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♪邪馬台国ドンと来い!♪135
- 1 :日本@名無史さん:2018/01/31(水) 23:37:15.40 .net
- ,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′
ノr┴-<」: :j| <ソースを書きなさい!
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) コツン
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_ '⌒ ☆
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ < ヤダヤダー!!
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
└-' ̄. | |_二二._」」__ノ
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪134[転載禁止]©2ch.net・ http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1512648703/l50
- 469 :日本@名無史さん:2018/02/28(水) 19:42:36.06 .net
- さて、魏における倭国認識は、護国の軍事機密ともいえる地図、暴露で、
賢明な ♪ドン来いスレ住民の よゐ子のみんなには理解できたと思います。
そのうえで、倭人伝について皆様にご指導いただきたいと、願います。
♪ドンと来い、スレの門前をちら裏借用ですので、イジメの先生も歓迎です。
>>430 で、映画化だと次作に 邪馬台国の明日、乞うご期待 ですが、
くまモンが邪馬台城を取ったんで、師匠のくまモン論も聞きたいです。
とりあえず至近でも引用した、テンプレ失敗してますがw >>13
>王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
について、
倭人、文字使ってますよね。 で、港で外国船監視してますよね。
帳政の船は倭人の帰国船だったんで、監視してないのでは?
というか、張政は説教に来てるので皇帝のお土産もってないし・・・
末羅国は倭人船母港の芥屋浜だと思います。
占いも有るし、普通は海峡で
潮が引きか上げか、左右どっちなのか見えなきゃ、出港しません。
アラシの阿波ちゃんw このころ地域別のタイドグラフ有ったかよw
それに対し、梯儁は独自に魏の軍船で来九州ですから
良港に見える、糸島半島の西岸または今津今宿?東岸〜博多あたりが目的地です。
末羅国が呼子や唐津に着いたのなら
躬臣王/(載斯)烏越 の船ですから
奴国に母港のあるべき、奴王/(難)升米 を予想しないなら、
躬臣国が唐津とする根拠が欲しいです。
アタシの推定は 躬臣国は山門瀬高の対岸、佐賀〜吉野ヶ里です。
渡航の占いするなら、船は芥屋浜が出船母港・・・
張政は重たいお土産無いから、藪の中歩かせたwww
- 470 :日本@名無史さん:2018/02/28(水) 20:27:59.95 .net
- >>469
>末羅国は倭人船母港の芥屋浜だと思います。
対馬海流に流されて、「末羅国は倭人船母港の芥屋浜」は有り得ない。
>アラシの阿波ちゃんw このころ地域別のタイドグラフ有ったかよ
そんなものが有ったら倭国(阿波)の海人は苦労しない。 無いから、経験則で対馬海流に逆らわず
対馬海流の流れを利用した安全で楽な航行を選んだ。 @阿波
- 471 :日本@名無史さん:2018/02/28(水) 20:52:08.64 .net
- >>470
まあ、宗像は邪馬台国の勢力外。
畿内や阿波や吉備の連合国が投馬国と繋がるための拠点だね。
自女王国以北の宗像方面は遠賀川土器ってのを、本州勢力と共有してるけど
これ、九州発祥じゃなくて阿波起源にしてみたらどうかな?
倭人伝は中国の日本認識の問題だから、出土品がどーたらじゃなくて
邪馬台国の話は九州島から出るのは無いヨ。
卑弥呼の鏡なんて、↑の弱小国卑弥呼との戦争に勝てば、
くまモンも、持ってるだろ?
ヤマトタケルだって、神功皇后だって持ってるしwww
そもそも阿波説って、記紀で魏から金印紫綬する神功皇が后存在するのか?
- 472 :日本@名無史さん:2018/02/28(水) 21:04:28.02 .net
- >>471
>そもそも阿波説って、記紀で魏から金印紫綬する神功皇が后存在するのか?
当然、伝承はあるから、存在の可能性大有りですね。 @阿波
「天皇さんの由来 笹田 嘉吉」
天皇さんと呼ばれる所は各所にあるが、この天皇さんは外の所と違う。
桑島の南端から南島の二ツ森神社東側に通じる道路の南側、すなわち桑島の最南端に木立があり昔は塚や五輪塔があった。
この塚が天皇さんである。
この天皇さんは、神功皇后が三韓征伐のみぎり、阿波に立ち寄ったとき、しばし留まった所である。
祖先、豊玉姫神社に詣で、ここで休息したのであろう。
人呼んで天皇さんという。
- 473 :日本@名無史さん:2018/02/28(水) 21:09:30.81 .net
- 論を進める前にまず考えてもらいたいんだが、
卑弥呼=神功皇后 無しの畿内説って、必要?
じゃあ、どうするの? ってのが、倭人伝原論でしょ
↑で、倭人伝に本州認識が無いことは説明した。
神功皇后は日本の天皇なのになぜか、支配下の九州軍人を配置せず
本人がw 戦場、前線と思しき、九州や半島に居たwww
こういう天皇は、いないと思うんだが?
阿波から来たのか?
- 474 :日本@名無史さん:2018/02/28(水) 21:23:04.75 .net
- >>473
>こういう天皇は、いないと思うんだが?
そりゃ、いないでしょ。 神功皇后は仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后なんだから。 @阿波
- 475 :日本@名無史さん:2018/02/28(水) 21:33:27.77 .net
- 阿波ちゃんに期待してるのはそういう
いじめっ子や、いじめられっ子 キャラクタ―の
ああいえばこういう、では無くて、
問題の本質を理解して、世間が求めているであろう情報の提供、
それができるか? 人の話を聞いてそれに答えてるか?
アタシは、阿波ちゃんの情熱は理解してる。
子供みたいに言い張るだけじゃなくて、ちゃんと会話をしないか?
って、言ったんだけどね。
- 476 :日本@名無史さん:2018/02/28(水) 21:49:27.84 .net
- >>475
会話大歓迎ですね。 @阿波
- 477 :太国 ◆yVAs7uaYlY:2018/02/28(水) 22:07:22.57 ID:pIXNSH8wP
- 皇后は天皇に非ず。
- 478 :日本@名無史さん:2018/02/28(水) 22:05:50.90 .net
- 他スレでも
ざら国先生、広鼻ブラック先生とか、
迷惑な、梅嵐の河童キュウリ妖怪や馬鹿牛長文梅じゃない限りは
日本の歴史について、とても、お勉強させて頂いています。
見るからに、いじめられっ子キャラなんで、
阿波ちゃんに言っておきたいんだが、
アタシは、話になるなら、すべてのレスには感謝です。
ごめんなのか感謝なのか? まあ、今のところ、ごめん だな。
by 学級委員長 とか? あったっけ?
- 479 :日本@名無史さん:2018/02/28(水) 22:26:18.10 .net
- >>476
最初の会話には敷居が高いかもしれないけど
>467
の 魏=中国が瀬戸内海を知らない。
という事実には、どう説明できますか?
- 480 :日本@名無史さん:2018/02/28(水) 23:02:10.00 .net
- >>479
そりゃ、魏は知らんでしょ。
魏志倭人伝時代は、魏使 の瀬戸内海航行は無かったんですから。
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】 豊後水道 水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛辺り)
↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察
女王・卑弥呼のおわす《邪馬台国 阿波》到着(七万戸)
↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)
女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。 @阿波
- 481 :日本@名無史さん:2018/03/01(木) 00:05:01.95 .net
- 張政 は倭人船で来日したし帰国も倭人船
到着の末羅国は、どこでも良い。
皇帝のおみやもない。
この時、邪馬台国王を和王じゃないと思った
魏の 邪馬台国外交は終わっている。
中国外交史には 大和の神功皇后いないだろ?
- 482 :くまモン論者:2018/03/01(木) 00:18:50.95 .net
- >>467
おいこら!くまモンが狗奴国になってるじゃねえか!?!?
九州は邪馬台国なんだよ!刺青で語り合える仲間なんだよ!
狗奴国は畿内のヤマト王権だJK!!!!!
- 483 :くまモン論者:2018/03/01(木) 00:31:04.20 .net
- のちの遣新羅使も神集島経由だ。
船酔いした梯雋も呼子あたりで下船したのだろうな。
- 484 :日本@名無史さん:2018/03/01(木) 09:09:35.13 .net
- 考古学やるなら、阿波へおいで。
「四国初の並列粘土槨」
「石井の山ノ神古墳 墳丘と同時造成」 徳島新聞朝刊 平成30年3月1日
石井町教委は28日、古墳時代前期とみられる前方後円墳「山ノ神古墳」(同町石井)の後円部の墳頂で、木棺を粘土で包んだ埋葬施設「粘土槨」が2基並んだ状態で見つかったと発表した。
粘土槨が墳丘と同時並行で築かれたことも判明し、いずれも四国で初めての出土例。 専門家は「全国的にも珍しい事例で、古墳研究の基礎資料になる」としている。
粘土槨は、墳頂部の地表面から約50〜70cm下で発見された。箱形木棺(幅約1.15m)と割竹形木棺(約1.2m)とみられ、約1.1mの間隔を空けて置かれていた。
全国の豪族は長辺を南北に向ける配置が多いが、県内の他の古墳に見られる特徴と同じく、東西に向ける形で埋められていた。
先に墳丘を完成させ、後で土を掘って木棺を埋め戻す方法が一般的だが、山ノ神古墳では盛土の堆積状況から、墳丘と粘土槨が同時に造られたことが分かった。
同様の事例は国史跡の和泉黄金塚古墳(大阪府)など近畿地方にみられるが、四国では見つかっていなかった。古墳調査に詳しい兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は「墓を造り、葬送儀礼をしてから墳丘を仕上げる過程が分かる珍しい事例。
徳島の古代文化の独自性や、近畿政権との関係を考える材料にもなる」としている。
山ノ神古墳は2014年に発掘調査を開始。全長57mで、前方後円墳としては県内3番目の規模であることが分かっている。17年には、前方後円墳に隣接する円墳周辺で、県内2例目となる筒型銅器が出土している。
この「山ノ神古墳」は、東隣に鎮座する「白鳥神社」と合わせて、「日本武尊」の陵墓とみられている。 @阿波
- 485 :日本@名無史さん:2018/03/01(木) 13:57:01.87 .net
- 古事記によると熊襲国は日向、大隅。
- 486 :日本@名無史さん:2018/03/01(木) 17:50:59.38 .net
- 102 本当にあった怖い名無し[sage] 2018/02/27(火) 19:15:49.42 ID:
>>101
いや、すべての証拠物がもう既に出土してる
1万%、邪馬台国の場所は確定されてる
いまさら言うまでもなく、奈良だ
徳川の埋蔵金場所も1万%確定しているが完全に無視されとる
何でもかんでも暴けばいいってもんじゃねえ
聖徳太子についても
いまさら教科書に載せないとか片腹痛いわ!w
ホント学者は使えねえ
- 487 :日本@名無史さん:2018/03/01(木) 21:15:09.82 .net
- 学者は使えない、というか、倭人伝はそのまま読めるわけで
これが、証明してることは記紀がデタラメだってことなんだよな。
歴史上の事実としては記紀に比定して、どーたらこーたらとか、ダメなわけで
この間の歴史を、考古学で構築しなおさなきゃなんないんだよ。
宗像より、東や北って縄文人並みに相当糞田舎なんじゃない?
邪馬台国がどーたら言ってる考古学は頓珍漢すぎだよ。
九州史的には卑弥呼の国の後継が大和朝廷と妥協して発展したか
滅びて朝廷がよその豪族を配流したかだけど筑紫の君の出自ってのは、
ある程度分かってんのかな?
まあ、普通、狗奴国か奴国王が妥当だよね。
- 488 :日本@名無史さん:2018/03/01(木) 21:40:47.66 .net
- 九州の歴史の方が、邪馬台国があった分、まだ救いようがあるかな。
250年から400年、どういう風に大和朝廷と融合したか。 だな。
で、本州の歴史は銅鐸時代を謎で放置しちゃってる分、
紀元前200年から300年までが、どうしようも歴史にならない。
昭和の、邪馬台国論争ってただ単に
日本の歴史を普通に研究させないため だけにやってたんじゃね?
他の目的、推測できる?
- 489 :日本@名無史さん:2018/03/01(木) 21:46:55.01 .net
- >>488 同意である。
歴史書や遺物に文字が残らないと
こんなにも不便なんだな。
文字だけの文庫本とかよみづらいのに。
- 490 :太国 ◆yVAs7uaYlY:2018/03/01(木) 21:55:18.68 ID:NIO66YAVx
- 女王は九州所在だよ。畿内にあったんなら、記紀の女天皇の記事が載る。
それがない。推古はもっと後代だ。
- 491 :日本@名無史さん:2018/03/01(木) 22:30:26.58 .net
- 記紀に銅鐸時代が存在しないことで、
銅鐸時代の本州には大和朝廷は存在していないという見方が有力。
九州には邪馬台国が有ったので、無理。
銅鐸こそが弥生渡来人が縄文人を取り込むための祭祀
と思うんだけど BC200 位だよね?
九州人はもはや漢に出向いちゃってるんじゃないかな?
九州と本州は別の国だよね。
BC500とかで、九州の弥生人は本州に渡来してる。
遺跡は、青森方面まで有るし。
銅鐸は持ってきてない。
九州の弥生を菜畑とかでBC1000として銅鐸とは無関係
さて、渡来人もへったくれもあるかよ? って、ムードなんだけど、
渡来人っていうのは最低でも船が有る文明人のはずだけど
縄文人の船も黒曜石や糸魚川翡翠見ると案外、使えてるんだよね。
記紀が嘘言ってるこの間の日本の歴史をどうする?
国家の形成に米が関係するとかいう頓珍漢な発想は
ホントの歴史を隠蔽してる日本だけの発想なんじゃないかと思うんだけど、
どう思う?
- 492 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 07:36:27.45 .net
- 青銅器の購入や製造は、当時の最先端の技術だからね。
弥生渡来人が縄文人を取り込むには、強力な道具だったろうよ。
ニューギニアで宣教師が現地人を集めて、ミサをやっている光景を思い出した
- 493 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 11:06:42.76 .net
- もう縄文人がいない時代だぞ
- 494 :太国 ◆yVAs7uaYlY:2018/03/02(金) 17:51:36.60 ID:Q+jZXyziB
- 隠蔽はしてないな。
してるなら、雄略武烈の大悪天皇の悪行を削って然りだ。
それがされていない。つまりウソを書いていないと観るべきだ。
ちゃんとよくないことをした記述がある。
天皇の超長寿は当時倍暦行使だったから、現今の通常人と大して
かわりない寿命だから、おかしくはない。
- 495 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 18:32:45.41 .net
- 銅鐸文化圏ってそもそも縄文人の少ない地域に開拓入ってんだよね。
おそらく、BC500くらいまでに優良地開拓しちゃった
九州人系農民の分家なんだろうけど、
そのあとは、銅鐸とかの青銅器で日本に独自の文化形成して
稲もジャポニカ種が発生して、繁殖が加速化してんだよね。
半島にも進出しだしたのは、松菊里とかのBC500くらいからかな?
倭人伝のムードだと、遠賀川式土器ってのは、本州から伝わってないか?
- 496 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 19:37:27.49 .net
- 松菊里式住居で半島南岸の投馬国が5万戸だと、
倭人は下戸でも2〜3婦だから、人口は×8〜12かな?
40万から60万以上か?
韓伝の馬韓の家は、住人4〜5人で良い感じかな?
2〜3婦って、ネズミ算ってかw
日本の弥生時代、繁栄するに決まってんだろ?
ヒント
水利上の優良農地って、湧水も重要だけど
汽水域は論外で、山沿いの谷戸っていうんだよ。
火山灰の九州人は青森まで探しに行ったか、胸熱だな。
山じゃ、木の根っこ掘れない時代だよな。
- 497 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 21:20:15.42 .net
- 巌流島で九州勢の佐々木小次郎が卑弥呼の五尺刀もってきて
宮本武蔵が船の櫂から削った木刀で 勝つ ってのは
神話なんじゃないかな?
続続、記紀だなwww
大韓帝国の名前の由来が古代韓って言うのは
事実だけど、言っちゃいかんよね?
古代史とか考古学って存在が無理、無意味だろ?
- 498 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 21:21:08.44 .net
- 縄文人も弥生人も日本人で狩猟採集か農業かだけの違いだよ
- 499 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 21:37:57.39 .net
- 諏訪信仰とかでは、
冬は狩猟で春〜夏は神が山から下りてくる
お田植、しようよ。
だけど、これって当たり前だろ?
保存、越冬可能な米だの豆や木の実に、徴税とかの貨幣価値は見出した。
これが、縄文の古代共産制から、古代資本主義への転換であって
縄文〜弥生の意味だと思うよ。
アタシは、数万年続いた縄文の原始共産制は理解できるけど
崩壊の理由も解明しないで、再興した共産党って馬鹿なんだと思うけどね。
特に最後の帝国主義の中共。 だよな。
古代史って、単に経済学で見た方が合理的なんじゃね?
ネトウヨと呼ばれるbアタシは
邪馬台国論争が、反共なら何でもいいけどwww
- 500 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 21:59:22.27 .net
- こういうことが言えない、学会とか学問が有って良いのか?
- 501 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 22:01:03.45 .net
- こういうことって?
- 502 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 22:04:23.30 .net
- アタシ? 質問に意味があるか?
何を答えてもらいたいの?
- 503 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 22:19:53.71 .net
- 質問に質問で答えるって手法は、討論の敗北回避には案外いいんだよ。
で、他スレによくある頓珍漢の方向に持ってって結論を遠ざけるんだろwww
アタシには詐欺師が見えるから、
君らが、ミスリードでどうしたいのか知ってるし・・・
普通に聞いてくれれば ホントの事言っちゃうんだよ。
良いのかな?
- 504 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 22:22:24.71 .net
- 良いよ ぜひ言ってくれ
- 505 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 22:28:35.93 .net
- ありがとね。 で?
- 506 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 22:30:46.29 .net
- で?じゃねーよ
ホントの事さっさとぬかせ!
- 507 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 22:33:19.96 .net
- 何のホントの事?
- 508 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 22:35:10.93 .net
- 497
- 509 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 22:39:21.05 .net
- 言葉尻をとらえてああいえばこういうみたいのは
唯の馬鹿かと思うけど、単にアラシと思えばいいのかな?
- 510 :日本@名無史さん:2018/03/02(金) 22:47:31.92 .net
- また、やっちゃいました。
アラシ、に反応するアタシが 馬鹿 で良いです。
皆様にお詫びします。
ご意見ご質問には、見て時間がある限り、お答えしたいと思います。
- 511 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 10:01:28.38 .net
- 元々、海洋民だった原日本人が列島へ到着する経路は時代に依って東へ進んで来たんやろ。
南西諸島(現在の奄美諸島)→九州南部、台湾→九州中部、対馬、半島→九州北部、、、そして畿内へ。
その各地の経緯で南西諸島→台湾、半島、九州北部→山陽地方→山陰地方
四国南部→淡路島→畿内、などなど各地で合流と抗争を繰り返し
それぞれのルートが最終的に畿内で合流したんと違うの。
四国南部から阿波の時代にはかなり熟練した社会になってたと思う。
古代豪族葛城氏はその先陣をかなり直線的に畿内入りしたグループか。
葛(かつ/くず)国栖(くず/土蜘蛛)、と国家としての礎を築いた先行グループやったと思う。城(しろ/ぎ/ぐすく)ぐすくのぐからぎは転訛の範疇と違うのか。
邪馬台国、名称はともかく其の時々で中心(都)となった土地はあった筈。
だから九州説、畿内説と論じるのに矛盾が生じるんやと考えるのが筋じゃないのか。
古代史はロマンがあるね、ついいろいろ妄想してしまうわ。
- 512 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 10:15:11.18 .net
- >>511
其の九州南部から中部まで熊襲/隼人という部族と国栖も元々は同じかかなり近い部族やったんと違うの。土蜘蛛や手長足長らも。
今に伝わる隼人の吠え声や国栖の喉歌?口鼓とか習俗的にも共通点と思ってしまう。
まつろわぬ、さえぎる、と言ってもほぼ同じ民族やったと思うねんけど。
- 513 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 10:32:26.05 .net
- >>511
>四国南部から阿波の時代にはかなり熟練した社会になってたと思う。
その阿波の時代の「熟練した社会」を築いたのが忌部一族(海人族)。
>古代豪族葛城氏はその先陣をかなり直線的に畿内入りしたグループか。
その古代豪族葛城氏も元々は忌部一族(海人族)。
葛城氏や物部氏などの氏姓は後の時代のよる忌部一族(海人族の細分化。
>だから九州説、畿内説と論じるのに矛盾が生じるんやと考えるのが筋じゃないのか。
だから、忌部一族(海人族)の全国進出と捉えれば、なんの矛盾も起こらないんですよ。 @阿波
- 514 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 11:16:34.78 .net
- >>513
海洋民が阿波を拠点にしてた事は阿波と安房そして其の真ん中?辺りに位置する神津島の阿波神社やね。
黒潮の潮流を熟知する海洋民がいかに広範囲に移動してたのか彷彿するわ。
其の航海技術を支えたのが舟、丸木をくり抜いた舟と其れを造る道具の開発やろね、黒潮の沿岸部で発掘される丸のみ石器を拵える技術。
その道具を開発する技術を持って山に登り四国山地を掘削し鉱石を採取したんやろ。
奄美のあまと阿波のあわも転訛の範疇やと思うわ。
奄美、阿波、は海洋民の重要な拠点やったんやろな。
- 515 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 11:29:29.75 .net
- >>514
>その道具を開発する技術を持って山に登り四国山地を掘削し鉱石を採取したんやろ。
その「山に登り四国山地」を開発していった、海人族の「別れ」が所謂、高天原の「天孫族」。
これが後に「天孫族」と「葦原の中つ国」の覇権争いに繋がっていくんですね。 @阿波
- 516 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 12:05:10.02 .net
- 今ふと思ったけど葛城かつらぎもグスクの転訛じゃないのか。
- 517 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 15:10:56.77 .net
- 時代的に、其の掘削採取形成する道具は邪馬台国云々より、更に古い石器時代に遡ると思う。掘削した山肌で鉱石を採取する際に出た粘土層から土器作りに適した土を掘り出したんと違うのか。(神津島の黒曜石しかり)
そのぐらい海洋民は広範囲に高度な技術を発揮していってたんじゃないのかと思えて仕方ない。
そう考えると阿波忌部氏葛城氏などは相当な古来(ふるき)から列島を縦横無尽に活動してたんやろな。
- 518 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 15:29:01.95 .net
- >>517
>そう考えると阿波忌部氏葛城氏などは相当な古来(ふるき)から列島を縦横無尽に活動してたんやろな。
阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。
「石棒」は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。
縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県 にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。
この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、その一大製作遺跡であると考えられている。 @阿波
- 519 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 15:43:23.65 .net
- 後年の学者がラインを引いただけで、各種道具、舟、石器、土器、、、。
等など倭の国は連綿と濃密な日々を送っていたのだろう。
日本人に生まれてホンマに良かったと思える。
己れも感謝の日々を過ごしたいと思う。
@阿波さん有難う。
- 520 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 15:48:17.23 .net
- 石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡・名東遺跡付近に接してそびえる眉山には、紅簾片岩の露頭が確認でき、
この紅簾片岩製石棒と神戸市戎町遺跡・同市大開遺跡・八尾南遺跡・滋賀県米原町磯山城遺跡の出土資料とを比較検討すると、それぞれが非常に類似している。
また、各地に分布する石棒の時期が、ほぼ縄文時代晩期末〜弥生時代前期初頭の土器型式で2型式間にも満たない短期間に集中することが明らかになり、三谷遺跡・名東遺跡の存続期間とほぼ一致することが確認された。
さらに、石棒が近畿地方最古の環濠集落である神戸市大開遺跡をはじめとする初期の弥生集落でも出土することをうけ、近畿・東部瀬戸内地域における「弥生集落」の形成は、「渡来人」「移住者」のみならず、在地の人々による積極的な関与があったと考察される。
- 521 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 19:06:49.23 .net
- >>518
石棒、画像検索して…これはまさに国産みの伊邪那岐命の矛やね。
こをろこをろと、、、天の浮橋、奄美、阿波、淡路島、畿内と天の浮橋を渡ったんやろね。
天の浮橋、つうのはまぎわう褥的な艀板様の物やったんかも。
木製の遺物は酸性土にやられてしまったそうやけど石棒は…。
- 522 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 19:59:38.93 .net
- しかしこのスレでは畿内説がほとんど語られていない
- 523 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 20:02:58.80 .net
- 九州説も
- 524 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 20:09:14.41 .net
- ラノベばかり
- 525 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 22:30:45.03 .net
- ここでは海洋民という言い方をされているけど、特に海洋民という言い方をしなくても、国内の広域流通に関わる民は多かったと思う
そういう汎列島的な動きは弥生時代も途絶えていないし、日本海も越えて物流が広がっている
その中で弥生末期になって、巨大墳丘墓を作るような地域王権の発達ののちに、そうした地域首長による共立によって卑弥呼が倭王になったというのは、特に不合理はないと思う
- 526 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 22:42:53.01 .net
- >>525
>国内の広域流通に関わる民は多かったと思う
なんという「広域流通に関わる民」? 忌部のような? @阿波
- 527 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 22:50:28.56 .net
- >>525
>巨大墳丘墓を作るような地域王権の発達ののちに、そうした地域首長による共立によって卑弥呼が倭王になった
卑弥呼が共立される以前に「巨大墳丘墓」がどこにあったの? @阿波
- 528 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 23:16:18.80 .net
- 海洋民、沿岸部の近くの海だけじゃなく、黒潮の民はその九州、四国、近畿を通り越すかに北海道、東北、関東に縄文の貝塚がみられ其の丸木舟は約90%が千葉県から出土してる事から外洋を航行してたんじゃ無いのか。日本海側は余りにも少ない。
四国、瀬戸内、畿内には関東と比べると圧倒的に貝塚が少ないのは弥生時代に中心になった可能性が高い証拠かも。
- 529 :日本@名無史さん:2018/03/03(土) 23:19:50.82 .net
- ここでは畿内説九州説に絞るスレなの?ドンと行くスレなんでしょ。
- 530 :日本海ルート論者:2018/03/04(日) 23:09:58.41 .net
- 久々。
ヒメヒコ仮説の続きも書かなきゃなんだが。
しばらく適当に過ごそうかと。
>>525
いいね。同意。海洋民に限らず通商は成立するし。
ただまあ海洋民の役割は極めて高く通商連合としての倭國は彼ら抜きでは生まれなかっただろうと思うけど。
>>528
丸木舟は条件的に出土し難かったと思うなあ。
逆言うと千葉に集中するのは条件が揃っているから。
- 531 :日本@名無史さん:2018/03/05(月) 07:13:26.20 .net
- >>530
>国内の広域流通に関わる民は多かったと思う
なんという「広域流通に関わる民」? 忌部のような? @阿波
- 532 :日本海ルート論者:2018/03/05(月) 08:10:04.21 .net
- いや、忌部とかそういう話ではないですよ。もっと単純。
食べなきゃ生きていけない訳で、物々交換して得をしようとした人々全てが「広域流通に関わる民」ですよね。
黒曜石なんて陸海問わず古代から相当広い範囲で流通している訳ですから。
- 533 :日本@名無史さん:2018/03/05(月) 08:37:21.66 .net
- >>532日本海ルート論者
>いや、忌部とかそういう話ではないですよ。もっと単純。
古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「広域流通に関わる民」である、「阿波の忌部一族(海人族)」だけ。
今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した「広域流通に関わる民」である、阿波の「忌部一族」のように、
畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。 @阿波
- 534 :日本@名無史さん:2018/03/05(月) 14:04:06.40 .net
- 弥生人の半島進出はBC400年位からだから国内での部族化より早くないか?
- 535 :日本@名無史さん:2018/03/05(月) 15:46:19.63 .net
- >>534
>国内での部族化より早くないか?
当然です。
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波
- 536 :日本@名無史さん:2018/03/05(月) 16:29:58.08 .net
- その弥生人と呼ばれてる人たちも、南西諸島から出た人たちが越辺りから台湾なんかを経由して、代替わりを繰り返しながら帰って来ただけと違うの。
- 537 :日本@名無史さん:2018/03/05(月) 16:49:49.71 .net
- >>536
縄文人じゃなくて、縄文文化時代人。
弥生人じゃなくて、弥生文化時代人でしょ。 どちらも渡来人。 @阿波
- 538 :日本@名無史さん:2018/03/05(月) 17:56:04.65 .net
- 麻植←忌部氏→神事
麻のいろんな扱い方に長けてたんやろな。
忌部氏と言うとユダヤがどうとか出て来るけど、その航海技術やらルーツはポリネシアに有りそうな気がする。
- 539 :日本@名無史さん:2018/03/05(月) 18:01:58.86 .net
- 忌部氏でも何でも良いけど、
そんなもの(真偽不明の伝承)は通用しないだろう
と言っている人がいた
本当の渡来系の人々がいるでしょ
- 540 :日本@名無史さん:2018/03/05(月) 18:05:17.99 .net
- デタラメなことばかりしないほうが良いぞ
とか
もれ(仮)の書き込みだったかな
- 541 :日本@名無史さん:2018/03/05(月) 20:38:13.80 .net
- ドンと行こう!
- 542 :日本@名無史さん:2018/03/05(月) 23:15:38.26 .net
- >>536
で、弥生人が越から台湾経由で渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系生活土器と中国系耕作用農具と中国系住居と中粒種のイネは?
.
- 543 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 00:08:10.33 .net
- >>538
ポリネシアから渡来定着したなら、アウトリガーカヌーが伝わっているばずだろうがカス。
- 544 :日本海ルート論者:2018/03/06(火) 00:12:41.80 .net
- >>533
>古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「広域流通に関わる民」である、「阿波の忌部一族(海人族)」だけ。
>畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。 @阿波
いかにもヒロイックですが、いかにも現実味がないですねえ。なにせまあ排他的なのが残念。
雑多で多様な人々が繋いだ道の果てに邪馬壹と洛陽の臺とが「通ずる」。そこに烏丸鮮卑東夷伝の儚き美しさと真実味がある訳で。そういう重みが余りにもない。
烏丸鮮卑東夷伝評
評曰:史、漢著朝鮮、兩越,東京撰錄西羗。魏世匈奴遂衰,更有烏丸、鮮卑,爰及東夷,使譯時通,記述隨事,豈常也哉!
評して曰く「史、漢(史記と漢書)は朝鮮、両越(東越と南越)を著(あらわ)し、東京(東観漢記:後漢の官撰史書)は西羗(西域諸国)を撰録す。
魏の世に匈奴は遂に衰え,代わりて烏丸、鮮卑有りてここに東夷に及び,使譯通ずる時,事(こと)に随(したがい)て記述す。
どうして常なるや、いや常にあらざるなり!(これが当然のことと言えるだろうか、いや破格の偉業である)
- 545 :日本海ルート論者:2018/03/06(火) 00:32:51.32 .net
- 渡海の操船をしたのは明らかに對海國の海人でしょう。
更に渡海を仕切ったのは一大國の海人です。
故に一大卒が伊都に常駐している。
そこから投馬國の道を借りながら20邑かけて妻木晩田まで。
更にそこから10邑かけて出石まで。
そして、山道を南下して30邑、遂に邪馬壹に至ると。
そこから邪馬壹の傍(かたわ)らに位置する20國を経て瀬戸内を経て奴國へ戻る。
これらの国々と邑には各々1対のヒメヒコたちがいる訳で。
- 546 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 05:15:51.16 .net
- 出来たのがいつかわからん起源未詳のアウトリガーがどうの言うてもなあ。
あちらでは時代が下がって後年に出来たのかも知れんしな。
しかも酸性土で木製品が遺り難い事とか考えたら、ひょっとして列島にもあったけど遺らんかったつうのも考えられるし。
また、ポリネシアでアウトリガーカヌーの名称がアマつうのも興味深い。
- 547 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 08:50:48.78 .net
- 帯方郡の南、一万二千里に女王の邪馬壹があって
以北の九州北部二千里、福岡平野と久留米平野に女王を共立した30の王国がある。
ってのが、魏志倭人伝だぞ。
250年の日本には、まだ九州までの統一王権が成立してない証拠だろ。
南=東とか史料を否定したら邪馬台国なんて必要あるかよ?
そのうえで、247年に狗奴国が邪馬壹を滅ぼして
卑弥呼が死んで伊都に撤退して平原に墓が有るんだよ。
おまえらは、ミスリードで日本の歴史をどうしたいの?
頓珍漢すぎて、呆れたよ。
- 548 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 09:26:07.01 .net
- 縄文人、弥生人、とか学者が便宜上つけたものと邪馬台国は違うもんな。
ただ、邪馬台国という名称がいつからいつまで使われてたんかが知りたいわ。
- 549 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 09:51:46.80 .net
- >>546
プッ
ポリネシア人はな、アウトリガーカヌーを開発したからこそ、
ポリネシアに渡る事が出来たんだぞ。
アウトリガーカヌーの開発がなければ、彼らはポリネシア人には
なれなかった。
しかも彼らは5C頃までラピタ土器という独自の土器文化を持っていたのだよ。
で、5C以前の日本のどこにアウトリガーカヌーやラピタ土器が伝わってるの?
.
- 550 :日本海ルート論者:2018/03/06(火) 10:11:10.49 .net
- >>547
>南=東とか史料を否定したら邪馬台国なんて必要あるかよ?
そういうこと言ったら〜(笑)
>以北の九州北部二千里、福岡平野と久留米平野に女王を共立した30の王国がある。
1里=1800x1尺24,2cm=435,6m。
12000里=5227.2km先が久留米平野になる訳ないでしょう?(笑)
サッサと海中に落ちて頭を冷やし、日頃の疲れを癒して下さいな。
【お疲れ様でした。またどうぞお越し下さい】
- 551 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 10:21:53.69 .net
- >>548
>>10で
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
この、梯儁さんが中国人で初めて卑弥呼に謁見した人
この時、梯儁は独自に中国船で来日して
上陸後、徒歩2千里を行軍して女王国最南部の邪馬国に在った卑弥呼の砦
壹 に参詣し、邪馬壹国と名付けた。
この名称は、その後の後漢書等の中国史書でも使われ
卑弥呼は倭王と誤認されているが、
新井白石以来、ちゃんと読めば
190年から250年位まであった北九州の30国が共立した王で
周5千里の小国でしかない。
論争は、日本の古代史を明らかにしたくない昭和の学者の
飯のタネ、または陰謀だと思う。
- 552 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 10:27:19.43 .net
- >>550
そこはパプア・ニューギニアですか?
それともマリアナ諸島?
南を東にしてベーリング海あたりでしょうか?
- 553 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 10:31:56.81 .net
- >>550
里程に関する明瞭な事実誤認。
帯方郡から韓の南北は4千里、
乍南乍東して到る其北岸狗邪韓國 がプラス3千里で 七千餘里
対馬に千里、壱岐に千里、上陸地に千里である。
これは、中国正史が定める定義であり、南=東も無い。
- 554 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 11:49:19.55 .net
- 卑弥呼の時代から約1000年後であっても、例えば土佐〜京都は「水行一月」
- 555 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 12:33:15.96 .net
- >>554
それって、なんのソース?
隋唐書だと東西5月行の半分くらいが高知に見えるけど。
唐以降には月行記述の地図は伝わってないんじゃないかな。
- 556 :日本@名無史さん:2018/03/06(火) 23:43:34.03 .net
- たぶん土佐日記だろ。
- 557 :日本@名無史さん:2018/03/07(水) 07:37:44.85 .net
- >>547
>そのうえで、247年に狗奴国が邪馬壹を滅ぼして
ここだけ違うだろ。
卑弥呼の後継者の壹與を告諭しているのだから、その時点で邪馬台国は存続している。
- 558 :日本@名無史さん:2018/03/07(水) 07:39:58.56 .net
- >>551
>卑弥呼は倭王と誤認されているが、
>新井白石以来、ちゃんと読めば
>190年から250年位まであった北九州の30国が共立した王で
>周5千里の小国でしかない。
誤認というより、九州北部を倭国と呼んでいたということだ。
- 559 :日本海ルート論者:2018/03/07(水) 09:38:18.79 .net
- >>553
>対馬に千里、壱岐に千里、上陸地に千里である。
>これは、中国正史が定める定義であり、南=東も無い。
まさか東夷伝のみ里の距離が違うとか都合の良いことを言わないですよね?(笑)
1里=1800x1尺24,2cm=435,6m
1000里=435.6km
「対馬に435.6km、壱岐に435.6km、上陸地に435.6kmである。」となれば海に落ちるだけです。
【お疲れ様でした。またどうぞお越し下さい】
- 560 :日本@名無史さん:2018/03/07(水) 15:28:14.19 .net
- >>551
未だに稲作伝来ルート等、腐れ学者は国賊ぐらいに思ってる。
- 561 :日本@名無史さん:2018/03/08(木) 10:03:52.87 .net
- >>557
帳政の到着時に卑弥呼が狗奴国に敗戦していたであろう根拠として
卑弥呼はすでに死んで王宮の奴婢であろう殉葬者100人と大量の中国鏡とともに埋葬された。
卑弥呼の後継者の壹與を告諭している。
女王は国土南限の狗奴国と対峙する邪馬国の砦の王宮、『壹』を居所とする。
郡に援軍要請した直後のこの時、壹與や統属国の将軍が伊都に撤退している可能性は
敗戦で城を放棄した、以外は無い。
狗奴国との終戦直後に追討もせず、伊都国で後継者争いは無い。
後継者を争ったのは、大夫を称する各国の王=将軍たちだ。
邪馬壹が滅びた、というのは女王国が滅亡ではなく
日本の戦国史的には、甲斐、信濃なら佐久が落ち、上田に引いた状態。
こいつらの主流派が、後に侵攻する大和朝廷に付けば筑紫の君になれる。
源氏というか信長以前の戦争なんて、調略や小競り合いばっかしだろ。
中国の三国志時代でイメージする絶滅戦争なんて無いし
魏でも司馬氏が立っても、競合した曹爽一族は滅亡するが、
卑弥呼を倭王として印綬し国交を持った間抜けの皇子曹芳は斉王に収まる。
- 562 :日本@名無史さん:2018/03/08(木) 12:03:25.50 .net
- >>556
貫之は下手な歌詠み って印象はぬぐえませんが
土佐日記は2か月間くらいの徒歩旅行みたいですけど?
淡路島経由で大阪に渡るのは海行とか渡海っていうのかな?
行水一月だと、冬だしつらい、って話か?
- 563 :日本@名無史さん:2018/03/08(木) 12:26:36.62 .net
- >>558
>誤認というより、九州北部を倭国と呼んでいたということだ。
呼んでないでしょ?
そもそもは、公孫氏から奪ったばっかしで、土地勘のない郡の太守が
たまたま、卑弥呼が帯方郡に遣使した使者の
倭国の30国を束ねる女王の国の使者だ、って説明したのを聞いて、
倭国の大王が朝貢に来たと、勘違いしたわけで
戦後の手柄になると思って、皇帝と謁見させちゃった って間違いがもと。
10年位で、二人の郡使が使譯した話を主とするのが、
倭国伝ではない倭人条であって、
参問したのは、倭の一部で、絶海の(九)洲島の中の周5千里ほどの倭地 です。
って、結語で訂正してるでしょwww
- 564 :日本@名無史さん:2018/03/08(木) 12:30:15.32 .net
- >>563
>参問したのは、倭の一部で、絶海の(九)洲島の中の周5千里ほどの倭地 です。
って、結語で訂正してるでしょwww
まさに、四国の描写ですね。 @阿波
- 565 :日本@名無史さん:2018/03/08(木) 12:41:15.10 .net
- 「土佐日記」では高知から鳴門までは船で行ってるな。ひと月以上かかってる。
- 566 :日本@名無史さん:2018/03/08(木) 13:20:25.56 .net
- >>563
つまり魏が倭と呼んでいたのは九州北部で、畿内は視野に入ってなかったんでしょ。
- 567 :日本@名無史さん:2018/03/08(木) 13:36:23.97 .net
- >>565
はい、すいません。 読んできましたw
高知からの船旅というか、室戸周辺で遊んでた感じでしょうか?
古代文明発祥地と思ったら、淡路島は海賊出るんですね。
それでも淀川入って大阪抜けるのに山崎へ15日じゃ話も進みません。
下手な歌詠みってゆうか、こんなお釜野郎に仕事任せて成り立った時代に呆れる。
大宰府に追放すべきwww
- 568 :日本@名無史さん:2018/03/08(木) 13:47:57.00 .net
- >>566
畿内は視野に入ってなかったんだけど、魏が倭と呼んでいたのは倭国(阿波)。 @阿波
- 569 :日本@名無史さん:2018/03/08(木) 13:56:28.86 .net
- >>566
魏代の倭国認識に関しては >>467 王朝秘伝地図によって、明らかだけど
倭国の畿内は視野に入っていないというか、行ったことが無い。
知らない、とは、思えます。
ところが、帯方郡の南、韓の四千里四方の南の沿岸は倭人国なんです。
これは、通過しているはずなのに、東夷伝に記載されないで、
加羅任那時代まで、倭の本州同様に 不可知。
倭人伝の投馬国、5万戸がそれとは推測できますが、
何も記載しないのは、なぜでしょうか。
写本時削除の気配?
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