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邪馬台国は九州にあった72

1 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 19:05:25.36 .net
前スレ

邪馬台国は九州にあった71
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1464405406/


九州説同士でじっくり語り合いましょう

2 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 19:12:05.98 .net
倭人伝の記述で12000余里のうち、
帯方郡−狗邪韓国で7000余里とされているのだから、
どんなに頑張っても、もう半分以上進んできている。
九州北部、頑張っても中部くらいまでにしかならない。

3 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 19:52:42.37 .net
>>1

4 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 19:57:42.30 .net
>>1乙。

5 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 20:09:49.74 .net
卑彌呼以死 大作家 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 。百余歩の円墳だろうな。伊都国の近くにあり、誰か見に行ったんだろう。。

6 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 20:13:58.98 .net
伊都国の近くか、
場所をおせえてくれ、見学に行くわ

7 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 20:37:59.19 .net
邪馬台国という名前を欲しがるから負けるんだよ

卑弥呼だけにすれば大勝利なのにねー(´・ω・`)

8 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 21:06:46.16 .net
まぁ、卑弥呼の知名度は歴史の中ではかなりの高さだからな
地域振興としても手放せないのだろう
そんなのは、歴史とはまったく無縁なのになw

普通に考えたら、畿内まで伸ばせるわけがない。

9 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 00:45:48.72 .net
末廬国はマツバラで、糸島半島の先端辺りだと思う
古事記の神功皇后のところに末羅県(まつらのあがた)の話があって、そこには「筑紫の末羅県」と明記してある
松浦は筑紫ではなく肥前だ

10 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 05:59:37.53 .net
肥前唐津は昔から大陸の玄関口として
利用整備されてきた実績がある。

11 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 06:36:21.18 .net
>>10
昔っていつよ?

12 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 06:44:31.16 .net
記録に残ってる範囲では遣唐使から。

13 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 06:48:41.64 .net
聖徳太子の遣隋使は、隋なのに
大唐と書いてあったりして
後世と情報が錯綜しているようで
微妙なところ。

14 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 07:28:43.92 .net
松浦は確かに肥前だけど、筑紫とは筑紫島(九州島)のことかもしれんね。イザナギが禊いだところも筑紫の日向の小戸…みたいな感じやから。。

15 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 07:35:57.48 .net
>>10
呼子の神集島は遣隋使以前の遣新羅使あたりの時代では重要な港だったみたいだ。古代は呼子壱岐対馬朝鮮半島のルートしかないだろう。。

16 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 07:54:47.54 .net
>>13
西暦692年に中国の暦法を公式採用する以前は、日本独自の暦を使っていたわけだが
日本独自の暦というのは春と秋に年を越す2倍暦だから、聖徳太子の時代は実際には西暦650年前後だと思う

17 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 08:30:54.58 .net
倍暦は神功皇后と卑弥呼を同一人物とさせる日本書紀の編者の意図ではないのか?(すまん。適当)ワイは神功皇后=トヨならあり得ると思うんだが。。

18 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 08:39:34.45 .net
>>10
海は、見える島から見える島へと渡るものだよ。
壱岐から見える呼子で上陸だろうな。

19 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 08:43:20.99 .net
呼子から 壱岐はヨイヨイ、帰りは逆潮

20 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 08:57:10.49 .net
>>17
なるほど、

卑弥呼を天上の天照大神に仕立て、

台与の活躍ぶりは地上の神功皇后の事績として記述した、と言うことは有りうるな

21 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 09:50:25.85 .net
空想の話だがトヨが神功皇后にすると仲哀天皇の姉が卑弥呼になる。仲哀天皇卑弥呼二人ともヤマトタケルの子供になるな。倭人伝にトヨは卑弥呼の一族だし、卑弥呼の弟が実権を握るってあるからね。古事記と倭人伝を混ぜてみた。。

22 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 10:32:57.92 .net
>>16
>日本独自の暦というのは春と秋に年を越す2倍暦だから、聖徳太子の時代は実際には西暦650年前後だと思う

正解!

23 :九州説主張人:2016/06/14(火) 10:57:24.90 .net
>9さん、末羅が松原説に賛成です。
 更に言うなら、壱岐から東に向かい、沖の島に寄って、そこから南に下る航路、
っての、考えられませんか。
 あの、8万点にも上る貢物、しかも、外国の貴重品、途中で寄る、としか、
考えられませんが。
 呼子とか、唐津は、見えるというだけのこと。

24 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 10:57:29.98 .net
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/20586015.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11615021.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11615200.html

この人の説はいきあたりばったりで自己矛盾も多いけど、少なくとも推古朝に関してはこれが正しいと思う。
古事記の記す推古天皇の崩御「戊子年三月十五日癸丑日崩」は2倍暦による干支であって、実際には西暦660年9月15日に相当するわけだが、
日本書紀の編者は2倍暦を知らず、機械的にあてはめて西暦628年3月だと思い込み、「癸丑」だということで3月7日だとしたわけだ。

この考えで行くと、古事記に最初に崩御の干支がでてくる崇神天皇の「戊寅年十二月崩」は、西暦505年12月後半ということになる。
ちなみにこの人は、崇神天皇を倭王武だと推定しているけど、記紀によると当時の大和朝廷の支配範囲は四道将軍の範囲に限られてる。
つまり、東方十二道+高志国+旦波国+吉備国の計15カ国しか支配しておらず、倭王武に比定するには無理があると思う。
崇神天皇以前は大和朝廷は大和1国の支配者だったわけで、その頃、大和以外をほぼ収めていた他の王朝があったとするほうが、理にかなってるだろう。

25 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:07:30.11 .net
>>23
そもそも一大国から末盧国までは、南とは書かれていませんね。
乍南乍東で狗邪韓国に至り、始度一海(方角不記載)で対海国に至り、又南渡一海で一大国に至り、又渡一海で末盧国に至ってる。
対馬から壱岐が南だと明記されてる以上、壱岐から先は「乍南乍東」に従って東だと考えることもできる。
むしろ、壱岐国が壱岐島の北端だとするならば、そこからぐるりと壱岐島を半周して南に行くよりも、東に方向を変えるほうが合理的だともいえる。

26 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:10:09.78 .net
倭の五王が誰なんだろな。ワイは讃は履中天皇あたりかなあ。

「讃死弟珍立遣使貢献」
元嘉十三年(436)讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(『宋書』倭国伝)

27 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:29:56.51 .net
↓韓国
↓【南】海岸水行7000里
狗邪韓国
↓【南】度海1000里
津島国(方400里、千戸)
↓渡海1000里
一支国(方300里、三千家)
↓渡海1000里
末盧国(四千戸)
↓【東南】陸行500里
伊都国(千戸)

みんな忘れてない?
伊都国が三雲井原遺跡だってことを。
末盧国は、三雲井原遺跡から見て、北西なんだよ。
呼子しかない。

http://mainichi.jp/articles/20160302/k00/00m/040/031000c
時代後期、福岡で出土 外交上の文書記述

28 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:44:41.20 .net
>>25
始度一海(方角不記載)で対海国に至り、
又南渡一海で一大国に至り、又渡一海で末盧国に至ってる

「又渡一海で末盧国」の部分の「又」は、その前の「又南渡一海で一大国」
を丸ごと受けての文章だから、その「南」が省略されているだけだ。
よって、「又(南)渡一海で末盧国」と読むべし。

29 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:46:30.68 .net
>>27
>伊都国が三雲井原遺跡だってことを。

そんなことは、北部スレでやれ。

30 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:47:10.74 .net
>>28
それは強引な読み方だな
乍南乍東が前提なんだから、南の次は東だろう
つーか、壱岐島をわざわざ半周回って南に行く意味がわからん

31 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:51:32.14 .net
そういえば、住民が南北市糴していることを根拠に魏使も南北に移動したと勝手に認定してるやつもいたな

32 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:55:23.77 .net
【BS11:紀行・教養】 <尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究>放送時間:毎週火曜日 よる9時00分〜9時54分

33 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:55:30.90 .net
>>30
「その」とか、「又」とかは、直近・直前の文節を受ける。

遥か前に出てきた狗邪韓国までの「乍南乍東」に、対海国を飛び越えて遡及はしない

34 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:57:46.97 .net
>>33
その対海国にも「又」があるんだから、その前の狗邪韓国までの記述を受けてると考えるべきじゃないの?

35 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 11:59:11.29 .net
まちがえた。「又」があるんじゃなくて、方角が不記載なんだった
だけど、方角が不記載なんだから結局は対海国の記述もそれ以前を受けてることにかわりあるまい

36 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:00:22.72 .net
>>31
おっ、頭いいなあ、秀才!!
「亦南北巿糴」だから、北に行くか、南に下るしかない。

>至一大国。官亦曰卑狗、、、、、差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。

37 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:07:37.08 .net
>>34
直近・直前は、又南渡一海で一大国、だから、
一大国までの「南」を受けて、その次の「一大国から又(南)渡一海で末盧国に至る」となるわけだ。

38 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:12:08.09 .net
>>36
なんで魏使が住民の動きに従うんだよw

39 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:15:22.47 .net
まず「乍南乍東」で狗邪韓国まで行き、
次に方角不記載で対海国に行くわけだから、対海国へは「乍南乍東」が及んでいる。
次に「又南渡一海」だから、一大国へも「乍南乍東」が及んでいて、そのうちの「南」だとしている。
次に「又渡一海」だから、結局、末盧国へも「乍南乍東」が及んでいることになる。

40 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:23:46.83 .net
>乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里

「乍南乍東」が及ぶのは、七千余里の地点までだ。

41 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:24:38.54 .net
投馬国や邪馬台国へは「南至○○国」とあるわけだから、「又南」は単なる「南」とは区別すべきだな
「又」はそれ以前の何かを前提にしたことを示してるわけで、「乍南乍東」の「南」だというほかない

42 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:26:28.56 .net
「末盧国」=唐津付近説の一番おバカなのは伊都国近くの湊まで船で行けばいいのに、
わざわざ船を降りて山越えの道を大量の荷物を運んだとしていること。
これまで、この行程を取った理由でまともなものを聞いたことがないw

43 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:26:32.29 .net
38 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:12:08.09
>>36
なんで魏使が住民の動きに従うんだよw

苦し紛れの言いがかりだなwww
官であろうが、民であろうが、可能な航路が無ければ行くことは出来ぬ。

44 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:32:11.88 .net
そもそも壱岐から松浦へは、それ以前の対馬から壱岐、巨済島から対馬までの距離よりはるかに短い
距離だけをみても、一大国から末盧国が、壱岐から松浦だというのはありえない

45 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:33:24.13 .net
古事記にもあるように、「筑紫の末羅県」なんだよ
肥前ではない

46 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:35:06.39 .net
詰まらんことを言う奴が湧いてるなwww

47 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:37:47.40 .net
末盧国が糸島半島だとすれば、壱岐から千里だというのも合うし、そこから伊都国まで東南だというのも合う。
古事記にも末羅県が筑紫にあったと明記してある。
「乍南乍東」を度外視しても、末盧国は糸島半島しかありえない。

48 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:47:15.93 .net
>>45
>日本書紀の記述
 夏の四月の壬寅の朔甲辰に、北、火前国の松浦県に至りて、玉嶋里の小河の側に進食す

>>47
>末盧国が糸島半島だとすれば、壱岐から千里だというのも合うし、そこから伊都国まで東南だというのも合う。
末蘆国から東南へ500里で伊都国にいたると書かれている。
糸島半島から糸島伊都国まで500里もあるものか、まるきし合わないではないかwwww

49 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:49:47.95 .net
>>48
日本書紀の松浦と古事記の末羅行ったのって時期が違うので別の記事なんだよね

50 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:52:19.50 .net
糸島半島に4000戸はあり得ないんじゃないのか。伊都国ですら1000余戸だから。今と地形も違って東南には行けない。もとはほとんど島だったからね。。

51 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 12:57:46.76 .net
邪馬台国連合が暴れているようだなwww

52 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 14:59:44.90 .net
全身に朱丹を塗るとあるがどこで朱丹をとっていたのか。嬉野や宇佐あたりでは取れるらしいが。。狗奴国と朱丹争奪戦争してたかもしれんね。。

53 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 15:08:51.91 .net
帯方郡
↓海岸水行七千里
狗邪韓国
↓海渡千里
津島国
↓海渡千里
一支国
↓海渡千里
末盧国
↓陸行五百里
伊都国
↓(東南)百里
奴国
↓(東)百里
不弥国
↓(南)水行20日
投馬国
↓(南)水行10日・陸行1月
邪馬台国


末盧国から伊都国は、かなり離れてるんだよ

54 :九州王:2016/06/14(火) 15:55:00.78 .net
>>50
末廬國は有四千餘戸だから
伊万里市、唐津市、佐世保市、松浦市など旧松浦郡全体だろうな。

55 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 16:15:35.62 .net
田舎は広いからね。

56 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 16:32:28.28 .net
奴国2万戸とはなんか少ない気がするな。奴国の中心はどこなんだろな。。多々良川や西区の野方遺跡早良区の金武古墳あたり、南の筑紫野あたりはどうなんだろうか?

57 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 16:41:23.83 .net
奴国2万戸は当時としては異常に多い国
筑前のほとんどを奴国が占めていたろう。

58 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 17:43:20.66 .net
戸数の話だが不弥国までは有〜だが投馬国邪馬台国は可〜になってる。魏の人間は投馬国邪馬台国には行ってないし戸数も伝え聞きだろう。5万7万はないな。。

59 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 17:46:12.68 .net
>>58
広大な面積の国で、隅まで行ってないんだよ。

60 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 17:52:15.21 .net
そのとおり
広すぎて、数えきれんかったーーー、と言うことさ。

61 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 17:56:21.99 .net
遠くにあってわけわらん国は以下、彌奴国、 不呼姐奴国、蘇奴国、 華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、奴国など奴が付く国が多い。奴国がニギハヤヒ物部で先に東遷しとけば記紀にシンクロするんだが。。

62 :日本@名無史さん:2016/06/14(火) 22:22:46.11 .net
大和朝廷とは完全に別物だろうな。

63 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 00:29:56.58 .net
単純に 奴=の って事じゃないの?

64 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 07:46:12.44 .net
古事記の「思金神の策」に「アメノコヤネとフトダマを呼び、天の香具山の鹿の骨を抜き取って、天の香具山の桜の木で占いをさせた」とあるが、邪馬台国も古事記も太占してたんだな。古事記は高天原でだけど。。

65 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 07:50:34.75 .net
「ほとんど、ツーのという人物の話だよ」と言われているけど

66 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 07:53:21.89 .net
あと本当のスサノヲというのがいるとか

67 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 07:57:34.99 .net
あのスレに書いてあったはず

誰にでも、わかるように教えると

🌞 🌛
 ス

68 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 08:07:43.01 .net
http://www.youtube.com/watch?v=dSbvs-GmAhk

69 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 08:17:26.77 .net
68の動画

悪く言いたくないんだけど、ボーボボのパクリ?

70 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 08:24:02.37 .net
< 卑彌呼の墓 >

卑彌呼の墓(冢)は、日向・高千穂町の高千穂神社山稜と思われる。高さ約20mの円形
(僅かに卵型の印象あり)を成し、徑は百餘歩(約150m)で、倭人伝の記載にみごとに一
致しているからである。

卑弥呼がここに埋葬されたことは、後世、大和朝廷により入念な隠ぺい工作がなされたよう
であり、御稜であることに気づく人は少ない。
地元に伝わる高千穂夜神楽三十三番は、この墓の本当の主の粗暴な魂を鎮めると共に、犠牲
となったあまたの奴婢たちを偲んで舞い続けられているのであろう。

71 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 08:35:10.34 .net
まだ続いてたの?誰が、どう考えてみても
『サイバーパンク SPECIAL』

同じ話 コンセプト?

72 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 08:59:18.60 .net
< 鬼八伝説 >

宮崎県高千穂町に鬼八伝説がある。建武5年(1338)の「高千穂十社御縁起」によると、
この地方には「きはちほうし三千王」という大蜘蛛がいたそうである。鬼八の本名は
走建(はしりたける)で、高千穂の都邑を占領して民を悩まし、美女を求めて乱行の
限りを尽くした。

そこで、神武天皇の兄の三毛入野命とその妻子の十社大明神が攻めて退治したとある。
しかし殺された体はいくたびも一つになるので、3つに切り、3ヶ所に分けて埋められ
たという。そして押さえの大岩が置かれたが、それは、今も鬼八ほうしの墓標として
残されている。

73 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 09:05:33.76 .net
サイバーパンク、読んでみた読んでみた

サメのような覆面の男が出て来るし、
確実に同じ話

覆面というかマスク?
口の辺りがサメの歯のように見える

74 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 09:06:47.63 .net
忍者ナルト

75 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 09:15:54.13 .net
>>68
あのセイントセイヤの動画ではないの?

76 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 09:19:03.34 .net
・宇宙ヤバイ
・mike o  MV(動画)

ほとんど同じ

77 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 09:28:10.54 .net
>>72
阿蘇では健磐龍命の従者になってるね。阿蘇と高千穂どっちが先なんだろう。出処は同じだろうけど。。

78 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 10:01:21.52 .net
482 名前:日本@名無史さん [sage] :2016/03/28(月) 23:59:44.76
これが陳寿が後の世に残るように示した経路である。
http://i.imgur.com/kXFnV9h.jpg

呼子に着いたのち、伊都国、そして奴国、不弥国。
なぜ呼子なのかは、繰り替えすが、壱岐からは見えるそこでなければ、万一の場合の行軍の
目標として不適切だからである。
おそらく張政は糸島の港に着いたが、そこを具体的に知らなければそこを起点とした説明は
できない。呼子は目標として当然の地点だ。
そのような配慮もしているから陳寿は素晴らしい。

そして、呼子、三雲遺跡が500里ということから、比率を考えると、不弥国は御笠川を越える
ことはない土地なのである。
地図を25度ほど傾けた場合、その地点は奴国の丘付近となる。
不弥国から南に水行。川しかない。

伊都国から奴国への100里、奴国から不弥国への100里。
これは、1日の歩行距離なのである。
私は軽い登山をするが、距離など地形によって全くわからなくなる。
だから、登山地図は平均所要時間が記されており、それを頼りにそろそろ○○へ着くという
ことが分かる。
ペースが遅いなら、その分、平均所要時間に乗ずる。
まっすぐな道路のない陸行の計算は、そのようなものだ。

それに合わせて、水行が不可能となる地点から、阿蘇山を見て、東に海がある地点まで歩く。
すると、東の海の向こうに、四国が見えるのである。

阿蘇山を見ていることは、魏志倭人伝では省かれているが、後に著された隋書に、昔の倭国の
話の1つとして阿蘇山が印象的に描かれていること辛、様々な記録から取捨選択した陳寿が
省いたものと考えられる。

陸行1月。タチバナが野生する串間の海岸に着く。

79 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 10:01:29.80 .net
>>77
たぶん、出処は同じだね
古代、阿蘇と高千穂は同じ肥国の取り扱いで、知保といったらしい。
鬼八(鬼道集団)は阿蘇から高千穂にかけて勢力をふるっていたのだろう。
その後、阿蘇は阿蘇神社の系列の伝説、高千穂は高千穂神社の系列の伝説として伝えられたのだろうね。、

80 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 10:12:46.93 .net
>>79
何故高千穂なんだろ。阿蘇5岳より優位なところあるのかな?阿蘇より高千穂のほうが高いとか(適当)。。地理に疎くてね。

81 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 11:28:46.37 .net
>>80
一般に阿蘇と言われるのは、実体として阿蘇カルデラ内の火山灰地帯のことであり、
ひろびろ雄大ではあるが、作物の出来は良くないし、それに時々爆発して灰を被ったリ、
大地震に見舞われたりする。

それに比べれば、高千穂は土地が肥えていて、風向きの関係で阿蘇山の爆発の影響も少ない。
今回の地震でも、阿蘇地域は大被害をこうむったが、高千穂町はさほどでもなく、
救援のための前線基地の一つになったほどだ。
つまり高千穂は、なんたって自然条件・生活条件に優位性があったからだろうねえ。、

82 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 11:51:49.31 .net
>>81
サンクス。日向国ではやはり高千穂が霊峰なんだろな。筑紫では若杉山と飯盛山になるな。若杉山自体がイザナギで飯盛山自体がイザナミになる。。

83 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 11:58:40.16 .net
阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く〜。卑弥呼は阿蘇山を祭祀してた可能性はないのかな。シャーマンならいつも噴火してる阿蘇山気になるだろう。。

84 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 12:16:49.69 .net
当時の九州で噴火活動が盛んだったのは霧島と阿蘇だろうな。

85 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 12:37:01.65 .net
隋書に、有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。ってあるが、どこで祭祀を行なってたんだろ。卑弥呼に限らずでいいが祭祀場はどのあたりになるのか。。

86 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 12:47:25.77 .net
高千穂をとりまく山々からは、阿蘇山の噴火の様子を眺めることができる。

特に、高千穂町岩戸地区の北側にそびえる姥岳(祖母山)は標高1756mで、
宮崎県の最高峰である。もちろん、阿蘇山や大分の由布岳はすぐそこに見える。
(TVの日本百名山で見た)。
晴れた日には鹿児島の開聞岳や、佐賀の背振山も見えるのではないか。

87 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 12:53:43.07 .net
九州島の名山(屋久島などを除く)

祖母山 1,756 m
古祖母山 1,633 m
傾山 1,605 m
大崩山 1,643 m
久住山 1,786 m
由布岳 1,583 m
阿蘇山 1,592 m

88 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 13:12:48.53 .net
祖母山は高天原に相応しいな。土地勘がないのでよくわからんが。。阿蘇の姫君は阿蘇津姫と鯰伝説の豊玉姫ぐらいかな。二人は同一人物⁈もしくはどちらかが玉依姫の可能性とかあるんだろうか。。

89 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 14:52:44.70 .net
隋書 如意宝珠

90 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 14:57:01.12 .net
阿蘇山に置いてあった如意宝珠は神功皇后か応神天皇が兵庫の廣田神社に運んだのかな。それとも別物か。。

91 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 15:22:26.42 .net
>>87
除かれた屋久島に九州いちの名峰とか、まさかないよな?

92 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 16:24:25.83 .net
>>85
どかはともかく、随使は九州に立ち寄った形跡がない。
つまり、その部分の記述は魏使の見聞の記録によるもの。

93 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 17:20:12.17 .net
>>92
そうなのか。遣隋使船は4月筑紫に戻り、6月15日には難波津に入港しているらしいから、てっきり那の津に滞在したと思ってた。。

94 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 18:42:36.86 .net
瀬戸内海は水行2月半

95 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 18:58:59.60 .net
>>94
サンクス。参考にする。国書の件と裴世清で博多津どころではなかったかもしれんな、妹子も。。

96 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 19:04:27.67 .net
>>91
なかなか詳しいじゃないか、
九州一高い山は屋久島の宮之浦岳1935mであるが、
ま、邪馬台国論争ではエリヤ外ということでいいだろう

97 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 19:22:21.61 .net
>>90
如意宝珠は神仏習合臭いな。卑弥呼とはちょっと違う感じもする。。

98 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 19:36:23.39 .net
< 事鬼道、能惑衆 >

卑弥呼は共立されて倭国の女王になったが、同時に鬼道教団の教祖でもあった。そして大きな
災いを取り除く祈祷の際には、奴婢の幼女を捕えて生贄にしたのではないかともいわれている。

また教団自体も、「卑弥呼以死大作冢、徇葬者奴婢百余人」と記されたように、折に触れ強権を
振るう体質を持っていたようである。まさに「鬼の教団」とみられていたのであろう。そして、
これを嫌った大和王権は、いつの頃かこの教団を攻め滅ぼし、これがこの地の「鬼八伝説」となっ
て語り継がれたのではないであろうか。

99 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 20:08:25.56 .net
ドルイド教やな

100 :日本@名無史さん:2016/06/15(水) 21:04:47.52 .net
時事ネタでアイルランドから2千年前のバターだって、古代ケルトのドルイド
教やー

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