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邪馬壹國は北部九州に在ったpart6
- 1 :九州王:2017/06/10(土) 10:47:31.42 .net
- 水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1473081480/
- 357 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 10:42:22.26 .net
- 今の感覚で考えるから倭国=九州〜近畿(東海も?)って発想になるけど
倭人伝を書いた当時の中国人からすれば九州=倭(邪馬台国連合)なんだよね
九州だと小さいと思うかもしれないけど例えば100年後に出来た朝鮮半島の百済なんて
面積的には九州と大差ない
九州は倭として当時の日本を代表する国家であっても不思議ではない
そもそも後漢が奴国を日本の代表として認めて50年後に倭国王帥升の洛陽朝貢を考えると
やはり倭は北部九州と考えるのが妥当
その後倭国大乱が起きて邪馬台国連合まで80年程度だし
- 358 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 12:39:02.21 .net
- 『日本書紀』神代巻上、一書の中に天安河で日神と素戔鳴尊が誓約により化生した神三女神が初めて葦原中国の宇佐嶋に降りましたとあるのであった。つまりこれが『先代旧事本紀』にみえる天三降命となり、ここに「豊国宇佐国造祖」となるのであった。
- 359 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 13:17:26.96 .net
- 倭は北部九州だけでなく朝鮮半島の南岸も支配していたようだし
航海術には長けてたんだろうな
瀬戸内海を通って日本奥地へと植民して行ったんだろうな
やがてその中で植民地の一つが強大化して大和政権が生まれたんだ。
- 360 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 13:18:21.66 .net
- 古事記では宗方三女神はニニギの天孫降臨に付き従うのだが、書によって場所が違うことがある。
筑後にも祭るところがある。
- 361 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 13:20:12.13 .net
- >>359
問題はその年代だよ。
3世紀の時点で九州北部を中心とした政権なのか、すでに畿内を含む西日本全体の広域国家であったのか。
後者であった考古学的証拠はない。
- 362 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 13:29:49.09 .net
- >>361
だから倭人伝の記述が重要なんだ
卑弥呼が伊都国に居て倭を支配していたとあるから
3世紀の時点では九州北部を中心とした政権であり
西日本もまだ未統一
朝鮮半島も三韓時代で未統一だし
日本も同じ様な状況だったんだろうな。
- 363 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 16:26:38.84 .net
- >>362
>卑弥呼が伊都国に居て倭を支配していたとあるから
そんなウソを言ってまで・・・
- 364 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 16:31:15.03 .net
- >>362
ウソにウソをつなげる循環論法・・・
- 365 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 16:35:42.66 .net
- 怪しさ満点、東の歴博、西の糸博
- 366 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:02:07.89 .net
- ■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
天才のHP
https://o-yan216.wixsite.com/mysite
- 367 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:02:39.10 .net
- 誹謗中傷しかできずに反論する能力の無い人はこんでいいw
- 368 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:04:06.97 .net
- >>362
>卑弥呼が伊都国に居て倭を支配していたとあるから
よくもまぁこんな嘘を平気で書けるもんだ。
福岡のカッペには反吐が出るぜw
- 369 :九州王:2017/06/21(水) 17:09:19.89 .net
- >>368
おれは福岡じゃないんだがな
ちゃんと反論してよwww
- 370 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:19:40.87 .net
- >>369
「世有王皆統屬女王國」 「代々国王がいて、みな女王国に統属している」
- 371 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:42:33.43 .net
- >東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢の時代には倭奴国に王がいた事を意識したのかもしれないが、
漢委奴国王印は伊都国に伝えられて来たとの伝承もあるので(細石神社)、倭奴国と伊都国は本質的に同じものだったかもしれない。
それなら、魏がすんなりと卑弥呼を倭奴国の後継と承認したのも理解できる。
- 372 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:45:56.64 .net
- 「世有王」
伊都国の説明の中に入っちゃってるけど、魏略と照らし合わせてみても
「倭の各国に王がいた」とすべきだと思うがなあ
- 373 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:52:22.68 .net
- >>370
それがどうした?
誰かの日本語訳を反論には使えないよ。
それが正しいかどうか?がわからないからね。
漢文の読み方の問題。
反論するなら、
伊都国王=皆としなければならない理由は?
各国=皆としてはいけない理由は?
が必要。
- 374 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:55:45.16 .net
- >>361
北部九州の邪馬台国連合がクナ国を滅ぼした勢いで出雲、吉備や四国の各国を邪馬台国連合に
吸収して東進したのが神武東征と言われてるものだと思う
難波から奈良盆地に入ろうとした邪馬台国軍が長髄彦の反撃食らったのも事実だろう
トヨの東晋朝貢から150年間暗黒時代だけど広開土王碑とか見る限り
4世紀後半には倭が朝鮮半島南部に進出してたのは明白なので
4世紀半ばまでの100年で北陸、関東まで支配するヤマト王権の基盤を固めたんだろうな
戦国時代が120年続いたけど戦国大名の規模が巨大化するに連れ統一への速度が加速度的に速まる
邪馬台国の時代も北九州連合がクナ国撃破した頃は出雲や吉備でも◯◯連合が成立しつつあり
一度戦に勝ったり、話が付けば連合の領域は巨大になるから他の地域も飲み込んでいったんだろう
- 375 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 17:59:37.13 .net
- >>371
>魏の時代には伊都国に(女)王がいて、
(女)王? なんでそ〜〜なるの!
>周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
女王国(伊都国)に従っていた? なんでそ〜〜なるの!
- 376 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:00:48.11 .net
- >>372
魏略に照らし合わせるとそうなるね
- 377 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:05:17.15 .net
- >>376
清代の寄せ集めの魏略に合わせる??? 清代に??? アホ?
- 378 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:10:16.81 .net
- >>372
各国に王がいたのは昔の話だろう?
魏の頃は邪馬台国と狗奴国だけだよ。
- 379 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:13:59.72 .net
- >>374
>4世紀後半には倭が朝鮮半島南部に進出してたのは明白なので
もともと倭国は対馬海峡の国として成立したことが漢書からわかる。
あと、広開土王碑は朝鮮半島北部だよね?
>4世紀半ばまでの100年で北陸、関東まで支配するヤマト王権の基盤を固めたんだろうな
九州北部からなら、朝鮮半島や北陸へは容易に侵攻できるが、関東は容易ではない。
- 380 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:14:42.31 .net
- >>378
王でなくても首長はいたでしょ
- 381 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:16:42.61 .net
- 王はヒラの首長とは区別されるよ。
- 382 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:31:11.78 .net
- >4世紀半ばまでの100年で北陸、関東まで支配するヤマト王権の基盤を固めたんだろうな
北陸は、阿波から進出して日本海を制した北陸忌部が基盤を固めたんですよ。
関東は、阿波から黒潮の乗って関東に進出した関東忌部が基盤を固めたんですよ。
- 383 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:33:43.96 .net
- トヨを復立したのはヒラの首長だろ
- 384 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 18:41:33.40 .net
- 卑弥呼は、伊都国なんかにゃいなかった。
伊都国の東の不彌国からみて、もっとずっと南のほうにいたと明記されておるわい
怪しさ満点、西の糸くず
- 385 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 19:39:08.64 .net
- >>355
そのHPをなにかと持ち出す人が多いのですが、
内容をよく見ていないようで嘆かわしいことです。
そのHPの古墳のうち、「世有王」の魏代、つまり3世紀前半〜中期の王墓を挙げてみてください。
考古学的に、諸国に王なんていませんよね?
他によく誤引用されるケースとして、
「全時代の分布図」を持ち出して、邪馬台国の範囲とするケースがあります。
しかし、よく見てみると、
邪馬台国3世紀までの王墓は全て筑紫に集中しており、
筑後は4世紀前半の祇園山が最初
熊本に至っては5世紀に入ってからであり、邪馬台国の時代に王はいません。
- 386 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 19:48:19.59 .net
- >>385
王墓の定義は何?
- 387 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:00:15.40 .net
- >>385
その年代の根拠は?
- 388 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:00:56.31 .net
- 副葬品
- 389 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:07:35.19 .net
- >>388
墓があるだけで王墓なんじゃないか
富める国と貧乏国との差も考慮すべきだろうし
- 390 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:08:06.03 .net
- >>385
>邪馬台国3世紀までの王墓は全て筑紫に集中しており、
糸島が伊都国などには成り得ない。
糸島市と宗像市の遺跡数を比べれば一目瞭然。
http://park20.wakwak.com/~fujimaki/iseki.htm
考古学は残酷
遺跡は弥生前期・中期がほとんど。もう峠を過ぎたことが良く分かる。 @阿波
- 391 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:12:42.09 .net
- その峠を過ぎた筑紫を再興したのが、阿波から進出した、筑紫忌部なんですよ。 @阿波
- 392 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:24:50.67 .net
- >卑弥呼以死、大作冢。径百余步。徇葬者奴婢百余人。
卑弥呼の墓は、魏代の薄葬令に準拠した「冢」という形式のものだった。
「冢」は「墳」にあらず
あらゆる古墳のデータを列挙し、あらゆる古墳を調査したところでみつかるわけないわな。
- 393 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:31:01.05 .net
- >>392
「冢」がそう言うもんだって根拠でもあるの?
創作ラノベ?
- 394 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:34:20.70 .net
- 4世紀までの北部九州なら、三種の神器が副葬されている、
あるいは盗掘されていても三種の神器が副葬されていた形跡がある、
というのが王墓の最低条件でしょうね。
邪馬台国時代の北部九州は王墓が減少して弱体していると指摘したのは畿内説ですが、
九州説の解答としては、
そもそも邪馬台国と狗奴国に分裂して争っていたし、
邪馬台国は女王卑弥呼に権限集中して、しかも長期政権だったから、
ゆいいつ平原遺跡だけが突出して存在している、という解答でしたね。
>>392
そうですね。古墳は大きすぎますね。
墳丘墓である平原遺跡が卑弥呼の墓には最適ですね。
- 395 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:37:49.07 .net
- >>393
おまい、諸葛孔明を知っているだろうな。
その諸葛孔明の遺命は、こうだ。
「葬漢中定軍山、因山為墳、冢足容棺、不須器物」
すなわち、「冢」は「墳」にあらずなのだ。
- 396 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 20:53:15.88 .net
- 魏志東夷伝韓条の記述
・居處作草屋土室、形如冢
http://www.geocities.jp/taru638/page005.html
倭人伝の時代の中国では、「墳」と「冢」は使い分けられていたのである。
故に、箸墓古墳などの前方後円墳や平原の方墳は、卑弥呼の「冢」ではありえない
墳とは、被葬者以外の副室、副施設、副葬品、従者像、侍女像等々、
あの世での生活を支援する莫大な用品や人馬像などの埋葬設備・施設・スペースで、山丘のごとき大陵。
冢とは、本人の棺を収めるわずかなスペースであり、あの世で本人が起居就寝するであろう草ぶき家のごとき形状のものだったのだ。
- 397 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:12:51.07 .net
- >>396
この頭の悪さは阿波厨か?
魏志倭人伝に「径百余歩」と書かれておる
東夷伝の尺で25m
魏本国の尺だと150m
- 398 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:18:08.80 .net
- >>394
>ゆいいつ平原遺跡だけが突出して存在している、という解答でしたね。
空前絶後の豪華な副葬品を持つ平原遺跡があるので、弱体なんてありえないですね。
畿内にはこれを超える副葬品が出土しないわけですから。
>>394
>あるいは盗掘されていても三種の神器が副葬されていた形跡がある、
>というのが王墓の最低条件でしょうね。
そもそも畿内の古墳の大半が三種の神器がなかったので、畿内勢力は倭国王ですらなかったようです。
- 399 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:20:55.82 .net
- >>395
きみ学がないね
- 400 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:23:35.96 .net
- >>398
お前の空想世界じゃ貯金のある失業者とか居ないんだろうな
- 401 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:45:27.20 .net
- >>400
やっぱり阿波厨か
なんでこのスレに迷い込んできたのかな?
ここは君のような素晴らしい常識人が来るべき場所じゃあない
畿内説スレへお帰り
- 402 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:48:13.05 .net
- >>397
それが墓域の範囲か?
冢の大きさを表すか?
が不明。
大塚ではなく、大作だからな。
- 403 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:56:26.42 .net
- >>402
わかってるんだよ
誤魔化しても、ダメ
- 404 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 21:57:55.12 .net
- >>402
目的語が冢なんだが
- 405 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:07:15.62 .net
- 魏使は周溝墓は見るの初めてだったんじゃないかな
- 406 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:14:48.52 .net
- >>400
>やっぱり阿波厨か
なんのこと? 今、風呂から出たとこ。 @阿波
- 407 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:15:59.57 .net
- >>405
珍しいと思ったらなんか書き残すだろ
- 408 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:21:04.39 .net
- そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない
- 409 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:29:53.42 .net
- 冢が正確に何を表すのかによるな。
>>392-396の如く、土を盛った墓であることは共通認識だが、
細かい形状や大きさについては諸説ある。
冢=土盛を含む墓域
ということも考えられるわけだ。
- 410 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:32:47.94 .net
- 土盛は当然含むでしょ、問題は周溝まで含んでるのか否か
- 411 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 22:50:02.97 .net
- >東夷伝の尺で25m
>魏本国の尺だと150m
魏志倭人伝韓条において、家屋が冢に例えられている。
日本の竪穴住居跡で径10m弱、大型高床建物でも径20m以下。
朝鮮半島の住居も大きさは同じくらい(円形も方形も混在)だから、
径百余歩については、確実に25mだろう。
冢については決定打が無い以上、
- 412 :岡上 :2017/06/21(水) 22:52:51.19 .net
- >>411
おお、なかなか!
ちゃんと纏めた論考が読みたいですね
- 413 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 23:35:41.95 .net
- なんで今まで気づかなかったんだ
冢が家屋=径10m弱のものであるなら、
径百余歩=25mは、径10m弱の冢が複数ある墓域
大作冢 冢を大いに作った=大き目の冢を2つも作ってるよ
墓域全体での径25mなら、平原遺跡1号2号の周溝全域に合致
- 414 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 03:42:29.88 .net
- >>413
冢を大いに作ったのに韓国の平民並みサイズなのか
- 415 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 04:31:38.54 .net
- 中国ではな薄葬令が出ていて
皇帝の墳墓も20m四方程度。
- 416 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 05:19:02.47 .net
- 315日本@名無史さん2017/06/22(木) 05:07:39.83
祇園山を連呼してウザいから調べてみた。
祇園山は方墳だよね。
http://kurumenmon.com/koura_miimati/gionyamakofun/gionyamakofunsokuryouzu.gif
そっくりなのが伯耆・後口谷1・2号
https://www.fastpic.jp/viewer.php?file=8324248486.png
あんたらが言う殉葬(大笑い)らしきものもあるだろ。
つまり祇園山の主は出雲系で蒲池という姓も出雲・鴨系だろう。
カモチ→カマチ
祇園山程度で卑弥呼の墓になるなら出雲にはいくらでもあるということになる。
残念でしたwww
316日本@名無史さん2017/06/22(木) 05:14:02.46
本当の卑弥呼の墓はこれだよん♪
https://goo.gl/LzPG5i
高天原にあるのだよん♪
御所市高天だ。
- 417 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 06:05:53.70 .net
- >>415
嘘つくな
- 418 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 06:06:33.33 .net
- これで候補が絞られたわけだ
径百余歩は東夷伝の25mで確定
100mとかは脱落ってこと
- 419 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 06:31:30.31 .net
- ウソと妄想で塗り固められた九州説
- 420 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 18:19:53.35 .net
- 径百余歩の「大作冢」は、いったい何を意味したのか、
- 421 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 19:47:17.91 .net
- 陳寿による「大作冢」の記述は、
親魏倭王たる卑弥呼の墓も、
当時の中国の薄葬令にのっとったものであったといいたかったのであろう。
豪華な前方後円墳の箸墓なんぞとんでもない説だ
- 422 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 20:27:00.38 .net
- 大いにだから、葬式が派手だったんだろう。
八咫の鏡などの副葬品の豪華さに驚き、それを惜しげもなくバリバリ割るのを見てさらにたまげたことだろう。
- 423 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 21:38:28.10 .net
- >>415
曹操の墓は27m四方くらいだな。
- 424 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 21:51:37.70 .net
- 確かに魏から倭王に任じられた卑弥呼の墓が曹操の墓よりでかいってのは変だな。
- 425 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 03:25:09.22 .net
- >>420
邪馬台国が九州にはないことを意味する
- 426 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 08:32:05.57 .net
- 径百余歩が130mくらいとした場合、宗主国の魏の皇帝の墓より大きいことになるな
魏から注意を受けて後で縮小したかもな。
- 427 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 08:38:16.74 .net
- 諸葛孔明の遺命
「葬漢中定軍山、因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」
孔明は、定軍山を墳に見立てて・・・云々、と言い残した。
同様に卑弥呼の場合も、
径百余歩の自然の小山を墳に見立て、その頂に径十歩ほどの草ぶき家のようなとんがった冢をしつらえ、棺を容れた。
その全体の姿かたちは、径百余歩の冢のように見えた。
こんな状況だったのではないか。
- 428 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 08:53:14.48 .net
- 平原遺跡は全体が幅200mほどの台地の上に在るな
この台地を墳に見立て径百余歩と書いたのかな。
- 429 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:01:38.93 .net
- >>427
>径百余歩の自然の小山を墳に見立て、その頂に径十歩ほどの草ぶき家のようなとんがった冢をしつらえ、棺を容れた。
その全体の姿かたちは、径百余歩の冢のように見えた。
それはまさに、矢野遺跡隣接気延山鎮座の円墳「天石門別八倉比賣神社」ですね。 @阿波
- 430 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:05:29.99 .net
- 「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」
卑弥呼の死後 大いに塚を作る 軽が100歩余り
塚その物の軽が100歩ではなく周囲を含めて軽が100歩だろうな
塚その物の軽が100歩じゃ主君の墓より遥かに大きいことになってしまう。
- 431 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:25:58.42 .net
- 3〜4世紀当時、巨大な古墳を造っていた地域は魏から冊封を受けてなかった場所だな
宮崎とか巨大古墳があるから、やはり狗奴國とかだろうな。
- 432 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:38:33.18 .net
- >>431
宮崎の大古墳は諸県一族
男狭穂塚、女狭穂塚は
仁徳の妃で美人の誉れが高かった日向髪長媛、父親の諸県君牛諸井
- 433 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:40:52.61 .net
- 日向髪長媛を宮崎出身のエビちゃんだと思えばいい。
けっしてサエコや今井美樹を連想しないように。
- 434 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:57:52.09 .net
- 畿内で巨大古墳が造り続けられたってことは
その後も畿内は支邦と直接交流することが無かったってことだな。
- 435 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:14:32.26 .net
- >>434
そう思うね
もともと中国王朝との交流がなかった(薄かった)ところ。
或は、交流が途絶えた時代・場所において、巨大古墳が作られるようになったのだろうね。
- 436 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:20:07.11 .net
- 中国文化の常識的な知識がないから
中国文化から外れた巨大古墳に
暴走するんだろう。
- 437 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:25:17.59 .net
- >>435
>もともと中国王朝との交流がなかった(薄かった)ところ。
或は、交流が途絶えた時代・場所において、巨大古墳が作られるようになったのだろうね。
薄墓令は唐時代。
それまでは、倭国(阿波)から全国各地へ拓殖していった忌部一族(豪族)が巨大古墳を造り続けたんですよ。 @阿波
- 438 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:26:38.86 .net
- 大仙古墳とか河内の古墳群も倭の五王とは無関係ってことだな。
- 439 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:28:52.68 .net
- >>438
>大仙古墳とか河内の古墳群も倭の五王とは無関係ってことだな。
みんな、阿波の豪族の墓なんですよ。 @阿波
- 440 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:29:19.34 .net
- 建安10年(205年)、曹操が薄葬令を発布しているよ。
- 441 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:34:56.63 .net
- >>438
いや、関係がある。
関係があるから記と紀で干支を違う事にして、わざと混乱させてる。
朝貢隠しだ。
白村江敗戦後の朝廷は「朝貢」という史実に怖ろしく神経質になっていた。
- 442 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:36:12.42 .net
- >>440
>建安10年(205年)、曹操が薄葬令を発布しているよ。
そうでしょうが、曹操の薄葬令が日本に影響を及ぼすには、時期尚早でしょう。 @阿波
- 443 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:40:28.00 .net
- >>441
>白村江敗戦後の朝廷は「朝貢」という史実に怖ろしく神経質になっていた。
それはやむを得ないでしょう。 唐に打ちのめされて間もない頃の記紀編纂ですから。 @阿波
- 444 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:45:23.19 .net
- >>443
だからそれが悪いとは言ってない。
河内の大王の朝貢の史実をわざと隠したと言ってるのだ。
- 445 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 11:13:47.76 .net
- >>444
>河内の大王の朝貢の史実をわざと隠したと言ってるのだ。
河内に大王はいません。 それは阿波から進出した大王臣下なのです。
歴代大王は倭国(阿波)及び山背の国(讃岐)の地におわします。
- 446 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 12:41:31.26 .net
- >>442
日本でも卑弥呼の統治してる地域は魏の冊封を受けてたから魏の影響下にあり薄葬令が実行され
それ以外の地域は好き勝手に巨大古墳を造ってたってことね。
- 447 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 12:41:39.01 .net
- >>442
帯方太守代々の支援を受け、
魏に、数々の朝貢の品を持たせて使いを送り、
魏から親魏倭王に任ぜられ、
さらには魏から、張政ら、多数の顧問役を受け入れて指南を乞うているのにか、、、。またもわらかすかアワワ。
- 448 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 12:48:18.75 .net
- >>447
魏の時代、薄葬令なんてそもそも要らないんですよ。前方後円墳なんて存在しませんから。 @阿波
- 449 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 13:42:44.42 .net
- >>448
おい、もう少し洗練された文章に出来ないのかねえ
それではまるで、曹操の薄葬令が無駄だったと、曹操を非難しているように読めるからねえ。
それと、望ましくは過去形で書けるように練習してはどうかね・・・、
添削例;
魏の時代の倭国においては、薄葬令なんてそもそも要らなかったんですよ。麗々しい前方後円墳なんて存在していませんでしたから。 @アワワ、
- 450 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 13:57:27.03 .net
- >>449
添削、有難うございます。 確かにその方が意味明瞭ですね。
- 451 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 12:43:06.98 .net
- 冢が巨大な土盛りを示す用例はありますか?
- 452 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 13:05:21.71 .net
- それ以外の意味があるなら教えてくれ。
- 453 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 13:43:09.92 .net
- 冢が100メートルクラスの巨大な土盛りを示す用例はありますか?
- 454 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 13:47:26.74 .net
- >>453
始皇帝陵
- 455 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 14:35:33.43 .net
- 10メートルくらいを巨大と言ったのではないか。
100メートルもあったら別の書き方をしたろう。
- 456 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 14:49:04.00 .net
- >>455
どうしてそんな小さなものを巨大だと言うの?
- 457 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 15:14:31.45 .net
- 魏の皇帝の曹操の墓が30m四方ないくらいだから
親魏倭王の卑弥呼の墓は30m四方よりは小さい
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」の意味を
直径130mぐらいの卑弥呼の墓を造った解釈するのは考え直すべきだな 。
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