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邪馬台国畿内説 Part207

1 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:48:33.24 .net
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう

前スレ
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1488942432/
◆1
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている

現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された

この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ30参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある

箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
すなはち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である

この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここが邪馬台国の所都である

2 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:49:34.99 .net
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる

血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が初期国家の骨格を形成する

纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し単純な整数比で縮小された首長級古墳が全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
すなはち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である

その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、すなはち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、すなはち布留0期にあるとみることが出来よう

3 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:49:59.97 .net
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
換言すれば、紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば現行のように改変を行うことは困難であろうし、被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいということである

また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など三世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話部分や天岩戸神話と同一類型の部分など、付加された疑いの濃厚な部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう

すなはち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確なかたちで、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来る
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものがある
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものなどが目立つ
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である

紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう

4 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:52:23.87 .net
4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
すなはち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ

2世紀末の大乱期、中国製威信財の入手ルートが途絶して列島における旧世界の秩序が崩壊した後、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避する目的で、この地に新たな秩序の中枢が構築された
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる

定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である

5 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:52:51.39 .net
◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている

それが更に個人的カリスマの死去を契機として、機関化した政治システムのフェイズに進むのである

2世紀は炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編を促した
弥生社会の終焉に向けて変質を強いていた気候変動の総決算である

6 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:53:17.51 .net
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は順次製造が途絶していったものと推察される

方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる

巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の集中と公共性、一者が突出して他者が均質であることは良く整合が取れるのである

一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる

この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある

このクロスナ層中の遺物の共伴するのが庄内併行期の土器である

7 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:53:39.14 .net
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から半世紀+αの時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる

庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住TB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を象徴していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう

北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である

8 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:54:03.94 .net
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく

博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
(この項続く)

9 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:54:26.44 .net
(続き)
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である

倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない

10 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:54:49.04 .net
◆9 参考
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf

●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
(この項続く)

11 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:55:09.70 .net
(続き)
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


12 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:55:30.10 .net
◆10 実年代目安の参考

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃

   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016)

13 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:55:55.32 .net
◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか

A:九州は倭国の一部なので問題ない

郡使は伊都国で常に駐しているので、九州のことがよく観察されているのは当然
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは三世紀の九州に見られないものである

水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地に点在
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山出土の水銀朱が近畿産であることは鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013)
これらの状況から、三世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される

また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する


◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
  魏使は九州を出ていないではないか

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
 「泝流」が6回
 「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある

14 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:56:21.78 .net
◆FAQ 3
Q:行程論から言って畿内説は無理ではないのか

A:畿内説以外の説も無理である
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる


◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は七万戸だという邪馬台国には小さすぎる

A:誰も纒向遺跡が邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と三世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある

15 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:56:46.66 .net
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している

むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している

16 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:57:05.99 .net
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある
  畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を否定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される

17 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:57:30.09 .net
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと思われることは念頭におく必要がある

18 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:57:53.80 .net
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である

19 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:58:14.96 .net
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
(この項続く)

20 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:58:38.49 .net
(続き)
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる

当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる

倭人伝に描写された3世紀前半は信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、すなはち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである

なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)

21 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:59:02.56 .net
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない

古墳の竪穴式石室は、本来の槨の概念とかけ離れており、中国人に槨と認識される可能性は低い
畿内で一般的な墓は木棺直葬で、適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない

22 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:59:24.46 .net
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する

一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(三世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている

弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない

23 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 00:59:51.05 .net
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない

◆FAQ 18
Q:3世紀には目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
また、魏代の三角測量技術を示す史料上では、1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである

24 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 01:00:12.62 .net
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
  信頼できる基準ではないか
  これに基づいた里程論で邪馬台国は
  九州島内に求められる

A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである

新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ならが信憑性が無い


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く

A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう

白鳥倉吉が里程に基づいた邪馬台国位置論の放棄を提言してから既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない

25 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 01:00:34.86 .net
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される

中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
  これは信用ならない
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る

A:箸中山古墳で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある

つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである

逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つと土器付着炭化物1つは、3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に揃って示している
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう

一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない

26 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 01:00:57.45 .net
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない

A:方形のものの大きさを「径」で表現することはないので、「径百余歩」と形容された卑弥呼の冢は方墳ではありえない
しかし「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない

箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している

方丘築造が後出であるという判断は
 箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で

 前方部盛土に遮られる形で消失していること
 椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で

 前方部に盛土がないこと
等による


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである

このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である

27 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 01:01:16.20 .net
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか

A:日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料に依拠するのは、学問的でない
(この項続く)

28 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 01:01:39.41 .net
(続き)
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
 ・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
 ・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
 ・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである

遠隔地同士の盟主的首長が、兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である

さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる

古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい

29 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 01:02:04.21 .net
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
  卑弥呼の墓があるのは九州だ

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い

参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である

以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い

30 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 01:02:25.00 .net
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
  弥生絹があるのは九州のみ

A:献上品に含まれている高密度絹織物「ケン」(糸偏に兼)は弥生絹ではな
弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳が初出であり、技術的系譜から言って九州の弥生絹とは連続しない
九州の弥生絹は粗製品で、弥生中期の発見例が多いが弥生後期には衰退しており、また技術的系譜が古墳時代の絹生産と連続しないなどの点でも、中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示す

九州説にとって不利な条件と言える


◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
  箸墓の築造と時間差があるだろう

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である

よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元四(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸墓の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある

なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、已と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える

また、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い

31 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 01:02:48.17 .net
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て三世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い

当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い

優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる

畿内色に染まって以降の那珂川地域、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである


◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
三世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が六世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い

これが部分的利用に留まる所以である

32 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 01:03:08.61 .net
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない

  「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
  「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国


◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
  伊都国は隆盛のさなかである

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉を迎え糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群で、使用された金属素材は鉛同位体比分析に基づけば一世紀以前に入手された輸入青銅器のスクラップが用いられた可能性が高い
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代に入ったことで、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である

以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう

33 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 01:03:29.22 .net
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも出雲西谷が隔絶して卓越するとは言い難い
加えて、葬儀用器台の文化が吉備から流入しているのは西出雲の西谷墳墓群のみである

以上より、各地域の自主性ある独立政権の緩やかな連合、という以上の想定は困難である
ことに越地域は雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)

一方で、西出雲は弥生中期以降の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、五世紀以降の畿内政権と地方首長の政治的状況を反映したものと考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することも、他地域に武断的に征服されたと過小評価することも、ともに非現実的である


◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない

また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない

伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された一要素という以上の評価は難しいであろう

34 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 01:03:49.80 .net
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である

ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない

◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画して意図的企画により建設されている纒向遺跡は、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う

大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡である
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

35 :◆q8leUXpsw. :2017/03/11(土) 01:04:44.87 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

【追加・変更点】なし

36 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 01:18:17.79 .net
>>35
>【追加・変更点】なし

37 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 01:39:58.86 .net
銅鐸文化の消滅をこじつけでしか説明できない時点で近畿説はダメ


29 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 10:50:02.48
 河内の巨大古墳ってさ、古墳に周濠が敷設されてる訳ではない。
周濠、というか溜池を浚渫した序でに墳墓をくっつけた様にしか見えんのだがね、あれは

↑さいしょに、堀がほられた…  労働者はそこに住まわされた  それ以降、水が入って濠になった

銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著)

巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。


土器の編年とか、ほんとにくだらない

支配者の心を知ること

銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著)


123 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2016/10/23(日) 12:17:44.27
野洲の銅鐸博物館に行ったとき九州からの侵略、征服などは絶対になかったと
力説してたど、で二階の踊り場にいくと被差別部落の歴史ね、ふーん。

38 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 01:45:22.08 .net
>>37がこじつけの荒らしじゃね?

39 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 01:48:16.44 .net
>>38
銅鐸文化の消滅をこじつけでしか説明できない時点で近畿説はダメ

巨大古墳は、先住民(銅鐸民)の反抗を封じるために作られた無益なモニュメント

結果ではなく過程(強制労働)に意味があった


銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著)

巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。

40 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 01:52:36.27 .net
>>38

人間狩りが得意な九州勢力(のちの大和朝廷)が
先住民(銅鐸族?)を使役してつくったのが
あの壮大な古墳群
だから銅鐸発掘地と巨大古墳は微妙に近い場所にある
彼らは濠の中に住まわされてたんだぜ
だから、古墳の外周の濠を掘り返すと
かわらけ、生活雑器がでてくる

41 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 01:55:05.76 .net
>>38

銅鐸が大量廃棄でなく祭祀埋納だとすると、以下の矛盾が生じる

・祭祀なのに柱穴がない
・埋めるにしても土中に木枠や石室もない
・盗掘の問題

祭祀で定期的に埋納されているなら場所が目立っていて、もっと盗掘されるはず
年に1つ埋めたとしても5年くらい同じ場所、しかも集落から外れた場所に埋めていれば、
銅鐸祭祀でない他のムラの人間などに盗掘される危険性が高い

これらが1,2の例外を除いて全てに当てはまることからして、
銅鐸祭祀でない他勢力からの征服時に、文化の象徴である銅鐸が全て回収されて
人目につかない場所に一括廃棄されたと考えるのが自然

42 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 01:56:40.09 .net
>>38
日本で三種の宝物をセットでもつことができる富と権力
それが最初に現れるのが九州です。
それら三種の神器はやがて王権の象徴とみなされるようになり
王権に必須の神器として新たなものが加えられることもなく
のちの時代まで三種のままでありつづけたのは
九州のそれが権威の淵源とみなされたからに他ならないでしょう。
もし、畿内が新たに銅鐸を混ぜて四種の神器を王権の象徴としていれば
九州のそれは日本を統治する正統性に欠けた、劣った政権だったと
みなされていたでしょう。なぜ、銅鐸は廃され、三種に神器が限定されたのでしょうか?
それはのちの畿内政権が九州に出自をもつことにこだわっていたからです。

43 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 02:07:07.15 .net
近畿の古墳の石棺のピンクの石って熊本産なんだろ?
これこそ東遷の証拠じゃねえか

おまえら、嫌いな国の、地方の産物に囲まれて死にたいと思う?

九州以外で確認された阿蘇ピンク石(馬門石)の石棺  5世紀後半〜7世紀前半(築造年代は推定)

〈1〉岡山市・造山古墳
〈2〉大阪府藤井寺市・長持山古墳 (伝・允恭天皇陵陪塚2号棺)
〈3〉大阪府羽曳野市・峯ヶ塚古墳
〈4〉奈良県天理市・鑵子塚古墳
〈5〉奈良県桜井市・兜塚古墳
〈6〉桜井市・慶雲寺
〈7〉桜井市・金屋ミロク谷
〈8〉岡山県瀬戸内市・築山古墳
〈9〉奈良市・野神古墳
〈10〉滋賀県野洲市・円山古墳
〈11〉野洲市・甲山古墳
〈12〉大阪府高槻市・今城塚古墳
〈13〉奈良県天理市・東乗鞍古墳
〈14〉奈良県橿原市・植山古墳

・なぜ、大王のひつぎという重要な石棺に、九州のピンク色の石が使われているのか?
関西でとれる石ではなく、わざわざ赤い石を熊本から運んで来た理由は何か?

44 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 02:17:41.82 .net
うぐひすの 身をさかさまに 初キウス

45 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 02:24:04.96 .net
むざんやな兜の下の東遷説

46 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 03:03:20.39 .net
>>43
>九州以外で確認された阿蘇ピンク石(馬門石)の石棺  5世紀後半〜7世紀前半(築造年代は推定)」

それを、いつ「東遷」した話にこじつける気?
w

47 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 03:04:09.23 .net
さあキウス、呟くんだ

48 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 04:31:08.25 .net
キウスサイキバ・・・どれもこれも過去のコピペ

49 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 05:21:53.88 .net
>>1に物証を盛れと忠告したのに、また九州勢に敗れちゃうぞ。

50 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 05:28:31.70 .net
>>49
物証って何だか知らない知性キウスが
またトンチンカン言ってます

51 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 06:04:19.35 .net
>>46
■「法隆寺の移築」
  663年 白村江の戦いで九州王朝は大敗 王(天皇と思われる)薩野馬 唐の捕虜となる。
  663年〜683年頃まで 唐・新羅軍が筑紫に駐留する。(約20年)
  667年 近江大津宮に遷都
  668年 天智天皇即位
  671年 天智天皇崩ず。
  672年 壬申の乱
  673年 天武天皇即位 飛鳥浄御原宮
  683年 この頃 唐・新羅軍の筑紫駐留は解かれた。

       20年間ほどの期間 現在のJR法隆寺駅の南方の川岸周辺に寺院資材が大量に積み上げられて置かれた。
       地名が「置留(おきどめ)」→「興留」として残る。

52 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 06:48:50.46 .net
>>49
今 掘りに行ってるから待ちな。

53 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 06:55:48.80 .net
20年間ほどの期間 現在のJR法隆寺駅の南方の川岸周辺に寺院資材が大量に積み上げられて置かれた。
       地名が「置留(おきどめ)」→「興留」として残る。


古建築秘話 / 伊藤平左エ門‖著 / 鳳山社 , 1962

おもしろ歴史話 法隆寺移築説
宮大工の棟梁の家系に生まれた十一世平左衛門が書いた「古建築秘話」で伊藤平左衛門は、建築に使われる
尺度の歴史的違いに着目することで、法隆寺は後世の再建で、別の場所から移築されたと結論付けた。
高麗尺で作られていて、当時奈良に都がなかった為に他所から移築と

新たな支配者による圧力のもと、転封(移封)という形で、大和の地へ強制的に移転させられた可能性が強いと思います。
今から48年前に、木造建築の専門家が本を出されています。


>>620 時期、伽藍様式が法隆寺に同等なので

大宰府の観世音寺はそんな次元じゃない
法隆寺の心柱の直径と寸法がぴったり合致

↑法隆寺は、九州大宰府、観世音寺から移築された

鳳山社 , 1962 ← 長生きしてれば九州王朝に賛同したはず

米田良三『法隆寺は移築された─太宰府から斑鳩へ』一九九一年、新泉社刊。

54 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 07:34:12.71 .net
zarakokuに何を言っても無駄。

普通、議論でソース示したら納得するものだが、
zarakokuはそのソースが畿内説だから間違いと言ってくる。

AさんとBさんが議論してて、そこにzarakokuが割り込んできて、
Bさんに「あなたは間違いだ」とzarakokuが言う。
Bさんが「そのソースは?」とzarakokuに聞くと
「Aさんが言ってるから」と言う。

つまりアホでキチガイ。

55 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 07:37:44.69 .net
国≠クニ クニ=市町村
例:日本国の中に、山城のクニや、筑前のクニ、吉備のクニ

<地理編>
帯方郡
↓海岸水行七千里
狗邪韓クニ(倭人投馬国へ入国)
↓海渡千里
對馬クニ(島の大きさ分の1辺四百余里×2を迂回)
↓海渡千里
一大クニ(島の大きさ分の1辺三百里×2を迂回)
↓海渡千里
末盧クニ(邪馬台国九州本土へ入国)
↓陸行五百里
伊都クニ(女王所在地・首都ワシントン)
↓(東南)百里
奴クニ(邪馬台国中心・ニューヨーク)
↓(東)百里
不彌クニ(外国使節逗留所)

<日程編>
帯方郡
↓(南)水行20日
投馬国(朝鮮半島南部に到着)
↓(南)水行10日・陸行1「日」
邪馬台国(中心都市の奴クニへ到着)

イギリスへ行く旅程=ロンドンへ行く旅程、フランスへ行く旅程=パリへ行く旅程
邪馬台国へ行く旅程=奴クニへ行く旅程

<総距離>
奴クニまで、〆て一万二千里でした

56 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 07:38:13.48 .net
平原遺跡について

・1号墓(女王墓)と2号墓(陪臣墓)が周溝を共有しており、
方形周溝墓と円形周溝墓が共通の周溝で囲まれた一体の墓域だった
・出土品は一括して国宝指定
・周溝の一部を発掘しただけで合計10基の土壙墓(殉葬墓)

<1号墓(方形周溝墓、18×14m)>
・水銀朱丹(大量の中国朱が、外に流れ出したことで墓が発見された)
・割竹形木棺(下半身を東南の日向峠へ向ける)
・琥珀製耳璫 3(女性用高級装飾品、国内唯一の出土)
・メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900 (ヒスイ無し)
・鉄製素環頭大刀 1、鉄鏃多数(倭人伝記載と同じ五尺刀)
・大型内行花文鏡4面(日本製、直径46.5センチメートル=八咫、世界最大)
・方格規矩鏡 32面、内行花文鏡 2面、四螭文鏡 1面
(9割以上が仿製鏡で、舶載鏡は前漢鏡1後漢鏡1だけ=籠神社の伝世鏡と同じ組み合わせ)

<2号墓(円形〜隅丸方形周溝墓、周溝を含んで径10m)>
・丸太木棺
・土器片
・前漢鏡3

<18本の柱穴>
・うち2本は東南の日向峠へ向いている鳥居か

57 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 07:38:52.16 .net
【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の奴国が商業都市として膨張したのとは対象的であり、世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀前半の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、鳥居とおもわれる痕跡がある。
特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていることから、強大な女王がいたことがわかっている。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。

伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
平原遺跡の目の前には高祖宮があり、後世には東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
これが筑紫の日向の高千穂宮の実体であり、高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
ニニギは高千穂のクジフル岳に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などがまさにニニギ王家の王墓である。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石神社、高祖神社の目の前の平原遺跡から出土した八咫の鏡などが証拠である。
魏志には、卑弥呼の宮城は楼閣高しと書かれているが、単に高い建物があっただけでなく、高祖山やクジフル山の山頂にまで楼閣が配置されていた可能性がある。

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には三種の神器が副葬されていた他、鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあったこともわかっている。
王宮である高祖宮(高千穂宮)は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していたことになる。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言している。
太陽信仰が伊都国における神道の基本形であり、後の伊勢や宮中における祭祀に継承されている。
伊都国は魏志と記紀の貴重な接点であり、記紀の伝承に絶対年代を与えることができる。

58 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 07:39:26.40 .net
以上を要約すると

平原遺跡は「女王墓」である。

平原遺跡の1号墓と2号墓ならびに柱群は「周溝を共有する複合墓域」である。

その周溝のうち、発掘された部分からは殉葬墓と考えられる土壙墓が10弱見つかっている。
周溝の残り9割を全て発掘すると相当数の土壙墓が見つかる可能性が高い。

また魏志倭人伝に記載された大量の中国朱(魏から真珠五十斤を贈られている)や
五尺刀が副葬されている点も見逃せない。


年代を決めるのは
・1号墓の装飾品と銅鏡
・2号墓の土器
などが決め手となる。

2号墓の土器は西新式つまり庄内期のものであり、210-250年と考えられる。

銅鏡については国内に類を見ない多数の仿製鏡、並びに世界最大の銅鏡を製作していることから、明らかに三角縁神獣鏡の直前期。

そして装飾品については、考古学専門家の鑑定によって、200-220年と推定されている。

59 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 07:40:15.13 .net
漢帝国の威光を伝える前漢鏡・後漢鏡だが、後漢は220年に滅亡してしまう。

だが、後漢の後の魏(220-265)、そして魏の後の晋(265-420)代の墓である
洛陽晋墓に、後漢鏡のみならず前漢鏡すら副葬されていることから、
前後漢鏡はかなり後の時代まで中国大陸に存在していたことがわかる。

平原遺跡出土の舶載鏡のうち、
後漢鏡である内行花文鏡長宜子孫鏡は、洛陽晋墓から同型のものが出土している。
前漢鏡であるキ龍文鏡は、縁がすり減っており、長期間伝世されたものである。
直径16.5センチメートルあり、キ龍文鏡として、国内では最大、中国でも上位であることから、金印や金銅製四葉飾金具と同じく、漢から倭国王へ贈られたものが伝世したのであろう。

一方で、大量の仿製鏡と世界最大の超大型内行花文鏡についてだが、
公孫氏が遼東太守に任命されるのが189年、帯方郡を設置するのが204年である。
236年には公孫氏はついに魏に反旗を翻して、本格的に敵対する。
日本への漢鏡の供給ルートは一時的にせよ絶たれることになる。

銅鐸が大型化するのには300-800年、
銅矛が大型化するのには300年ほどかかっている。
銅鏡の国産化自体は紀元前には開始されていた。須玖タカウタ遺跡では紀元前の国産銅鏡鋳型も見つかっている。

公孫氏によって舶載鏡の輸入が途絶えた189年から国産鏡の生産が本格化したとして、
そこから大型化するのに、さすがに300年かけることはないだろうが、
10年20年で「世界最大の銅鏡」にまで巨大化させるのは飛躍がありすぎる。

平原遺跡の銅鏡年代は、可能な限り遅めに考えるのが妥当。
大型内行花文鏡を4面も作製している以上、3世紀後半でも早すぎるくらいである。

さらに、大量の中国朱がもたらされている。
三国志の戦乱の中、魏が建国して中国北部が落ち着いてきた220年以降かつ、
公孫氏が滅亡して魏へのルートが開けた238年以降。
(供給源の安定+供給ルートの再開)
まさに卑弥呼の朝貢によってもたらされた中国朱であることが強く示唆される。

60 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 07:41:17.72 .net
「豊後国風土記」
「丹生郷、都の西にあり。昔時の人、この山の沙をとりて朱沙に該てき。
 因りて丹生郷という」」

「伊勢物語集」
「奈良の大仏にも使われた宇陀の水銀の産出が衰えると
 豊後丹生水銀や伊勢水銀の生産も増大し」

「続日本紀」
文武二年(698年) 九月乙酉(廿八)○乙酉。
伊勢国朱沙・雄黄。
常陸国。備前。伊予。日向四国朱沙。
安芸・長門二国金青・緑青。
豊後国真朱。

常陸(茨城)備前(岡山)伊予(愛媛)日向(宮崎)から朱沙
豊後(大分)から真朱(辰砂)
がそれぞれ献上されている。

以上の資料からわかることは
・採掘跡については、見つかってない所の方が多い。
・弥生時代と奈良時代で鉱山探索の科学技術が飛躍したわけではないので、
 豊後や日向などには昔から丹鉱山露頭があったことがわかる。

また、3世紀前半の阿波の萩原2号墳に中国朱が副葬されていることから、
2世紀後半には、
北部九州邪馬台国が九州東海岸(宇佐)〜瀬戸内海航路を制圧していたことが
考古学的に確定している。

61 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 07:42:15.58 .net
【倭国の文化の伝播経路】
(日本海ルート・瀬戸内ルート)

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓       近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉

紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

62 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 08:18:55.75 .net
>>1
>>>東西150m、南北100m前後の規模を持ち、
駄目、駄目。
女王や弟や男子や城の兵士や奴婢1000人が窒息する。
糞尿まみれにする気なのか。www
スレ主はトポロジー的でごまかしています。

63 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 08:19:18.72 .net
>>2
>>>初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家
駄目、駄目。
これを証明するためのテンプレートの中にこの文章をいれるのは、
詐欺師の手法です。

64 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 08:19:43.20 .net
>>3
>>>始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測
駄目、駄目。
スレ主の勝手な推測です。当時の民衆が知悉しているのが王墓だけだったというのは無理です、チェリーのいいとこどりです、全部食べるならよい。
スレ主は全部食え。

65 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 08:20:04.06 .net
>>4
完鏡は完全な鏡のことであるか❓
>>>倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
>>>初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である
駄目、駄目。
これを証明するためのテンプレートの中にこの文章をいれるのは、
詐欺師の手法です。

66 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 08:20:24.96 .net
>>5
>>>南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
駄目、駄目。
これを証明するためのテンプレートの中にこの文章をいれるのは、
詐欺師の手法です。
スレ主は畿内系住民が北部九州に強制的に運搬された奴隷でないことを示せ。

67 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 08:20:43.71 .net
>>6
>>>クロスナ層中の遺物の共伴するのが庄内併行期の土器である
スレ主は庄内併行期の土器が加賀の土器ではないことを示せ。

68 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 08:21:00.30 .net
>>7
逆、逆。
土器を作るのは王族ではなく人民や奴隷である。
強い国は自分の領土の人民増やそうとする。
貧しい国の人民は豊かな国へ移動する。
合戦で負ける国の人民は勝った国へ奴隷として輸送される。
だから貧しい国、弱い国の土器は同じものが古い地層から出土するのだ。

69 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 08:21:17.85 .net
>>8
>>9
>>>◆8(結語)
>>>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>>> 以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない
駄目、駄目。
みたらしの命名は根拠がキウスです。www

70 :畿内説の正統派:2017/03/11(土) 08:22:35.61 .net
天照だの邇邇芸命だの神武東征だの、勿論あとからはいってきた逃亡百済人の作りばなしさ。
勿論、対馬海峡から、人の移入なんてそれまで殆どない。
アンフィクチュオニーだよ、アンフィクチュオニー。
アンフィクチュオニーが邪馬台国も大和も説明できちゃうキーワードなんだ。
熊野は黒潮のぶつかるところで、縄文時代から揚子江流域からの漂着民が多いんだ。
それで、江南米をたまたま持ち込んだ越人、呉人が米作に適した場所を探したわけさ。
すると、どうだろう、今の奈良盆地に大きな沼地があった。
彼らがここで、周辺の縄文人と自然と共生関係を作って、弥生人になったわけ。
平和なもんだよ。
後に、瀬戸内、朝鮮半島経由で、先祖の地中国に行けることが分かったそいつらが水銀のことを始皇帝に教えたのさ。
魏志倭人伝がその証拠さ。
南越、その後呉のテリトリーとなった地域の風俗が倭人のと一致していると記されているものね。そして丹のことも記されている。
とにかく、それで、ペルシャを経由して、始皇帝の都にたどり着いていたイスラエルの失われた10部族が水銀と奈良の沼地、平原広沢のことを知ったわけ。
ジョセフが彼らを率いて奈良にやってきたのだろうね。
なんのことはない徐福のことだよ。そして、この奈良の弥生人を指導してアンフィクチュオニーの王国、咸陽と驪山陵を想起させる邪馬台国をつくったんだろうね。
アンフィクチュオニーだよ、アンフィクチュオニー。

71 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 08:37:25.95 .net
まだ、あったの?というか、まだ続いてたの?

むか〜しの話でしょ

72 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 08:47:45.34 .net
>>71
そうだ もっと連投するんだ

73 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 08:53:11.81 .net
キウス?

74 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 09:16:32.91 .net
卑弥呼の奥津城はここだ!!

阿蘇・高千穂神社
この本殿裏手の小山こそ、古代史から隠蔽された卑弥呼の「大作冢」 の現世の姿である。

>本殿裏の小山を周回する小径を一回り。何処かこの小山の頂上に行く経路は無い
>か周回してみましたが道無し。磐座的なにかがあるのかと思いながら確認出来ず
>残念なのでした。
>おそらく本殿裏の小山の頂きが、ご神体山に近い扱いなのでしょうね。。。
http://akiba9echo.exblog.jp/19202164/

75 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 09:20:24.64 .net
邪馬台国
その主邑は、肥国・熊本平野の山鹿市であり、後の翰苑には邪馬嘉国と記された。
そして女王之所都は、阿蘇・高千穂(現在の行政区は宮崎県高千穂町)
「卑弥呼以死、大作冢、径百余歩」 の墓は、高千穂神社本殿裏手の小山陵である

ここには、 あまたの皇族方がお参りなされている

0分16秒ころより数秒間(源頼朝代参の畠山重忠が植えた秩父杉、樹齢八百年)
2分05秒ころより数秒間(秋篠宮お手植えの樹木、こうやまき)
2分33秒ころより数秒間(皇族方ご参拝の記録、高札)
https://www.youtube.com/watch?v=RiaN2NM-Gvw

76 :wakokuzarakoku:2017/03/11(土) 09:33:26.22 ID:Ax75vX/wS
>>681
>偽書は既に内容自体に偽装があるから論外、
いい加減便所紙はあきらめろw<

 和田家文書は、始めから後代記録であり、後代の書き足しもある文書であるから、
 (後代史書や記紀や後代系図などと同じように)
 〇情報もあれば、半分×情報もあるもの。
 喜八郎さんの直筆の筆跡や寛政原本が見つかった時点で、
 偽書説はウソダマシであった事が確定だ。
 いい加減「娘の筆跡=喜八郎さんの筆跡」のウソダマシはあきらめろw。

>山門なんて字面からも都じゃない、境界線だぞ。<

 大和は、当然倭國の境界線だった。

>むしろ山田の方が邪馬台国由来の場所に近い。 ヤマトはヤシマの真ん中だから大和で正解。<

 大和は、倭國の別種の旧小国で、地方の「市」を監督する「大倭」職の附庸国だ。

77 :wakokuzarakoku:2017/03/11(土) 09:38:22.66 ID:Ax75vX/wS
>>685
>江戸と、明治と、平成でも違う 三世紀と4世紀では大違いだ きっと倭国大事変の東遷後のことを言ってるんだろな <

 田舎の大和はどうであったのか?は関心もないが、
 倭國では、卑弥呼や壹與の共立の後は、姫氏と天孫族の阿毎氏との合同王ととして、
 白村江の後まで存続していたんだよ。

78 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 09:33:14.99 .net
九州説の連中は何の根拠も示さないで無意味な難癖しかつけないんだねw
まず未だに妄想でしかない自分達の事を済ませてからだぞ。

79 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 09:33:30.03 .net
なんでも良いけど、仲良くやったほうがいい
と言ってる人がいたでしょ

かなーりの前の話だよ

80 :岡上 ◆JN/67qb8kM :2017/03/11(土) 09:34:46.62 .net
【テンプレの語彙】
トポロジー(笑)アンフィクチュオニー(笑)アライアンス(笑)
首長間のリンケージ(笑)析出集団(笑)

【テンプレが触れない語彙】
「内行花文鏡」

考古学に基づくと言いつつ、当時の祭祀の象徴すらまともに直視できない。
筑紫説の人から目には、さぞかし姑息に映っているでしょう。

81 :wakokuzarakoku:2017/03/11(土) 09:50:58.02 ID:Ax75vX/wS
>>692
>(孝霊)ヤマタイにも繋がる現在の地名なら私は矢田、山田も推しますよ。
特に信貴山下にある矢田丘陵地なんて場所的に かなり可能性高いでしょうね。<

 「ヤマト」は、
 倭國の別種で地方の市を監督する地位なんだから、
 だから「邪馬(族の市の入り口の)門」という意味である可能性が高いだろうなあ。

82 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 09:46:45.88 .net
>>70
で、江南や呉や越や徐福集団が渡来定着したという大嘘狂言詐欺を証明する証拠遺跡とその証拠文物、とりわけ生活痕たる証拠土器・石器と、そんな悪質極まりない詐欺を垂れ流している悪徳考古学者の氏名と所属団体は?



早く言ってみろよブタ広鼻の穴からハッカク臭を放出していらっしゃるクッサイ汚らしい東南アジア華南の醜悪極まりないブタ広鼻ピテカントロプスが祖先の台湾の遺伝子真っ赤っかな方。

83 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 09:47:15.96 .net
>>80
平原は畿内勢力の出先機関だからw

別にどんな宝があろうとも問題ないのだよ。

84 :wakokuzarakoku:2017/03/11(土) 10:02:20.42 ID:Ax75vX/wS
>>718
>(孝霊)申し訳ないが九州説はないです。 私にとっては倭人伝を完全否定する事になりますから。<

 申し訳ないが大和説はないです。
 私にとっては、倭人伝の「南」を完全否定する事になりますから。

85 :岡上 ◆JN/67qb8kM :2017/03/11(土) 09:55:33.28 .net
一応自身の名誉もありますので、Q30に絡んで、以と已の読み替えの方が、
正しい自然な読みであることはちゃんと示して置きます。

>130の事例を洗い出したら特定の死因を指さない「もって死す」という例は
>今日の主流の解釈の根拠になってる孫権の死の場面を含めて2・3程度だったという

まず、ジョーカーさんが指摘した↑の件、これは「今権以死」を指すのでしょうが、
これは、司馬彪『戦略』には今権已死とあることからも分かる通り、
「今権已死」と読むべきものであることが明確にわかっています。

「禅乃極鯀於羽山以死」から、禅定がどうしたいう、皇帝に擬するようなおかしな読み方を
今更する必要はまったくありません。

下論文のp19以降、結論部分に詳しい解説があります。
内藤湖南以降、「卑弥呼已死」と読んでおり、それで読みとしては全く問題ないと結論されています。

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/24463/KJ00005088711.pdf

そして、そう読むことで、魏志の該当部分をより深く読むことが出来るのです。 

86 :岡上 ◆JN/67qb8kM :2017/03/11(土) 09:59:38.92 .net
そして、以 を 已 と解すること、すなわち張政が伊都国に来た248年当時、
卑弥呼が死んでいたことを理解すれば、この一段落の文が、論理的つながりを持って
読むことが出来ます。

私と多少の読みの差はありますが、大筋同じ読みが解説されていましたので、
リンクを張っておきましょう。

http://www.asahi-net.or.jp/~yw8a-kndu/html/neko_3_himiko_satugai.htm

87 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 10:00:31.07 .net
太陽信仰の鏡なんて弥生中期の物が
畿内河内と葛城から出土してる。

つまりこの時点である程度の王権は、葛城に存在していたという事だから。
筑紫説はこの事を無視するしかないんだよなw

88 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 10:02:55.62 .net
たった2枚・・・

89 :wakokuzarakoku:2017/03/11(土) 10:16:11.02 ID:Ax75vX/wS
>>720
>追記 「南≠東」先生><で囲わんとって(お見逃しください <

 倭國の別種分家の旧小国の大和の中だけの歴史を話す分には、そりゃ自由だから、別に構いはしませんが、
 大和が西日本全体の盟主であった、とか、
 倭國の都や卑弥呼や壹與が大和であった、などと言われると、
 そりゃウソダマシですから、クレームを付けているんですよ。

90 :岡上 ◆JN/67qb8kM :2017/03/11(土) 10:06:39.82 .net
最後に私が敢えて「不自然な読み」と慎重に表現してる意味を解さず、言いたい放題だった方々。
漢文・中国語が出来る人なら、容易には「間違い」などと言わないわけです。

Googleで「中国語・文法がない」と3秒で検索した結果です。↓

http://tyugoku.info/1663.html

91 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 10:09:12.83 .net
>>88
多紐細文鏡だろ、分母も小さいけどなw

92 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 10:12:21.17 .net
>>90
時代が違うだろ

93 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 10:13:19.30 .net
岡上=ジョーカー

94 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 10:13:44.34 .net
弥生中期の時点で葛城に王権が存在した、
これが都合悪いんだよな、九州説にはw

95 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 10:14:47.74 .net
葛城王朝か

96 :岡上 ◆JN/67qb8kM :2017/03/11(土) 10:15:49.03 .net
結局、卑弥呼已死 でFA 、卑弥呼は248年には死んでいた。
これは動かしようがありません。

Q30では、3世紀第3四半期の前半頃 が魏志の示す「卑弥呼の死の時期」であるとしていますが、
これは270年ごろと推定される箸墓を卑弥呼の墓とするために、魏志を無理読みしたとしか言いようがありません。

結局、テンプレが明示してることは、

 ■箸墓が270年であるという考古学的事実

という出発点から、

 ■記紀から箸墓伝承だけつまみ食いし、それを女性墓と決めつけ

さらにその上で、

 ■魏志から明確に248年であると分かる卑弥呼の死の時期を捻じ曲げた

ことです。

そして、1さんが「科学的」で「確定的」だ思う考古学的発見においてすら、
内行花文鏡の存在を無視・軽視し続けているんですから、これは酷いですね。

97 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 10:19:42.93 .net
内行花文鏡を無視するスレ主は実にけしからん

98 :岡上 ◆JN/67qb8kM :2017/03/11(土) 10:20:15.03 .net
私は箸墓=モモソヒメ墓=卑弥呼墓 との立場ですが、
それでも内行花文鏡という考古学的事実を無視し、記紀をつまみ食いし、魏志を曲解するような
テンプレはには大反対です。

Q&Aは特に質が悪いので、さっさと撤回してください。
ハッキリ言って、畿内説の恥です。

99 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 10:21:09.03 .net
だから平原は畿内勢力にとっても重要な場所だから
何の問題もない。

100 :日本@名無史さん:2017/03/11(土) 10:22:23.79 .net
畿内説の恥ですは、畿内説は恥です

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