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♪邪馬台国ドンと来い!♪135

1 :日本@名無史さん:2018/01/31(水) 23:37:15.40 .net
       ,..-─‐-..、     
            /.: : : : : : : .ヽ   
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′
          ノr┴-<」: :j|    <ソースを書きなさい!
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!           _
          /:/ = /: :/ }!        |〕)  コツン
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/
     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
      仁二ニ_‐-イ  | |      ∩`Д´)
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   └-' ̄. |  |_二二._」」__ノ

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
 出来るだけソースを出して後はお好きに!
 *良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。

前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪134[転載禁止]©2ch.net・ http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1512648703/l50

323 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 19:11:10.28 .net
情報源という視点から考えてみてもいいかもね。

@見聞録から、魏使は伊都までしか来ていないのは確実。
考古学的にわかっている奴国の喧騒や工房群が全く書かれていないからね。
実際に、女王国以北はわかるけど、それより遠くは詳細不明と断っている。

A奴国から奴国までの数十カ国や、狗奴国の記載は、魏使の見聞ではなく、
伝聞。

B>>322の、女王國東渡海〜以降の段落は、別枠だから、
倭種の国々や、周旋可五千餘里などの情報は、また別の情報源かもしれない。


じゃあ、陳寿が得ることのできた情報源としては、
・漢代からの記録
・魏使の直接来訪
・魏使が倭人から聞いた伝聞(&魏人が倭使者から聞いた伝聞)
・倭から送られた生口たちからの情報
などがある。

それぞれを盛り込んで作られたのが倭人伝だろうね。

324 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 19:17:12.96 .net
>>323
妄想はたのしいね

325 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 19:31:16.85 .net
>>322
>又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

魏志倭人伝の不思議な記述のところだね。
ポリネシアの大航海の人だろう・・ポリネシアの人の
起源は台湾あたりらしいから。
イースター島へいかだで渡ったハイエルダールの話は有名だが、
実際は、ポリネシアの人が南米に到達して、南米から帰ってきてイースターに
たどりついた模様。
船行一年という行程は不可能に見えるが、古代の時代には
すでに可能だった。

326 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 19:32:15.27 .net
>>322
船行一年かかる状況はありえますよ。

「裸國や黒齒國の生口」が北部九州邪馬台国へと連れてこられて、
さらに魏へ献上された場合です。

北部九州のお偉いさんや武人であれば、立派な船で各港を優先的に発着して
魏志倭人伝の難升米や魏使と同じ速度で船行するでしょうが、
身分の低い者達であれば、
粗末な船で各地を転々としながら、足止めもしょっちゅうくらいながら
北部九州へと送られたはずです。

そうなると、彼らの体験としては、1年近くかけて故郷の裸國や黒齒國から
北部九州邪馬台国へ辿り着いたことになります。
それを魏で直接陳寿に話した。

この場合であれば、船行一年かかることがありえますね。

327 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 19:34:51.78 .net
>>323
>陳寿が得ることのできた情報源としては、

倭の使節が、魏の宮殿にやってきて
その倭使節からの情報、というのが、
・倭から送られた生口たちからの情報
よりも情報としては上だな。

328 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 19:39:19.67 .net
>>327
情報の格としてはもちろんそうですが、
倭の使節は狗奴国との戦いを中心に話しただろうから、
九州内のことで話題がいっぱいだった可能性が高いですね。
東方のことは東方からの生口からの情報を
少しだけ紹介したのかもしれない。

329 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 19:45:30.50 .net
たしかに奈良時代の租庸調を自前で平城京へ運ぶのは九州からだと命懸けで1年くらいかかっていたらしいな

330 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 19:52:19.43 .net
防人(さきもり)は東国から送られて、九州に辿り着くまでに数ヶ月はかかって
生きて帰れない可能性も高かった。

331 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 20:06:25.84 .net
妄想は楽しいかい?
畿内なんて魏志倭人伝に出てこないところに無理矢理邪馬台国を持っていくために苦労しているね!

332 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 20:56:20.62 .net
>>323
倭使からの情報が抜けとるな

333 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 21:15:06.07 .net
>>332
それはすでに>>327で指摘して、
>>328で返答をもらったぞい

334 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 21:22:14.51 .net
>>326
種子島から東南に一年間船を漕ぐっていう旅程が
方角の維持や海流、寄港地の特定と食料や人足の維持、で有り得ないって話だよ?
ポリネシア人の情報を地図にした、でいいけど ポリネシア人ってすごいねw
でもこれは、中国の船での話じゃなきゃ海図の意味ないし。
つまり、一月だの一年という図面上の距離でたどり着くのと現実の旅程は別。

335 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 23:14:26.30 .net
渤海使は、遣隋使や遣唐使なみに頻繁に行われたが(これは日本が受け入れる側)、
これのルートにしても、ウラジオストックのあたりから、冬期(!)の季節風に乗って
日本海を横断して日本海側の港を経由して京都に入った。
帰りは風も潮流も逆向きだから北上して北海道、樺太方面まで行ってから、リマン海流
の流れに乗ってそこから南西部に向かって、つまり日本海を一周するという大航海で
行われたんだぜ。古代の航海は予想以上。

336 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 23:39:01.41 .net
というか、弥生時代の末期は、中国は漢の時代だが、
シルクロードが作られた時期でもあるわけで、西欧との行き来は陸路を使っては
いたが、海路は中国から東南アジア、印度まで交易が行われていたから、
その船が沖縄および九州に寄港したとすれば航海1年とか普通にありえるんだわ。
1年といっても季節風が1年の季節で逆向きになるのを利用するので、風待ちの待機日数が長いけど。

337 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 23:48:34.47 .net
沿岸航行と渡海は全然違う
台湾にも行けなかったくらいだからな

338 :日本@名無史さん:2018/02/21(水) 23:58:59.68 .net
>>337
倭人はできなかったけど、東南アジアの人は
できたんだよ。漢帝国という大きな利益のあがる
国があったんだし。その脇っちょの先には倭人の未開地あり。

339 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 00:07:12.04 .net
ムリだよ

340 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 00:08:14.55 .net
弥生時代に帆船があったのか

341 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 00:10:32.80 .net
>>339
http://www.kobemantoman.jp/sub/SR.gif
当時の日本は未開地だったからムリだと思うのは仕方ないが、
印度でも中国でもとっくに文明国になっていたの。

342 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 00:13:06.84 .net
>>340
倭人の舟には帆船は無いかまたは原始的な帆しか
なかったが(のちの古墳の埴輪で帆柱の穴を再現したものが出土した
ものがあるが弥生時代を過ぎて古墳時代のもの)
漢の時代には漢には帆船はあったよ。兵士を陸送できるほどの大型船。

343 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 00:27:08.99 .net
>>341
時代がかなり違うんじゃね

>>342
渡海船じゃないよね

344 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 01:08:14.26 .net
魏志倭人伝を読む限り、対馬海峡を渡海する技術は倭人だけが持っていて、対馬海峡の両岸を支配していたのだろう。
筑紫倭国の天津神の財力の根源は、対馬海峡の権益だろうね。

345 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 06:34:09.07 .net
>>342
>>344
>渡海船じゃないよね
その通り。

阿保な連中は、穏やかな湖かなんかに船を浮かべるイメージなんだろうなあ。
帆船だろうが初見の木造船で渡れる海じゃない。
日を間違って出港したら木っ端微塵。

壱岐対馬の卜占の人たちも、案外気象や潮流の変化を読んで、
科学的に渡海方向を計算して、
それをありがたいお告げの形で暗示していたのかもしれないよね。

346 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 07:19:34.86 .net
計算というよりも、あっちの方角で出航したら酷い目にあった、
こっちの時期に出航したら遭難した、
という犠牲多数の体験から、ルートや時期が確定していったんだよ。

347 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 07:24:25.64 .net
とくに9月10月の秋は、東シナ海を台風がウロウロしているのを
天気予報でよく見かけるだろ。航海は春から夏がベストシーズンだが
秋はそれほどでもないのは、台風が来るから。
遣唐使らがよく遭難したのは、皇帝の正月の挨拶にいくため秋に出航したからだ。

348 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 10:44:18.51 .net
age

349 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 12:25:28.46 .net
age

350 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 16:20:41.20 .net
日本に帆船の歴史が始まるきっかけが邪馬台国問題なんだけどね。

卑弥呼朝貢の238年は魏への、倭や韓、北方の朝貢が止まる原因となった公孫氏から、
半島への大量の軍船による奇襲によって楽浪帯方郡を奪った年。
遼東を挟んだ戦中であり、軍船は豊富にあった。

この時に卑弥呼の朝貢使が帯方郡に来たので
郡は軍事同盟に願ってもない、倭王の使者として洛陽に送り厚遇した。
ところが、245年の高句麗蜂起や韓の反乱の九州の屁タレ小国は援軍を送っていない。

247に卑弥呼の方が援助を要請したので、張政は檄をもって査察に来た。
倭国王と思わせぶりの卑弥呼は案の定九州の弱小国の王だったし、死んで国は乱れていた。 

この経緯が記されたのが、魏志倭人であり
ちゃんとそう、書いてある。 おわり。

日本の帆船はこのころ以降の半島進出活発化から始まって
外洋船として成功したのは黄海を渡った400年付近からだろうね。

351 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 17:03:46.02 .net
>>350
その200年前にも「漢委奴國王」なんて金印を贈ってるくらいですから
弱小国の王ってことは無いんじゃない?

352 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 18:07:28.46 .net
その奴国すらを屈服させたのが邪馬台国だから、
倭の国の代表としての格はあるだろう。
あらためて金印を贈ったぐらいだから。

353 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 18:44:31.45 .net
>>350

>倭国王と思わせぶりの卑弥呼は案の定九州の弱小国の王だったし、死んで国は乱れていた。 
根拠なし

>日本の帆船はこのころ以降の半島進出活発化から始まって
>外洋船として成功したのは黄海を渡った400年付近からだろうね。
根拠なし

354 :353:2018/02/22(木) 19:23:31.73 .net
全否定する天才の俺
ってカッコいいだろ?
=中2病

355 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 19:24:43.91 .net
要するに馬鹿ってことです。353が。

356 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 20:32:41.23 .net
>>353
根拠なし、って文言が間抜けなのは根拠が倭人伝原文である
♪ドン来いスレ だからです。

>倭国王と思わせぶりの卑弥呼は案の定 九州の弱小国の王だった

>日本の帆船はこのころ以降の半島進出活発化から始まって
>外洋船として成功したのは黄海を渡った400年付近から

根拠は示してないけどw 倭人伝ちゃんと読めば明らかだろ?
新井白石と本居宣長で終ってるもんを、ちゃぶ台返しした、根拠を言ってみ?

皇国史観の記紀や 近代史の大韓帝国の定義で
古代韓が日本の植民地だったことが都合悪いから、は無しだよwww

アタシの勘だとw 土器厨の広鼻先生がホントの事言えば良いだけじゃね?
ここに、明白な文献の有る、古代九州を古代史隠蔽に利用すんのって許せんね。
てか? どんだけ馬鹿なの???
倭人伝読めば?

357 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 21:24:16.98 .net
御釜

358 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 21:42:21.52 .net
>>351
邪馬台国以前に韓四郡の統治を失った漢
それを奪っていた公孫氏が一年以内に滅びる状況で
奇襲を仕掛けた魏が戦勝状態の帯方郡に朝貢した外洋の大国、
倭の大王を偽証した九州の一部、周回5千里だけの
小国の王が倭王卑弥呼という認識は基本だね。

中国人が見て現地語音訳で命名した邪馬台国の、
北部九州で共立の宗主国を
どっから、どう見ると、倭国統一期の大和王権の畿内説だよw

中国人の認識に瀬戸内海どころか
九州と四国の別も無いだろ?

邪馬台=大和の根拠なんて有るわけ無いだろ?
記紀と倭人伝は同時期の時系列で同時に有る、別の歴史だろ?

359 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 22:07:03.35 .net
>>357
所詮、アタシも名無史さん なので許しますが、
君が小学生なら、以後、アタシを、お姉さまと言うようにw
女子中学生も参加してますので、
下品にならないようにおながいしますwww

360 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 22:10:46.27 .net
>>359
以前はいろいろなハンネ付けてたな 保育園経営者さんよ

361 :日本@名無史さん:2018/02/22(木) 22:23:08.65 .net
アタシ? 多分違うよ? 
ここの、前スレの半年前からのムー大陸説で参加だし?
てか、弟子は重荷でやめた、くまモン師匠ごめんなさい。

九州確定でもうロマンは有りませんが
さらなる真実を求めて、♪ドン来いスレ で、学んでいます。
門前の厨房が、習わぬ倭人伝を読んでます。

師匠、相変わらず、ちら裏お借りしてます。 
皆様のご意見やイジメに感謝です。

362 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 08:23:49.29 .net
>>358
>倭の大王を偽証した九州の一部、周回5千里だけの
>小国の王が倭王卑弥呼という認識は基本だね。

周旋五千里って、中国の感覚では大国なんだが、実は短里なので九州北部だけなんだよな。

>>358
>記紀と倭人伝は同時期の時系列で同時に有る、別の歴史だろ?

正解!

363 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 09:18:39.54 .net
>>362
>周旋五千里って、中国の感覚では大国なんだが、実は短里なので九州北部だけなんだよな。

>>3 の遺跡図 南北2千里、周回すると概ね5千里で終ってる。
新井白石でも山門高瀬。 邪馬台国が倭人伝内にしかないことで、結論出てるんですけどw

240年
太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物
梯儁は魏の軍船で来日して金印持って女王宮まで行軍した。
なにこれ?倭国、小さすぎ と、思ったけど、声に出しては言わなかった・・・

247年
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假

黄幢は245年に、韓の反乱で、郡から倭軍将軍 難升米への 檄、を飛ばしたもの
で、郡じゃ太守が戦死してるのにこいつらどーなってんだ? 
と、張政を烏越の帰国船で査察に派遣。 難升米 為 檄 告喩之

で、なんでこんな国に魏の将軍 がぁがぁ? ダメだ、こりゃw 
って話、だよ? 倭人伝、おそまつ。

364 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 19:11:32.14 .net
もう、倭人伝にはロマンは無いので、
記紀で神功皇后記がなぜ卑弥呼を偽証したか? って話にしようか?

日本書記、神功皇后
卅九年、是年也太歲己未。魏志云
「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏、遣吏將送詣京都也。」
卌年。魏志云
「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭国也。」
卌三年。魏志云
「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」

歴史上の事実として、現実的には神功皇后(架空の)というか
日本は、三韓征伐じゃなくて、邪馬台国以降に、新羅や百済を建国してるんだけど
日本書記はなぜ、神功皇后を卑弥呼にしちゃったんでしょうか?

卑弥呼は三韓征伐できるような大国の大王じゃないんですけど?
既に死んでるしwww

365 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 19:26:50.41 .net
卑弥呼+トヨだろ

366 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 19:31:34.13 .net
記紀の
難斗米 は 九州北部首長国連邦の 奴国王 難升米 です。
同じく、伊聲者 掖耶約 は 巳百支國王 の 掖邪拘 です。

なぜ、記紀は 中国古代の周代の王である 大夫=王=領主 を称する
この人たちを、天皇の摂政である神功皇后の使者 としてるんでしょうか?

367 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 20:02:55.58 .net
お〜い、おまえら息してるか? 壱岐一海 じゃあ ね〜よwww
ネットの価値は これを飯のタネにしてる考古学や古代史の先生や

半島ネタでモノが言えない、学者のもんじゃない、 ってことだよ。
もうロマンは有りませんが、アジア古代史、日本史に真実を!

名無史 の厨房で門前の小僧のアタシの提言。

368 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 20:35:26.75 .net
みんなの提言で、倭人伝の文節や改行を訂正してるスレだろ?
倭人伝、読むだけだろ?
卑弥呼って古墳時代の言う古墳に埋めたのかよ?

お〜い、おまえら息してるか?
壱岐一海 じゃあ ね〜よwww

ネットの価値はこれを飯のタネにしてる
考古学や古代史の先生や半島ネタでモノが言えない、
学者のもんじゃない、 ってことだよ。

もうロマンは有りませんが、畿内は東=南、九州は意味不明の一月行否定なんで
アジア古代史、日本史に真実を! 語り合いたいんです。

名無史の 厨房で門前の小僧の ア タ シ の提言。
メシノタネ とか 朝鮮の歴史に愛は無いのか
とかじゃwww まともな話はできんよ?

なんで、新井白石や本居宣長以降に 邪馬台国論争復活させた? 
飯の種は重々承知なんだけど、
アタシみたいな中学生やネット民は騙せるかよ?

369 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 22:03:07.70 .net
新井白石や本居宣長以降に邪馬台国論争を飯のタネにしてる学者?
一族郎党の恥、だと思うんだけど・・・

記紀や倭人伝のスレで
ネトウヨ認定されちゃうアタシみたいな
史実探求って、みんなはどう思う?

370 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 22:25:41.93 .net
釣れないの?
もっと、ホントーの事、言っちゃうよ?

371 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 22:30:52.65 .net
言え

372 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 23:14:08.04 .net
>>371
梯儁の旅は、まず九州北部に上陸して首都の伊都に入った か? そのはずだね?

内陸の伊都の東の 不彌国から 多分 不可能な現地旅行業者の船で、
意識不明の水行20日のムー大陸の投馬国に上陸して、
さらに水行10日から陸行一月に女王の宮殿が有る。

これが読み間違いと理解できないなら、つぎは無い。

373 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 23:19:07.65 .net
>>372
おまえはすでに終わってる

374 :日本@名無史さん:2018/02/23(金) 23:25:42.86 .net
>373
とても残念なんですけど、
会話の可能性が終わってます。

今後とも変わらぬご指導ご教示に期待します。

375 :くまモン論者:2018/02/24(土) 00:30:33.64 .net
>>361
弟子いたんか。
 <⌒/ヽ-、__
/<_/_______//

376 :くまモン論者:2018/02/24(土) 00:32:58.93 .net
ヤップ!ヤァァァァァプ!
カーリング負けたんか。

そだねー
言うて!!!!!!!!

377 :くまモン論者:2018/02/24(土) 08:30:00.23 .net
伊都国以降は伊都国起点の放射だから。
邪馬台国は伊都国から水行十日or陸行一月だねー♪

そだねー
言うて!!!!!!!!!!

378 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 08:38:04.52 .net
>>377
陳寿の得た情報源(ソース)では、
不彌國以降のことは
別ソースだね。その別ソースは伊都国に居た使節や倭人
からソースをそのままつなげたのかもしれないが、
南に一ヶ月って変すぎるから、誤情報を承知のうえでそのまま
記述した可能性が高い。

379 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 08:43:37.15 .net
南じゃなくて東の間違いだろう、東にならちょうど良い遠さに
畿内のヤマト政権の国がある、
という解釈が定番ではあるが、それだと女王国の北においた一大率の記述が
おかしくなる。京都や若狭のあたりが里行程で記述できてないから。

魏志倭人伝の記述は、畿内を書いてないよ。畿内だと思われるのはせいぜい
海の先に背の低い人間がいるとか、黒い歯の人がいるとか別の倭種がいるという記述ぐらい。
背の低い

380 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 09:02:26.63 .net
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8

381 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 09:39:06.06 .net
>>380 認知症の薬を今朝の分も忘れずに飲むように。

382 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 10:18:51.21 .net
>>364
神功皇后が260年は鬼のように頓珍漢で無理だなw

韓は卑弥呼の時、帯方郡と戦って王家が滅ぼされ、郡の管理下に置かれている。
なんで、魏の将軍が居る倭国が韓を征伐する? お〜い、畿内説息してるか?
記紀作家、まさかの韓伝読んでないのかwww ←ひどすぎ

313年の高句麗台頭以降に南韓が開拓期に入って350年ころ新羅百済建国だろ?
それも人質取って傀儡だし、500年辺りまで 三韓×新羅征伐必要ないんじゃね?

383 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 10:31:36.56 .net
>>379
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

魏使は九州島から出てません。

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

離島の話ができるのに、瀬戸内海が無く、本州と四国の別が有りません。

384 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 12:08:43.22 .net
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000<水行20日投馬国>

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 <水行30日陸行1日>

385 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 12:12:53.66 .net
魏の日本地図を想定すると
朝鮮半島から南3千里に南北6千里の九州島があり 南に 小さな種子島

東 に四国の無い、倭人在帶方 東南 大海之中 の
多分九州より大きいとおもわれる、本州島が有る。

なぜか、東南船行一年の太平洋にも島があり、
これを倭人国というなら倭国はとてつもなく強大なイメージなのかも。

地球が丸いって知ってたかwww
で、南に ムー大陸は無いので、陸行一月が可能の島は九州島以外には無いw

386 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 12:19:55.19 .net
朝鮮半島から南に壱岐対馬があり、
対馬海峡三千里を越えて九州島=倭国本国

倭国本国の中枢である博多湾沿岸から東に渡海千里で
日本海沿岸の倭種

東南船行一年は魏志倭人伝だけの別情報
高知県東部の裸国で徴発された「生口」が
四国沿岸を時計回り→瀬戸内海を西へ→奴国→魏へ献上
裸国から奴国までの生口輸送がボロ船で船行一年

387 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 12:20:59.98 .net
四国沿岸を反時計回り、だった

388 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 12:27:22.73 .net
なんで反時計回りかというと生口島にいったん立ち寄って
倭人伝記載された出身地身分の文身を入れたり、
最先端文明国家である倭国で生きるマナーなど職業訓練をしないといけないからね。
そういう日数も含めて生口にとっては船行一年。
はるか魏晋で数十年を生きた晩年に陳寿に直接話したのだろう。

389 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 15:24:00.09 .net
京畿湾から済州島が三月行 であって 九州島の南北も三月行
九州上陸から山門瀬高までが一月行で卑弥呼の邪馬の王宮と一致してるでしょうが。

船行一年が12月行であれば種子島の東南一年にはぴったし小笠原島なのよ?
だけど、中国人がなんで太平洋の地理知ってるかが、新たな謎。 倭人国だし?

中国のジョン万次郎居ても植民地化してないアメリカ大陸から帰れないし・・・
そもそも漂流じゃ、距離判らないよね? グーグルアースであと付けかい?

390 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 15:36:50.18 .net
北部九州の傍国群が倭国名に漢字の音を振った表音表記なのに比べて、
朱儒国裸国黒歯国はいずれも表意。
これは、朱儒国裸国黒歯国という名の国があったのではなく、
北部九州倭国からはるか東南方に、そのような特色の地域があっただけ。

裸国出身の生口が陳寿に、
「朱が採れて(阿波)小さい人のいる(淡島)地域がありました」→ふむふむ、朱儒国か
「人が歯を黒く染める(最古のお歯黒は河内)の地域がありました」→ふむふむ、黒歯国ね
「私の故郷は暖かく、みな裸でした」→ふむふむ、裸国と書いておこう
という感じで記載が進んだのだろう。

朱儒国と黒歯国は特徴があるが、裸国は裸なだけで特徴が無い。
よって、生口が朱儒国出身であれば、朱儒国と黒歯国のことしか話さないし、
黒歯国出身なら、黒歯国と朱儒国のことしか話さない。
生口自信が裸国出身だったから、裸国と朱儒国と黒歯国のことを話したわけだ。

船で輸送されるのに朱儒国と黒歯国を通るのだから、
その南ということは、高知県東部か、あるいは紀伊半島の南端。

391 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 16:32:08.24 .net
確かに九州島が倭国の一部を形成する島であることを知っているのに
それを認識している、中国人が固有名詞を使っていないのはおかしい。

この地理的説明の一文には、中国王室独自の地図の存在がある としたが
唯一の可能性は、参問倭地 絶在海中洲㠀之上 かな?

『洲㠀』 が九州島の識別名称とかか?
日本人の四国とか九州って命名並みにやっつけ仕事だなw
もっと丁寧に 舊百餘國島 o(^^;とか

392 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 16:55:17.30 .net
九州島=倭国 【固有名詞】

393 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 17:35:43.32 .net
九州島=倭国 【固有名詞】
ってのは

九州島上の周回5千里に過ぎない国の女王を倭国王と思って
皇帝に引き合わせちゃった帯方郡の間抜けと一緒のまちがいですよwww

本居宣長が卑弥呼を神功皇后を騙った九州の女囚と言ったのは、
記紀を実話と思ってて、時系列も理解できない馬鹿が原因だけど、

帯方郡の間抜けは、公孫氏から奪ったばかりの帯方郡太守のくせに
倭王が朝貢に来たと思いこんだとこだね。

金印持ってきた、梯儁はしまった、
と思ったけど帯方郡の間抜けって、本当のことは言えなかったw

檄告諭にきた、張政は見なきゃよかったと思っただろうけど、
どうせ曹操の建てた魏も司馬氏の天下で、終わってる、ってことだなwww

これにて魏の倭人伝、一巻の終わり。 お粗末。

394 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 17:57:06.36 .net
周回5千里などどこにも書かれていない。
周旋五千里のことであれば、
三国志全体で周旋という言葉は、移動に関しては、ぶらぶらと気ままに進む様を表しており、
(要するに、直線や直角線、周回線などではなく)
女王国まで一万二千余里のうち、狗邪韓国までで七千里なのだから、
残りの五千余里を目的地まで進む様を表しているだけ。

>参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
倭の土地について考察してみると、
海上の島しょ国家であり、
壱岐対馬九州倭国が連なり、
女王国中枢の奴国まで五千余里ほど進んだら到着する。

こういった意味になる。

395 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 17:57:58.09 .net
また、倭国は単体ではない。
邪馬台国が狗奴国に勝利さえすれば、
東方の倭種=日本海沿岸や瀬戸内海の西部
あるいは、朱儒国黒歯国などなどの全てを従えるわけだからな。

それに金印は卑弥呼が初めてじゃないぞ。
倭国に金印を渡して失敗するレベルなら、
漢委奴国王金印の時に中国側でその結論が出ていた筈であり、
再度金印を渡すということは、倭国は九州だけでなく、東方にも影響力を持っており、
特に東方の製鉄所を運営する広域支配国家だったということだ。

396 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 18:03:01.19 .net
もういいよ
  (\_/)
  (´∀`)<涙拭けよ
  /   ヽ
 ̄ ̄Uへ_ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |\\ ヽ、
  \ \\| \
   \| ̄ ̄|
     ̄ ̄ ̄

397 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 18:36:56.50 .net
周旋可五千餘里
は、 >>3 の邪馬台国時代の出土品地図
九州上陸後2千里の往復で ほぼ5千里の女王国勢力地域にほぼ一致する。

東方にも影響力 って、なんのこと?
長崎方面や宗像以東は女王国の勢力外って見方が有力だよ。
銅鐸は出なくても吉備や山陰勢力との繋がりは、遠賀川土器時代からでしょ?
邪馬台国は蚊帳の外。

>>15 外交史 を東夷伝序文や韓伝と一緒に検討すると
帯方郡がどんだけ間抜けか よくわかると思うよ。

漢代に金印あったと言っても、公孫氏3代で断絶して、日本の事、何も知らんのよ。
まあ、だから魏志で倭人伝、紹介の価値は高いんだけどね。
皇帝の恥は見せらんないねwww

398 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 18:53:27.74 .net
ああ、なるほど。
北部九州邪馬台国を認めざるを得ないという学問的良心はあるけれども、
その代わりに邪馬台国を極力矮小化したいわけね。

邪馬台国時代にも遠賀川流域で作られた石器が広く北部九州に分布している。

紀元前から遥か丹後半島や淡路島に製鉄遺跡があって
その原料は朝鮮半島から伊都王経由で入手
その製品は北部九州で大量に出土。
西日本各地の土器が北部九州奴国に陸揚げされて広く九州に山分け。
大型内行花文鏡を初めとする銅鏡祭祀の古墳が各地へ進出して銅鐸を駆逐。
東方への影響力はあるよね。

399 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 19:15:33.89 .net
>>398
ありがとう。センテンススプリング?

土器だの青銅器だの考古学の根拠は広鼻ブラック先生とかの
イジメ情報しか知らないんで、欲しかった情報なんです。

伊都が対馬航路を独占していた可能性は有りません。
青銅器で出雲や淡路島は同時代に並立しています。
隠岐は黒曜石時代から古代商人だし、弥生土器沿海州説も東夷伝では有力。
対馬はある意味キーマンだけど。

うれしくて、話が頓珍漢ですが、女王国東遷は無いw
宇佐〜宗像は 吉備や淡路、隠岐系の海神族の足場になってる可能性はある、
と思います。

400 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 19:44:34.33 .net
楽浪土器を伊都が寡占しておる。
豊国をなんとか分離させたいのだろうが、
銅矛銅戈の高密度分布から、筑紫王の支配下にあったことは一目瞭然。

紀元前には丹後半島の製鉄遺跡と北部九州が接続していて、
鉄器や硯がその線上に分布する。

次いで、筑紫王を中心として銅矛銅戈が、対馬→北へ
宗像→宇佐→瀬戸内海へと広がり、
淡路島南あわじ市に銅矛が上陸した後に
淡路島に製鉄遺跡が長期運営される。

日本海沿岸は邪馬台国時代に四隅突出墓が富山まで並ぶが、
日本海側の最重要要衝である、丹後若狭湾は伊都王と同じ方形周溝墓王が押さえており、
四隅突出墓群は独立することは無理で、
博多湾若狭湾を抑えた伊都王の家臣たちであったことが明らか。

401 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 20:06:21.30 .net
>博多湾若狭湾を抑えた伊都王の家臣たちであったことが明らか。
無理、薬飲めよw

402 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 20:35:06.77 .net
四隅突出墓群の副葬品が非常に乏しいのは有名だろう。
銅鏡など威信材はほぼ無い。鉄刀など鉄製品が多少出土しているくらいだ。
東夷世界での格から言えば、伊都王とは比べるべくもない。

これらが日本海沿岸〜中国地方内陸に分布しながら、
要衝である若狭湾を押さえていない。弥生海上航路の
交易もなにもかも伊都〜丹後若狭湾の方形周溝墓王に握られているわけだ。

わかりやすい例で言うと、四隅突出墓の発祥地と目される妻木晩田遺跡だ。
威信材はほぼ無いのに、
鉄器が200点ほど出土している。
もし出雲を中心に四隅突出墓群が北部九州邪馬台国と敵対していたのなら、
鉄器など枯渇して残っていないはず。
それが大量に出土するのは、邪馬台国の重要な家臣群の遺跡だったから。

403 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 20:56:17.67 .net
>邪馬台国の重要な家臣群

朝鮮半島南岸の東行3千里の沿岸は倭人国なんだが
女王国に属する国じゃない、倭人諸国なんだよ。

その有り得ない、出雲方面に進出した邪馬台国の家臣群w 以外の

過去に銅鐸文化を伴ない、関東方面にまで勢力を持った
大和朝廷の前身である諸国はどっから鉄を取りに半島に渡ったんでしょうか?

404 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 21:04:32.59 .net
要するにだ、魏志倭人伝で言うならば、
女王国から、東に渡海千里で「四隅突出墓」の倭種の国々が広がり、
それを監視する一大率の出張所の一つが、丹後半島にあった、
ということだ。

紀元前に丹後半島扇谷遺跡に百年ほど製鉄所が運営されて、
その後に銅矛が北部九州を中心として拡散するわけだが、
日本海沿岸には荒神谷遺跡に集中出土するだけで入り込んでいない。

紀元前の扇谷遺跡の時代に、日本海沿岸は、
とっくに北部九州の支配圏内に入っていたから、
筑紫王になれば自動的に日本海沿岸の支配権も付随してきたわけだ。


銅鐸文化の分布域には鉄器がないのだから
鉄を採りに半島に渡る心配謎する必要はない。

405 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 21:39:46.46 .net
>>404
>銅鐸文化の分布域には鉄器がないのだから

???  @阿波

406 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 21:52:17.93 .net
>>390
裸国としてハダカでいるのは、九州では寒過ぎる。
沖縄でもハダカでは無理だろう。
せめてフィリピンかマリアナ諸島ぐらいでないと。

407 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 21:56:55.35 .net
>>402
>それが大量に出土するのは、邪馬台国の重要な家臣群の遺跡だったから。

出雲の大国主を倒した後に、伊都国の支配下にあった出雲国造家の墓だな。

408 :日本@名無史さん:2018/02/24(土) 23:14:34.11 .net
倭人条に出て来るクニは末ロ国、伊都国、奴国、不弥国、その領域はどれもせいぜい旧郡のひとつかふたつ程度。
それらが30国程度集まったのが邪馬台連合。

409 :日本海ルート論者:2018/02/25(日) 00:05:43.18 .net
【一泊=100里(=1000戸)】

>從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里,(海岸に沿って馬韓55國+弁辰韓24國=79國→方4000里)(ピタゴラスの定理3:4:5)
*5000余里


4| \   【ピタゴラスの定理】
0| \  高さ4000里・底辺3000里の
0|   \ 直角三角形の斜辺5000里
0|_______\
 3000 狗邪韓國

>始度一海,千餘里至對海國。(1泊=100里)(1000戸=1泊)(船中泊不可能=1泊)
*5100余里
>又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國,(1泊=100里)(3000戸=往路発・復路着・往路着=復路発で各3邑?) (船中泊不可能=1泊)
*5200余里
>又渡一海,千餘里至末盧國,(1泊=100里) (船中泊不可能=1泊)
*5300余里

>東南陸行五百里,到伊都國,(5泊=500里)(末盧國内4000戸=4泊、伊都國1000戸=1泊)
*5800余里
>東南至奴國百里,(1泊=100里)(奴國2万戸→奴國の一部に1泊して横断しただけと分かる)
*5900余里
>東行至不彌國百里,(1泊=100里)(不彌國1000戸=1泊)
*6000余里

>南至投馬國,水行二十日,(20泊=2000里)
*8000余里
>南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。(40泊=4000里)
*12000余里

> 自郡至女王國萬二千餘里。

410 :日本海ルート論者:2018/02/25(日) 00:07:23.26 .net
来週までは少し忙しい。

ではまた来週(笑)

411 :日本海ルート論者:2018/02/25(日) 00:10:57.45 .net
てか文字化けして円マークに見える人もいようが、
あれは三角形の斜辺だったんだ…

欲を無くして心の目で見てね(笑)

412 :日本@名無史さん:2018/02/25(日) 00:22:26.71 .net
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000<水行20日投馬国>

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 <水行30日陸行1日>

413 :日本@名無史さん:2018/02/25(日) 08:38:31.69 .net
何度も指摘されてきたことだが、
魏志倭人伝=三国志東夷伝倭人条、が正式名称。

三国志東夷伝の中に、韓条濊条高句麗条倭人条などなどがあって、
各東夷民族の領域について説明しているわけだ。

その東夷伝全体において、一里はおおよそ80m前後として使われている。

例えば東夷伝韓条においては、
>韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有
韓人は東西を海と接して四千里四方なのだから、
朝鮮半島の横径は四千里であり、一里=70m相当。

例えば東夷伝高句麗条においては、
>高句麗在遼東之東千里 東與沃沮 方可二千里
高句麗は遼東半島から東に千里で、高句麗自身は二千里四方で、
東にも沃沮がいるのだから、これもせいぜい一里=70m。

漢代から楽浪郡がおかれていた朝鮮地域でも
「東夷伝里」で統一されているわけだ。
3世紀であることを考慮すれば
「東夷伝里」による距離記載は現代の地図と十分に対応している。

414 :日本@名無史さん:2018/02/25(日) 08:51:53.00 .net
「東夷伝里」が一里=70m相当であることが確定しているのだから、
一歩=7000÷300=23.33cm
卑弥呼墓の径百余歩=23.33mということになる。

平原遺跡1号墓と殉葬2号墓は周濠を共有しており、
2号墓の周濠には一部を調べただけで
十数の土壙墓(穴を掘っただけの最も簡素な墓)が見つかっている。

共有される周濠の長径は28m。

魏使は次の男王の時代を経て台与の時代にまで滞在したことから、
卑弥呼墓の完成形を目にしている。

三国志時代の中国では簡素な墓が主流であり、曹操墓も地下墓。
塚を二つも大いに作り、柱建築物(九州説は鳥居と主張)まで建てた
「複合墓域」を目撃して、大いに驚いたことだろうな。

415 :日本@名無史さん:2018/02/25(日) 09:20:04.98 .net
>>414
卑弥呼のような大王墓は、神が宿るとされる「山稜」に祀られるもの。

平原など有り得ない。 不謹慎、無礼千万である。  @阿波

416 :日本@名無史さん:2018/02/25(日) 10:10:34.59 .net
当時の書類。竹だな。
https://i2.wp.com/hajimete-sangokushi.com/wp-content/uploads/2015/03/800px-Bamboo_book_-_binding_-_UCR.jpg

417 :日本@名無史さん:2018/02/25(日) 10:16:25.75 .net
木簡、竹簡は税を輸送するときの
記録には向いている。

418 :日本@名無史さん:2018/02/25(日) 10:28:53.18 .net
曹操が亡くなったのは西暦220年。
卑弥呼は西暦200年の前にはすでに女王になっていて、西暦248年ごろ高齢で
亡くなるからその30年前といえば、老いた曹操と中年女性の卑弥呼で、同じ時代の人。

文書のやりとりやクレオパトラのようなロマンスもありそうだが・・・あいにく
曹操と卑弥呼の直接の関わりは一切ない。卑弥呼が魏に使節を送ったときは、
曹操の孫が皇帝になっていた。

419 :日本@名無史さん:2018/02/25(日) 10:32:38.38 .net
>>417 紙は貴重か、まだ無かったかもしれないな。
だから魏志倭人伝の原典も、紙じゃなくて竹に書いた可能性もある。
しかも元々の魏志倭人伝は、文章の量が当時はもっと少なかった。
(後世に注釈が付けられて膨らんだ)

420 :日本@名無史さん:2018/02/25(日) 11:48:37.18 .net
>>418
東夷伝序文に遼東から漢四郡に公孫氏3代によって東夷との交流を失った。とある。

倭人伝はこれを前提に、新たに魏が為した東夷外交の成果を示した。
邪馬台国が、倭王の国ではなく九州の小国であることは伏せたかった。
>>76

雖夷狄之邦而 俎豆之象存中國 失禮求之四夷猶信
故撰次其國 列其同異以接 前史之所未備焉

韓伝のように、わざと引用を避けているか、ミスリードされる一文だが、
これに基づき、倭人伝を読むと、魏がいまだ倭について何も知らないということは良くわかる。

倭人伝を読んで、卑弥呼が倭の大王とか言ってる学者は嘘を塗り重ねる事しかできない。

421 :日本@名無史さん:2018/02/25(日) 13:32:50.17 .net
魏志倭人伝の紹興版だけど、字がやや汚いうえに
左側のページなんか字が小さくて、つぶれてしまって読めない字もあることだろう
http://yamatai.cside.com/katudou/image/wazins6.gif

422 :日本@名無史さん:2018/02/25(日) 13:37:39.05 .net
>>420
倭が100カ国にも分裂していて、
そのうち半分にも満たない勢力(30カ国)
の比較的まだ大きな邪馬台国に
金印を授けたことは、邪馬台国はまだ力不足だという
ことは魏としてもわかっているよ。
後世の後知恵では、もっと大きな別の大和政権に移り変わって
しまったんだから、中国側としても後年になってからは
あまり詳しく書きたくないところだろうよ。

423 :日本@名無史さん:2018/02/25(日) 23:21:48.94 .net
九州女王国がどれほど小さく
消えて当たり前の国だったか?
卑弥呼が神功皇后を騙った女囚というのはある意味正しい。

でも、神功皇后は実在しえないw
九州遺跡はその時、時間が止まった遺跡。
以降も発展してないから遺跡なんだよ。

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