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邪馬壹國は北部九州に在ったpart6
- 1 :九州王:2017/06/10(土) 10:47:31.42 .net
- 水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1473081480/
- 829 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 17:27:31.20 .net
- >>828
自分で言ってるじゃん
狗奴国の本拠=筑後肥前
肥後はあくまでも属領
壹與の共立に、狗奴国(筑後肥前)も含まれていたけど、
すぐにまた仲間割れしたってことでしょ
- 830 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 17:31:39.25 .net
- >>829
いや、壹與が共立されたら平和になったとある。
- 831 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 17:32:48.41 .net
- 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣秀吉の淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比v命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の辺縁であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
- 832 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 17:33:50.91 .net
- 倭国大乱とは邪馬台国女王=伊都卑弥呼と
狗奴国王=卑弥弓呼による倭国王正統争いなのだから
双方ともに倭国中枢=筑紫に基盤があるのが最低条件
狗奴国王が肥後出身であれば
古来王墓の存在する筑前伊都卑弥呼がわざわざ邪馬台国などと名乗る必要はなく
最初から倭国女王卑弥呼が蛮族狗奴国を征伐する話ですんだわけだ
- 833 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 17:38:42.08 .net
- おまえら「倭国大乱」とか後漢書を引っ張ってくるけど
魏志では「倭国乱」だからな
後漢書は「大倭王」とかとにかく話を大きくしてるから
- 834 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 17:47:27.50 .net
- 同じことだ
「倭人」伝に記された倭人の王は
邪馬台国女王=伊都卑弥呼と
狗奴国王=卑弥弓呼の2名のみであって、
倭国乱とはその2名による倭国王正統争いなのだから
邪馬台国が伊都を首都とする国家であれば
狗奴国とは北部九州倭国の邪馬台国以外の部分ということになる
東方の日本海沿岸倭種と同じく
3世紀の肥後もまた南方倭種にすぎない存在であったことだろう
- 835 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 17:53:00.70 .net
- 後漢書は、三国志のコピペばかりで
評価できるのは、奴国に下賜した金印の話くらいしかない
- 836 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 18:02:23.16 .net
- >>834
大筋はいいが、本来の筑紫の天孫族の伊都脱出を経て肥国の卑弥呼が伊都入りしたのではないか。
卑弥呼と卑弥弓呼は同族なのだろう。
狗奴国は当方の倭種よりは立場が上で、れっきとした倭国の一部なんだよ。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
- 837 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 18:06:53.53 .net
- >>836
その分布図は、4世紀以降の副葬品を全部載せている。
3世紀に同じ分布図を作ると、ほぼ福岡県にしか副葬品は出土しない。
根拠が完全否定されることによって、
>>836は100%否定される。
- 838 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 18:18:50.40 .net
- 方向が逆なんだよね。
筑後→伊都じゃない。
伊都邪馬台国vs筑後狗奴国で、邪馬台国が勝って、神籠石を突破して、
伊都→筑後に進出したわけだ。
副葬品が4世紀以降に南下していくんだから間違いない。
>>836の出土品をよく見てみれば明らか。
- 839 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 18:37:30.00 .net
- 国の大きさとしては
筑紫より肥のほうが大きい。
特に有明湾岸の筑後も握っていた肥は
九州では圧倒的な生産量を誇っていた。
しかし大陸との通交は唐津しかない肥より
博多湾を握る筑紫のほうが強かった。
筑紫は筑後を大陸技術で侵攻し
肥から筑後を奪った。
後に肥は筑紫に従属した。
- 840 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 21:09:57.85 .net
- 倭国=筑紫勢力+肥勢力・・・合計30国
倭地=筑紫勢力+肥勢力+狗奴国・・・合計31国
やがて肥勢力の中枢は大和へ移住して抜ける、
倭国は筑紫勢力を中心として再編成され、景行・仲哀・神功紀の時代を経て、百数十年後の倭の五王へと続く、、、、
- 841 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 21:40:18.84 .net
- 肥国は泥の海が広くて大変\(^o^\(^o^)/
- 842 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 21:44:31.81 .net
- >>840
倭国=筑紫勢力+肥勢力・・・合計30国
vs
狗奴国・・・1国
だったら瞬殺だろ
そもそも邪馬台国なんて必要ない
倭国のまま倭国女王卑弥呼が逆らう狗奴国を瞬殺で問題ない
- 843 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 21:52:37.19 .net
- >>839
>筑紫は筑後を大陸技術で侵攻し
>肥から筑後を奪った。
問題はその年代だな。
卑弥呼の前か後か?
狗奴国が熊本なら、卑弥呼の時代までに筑後が筑紫に組み込まれていたことになる。
- 844 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 21:56:04.99 .net
- >>842
そこはそうならなかった事情があるんだろう。
卑弥呼と卑弥弓呼がどちらも肥国出身というのを支持したい。
もともとの筑紫の王家であった天孫族は、大乱で殺しあって、最後は畿内へ落ち延びて行ったのだろう。
共立された卑弥呼が伊都に入って倭国の女王に即位したのだろう。
- 845 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 22:01:57.15 .net
- 肥国出身なら2世紀までに肥国にその母体となる痕跡がなければならない
だが無い
肥前吉野ケ里があるものの、むしろ筑紫との結びつきが強いことから
結局は筑紫が全てで
その周囲への波及を誤解したのが>>844である
- 846 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 22:10:54.62 .net
- 筑後における母体なら平塚川添遺跡でいいではないか。
卑弥呼が伊都で倭国王に即位して、撤収したのだろう。
- 847 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 22:12:21.02 .net
- >肥から筑後を奪った。
肥国なんてそんなもん最初から無い。
あるとすれば遠賀川あたりから全国展開した豊国が
筑紫をはじめとして福岡佐賀あたりに展開した。
これはあった。
そこに筑紫甕棺が入ってきて主導権を握った。
筑後川沿いに広まったのは肥国なんて夢物語じゃなくて
筑紫甕棺が入植していったわけで、考古学成果を見たら明らか。
甕棺がなんらかの影響力低下をおこして倭国乱が勃発して、
もともとの豊国が卑弥呼で主導権を取り返した。
肥から筑後を奪ったんじゃなくて
新参の筑紫甕棺から豊国木棺が筑後を奪い返しただけのこと。
せいぜい
先行豊国と、新参甕棺の、2大勢力だけで成り立つ話だ。
- 848 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 23:40:51.57 .net
- 豊国はむしろ筑紫によって博多湾を追い出されて遠賀川に行っちゃう。
肥国は呉の太伯の末裔。
- 849 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 02:17:57.09 .net
- 遠賀湾沿岸は物部氏
- 850 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 08:21:27.94 .net
- じゃあ豊国王家は物部氏の係累なんだろう。
饒速日をはじめとして、どんどん東を目指したんだね。
肥国と違い、あまり筑紫の派遣を争った形跡がない。
豊玉姫を輿入れしたり、仲哀を歓迎したり、うまくやっている。
- 851 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 10:42:38.25 .net
- 倭人伝実話:
筑紫王家が長年にわたり平穏に支配していた北部九州に、
後漢・魏の後押しで肥国王家が渡来し、当時まだ辺鄙なマツウラ港から侵入して、佐賀〜肥後をかすめ取った。
陳壽の倭人伝はこのことを隠しつつ、卑弥呼の正統性を描写したように読める。
そのさらなる例として、遠絶の傍国というのは、
じつは旧来の支配国であった筑紫に属した国々のことだったのではないか。
まさか、あいつら筑紫の旧土人国め、とは書けなかったので、遠絶にして不可得詳也とやんわり遠ざけた。
そしてそれ以上詮索されないために、さしたる敵でもない狗奴国と持ち出して、
女王の南の憎たらしい卑弥狗呼のために、魏と肥諸国の有志連合で脅威に対処しなければならなかった・・・、
だから張政らを派遣したのです。
と書いてはあるが、
その実は、旧宗主国の筑紫王家に対抗するための張政ら軍政顧問団の派遣だったのではないか。
- 852 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 10:58:23.03 .net
- >>851
?
唐津と糸島は考古学的にも共通点が多く、密接な関係を示しているが
肥国地域との関連を示す物は出土してるのだろうか?
- 853 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 10:59:20.43 .net
- >>852
何より唐津は「肥前」なんですよ
- 854 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 11:50:42.29 .net
- 肥国王家なるものは存在しない。
王家は全て筑紫に発祥し、各地へ拡散しただけ。
- 855 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 11:57:44.02 .net
- 豊国王家というのも便宜上豊国と言っているだけで、
王墓は吉武木の木棺墓。
正確には、日本史上最初の王家であり、
その本領は筑紫〜遠賀川だった。
筑紫を甕棺王家に奪われた後は見かけ上の豊国に見えるだけ。
- 856 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 12:26:40.12 .net
- >>852
唐津も糸島ももとは同一文化圏だったのだろう
だから時代が降っても倭土民たちの文化はさしてかわらなかったであろう
しかし一世紀あたりのある日あるとき、大陸敗走の渡来王族と軍隊と使用下人が上陸してきて、
新しい肥国支配階級が拡大拡張を開始した。
それが肥国(肥前肥後)王家の始まりだったのだろう。
渡来の肥国民にとって、その渡海渡来は、いわばノアの箱舟であり、
上は王・官僚・軍人から、下は使用人、奴婢に作物の五穀種子まで、一切合切載せてきたのだろう。
高天原神話にはそれらしき描写もあるからな。
- 857 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 12:45:59.06 .net
- ノアの箱舟で来た痕跡が何も残っていない。
一世紀に渡来してきた王家であれば、
三世紀にはまだ日中双方にその情報が残っているはず。
倭人伝には、邪馬台国王家は渡来王家である旨が記載されるはずだが、
旧倭国内で擁立された女王であるとしか書かれていない。
また中国側にも、○○国の○○家が○○年に
一族を挙げて大船団で大脱出を図ったとの記録が残るはずだが、
(徐福のように)
そのような記録は無い。
- 858 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 12:50:31.53 .net
- 各種文化も一世紀に大きく変革したわけではなく、
銅鏡を始めとする青銅器の製造
大規模鉄器工房
王墓への三種の神器副葬
絹生産
なにもかもが紀元前から連綿と続いており、
渡来人は数多くいたであろうけれども
渡来王朝の存在を示すものは特にない。
無いものは無いわけであって、
肥国王家なる幻影を持ち出したい側が、
肥国王家の証拠を提示する必要がある。
- 859 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 12:55:19.38 .net
- 頭の病院に行け
- 860 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 12:57:49.58 .net
- わかりやすく言うと
仏教の話だと言っているわけなんだよ、
日本風に言うと仏教
- 861 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 12:59:52.68 .net
- 最初期の吉武木王家(筑紫〜豊前)
それに続く甕棺墓など支石墓王家(筑紫〜肥前)
この2つが数百年のうちに血縁融合しつつ、
早良→春日→糸島と遷都していった。
考古学的には豊前や肥前に王墓は無い。
例外的には唐津に王墓級のものが続くが、これは副葬品から明らかに糸島の家臣。
それ以外に王家があったというなら、
その証拠を示す必要がある。
- 862 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 13:06:23.98 .net
- くだんの肥国のみならず、
古来多くの王族は、大陸にルーツがあったのではないか。
それが魏の時代だったのか、後漢の時代だったのか、前漢のころだったのか、それともさらに前だったのか明らかではないが・・・、
少なくとも肥や筑紫の渡来は、魏の時代ではなく、
だから魏志倭人伝に記述されることはなかった。
ただご承知のように、後世の記紀においては、
天から下ってきたかのような筋書きになっている。これは渡来の可能性をうかがわせる。
- 863 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 13:11:11.40 .net
- 渡来の可能性は否定しない
肥王は考古学的に存在しない
- 864 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 13:12:22.14 .net
- >>855
確かに、初めは志賀島にいた豊国王家が、遠賀川に移動したように見える。
かわりに天孫族が筑紫に入り、伊都国が成立した。
倭国大乱で天孫族が東奔して、かわりに肥国王家の卑弥呼が伊都で共立された。
- 865 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 13:14:41.30 .net
- >肥国王家の卑弥呼が
肥国王家は考古学的に存在しません。
存在するとしたら、
筑紫にいる支石墓王家のうち、肥国を所有する王族もしくは豪族。
- 866 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 13:15:54.37 .net
- 狗奴国王もまた、倭人伝に「王」と記されている。
倭人の王として、
邪馬台国女王と争っているのだから、
狗奴国もまた筑紫の出自であることがわかる。
つまり倭国乱とは福岡県内での筑前vs筑紫の主権争い。
- 867 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 13:16:55.88 .net
- 肥国王家は、卑弥呼が伊都の政権を取るまでは、豪華な副葬品を埋葬する文化がなかったのだろう。
平原遺跡は明らかにそれまでの伊都国王家の鏡文化を継承しているから。
それ以降、肥国も金銀財宝に浸かった王朝となったのだろう。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
- 868 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 13:18:27.03 .net
- >>865
>筑紫にいる支石墓王家のうち、肥国を所有する王族もしくは豪族。
ザラコクが持ち出す某家系図では、確かにそう読める部分もあるけどね。
頭から信じるわけにもいかない。
- 869 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 13:23:11.02 .net
- >>867
その図を繰り返し持ち出すということは、
肥国王家論者は理論形成を放棄したことを示す。
肥国王家はまったくの嘘だということだな。
その図は4世紀以降の副葬品をも含んでおり、
その図の元となる副葬品の出土時代をよく見てみると、
3世紀以前の副葬品は主に福岡県のみに集中していることが明らか。
よって、その図のデータから、
3世紀までの王家は筑紫にしか存在せず、
肥国王家が存在しなかったことが逆に証明される。
- 870 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 13:26:09.53 .net
- 3世紀までの王墓が存在したのは筑紫のみであり、
豊国や肥国は単なる周辺領土に過ぎなかった。
よって、
倭人伝に王と記された、
邪馬台国伊都女王卑弥呼と、
狗奴国王卑弥弓呼との出自は、
筑紫しか存在しないわけであり、
倭人乱とは、
筑前邪馬台国と
筑後狗奴国の
争いであったことが証明される。
- 871 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 13:29:45.98 .net
- 古来、大陸からの渡来は少なからずあった。
徐福はその典型で、しかも時の皇帝のお墨付きを得てのことであったから、記録に残った。
しかしその他多くの渡来、特に戦に敗れた挙句の渡来は、当然ひっそりと行われるから、
記録に残ることもなかったであろう。
ともあれ、これまで肥国王家→高天原アマテラス王家の存在を主張するものは少なく、
佐賀県や熊本県の当局でさえ、貴重な遺跡の保護にはさほど熱心でなかった。
弥生末遺跡とみられた熊本県菊池市大津町の西弥護面鉄器遺構は早々に埋め戻され、住宅地の下敷きになっている。
ちなみに「面」とは、大字に相当するが、
この「面」の呼び名は、今でも肥前松浦市方面に数多く残っており、肥前肥後の文化的つながりの深さを物語っている。
こうした肥王家・肥国文化に関する貴重な事例の考古学的調査検討はこれからであろうな。
- 872 :subo:2017/07/16(日) 13:52:03.63 .net
- >>871
>この「面」の呼び名は、今でも肥前松浦市方面に数多く残っており、、、
具体的に説明してください
- 873 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 13:58:41.80 .net
- >>869
倭国大乱の最終局面は筑紫邪馬台国と肥後狗奴国の争いなのだろう。
肥国王家の源流をやはり筑紫に求めるのも理解はできる。
ただ、4世紀には豊国よりも肥国の方が繁栄していたことはその地図からわかるし、そのきっかけは卑弥呼を含めて3世紀に倭国の王位を手に入れたことにあるのではないか。
- 874 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 14:10:36.04 .net
- >>872
すまぬ、面は免だった。
鹿島町里免
鹿島町中通免、その他多数あり。
http://map.goo.ne.jp/map/latlon/E129.45.39.375N33.26.25.264/zoom/8/
- 875 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 14:22:31.97 .net
- 肥国王家の証明問題は、少々厄介だ。
佐賀県内の遺跡は、明治この方ほとんど破壊消滅し、
僅かに吉野ヶ里がのこされた。
熊本県内の邪馬台国に連なる遺跡のいくつかは、将来何とか調査にこぎつけるとしても、
女王卑弥呼の所都こそ、天孫降臨の宮崎県西臼杵郡高千穂町であったとみられるから、
その多くの遺跡は、古来から神社の神域となっており、発掘は困難。
しかも肝心の地元は、卑弥呼との関係なぞみとめたくないであろうから、調査による考古学的証明は永久に不可能であろうな。
ただ、女王卑弥呼に連なるとおもわれるいくつかの神域については、レーザー航空測量で形状を確かめることはできよう。
。
- 876 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 14:29:00.01 .net
- >>867
これを見ると自分は
唐津、肥前、肥後の経路と
博多湾、筑豊の経路があるように
視えるのですが。
- 877 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 14:35:52.91 .net
- >>875
ここは九州北部スレだから、宮崎はスレ違い。
- 878 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 14:37:30.64 .net
- >>876
じゃあ、前者が肥国王家かもね。
でも、本当にそこまで読み取っていいかが疑問。
- 879 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 15:06:25.62 .net
- 肥国王家の証拠など何もない
- 880 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 15:15:06.77 .net
- >>873
>ただ、4世紀には豊国よりも肥国の方が繁栄していたことはその地図からわかるし、
>そのきっかけは卑弥呼を含めて3世紀に倭国の王位を手に入れたことにあるのではないか。
4世紀には豊国も肥国も繁栄していない。
繁栄するのは5世紀からだ。
肥国は3世紀に倭国の王位を手に入れていない。
- 881 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 15:19:33.13 .net
- 肥国王家などというものは
5世紀以降の副葬品地図を持ち出してでっち上げるしかない虚構にすぎない。
つまりは前方後円墳を持ち出して権威を逆算する畿内説と同じ論法。
ここまで見たところ、
5世紀以降の副葬品分布図以外には、
地名のこじつけしか証拠が出せないというお寒い有様。
- 882 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 15:22:53.65 .net
- なんでそこまで肥国を否定するのかね。
あれか、江南連呼厨か。
- 883 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 15:23:04.30 .net
- 一大率が伊都で見張ってると記録されているのに
同じ壱岐対馬ルートを別々の王家が併用するはずないだろ常考
伊都から唐津までは一つの大きな湾でもある。
考古学的に伊都の王墓と唐津の家臣墓は密接にリンクしている。
伊都の王が全てを管理していたことは明らか。
- 884 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 15:31:37.59 .net
- >>882
考古学的に否定されるから。
何よりもまず、3世紀までの肥国領域に王墓は存在しないから、
権威を持ち合わせていなかったわけで、王を輩出する背景を持っていない。
次に、3世紀までの肥国は甕棺墓地域であることから、
卑弥呼平原遺跡=木棺墓とはむしろ別族であり、
肥国とは、卑弥呼以前の三雲などの甕棺墓王の配下領であったことになる。
- 885 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 15:40:58.43 .net
- 紀元前
筑紫にもともと存在した木棺墓王家→海沿いに豊国→東方へ拡散
紀元前1世紀頃
後から主権を奪った甕棺墓王家→豊国以東は先住されてるので肥国へ分布
この2つだけで説明がつく。
2世紀
甕棺墓王家が内紛=倭国乱で弱ったところで、
木棺墓王家が卑弥呼で主権を取り返し、
属領肥国をも甕棺墓から奪い返して塗り替えていった。
倭国中枢である筑紫における権力闘争だけで考古学的にも文献でも説明がつく。
- 886 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 15:49:44.34 .net
- 吉武木王が日本海沿岸の倭種属領からの年貢徴収機構=国家を作り上げていたわけだ。
硯が出土していることから、文字を使って国家整備していたことがわかる。
倭国の原型はできていて、それを甕棺墓族は乗っ取った。
甕棺墓族が王を立てたのかもしれんし、摂政関白の形だったのかもしれん。
吉武木王が倭国という国家を建設し、博多湾に都があるのだから、
甕棺墓族はわざわざ外征する必要もなく、わざわざ辺境へ入植する必要もなく、
北部九州で川沿いの一等地を占拠して、
各地からの年貢で裕福に暮らしていたのだろう。
- 887 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 15:51:44.06 .net
- >>884
>次に、3世紀までの肥国は甕棺墓地域であることから、
肥国から甕棺が出ていたっけ?
教えてプリーズ。
あと、卑弥呼が豊国王家と主張されるのか?
4世紀の神功皇后の伝記を読むと、北九州市の勢力は旧邪馬台国系の女王を倒しているけどなあ。
- 888 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 15:57:34.41 .net
- 肥国といえば甕棺墓だな
吉野ケ里しかり安永田しかり
- 889 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 15:58:34.19 .net
- >>887
>4世紀の神功皇后の伝記を読むと、北九州市の勢力は旧邪馬台国系の女王を倒しているけどなあ
旧邪馬台国系の女王とは?
- 890 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 16:09:15.59 .net
- 肥国王家などというありもしないものを設定するから
北部九州の女王が全て卑弥呼の末裔であるかのごとき誤解が生じるのだ。
>卑弥呼→神橿日姫→景行仲哀→息長帯姫
>五十迹手・熊鰐
これらはみな、邪馬台国の王あるいは臣下の末裔
三種の神器で挨拶し、出迎え出迎えられている仲良しこよし
>田油津姫、八女津姫、夏羽、羽白熊鷲
これらはみな、狗奴国の王あるいは臣下の末裔
三種の神器を持たず、誅殺されていく
- 891 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 16:14:32.94 .net
- 卑弥呼の時代、
後漢・魏では薄葬令下にあった。
とうぜんながら、
親魏倭王の卑弥呼やその周辺の墓も薄葬令にのっとったものだったとみるべきだな。
奢侈豪華三昧の筑紫王家とは流儀考え方が違う。
その謙虚さが肥国の発展につながったのであろう。
- 892 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 16:20:01.08 .net
- 肥国王家の都は、天孫降臨の阿蘇高千穂だった。
(ただし現在の行政区では、宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井)
- 893 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 16:23:22.92 .net
- 肥国王家の論法って阿波説みたいだね。
証拠を示さずに結果だけ連呼したり
示した地図や石高の年代が全然違うと指摘されても何度も繰り返したり。
- 894 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 16:47:43.58 .net
- >>887
>あと、卑弥呼が豊国王家と主張されるのか?
豊国王家なるものも存在しない。
豊国を領有する筑紫王家の王族なら存在する。
卑弥呼は木棺墓族の出自である。
わかっているのはこれだけ。
2世紀までの北部九州で、
倭国女王を推せる木棺墓王家といえば、早良区王家が第一候補であろう。
そして甕棺墓族が2世紀に領有していた領地以外の出自であると考えるべきであって、
そうなると倭国女王卑弥呼のパトロンになれそうなのは、
北部九州で普通に考えたら豊国が思い浮かぶ。
もちろん東方倭種属領や、北方半島領土などを荘園として領有する、
筑紫木棺墓王族である可能性も残る。
平原遺跡に翡翠が無いから、越後はないこともわかる。
- 895 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 16:55:51.55 .net
- >>890
田油津姫は、筑豊の伝承では神夏磯姫の末裔とされていて、おそらく孫。
- 896 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 16:57:53.25 .net
- >>895
その根拠は?
文献あるいは遺跡で証明しないと
ただの空想に過ぎない
- 897 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 17:11:26.87 .net
- >>896
地元の社伝
http://lunabura.exblog.jp/16637306/
- 898 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 17:14:00.94 .net
- >>894
>豊国王家なるものも存在しない。
>豊国を領有する筑紫王家の王族なら存在する。
その分家を豊国王家と呼んではいけないのかな。
>卑弥呼は木棺墓族の出自である。
>2世紀までの北部九州で、
>倭国女王を推せる木棺墓王家といえば、早良区王家が第一候補であろう。
なるほど。
伊都の天孫族を追い出して筑紫の支配権を取り返したのかな。
それならまさに倭国大乱だ。
- 899 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 17:37:34.65 .net
- >>898
呼称としては豊国王家でも構わない。
現代の国会議員のように、
地盤は豊国だが、普段働いたり生活したりしているのは主には伊都や奴国。
甕棺墓など各部族は数百年間北部九州で共存しているから、
血縁関係も濃くなっているわけで、
単純に追い出したりの話ではないと思われる。
保元・平治の乱のように、
木棺墓族や支石墓族が、それぞれ
邪馬台国側と狗奴国側に分かれて戦ったのだろう。
結果として、甕棺墓族は大きく勢力低下した。
- 900 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 17:41:04.91 .net
- 墓制というのは、父系なの?母系なの?
- 901 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 17:54:18.70 .net
- そもそも福岡市から糸島市へ遷都した時点で不穏なわけだ。
倭人伝にも、
伊都へ遷都して70-80年で倭国乱が勃発したと書かれている。
福岡市の勢力が不満に思って狗奴国を立ち上げたのだろう。
狗奴国に対応して、
伊都の倭国王が戦うのでなく、
邪馬台国という国が新たに立ち上げられたということは、
倭国王と後継ぎが狗奴国の急襲でやられてしまったことを意味する。
おそらく、守りの堅い伊都ではなく、
奴国などへ巡視に出ている最中に襲われたのだろう。
すぐには倭国王を決められない混乱状態だから、
卑弥呼を共立して邪馬台国が立ち上げられ、
何度かの軍事決戦を制して、
魏との国交を樹立して、
なんとか倭国王の地位を奪還した。
そうでなければ、伊都にいた倭国王がそのまま狗奴国を倒せばいい話のはず。
- 902 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 18:19:14.43 .net
- 福岡市で旗揚げした狗奴国王が200年前後の狗奴国絶頂期に
後漢の有力者曹操に朝貢して貰ったのが金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
倭国乱が筑紫での勢力争いだからこそ
全ての説明がつく
- 903 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 20:34:33.30 .net
- 一気に妄想めいてきたぞ。
がっかりだ。
- 904 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 20:48:09.96 .net
- 岡垣町高倉神社の大倉主は高倉下であり物部の祖。
- 905 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 23:50:36.37 .net
- 鉄器が普及した肥国ですら叱られるなら
鉄器のない未開地域とかどんだけーw
- 906 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 00:17:29.03 .net
- 先進文化が普及するだろ
住民が増えるだろ
そして「王」が誕生するわけだ
鉄器もない
住居もない
→王が誕生するはずもないw
そんなところに突如として巨大古墳が築かれたなら、
それは外部の王権がやってきて、未開の原住民を使役したんだろうよ
だから集落では木器を使用
古墳には鉄器を副葬
なんて珍妙なことになるw
- 907 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 00:38:35.83 .net
- 倭人伝に鉄器の記載が少ないから丹重視だとよw
鉄器なんてあるのが当たり前でわざわざ記載しなかったんだろww
鉄器が普及していない時点で
3世紀の先進国脱落が確定なのに気づいてねーwww
鉄器普及地域+王墓存在地域=邪馬台国
- 908 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 01:18:39.81 .net
- 陸行一月→一日
これだけで北部九州説完結w
墨書で日と月を書き間違えるのは十分にありうる
しかも
泥道だらけでしかも街道がない弥生日本で陸行一月は物理的に不可能なんだから
ますます一日でオッケーw
陸行一月ができた=広域国家があった=当然北部九州を中心とする広域国家があった
→他説プギャーwww
小国家の集まりに過ぎなかった=街道はなかった=陸行一月ができない
→他説プギャーwww
どうあがいても北部九州にしかならないw
- 909 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 03:55:37.38 .net
- >>907
その鉄貧乏な奈良を拠点にした勢力が日本を統一したんだがな
3世紀の時点でほぼ全国を網羅
モザイク状の勢力分布ではあるが
少しは日本史の知識も身につけておけや
- 910 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 08:45:12.41 .net
- >3世紀の時点でほぼ全国を網羅
鉄貧乏地域
鉄普及地域
あれ?
鉄普及地域の王が鉄普及地域を統一したんでしょ?
じゃあ鉄貧乏地域とはいったい???
- 911 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 08:49:10.42 .net
- >その鉄貧乏な奈良を拠点にした勢力が日本を統一したんだがな
どうやって?
>3世紀の時点でほぼ全国を網羅
>モザイク状の勢力分布ではあるが
その証拠は?
- 912 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 08:56:53.89 .net
- 紀元前
朝鮮半島からのみ鉄材輸入
博多のみに王墓
丹後に大規模鉄器工房
北部九州を中心に鉄器普及
紀元後
朝鮮半島からのみ鉄材輸入
伊都のみに王墓
淡路島に大規模鉄器工房
北部九州を中心に鉄器普及
西日本統一されてたんだなあ
半島南部も含めてかなあ
やっぱ天皇家は偉大やわぁ(反日説発狂w
- 913 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 09:17:33.79 .net
- あからさまに鉄器産業が営まれているからなあ
こりゃ九州説で決まりですね。
万行遺跡もこれで説明できるし。
むしろ否定する側に説明責任がある。
- 914 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 09:46:29.76 .net
- http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/33742201.html
製鉄・精銅地名に関する面白いブログを見つけた。
- 915 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 10:40:37.99 .net
- 971 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/07/17(月) 10:00:14.17
張政等は親善目的じゃなくて
南の狗奴国と戦う邪馬台国へ軍事顧問として訪れたわけだからな。
戦争相手の方角を間違えるはずも無かろう。
しかも倭人伝が書かれたのは3世紀。
張政等の誰かがまだ生きていた可能性すらある。
狗奴国の方角を改変する=邪馬台国論争から脱落
- 916 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 10:46:08.71 .net
- 実測について混乱してるみたいだね。
実測に関しては、距離と方角は別々に論じるべき。
距離について高度な測量技術で実測したかどうかはまた別で論じること。
方角については、太陽の方角を見たら即ち実測なわけだ。
ここは大事なポイントだから繰り返すけど、
距離の実測とは無関係に
方角の実測は、太陽の方角を見ただけで、「方角を実測」したことになる。
- 917 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 10:59:42.94 .net
- 魏使は、梯儁等(正始元年)と張政等(正始八年)の複数回に複数人が来日している。
つまり方角については、複数回「方角の実測」がなされている。
「方角の生データ」は複数回にわたって「方角の実測」で入手されており、
それが同じ3世紀に記載されたのだから、
魏志倭人伝における方角の情報というのは確度が非常に高いわけだ。
「方角の生データ」に、「季節による変動」という情報処理を行ったかどうか。
これは、壱岐対馬ルートという確定部分の方角がずれていることから、
「季節による変動」という情報処理が行われていないことがわかる。
ということは、魏志倭人伝に記載された方角データは、
季節変動という情報処理を加えていない「方角の生データ」なわけだ。
魏使達が来日して「方角の生データ」を入手した=太陽の方角を見たのは
壱岐対馬ルートから逆算すると、6月の夏至付近であり、
だからすべての方角が現代の正確な地図と照らし合わせて綺麗に南寄りで記載されることになる。
- 918 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 11:45:33.91 .net
- >>912
統一ってwww
アホなん?
- 919 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 11:58:37.96 .net
- >記紀にヒミコが記載されていないのだから
記紀にヒミコが記載されていないという天動説に固執するのはきみの自由だが、
未来永劫の敗者になることを覚悟しろ。
ヒミコは記紀でイの一番に記載されている。
これが真理だ。
■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
(4世紀初〜前)崇神
- 920 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 12:31:31.75 .net
- >>919
はい、はい、お薬の時間ですよ
- 921 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 16:53:57.85 .net
- 大分にあったのでは
との考えが捨てきれなくなっているのだが
北部九州という場合に大分は入りますか
- 922 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 17:10:30.32 .net
- 大分を捨てきれない所は何?
- 923 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 17:19:14.99 .net
- もともと小国に別れていて
それぞれの小国にはそれなりに豊富な副葬品がある古墳がある。
後に小国が旧国くらいにまとまり
その単位でも古墳が作られる。
さらに複数の旧国がまとまって女王国となり
そこでも古墳が作られる。
さて、これらをどう区別すればよいのだろうか?
自分は不可能だと考えているが。
- 924 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 17:54:01.71 .net
- 3世紀の古墳ってどれよ?
- 925 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 18:10:20.94 .net
- そもそも大分にはそれほど目立った副葬品がない。
ただの古墳ではなく、鏡や玉、特に大事なのは璧、刀など、威信材の有無だと思う。
それは福岡県に集中している。
- 926 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 18:10:58.89 .net
- >>924
平原遺跡や祇園山かな?
- 927 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 23:06:47.59 .net
- >>921
女王国の東は海だから大分も含まれるだろうな。
- 928 :九州王:2017/07/18(火) 23:33:03.87 .net
- >>887
熊本からも甕棺は沢山出土してますね
近所を掘れば出る。
神功皇后は架空の人物だから4世紀とかもないw
北部九州の郡市レベルの大きさの国邑の連合体が女王国ですね
女王の都の在った前原には7世紀には肥君を名乗る住民が大勢住んでいたから熊本との関わりも深そうですね。
- 929 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 23:57:03.31 .net
- 卑弥呼の出自に肥国と豊国のどちらかを選べと言われたら、現状では肥国を選ぶね。
その起源が筑紫にあるのかどうか(分家かどうか)は置いておいて。
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