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邪馬壹國は北部九州に在ったpart6

1 :九州王:2017/06/10(土) 10:47:31.42 .net
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。

邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。

http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1473081480/

960 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 21:38:04.26.net
>>959
大和という国があったという根拠を聞かれたら、なんと答える?

961 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 21:40:32.78.net
ここに注目!

筑紫国謂、白日別。
豊国、言、豊日別。
熊曾国、言、建日別。

肥国、言、建日向日豊久士比泥別。

肥国だけおかしいでしょ。
しかも熊襲国と被っている。

962 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 21:41:09.27.net
>>960
ちょっまってww>>957の破壊力すごくて笑いがとまんねーwww

963 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 21:43:00.88.net
>>961
だからなんだってんだよーwww
お前の脳内世界に入りたくねーwww

964 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 21:50:59.37.net
>>962
Wikiの内容がそんなに受けるのかねえ?

965 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 21:53:18.33.net
>>964
wikiから引っ張ってきたのがこれ?w

ぜんぜん根拠になってねー

もう許してww

966 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 21:56:15.35.net
いやさすがだわ
根拠の意味がわかってないんだな
ぜんぜん関係ないものを持ってきては見せびらかすわけだな
うんうん

967 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 22:02:28.19.net
普通は熊襲というと熊本県あたりを想定するが、そこは肥後だ。

熊襲タケルは屋敷の落成の祝いでヤマトヲグナに殺されて、その名を献上して自らを川上タケルとし、ヤマトヲグナはヤマトタケルとなる。
その屋敷の場所は佐賀県の川上だが、そこは肥前だ。

つまり肥国は熊襲国と同じである。
九州には、筑紫、豊国、肥国(熊襲国)の北部3国しかなかった。
ある時期において、倭国とはこの九州北部のことを指していた。
しかも南半分は国がなかった。
もちろん、本州にも国はなく、統一されていないただの倭種の地であった。

968 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 22:05:28.66.net
漢代の倭国はもっと狭く、奴国より北の対馬海峡周辺や玄界灘沿岸のみであったとされる。
倭奴国は、稲作伝来の地、三種の神器の発祥の地、漢から倭王として冊封された国である。
豊国も肥国もまだなく、筑紫のみが倭国だった。
ここから倭国の歴史が始まり、天津国の侵攻により倭国は拡大していく。

969 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 22:07:04.63.net
おいおい
テレビでスレのテンプレ行程に触れちまったぞ

970 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 22:10:28.78.net
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

971 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 22:15:48.88.net
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。

972 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 22:22:48.84.net
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、火の国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

973 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 22:23:00.81.net
卑弥呼の宮殿を埋め戻すかね普通

974 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 22:23:20.82.net
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の国々は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。

975 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 22:42:45.13.net
卑弥呼の姿を誰も見れないのに
どうやって卑弥呼が太陽の光を反射する光景を見れるのか

976 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 22:47:28.15.net
結局、吉野ケ里遺跡って何なの?

977 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 22:50:51.46.net
おいおい
さりげなく銅鐸が映ってたぞ

978 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 06:14:56.30.net
吉野ヶ里は北部九州に点在する
小国王都の一つだね。
たまたま発掘条件が良いだけで
そういう王都と思われる遺跡はいくつもある。

979 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 08:34:29.37.net
行程+日程論も、平原も、鉄器も、全部触れられて、
北部九州説にとっては勝利と言っていい内容だったんじゃないかな
おめでとう

980 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 10:41:02.29.net
吉野ヶ里は北部九州に点在する小国王都の一つである。
  
吉野ヶ里遺跡が衰退する直前には、
倭國王帥升の王都(倭面土國=倭米多國=倭都國)でもあった。倭奴國の後継王国。
吉野ヶ里遺跡の配置には漢文化の影響が視られる。

981 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 22:44:59.72.net
>>1
>また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。

「世有王」とは「魏朝成立(220年)〜新倭國認詔(238年)の時代に旧倭國王が伊都國(倭都國)に居た」ことを指す

982 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 22:50:33.02.net
>>981
「旧」倭国王なんて書いてない。
倭国王のことを書いている。
220年以降なら卑弥呼の共立後だし。
倭国王すなわち卑弥呼が伊都国にいると書いてあるだけ。

983 :日本@名無史さん:2017/07/24(月) 00:24:42.21.net
>>982
帯方郡から伊都國までの道程は11900餘里である。
一方、帯方郡から女王國までは12000餘里である。
故に、伊都國は帯方郡から見て女王國の100里手前の国であるから、
伊都國の王は、女王國の女王卑弥呼ではない。

女王卑弥呼が倭國王として魏帝に認詔されたのは238年12月である。
なお、卑弥呼が居たのは邪馬壹國であって郡から12000餘里以遠である。

984 :日本@名無史さん:2017/07/24(月) 07:29:09.52.net
>>983
倭国大乱の後、卑弥呼の前に他の王がいたなんて、魏志には書いてない。
あと、その里程なら伊都国を糸島市前原付近にして、高祖宮を卑弥呼の居城で説明がつく。
対馬や伊都も当然倭国女王の
支配下の土地だしね。

985 :日本@名無史さん:2017/07/24(月) 10:43:46.64.net
書いてあるだろ

986 :日本@名無史さん:2017/07/24(月) 11:09:35.86.net
大乱の前には男王がいた。
しかし大乱をおさめるために卑弥呼が共立されたから、大乱の後の卑弥呼の前には男王はいない。

987 :日本@名無史さん:2017/07/24(月) 11:25:09.45.net
>東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。

魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。

漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。

988 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 15:25:08.43.net
狗邪韓国が任那の前身と想定すると
一大率は畿内朝廷が伊都に置いた進駐軍であった可能性も強い。

どう考えても、軍事政治に無能と思える九州諸国には半島進出可能な水軍は無さそうなのだ。
おそらく、奈良、出雲の連合軍は筑紫を平定し、卑弥呼は神長官としての政をとったのではないか?

大和朝廷の初期九州支配は、百済、新羅同様、軍事的保護下にある
海外の蝙蝠国家として中国への朝貢を容認していた節が有る。

無能な邪馬台国に代えて筑紫の君が繁栄し、新羅と結んだため磐井の乱になった。
しかし、白村江以降は、神話の歴史も作り変えて九州は日本国固有の領土とした。

関東を制している畿内朝廷じゃなきゃ400年までに、高句麗馬の国内生産化を終えて
百済、新羅を守って、高句麗と戦える国にはならんでしょ。

倭人伝は所詮政張の九州旅行記だが、朝廷の存在は感づいていたかな?
政張にかまわれてるような、弱小国には半島進出は不可能。
邪馬台国論争の原点は半島配慮だろwww もう無理。

989 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 18:46:49.04.net
鉄器もないのにどう重武装すんの?

銅と鉄の最大の違いの一つが
武装だよ
使わない分けないし、何度も半島出兵して
大国高句麗と戦うのも鉄の威力を知るから

990 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 18:48:09.93.net
>>989
なにまた妄想してんの

991 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 19:02:22.93.net
>>988
海のない奈良盆地の貧民勢力に水軍なんかないよ。
対馬海峡の交易の独占により成長してきた博多湾沿岸勢力すなわち筑紫倭国だからこそ、朝鮮半島南岸に拠点を持つことができた。
又の名を天津国(海人の国)だからね。
その王の称号がアマテラス(海照らす)だ。

992 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 19:07:36.16.net
>>991
なにまた妄想してんの

993 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 19:21:58.08.net
どこかに鸚鵡でも紛れ込んだかな?

994 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 19:22:08.08.net
北部九州倭国の重武装
>最前列に矛隊を幾重にも並べる(出土)
>盾の中央には巴型銅器(出土)、相手の剣を受け、下手したらぶち割る
>後列には弓隊(鉄鏃あるいは返し付き毒塗りの骨鏃:出土)
>鉄剣を持った将軍が指揮(孫氏の兵法など熟読済:硯+楽浪土器出土)

畿内銅鐸国の重武装
木の棒と石鏃弓(考古学的にそれしか出てないよんw)

995 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 19:25:10.14.net
木のぼう

ドラクエみたいだな。
こりゃ九州に勝てるわけないね。
奈良は九州からの入植ですらなく、ただの流民の行き着く果てだね。

996 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 19:35:02.60.net
鉄器による生産性向上(出土)もあるから、
栄養状態も北部九州倭国のほうが遥かに健康的で、
体格的にも圧勝だっただろうな

997 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 19:38:03.81.net
妄想乙

998 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 19:49:49.22.net
妄想乙←泣いてるw

999 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 19:52:52.86.net
泣いてるという妄想乙

1000 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 19:57:44.19.net
畿内兵:HP30
ぶき:きのぼう ぼうぎょ:きのたて
えんかく:せきぞく

北部九州倭国兵:HP500
ぶき:てつほこ ぼうぎょ:ともえがたどうき
えんかく1:てつぞく えんかく2:こつぞく(特殊効果 毒100ターン)
とくしゅ:ぶんけんちしき1・そんしのひょうほう


畿内兵の攻撃!!

バキッ!

畿内兵のきのぼうが折れた!

畿内兵に5のダメージ

北部九州倭国兵の攻撃!!

ズガガガーーーーン!!!

会心の一撃!!!

きのたてごと畿内兵をつらぬいた!!!

畿内兵に9999のダメージ!!!

畿内兵A、となりのBもたおれた!

畿内兵Cは逃げ出した!

1001 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 20:08:35.68.net
>>991
だから、九州平定前に畿内は出雲を併合してるんでしょ。
出雲は、半島、能登、糸魚川、青森、沿海州、ウラジオとの交易があった海神国。

北陸、伊勢、駿河、甲斐、関東方面にも勢力を拡大していた朝廷は
軍隊を都に入れることを嫌ったから王宮が奈良京都なんだけどね。
戦争は大阪や関ケ原でやってくれよ。 
関東で集めた兵に防人やらせるとか、
ずっとそうだろ。

九州出兵時には瀬戸内海航路諸国は平定していた。
紀元前ならともかく、出雲併合後の200年以降に、逆に東遷なんてのは不可能。
淡路島製鉄、150年程度まで遡ってるよ。

1002 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 20:39:30.85.net
>>1001
出雲を征服してニニギが王位に就いたのが筑紫だからね。
畿内なんて、その頃は影も形もない。

1003 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 20:40:12.86.net
妄想乙

1004 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 20:53:25.62.net
>>1001
言っててミジメにならない?w

1005 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 20:55:23.37.net
>>1004
根拠が言えない九州説だけがミジメ

1006 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 20:56:43.30.net
>>1001
>軍隊を都に入れることを嫌ったから王宮が奈良
>淡路島製鉄、150年程度まで遡ってるよ

あらら、150年程度に製鉄してたのに、
3世紀の都に鉄器ゼロ?www

武器と誤魔化しても
鉄器ゼロで、木器使ってるしwww

1007 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 20:59:48.98.net
銅器もゼロだおw

銅鐸片だけ見つかってる銅鐸都市だおw

1008 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 21:00:27.99.net
<国会議事堂の候補たち>

【万行遺跡(石川県七尾市)】 3世紀後半〜4世紀初頭
高床建物3棟が南北方向に軸を揃えて配置 (西3棟から東3棟への移築あり)
北極星を基準とする真北に軸が合っている

東は臼池川に、北は七尾湾に面する(水運に便利)
柱穴直径1〜2m(柱直径40cm)

床面積150平方メートル 2棟(南北9.3m×東西17.2m)
床面積320平方メートル 1棟(南北18.6m×東西17.2m) 3世紀最大!!!


【稲部遺跡(滋賀県彦根市)】 3世紀後半
琵琶湖に隣接(水運に便利)
柱穴直径0.6〜1.5m(柱直径:30〜40cm)

床面積188平方メートル(16.2m×11.6m)
床面積145平方メートル など7棟


【纏向遺跡】 3世紀前半〜3世紀中旬 (土器編年マジック)
高床建物4棟が東西方向に軸を揃えて配置
真北に対して西に5度ぶれている

南北はそれぞれ川に、西は水路に面する(水運に便利)
柱穴直径1〜1.7m(柱直径:30cm)

A:床面積6平方メートル 1棟(南北1.3m×東西4.8m)
B:床面積25平方メートル 1棟(南北4.8m×東西5.2m)
C:床面積42平方メートル 1棟(南北8m×東西5.3m)
D:床面積238平方メートル 1棟(南北19.2m×東西12.4m)

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