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♪邪馬台国ドンと来い!♪135

1 :日本@名無史さん:2018/01/31(水) 23:37:15.40 .net
       ,..-─‐-..、     
            /.: : : : : : : .ヽ   
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′
          ノr┴-<」: :j|    <ソースを書きなさい!
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!           _
          /:/ = /: :/ }!        |〕)  コツン
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/
     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
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九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
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前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪134[転載禁止]©2ch.net・ http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1512648703/l50

130 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 07:16:36.01 .net
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比v命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。

131 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 07:55:16.94 .net
>>126
五百木入彦が何をやったのかググってみたが特になし。
日本武尊の兄弟。
五百木 入彦は「いほき いりひこ」だから
已百支 国の「已百支」は「五百木」ってか。
まあ、なにもかもわからないよりは、候補がいるだけマシ。

132 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 08:14:08.72 .net
>>126
景行天皇は記録に残る子供が、二十一人、残らない者が五十九人、合計八十人も居た。
若帯日子命(成務天皇)、小唯命(日本武尊)、五百木入彦の三柱のみを日嗣の皇子として扱い、
残りの皇子達は、すべて国造、和気、稲置、県主等に任命した。


多数の子のうち3人だけを皇子として扱っているのに、そのうちの一人の五百木入彦を
場所もよくわからないような辺境の已百支国の王にするのか?

ともあれ、頭文字は「イ」で、真ん中が「(まだ不明)」で、最後が「キ」だな。

133 :日本海ルート論者:2018/02/10(土) 13:28:22.58 .net
>>129
熊襲は大和朝廷の敵として神話で描かれて行くからです。
簡単に言うと他の神話との整合性をとる為ですね。

134 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 15:15:55.13 .net
>>133
狗奴国が熊襲熊本でいいじゃないか。

135 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 15:27:32.11 .net
熊襲国は古事記では日向、大隅なんだけどなあ。
熊襲国と関係ないクマソかもしれないけど。

136 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 15:33:54.87 .net
熊襲タケルの墓は佐賀県にある。

137 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 18:05:23.31 .net
>>133
>熊襲は大和朝廷の敵として神話で描かれて行く
ところが、卑弥呼の女王国は一切描かれない。
この時、狗奴国に敗戦して南限の女王宮は落城してるように思えるんだが・・・

247年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之

女王国と狗奴国の戦況を伝え、その帰国便で帳政は黄幢拝假難升米と査察に来た。
難升米と壹與に檄告喩之 は良いがなぜ前線の南限の砦に居ない?

黄幢を掲げ、戦線に向かうのが普通では?
帳政は将軍等20人を連れて帰国? なんだそれ? 
敗戦で伊都まで後退して、卑弥呼を弔ったところ、と思うんだが?

こいつらに、大和朝廷と戦う力なんてそもそも無いんじゃない?
魏は司馬氏が実権を掌握し、邪馬台国外交は張政の報告、これで終った。
これをどういう読み方すると大王なのか不思議なんだが、倭国の辺境の小国です。

138 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 18:27:29.91 .net
【卑弥呼の墓 殉葬100人について】
日本の葬儀に大規模殉葬は稀である。
だが、考えてもらいたい。卑弥呼の砦には奴婢1千人の女給である。
落城、100人が卑弥呼と落ち延び伊都で自害。 これは有りだろ?
残り900人は狗奴国の奴隷。 
または張政と亡命した、魏国将軍の已百支王ほか20人が生口献上した。 だな。
邪馬台国は滅びる。

139 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 19:39:18.73 .net
>>84
てか、>>76 東夷伝序文
然荒域之外 重譯(調査団を度々派遣した)而至 非足跡車軌所及 未有知其國俗殊方者也
の『重譯』
>>83 それと倭人伝の最後にも
評曰 史漢著 朝鮮兩越東京撰錄西羗 魏世匈奴遂衰更有烏丸鮮卑爰及東夷
使譯 時通記述隨事豈常也哉
の『使譯』
これを、通訳という当時存在しえない熟語に訳すのはミスリード以外の何物でもない

倭人伝の 『今 使譯 所通 三十國 從郡至倭』 は

今、皇帝の使者によって実際に通じた30国について
郡使の説明に拠って倭に到る行程を記す。

である。 
ここには、張政と梯儁の記録が同時代、同時期に存在する。
里程の後、日程で示せば、ソースの変更は同時代の読者が理解できて当然なのである。
馬鹿なのは日本の学校で学び古代漢文読めるつもりの
うすら馬鹿の考古学者と歴史学者だw

『重譯』=(調査団を度々派遣した)
漢や魏による『使譯』が 時に通じて(実際に行って探検して)記述隨事(記録してきた)
豈常也哉 (当たり前にできる事ではない)

これなくして、倭人伝は読了不能だが、なんで序文と後評は蹴っ飛ばす? わざと?

140 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 20:04:48.09 .net
>>139
そのようなこと言ってないで
自分で訳して示せばいいのに。

141 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 20:13:58.61 .net
>>140
訳さないでも初めから倭人伝の伝えてることは変わらんのよ?
変な読み方出来て、ご都合主義や、飯のタネになって良かったね、とは思う。

アタシとかは、ネラーで門前の厨坊なんだけど
もう、良いんだよ? 戦後レジームとか?

142 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 20:26:18.05 .net
>>139
これもひどいw

143 :日本海ルート論者:2018/02/10(土) 21:50:55.09 .net
>>134
これは>>68の、神武の大和入りは多分に倭人伝の
から発想した創作、っていう話の続きですよ。

自分は狗奴國筑後=狗古智國菊池郡説。
狗奴國は狗奴國男王卑彌弓呼と狗古智國の卑狗である狗古智卑狗の連合国家だろうしね。
とにかく筑後肥前肥後辺りの面白さは鉄板(笑)。

>>135
建日別(熊曾国)に日向を入れるか、建日向日豊久士比泥別(肥国)に入れるかの解釈の違いで、明示は無かったんじゃないかな?
熊襲に入るなら前回のは撤回するだけだけど

144 :大平洋ルート論者:2018/02/10(土) 21:54:07.28 .net
方位は間違いない---------------------------大平洋ルート

邪馬台国は畿内だが
瀬戸内も日本海も説明不可能

南至投馬國 水行二十日
   投馬國は宮崎県西都市あたり

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
南に向かい黒潮で紀伊
紀伊から陸行で女王の都

145 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:14:19.96 .net
>>143
>建日別(熊曾国)に日向を入れるか、建日向日豊久士比泥別(肥国)に入れるかの解釈の違いで、明示は無かったんじゃないかな?

そもそもこの名前の重複が不審なんだよ。
思うに、肥国は熊襲からさらに分離したんじゃないかと。
あと、宮崎の日向はおそらくどこにも含まれていない。
倭国の中にないんだよ。

146 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:24:45.04 .net
>>144
賛同します
私も以前からそう思っていますが
帰りは逆流だとか指摘を受けますが
魏志倭人伝では行きの行程を記述したもので
帰路は瀬戸内でも日本海でも良いと思いますが・・・・・

147 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:24:59.58 .net
『重譯』 

【熟語や語法の確定してない、経典訳文以前の古代漢文の読解について】

『今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭』
使は郡使 わかるか?
譯 は説明する わかるか?
通 は実際にそこに行って理解した事、見聞録、わかるか?
東夷伝序文などで示した遠隔地の中でも、倭人国に関しては『30国』有る。

『自郡』至倭 ではなく  『從』郡 なのは、郡使の説明に従って
倭に到る経路を 張政と梯儁の二人の使の譯によって説明する、ということである。

これを理解せずに、倭人伝が読めるか?

>>24 段落1 ~ >>25 段落2で 倭人伝の構造は解明され、邪馬台国は九州である。
つまり、新井白石と、本居宣長で、終わってる。

148 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:35:51.72 .net
>>144さん
大平洋ルートだと
何故 敢えて危険なルートを行ったのか疑問では??
黒潮が危険かどうかは知りませんが 急流でしょう

149 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:44:46.77 .net
>>148
>>144じゃないけど

琉球(沖縄)と中國との交流は3世紀以前にもあったと
うろ覚えだが承知している
黒潮も一考と思うけどな
ようわからんのが今の俺 方位は否定していいものかどうか

150 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:46:17.84 .net
>>147
今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
今、使訳の通ずる所三十国。帯方郡から倭国に至る

だろ。

今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
実際にそこに行って見聞してきた郡使の説明に従って
倭に到る経路を(張政と梯儁の二人の)使の譯によって説明する

こんな理解をしていていいのか?。
でも原文を読んだ気概は認める。

151 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 22:48:58.82 .net
>>149 九州ならともかく、沖縄本島以外の小さな島なんか
方角を間違えたら辿り着けないんだぜ。

152 :日本海ルート論者:2018/02/10(土) 22:51:55.60 .net
ヒメヒコ仮説が終わったら久々に原文やるかな?

>>137
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
倭女王卑弥呼と狗奴國男王卑弥弓呼は素より不和、(卑彌呼は)倭載斯烏越等を遣わして郡を詣で相攻撃する状(=さま)を説く。
(着任したばかりの帯方郡太守王頎は)塞曹掾史張政等を遣わし因って詔書黄幢をもたらし難升米に拝假し檄を為して之を告喩す。

ここいらの理解を深めるには高句麗伝と韓伝、更に毌丘倹伝を参照する必要がある。
まあ。簡単に言うと、卑彌呼の言動はかなり怪しく、狗奴國と本当に戦闘があったのか疑わしいというのが実情。

自分は卑彌呼天晴れと思うが(笑)

153 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:06:25.44 .net
>>144
大平洋ルート?黒潮ルート?
あまり賛同できないが
向う?行く?
向かうなら
「会稽東冶之東」は解けるかもしれないが
不弥国以前との整合性が難しいな

俺は却下

154 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:09:01.26 .net
>>152
狗奴国が邪馬台国の女王宮を滅ぼした状態?
諏訪に建御名方が入った、あるいは武田信玄が入った。
これで、諏訪は滅びていないし、江戸期以降も守矢神の統治は続く。
日本の戦国で本当に滅びた豪族はどれだけある?
おまえらが、古代日本の皇室の価値が判らないなら邪馬台国も理解できんと思うぞ?

155 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:15:16.04 .net
>>119
短絡的では
当時の根拠より現代の根拠の方が数段上だよ

156 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:17:21.98 .net
>>155だが

>>119
当時は文献が頼りだよ
いまは当時の文献+遺物

157 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:18:31.82 .net
失礼

いまは当時の文献と変わらぬ文献+遺物

158 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:23:58.28 .net
>>150
そうじゃなくて、中学生でも辞書一個で読めるように
倭人伝の、文節と改行、段落を設定してみたんだぞ?
ご意見募集中だよw

門前の厨坊のアタシが習わぬ経を読んでんだよw

159 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:25:47.82 .net
>>154さん
狗奴国が邪馬台国の女王宮を滅ぼした状態? ☛難解
諏訪に建御名方が入った、あるいは武田信玄が入った。☛時代考証が・・
これで、諏訪は滅びていないし、江戸期以降も守矢神の統治は続く☛これも時代考証が・・諏訪は記紀以降であり諏訪なる記述の文献が
日本の戦国で本当に滅びた豪族はどれだけある?☛しかりだが、戦国と比べるのは????
おまえらが、古代日本の皇室の価値が判らないなら邪馬台国も理解できんと思うぞ?☛飛躍しすぎ

160 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:28:59.31 .net
>>144
紀伊半島に船が棄てられてるわけねw

161 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:31:55.84 .net
>>158
零点です、やり直し

162 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:35:52.45 .net
>>159
中学生的には想像力を否定する
学問としての考古学的手法というものは否定しないよ。
でも、アタシの想像力で倭人伝を読了したかったという結果は変わらない。
評価には感謝です。

163 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:38:45.18 .net
>>160
倭船か魏船かはそれ以前の行程で議論でもありますが
捨てたというより船が着いた所だと理解していいのでは

164 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:46:13.63 .net
>>163
帰りの船どうすんだよ
着いた船どうすんの

165 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:46:39.99 .net
紀伊半島は倭国か否か?畿内説に紀伊は含むかどうか?

私見では
紀伊は邪馬台国の領地
根拠・・陸続き、熊野古道、▲も出土 記紀にも記述 
    紀伊を狗奴国とする研究者がいない

166 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:54:47.93 .net
>>165
250〜300年には銅鐸圏の軍事的掌握は終わってるんじゃないです?
じゃなきゃ、古墳時代来ませんけど?

167 :日本@名無史さん:2018/02/10(土) 23:56:10.13 .net
皆さん
勉強に成ります

どなたかお教えください(いろいろな意見あると思いますが、できればで結構です)
畿内説では紀伊はどのよう圀❓位置づけ❓になりますか
                   南紀田辺在住です
                  

168 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 00:07:59.03 .net
和歌山、阿波、淡路、畿内、吉備、出雲、能登、越、濃尾、東海、関東
これが、大和朝廷の前身でしょ? 奈良遷都は250年以降。
九州邪馬台国、倭人伝との本州朝廷並立、整合性は担保されてます。

歴史上の事実としては
取り繕った神功皇后の嘘が倭の五王とかで、ばれちゃってるんだよねwww
卑弥呼は実在、神功は神話、中学生でもわかると思いますよ。

169 :日本海ルート論者:2018/02/11(日) 00:17:25.05 .net
>>145
今一つ分からないな。

>>154
魏は正始6年に半島の反魏勢力を一掃する大戦争を開始。
同年、難升米に黃幢を下賜し、帯方郡太守に委託。
正始8年に副将である玄菟郡太守王頎が南下し、戦死した前任者に変わって帯方郡太守に到官。
この時点で魏による半島の植民地化戦争は完結したと考えて良い。
そして、このタイミングで載斯烏越がヒョッコリ現れて狗奴國との戦争の状況を伝えてくるという(笑)

170 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 00:25:07.57 .net
>>168
有難うございます
畿内説が正しいかどうかは分かりませんが
畿内説では紀伊(和歌山)も邪馬台国の領域ですね

有難うございます

171 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 00:36:25.82 .net
>>170さんへ
畿内説は誤解を受けやすいのですが・・マスコミにも問題があります
畿内説の邪馬台国の範囲は大和(現時点では纏向が中心軸・・説では)
およびその周辺を邪馬台国とする説ですぼんやりとしてますが
各説同じですが領域はぼんやりしてます
例えば北部九州説の代表的な説は平原を頂点とし
邪馬台国の範囲はぼんやりしてます

172 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 00:40:07.76 .net
>>171
違う説もある
平原は卑弥呼の墓で邪馬台国は久留米周辺

173 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 00:41:40.47 .net
>>171
範囲はぼんやりするのが当たり前だろ。
関西人の住む範囲はどこからどこまで?
と言われるようなもの。

174 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 00:44:08.37 .net
>>171
中心軸は纏向で無く葛城

175 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 00:46:55.27 .net
>>172 邪馬台国へは魏使らを来させたくなかった
みたいだし(久留米ならわずか陸路数日の近さ)
邪馬台国は女王の都ではあっても、平原付近で
活動してたみたいなんだよね。

176 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 00:49:55.96 .net
キウスが暴れていたのね

177 :日本海ルート論者:2018/02/11(日) 01:13:42.88 .net
>>167
銅鐸ぐらいまでは、瀬戸内経由の物資を東国に流すには近江が重要なルートだったんだろうと思います。
日本海ルートの物資も経由できるのが近江の利点で、つまり大袈裟に言えば、東海(当時は巨大な伊勢湾)を含めた3海の中心となり得た訳です。

その後、記紀を読むに丹波から大和を経由して伊勢に流すルートができます。
大和は元々河内を経由して瀬戸内海ルートを引き込めるので、大袈裟に言えばこちらも3海の中心となり得る訳です。
因みにここで重要なルートは三輪山の南を経由して伊勢に抜ける陸路です。これは銅鐸の頃からあったようですが。

南紀田辺だとルートは海路だと思いますが、地図上の面積から見て単独で國名を持つ規模では無さそうです。
ですが紀ノ川から海路経由と日程的には近そうなので邪馬壹國七萬戸の一員だったりするかも知れませんよね。

178 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 01:20:57.08 .net
陳寿と同時代の倭国女王はトヨ
倭人伝執筆時は卑弥呼は死んじゃった過去の人なんだよね

179 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 02:54:23.02 .net
史実の神武天皇を抹殺した津田“記紀罵り史学”の弟子達
──真赤な“嘘と偽造の古代史”を粉砕し、赤い古代史を粉砕しよう
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/08/133547

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

津田史学の継承者は全員、津田と異なって、共産党員や狂信的なコミュニストばかりで例外はゼロ
津田“記紀罵り史学”の嫡流的な直系弟子は、具に調査すると十名をはるかに超える。
後世への悪影響が大きかった者に限定すると、井上光貞、直木孝次郎、水野祐、上田正昭の四名が、その筆頭
津田史学を活用して天皇制廃止運動とカネ稼ぎに没頭した江上波夫は、津田史学の直系弟子ではなく、津田史学の便乗組。

今では一笑に付されて誰も信じない荒唐無稽な三文小説扱いになった、江上波夫の“お笑い狂説”「騎馬民族征服王朝説」をとりあげる。
「騎馬民族征服王朝説」を妄想した江上波夫の頭の中は、簡単に言えば、こうだ。津田左右吉の妄説「日本の大和朝廷は、崇神天皇でもって、突然に畿内とその周辺に誕生したのであって、
それ以前の天皇は神話にすぎず歴史上には実在しない」に従えば、崇神天皇は日本の外からやってきたことにすれば、話の筋が通るではないか。
これが、「そうだ一発、有名人になって金儲けしよう」とばかり、
「他の日本国内のミニ国家群に比すれば強大な武力を初めて保有する崇神天皇は朝鮮半島の《任那》に造営した宮城から日本に渡り九州を征服した」との荒唐無稽で耳目を引く
デッチアゲ嘘歴史を、江上が捏造した動機であった。

 江上は、この嘘フィックションに続けて、第二の嘘フィックション「畿内制覇は、応神天皇がなした」を嘯き強弁する。
つまり、天皇による日本統治は、外来民族である天皇族(=天神あまつかみ族)が、九州と畿内を二段階で征服して始まったとの、“妄想も度外れの反・歴史”。

だが、ここで一つだけ喚起しておきたい事柄がある。
江上波夫は、北朝鮮の金日成に四回も直接会いに行ったように、金日成崇拝の“北朝鮮の犬”であった。

180 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 03:02:31.05 .net
>>171
別に平原頂点じゃないし

181 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 06:32:09.90 .net
>>180
指摘通り 平原は卑弥呼の墓の有力候補地(九州説では)

182 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 06:34:23.02 .net
平原を含めた範囲が邪馬台国(九州説では)

183 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 07:04:56.10 .net
>>168
>和歌山、阿波、淡路、畿内、吉備、出雲、能登、越、濃尾、東海、関東
>これが、大和朝廷の前身でしょ?

これ全部、忌部が拓いていった所。 倭国(阿波)のお陰ですね。  @阿波


>奈良遷都は250年以降。

倭国(阿波)からの奈良遷都は、8世紀持統朝から。  @阿波

184 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 07:09:28.90 .net
そろそろ頭の病院に行け、
渡来人の話

185 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 07:13:05.80 .net
阿波だか、どこだか知らないけど
そろそろ大きな大震が来るから、
気を付けてと言ってる人がいた

いつ来るのかは、知らないけど

阿波ではなくて南海?

186 :日本海ルート論者:2018/02/11(日) 09:19:14.36 .net
やっとできた。ひとまず発表。

>自郡至女王國萬二千餘里。

1泊=100里で解くらしい。
何故なら古代の儒教の観念論では1國の周囲は100里だったから。
簡単に言うと里程は全て日程を変換してたっぽい。

@まず馬韓55國、辰韓・弁辰24國の合計が79國。
 コレを縦40國、横40國に並べようとすると角の1國が重複して省けるので丁度、計79國で済む。
 1國の距離は100里なので、方4000里の正方形が韓の面積となる。実際は違うけど。
A狗邪韓國までの7000里は郡から海岸沿いに南4000里、東3000里で至る。
なのに何故か高さ4000里、底辺3000里の直角3角形の斜辺5000里、つまり内陸の陸路を使う。
これは多分に半島の植民地化を誇るものだろう。実際本国からの援軍がない時、郡の連中は海岸から離れられないだろうけど。
ともかく【ここまでで5000里】
Bここが今まで流石に踏み込め無かったんだが。3渡海3000里も日程。1泊漕ぎ続けられる筈も無く1渡海は1日で済む。故に3渡海で300里。
【ここまでで5300里】
Cここは里程通り。末盧國から伊都國まで500里。伊都國から奴國が100里。奴國から不彌國までが100里。計700里。
【ここまでで6000里】
D不彌國から投馬國までが水行20日で20日×100里=2000里。更に投馬國から邪馬壹國まで水行10日陸行1月(30日)で40日×100里=4000里。計6000里。
【ここまでで12000里】
Eこうした報告書の記述の裏を読んだ編纂者が「周旋可五千餘里。」を現在の位置に編纂し直し、〔疑わしき記述のくくり〕というメッセージを文脈に含ませた。

187 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 09:27:27.94 .net
>>186
投馬国の比定地は何処?

188 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 10:31:38.99 .net
>>182
平原(伊都国)は、元の伊都国王には
任せておらず、邪馬台国の役人が来て治めている土地
なんだよね。
邪馬台国の分国みたいなものだから、伊都国も邪馬台国の一部ともいえる。
他の小国はそれぞれ王がいるから、女王連合の管理下とはいえ見張ってなくてはならない。(一大率で)

魏の使節のうち2回目のときは(張政)、卑弥呼の墓見て
台与とも会っているのに、邪馬台国の本国まで出掛けたような
記述が乏しい(里行程もなし)。
平原(伊都国)で用件の殆どを済ませてしまったんじゃないか

189 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 10:40:02.12 .net
>>186 足し算メインの論というのが独特だな。
1泊=100里か。ずいぶん短いが陸路ならそれでもいいだろうね。
と読み進めて、
>>投馬國までが水行20日で20日×100里=2000里。
ここの記述が、船で一日100里ではおかしいんじゃ?。かといって
もっと大きな数値を使うと九州から飛び出してしまう。

190 :日本海ルート論者:2018/02/11(日) 14:02:09.33 .net
>>187
投馬國の比定地点は妻木晩田、
比定領域は福岡県宗像から鳥取県岩美郡周辺までですよ。

>>189
多分>>186ので合っていると思いますよ。
いや本当色々振り回されたけどねえ(笑)

191 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 18:39:31.80 .net
>>190 南だといってんのに
また東にするのか?。
そういう解釈はよくないのはわかっているだろ?

192 :日本海ルート論者:2018/02/11(日) 19:31:08.74 .net
>>191
伝聞から船上の方位を推測したから、南と勘違いしたんです。

ここら辺は論理的に説明できますよ。

193 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 19:35:19.91 .net
どこが勘違いが論理的なんだよ  

194 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 19:37:54.24 .net
>>188
>平原(伊都国)で用件の殆どを済ませてしまったんじゃないか

女王に接見するという用事が済んでしまうということは、、、

195 :日本海ルート論者:2018/02/11(日) 19:38:12.05 .net
>>193
所で貴方は船上の方位をどのように測定しますか?
勿論、夜は座礁の可能性があるので昼間の話ですよ。

196 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 19:42:04.49 .net
>>195
出来たら苦労はない

197 :日本海ルート論者:2018/02/11(日) 20:09:05.81 .net
>>196
ありゃ。

從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里
郡より倭に至るに,海岸に沿って水行し,韓國を経て,たちまち南したちまち東し,その北岸の狗邪韓國に到る,7000余里。

朝鮮半島の沿岸をGoogle Mapとかで確認すると物凄く入り組んでいるんですね。
この入り組んだ沿岸をどうやって航海するか。

沖に出過ぎたら潮に流され遭難する危険があるので岸から離れ過ぎないようにし、かと言って入り組んだ岸に近過ぎないように、
【太陽の位置と山並みなどの風景情報を手掛かりに逆戻りしないように船を進めて行く訳です】

その描写が「乍南乍東(たちまち南し、たちまち東し)」。これは南に行った後で東に行くではなく、乍東乍南(たちまち東したちまち南し)でも正解なんですよ。
多分に早朝から昼間までの太陽が東から南へと登る間に船を出し、その位置を頼りに後戻りしないよう船を操作する様が描かれている訳です。
この表現は元々長かった文章を編纂者が短くしたものかも知れませんが、非常に端的で簡潔な美文だと思います。

つまりですね。この時代において昼間船上の【方角は太陽と山並みなどの風景情報を手掛かりにして知る】
そして、仮に絶対方位のみを知ろうとすれば【太陽の向きだけがその手掛かりになる】ということです。
ココまで書けば後は分かりますかね?

198 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 20:35:05.87 .net
>>197
曇りや雨降りの日はどうすんねん?

199 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 21:52:15.66 .net
>>194 台与は筑紫平野の土田舎よりは
奴国付近の都会の方に住みたかったんだろ。
都会に住んで田舎に戻らないのは現代でも同じ。

200 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 22:40:41.94 .net
>>197

方位は誤認で無く
其の後の誤写だと思います

まず、当時方位をどのように認識したかです
   1、太陽
   2、星座(特に北斗七星)
   3、海流

方位の誤認はあり得ないと思います、いわんや船乗りは
陸上での誤認はあり得るかも知れませんが海上では間違わないと思いますよ

201 :大平洋ルート:2018/02/11(日) 22:42:49.62 .net
方位は太平洋ルートなら容易に解決できますが・・

202 :日本海ルート論者:2018/02/11(日) 22:51:48.10 .net
>>198
曇りや雨降りの日というよりかはシケになりそうな日は出ないでしょうね。
雨の日には外で作業する大工などは休みますし、台風の日は農家も休みです。

>>200
貴方が古代の船乗りなら、船上の方位を確認しながらどう操船しますか?

そして、それをどう人に伝えますか?

203 :誰か助言を:2018/02/11(日) 23:47:11.93 .net
「事鬼道能惑衆」について
独裁者としての卑弥呼と考えてよいか(北朝鮮の将軍?)

「名日卑弥呼 事鬼道能惑衆」までの記述では秩序ある平和な国と記述されているが・・・ 

204 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 23:57:04.39 .net
>>202
シケに出るアホはいない。
シケでなくても曇りの日はどうすんねん?

205 :日本@名無史さん:2018/02/11(日) 23:58:10.78 .net
結論は

倭国は存在した
魏国は倭国に使者は送っていない


邪馬台国は無かった
卑弥呼は存在しなかった

倭人伝は中華思想が生んだ偽作

206 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 00:11:15.26 .net
>>295
なんとなくわかるような
九州(倭国)までの交易は魏もあったかもしれないが
中華思想まるだしの倭人伝だと思う

中國で古代女王国家が無い(男尊女卑)
鬼道
中国の朝廷に貢物をさせる

偽書で見下すことが日本(倭国)よりも内外に権力を示す手法では

207 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 00:14:38.92 .net
>>206
そういう考えも否定はしないが???????????????????????

208 :日本海ルート論者:2018/02/12(月) 00:31:12.74 .net
>>204
曇りの日に太陽が見えて山並みなどの風景情報が得られるなら。
オマケで言えば【相対方位】が分かるというなら船出すれば良いでしょう。
自分なら曇りなら出航しませんけど(笑)
出航限界時間まで晴天になるのを待っても良いですけど、この先の天候がどうなるかわからないなら1日待つでしょうね普通は。

何を聞きたいのか今一つよくわかりませんけど、一つ付け加えて置きますが〜

例えば「水行20日」なら、天候不順の場合は当然20日以上かかりますよ。
倭人伝にかかれている「水行20日」は【日程距離】であり、晴れている時にかかる移動距離を示しています。
雨で仕事が流れてしまうペンキ塗り等でお客さんに物件を引き渡す「作業工程」とは違いますよ。こっちの場合は頑張って20日以内に塗り切らないと罰金となります(笑)

209 :日本海ルート論者:2018/02/12(月) 00:55:32.92 .net
>>203
卑彌呼の一声で決定が下されるという意味では独裁者でしょうね。

卑彌呼は巫女で、大衆が卑彌呼の判断を間違っている、卑彌呼の力が落ちた、と思えば殺されるぐらいの存在でしょう。持衰と本質は同じです。
そういう意味では、卑彌呼は自分が祭り上げられている状況を冷静に判断して、皆に都合が良く、或いは自分の地位が確保されるよう神のお告げを捏造していたでしょう。
だから、彼女なりに支配者としての高揚や自尊心は旺盛だったでしょうが、その実その存在は奴隷とも言えるような気がします。

210 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 01:08:47.56 .net
大衆に殺された巫女って誰よ

211 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 01:29:30.76 .net
>>186
見事にぴったりじゃないの
おめでとさん

212 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 02:12:30.57 .net
卑弥呼がしていたのは、兵や征服民の教化。
当時はまだ融合が進んでおらず多民族。
それを鬼道で纏めていたんだろう。

213 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 07:49:54.50 .net
卑弥呼は独裁者?人殺し?
天皇も独裁者?人殺し?
今天皇の家系は?

214 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 08:38:38.38 .net
>>205
倭国と日本国は違うんだ。

215 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 08:51:43.38 .net
>>214
>倭国と日本国は違うんだ。

痕跡が示している
倭国=7世紀までの「阿波」
日本国=8世紀の持統朝以降の「大和」  @阿波

216 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 17:01:46.77 .net
以下の主張は○Or×??????
   ↓
>>>>「魏志によると卑弥呼は邪馬台国から選ばれた
倭国の王だとは書いてあるが邪馬台国の王だとは書いてない」
倭人伝の魏との往来の記事によれば、卑弥呼は「倭女王」「倭王」と何度も記されています。
(おまけ)
魏志倭人伝には「其」が何度も使われていますが、魏志倭人伝の見出しは「倭人」ですから「其」=「倭人・倭など」とするべきです。
「其国」=「倭人の国」、「其風俗」=「倭人の風俗」になります。
「倭人の国」は省略して「倭国」でも構わないでしょう。 <<<<<

217 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 17:03:54.36 .net
追記
邪馬台国の王は別にいて
卑弥呼は邪馬台国から選ばれた倭王と言う主張だと思うが

218 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 17:11:39.70 .net
>>216
>「倭人の国」は省略して「倭国」でも構わないでしょう。

その「倭国」は、「倭大國魂神社」が日本で唯一鎮座する「阿波國」ですね。  @阿波

219 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 17:15:13.98 .net
東夷伝序文
然荒域之外 重譯 而至 非足跡車軌所及 未有知其國 俗殊方者也
の『重譯』
倭人伝の後評にも奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
評曰 史漢著 朝鮮兩越東京撰錄西羗 魏世匈奴遂衰更有烏丸鮮卑爰及東夷
使譯 時通記述隨事豈常也哉
の『使譯』

これを、通訳という当時存在しえない熟語に訳すのは、邪馬台国が
九州の小国であることを隠蔽するためのミスリード以外の何物でもない

倭人伝の 『今 使 譯 所通 三十國 從郡 至倭』は
今、郡使の 説明する 魏と通じる30国について
郡使の説明に從って 倭に到る経路を記す〜

まず、因齎詔書黄幢拝假難升米で伊都へ行った帳政の説明で、
伊都に至った行程が示され、近隣国の様子として、奴国、不彌国を記した。
30国にはそれぞれ王が有るが統べて女王国に属すと説明された。

次に説明され尽くしていない30国について
奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王で女王国南限の卑弥呼の王宮に出向いた
梯儁の行程と、調査した20数国を記した。
これが倭人伝の段落1 >>9 段落2 >>10 『今使譯所通三十國從郡至倭』である。

南至投馬國 水行二十日  南至邪馬壹國 女王之所都水行十日陸行一月
国名が 北岸狗邪韓國→投馬国  女王国→邪馬台国となり
里程が日程に書き換わっていることでソースの変更は明らかなのである。

政は卑弥呼を倭王として皇帝に紹介した帯方郡の正統性を過大評価で偽装している。
司馬氏が馬鹿でないなら、これにて偽倭王との交流は終わって当たり前なのである。

220 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 17:54:59.44 .net
>>217

北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)

南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)   

なんですよ  @阿波

221 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 17:56:11.26 .net
>>217
卑弥呼は下記の「邪馬台国勢力」の中から共立されたんですよ。 至って明確でしょ。  @阿波

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

222 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 19:38:22.41 .net
>>219は頭の良さと馬鹿さが混在してるね。

223 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 21:03:26.69 .net
>>222
考古学でも >>3 の資料に
周回5千里で、邪馬台国24国を当てはめていけば
必然的に新井白石の山門、瀬高説になるでしょが?

原文は九州以外ありえず
邪馬台国論争を飯のタネにしてる学会、学者が
わざと馬鹿のふりして原文でミスリードしてるだけの事。
じゃなきゃ、ただの馬鹿。

南は南だし、一月行は2千里。
原文に間違いがある可能性なら二か所のみ

始度一海 → 始度渡海か始渡海
計其道里當在會稽東治之東 の 道里 → 道理 

東は?だが、この文は太伯の後を削除して混乱が有る。
東は由、有などの可能性だが、東という文字の字義にも起源の意味はある。
會稽東治之東 文学的に韻踏んでて、会稽頓知のトンとかなら楽しいwww

224 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 21:17:33.68 .net
日本海ルートは倭人伝無視のルート

225 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 21:20:45.82 .net
畿内説で邪馬台国の地を比定地は太平洋ルートしか解明できない
方位 距離 水行 陸行

226 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 21:40:32.60 .net
>>225
大平洋ルートは痛いルート

でも畿内説の主流じゃない

日本海ルートも畿内説の主流じゃない

227 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 22:02:42.68 .net
大平洋ルートは✖

228 :日本@名無史さん:2018/02/12(月) 23:37:50.42 .net
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif

229 :日本@名無史さん:2018/02/13(火) 01:42:44.64 .net
重?(重譯)
http://www.zdic.net/c/d/ed/241295.htm

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