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邪馬壹國は北部九州に在ったpart6
- 1 :九州王:2017/06/10(土) 10:47:31.42 .net
- 水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1473081480/
- 330 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 09:49:13.84 .net
- 王は皆女王に属する。
KING OF KINGS でOK。
北部九州の土人の宗教の話じゃねwww
倭人伝の魏使の説明だと邪馬台国にはろくな国体無いと思うけど。
まあ、新規の遺民が入りにくい程度の集落が形成できた段階。
侵略なら余裕。
- 331 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 09:56:17.86 .net
- >>329
新文法を考案したらいかんな
どこにそんなルールがあるんだよw
- 332 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 10:02:11.52 .net
- >>328
魏略を丸写してはないな
魏略では卑弥呼は倭王に任じられていないが
魏志倭人伝では卑弥呼が倭王となった後の視点で書かれてる
>伊都国の過去の王たちと女王国との関係に関する記事になっている。
これが誤読で間違いの始まり。
伊都国の過去から現在まで王としても魏代限定でのことだから
伊都国に皆と書かれる手ほど何代もの王がいたとは考えられない。
- 333 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 10:07:11.11 .net
- >>326
「其国王」は倭の各国の王のこと
漢文は単複同形なので文章全体を見て判断のこと
当時の倭は小さな国がいっぱいあって(各国に自称王がいた)、
それらを共立された女王が束ねていた
- 334 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 10:21:32.65 .net
- >>330
入り込んだのが天孫族なんだけどね。
- 335 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 10:22:30.26 .net
- >>332
>伊都国に皆と書かれる手ほど何代もの王がいたとは考えられない。
考えられないと言う根拠はなんだろうね。
まあ、日向三代なら三代しかいないワケだけど。
- 336 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 10:42:37.28 .net
- 曹操が魏公となったのは213年
魏の滅亡は265年
50年しかない
この間に伊都国に皆と書かれる手ほど何代もの王がいた?
- 337 :九州王:2017/06/20(火) 10:43:24.17 .net
- >>333
同意見ですね。
- 338 :訂正:2017/06/20(火) 10:44:29.92 .net
- 曹操が魏公となったのは213年
魏の滅亡は265年
52年しかない
この間に伊都国に皆と書かれる手ほど何代もの王がいた?
- 339 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 16:36:24.84 .net
- 共立卑弥呼といっても
そこいらのおばさんが、いきなり共立女王(倭女王)になったわけではなかろう
その前段階として、卑弥呼が邪馬台国のみの女王であった期間が数年〜十数年あったのであろう。
倭人伝では、この前段階とその後の共立段階を含めた期間の邪馬台国を、「女王国」と書いているように思える。
そして238年、
卑弥呼は魏から倭王に任ぜられた。
で、遅くともこの年までには各国の王は退位して官になっている(少なくとも倭人伝は、この建前で書かれている)。
ということは、
魏世において伊都国に王が在位したのは、213〜238年のわずか26年間のことになる。
どう考えても、「世有り王」は、魏世に限定される書き方ではなかろう。
- 340 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 17:05:59.46 .net
- 王から官に統治機構を変えさせられたのは、大率に検察されてる女王国以北の国々だけだろう
他の倭の国々の自称王はそのまま存続しているんじゃないかな
- 341 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 17:15:58.85 .net
- 他なんてない。
南は狗奴国。
東は倭種だから。
- 342 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 17:37:34.92 .net
- 王のいた他の国々
次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,
次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,
次有鬼國,次有為吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,
次有烏奴國,次有奴國,
- 343 :唐変木:2017/06/20(火) 19:12:40.06 .net
- >>339
>そこいらのおばさんが、いきなり共立女王(倭女王)になったわけではなかろう
>倭人伝では、この前段階とその後の共立段階を含めた期間の邪馬台国を、「女王国」と書いているように思える。
イイ線行ってる!
- 344 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 19:40:24.27 .net
- 「世有王」
伊都に、魏の時代に王がいた、と言っているだけだな。
魏の時代にいた女王が、魏建国の前から共立されていたとしても、
「世有王」=魏の時代に(魏建国前からの)王がいたということで差し支えない。
>>342
>王のいた他の国々
倭人伝に王がいたと記載されているのは、伊都と狗奴国だけ。
その20国に王がいたという記載は一体どこにある。
この頭の悪さは阿波厨かな?
- 345 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 21:55:33.73 .net
- >>344
ならば、「世有王」を魏の時代に限定する理由はなかろう
魏志とはいえ、
魏代のみに関する原史料が豊富に整っていたとは思えぬ。
とりわけ倭人に関しては、
後漢時代、曹操の腹心であった公孫康が開いた帯方郡が、その初仕事として行った韓地倭地の調査報告書があり、
それを基に魏略や倭人伝が書かれたと考えられているそうだ。
倭人伝の中で、時代が明確にされていない記事の部分は、この後漢時代の史料に元づいて書かれたと思われる。
とりわけ行程の部分はそうであり、
故に、伊都国の代々の王のことも、
世有り王、として時代をボカシたうえで、後漢時代の倭国報告書を引用したのではないか・・・、
- 346 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 22:02:14.18 .net
- >>344
「王」と「女王」とかき分けてるでしょ
「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,
傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。」
- 347 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 22:27:57.53 .net
- >>345
魏志なのだから「世有王」は魏の時代に限定される。
その他ごちゃごちゃは根拠のない君の妄想。
>王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露
この部分の王は、卑弥呼を含む、代々の伊都国にいた王達(このスレでは日向三代〜卑弥呼)
つまり、伊都の一大率では昔からずっと検察していた、という伊都一大率の一般的性格について述べている。
そしてそれを受けて、
>傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯
「世有王」=魏の時代に、
魏皇帝から卑弥呼へ送った文書や、贈り物は、間違いなく届いた、
と文章が繋がっている。
前半)一大率の存在=これまでの伊都にいた王の全てに当てはまる信頼性
後半)一大率がいるからこそ、「世有王」=魏代の伊都にいる女王卑弥呼への連絡がしっかりなされた
という論理的文章構成なわけだ。
- 348 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 22:36:11.38 .net
- >>347
一大率の業務は諸国検察
文書搜露は別の役人の仕事
- 349 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 22:47:22.65 .net
- >>348
>王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露
>皆臨津搜露
税関のような役目を果たしていたことが明記されていますね。
伊都代々の王が用いた一大率という組織が
「世有王」=魏代の女王卑弥呼の時にも機能していた
という、保証を付けた上で、
以下の、魏皇帝からの言葉や、贈り物が、しっかりと届きましたよ
=魏と邪馬台国の外交は事実としてしっかりと機能しましたよ
と証明しているわけです。
- 350 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 22:50:08.42 .net
- 卑弥呼を共立したのは諸国の王だろう。
そして、共立後、女王国の北部の国は王を官として任命したんだろうな。
他の倭の諸国は倭人伝は遠絶で情報がないとしているのみ(王がいたともいないとも記事なし)
卑弥呼死後、トヨを復立した主体も各国のリーダーのはず。
このリーダーが王なのか官と名称を変えて存続していたたのかは不明だが、卑弥呼が共立王に
なったからといって中央集権になって各国のリーダーが全員辞めたなんてわけがない。
- 351 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 22:50:38.59 .net
- >>349
それが一大率の仕事とは書いてない
- 352 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 23:17:36.09 .net
- 九州説って、具体的にどこ?
それと、邪馬台国は九州のどこかにあって、266年ごろには滅んだわけ?
なんで滅んだの?
魏の王がわざわざ使いを出すほどのクニなのに、影も形も消えてなくなったの?
邪馬台国は都だから、倭人の王国が消えたんだよね。
- 353 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 23:35:54.80 .net
- 次に壹與が立つから滅んでないですよ。
その国の名は倭国とも言いますから、はるか紀元前から中国に朝貢し続けていました。
滅ぶのはずっと後です。
都は博多奴国や伊都国を転々としていました。
というのが初級編。
倭奴国と伊都国は同じなのではないかというのが中級編。
卑弥呼の墓は平原遺跡だけれど、出身はもしかしたら筑後または肥国かも、というのが上級編。
- 354 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 23:40:51.76 .net
- >>350
考古学的に、その諸国の王とやらの証拠は?
諸国の王がいたのなら、博多湾までの沿岸で6
福岡県沿岸で10として、山口広島岡山兵庫で40
瀬戸内海は四国側もあるから、100近くの沿岸王全員の支持を受けて
通行を許可されて、魏まで朝貢して、何度も往復して、
親魏「倭王」を手にするという奇跡的な出来事の証拠は?
>>351
短い自演タイムが一瞬で大崩壊して惨めだね。
一大率でないなら、誰の仕事なのか?
ちゃんと文法で説明してね。
- 355 :九州王:2017/06/21(水) 09:05:53.18 .net
- >>353
どっから出身はもしかしたら筑後または肥国かもなんて話、出てくるんだ?
>>354
考古学的な証拠
http://www.netpia.jp/history/kofun.htm
>>351
俺も一大率の仕事ではないと思うよ
その他大勢の家臣のことだろう。
- 356 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 09:45:13.51 .net
- >>350
古墳時代になっても各地方には前方後円墳を造った首長がいた
卑弥呼の時代に各国に首長のような存在がいなくなったなんてないだろうな
- 357 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 10:42:22.26 .net
- 今の感覚で考えるから倭国=九州〜近畿(東海も?)って発想になるけど
倭人伝を書いた当時の中国人からすれば九州=倭(邪馬台国連合)なんだよね
九州だと小さいと思うかもしれないけど例えば100年後に出来た朝鮮半島の百済なんて
面積的には九州と大差ない
九州は倭として当時の日本を代表する国家であっても不思議ではない
そもそも後漢が奴国を日本の代表として認めて50年後に倭国王帥升の洛陽朝貢を考えると
やはり倭は北部九州と考えるのが妥当
その後倭国大乱が起きて邪馬台国連合まで80年程度だし
- 358 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 12:39:02.21 .net
- 『日本書紀』神代巻上、一書の中に天安河で日神と素戔鳴尊が誓約により化生した神三女神が初めて葦原中国の宇佐嶋に降りましたとあるのであった。つまりこれが『先代旧事本紀』にみえる天三降命となり、ここに「豊国宇佐国造祖」となるのであった。
- 359 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 13:17:26.96 .net
- 倭は北部九州だけでなく朝鮮半島の南岸も支配していたようだし
航海術には長けてたんだろうな
瀬戸内海を通って日本奥地へと植民して行ったんだろうな
やがてその中で植民地の一つが強大化して大和政権が生まれたんだ。
- 360 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 13:18:21.66 .net
- 古事記では宗方三女神はニニギの天孫降臨に付き従うのだが、書によって場所が違うことがある。
筑後にも祭るところがある。
- 361 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 13:20:12.13 .net
- >>359
問題はその年代だよ。
3世紀の時点で九州北部を中心とした政権なのか、すでに畿内を含む西日本全体の広域国家であったのか。
後者であった考古学的証拠はない。
- 362 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 13:29:49.09 .net
- >>361
だから倭人伝の記述が重要なんだ
卑弥呼が伊都国に居て倭を支配していたとあるから
3世紀の時点では九州北部を中心とした政権であり
西日本もまだ未統一
朝鮮半島も三韓時代で未統一だし
日本も同じ様な状況だったんだろうな。
- 363 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 16:26:38.84 .net
- >>362
>卑弥呼が伊都国に居て倭を支配していたとあるから
そんなウソを言ってまで・・・
- 364 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 16:31:15.03 .net
- >>362
ウソにウソをつなげる循環論法・・・
- 365 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 16:35:42.66 .net
- 怪しさ満点、東の歴博、西の糸博
- 366 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:02:07.89 .net
- ■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
天才のHP
https://o-yan216.wixsite.com/mysite
- 367 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:02:39.10 .net
- 誹謗中傷しかできずに反論する能力の無い人はこんでいいw
- 368 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:04:06.97 .net
- >>362
>卑弥呼が伊都国に居て倭を支配していたとあるから
よくもまぁこんな嘘を平気で書けるもんだ。
福岡のカッペには反吐が出るぜw
- 369 :九州王:2017/06/21(水) 17:09:19.89 .net
- >>368
おれは福岡じゃないんだがな
ちゃんと反論してよwww
- 370 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:19:40.87 .net
- >>369
「世有王皆統屬女王國」 「代々国王がいて、みな女王国に統属している」
- 371 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:42:33.43 .net
- >東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢の時代には倭奴国に王がいた事を意識したのかもしれないが、
漢委奴国王印は伊都国に伝えられて来たとの伝承もあるので(細石神社)、倭奴国と伊都国は本質的に同じものだったかもしれない。
それなら、魏がすんなりと卑弥呼を倭奴国の後継と承認したのも理解できる。
- 372 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:45:56.64 .net
- 「世有王」
伊都国の説明の中に入っちゃってるけど、魏略と照らし合わせてみても
「倭の各国に王がいた」とすべきだと思うがなあ
- 373 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:52:22.68 .net
- >>370
それがどうした?
誰かの日本語訳を反論には使えないよ。
それが正しいかどうか?がわからないからね。
漢文の読み方の問題。
反論するなら、
伊都国王=皆としなければならない理由は?
各国=皆としてはいけない理由は?
が必要。
- 374 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:55:45.16 .net
- >>361
北部九州の邪馬台国連合がクナ国を滅ぼした勢いで出雲、吉備や四国の各国を邪馬台国連合に
吸収して東進したのが神武東征と言われてるものだと思う
難波から奈良盆地に入ろうとした邪馬台国軍が長髄彦の反撃食らったのも事実だろう
トヨの東晋朝貢から150年間暗黒時代だけど広開土王碑とか見る限り
4世紀後半には倭が朝鮮半島南部に進出してたのは明白なので
4世紀半ばまでの100年で北陸、関東まで支配するヤマト王権の基盤を固めたんだろうな
戦国時代が120年続いたけど戦国大名の規模が巨大化するに連れ統一への速度が加速度的に速まる
邪馬台国の時代も北九州連合がクナ国撃破した頃は出雲や吉備でも◯◯連合が成立しつつあり
一度戦に勝ったり、話が付けば連合の領域は巨大になるから他の地域も飲み込んでいったんだろう
- 375 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:59:37.13 .net
- >>371
>魏の時代には伊都国に(女)王がいて、
(女)王? なんでそ〜〜なるの!
>周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
女王国(伊都国)に従っていた? なんでそ〜〜なるの!
- 376 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:00:48.11 .net
- >>372
魏略に照らし合わせるとそうなるね
- 377 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:05:17.15 .net
- >>376
清代の寄せ集めの魏略に合わせる??? 清代に??? アホ?
- 378 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:10:16.81 .net
- >>372
各国に王がいたのは昔の話だろう?
魏の頃は邪馬台国と狗奴国だけだよ。
- 379 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:13:59.72 .net
- >>374
>4世紀後半には倭が朝鮮半島南部に進出してたのは明白なので
もともと倭国は対馬海峡の国として成立したことが漢書からわかる。
あと、広開土王碑は朝鮮半島北部だよね?
>4世紀半ばまでの100年で北陸、関東まで支配するヤマト王権の基盤を固めたんだろうな
九州北部からなら、朝鮮半島や北陸へは容易に侵攻できるが、関東は容易ではない。
- 380 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:14:42.31 .net
- >>378
王でなくても首長はいたでしょ
- 381 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:16:42.61 .net
- 王はヒラの首長とは区別されるよ。
- 382 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:31:11.78 .net
- >4世紀半ばまでの100年で北陸、関東まで支配するヤマト王権の基盤を固めたんだろうな
北陸は、阿波から進出して日本海を制した北陸忌部が基盤を固めたんですよ。
関東は、阿波から黒潮の乗って関東に進出した関東忌部が基盤を固めたんですよ。
- 383 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:33:43.96 .net
- トヨを復立したのはヒラの首長だろ
- 384 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:41:33.40 .net
- 卑弥呼は、伊都国なんかにゃいなかった。
伊都国の東の不彌国からみて、もっとずっと南のほうにいたと明記されておるわい
怪しさ満点、西の糸くず
- 385 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 19:39:08.64 .net
- >>355
そのHPをなにかと持ち出す人が多いのですが、
内容をよく見ていないようで嘆かわしいことです。
そのHPの古墳のうち、「世有王」の魏代、つまり3世紀前半〜中期の王墓を挙げてみてください。
考古学的に、諸国に王なんていませんよね?
他によく誤引用されるケースとして、
「全時代の分布図」を持ち出して、邪馬台国の範囲とするケースがあります。
しかし、よく見てみると、
邪馬台国3世紀までの王墓は全て筑紫に集中しており、
筑後は4世紀前半の祇園山が最初
熊本に至っては5世紀に入ってからであり、邪馬台国の時代に王はいません。
- 386 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 19:48:19.59 .net
- >>385
王墓の定義は何?
- 387 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:00:15.40 .net
- >>385
その年代の根拠は?
- 388 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:00:56.31 .net
- 副葬品
- 389 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:07:35.19 .net
- >>388
墓があるだけで王墓なんじゃないか
富める国と貧乏国との差も考慮すべきだろうし
- 390 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:08:06.03 .net
- >>385
>邪馬台国3世紀までの王墓は全て筑紫に集中しており、
糸島が伊都国などには成り得ない。
糸島市と宗像市の遺跡数を比べれば一目瞭然。
http://park20.wakwak.com/~fujimaki/iseki.htm
考古学は残酷
遺跡は弥生前期・中期がほとんど。もう峠を過ぎたことが良く分かる。 @阿波
- 391 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:12:42.09 .net
- その峠を過ぎた筑紫を再興したのが、阿波から進出した、筑紫忌部なんですよ。 @阿波
- 392 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:24:50.67 .net
- >卑弥呼以死、大作冢。径百余步。徇葬者奴婢百余人。
卑弥呼の墓は、魏代の薄葬令に準拠した「冢」という形式のものだった。
「冢」は「墳」にあらず
あらゆる古墳のデータを列挙し、あらゆる古墳を調査したところでみつかるわけないわな。
- 393 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:31:01.05 .net
- >>392
「冢」がそう言うもんだって根拠でもあるの?
創作ラノベ?
- 394 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:34:20.70 .net
- 4世紀までの北部九州なら、三種の神器が副葬されている、
あるいは盗掘されていても三種の神器が副葬されていた形跡がある、
というのが王墓の最低条件でしょうね。
邪馬台国時代の北部九州は王墓が減少して弱体していると指摘したのは畿内説ですが、
九州説の解答としては、
そもそも邪馬台国と狗奴国に分裂して争っていたし、
邪馬台国は女王卑弥呼に権限集中して、しかも長期政権だったから、
ゆいいつ平原遺跡だけが突出して存在している、という解答でしたね。
>>392
そうですね。古墳は大きすぎますね。
墳丘墓である平原遺跡が卑弥呼の墓には最適ですね。
- 395 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:37:49.07 .net
- >>393
おまい、諸葛孔明を知っているだろうな。
その諸葛孔明の遺命は、こうだ。
「葬漢中定軍山、因山為墳、冢足容棺、不須器物」
すなわち、「冢」は「墳」にあらずなのだ。
- 396 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:53:15.88 .net
- 魏志東夷伝韓条の記述
・居處作草屋土室、形如冢
http://www.geocities.jp/taru638/page005.html
倭人伝の時代の中国では、「墳」と「冢」は使い分けられていたのである。
故に、箸墓古墳などの前方後円墳や平原の方墳は、卑弥呼の「冢」ではありえない
墳とは、被葬者以外の副室、副施設、副葬品、従者像、侍女像等々、
あの世での生活を支援する莫大な用品や人馬像などの埋葬設備・施設・スペースで、山丘のごとき大陵。
冢とは、本人の棺を収めるわずかなスペースであり、あの世で本人が起居就寝するであろう草ぶき家のごとき形状のものだったのだ。
- 397 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:12:51.07 .net
- >>396
この頭の悪さは阿波厨か?
魏志倭人伝に「径百余歩」と書かれておる
東夷伝の尺で25m
魏本国の尺だと150m
- 398 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:18:08.80 .net
- >>394
>ゆいいつ平原遺跡だけが突出して存在している、という解答でしたね。
空前絶後の豪華な副葬品を持つ平原遺跡があるので、弱体なんてありえないですね。
畿内にはこれを超える副葬品が出土しないわけですから。
>>394
>あるいは盗掘されていても三種の神器が副葬されていた形跡がある、
>というのが王墓の最低条件でしょうね。
そもそも畿内の古墳の大半が三種の神器がなかったので、畿内勢力は倭国王ですらなかったようです。
- 399 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:20:55.82 .net
- >>395
きみ学がないね
- 400 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:23:35.96 .net
- >>398
お前の空想世界じゃ貯金のある失業者とか居ないんだろうな
- 401 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:45:27.20 .net
- >>400
やっぱり阿波厨か
なんでこのスレに迷い込んできたのかな?
ここは君のような素晴らしい常識人が来るべき場所じゃあない
畿内説スレへお帰り
- 402 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:48:13.05 .net
- >>397
それが墓域の範囲か?
冢の大きさを表すか?
が不明。
大塚ではなく、大作だからな。
- 403 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:56:26.42 .net
- >>402
わかってるんだよ
誤魔化しても、ダメ
- 404 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:57:55.12 .net
- >>402
目的語が冢なんだが
- 405 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:07:15.62 .net
- 魏使は周溝墓は見るの初めてだったんじゃないかな
- 406 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:14:48.52 .net
- >>400
>やっぱり阿波厨か
なんのこと? 今、風呂から出たとこ。 @阿波
- 407 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:15:59.57 .net
- >>405
珍しいと思ったらなんか書き残すだろ
- 408 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:21:04.39 .net
- そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない
- 409 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:29:53.42 .net
- 冢が正確に何を表すのかによるな。
>>392-396の如く、土を盛った墓であることは共通認識だが、
細かい形状や大きさについては諸説ある。
冢=土盛を含む墓域
ということも考えられるわけだ。
- 410 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:32:47.94 .net
- 土盛は当然含むでしょ、問題は周溝まで含んでるのか否か
- 411 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:50:02.97 .net
- >東夷伝の尺で25m
>魏本国の尺だと150m
魏志倭人伝韓条において、家屋が冢に例えられている。
日本の竪穴住居跡で径10m弱、大型高床建物でも径20m以下。
朝鮮半島の住居も大きさは同じくらい(円形も方形も混在)だから、
径百余歩については、確実に25mだろう。
冢については決定打が無い以上、
- 412 :岡上 :2017/06/21(水) 22:52:51.19 .net
- >>411
おお、なかなか!
ちゃんと纏めた論考が読みたいですね
- 413 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 23:35:41.95 .net
- なんで今まで気づかなかったんだ
冢が家屋=径10m弱のものであるなら、
径百余歩=25mは、径10m弱の冢が複数ある墓域
大作冢 冢を大いに作った=大き目の冢を2つも作ってるよ
墓域全体での径25mなら、平原遺跡1号2号の周溝全域に合致
- 414 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 03:42:29.88 .net
- >>413
冢を大いに作ったのに韓国の平民並みサイズなのか
- 415 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 04:31:38.54 .net
- 中国ではな薄葬令が出ていて
皇帝の墳墓も20m四方程度。
- 416 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 05:19:02.47 .net
- 315日本@名無史さん2017/06/22(木) 05:07:39.83
祇園山を連呼してウザいから調べてみた。
祇園山は方墳だよね。
http://kurumenmon.com/koura_miimati/gionyamakofun/gionyamakofunsokuryouzu.gif
そっくりなのが伯耆・後口谷1・2号
https://www.fastpic.jp/viewer.php?file=8324248486.png
あんたらが言う殉葬(大笑い)らしきものもあるだろ。
つまり祇園山の主は出雲系で蒲池という姓も出雲・鴨系だろう。
カモチ→カマチ
祇園山程度で卑弥呼の墓になるなら出雲にはいくらでもあるということになる。
残念でしたwww
316日本@名無史さん2017/06/22(木) 05:14:02.46
本当の卑弥呼の墓はこれだよん♪
https://goo.gl/LzPG5i
高天原にあるのだよん♪
御所市高天だ。
- 417 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 06:05:53.70 .net
- >>415
嘘つくな
- 418 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 06:06:33.33 .net
- これで候補が絞られたわけだ
径百余歩は東夷伝の25mで確定
100mとかは脱落ってこと
- 419 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 06:31:30.31 .net
- ウソと妄想で塗り固められた九州説
- 420 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 18:19:53.35 .net
- 径百余歩の「大作冢」は、いったい何を意味したのか、
- 421 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 19:47:17.91 .net
- 陳寿による「大作冢」の記述は、
親魏倭王たる卑弥呼の墓も、
当時の中国の薄葬令にのっとったものであったといいたかったのであろう。
豪華な前方後円墳の箸墓なんぞとんでもない説だ
- 422 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 20:27:00.38 .net
- 大いにだから、葬式が派手だったんだろう。
八咫の鏡などの副葬品の豪華さに驚き、それを惜しげもなくバリバリ割るのを見てさらにたまげたことだろう。
- 423 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 21:38:28.10 .net
- >>415
曹操の墓は27m四方くらいだな。
- 424 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 21:51:37.70 .net
- 確かに魏から倭王に任じられた卑弥呼の墓が曹操の墓よりでかいってのは変だな。
- 425 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 03:25:09.22 .net
- >>420
邪馬台国が九州にはないことを意味する
- 426 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 08:32:05.57 .net
- 径百余歩が130mくらいとした場合、宗主国の魏の皇帝の墓より大きいことになるな
魏から注意を受けて後で縮小したかもな。
- 427 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 08:38:16.74 .net
- 諸葛孔明の遺命
「葬漢中定軍山、因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」
孔明は、定軍山を墳に見立てて・・・云々、と言い残した。
同様に卑弥呼の場合も、
径百余歩の自然の小山を墳に見立て、その頂に径十歩ほどの草ぶき家のようなとんがった冢をしつらえ、棺を容れた。
その全体の姿かたちは、径百余歩の冢のように見えた。
こんな状況だったのではないか。
- 428 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 08:53:14.48 .net
- 平原遺跡は全体が幅200mほどの台地の上に在るな
この台地を墳に見立て径百余歩と書いたのかな。
- 429 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:01:38.93 .net
- >>427
>径百余歩の自然の小山を墳に見立て、その頂に径十歩ほどの草ぶき家のようなとんがった冢をしつらえ、棺を容れた。
その全体の姿かたちは、径百余歩の冢のように見えた。
それはまさに、矢野遺跡隣接気延山鎮座の円墳「天石門別八倉比賣神社」ですね。 @阿波
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