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邪馬壹國は北部九州に在ったpart6

1 :九州王:2017/06/10(土) 10:47:31.42 .net
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。

邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。

http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1473081480/

412 :岡上 :2017/06/21(水) 22:52:51.19 .net
>>411
おお、なかなか!
ちゃんと纏めた論考が読みたいですね

413 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 23:35:41.95 .net
なんで今まで気づかなかったんだ

冢が家屋=径10m弱のものであるなら、
径百余歩=25mは、径10m弱の冢が複数ある墓域

大作冢 冢を大いに作った=大き目の冢を2つも作ってるよ

墓域全体での径25mなら、平原遺跡1号2号の周溝全域に合致

414 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 03:42:29.88 .net
>>413
冢を大いに作ったのに韓国の平民並みサイズなのか

415 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 04:31:38.54 .net
中国ではな薄葬令が出ていて
皇帝の墳墓も20m四方程度。

416 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 05:19:02.47 .net
315日本@名無史さん2017/06/22(木) 05:07:39.83
祇園山を連呼してウザいから調べてみた。
祇園山は方墳だよね。
http://kurumenmon.com/koura_miimati/gionyamakofun/gionyamakofunsokuryouzu.gif

そっくりなのが伯耆・後口谷1・2号
https://www.fastpic.jp/viewer.php?file=8324248486.png

あんたらが言う殉葬(大笑い)らしきものもあるだろ。

つまり祇園山の主は出雲系で蒲池という姓も出雲・鴨系だろう。
カモチ→カマチ

祇園山程度で卑弥呼の墓になるなら出雲にはいくらでもあるということになる。

残念でしたwww

316日本@名無史さん2017/06/22(木) 05:14:02.46
本当の卑弥呼の墓はこれだよん♪

https://goo.gl/LzPG5i

高天原にあるのだよん♪
御所市高天だ。

417 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 06:05:53.70 .net
>>415
嘘つくな

418 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 06:06:33.33 .net
これで候補が絞られたわけだ
径百余歩は東夷伝の25mで確定
100mとかは脱落ってこと

419 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 06:31:30.31 .net
ウソと妄想で塗り固められた九州説

420 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 18:19:53.35 .net
径百余歩の「大作冢」は、いったい何を意味したのか、

421 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 19:47:17.91 .net
陳寿による「大作冢」の記述は、
親魏倭王たる卑弥呼の墓も、
当時の中国の薄葬令にのっとったものであったといいたかったのであろう。

豪華な前方後円墳の箸墓なんぞとんでもない説だ

422 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 20:27:00.38 .net
大いにだから、葬式が派手だったんだろう。
八咫の鏡などの副葬品の豪華さに驚き、それを惜しげもなくバリバリ割るのを見てさらにたまげたことだろう。

423 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 21:38:28.10 .net
>>415
曹操の墓は27m四方くらいだな。

424 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 21:51:37.70 .net
確かに魏から倭王に任じられた卑弥呼の墓が曹操の墓よりでかいってのは変だな。

425 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 03:25:09.22 .net
>>420
邪馬台国が九州にはないことを意味する

426 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 08:32:05.57 .net
径百余歩が130mくらいとした場合、宗主国の魏の皇帝の墓より大きいことになるな
魏から注意を受けて後で縮小したかもな。

427 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 08:38:16.74 .net
諸葛孔明の遺命
「葬漢中定軍山、因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」

孔明は、定軍山を墳に見立てて・・・云々、と言い残した。
同様に卑弥呼の場合も、
径百余歩の自然の小山を墳に見立て、その頂に径十歩ほどの草ぶき家のようなとんがった冢をしつらえ、棺を容れた。
その全体の姿かたちは、径百余歩の冢のように見えた。
こんな状況だったのではないか。

428 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 08:53:14.48 .net
平原遺跡は全体が幅200mほどの台地の上に在るな
この台地を墳に見立て径百余歩と書いたのかな。

429 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:01:38.93 .net
>>427
>径百余歩の自然の小山を墳に見立て、その頂に径十歩ほどの草ぶき家のようなとんがった冢をしつらえ、棺を容れた。
  その全体の姿かたちは、径百余歩の冢のように見えた。

それはまさに、矢野遺跡隣接気延山鎮座の円墳「天石門別八倉比賣神社」ですね。  @阿波

430 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:05:29.99 .net
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」
卑弥呼の死後 大いに塚を作る 軽が100歩余り
塚その物の軽が100歩ではなく周囲を含めて軽が100歩だろうな
塚その物の軽が100歩じゃ主君の墓より遥かに大きいことになってしまう。

431 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:25:58.42 .net
3〜4世紀当時、巨大な古墳を造っていた地域は魏から冊封を受けてなかった場所だな
宮崎とか巨大古墳があるから、やはり狗奴國とかだろうな。

432 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:38:33.18 .net
>>431
宮崎の大古墳は諸県一族

男狭穂塚、女狭穂塚は
仁徳の妃で美人の誉れが高かった日向髪長媛、父親の諸県君牛諸井

433 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:40:52.61 .net
日向髪長媛を宮崎出身のエビちゃんだと思えばいい。

けっしてサエコや今井美樹を連想しないように。

434 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 09:57:52.09 .net
畿内で巨大古墳が造り続けられたってことは
その後も畿内は支邦と直接交流することが無かったってことだな。

435 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:14:32.26 .net
>>434
そう思うね
もともと中国王朝との交流がなかった(薄かった)ところ。
或は、交流が途絶えた時代・場所において、巨大古墳が作られるようになったのだろうね。

436 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:20:07.11 .net
中国文化の常識的な知識がないから
中国文化から外れた巨大古墳に
暴走するんだろう。

437 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:25:17.59 .net
>>435
>もともと中国王朝との交流がなかった(薄かった)ところ。
   或は、交流が途絶えた時代・場所において、巨大古墳が作られるようになったのだろうね。

薄墓令は唐時代。 
それまでは、倭国(阿波)から全国各地へ拓殖していった忌部一族(豪族)が巨大古墳を造り続けたんですよ。  @阿波

438 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:26:38.86 .net
大仙古墳とか河内の古墳群も倭の五王とは無関係ってことだな。

439 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:28:52.68 .net
>>438
>大仙古墳とか河内の古墳群も倭の五王とは無関係ってことだな。

みんな、阿波の豪族の墓なんですよ。  @阿波 

440 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:29:19.34 .net
建安10年(205年)、曹操が薄葬令を発布しているよ。

441 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:34:56.63 .net
>>438
いや、関係がある。
関係があるから記と紀で干支を違う事にして、わざと混乱させてる。
朝貢隠しだ。
白村江敗戦後の朝廷は「朝貢」という史実に怖ろしく神経質になっていた。

442 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:36:12.42 .net
>>440
>建安10年(205年)、曹操が薄葬令を発布しているよ。

そうでしょうが、曹操の薄葬令が日本に影響を及ぼすには、時期尚早でしょう。  @阿波

443 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:40:28.00 .net
>>441
>白村江敗戦後の朝廷は「朝貢」という史実に怖ろしく神経質になっていた。

それはやむを得ないでしょう。 唐に打ちのめされて間もない頃の記紀編纂ですから。 @阿波

444 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 10:45:23.19 .net
>>443
だからそれが悪いとは言ってない。
河内の大王の朝貢の史実をわざと隠したと言ってるのだ。

445 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 11:13:47.76 .net
>>444
>河内の大王の朝貢の史実をわざと隠したと言ってるのだ。

河内に大王はいません。 それは阿波から進出した大王臣下なのです。

歴代大王は倭国(阿波)及び山背の国(讃岐)の地におわします。 

446 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 12:41:31.26 .net
>>442
日本でも卑弥呼の統治してる地域は魏の冊封を受けてたから魏の影響下にあり薄葬令が実行され
それ以外の地域は好き勝手に巨大古墳を造ってたってことね。

447 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 12:41:39.01 .net
>>442
帯方太守代々の支援を受け、
魏に、数々の朝貢の品を持たせて使いを送り、
魏から親魏倭王に任ぜられ、
さらには魏から、張政ら、多数の顧問役を受け入れて指南を乞うているのにか、、、。またもわらかすかアワワ。

448 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 12:48:18.75 .net
>>447
魏の時代、薄葬令なんてそもそも要らないんですよ。前方後円墳なんて存在しませんから。 @阿波

449 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 13:42:44.42 .net
>>448
おい、もう少し洗練された文章に出来ないのかねえ
それではまるで、曹操の薄葬令が無駄だったと、曹操を非難しているように読めるからねえ。
それと、望ましくは過去形で書けるように練習してはどうかね・・・、

添削例;
魏の時代の倭国においては、薄葬令なんてそもそも要らなかったんですよ。麗々しい前方後円墳なんて存在していませんでしたから。 @アワワ、

450 :日本@名無史さん:2017/06/23(金) 13:57:27.03 .net
>>449
添削、有難うございます。 確かにその方が意味明瞭ですね。

451 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 12:43:06.98 .net
冢が巨大な土盛りを示す用例はありますか?

452 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 13:05:21.71 .net
それ以外の意味があるなら教えてくれ。

453 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 13:43:09.92 .net
冢が100メートルクラスの巨大な土盛りを示す用例はありますか?

454 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 13:47:26.74 .net
>>453
始皇帝陵

455 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 14:35:33.43 .net
10メートルくらいを巨大と言ったのではないか。
100メートルもあったら別の書き方をしたろう。

456 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 14:49:04.00 .net
>>455
どうしてそんな小さなものを巨大だと言うの?

457 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 15:14:31.45 .net
魏の皇帝の曹操の墓が30m四方ないくらいだから
親魏倭王の卑弥呼の墓は30m四方よりは小さい
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」の意味を
直径130mぐらいの卑弥呼の墓を造った解釈するのは考え直すべきだな 。

458 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 15:20:19.66 .net
>>457
さすがにコレは馬鹿すぎる
30m四方って何の大きさだと思ってるの?

459 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 17:18:50.41 .net
曹操も曹叡もそのくらいだよ

460 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 17:21:13.77 .net
だから何の大きさソレ

461 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 17:23:56.88 .net
無知が九州説を作った

462 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 17:26:58.22 .net
曹操墓の大きさはググれば出てくるよ。

463 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 17:34:51.30 .net
卑弥呼の奥津城はここだ!!

この神社は、径150mほどのこんもりとした自然丘陵の上にある。
この自然丘陵とその本殿裏手の径約15mの築山を合わせた山陵神域こそ、
古代史から隠蔽された卑弥呼の「大作冢、径百余歩」 の現世の姿であろう。

>本殿裏の小山を周回する小径を一回り。何処かこの小山の頂上に行く経路は無い
>か周回してみましたが道無し。磐座的なにかがあるのかと思いながら確認出来ず
>残念なのでした。
>おそらくこの本殿裏の小山の頂きが、ご神体山に近い扱いなのでしょうね。。。
http://akiba9echo.exblog.jp/19202164/

464 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 17:54:55.42 .net
>>462
だから馬鹿だ白痴だと言われる
それ、曹操墓の何の大きさだ?

465 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 18:02:08.97 .net
曹操墓

 2号墓(曹操墓)は西から東に向き、方向は約110°である。
墓坑平面は前が広い台形で、東側の最も幅の広い部分で22m、
西面で19.5m、東西長18m、墓坑総面積は400平方mに達し、
墓道を含めた墓葬全体の面積は736平方mにおよぶ。墓葬は、
以下のように、墓道・墓門・甬道・墓室・側室などから構成される。

曹叡墓

高平陵
高平陵中国三國時代魏明帝曹叡陵園,
[1] 位於河南省汝陽県内埠郷茹店村東南。
面?660平方米,墓為覆斗形,高16米,
周長200米。頂部平坦,封土?築。

466 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 18:25:12.15 .net
だから、それが曹操墓の何の大きさだと質問してるんだが
異常に頭が悪いのかな?

467 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 18:44:05.85 .net
>>466
聞き方も、以上によろしくないんじゃないの

468 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 19:04:02.05 .net
>>467
と言う理由は?

469 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 19:09:57.10 .net
>>468
どうやら曹操の墓域の小ささに、まさかと驚いているんだろ
王朝の権力で発布された薄葬令のすごさとは、こういうことだ
ま、箸墓説なんて、はなからトンデモだったわけだwww

470 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 19:24:58.33 .net
>>469
>薄葬令のすごさとは、こういうことだ

すごさ? なにがすごい?

471 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 19:28:05.61 .net
>>469
お前本当にバカだな
そんな情報とっくに知れ渡ってるのを知らないのか
なんの大きさだか答えられないのも泊地そのものだろう

472 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 19:33:18.29 .net
親魏倭王卑弥呼の墓も、
とうぜんながら薄葬令にのっとったものでなくてはならぬ。
棺を蓋う盛り土は、曹操の墓より大きくてはならぬ・・・・、こういうことだな。

473 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 19:42:04.84 .net
>>472
で、曹操の墓の棺を覆う盛り土の大きさはどれだけなのだ?

474 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 20:22:22.59 .net
盛り土の大きさではなく、周溝の大きさが基準かもしれないな。
ならば盛り土の大きさはもっと小さいだろう。

475 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 20:48:54.45 .net
盛り土の大きさなどは資料にないから
わからない。

盛り土がもっと大きいというのなら
それらの資料を示せば良い。

476 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 20:55:46.22 .net
盛り土が周溝や墓域より大きいなんてことはないだろう。
ま、そう心配するな。

477 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 21:07:23.89 .net
平原遺跡の周溝は東西18m、南北14m。
曹操墓をぎりぎり超えない。
よくできている。

478 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 21:41:03.73 .net
畿内説にとって
薄葬令はまるきり想定外だったようだな、箸墓墓墓。

479 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 21:56:34.62 .net
>>454
冢じゃなくて陵じゃん

480 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 22:21:26.13 .net
曹操の薄葬令(建安25年)
「天下はまだ定まっておらず、古いしきたりに従うことはできない。…遺体は平服で埋葬し、
金銀や珍しい宝を納めてはならない。」

曹操墓発掘状況
・地面上に墳丘を築かせず、墓室埋葬はより深くなり、墓道を長くさせ、階段を設けた。
・玉衣を用いず、遺体は平服で埋葬し、前漢・後漢400 年余りの玉衣葬制を止めさせた。
・金玉珍宝を埋葬せず、副葬品は土器を主とし、少量の鉄器・銅器・玉石器を用いた。
・後漢晩期に流行した横前室墓制を改め、前後墓室の平面形状を方形に近い形にした。
・画像石や壁画で墓壁を装飾するのをやめさせた。
・地下の墓葬形態に規制を加え、後漢の王が普遍的に用いた回廊墓制をやめさせた。

墳丘なしとか金玉埋葬せずとか、倹約が主だね

481 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 23:00:36.23 ID:mxjjFqaTm
>>415
 >中国ではな薄葬令が出ていて皇帝の墳墓も20m四方程度

 本当ならかなり興味深い。畿内説は「日本スゴイ、スゴイ病」患者が唱える説だから、卑弥呼の墓は小さかったと考える方がしっくりくるね。

482 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 23:14:34.53 ID:mxjjFqaTm
考古学と古代史は「日本スゴイ、スゴイ病」が治らないとマトモな研究ができないんじゃないのかw 何しろ藤村某の捏造事件まであったわけだし www

483 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 11:10:18.52 .net
>>480
なるほど曹操らしく倹約簡素。
銅鏡で言うならば方格規矩鏡ですな。

484 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 11:44:32.62 .net
青龍三年銘方格規矩四神鏡

青龍三年(235)の同笵鏡が3枚

・大田南5号墳 京都府京丹後市 4世紀後半・方墳
・安満宮山古墳 大阪府高槻市安満御所 3世紀後半・長方形墳
・茨城県那珂郡 収集家蔵

丹後半島の中央
淀川沿い
那珂

485 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 05:05:43.89 .net
青龍三年(235年) 顔氏作鏡 安満宮山古墳 6世紀後半〜7世紀 4世紀に遡る古墳あり
青龍三年(235年) 顔氏作鏡 大田南5号墳 4世紀終末〜5世紀初頭
景初三年(239年) 陳是作鏡 神原神社古墳 4世紀中頃
景初四年(240年) 陳是作鏡 広峯15号墳 4世紀末
景初四年(240年) 陳是作鏡 辰馬考古資料館収蔵
正始元年(240年) 陳是作鏡 蟹沢古墳 4世紀
正始元年(240年) 陳是作鏡 森尾古墳 4世紀末
正始元年(240年) 陳是作鏡 竹島古墳 4世紀前半
赤烏元年(238年) -------- 狐塚古墳 須恵器出土(5世紀以降?)
赤烏七年(244年) -------- 安倉高塚古墳 4世紀

486 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 05:08:59.44 .net
青龍三年(235年) 顔氏作鏡 方格規矩四神鏡 大阪府 安満宮山古墳 6世紀後半〜7世紀 4世紀に遡る古墳あり
青龍三年(235年) 顔氏作鏡 方格規矩四神鏡 京都府 大田南5号墳 4世紀終末〜5世紀初頭
景初三年(239年) 陳是作鏡 三角縁同向式神獣鏡 島根県 神原神社古墳 4世紀中頃
景初四年(240年) 陳是作鏡 斜縁盤龍鏡 京都府 広峯15号墳 4世紀末
景初四年(240年) 陳是作鏡 斜縁盤龍鏡 兵庫県 辰馬考古資料館収蔵
正始元年(240年) 陳是作鏡 三角縁同向式神獣鏡 群馬県 蟹沢古墳 4世紀
正始元年(240年) 陳是作鏡 三角縁同向式神獣鏡 兵庫県 森尾古墳 4世紀末
正始元年(240年) 陳是作鏡 三角縁同向式神獣鏡 山口県 竹島古墳 4世紀前半
赤烏元年(238年) -------- 半円方形帯神獣鏡 山梨県 狐塚古墳 須恵器出土(5世紀以降?)
赤烏七年(244年) -------- 半円方形(格)帯神獣鏡 兵庫県 安倉高塚古墳 4世紀

487 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 05:42:44.58 .net
>>485
>青龍三年(235年) 顔氏作鏡 安満宮山古墳 6世紀後半〜7世紀 4世紀に遡る古墳あり

調査報告書では「3世紀後半の早い段階」

488 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 06:27:33.91 .net
方格規矩四神鏡が235年まで作られていたのが確実なら平原はもちろん
三雲南小路や井原鑓溝の年代も考証し直さないとね

489 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 07:26:15.22 .net
うん、鏡の編年はもっと重視されるべきだね。
土器だけでなく。

490 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 07:31:13.64 .net
>>487

その年代の根拠は青龍三年鏡のようですが
そもそも、その鏡が青龍三年に作られた
ものか
どうかが議論されているわけでして。

491 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 10:59:06.30 .net
辰馬考古資料館収蔵w

492 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 12:23:45.28 .net
顔さんが方格規矩鏡で
陳さんが三角縁系のようですね

493 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 12:29:16.87 .net
どの時代の作か、いまだ不明のようですが、
ともあれ
顔さんも、陳さんも、
全盛期の邪馬台国卑弥呼の御威光にあやかりたかったのでしょうねえ

494 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 14:36:33.46 ID:dd7KbyF7c
>>493
  >顔さんも、陳さんも、全盛期の邪馬台国卑弥呼の御威光にあやかりたかっ>たのでしょうねえ

 「日本スゴイ、スゴイ病」の典型的な症状だな w

495 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 16:49:23.12 .net
>>490
議論の結果、青龍三年に作られたという説が圧倒的優勢なわけだね

496 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 16:53:18.50 .net
>>488
その必要はないわけよ
倣古鏡の編年も進んでるから

497 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 17:05:51.36 .net
つか、もう鏡種で年代を見てる時代じゃなくて意匠や細かい技術的特徴で時代性・地域性を分析してるレベル
ひと昔前とは精緻さがケタ違いなわけよ
時代に取り残されてるのは九州説さんだけ

498 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 17:17:08.75 .net
でもその成果が議論に全く活かされていないように見えますね。

499 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 17:17:59.22 .net
>>498
どうして?

500 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 17:20:53.76 .net
安満宮山古墳 出土鏡

1号鏡 (三角縁「吾作」環状乳四神四獣鏡)
2号鏡 (「青龍三年」方格規矩四神鏡)
3号鏡 (三角縁「天・王・日・月・吉」獣文帯四神四獣鏡)
4号鏡 (斜縁「吾作」二神三獣鏡)
5号鏡 (平縁「陳是作」同向式神獣鏡)

501 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 17:37:02.83 .net
>>500
これらの組み合わせから三世紀後半の早い段階という判断をしたわけだね

502 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 18:06:33.86 .net
だって畿内説の成果は畿内説だけ
しか適用しないもんねww
だから成果が乏しく見えちゃう
お気の毒に

503 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 18:29:03.31 .net
で、平原遺跡が卑弥呼の墓でいいのね?

504 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 18:37:44.22 .net
>>502
そりゃあ人道的行為は猿には適用しないだろう

505 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 19:14:33.51 .net
青龍三年に作られていようが
青龍三年より後に作られていようが

方格規矩四神鏡が「青龍三年(235年)より後」まで作られていたことが確定したわけです。

506 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 19:54:25.88 .net
>>505
そんなこと誰でも知ってる
未来の年号なんて分らないんだからな

507 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 20:36:47.83 .net
平原遺跡など糸島地域の王墓に副葬された大量の方格規矩四神鏡

別にそれらの方格規矩四神鏡が国産でも構わない。
国産なら国産で、大量の方格規矩四神鏡を製造する先進文化と生産力を有し、
世界最大の超巨大内行花文鏡を5面も独り占めする圧倒的権力を持っていた女王墓。
これだけでも卑弥呼だ。

ここから真面目に考えてみよう。

>方格規矩四神鏡が「青龍三年(235年)より後」まで作られていた

191年 董卓による洛陽炎上、洛陽住民数百万人全員を長安へ強制連行移住

ここで一旦、洛陽は壊滅している
そして洛陽が復興するのは、220年 曹丕が洛陽へ遷都
ここから235年まではたったの15年しかない。

平原遺跡の方格規矩四神鏡を国産とする根拠は、
形が今一つとか、文字の並びが後漢の厳格な鏡に比べて違うとかいうものが目立つが、
果たしてどうか?

洛陽は董卓によって物も住人も完全に破壊され、その後も激しい戦乱が続いたのだから、
190年以前の方格規矩四神鏡と、
220年以降の方格規矩四神鏡とは、別のグループとして考えるべきではなかろうか。

220年以降の方格規矩四神鏡とは
各地に散らばった弟子などが、220年に洛陽へ逃げ戻り、
若い頃の師匠からの記憶を頼りに久しぶりに製作した、
拙い方格規矩四神鏡なのである。

508 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 21:27:21.43 .net
190年に50歳の親方なら、220年には80歳
190年に30歳の中堅でも、220年には60歳

洛陽から長安への死の行進
そして戦乱に追われて異郷から異郷への流浪の30年
まず生きていないだろうな

190年に10代後半の新人銅鏡職人なら、220年に40代後半

なんとか生き延びたかもしれんが、
長らくの戦乱で銅鏡など作る機会も無かっただろう

方格規矩四神鏡の再現には途方もなく苦労しただろうな

509 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 21:47:43.15 .net
>青龍三年銘(235)方格規矩四神鏡の同笵鏡が3枚
>・大田南5号墳 京都府京丹後市 4世紀後半・方墳
>・安満宮山古墳 大阪府高槻市安満御所 3世紀後半・長方形墳
>・茨城県那珂郡 収集家蔵

220年に曹丕が洛陽へ遷都
234年 諸葛亮孔明が死去

孔明の死によって、蜀呉による魏挟撃戦線は瓦解し、
235年から曹丕はようやく内政に力を入れることができるようになる。

これを「洛陽市民の視点」で見てみる。

190年に洛陽が灰燼と化し、30年も流浪の人生を送った。
数多くの親族、友人知人が亡くなり、PTSDを患う者も多かっただろう。

そしてやっと220年に洛陽に戻って来れた。

現代の我々は、全くの娯楽として三国志を楽しみ、
「判官びいき」で孔明を応援したりするわけだが、

当時の洛陽市民にとっては洒落にもならない。
230年代の洛陽市民にとっての諸葛亮孔明とは、
蜀を指揮し、呉と組んで、魏に攻めてくる恐るべき天才軍師。
洛陽陥落という現実に起きた悪夢を呼び起こし、PTSDを悪化させる
恐怖の対象なわけである。

それが234年に死去し、蜀と呉は一気に弱体化していく。

その解放感、安心感が洛陽の街に満ちて、
そして実際に、235年に入ってから曹丕が内政を充実させる施策を次々に打ち出して、
その満ち足りた青龍三年を紀念したのが青龍三年銘(235)方格規矩四神鏡であろう。

510 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 21:55:03.22 .net
方格規矩四神鏡は紀元50年ころの鏡で
卑弥呼のもらった鏡ではないと言われていたが
235年以降に作られたことが確定したことで

方格規矩四神鏡が卑弥呼がもらった
鏡である可能性が高まったな。

511 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 22:27:59.75 .net
方格規矩四神鏡は平原遺跡と
おなじくご近所の井原鑓溝遺跡から
数十枚出ております

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