net
妄想を根拠に語るのが九州説だから仕方ない

624 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 21:33:23.53 .net
魏志の「世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐」は、
魏略では「其國王皆属女王也」となっていて、ここまでに出てきた諸国の王
が女王に属していると説明しているだけ。
陳寿が追加した情報で分かりにくくなってるんだよ。

625 :602:2016/08/13(土) 21:40:54.79 .net
>>610
>帯方郡の端から女王國端までが12000里じゃないですよねw
>帯方郡の中心地ら女王國の中心地までが1200里ですよ。

「從郡至倭」
介詞「從」は、「郡を通って」とか「郡の先」の意味です。
郡の中心地を通るの意味はありません。
郡の辺境をかすめて通過しても「從郡」です。

「到」「至」に中心地に着いた意味はありません。
「從郡至倭・・・到其北岸狗邪韓國」
狗邪韓國は倭の端の国なのに「到」が使われています。
単に韓地の倭に到着したと言うだけです。

>伊都国で分岐する説のようですが、そんな難解な記述はしてありません
>倭人伝はもっと単純書かれています。

行程は、動詞+至(到) で書かれています。
行程の最先端は不彌國になります。
奴國は伊都國の東南百里にあると書かれているだけで、
この百里は行程に含まれません。

>女王國までが12000里、奴国までも12000里、従って女王國以北とは奴国以北と同じ意味。

そうですよ。奴國は女王國の一員ですから。
奴國以北と書くと不彌國以北は含まれなくなります。
なお、女王國以北には伊都国も含まれます。

>「丗有王」これは「魏の治世に伊都國には王が居た」との意味ですよね

そうですよ。魏の治世に伊都国には複数の王がいたと読めます。
その複数の王は、帥升王統倭國の末裔とみられます。

626 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:26:17.93 .net
倭奴国=日本海連合=北部九州、出雲、韓国南部=スサノオ大王

邪馬台国=瀬戸内海連合=東部九州、四国、吉備、播磨、畿内=女王卑弥呼

627 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:27:55.02 .net
邪馬台国は北部九州にはないよ

北部九州にはないからこそ北部九州の監視のために一大率を置いたんじゃん

邪馬台国が北部九州にあるなら一大率置く必要がない
邪馬台国から監視すればいいだけ

628 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:29:59.53 .net
伊都国は昔からの邪馬台国の属国
(倭人伝「代々王有り、女王国に統す」)

だから邪馬台国は伊都国に監視を頼んだ

その官の名がニキ=ニニギであり天皇の始祖だよね

629 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:30:58.99 .net
だから邪馬台国が北部九州にあったのではなく

ヤマト王権のスタート地点が北部九州にあった

だから重要な遺跡や墓が北部九州にあるんだよ

630 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:35:12.05 .net
奴国はニギハヤヒを輩出してる(天物部)

またスサノオとも関係が深い
倭奴国=奴国だとすればスサノオ大王の拠点が奴国だということになる

しかし金印は伊都国の領域から出土してるんだよ

だから、奴国が邪馬台国連合に組み込まれる(つまり倭国大乱が停戦する)
そのときの条件が「金印の封印」で
伊都国の官によって地中に埋められたということだよね

631 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:36:58.24 .net
>>622
邪馬壹國は女王の都するところ
つまり、女王の都のある国のこと
都ではない
当時の日本に「可七萬餘戸」の都市なんて存在してないよw

632 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:41:55.77 .net
>>624
魏略の「其國王皆」が三国志魏書では「皆」に対応している
魏略の「其國王皆」とは倭の国の王だから
つまり三国志魏書の「皆」とは「今使譯所通三十國」のことだな。

633 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:46:33.51 .net
>>625
0点の回答だ
全部自分の思い込みだなw
根拠を示さないと
私はこう思うだけでは話にならん。

634 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:47:49.54 .net
35万人が住める平野なんて宮崎平野に決まってる
筑後川沿いの平野は距離が合わないでしょ

635 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:49:23.66 .net
>>626から>>630も私はこう思うのカスの書き込みだな
妄想はやめてくれw

636 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:51:04.03 .net
流石は脳内ラノベ品評会の九州説スレだな
笑いが止まらない

637 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:53:09.72 .net
>>634
日本全体で400〜500万程度の人口しかない時代に
宮崎平野とか筑後川沿いの平野に35万人も住める訳ないでしょ
九州の北半分が邪馬壹國ですよ。

638 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:54:44.36 .net
水行10日陸行1月かかるのになんで北部九州になるんだよ
どんだけ足遅いんだ

639 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:55:46.41 .net
BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

640 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:58:03.94 .net
>>638
九州説はこれを見事なくらい無視してるから笑かしてくれるよな
川だとか言うけど川で10日も移動してその後1月移動してまだ北九州なのか?w
んでその大河はどこの川なんだよとww

バカじゃねぇの

641 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 22:58:30.45 .net
>>637
いやちょうどじゃん
平野ごとに人が繁殖して増えるわけだからな
宮崎平野35万人ぜんぜんおかしい数字じゃない
九州全体で80万人くらいで日本全体で500万人
別におかしくないだろ

642 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:01:05.42 .net
宮崎平野なら山越えルートになるから陸行1月かかってもつじつまが合う
人口もつじつまが合う
残された神社や説話的にもつじつまが合う

パーフェクトじゃん

643 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:01:22.05 .net
>>638
日数は里数(距離)を時間で再度説明し直したもの
郡からの日数
陸行一月は末盧國から奴國までに相当することになるから陸行一日の誤記だな。

644 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:17:15.48 .net
都合の悪いことには「それは誤記だから」とか言い出したらなんでもありだな

645 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:21:19.48 .net
江戸時代で街道が整備された時代とはいえ江戸から伊勢に行くのに徒歩で12日で着くのに北九州から宮崎まで行くのに船で10日と歩きで一月とかどんな寝言だw

646 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:27:18.74 .net
>>645
大八車も馬もない時代
荷物を人力で運ばなきゃいけない
それで整備されてない山越えルート

1月かかるのは普通でしょ

647 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:28:06.91 .net
しかも宮崎とかの南九州は北九州と違う土器を奈良時代近くにまで維持した別文化圏が存在してる
邪馬台国の影響は北九州にも及んでいるので南北で別文化圏になってる時点で南に邪馬台国なんてあり得ない
むしろこの領域が隼人の土地なのではないかと言われている

648 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:30:30.59 .net
>>647
邪馬台国はワンポイントリリーフ

武力や権力で覇権を得たのではなく「共立」で覇権を得ただけだからな

覇権が続いたのもせいぜい50年

649 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:32:37.07 .net
九州の実質的盟主はあくまでずっと奴国だったってことでしょ
九州のというか西日本のというか
邪馬台国はあくまで大乱をおさめるためのワンポイントリリーフ

650 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:34:52.79 .net
だから旧邪馬台国領である宮崎が別文化圏を続けててもなんら不思議じゃないよ
というか旧邪馬台国領だからこそ特別扱いされて別文化圏を続けられたとも言える

651 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:36:28.50 .net
ちなみに奴国には朝倉、三輪山という地名がある
これはもちろん奈良の桜井、三輪山と関連がある地名だよね

奴国勢力が奈良に領地を持っていたという

652 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:38:47.01 .net
その奴国がおさめる奈良に後から入っていったのが神武だよ

(ちなみに倭人伝では女王に属する国の紹介で「奴国」が二回出てくる、これは北部九州と奈良に領地を持っていたからだよね)

653 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:38:50.20 .net
>>648
北九州は庄内式土器の方式に短期間で変わっている
南九州はそういう流れに取り残されている
そうなると何を持って宮崎に中心的な存在がいたという根拠とするのか?
宮崎にそういう広域的な共立の盟主となっていたという物はない

そういうのなら共立された証拠など何もないと言う自白にしかならない
証拠もないけど中心だと言うのなら外国だって邪馬台国に出来る

654 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:41:02.81 .net
>>653
根拠はすべて失われたよ
魏からもらった鏡などの宝物はすべて神武に持ち逃げされてる

655 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:41:38.55 .net
証拠はありません
でも邪馬台国でした

結局はこういってるだけだな

656 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:45:37.06 .net
>>654
畿内に南九州からの遠征を受けた跡なんてないよ
土器の流れも畿内から北九州と言う流れ
畿内は吉備の影響は強く受けているけど九州、ましてや南九州の影響はほぼ見られない
南は取り残されて古い形式の土器を維持してるような状態

つまり畿内、北九州とも別の文化圏として存在し続けている
逆に歴史的な流れでは隼人の勢力と考えるのが妥当

657 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:47:48.44 .net
邪馬台国は隼人の国だと発想すれば何も矛盾はない
頭が固いんだよ

658 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:50:15.93 .net
>>653
北部九州や瀬戸内の花弁状住居、畿内の伝承、後の蛇行剣

659 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:51:47.96 .net
史料は全部持ち去られましたとか言い出したらもう邪馬台国は宇宙でも良いなw
UFOがアブダクションしたことにしよう

660 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:52:07.00 .net
邪馬台国は隼人の国なんだよ
卑弥呼は弟としか会わなかったし
諸国も直接統治するのではなく伊都国の一大率を通じて行ってる
基本的に引きこもり気質の国であって

だからこそ国から出ることを「天孫降臨」なんて大げさに表現するわけだ

661 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:52:31.15 .net
>>657
共立どこ行ったんだよw
その場その場で適当な事ばかり

662 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:53:54.60 .net
だから邪馬台国本国は他国との交流は少なかった
交流するとしても、邪馬台国からどこかへ行くのではなく、どこかの使者が邪馬台国へ来る、というパターン

それでいえば>>658のように他国から使者が来た証拠が残ってる

663 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:55:03.70 .net
>>661
なんで?隼人の国から王を共立しちゃいけないの?

664 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:55:41.38 .net
纏向には日本各地の土器が集まる祭祀の中心遺跡を持ち、北九州には庄内土器が入り込み強い影響を残している

南だけ
南だけが完全に取り残されて古い弥生時代の形式を維持してる
これで共立された盟主がいる?
何の証拠があってそう主張するのか根拠が全くないな

その程度の主張
思い付きで適当な事を言うだけのラノベ

665 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:57:50.69 .net
>>663
根拠
根拠は何?

なーんにも広域性を示すものもありません
別文化圏です
でも広域の勢力の中心的な勢力として共立されました?は?
その根拠を示しなさい
ぼくがそうおもいましたなんて通ると思ってんの?

666 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:58:19.56 .net
>>664
巻向にはいろんな出自を持つ勢力が入り込んでいたんだからいろんな土器が出るのは当たり前

開拓期のアメリカみたいなもん
フロンティアだったというだけ

フロンティアに王朝があるなんてありえないでしょ
だから逆の証拠だよね
いろんな土器が出るのは巻向に邪馬台国はなかったという証拠だよ

667 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:59:32.61 .net
>>665
広域性を示す必要がない
なぜなら金印を持っているから

668 :日本@名無史さん:2016/08/13(土) 23:59:50.68 .net
おかしくないでしょ?じゃねぇよw
主張する理由が何一つねぇじゃねぇかw

じゃあ青森が邪馬台国だっていいわ
青森が邪馬台国で王に共立されたっていいでしょ?

669 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:02:12.51 .net
>>668
水行10日陸行1月
倭人伝が出発点だからな

倭人伝無視したらダメでしょ

倭人伝を無視して土ばっか掘ってるのが北部九州説や畿内説

倭人伝無視していいなら邪馬台国なんて関係ないじゃん

670 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:02:17.94 .net
>>668
青森は行程や気候があわない

671 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:02:57.75 .net
>>666
纏向遺跡の事知ってる?
あと畿内に弥生時代前期から時代の最大クラスの水田があるの知ってる?
銅鐸生産の中心地があるの知ってる?
あと纏向が計画的な水路や、プールのような水の祭祀施設、巨大宮殿のある都的性格を持つ祭祀遺跡って知ってる?

「九州は先進地域、畿内は未開のド田舎」

とかいうイメージだけで語ってるでしょ?
その程度のイメージだけの話なら文字通り論外だな

672 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:04:36.13 .net
だから根拠を見せてよ根拠
宮崎が広域連合の王に共立されてたっていう根拠を

おかしくないでしょ?じゃどこだっていえるわ
結局その程度って事だ

673 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:05:52.66 .net
>>671
そんなもん北部九州にだってあるだろ

畿内は大国主が開拓した土地だろ?
そりゃそのくらいの施設あるだろ

674 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:08:53.05 .net
邪馬台国は武力がなかったからこそ金印と鏡を欲しがったんだよ
それがすべてだった

100枚なんて大量の鏡を欲しがったのは外交のため
金印で権威を見せつけ鏡配って喜ばせるのが邪馬台国の基本外交だった
それを引き継いだのが神武だよね
神武勢力は畿内で鏡を配りまくった

675 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:11:25.72 .net
あと中国の北史、隋書には今の大和朝廷の都は魏志にある邪馬台国だと書いてあるから
使節の裴世清が都にまで来た事は日中の史書にある
また梁書では台与の後も男性王が立って使節が送られてきて、北史、隋書では使節が絶やさず来てたとある

この都がまさか宮崎だっていうのかね

676 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:19:25.82 .net
弥生の土器の流れからみると、瀬戸内は南部九州から搾取され
畿内は北部九州から搾取され、北部九州は南部九州から搾取されている。
南部九州の土器はどこにも移動しない(=どこにも搾取されていない。)

677 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:23:45.35 .net
>>676
金印の威光のお陰だよね
卑弥呼は引きこもりだから

678 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:25:41.86 .net
>>675
そうは書いてない

大和朝廷は邪馬台国と同じと書いてあるだけで「位置が同じ」とは書いてない

だから記紀の通りの東征だよ

679 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:29:34.73 .net
宮崎にある邪馬台国の勢力が東征したのが大和朝廷
記紀にも日向から出発したって書いてあるじゃん
ただし卑弥呼は子供のいないおばさんと倭人伝に書かれているから
あくまでざっくりとした意味での「邪馬台国の勢力」であって
神武自体は血筋的には伊都国の家系だよって話

680 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:30:22.01 .net
卑弥呼の子孫はいないわけだよ

だから墓が残ってないわけ

墓ってのは子孫が守るものじゃん

681 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:30:35.02 .net
>>678
ほほう

「北史」
居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也
・ヤマトにいる。魏志で言う所のヤマト

「隋書」
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也
・都はヤマト、魏志のヤマト

682 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:33:50.33 .net
九州、それも南九州説とか結局根拠も何もないと分かりました

683 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:38:16.88 .net
>>676
流入は大乱の一時期で卑弥呼の時代とズレてる
瀬戸内海や北九州との交流や大乱の避難民の流入と考える程度の内容
時期も内容的にも中心性を示すものではない

684 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:41:00.92 .net
隋の使者は有名な裴世清が都に来てると書いてる
この使節については日中共に合致している
だから中国の使者が日本の都を知らないわけがない

685 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:43:17.65 .net
>>683
瀬戸内から南九州への土器の移動は倭国大乱のずっと前から始まっている。
さらに搬入土器の種類の推移をみると初めにモノがきて、間をおいてヒト(労働力?)が来ている。
なので瀬戸内側に主体性がある入植の可能性は低いと思う。
むしろそれは逆で、
時代が下るにつれて搬入土器の起源地が、伊予から東部瀬戸内に変化していくのは
他地域(北部九州)との植民地競争もある中で、南九州の支配領域の変化に連動している為ではないか

686 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:44:35.93 .net
>>681
それは漢字表記を書き直しただけでしょ

687 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:48:04.87 .net
>>686
「裴世清が都に来てる」

おけ?
何度も書いてるけど

「裴世清が都に来てる」んだよ
その上で「都が魏志と同じです」と書いてるんだよ

688 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:48:52.90 .net
>>682
一番根拠が薄いのは畿内説
倭人伝の記述と場所から文化までかけ離れてる

689 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:49:41.72 .net
>>687
漢字表記に魏志と違う文字を使ってるけど同じだよ
って断りを入れてるだけ

690 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 00:59:55.18 .net
>>685
南九州は大乱時期の流入後しばらく瀬戸内海式の土器が使われるようになる
だけどその後は次第に廃れて使われなくなる
この大乱の時期に移動や交流が多くあり、その後南九州への移住や交流が衰退したことを意味する
一時的な現象だと考える方が自然
中心地の移動については逆に南九州の土器や生活様式が四国に至ってないので植民地どうのなんてレベルになってない

691 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:05:28.99 .net
邪馬台国は人口が異様に多い=米の石高が大きいということ

倭国大乱で荒廃した北部九州に米を配って手懐けたんだろ

692 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:07:29.25 .net
宮崎平野は山に守られた場所にあるだろ?
だから北部九州の大乱に巻き込まれなかった
そして北部九州が戦争で疲弊して勝手に没落してる間に覇権を握った

693 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:08:35.83 .net
北部九州説よええな
全員南部九州説に鞍替えだな

694 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:16:54.45 .net
勢力関係を見ると弥生終末期には畿内・吉備を中心として北九州にまで至る広域連帯が出来てる状態だな
南九州だけが取り残されてる
そんな中で隼人は古墳の早い時期の建造等を見ると大和朝廷に早期から服属した出先機関的な存在だったと考えられるな
どの道ここに倭の中心的勢力があったとはとても言い難い

695 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:29:15.09 .net
50年あっただけ
しかも卑弥呼は引きこもりだし

その後台与の時代に神武が東征王朝を立ててる
(倭人伝「男王並び立ち朝貢する」)
台与が神武の後を追って畿内入りしてからは宮崎は「旧王家領地」として半ば放置された形になったんだろう

696 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:30:06.02 .net
だから何も矛盾はないよ
邪馬台国は宮崎平野

697 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:33:20.64 .net
ちなみに沖縄の初代王朝を建てたのは「天孫氏」であり名前は「アマミク」
「アマ」が名字だよね、アマタラシヒコといっしょだよね

北部九州からどうやって沖縄までいくのか
南部九州ならつじつまが合う

698 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:37:12.64 .net
結局「そう思うからそうなんだ」以外の根拠なしか

まぁそんな程度だとは思ってたけどね

699 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:39:10.53 .net
こんだけ説明しても「アーアーキコエナイ」しかないんだからな
そら九州説なんて今じゃまともな奴は誰も支持しないわ

700 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:40:36.62 .net
いっそハワイにあったとか言えば良いのになw
別に根拠なんて無くても良いんだから
行程だって「ついてもおかしくない」とか言い張るだけならなんかの間違いでアメリカまで行くかもなw

701 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:41:59.34 .net
倭人伝の記述と違いすぎる畿内説は真っ先にありえないとしてね

702 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:42:58.02 .net
>690
花弁状住居も瀬戸内でいくつか見つかっているが、
植民地といってもあくまで搾取の為のもので、南九州からのいわゆる植民ではないと考えている。
瀬戸内方面については拠点はあったのかもしれないが海賊に近いかな。移住する必要もないし。

黍や粟の類を定期的に略奪されていたのだろうか。その度に彼らは銅鐸を埋めて高地性集落に一時避難する。
何れにしても無限に絞れるわけではないし、関係性は当然変わっていくだろう。

703 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:50:11.60 .net
参勤交代のようなものだよな
各地の代表が卑弥呼の弟に会いに来ただけ

704 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 01:58:06.95 .net
>>702
まず上でも書いたけど時期がズレてる
卑弥呼の時代にはほぼ流入は止まってる
そして交流が盛んだった後には模倣などに変わって在地で作られてる
なんで貢物運ぶのに在地で土器作るのか
その理屈なら全部持ち込みじゃないとおかしい
辻褄が合わない

705 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 02:06:32.43 .net
>>704
そりゃ高天ヶ原だからだろ
おのぼりさんも土器くらいつくるわ

706 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 02:11:06.37 .net
>>704
機能が高ければ模倣をするだろうし、輸入した奴隷の系統が作る場合もあるだろうし
やがて関係性も変化して、その先の畿内と密接な関係を持ち出す(古墳時代)。

707 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 06:52:28.61 .net
ここは北部九州説のスレです。
ご意見の違う方もどんどん書き込んでください。
反対意見大歓迎です。
排他的な畿内説スレとは違うよ。

708 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 07:20:45.82 .net
>>681
日本語訳がおかしい
正確には、下記のとおり

「北史」
居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也
・ヤマトにいる。魏志で言う所のヤマ臺なる者也

「隋書」
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也
・都はヤマト、魏志のヤマ臺なる者也

709 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 07:27:04.17 .net
日向国の推定人口
800年 900年  1150年  1600年
45,800人 56,600人 60,200人 90,200人

宮崎に7万戸(35万人?)の邪馬台国は無理だな。

710 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 07:30:53.23 .net
「北史」
・魏志で言う所のヤマ臺なる者が、ヤマトに居る。

「隋書」
・魏志で言うのヤマ臺なる者が、都をヤマトに於く。

711 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 07:31:28.07 .net
3世紀には文字が日本全体に普及していなかった
おそらく北部九州の一部で使われていた程度
広域国家成立には文字を自由に使いこなせる多くの官僚が必要だから
畿内説なんて鼻から成立しない。

712 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 07:36:35.25 .net
まだ当時は邪摩堆、邪靡堆と呼ばれる地が九州に在ったんですね。

713 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 07:38:10.44 .net
>>694
文献も無いのに何妄想を述べてるんだW

714 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 07:44:25.66 .net
>>712
「北史」
・魏志で言う所のヤマ臺なる者が、(北史の時代には)ヤマトに居る。

「隋書」
・魏志で言うのヤマ臺なる者が、(隋書の時代には)都をヤマトに於く。

715 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 09:19:18.21 .net
>>711
>広域国家成立には文字を自由に使いこなせる多くの官僚が必要だから
>畿内説なんて鼻から成立しない。

  そのとおり。これは歴史の絶対的な定理だ。「いや、インカの縄文字の例も
 ある」みたいな変な反論をしていた畿内バカもいたけどな。記紀が7世紀に成立
 したことを考えれば、3世紀に広域国家が成立していた可能性はほぼゼロ。漢字
 そのものは3世紀に中国から入っていた可能性が高いが、小国分立状態では、
 ヤマトコトバの音に表意文字である漢字ををどう当てはめるのかはそれぞれの小国
 の自由。広域統一国家が成立して初めて漢字表記が統一されるのだ。このことだけでも
 3世紀に広域統一国家などあり得ないことはガキでもわかるだろう。畿内説など
 100%あり得ないのだ。

716 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 09:41:11.51 .net
歴史的には「風土記」の成立の意味が極めて大きいと考えられる。つまり、上述の
とおり九州、出雲、吉備、東海などでそれぞれのやり方で行われていた「ヤマトコトバ
→漢字当て嵌め」が大和朝廷によって統一されたからだ。それぞれのクニで書かれて
いたはずの文字記録は大和朝廷の統一後は史料的な意味を失ったのだろうから。

717 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 09:43:52.81 .net
出土物をトリビアリズムだけで見ていても歴史はわからない。インフラ(土木・建築、
交通、通信、資源・エネルギー、食料、水など)がわからなければ歴史はわからない。

718 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 10:16:37.29 .net
8世紀初頭に大和朝廷の統一で焚書が行われ記紀に反する内容の書物は失われた。

719 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 11:23:37.50 .net
結局「ぼくのかんがえたきゅうしゅうせつ」しか根拠が無いのがよく分かった

廃れて当然だな

720 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 12:24:21.02 .net
>>719
反論できません参りました
との意味に受け取っておこうw

721 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 12:24:24.14 .net
北部九州だけじゃなく日本海(松江の硯)でも文字は使わてていただろ
そして松江は四隅突出型墳丘墓の勢力範囲内で
四隅突出型墳丘墓は日本海沿岸を広く越まで分布している

「少なくとも」
北部九州〜日本海沿岸に文字が分布していたのだろう

722 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 12:53:16.76 .net
四隅突出型墳丘墓の分布域は旧銅剣分布域と一致している
そして
四隅分布域の最重要拠点である丹後若狭湾に四隅が無い

北部九州(銅矛)と出雲(銅剣)が戦い、出雲が敗北
北部九州に認可された新支配豪族の象徴が四隅
日本海唯一の軍港である丹後若狭湾は北部九州王族が直轄

出雲の銅鐸銅剣銅矛同時出土
銅剣滅亡・銅矛存続
日本海土器の北部九州への移動
記紀の出雲国譲り、丹後周囲の貴種出現
丹後の家系図

全てが説明できる
日本海側は北部九州が制圧したのだろう

723 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:00:30.97 .net
瀬戸内海側については銅戈の存在がある

同時期に瀬戸内海をはさんで九州と大阪湾という隔絶した二地域に
銅戈が分布することをどう考えるのか

先進地域の北部九州が銅矛分布域→瀬戸内海高地性集落分布域と進軍して
瀬戸内土器が北部九州へ運ばれるようになって

次なる畿内攻略段階が銅戈と考えれば自然

724 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:01:33.42 .net
BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

725 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:09:51.36 .net
57年の金印は出雲に勝利した倭奴国が
西日本倭人勢力の勝者として貰ったんだろうな

726 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:14:39.49 .net
>>722
出雲征服は4回くらいやってる

スサノオの出雲征服→アマテラスとスサノオのウケイ→タケミカヅチ(アマテラス)の国譲り強要→ヤマト王権の出雲征服

57年はスサノオだろう
そこから107年までスサノオの系譜が日本海の覇者だったが
その後北部九州(奴国)と出雲(大国主の出雲)に国が分かれた

727 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:16:33.04 .net
>>726
記紀ベースでしたら
同じ出来事を繰り返している可能性があります

728 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:20:23.74 .net
1世紀以降の出雲は絶対に独立していない

出雲が独立するには丹後若狭湾を領有するのが絶対条件
他の勢力に丹後若狭湾を領有されていたら
海運を掌握されて出雲は何もできない

729 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:22:21.95 .net
倭人による出雲地方制圧、出雲国成立(銅鐸銅剣開始)
北部九州倭奴国による出雲制圧(銅矛による銅鐸銅剣征服)

これを増幅させただけ

730 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:22:48.13 .net
タケミカヅチは奴国の人間だったんじゃないか?

邪馬台国の人間ではなかったから「天孫降臨」とは言われなかった

宮崎から佐賀に行くことを「天孫降臨」なんて大げさに言ってるのに

タケミカヅチは出雲まで派遣されてるのに天孫降臨とは言われない

タケミカヅチは天孫ではなかった
つまり邪馬台国系の出自ではなかった

しかし船で日本海側の出雲の砂浜に上陸してるんだよ

日本海を通って出雲の行ったってことは北部九州の勢力だったんだろう

731 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:26:21.75 .net
>>728
九州とはやんわり適当に付き合いながら東に勢力を伸ばしたのが大国主だろ
長野の諏訪や伊勢、関東辺りまで大国主の伝承がある

732 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:28:13.19 .net
国譲りの使者を2度懐柔してるからな大国主は

つまりうざい上司(アマテラス)を適当にあしらいつつ、無視して東に勢力を伸ばしたと

733 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:30:09.53 .net
もちろん畿内にもな

長男である事代主に畿内を任せてる

(大国主も事代主も「役職名」「尊号」だろう、天皇と皇太子のように、家長が大国主を名乗り、長男が事代主を名乗ったと思われる)

734 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:32:23.92 .net
そして国譲り以後は「国」の文字が取れて大物主となったと

大物主になったあたりで奴国ニギハヤヒ勢力と結んだと思われる

ニギハヤヒは「天照国照」の称号を得てる
天しか照らさないアマテラスと比べても、破格の称号である

735 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:33:12.19 .net
立鉾鹿島神社ってのがタケミカヅチを祀ってるんだが
タケミカヅチは鉾を使っていたらしい

奴国出身だとしたら鉾を使っていた説明がつくが
いよいよ東遷説になってしまうぞ

736 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 13:40:36.65 .net
宮崎にこだわる人がいるけど
記紀の記載で宮崎を指定してる部分って地名以外にある?

そもそも筑紫の日向だから、北部九州筑紫にあった日向という場所と読めるし
そのほかも地名だけなら後からつけれるよね

一方で、神社は格式があるし
7世紀当時も神社固有の領地や権力を持っているから変更できない
記紀前半に出てくる神社は全部北部九州のものだよね

737 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 14:41:44.05 .net
奈良と宮崎の古墳時代の遺跡・遺物の共通性
畿内から遠隔であるはずの日向から多くの后を出している。

http://style.nikkei.com/article/DGXNASJC2701L_T00C14A7000000#

"古事記では3人で、日本書紀では4人の日向出身の后が登場する。
天皇に仕えた女性は古事記全体で計85人。このうち畿外出身とみられるのは21人。
内訳は近江5人、丹後3人、吉備2人、尾張2人、伊勢2人など。日向は圧倒的に離れている。"

理由付けは地元の人も残念ながら畿内中心史観だから仕方ない。

738 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 15:12:47.65 .net
筑紫・豊なくて、日向あり、・・・か

739 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 15:19:08.56 .net
日向出身はいいけど
地名以外で宮崎出身と言える証拠はあるの?

740 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 15:27:05.30 .net
それはいいけど
地名以外で宮崎出身でないと言える証拠はあるの?

741 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 15:42:57.84 .net
神社の分布が妙だなと思って

742 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 15:49:58.28 .net
畿内攻略とかノウミソ湧いたような事言ってるバカの巣が九州説

743 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 16:05:08.49 .net
結局何を聞いても「ぼくちゃんがそうおもうから」以外の理由なしか

それに疑問さえ感じてないんだからもうアレだな
根本的に頭悪いんだろうな
九州説のアホさの意味がよく分かった

744 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 16:05:43.03 .net
宮崎には、
十六八重表菊の神紋を掲げる皇室関連の神社が少なくないな

745 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 16:11:36.01 .net
総本社はある?

746 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 16:13:18.37 .net
その紋章がいつどうやって付いたのか調べてみると良い
九州説のアホは何も調べない

747 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 16:28:22.52 .net
邪馬台国が九州に無いとわかると言い訳に窮して大和朝廷まで九州にあったとか言い出すからな
むしろそうなると更にあらゆる史跡や史書と整合が取れなくなるけどお構いなし
とにかく九州だと言い張れれば何でもいいってのが九州説
上で瀬戸内海の土器の流入も時期も違う、更には四国との関係でしかないのに何故か邪馬台国の根拠と言いたげだし

その場その場で思い付きの適当な破綻した言葉を吐き続ける
それが九州説とよーくわかった

748 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 16:33:22.11 .net
倭国大乱は北部九州を舞台にして北部と南部が争った。瀬戸内は全く関係ない。
瀬戸内とは争ってさえいない。銅や食料や奴隷の調達に来た複数の九州勢力から逃げるだけなんだから。
という考え。

749 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 16:36:29.48 .net
南北は別文化圏
北九州を影響下に収めた邪馬台国が南にあるわけがない
そして北九州は畿内の影響を強く受けた状態にある
なぜ支配したはずの南九州だけ取り残され、なぜ支配下のはずの北九州が畿内の影響下にあるのか
辻褄が全く合わない
思い付き手で適当に喋ってるだけ

で何の根拠もなく「べつでもいいじゃないか」とか言うのがせいぜい
そんなんでいいなら邪馬台国は世界中のどこだって「いいじゃないか」ですむわw

750 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 16:37:52.96 .net
ですな
倭国大乱は北部九州の中での争い
その他の後進地域は高天原での戦いを見てただけ

ただ、出雲勢力(を従えた倭国勢)くらいは多少倭国内政に食い込んでいたかもね

751 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 16:49:28.17 .net
かんたんだろ

中九州の肥後日向勢力が東征して畿内王権になり、
北部九州(筑豊)に影響を及ぼしたのさ
(別文化の南九州隼人を除く)

(なお、肥後日向は中九州と言うべき、熊本・阿蘇・高千穂は九州のど真ん中に在るからな)

752 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 16:54:02.24 .net
そう思いたいけど物証がない

753 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 17:11:08.46 .net
南九州の土着勢力が、力を得て東征したのではないだろう。
その勢力のその前は、
おそらく中国大陸を追われた渡来の一民族だったのだろう。
彼らにとって、中/南九州は、畿内に定着するまでの短い中継地だったのさ。

だから記紀の編纂までに、その前歴を消しさるべく、あの手この手を弄したのではないか。
後世に物証を残さないためにな、、、、

754 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 17:23:03.01 .net
縄文時代ならともかく
長い戦乱を経た弥生時代に
渡来人が地元民を制圧するのは厳しいと思う

南九州だけなら可能かも試練
が、畿内を制圧するにはそれなりのベースがないと無理ではなかろうか

755 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 17:25:23.74 .net
ただ、彼らにも誤算があった
というか、想わぬ物証が残ってしまったのだ。

云うまでもなく、それが魏志倭人伝だったと言うわけだ。
倭人伝を否定するわけにもいかず、
卑弥呼の事をあれこれ取り繕うために、大汗、冷や汗のかきどおし、
それを千八百年後の今日まで引きずっているのであろう、、、

756 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 17:28:09.76 .net
つまり倭人伝が正しくて北部九州倭国

757 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 17:31:26.40 .net
国家運営に手慣れていた様子から、
渡来して、中・南九州に入り込んだ勢力は、
中国大陸で一国を成していた王族ないし軍閥だったに違いない。
もちろん、大挙して渡来するからには、大陸の最新式兵器・兵員を伴ってのことさ。

758 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 17:32:52.51 .net
あーあまたかい
そんなのが侵入したら中・南九州に痕跡くらい残ってるはずだろ

なーんもない

759 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 17:36:40.63 .net
「そうおもう」「そうかんがえればつじつまあう」

根拠は?なんかの根拠を元にそう言ってるの?
根拠もなく勝手な妄想で語って良いなら邪馬台国なんてどこにだって創り出せるw
これが九州説だな
ここまでただ一つの根拠もない

760 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 17:37:54.89 .net
どうせ終わった畿内説の攪乱戦法だろ

761 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 17:52:10.22 .net
九州他説を自ら持ち出して
九州は比定できないからダメだとこきおろす

また醜くからずや

762 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 17:53:55.31 .net
九州のどこ説でも根拠なんて上がってねーけど
またそうやって言い逃れ
それが九州説

763 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 17:55:31.63 .net
タケミカヅチが鉾を使っていた伝承が残っているのなら
少なくともその時代までは鉾が使われていたのだな

鉾が使われていたのに関わらず
鉾そのものが残っていない・・・か

764 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:02:00.57 .net
でたでた矛www

弥生時代の後期になると畿内でも『九州でも』矛は実用道具として使われなくなっている
この頃の武器は剣と楯と弓
倭人伝では「兵用」として矛を書いてるので当然『巨大化して使い物にならない祭器なんて指してない』のはバカでもわかる
まさか祭器用の銅矛の数を上げて「キュウシュウダ!」とか叫んでるアホはいないよな?
で、その場合畿内も九州も該当しないことになる

しかし筒状の矛の分類は考古学用語でこの分類を古代に用いていたわけではない
また中国では槍と矛に区別をしてない
なので長物武器を矛と記載していたと考えられる
長物については畿内、九州ともに短剣を棒の先に括り付けて槍として使っていたと考えられている

はい、ご理解いただけましたか?「矛が出るから九州説だ!」さん

765 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:04:41.13 .net
>>749
北九州が畿内に衛星国を持ってたからだろ
倭奴国は分裂したんだよ

766 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:05:20.67 .net
その鉾がなぜか4世紀以降であろうタケミカヅチによって使われている
だから不思議だと言っている

まあ
北部九州説の詰めはあとは鉾くらいだからな

ちなみに畿内はゼロ
「ゼロ」だからお引き取りください

767 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:05:33.56 .net
>>764
畿内は銅鐸しか出ないから論外だけどな

768 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:05:47.90 .net
矛だ矛だ!矛が出るからキュウシュウだ!

とか叫んでるくせに「兵用」という字を都合よくガンムシして「巨大化した祭器」の数を嬉しそうにあげてはしゃいでるんだからな
かわいいよキュシュウセツ
キュウシュウセツかわいいよ

769 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:07:52.73 .net
はい、こうして九州説が倭人伝すら読んでない事が露呈しましたとさ

挙句に見当違いの言い逃れ
みなさん「これが九州説です」

良くご覧ください
とてもすてきなコメディーです

770 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:12:55.27 .net
問題点は
唐古鍵と銅戈勢力が同盟を組んだのは確定ぽい

奈良が尾張の前方後方墳勢力の影響下にあったのも確定ぽい

畿内攻略グループとしては
銅戈勢力+唐古鍵
奈良+近畿前方後方墳
の2つがあったはず

では
おおもとの北部九州倭国が邪馬台国と狗奴国に分かれた時に
それぞれがどちらについたのか

771 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:13:37.49 .net
タケミカヅチの親は伊都之尾羽張(イツノオハバリ)という

名前から考えれば伊都国の出だろうね

つまり邪馬台国は伊都国を属国にしていて(倭人伝「代々王有り、皆女王国に統す」)
邪馬台国が伊都国の将軍であるタケミカヅチを出雲に派遣したということだよね

772 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:14:04.11 .net
ラノベはチラシの裏にでも書いてください

773 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:14:56.14 .net
こういう「古代史なら適当こいても大丈夫」とか思い込んでる奴らの掃き溜めが九州説なんだろうなぁ

774 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:16:02.08 .net
卑弥呼がアマテラスだとすると
卑弥呼は王位についた50年そこらの間にかなり多くのことをやってるんだよね
電光石火の勢力拡大戦を指揮してる

古代史ってなんとなく「のんびり」したイメージがあるかもしれないけど
ぜんぜんそんなことはないという

775 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:17:30.12 .net
>>771
>伊都之尾羽張

ほ、ほんとだ
だから矛なのか

776 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:21:19.29 .net
邪馬台国論争の前に

金印の倭奴国、帥升の倭国を考えなきゃいけないよ

それら二つの大国は(同一の国かはわからないが)
いずれにせよ滅亡または分裂したんだよ

倭国には大王がいたが、倭国大乱の時期にはいなくなっていた
というか帥升の倭国が潰れたから大乱が起きたと考えた方がいい

そこをまず頭に入れないと

北九州と畿内に交流があるなんて当たり前

777 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:24:41.76 .net
銅戈勢力+唐古鍵は敗者だから狗奴国側

奈良+前方後方墳は勝者だから邪馬台国側

ここまでも確定

奈良+前方後方墳の初期である円形周溝墓について
吉備からのつながりを認めるのかどうか

778 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:26:53.46 .net
>帥升の倭国

卑弥呼以前に倭国はあったのだな

779 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:27:27.18 .net
邪馬台国以前にも大規模統一連合はあったわけ
それが大乱の時期に分裂したわけじゃん

でも分裂したといってもある程度さ、
こことここは繋がってる、あそことあそこは繋がってるっていう
小規模な連合ラインは残るわけじゃん
古代は婚姻によって連合してたわけだから

北部九州と畿内のライン、南部九州と瀬戸内海のライン、北部九州と南部九州のライン
出雲と吉備や畿内のライン
それぞれがそれぞれラインで交流してて、複雑に絡み合ってたわけ

780 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:33:30.52 .net
倭人国大乱じゃなくて倭国大乱だもんな

781 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:36:58.09 .net
>伊都之尾羽張

伊都の語はなかなか見ない、と言うか他ではみかけないねえ
だが、「伊都国」は実在し、重要な国であったとおもうね

782 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:41:31.76 .net
奴国は旧倭奴国で、倭国大乱によって覇権を奪われた国だよ
だからこそ邪馬台国は伊都国に監視機関を置いて奴国を見張ってるわけだ

一方で奴国には大国だった時代から畿内に直轄地を持っていて、大乱後もそれを維持していた
(倭人伝に出てくる二つ目の奴国)
そこの統治を任されたのがニギハヤヒだよね

ニギハヤヒは物部の始祖であり、北部九州の天物部の出
奴国は九州東北部沿岸を支配したが首都は内陸の今の福岡県朝倉市でしょう
朝倉市には「三輪山」という山があるんだよ
奴国勢力が畿内に移住して故郷の朝倉、三輪山に見立てて、
奈良の地名を桜井、三輪山と名付けた

奈良で大国主の勢力と合体して、
大国主+物部=大物主という神を三輪山に祭ったわけだ

783 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:44:44.09 .net
奴国は伊都国の「東南陸行百里」だからな
奴国の中心地はあくまで内陸部にあったということ

784 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 18:50:49.61 .net
>奴国は伊都国の「東南陸行百里」だからな

正確に云うと、「東南百里」。陸行かどうかwからん。

785 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 19:07:44.97 .net
倭奴国=帥升の倭国=スサノオ大王の国
だとすると
アマテラスとスサノオのウケイの意味がわかってくる

倭国大乱により分裂した倭国の再編成のための「ラインの整理」がウケイの意味だ

倭国分裂により、各大国の衛星国が各地に散らばってしまったのを
領土交換によりわかりやすくまとめようというのが本旨だ

つまり宗像地方は奴国の地だったが邪馬台国に編入された
(記紀「スサノオの剣をアマテラスが噛み砕くと破片が宗像三女神となった」)
逆に出雲周辺の地は邪馬台国領土だったが奴国に編入された

こうして領地を整理、再統合したのがウケイ説話だ

786 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 19:08:28.26 .net
>>782
倭国大乱とはいうけど
列島内領土はともかく海外領土を保持しているのだから
博多湾を中心とした邪馬台国勢力は
大崩れはしていない

787 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 19:13:00.13 .net
朝倉こそ卑弥呼の居城。
倭国は九州北部のみを指し、倭国大乱は奴国の没落、邪馬台国と狗奴国の対立など、複雑な様相を呈していた。
近畿にはニギハヤヒらが進出していたが、遠く隔絶していたため、大乱には関与していない。
卑弥呼の治世には対立していた肥国も、肥前の壹與が共立されて倭国は筑紫、豊国、肥国の連合体に拡大する。

788 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 19:16:50.50 .net
>>782
時代設定がずれてない?

壱岐対馬を併合して朝鮮半島にもある程度の影響を及ぼしてこその
朝貢ルートなわけだから
地元の博多湾でまだ奴国と伊都が統一されていないのなら遅すぎ

57年には博多湾から壱岐対馬までは統一されていて
単に国名が変遷しているだけと考えるべき

789 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 19:33:36.18 .net
>>787
朝倉まで水行10日陸行1月もかからない
朝倉はあくまで奴国の都市だよ
もちろん須玖岡本遺跡周辺も奴国の都市だっただろうけど

790 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 19:50:23.43 .net
>>789
奴国は田川

791 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 19:53:54.22 .net
倭人伝によれば、奴国は二つ在ったそうだ。
第一奴国は佐賀、、
朝倉、須玖岡本遺跡周辺は第二の奴国(遠絶傍奴国)だったのだろう

792 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 19:56:03.16 .net
>>790
田川「も」奴国

旧覇権国で、倭人伝時も人口2万戸を誇る大国だからな

793 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 19:57:40.63 .net
>>791
第二の奴国はニギハヤヒの奈良

同じ北部九州にあるなら「遠絶傍奴国」とは書かないでしょ

遠絶傍奴国なんだから少なくとも九州ではないよね

794 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 22:23:53.65 .net
王権の所在地は福岡平野から糸島平野に移動したことが考古学的には明らか。
同じ王統なのか違うのかは定かではないが、卑弥呼の時代には伊都が主権を掌握していた。
ただし人口は福岡奴国の方が多かった。
伊都はいわばワシントンのような軍事と政治の都市。

795 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 22:40:20.08 .net
その伊都国の王権のさらに上位組織として邪馬台国があったってことでしょ

796 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 22:48:01.63 .net
実権や軍事は伊都、外交や祭事は邪馬台、経済は奴。
代々の王家は伊都。

797 :日本@名無史さん:2016/08/14(日) 22:54:25.95 .net
代々の王が邪馬台国に統属していたって書かれてるでしょ

798 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 00:30:57.98 .net
書かれてないよ

799 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 01:04:45.98 .net
九州説のアホはまだ伊都国は糸島じゃない!だから平原が邪馬台国だ!とかいう妄想にすがりついてるのかw
ここまでバカだと清々しいな

800 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 01:29:23.60 .net
九州説の大半は糸島が伊都国でしょう。

801 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 06:49:20.37 .net
>>800

末盧国は呼子・唐津には成り得ない。

よって糸島が伊都国にも成り得ない。

802 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 07:14:16.42 .net
>実権や軍事は伊都、外交や祭事は邪馬台、経済は奴。
>代々の王家は伊都。

ようするに
ある時代、奴国の皇居と霞が関が糸島平原に在ったってことじゃないの

803 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 07:33:15.81 .net
ま、糸島平原は、奴国の領土内だったってわけだな

804 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 07:39:16.33 .net
糸島、特に怡土は地図を見ればわかるけど、
雷山川と瑞梅寺川に挟まれた狭い地域だけを指す。
遺跡もここに集中する。

現在一番人口が多い202号線沿いは海か湿地帯。
あとは高祖山から周船寺に至る山裾が居住可能地域。

伊都国と思われる地域の居住可能エリアはかなり小さい。

805 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 08:08:34.65 .net
【志摩郡】@律令制下 のが 【伊都國】で 越系海人系の占領域
【怡土郡】@律令制下 のが 【奴國】に包含される【奴國】の西側にあたる仮称【澐國】

【怡】は【忄+臺】で発声のは[yi]で[wi]ではない
【臺】があってもふつうなのが【怡土】の三雲地区

【伊都】のの発声は[yi-tu]で[yi-to]でも[wi-to]でもなかろ
[yi-tu]は[yu-tu]に訛りがちではあった

806 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 08:26:05.37 .net
遺跡として残る墳墓は平地に作ったけど、王宮は高祖山にあったのでは?
ニニギの降臨した高千穂が高祖山なら、そこで即位したということ。
神武の出発した高千穂宮もここ。
平地ではなく、山の方。

807 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 08:37:05.74 .net
>>806

高祖神社が王宮だった可能性は
なきにしもあらずだが
何とも言えないな。

山裾に大門という地名があって
その辺りが高祖城だったが
そのあたりに何かあったかもしれない

808 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 08:37:50.75 .net
8世紀に築城されたという怡土城跡を調べると、もっと古い遺構が出てくるかもしれない。
何しろ、天孫降臨の地の有力候補であり、東西に歴代の王墓を配する重要な拠点だからね。

809 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 08:48:46.38 .net
そうだね
そこが、漢倭奴国の歴代王墓の可能性は大きいね

810 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 08:57:25.67 .net
歴代の王は筑紫城に居て、
ウガヤフキアエズまで32世・・・、
ということだそうだから、一帯には32の王墓が在るやもしれぬ。

811 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 09:06:26.14 .net
糸島=伊都国否定に続いて今度は筑紫城という唐書の恥ずかしい読み方も来た

すげぇ
九州説はマジでバカの宝石箱だなwwww

812 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 09:07:20.33 .net
高祖神社は移転したという伝承があって
もともとは大門あたりにあったらしい。

この辺は今でも小さな集落だ。

813 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 09:12:23.46 .net
新唐書の筑紫城は書紀からの推定なので
時代的には太宰府政庁周辺だろう。

福岡平野の西の高祖山の高祖神社
東の糟屋郡の太祖神社

福岡勢力を象徴する神社だな。

814 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 09:14:45.71 .net
北九州に邪馬台国があるのに北九州からスタートしてさらに水行10日、陸行1月もかかるんだwwww
どんな迂回してんだろうなwwwww
笑えるwwww

815 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 10:08:00.22 .net
博多から大阪まで瀬戸内海通って大体630キロくらい
舟の移動速度は時速5キロくらい
1日10時間くらい移動したとして13日くらいで大阪に着く計算
まぁ妥当なところだな
古代は沿岸沿いに移動するだろうからもう少しかかるかも知らんけど10日もあれば九州北部なんかに留まってるわけがないな

816 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 10:20:03.72 .net
>>815
>博多から大阪まで瀬戸内海通って大体630キロくらい
>古代は沿岸沿いに移動するだろうからもう少しかかるかも知らんけど10日もあれば九州北部なんかに留まってるわけがないな

卑弥呼の時代 博多から大阪まで瀬戸内海は、潮流が速すぎて航行できなかった。

817 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 10:24:41.68 .net
高祖神社の祭神は彦火火出見か。
これはガチで日向三代の高千穂宮だね。

818 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 11:03:34.69 .net
また瀬戸内海が航行不能とか言う脳内設定かw
本当に底辺だな九州説は

819 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 11:06:02.57 .net
瀬戸内海を通じて畿内に東征したとかほざいてるのに瀬戸内海はこの頃航行不能とかwww
もうバカすぎて言葉もないな

820 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 11:22:24.60 .net
その時その時に適当な思い付きの言い逃れを言うだけの子供の言い訳レベルの妄想
しかも全然言い逃れられてないで益々墓穴を広げるだけ
それがキュウシュウセツ

821 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 11:30:10.55 .net
それが「北部」キュウシュウセツ

822 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 11:42:17.69 .net
>>818
「瀬戸内海を航行できるようになったのは、五世紀「雄略天皇」の時期」

「風待」港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備しないと航行できなかった。

そして「それ」が整備されたのは、雄略天皇の五世紀頃であった。

瀬戸内海沿岸諸国を統制する体制が整うまでは、そういった設備整備ができなかった。

瀬戸内海沿岸諸国を統制する体制が整ったのは、雄略朝以降である。

823 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 11:57:11.82 .net
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」

ここに言う「郡」は、京畿湾にあると徳積群島を指す。

(T)「從郡至倭」

訳@ 洛陽から見て帯方郡を通って倭に至るには

訳A 洛陽から見て帯方郡の先にある倭に行くには

    (「從」の用法について認識すること。「自」とは全く別の意味。)


(U)「循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」

訳@ 海岸に沿って水行する。
    韓國を歴したり、南に行ったり東に行ったりして、
    航路の北岸にある狗邪韓國に到着する。
    郡と狗邪韓國の距離は七千餘里である。

訳A 韓地の海岸沿いの航海である。
    韓地の南部は倭であるので、韓地の倭人の国々を経て進む。
    (注:「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接」)
    郡(徳積群島)からは、南方向に航路を執り、次いで(珍島で)東方向に航路を執る。
    (「珍島」は隋書では「竹島」)
    そして、東進してきた航路の北岸にある韓地の倭人の国でもある
    狗邪國南岸の海(巨済島南岸の海)に到着する。
    (「到」は、目的地のひとつである倭人国に着いたので使用されている。)
    (航路の北岸が狗邪韓國とあるので、狗邪韓國に上陸したとは書かれていない。
    巨済島南岸には何もないので寄港する必要がない。魏使が寄港したとすれば、
    壱岐原の辻と交易のあった遺跡の島である泗川市勒島。「歴韓國」のひとつの国とみなせる。)
    帯方郡(徳積群島)と狗邪韓國(巨済島)の距離は七千餘里である。

824 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 11:57:52.05 .net
でも東征したと言い張る
バカが

825 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 12:08:57.46 .net
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」

(T)「從郡至倭」

訳@ 洛陽から見て帯方郡を通って倭に至るには

訳A 洛陽から見て帯方郡の先にある倭に行くには

    (介詞「從」の用法について認識すること。「自」とは全く別の意味。)

ここに言う「郡」は、京畿湾にあると徳積群島を指す。

(U)「循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」

訳@ 海岸に沿って水行する。
    韓國を歴したり、南に行ったり東に行ったりして、
    航路の北岸にある狗邪韓國に到着する。
    郡と狗邪韓國の距離は七千餘里である。

訳A 韓地の海岸沿いの航海である。
    韓地の南部は倭であるので、韓地の倭人の国々を経て進む。
    (注:「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接」)
    郡(徳積群島)からは、南方向に航路を執り、次いで(珍島で)東方向に航路を執る。
    (「珍島」は隋書では「竹島」)
    そして、東進してきた航路の北岸にある韓地の倭人の国でもある
    狗邪國南岸の海(巨済島南岸の海)に到着する。
    (「到」は、目的地のひとつである倭人国に着いたので使用されている。)
    (航路の北岸が狗邪韓國とあるので、狗邪韓國に上陸したとは書かれていない。
    巨済島南岸には何もないので寄港する必要がない。魏使が寄港したとすれば、
    壱岐原の辻と交易のあった遺跡の島である泗川市勒島。「歴韓國」のひとつの国とみなせる。)
    帯方郡(徳積群島)と狗邪韓國(巨済島)の距離は七千餘里である。

826 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 12:17:58.20 .net
つか香川のサヌカイトが縄文時代に石器として九州から中国地方に広く分布してる
しかも瀬戸内海の島々には「短期滞在した」遺跡が沢山見つかってる

縄文駄時代から物流の動脈として瀬戸内海は機能してんだよ

何が航行不能だ
間抜けが

827 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 12:21:57.03 .net
  
「又渡一海千餘里、至末盧國」

末盧國の上陸地点は、
壱岐から南へ1000里にある松浦川下流右岸(古松浦汽水湖南岸)の
中原遺跡(元寇の時の防衛基地港)である。

828 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 12:34:32.66 .net
縄文時代から物流や人の動きがあるのが分かってるのに「通れませんでした」と言い、それなのにもかかわらず「東征しました」とか言う

もうどこまでバカなんだろうなキュウシュウセツって

829 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 12:50:30.91 .net
>>826
>つか香川のサヌカイトが縄文時代に石器として九州から中国地方に広く分布してる

瀬戸内沿岸を陸路通行&瀬戸内海を局所航行して交易をした。瀬戸内海を九州⇔畿内を「通し」では航行できなかった。

>しかも瀬戸内海の島々には「短期滞在した」遺跡が沢山見つかってる

瀬戸内海を局所航行していた。瀬戸内海を九州⇔畿内を「通し」では航行できなかった。

>縄文時代から物流の動脈として瀬戸内海は機能してんだよ

「瀬戸内海を航行できるようになったのは、五世紀「雄略天皇」の時期」

830 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 12:50:41.45 .net
  
「東南陸行五百里、到伊都國」

訳:末盧國上陸地点(中原遺跡)から東南へ500里(40km)陸行すると、
伊都國に到着する。

中原遺跡から東南40kmにある弥生城柵遺跡は、
惣座遺跡(肥前国丁跡近辺)佐賀市大和町大字久池井字惣座である。

831 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 12:59:14.45 .net
>>829
サヌカイトの移動は九州から中国地方から畿内まで分布してる
しかも物だけじゃなくて瀬戸内海の島々に短期滞在した遺跡が多く見つかっている
瀬戸内海は縄文から物流や人の移動の動脈として機能してる
瀬戸内海沿いの四国、中国地方の集落跡が海岸沿いにあるのもそういう移動の現れ
で、古代は海岸沿いに航行するって書いてるよな?

なに?今度は「一発で行く事が出来なかった」に誤魔化すことにしたの?

832 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 12:59:19.54 .net
>>830
>「東南陸行五百里、到伊都國」
> 訳:末盧國上陸地点(中原遺跡)から東南へ500里(40km)陸行すると、伊都國に到着する。

末盧國上陸地点(中原遺跡)???  とち狂ったか??

833 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 12:59:51.63 .net
>>829

その通り。
九州と畿内の直接交易はない。
局所交易のバトンリレーで、九州と畿内の交易が成立した。

834 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 13:01:41.66 .net
ご覧のように訳の分からない妄想を元に見当違いの説を述べ立てて、指摘されるとその場その場で思いついたガキの嘘レベルの言い逃れを吐く
もちろん誤魔化せてないで矛盾ばかりが大きくなる

上で書いたとおりのキュウシュウセツがこちらです

835 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 13:05:03.65 .net
「直接、九州と畿内の直通ルートが無かった!やった!言い訳できた!」

とか誤魔化し始めましたよこのアホwww
通行不能とか言い出して大して時間も経ってないのに今度はこれ
神武東征の航路だって何度も寄港してるのにこいつは何言ってるんだろうなw
古代の航路で直通なんて発想がそもそもないわwwww

次はどんな言い訳するのか楽しみだわ

836 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 13:05:37.92 .net
>>831
>古代は海岸沿いに航行するって書いてるよな?

それは、「瀬戸内海を航行する」とは言わない。実質、「瀬戸内沿岸を通行する」だ。

「瀬戸内海を航行できるようになったのは、五世紀「雄略天皇」の時期」

837 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 13:06:06.37 .net
にやにや

838 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 13:07:15.91 .net
今度は「航行」と「通行」とか言い出したよwww

言葉遊びで煙に巻けると思ってんだwwww
幼児wwwwwレベルwwww

839 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 13:08:16.81 .net
九州説もさー
このレベルのパーも九州説だからって擁護してると自分達のレベルが疑わるぞ?

840 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 13:13:18.08 .net
>>832
>末盧國上陸地点(中原遺跡)???  とち狂ったか??

末盧國上陸地点(中原遺跡)は、前述の様に、
古松浦汽水湖南岸(現松浦川下流東岸)にあった元寇の時の防衛基地港である。

841 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 13:13:26.49 .net
瀬戸内海航行不可は、東遷説も畿内説も都合悪いのでは?

842 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 13:18:36.98 .net
>>840
>古松浦汽水湖南岸(現松浦川下流東岸)にあった元寇の時の防衛基地港である。

元寇の時の防衛基地港である。   やっぱり、とち狂ってるよ。

843 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 13:36:13.27 .net
>>842
>元寇の時の防衛基地港である。   やっぱり、とち狂ってるよ。

>>842は、白痴的無知蒙昧である。

844 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 13:42:58.22 .net
つか誤魔化されるところだったw

北九州にあるのに水行10日、陸行1月ってどこなんだよwww

おらwww
教えてくれよwww

845 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 13:44:44.29 .net
そんなところ、有るわけね〜べ  無理言うな!!

846 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 14:16:59.96 .net
畿内説が、
墓参りのためか、九州へ里帰り厨のようだな

847 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 14:25:03.98 .net
航行できないなどというのは九州説の中でも異端だよ。

848 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 15:08:24.68 .net
対馬海峡を渡りきるのに、
瀬戸内海を孝行できないなんて、親不孝者めが、、、、。

去女王四千余里。又有裸国、黒歯国。復在其東南、船行一年可至。

849 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 15:16:02.54 .net
当時は日本海沿岸航行が主流じゃねーの

850 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 18:55:39.25 .net
こんなクレーターレベルの穴だらけの九州説とか何で信じてるんだろうな
なんかの宗教なのか?

851 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 20:00:14.46 .net
沿岸航行程度なら、地元の海人なら
余裕でしょう。

時代はあとになりますが
白村江で48000人を投入している実績があるのに
このあとの遣唐使船が遭難続出するのは
玄界灘の海人から、瀬戸内海の海人に
替わったからでしょう。

九州から直接上海にいく無茶もやりますが、
これは海のことがわかっていない人間が
企画した可能性さえあります。

852 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 20:23:41.84 .net
つ半島情勢

853 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 21:15:44.97 .net
対馬海峡を渡るのも、せとないかいを渡るのも、朝鮮半島情勢は関係ない。
対馬からも壱岐からも倭人は南北に自由に航行できた。

854 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 21:23:25.00 .net
>>853
対馬海峡渡るには関係あるっしょ
対馬から渡ろうとした先が敵国だとどうするんだ?

855 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 21:54:29.33 .net
朝鮮半島南岸は倭国。

856 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 22:01:41.78 .net
>>844
>北九州にあるのに水行10日、陸行1月ってどこなんだよwww

帯方郡から水行十日(一万餘里)で唐津末盧國、
唐津から陸行一月(千餘里)で、吉野ヶ里不彌國まで六百里、
と吉野ヶ里不彌國南四百里で邪馬台国は筑後平野八女。

857 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 22:01:59.87 .net
>>855
>九州から直接上海にいく無茶もやりますが、
>これは海のことがわかっていない人間が
>企画した可能性さえあります。

↑この時期はいつ?w

858 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 22:03:37.11 .net
>>855
狗邪 韓 国

859 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 22:15:58.31 .net
>>856
その日数どこから出てきたんだよ
また「ぼくの脳内」か?
しかもなんで帯方郡からスタートしてんだ

バカなのお前

860 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 22:18:55.39 .net
>>857
>↑この時期はいつ?w

南東の風が吹く、春から夏。

この時期は、大陸からやって来る温帯性低気圧の為暴風雨に巻き込まれやすい。
南東の風は西から温帯性低気圧が来ることを示している。

東シナ海で温帯性低気圧に出くわすと三角波により転覆沈没遭難し易い。

861 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 22:23:55.34 .net
>>860
アホかw
東シナ海横断航路を選択した年代を聞いたんだよw

862 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 22:34:37.36 .net
朝鮮半島を経由すれば中国には楽々渡れたけど
遣唐使の頃は朝鮮半島を経由できなかったから失敗が多かったと聞いたが

863 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 22:38:14.81 .net
>>855
>朝鮮半島南岸は倭国・・・誤

朝鮮半島南岸は韓地の「倭」・・・正

864 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 22:44:58.96 .net
>>861

8世紀以降。薩摩の坊津⇔中国大陸

8世紀初頭までは、筑紫からの発着。

865 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 22:47:11.96 .net
>>862
それが定説だよな
しかし>>851は違うと言ってる

866 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 22:49:18.57 .net
>>864
その時分の半島情勢は?

867 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 22:58:05.42 .net
狗邪韓国を倭の一部とする人も多いけれど読み方次第で確定ではないわな
「韓」の字を使っているから、韓人の国と考えるべきだろ

868 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 23:01:13.71 .net
倭人条に出てくるから、韓条にあれば別だけどね

869 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 23:03:17.12 .net
>>867
>韓人の国と考えるべきだろ

韓地の国と考えるべき。

870 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 23:07:15.05 .net
  
倭人条の韓地に出てくるから韓地の倭人の国、韓条にあれば韓人の国だけどね

871 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 23:14:32.04 .net
三国志読む限りでは韓は民族名だと思うけどな

872 :日本@名無史さん:2016/08/15(月) 23:18:05.05 .net
狗邪韓国が倭人の国なら、なんで倭人条で戸数が略載されていないのか

873 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 03:53:35.55 .net
>>871
韓国の伽耶ですよね

874 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 05:53:04.91 .net
韓国を経て〜〜狗邪韓国に到る

875 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 06:25:27.26 .net
>>874
そういう文章は倭人伝にないな

876 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 06:39:55.57 .net
郡から倭に到る間の単なる中継地だ

877 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 08:03:45.35 .net
>>875

読んだことないのか

「歴韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國」

878 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 08:46:34.72 .net
>>877
ほら、「経て」なんて書いてない

879 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 09:02:41.56 .net
歴は(年月などを)経過して 〜を見て回って か
其の北岸狗邪韓國に至り の其のは倭なのかな?

880 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 09:02:45.88 .net
>>878
屁理屈好きじゃのう
まあいい。

881 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 09:10:28.13 .net
>>880
歴の場合、歴A到BのBはAに含まれてて良いんだよ
経の場合と違うの

882 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 09:20:40.30 .net
ほうそうか
ま、どっちにしても、狗邪韓國が倭国でないことは明白。

倭人伝における倭人ならびに倭国の定義:
・倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。

883 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 09:27:38.51 .net
>>882
なぜ明白と?

884 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 09:31:15.95 .net
韓国だもん

885 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 09:37:47.21 .net
>>883
そう思って、コピペしてやったのに、
この漢文が読めぬとは、はてさて、難儀なことじゃ

886 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 09:39:41.53 .net
>>885
おまけなおつむのやつは言葉足らずでよく分からんわ

ちなみに狗邪韓国は巨済島ですよ

887 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 09:49:06.76 .net
>>886
おマイのスタンスも、ようわからんな

其の大海の北側の岸、つまり大陸半島側の岸辺の狗邪韓国といってるわけだろ
ここで両者を隔てているのは「大海」なのだが、、、

888 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 10:04:27.30 .net
>>887
おまえボーズだろ

889 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 10:37:31.36 .net
ここIDすらないからどれが誰のカキコで誰としゃべってるのかわかりにくいな

>>887
其の北岸の其のは海の事を指してたのか

890 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 10:58:31.87 .net
>>879
>其の北岸狗邪韓國に至り の其のは倭なのかな?

「循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」

「其」は、循海岸水行している航路(海)

「到其北岸狗邪韓國」は、
航路の北の岸が狗邪韓國である海に到着したおの意味。

「其北岸狗邪韓國」へ到着前に、循海岸水行の途中にしたこと。
韓地の國を歴たこと。
大きく航路を南へ取り、ついで大きく航路を東へ取ったこと。

891 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 11:20:04.02 .net
>>889 >>890
黄河や長江は向う岸が見えないほど広いと聞く
その北岸といえば、その大河の北の岸であることは容易に察しが付くであろう

倭人伝では、対馬海峡を大河に見立て、その大河(≒大海)の北岸と言っているわけだ。

892 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 11:24:28.72 .net
>>866
>その時分の半島情勢は?

半島8世紀は唐と対立する新羅の天下。
唐に渡ろうとする日本人は、半島に近づけない。

一方、九州の北西海域では、
九州王朝の残党(後の松浦党)がその海を支配していたので、
遣唐使船に乗った畿内政権関係者は、襲撃を受け全員殺された。
九州王朝系関係者は生き伸びて、余生を九州で暮らしている。

893 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 11:34:37.50 .net
倭人伝を読むときは、
黄河は毎日眺めているが、生まれてこの方、
海を見たことのない、洛陽の貴族になった気分で読むとよい。

ま、大和貴族の末裔の君たちなら容易に理解できるであろう。

894 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 14:38:03.24 .net
>>882

「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。」

ついでだけど、これ邪馬台国が畿内じゃない論拠でもある。
3世紀に本州が島だと認識できたわけないからね。

895 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 15:41:12.27 .net
>>894
ついでだけど、これ邪馬台国が北部九州じゃない論拠でもある。
3世紀に九州が島だと認識できたわけないからね。

3世紀に島だと認識できたのは、四国だけだからね。

896 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 16:06:41.87 .net
>>895
四国なんて中国の歴史書では無視されてるなw

897 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 16:14:06.98 .net
>>882
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
この文章を見ると朝鮮半島南岸には倭地が在ったようだが。

898 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 16:19:01.63 .net
>>872
>>1に示してあるように狗邪韓国は投馬国の一部であるから戸数は略載されている。

899 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 16:23:25.90 .net
>>896
中国の歴史書は、四国(阿波)の事を記載しているw

900 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 16:25:01.59 .net
>>894
そうだね
近畿・四国・東海あたりに倭30国が存在していたのなら、

「倭人在帯方「東方」大海之中・・・」と書かれたことでしょう。

帯方東南ならば、やはり九州と言うことになる。・

901 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 16:31:25.36 .net
>>900
倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑を為る。

(四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海 山や島に人が居住し国を為している)

「何故、このような記述をしたのか 九州や中国地方であれば敢えて記述する必要はないが、

四国が九州や中国地方に隠れた特殊な位置にあるために他ならない」

902 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 19:34:58.94 .net
BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

903 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 19:55:56.82 .net
>>893
>黄河は毎日眺めているが、生まれてこの方、
>海を見たことのない、洛陽の貴族になった気分で読むとよい。

洛陽の貴族が毎日眺められたのは、黄河の支流の洛河と伊河である。

黄河は洛陽から北へ25kmの山越えしたところを流れている。

裏付けをしてから書き込もうね。

904 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 20:01:13.48 .net
>>897
>「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
>この文章を見ると朝鮮半島南岸には倭地が在ったようだが。

この文章では、朝鮮半島南岸に居たのは倭人。倭地が在ったのではない。

905 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 20:15:28.16 .net
>>904
明らかに国境のことを書いてるね

906 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/16(火) 20:28:45.81 .net
>>897,>>904-905
>「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
この文章を見ると朝鮮半島南岸には倭地が在ったようだが//
  海を隔てて向き合ってるさまを南與倭接と表記した、と解する他はあるまい。

907 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 20:53:41.94 .net
それは接しているとは言わない。
朝鮮半島南岸は倭だったと書いてある。

908 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 21:07:05.03 .net
国境が接している、何も問題ない

909 :日本@名無史さん:2016/08/16(火) 21:39:16.75 .net
東西南以海爲限

910 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/16(火) 23:16:19.66 .net
>>907 > それは接しているとは言わない。朝鮮半島南岸は倭だったと書いてある//
  そりゃ>>906に対してかね。
莫迦なオメがどう妄想しようが、史料はそれを南與倭接と表記した。

911 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 02:07:37.43 .net
接するという言葉の意味を考えましょう。
隔てる、離れるという言葉の逆の意味です。
倭人は朝鮮半島南岸にもいて、だからこそ自由に対馬海峡を往来できたのです。

912 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 04:36:36.31 .net
モノを知らないね

向こう岸でも接してると言うんだよ

913 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 06:46:10.60 .net
国と接しているのは国のみ

914 :longinus_bouz ◆bq94Vh60JQ :2016/08/17(水) 06:50:19.33 .net
>>911 > 接するという言葉の意味を考えましょう//
  そりゃ>>910>>906に対してかね。
莫迦ウヨのオメがどう妄想しようが、史料は海を隔てて向き合ってるさまを南與倭接と表記した。

915 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 07:43:43.18 .net
>>913
間に海や大河、砂漠とか挟んでても接してOKだけどな

916 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 08:08:06.31 .net
東西以海爲限に比べれば、
南は島伝いながら、接しているでよかろ。

917 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 08:37:18.30 .net
>>915
>間に海や大河、砂漠とか挟んでても接して

上記の場合は、
「南與倭接」又は「南接倭」が「南拒倭」となる。

918 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 08:44:09.81 .net
>>914
>史料は海を隔てて向き合ってるさまを南與倭接と表記した。

海を隔てて向き合ってるさまは「南拒倭」となる。

919 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 09:00:46.16 .net
>>918
そういう書き方もあるが一般的ではない
むしろ駢儷体とかの特殊な修辞の部類だね
ふつうは「接」で問題ない

920 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 09:07:53.05 .net
弁辰にも「其瀆盧國與倭接界」とあるな。

921 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 09:39:41.78 .net
要するに半島南岸の諸韓国は海峡をまたいで倭と接してるのよ

922 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 09:44:30.94 .net
西には海を隔てて魏、南には海を隔てて倭があるし
韓の三方が海なら「東西南以海爲限」だよな
「東西以海爲限」とあるから南北は陸繋がりだな
南だけ海を隔てて倭ではおかしい。

923 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 12:27:45.99 .net
倭に行くには必ず韓を通る必要があった
だから特に記述されたのではないか

924 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 12:32:35.24 .net
お前ら地図見たことないだろ

狗奴韓国は島だぞ
朝鮮半島南部には近い距離に島があるんだよ
そこに倭人が住んでたって話だろ

925 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 14:43:01.79 .net
「其瀆盧國與倭接界」

弁辰瀆盧國内においては、
弁辰人界(コミュニティー)と倭人界(コミュニティー)で両者が接している。

926 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 16:36:05.36 .net
こんなことだから九州説は滅んだ

927 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 17:06:22.45 .net
結局は朝鮮半島南岸に倭地が在ったってことですね
そこが投馬国であり、後の任那日本府。

928 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 17:20:19.82 .net
投馬国のわけがないだろ

929 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 17:37:42.98 .net
倭人が海を行き来して生活してたんなら大陸側(半島)にも拠点があってもおかしくないよな

930 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 17:43:35.04 .net
白村江で拠点を失ったんだろうね

931 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 17:47:43.72 .net
邪馬台国も半島南部だしな

932 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 17:59:59.18 .net
いやいやハワイだよ

933 :九州王:2016/08/17(水) 18:24:52.70 .net
ここの主張は
朝鮮半島南岸の倭地が投馬國で
邪馬壹國は北部九州に在った
なんだがw

934 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 18:26:28.55 .net
すげー、珍説

935 :九州王:2016/08/17(水) 18:29:48.66 .net
畿内説対北部九州説は
天動説対地動説みたいなもの
天動説の畿内説から見たら地動説の北部九州説は珍説に見えるw

936 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 18:35:41.53 .net
月にあるよ

937 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 19:28:28.21 .net
BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

938 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 21:48:24.51 .net
現代の国家とか国境の概念は当時は通用しない

939 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 23:06:38.71 .net
>>928
根拠のない思い込みだな
倭人伝によると朝鮮半島南岸には倭地が在ったわけで
その地には当然名前があった、それが投馬國だな。

940 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 23:12:55.66 .net
>>939
狗邪韓国=伽耶だろ
投馬国だなんて思い込み以前のレベルだわw

941 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 23:29:42.91 .net
投馬国が出雲なら半島南部に植民地がかなりあったはずだから
半島南部も投馬国という事かもしれんな

942 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 23:39:10.21 .net
根拠皆無

943 :日本@名無史さん:2016/08/17(水) 23:59:21.57 .net
畿内説スレでスレ違いの自説の九州説を延々語ってる九州(クズ)王(九州王朝大好き)が立てたスレはここですか?

いつも思うんだが先ずこの『北部九州』という括り自体が詐欺

このクズ王の自説等からして北部九州と言っても
本命としては有明方面のことだと思うが

「北部九州」という括りで中期に漢鏡の独占や王墓といえる物が出てる玄界灘周辺地域と
わざと混同させてるのか?

大陸と通行を結んだ勢力が玄界灘周辺地域にあったことは通説だが
それがいつかの時代有明方面に移動したなんて話は無い

(もしそんなものがあれば九州説の今の絶滅危惧種状態はない)

その辺を「北部九州」という括りで誤魔化してる
馬鹿か詐欺師の手法かと

944 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:23:39.30 .net
本命は太宰府付近じゃねーの

945 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:29:28.83 .net
で太宰府から3世紀の遺構が見つかってるのか?

無論纏向なんか話しにならんぐらいの壮麗な都の跡があるんだろう?

946 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:32:01.58 .net
つか大宰府に行くのになんで水行10日、陸行1月もかかるんだよ

947 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:32:40.05 .net
知らんがなw

948 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:41:40.60 .net
>>946
だから「陸行一日の間違い」なんだろ?

949 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:42:39.91 .net
好き勝手に読んでいいならハワイにあった事にしようぜ
温かいからな

950 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:43:12.98 .net
水行10日陸行1月ってのは倭の案内人がわざと遠回りしたってことだよ

倭を広大な大国に見せるためにね

外交ってのは騙し合いなんだよ誰が本当のことなんか言うかっての

遠回りさせて遠回りさせてクタクタになったところで
卑弥呼が「ようこそ」ってそっと冷たいビールを出す

魏の使者は「卑弥呼さまー!」ってなるだろ

これが卑弥呼が使った「鬼道」だよ

わかる?わからない?

951 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:45:26.19 .net
親戚の婆ちゃんくらいなら笑ってくれるんじゃないかな

952 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:47:35.37 .net
それが真実だよ

倭人伝にも「倭人はよく酒を飲む」って書いてる

外交ってのは騙し合いなんだよ

倭は中国に比べたら小国で戦争になったら確実に負けるってことは当時の倭人も重々わかってたんだから

953 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:48:12.79 .net
ハイキングウォーキングのコントだろ

954 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:49:11.64 .net
こっちから頭下げて挨拶に行ってんのにw

955 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:49:39.83 .net
笑いのレベルが高すぎてついていけないわぁ

956 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:51:21.50 .net
外交じゃなくてお殿様との主従関係だから

957 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:51:28.08 .net
>>945

太宰府市だけで75ヶ所の弥生時代を含む遺跡がありますね。

958 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:54:48.67 .net
へぇ徹夜明けなら笑えるくらい面白いわ

959 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:56:52.34 .net
外交にはブラフ(ハッタリ)がつきものだよ

それを前提で読まなきゃいけない

記述を全部鵜呑みにしてたら真実見誤るでしょ

倭人は中国からの使者に対して大きなハッタリをかましたんだよ

「倭人は距離を里で表すことを知らず日数で示す(倭人はバカだなあプププ)」
って記述が倭人伝にはあるけど
これ自体がハッタリだっていう可能性もあるわな

相手を油断させる効果と距離をわからなくする効果がある
遠回りして日数をかければ「倭は広大なんだな」と思うわな

960 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:58:43.33 .net
根拠なし

961 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 00:59:44.26 .net
ヤバイ
面白すぎる
お笑いで世界狙えるレベルやわぁ

962 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:03:19.09 .net
>>961
これをギャグだと思う奴は頭が固いんだよ
倭の案内人になりきって思考してみ?
逆に不思議だわ
なぜ「信用ならない大国の使者」に対して「小国の使者」がすべて正直に話すと思うの?

963 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:07:11.98 .net
邪馬台国の人口7万戸もハッタリだわな
当時の日本の人口からしてありえない
九州だとしてどこの平野に当てはめてもあり得ない数値だし
ましてや畿内の奈良盆地で7万戸なんてもっとあり得ない
弥生時代そんな人口密度高くないから

964 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:10:02.22 .net
いつから奈良盆地だけだと錯覚してた

965 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:11:00.98 .net
信用ならない大国に家来にしてくださいってお願いに行くなよw

966 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:12:16.33 .net
>>965
信用ならない大国だから媚びて出方を伺うんだろ
自分から全面服従するバカがいると思うか?

967 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:17:59.32 .net
>>964
奈良盆地+河内平野でもあり得ない、足りない

968 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:20:14.78 .net
>>966
ばかはおまえだけどな、前面服従したんだよ

969 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:21:11.98 .net
いつから奈良盆地と河内平野だけだと錯覚してた

970 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:23:17.57 .net
冊封体制に組み込まれたとしても
新羅や高句麗より順位が上の冊封国でありたいと考えたしそうなる必要があったわけだよ
だって倭は朝鮮半島南部に領地を持ってるんだから

これで中国に「倭はめっちゃ小国」なんて書かれたら朝鮮半島の国からも舐められて領地失うだろ?

971 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:24:08.85 .net
>>969
どこまで広げるつもりだよ

972 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:24:39.48 .net
肥後国だと江戸時代で70万人
7万戸28万人でも1/2〜1/3に過ぎないので、
キャパシティはある。

973 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:26:24.98 .net
>>970
いつの時代の話してんだよw

974 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:27:41.35 .net
倭は自らを大国に見せかける必要があった

だから倭は中国の使者に大きさを聞かれても「里とかわかんないっすねえ」ととぼけたわけだ
「日数でだいたいで距離はかってるんで」っつって

975 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:29:56.92 .net
根拠なし

976 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:32:08.02 .net
そりゃ根拠はないよ
でも普通に心理を考えたらそうなるでしょ

逆に水行10日陸行1月が遠回りでなかったという根拠だってないわけじゃん

977 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:32:27.31 .net
M1に出たらいいところまで行けそうだ

978 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:33:42.29 .net
>>972
江戸時代と弥生時代の人口考えろって話

弥生時代なんてめっちゃ人少ないからな

979 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:38:33.38 .net
奴国の狭い範囲に2万戸もいるのに?

980 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:39:32.51 .net
>>976
妄想じゃ誰も聞いてくれないよ

981 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:42:56.98 .net
>>976
当時の敵は狗奴國だろ
魏に後ろ盾になってもらって、うまくいけば兵の派遣ぐらい期待してたわけだ
それを道程ごまかしてどうするよ、兵が来れなくなるぞw

982 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:44:22.25 .net
魏の使者は伊都国以外はしっかり見聞できてないでしょ
伊都国の千戸って数字がリアルな数字だよ

倭の使者は総じて10倍にハッタリかましたんじゃねえの?
つまり奴国2千戸、投馬国3千戸、邪馬台国7千戸がリアルな数字

これなら当時の日本の人口のデータからもだいたい合致するし
伊都国の面積との比較からもだいたい合致する

983 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:47:38.26 .net
誇張したのは陳寿だろ、倭を大国に見せたかったんだから

984 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 01:54:32.82 .net
弥生時代後期の日本の推定人口は100万人程度

九州の人口は20万人程度だろう

985 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 02:02:09.62 .net
弥生時代の人口推計は、遺跡数に係数をかけて計算されている。
その当時の弥生遺跡数は約一万ヶ所で推定人口は60万人
今では4万ヶ所が登録されており、
住宅開発に伴う右隻調査などから存在は確認されているが
遺跡として登録されていない弥生遺構はその10倍以上と言われる。

つまり、60万人の40倍以上ということになる。

まあ、そもそも係数を見直すべきと思うのだが。

986 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 02:07:08.39 .net
九州説@畿内説に対して
 「南と言ったら南!いかなる予断も解釈も許さない!」

九州説@九州説に対して
 「一月は一日の誤り、これで全ておk!」

自分にはとことん甘いのが九州(クズ)説

987 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 02:12:13.53 .net
>>986
船で遠回りは危なくてできないから数値は方角含めて信用できる
陸なら安全に遠回りできるから日数は遠回りした数値だな
当然だけど航海士は天文学の知識を持ってたからな
じゃなきゃ航海なんてできないじゃん
太陽と星の動きで方角を知ることができた

988 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 02:13:20.43 .net
色んな屁理屈を一生懸命考えるもんだ

989 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 02:13:48.95 .net
>まあ、そもそも係数を見直すべきと思うのだが。

どのような係数になったとて
地域と地域の比率は変わらない

もし将来北部九州で今の十倍の係数になったら
近畿でも他の地域でも当然十倍になる

つまり九州説のアホが夢見てるような大昔の
「超☆西高東低モデル」
はありえない

990 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 02:18:03.71 .net
つか畿内には弥生時代前期からその当時最大級の面積の水田が幾つもあるんだけど

991 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 02:19:20.67 .net
そりゃ都心に田んぼはないからな

992 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 02:20:35.52 .net
九州説の脳内には九州には高層ビルの都会が見えてるらしいw

993 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 02:20:55.52 .net
そういえば九州説の連中が三度の飯より好きな吉野ヶ里って
外郭の内側に畑の跡がなかったっけ?w

994 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 02:21:47.98 .net
そういや次スレないみたいだけどまぁ良いか
ラノベならチラシの裏にでも書けばいいしな

995 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 02:23:56.06 .net
>>1クズ王仕事しろ

996 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 02:39:20.37 .net
>>989

そんなことは考えてないな。九州も多かったし、
他の地方でも兵庫や東海は人口は多い。
これは遺跡数を見ればわかることだ。

つまり、全国で5〜600万人以上の人口は
あってもおかしくないということ。

997 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 03:01:40.70 .net
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/近代以前の日本の人口統計

まあ基本だけどwikiでも見たら?
弥生時代500万人はありえないと思うよ

998 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 03:04:29.57 .net
>>997

それの弥生時代の算出法をよく読んでから
>>985をみてごらん。
それをもとに推論しているんだよ。

999 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 03:13:22.12 .net
>>998
奈良時代に600万だぞ
500年間で人口増ほとんどなしってのは考えにくいでしょ
弥生時代100万人、500年で6倍に増加なら発展と繁殖のスピードとしてもまあ妥当なんじゃないの

1000 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 03:15:06.77 .net
999

1001 :日本@名無史さん:2016/08/18(木) 03:16:02.23 .net
>>1クズ王仕事しろ

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